観仏日々帖

トピックス~岩手・黒石寺の薬師如来像の発見~発見物語おまけ⑦    【2015.10.31】


黒石寺・薬師如来坐像
黒石寺・薬師如来坐像

【我が国唯一、9世紀の年紀墨書のある黒石寺・薬師如来像】

「貞観四年十二月」
岩手県水沢の黒石寺・薬師如来坐像の胎内に遺された、墨書に記された年記です。
貞観4年といえば、862年です。
この墨書銘が、当初のものであったならば、我国9世紀木彫の中で、唯一の年紀の記された在銘像ということになります。
文句なしの、バリバリの「平安初期彫刻」ということになるのです。

像の膝裏の部分に、ご覧のような墨書が残されているのです。

黒石寺・薬師如来の「貞観四年」の墨書銘全文

黒石寺・薬師如来膝裏に残された墨書銘
黒石寺・薬師如来の墨書銘文と膝裏の墨書写真
写真上部に「貞観四年十二月」の記銘が見える



【仏教美術史界の常識を覆した、みちのくの黒石寺・薬師像】

黒石寺の薬師坐像に、年紀の記された墨書が遺されているのが知られるようになったのは、昭和に入ってからでしょうが、何時の頃なのか、よく判りません。

ただ、かつては、
「どうせ、はるか後世に作為で書かれた、偽銘に決まっている」
とされて、専門家には相手にされなかったようです。

というのも、黒石寺のある地は、現在の岩手県奥州市水沢区黒石町、平泉のまだ北です。

黒石寺・本堂
黒石寺・本堂

「みちのくの僻地とも云うような鄙の地に、平安初期の木彫像など、遺されていよう筈がないじゃないか。」
「仏像の姿など見るまでもなく、あり得ない。」

このように、思われていたようなのです。

それに、この薬師像は、どう見ても都の仏師が造ったような出来の良いものではなく、粗野で土臭いというか、地方仏師の手になるような仏像であったのです。

「平安後期ならあるかもしれないが、文化果つるみちのくの地で、平安初期にこのような仏像がつくられる訳がない。」

そう考えるのが、極々自然なことであったのでしょう。

黒石寺・薬師如来坐像
貞観年間の像とは思われなかった黒石寺・薬師如来坐像


「黒石寺薬師像の墨書銘は、当初のものかもしれない?」

このような眼で注目されはじめたのは、昭和20年代の終わり頃から30年代初頭にかけてのことでした。

そして、調査研究の結果によって、
「墨書銘は貞観4年当初のものに間違いなく、9世紀唯一の在銘木彫仏である。」
とされるようになったのです。

今では、黒石寺の薬師如来坐像と云えば、東北地方の古代彫刻を代表する、9世紀一木彫像として、仏像愛好家に良く知られた仏像です。

当時は、衝撃の発見であったのだと思います。
奈良、京都の中央の仏像中心に語られていた仏教美術史の常識では、考えられなかった驚きだったのです。

仏教彫刻史に、大きな一石を投じる発見となりました。
「地方仏」という世界が注目され、光があてられるようになっていったのも、黒石寺薬師像の発見が契機になったのではないでしょうか?


【「在る筈が無い!」から「ひょっとしたら?」へ~注目され始めた昭和20年代】

それでは、黒石寺・薬師如来坐像が、平安初期彫刻として認められていくようになったいきさつなどについて、当時を振り返ってみたいと思います。

話は、昭和20年代に遡ります。

戦前、東北の古代仏像と云えば、会津・勝常寺の薬師如来などの諸仏は知られていたものの、岩手県以北となると、平泉・中尊寺の仏像が知られるぐらいでした。
在地の史家などからは、黒石寺のある北上川流域に、平安前期に遡るような古仏が、いくつも遺されているという声が、伝えられることもあったようです。

ところが、当時の仏教美術史界では、
「そんな辺北の鄙の地に平安前期の古仏が遺されていよう筈はない。」
「時代がかなり下ってからの、古様を留めた地方仏に違いない。」
このような受け止めで、冷たくあしらっていたというか、まともな議論にならなかったようです。


そんな、仏教美術史界の見方を一変させ、大きな驚きと注目を呼んだのは、昭和29年(1954)に、奈良国立博物館で開催された「平安初期展」でした。
この平安初期展に、黒石寺・薬師如来像が出展されたのでした。

黒石寺・薬師如来坐像

黒石寺・薬師如来坐像~顔部
黒石寺・薬師如来坐像

美術史関係者は、奈良博に展示された黒石寺薬師像の像容を直接眼前にして、また「貞観4年」の胎内墨書があることを知って、大いに驚きました。

「この薬師像は、本当に貞観時代に制作されたのかも知れない。」
「平安前期、この薬師像のような仏像が、みちのく北上川流域でいくつも制作されていたと考えるべきかもしれない。」

と、大注目となったのです。

この頃の状況を、久野健氏は、このように振り返っています。

「この(北上川)流域に散在する古彫刻は、他の地方ではみられない特異な性格をもっている。
この地方の彫刻として、中尊寺の古彫刻は、早くから学者の注意をひいていたが、中尊寺以前の古彫刻が、注目されだしたのは、第二次大戦後のことである。
大戦中この地に疎開した森口多里氏や、北上市の熱心な郷土史家である司東真雄氏らがこの地には、貞観時代の彫刻が沢山あるという話を中央の学界にもたらした。
終戦直後頃から、あの強烈な貞観彫刻のさびしい美しさに強く惹かれていた私にも、この話は間接的にはいってきた。

しかし当時の学界では、この話を素直に受け入れはしなかった。
岩手県は、辺邸な土地なので古い様式が後々まで残ったのであろうという見方が強く、積極的にこれをとりあげようとする空気は、少なかった。

多くの学者が、もしかするとと考えるようになったのは昭和29年に奈良国立博物館で行われた「平安初期美術展」に、黒石寺の薬師如来像がはこばれ、展観されてからである。
この薬師如来像の膝裏には、まさしく貞観四年(862)にこの像が造られた由を伝える墨書銘があり、もし、これが後世の伝説により書き込まれたものでないならば、ほとんど、平安初期彫刻の唯一の造像銘になるため、議論の的となった。」
(「仏像の旅」久野健著1975.1芸艸堂刊所収)


当時、文化財保護委員会事務局美術工芸課・文部技官であった倉田文作氏の回顧文を、ご紹介します。

「岩手黒石寺の薬師如来像について、県の担当官から報告を受けたのは、十年余もまえのことである。
写真もなしに、我々の部屋で、貞親四年の銘文のある薬師さんがある、というはなしで、はじめはいたずらの偽銘でしょう、折があったら像と銘文の写真を届けてください、というぐらいで片づけてしまった。
向うもがっかりしたらしくて、資料が届くまでに二、三年はかかった。

さて、こうして届けられた写真をみると、まさしく平安初期の一木彫成像であり、銘文も古体で、何の疑う余地もない。
岩手まで出張することになり、像は、その後、重要文化財に指定され、今日では修理もおわり、新造の保存庫に坐っておられる。」
(「調査餘談」倉田文作~日本彫刻史基礎資料集成・平安時代造像銘記編4巻餘録・月報所収1968.4刊)


もう一つ、高橋富雄氏の回顧です。

「この仏像は、戦後間もない昭和29年、奈良国立博物館で催された平安初期美術展に展示された。
そして、見る人をおどろかせた。
まず、この年代がはたして信じ得るものかどうか。
このように古い第一号紀年(平安最古の貞観銘木彫像)を、みちのくのこの全く並はずれた仏像に認めてよいかどうか。
正統史学は迷ったのである。
平泉以外、東北古代彫刻は、まだ歴史の位置を与られていなかったのである。」
(「みちのく古寺巡礼」高橋富雄1985.6日本経済新聞社刊所収)

ご紹介した、これらの回顧談のとおり、奈良博に展示された黒石寺・薬師像は、これまでの彫刻史の既成概念から外れた仏像であったのです。
美術史界は、これをどのように理解し位置づけたらよいのか、議論が起こり、迷ってしまったといっても良いと思います。


【大注目となった、昭和29年「平安初期展」への出展】

昭和29年(1954)に奈良国立博物館で開催された、「平安初期展」というのは、どんな展覧会であったのでしょうか?

奈良博開催・平安初期展目録奈良博開催・平安初期展目録
奈良国立博物館で開催された「平安初期展」の目録

展覧会目録の「まえがき」には、
「今次の展観はさきに催した自鳳天平展の後を受け、奈良時代の文化が平安遷都を契機として如何に変化し発展したかを明かにせんとするものである。」
とあるように、平安初期の彫刻、絵画、工芸、古文書の傑作、名品が取り揃えられ、展観されました。

総勢172点、彫刻は48点が出品されています。
展覧会目録の彫刻の処を見ると、神護寺・五大虚空蔵像、元興寺・薬師像、室生寺・十一面観音像、釈迦坐像、薬師寺三神像、法隆寺・地蔵像、獅子窟寺・薬師像をはじめとして、平安前期の綺羅星のような国宝、重文仏像ばかりです。
いずれも中央作の名品ぞろいの中に、ポツンと地方作の仏像が一躯、違和感があるとしかいえない「黒石寺・薬師坐像」が、出展されているのです。

目録の黒石寺薬師像掲載ページをご覧ください。

平安初期展目録の黒石寺薬師像の記載状況
平安初期展目録の黒石寺薬師像が掲載されたページ

「21 重文 薬師如来坐像 一躯 岩手 黒石寺」

と記されているだけです。

「重文」とあるのは記載ミスで、この時点ではまだ重文指定されていません。
他の仏像には皆、解説文が付されているのに、ここには一言の解説文もありません。
貞観4年の墨書があることすら記されていません。
ちょっと変な感じです。

当時の博物館の関係者の、
「平安初期制作の像だと考えたいが、貞観年間の作とみる解説を付するのは、躊躇してしまって出来ない」
という悩ましさのあらわれのような気がします。

それにしても、奈良博は、よく指定すらされていない地方仏の黒石寺薬師像の出展を、決断したことだと思います。
名品ぞろいの仏像の中に、この地方仏を展示するのは、よほど思い切ったことだったに違いありません。
当時の奈良博は、館長:黒田源次、学芸課長:蓮見重康、美術室長:岡直己の各氏という布陣です。

黒石寺薬師像の出展を企画し、決断したのは、どなただったのでしょうか?


【間違いなく貞観4年の制作~進められた調査研究】

この、平安初期展への出展を契機に、黒石寺薬師像は調査研究が進められるようになります。

久野健氏
久野健氏
本格的な調査研究に取り組んだのは、久野健氏でした。
当時34歳、東京文化財研究所・美術部文部技官です。
久野氏も、出展された黒石寺像に注目し、東京から駆け付け、奈良国立博物館において、文化財研究所のメンバーと、この像のX線、赤外線撮影を実施しました。
そして、この光学的調査の結果を踏まえて、その年(昭和29年)の11月、岩手の黒石寺現地に赴き、再調査を行いました。
倉田文作氏も、紹介した回顧文「調査餘談」で、岩手に出張したと記していますが、久野氏等と一緒に調査したのかどうかは、良く判りません。

久野氏は、その調査研究結果を、昭和30年(1955)5月に発表しました。

「黒石寺薬師如来像」美術研究・第183号  (1995.9)

という論文です。

その結論は、
書銘の書体や記された人名などから、9世紀当初のものとあると考えて間違いない。
貞観4年(862)に、みちのくの地で、奈良京都の中央の流派には見られない特異な表現の一木彫が、蝦夷と対峙するという環境下で造立されたものと考えられる。
というものでした。

奈良博「平安初期展」への出展、久野氏の調査研究論文発表という合わせ技によって、黒石寺薬師像は、平安初期の在銘彫刻と認定され、平安彫刻、就中、東北古代彫刻の研究や地方仏の研究に、新たな視点、展開をもたらすものとなりました。
新発見ではないのですが「黒石寺薬師像の大発見」といっても過言ではないと思います。

黒石寺薬師像は、昭和32年(1957)2月に、重要文化財に指定され、昭和34年(1959)に、美術院国宝修理所によって修理修復が行われました。

昭和34年修理前の黒石寺薬師如来像
昭和34年修理前が行われる前の黒石寺薬師如来像


美術院での修理時の写真
美術院での修理時の像底写真
美術院での修理時の写真


【特異な容貌の薬師像~威嚇的で恐ろしいお顔の謎】

薬師像の造形などについて、簡単にみてみましょう。

像高126㎝、桂材の一木彫で、体幹部から膝前まで一材から彫り出しています。
内刳りは、後頭部中央からと体部背面から大きく刳り、蓋板、背板をあてています。
また、面相部、両肩などに、薄く乾漆が盛られています。

この像を拝して、なんといっても驚くのは、特異な容貌です。

威嚇的な造形の黒石寺薬師如来像・顔部
威嚇的で恐ろし気な黒石寺薬師像顔貌

荒々しい螺髪、目尻の強烈に吊りあがった厳しい眼、尖るように突き出した唇。
人を威嚇するような恐ろしげな顔で、周囲を畏怖するのに充分な面貌です。
呪術的というのか、魔力的というのか、魁偉な異貌としか言いようがありません。
この強烈なインパクトは、都の平安初期彫刻とは全く違う、特異なものです。

どうして、このような威嚇的な顔貌の仏像が、このみちのくの地で貞観年間に作られたのでしょうか?

その訳については、このように考えられています。

当時、東北の開拓にあたり、蝦夷と厳しく対峙した人たちが、その前進基地において、その脅威に立ち向かい、蝦夷を威嚇する頼りになる仏像を、守り神として造ったに違いない。
それ故に、誰もが畏怖するような、恐ろしげな容貌の仏像を造ったのだ。

9世紀の東北開拓は、蝦夷の反乱によって前進基地の柵や城が次々陥落するなど、厳しい状況にありました。

「三大実録」の貞観15年(873)12月7日の条には、このような記述がされています。

「陸奥国では、一応帰順した蝦夷までが、柵の近くに満ちみち、ややもすると反乱をおこそうという気配がある。
そこで、官民ともに、蝦夷を見ること、虎狼の如くにおそれおののいている。
願くは、武蔵の国の例にならい、五大菩薩を造り国分寺に安置し、蛮夷の野心をやわらげ、住民の恐怖をとりのぞいてもらいたい。」

このように、中央政府に申し出ているのです。
黒石寺の薬師像がつくられてから、11年後のことです。

黒石寺薬師如来像・顔部
黒石寺薬師如来像・顔部
この地の開拓にあたった人々が、いかに蝦夷を恐れ、ひたすら神仏の加護にたより、戦々恐々とした毎日を送っていたかが判ります。
黒石寺のある地は、陸奥の国府よりまだ北辺、前進基地の胆沢城のすぐ近くです。
このような、せっぱつまった限界状況の下で造られた薬師像の像容は、慈悲深い仏像などということは二の次で、まずもって蝦夷に対して威嚇になり、味方にたよりになる像が必要であったのでしょう。
そんな祈りが込められて、この薬師像がつくられたに違いないというのです。

この考え方が、真実なのかどうかは判りませんが、このみちのくの辺北の地に、何故、特異で魁偉な顔貌の薬師像がつくられたのかに思いを致すとき、「なるほど!」と、心よりの共感、深い感動を覚えてしまいます。



【不思議な造形、その訳は?~扁平な体躯・天平様の化仏】

ところで、この薬師像の側面にまわってみて驚くのは、面奥・体奥が随分扁平なことです。
正面からみた、堂々たる体躯、厳しい面貌からすると、平安初期彫刻に相応しく、ものすごく分厚く塊量的につくられているに違いないと思うのですが、意外なことに厚みがないのです。

黒石寺薬師如来像・側面~体奥の厚みが少ない.黒石寺薬師如来像・頭部側面~面奥の厚みの無さが著しい
黒石寺薬師如来像・側面~体奥・面奥共に意外にもに厚みがない
 

特に頭部は、それが顕著です。
衣文も翻波が鋭く彫り込まれているのではなく、浅くシンプルな刻線になっています。
このあたりを見ると「貞観の年紀」がなければ、平安初期の制作とは、とても思えません。

この点に注目しているのは、倉田文作氏で、このような見解を述べています。

「これほどの正面をつくった作者が、どうしてこうした側面をつくったのだろう。
それは、やはり地方作家の悲しさといわざるを得ない。
・・・・・・・・・・
とかく側面観に彫刻としての造型に欠陥かみとめられるのは、仏像彫刻にありがちのことなのであるが、それにしてもこの像のばあいは極端である。
それだけに、ここに考えられる理由としては、この像の作者がよりどころとしたものが、こうした正面の偉容をもつ図像(絵画の像容)であって、彼はその図像によって正面を彫刻したものの、側面についてはお手本がなかったのではなかろうか。
・・・・・・・・・・
こうした想像をさせるほどに、正面と側面とのちかいがはなはだしいことは事実である。」
(「仏像のみかた~技法と表現」倉田文作著・1965.7第一法規刊所収)

もう一つ、大変興味深いのは、薬師像の光背の七仏薬師の化仏が、穏やかで親しみやすい造形に表現されていることです。
化仏の写真のほかに、石膏原型から鋳造した作品をご覧ください。

黒石寺薬師如来像・化仏~奈良様の造形.黒石寺薬師像・化仏の石膏型鋳造品
黒石寺薬師如来像の化仏とその石膏型から鋳造した像
 
(鋳造像は、美術院創立百周年記念に際して、昭和34年に修理された際に化仏の一体を資料として石膏型取りされた原型から、記念品として鋳造制作されたものです。)

明らかに天平風で、奈良様の伝統の系譜にあるのです。
それを裏付けるように、薬師像本体の顔部、両肩などには、乾漆が盛りつけられています。

薬師像を造った仏師は、伝統的奈良様の技法を身につけた仏師であったに違いありません。
ただ、都の第一級の技量をもった仏師ではなかったということでしょう。
その仏師が、天平風の薬師像ではなく、みちのく開拓の人々が求める、畏怖感を発散する恐ろしげな像を造ったのだということです。


【地方仏の魅力を広める契機となった、黒石寺・薬師像の発見】

黒石寺薬師像が発見されたことの意義を振り返ってみると、
9世紀唯一の貞観4年銘のある木彫像が東北地方で見つけられたということが一番ですが、
もうひとつ、中央仏の系譜では考えられない特異な造形の仏像が、みちのくの地で制作されていたのだということが、認知されたことだと思います。

それまで、仏教美術史の世界では、専ら奈良、京都を中心とした中央の仏像を中心に語られてきました。
黒石寺薬師像の発見により、東北地方の仏像、あるいは全国の地方仏に、研究者の目が向けられるようになったのではないでしょうか?
地方特有の特異な造形や、その造像背景などにも目が向けられるようになり、彫刻風土論的な議論もされるようになったのかなと思います。

黒石寺薬師像の発見にかかわった久野健氏は、

「貞観4年という古い時代に岩手という辺境の地に、こうした彫像が生まれる可能性があるかで議論が分かれた。
この問題を解決するために、私は東北地方の古彫刻を次々に見てまわり、素木ではあるが、エネルギーに満ちた古彫刻にすっかりこころうばわれる結果となった。」
(「東北古代彫刻史の研究」まえがき所収)

このような思いで、東北地方の平安古仏を探して行脚し、東楽寺、成島毘沙門堂、双林寺の諸像、東北の鉈彫り像をはじめ、次々と調査研究成果を発表しました。

東楽寺の諸像
東楽寺の諸像

成島毘沙門堂・毘沙門天像ほか諸像

成島毘沙門堂・毘沙門天像~顔部
成島毘沙門堂・毘沙門天像他諸像と毘沙門像顔部
 

その集大成は、

「東北古代彫刻史の研究」 久野健著 昭和46年(1971) 中央公論美術出版刊 

という大著にまとめられました。

東北古代彫刻史の研究


これまで、振り返られることの少なかった「地方仏」というものが注目され、その独特の魅力が見出されるようになったと云えるでしょう。

研究者だけではなく、評論家の丸山尚一氏も、地方仏の魅力を発見した一人です。
はやくから地方仏の魅力の虜になり、全国各地の平安古仏を求めて行脚しました。

「生きている仏像たち~日本彫刻風土論」 丸山尚一著 昭和45年(1970) 読売新聞社刊


生きている仏像たち


この本をご存じの方は、多いことと思います。
この本を読まれて、地方仏の魅力に取りつかれたという方も数多いのではないでしょうか?

黒石寺薬師如来像は、「地方仏の魅力」を世に広める起爆剤となった、モニュメンタルな仏像であるともいえるのでしょう。



【忘れ得ぬ想い出、私の黒石寺探訪】

最後に、私の想い出話をさせていただきたいと思います。
初めて、黒石寺薬師如来像を拝した時の話です。

私が、初めて黒石寺を訪れたのは、昭和46年(1971)夏のことでした。
二十歳過ぎ、大学の頃です。
初めての地方仏の旅でした。
それまで、京都、奈良の仏像しか観たことがなかったのですが、同好会の友数人と、東北地方仏像探訪に出かけたのでした。

渡辺熊治翁
渡辺熊治翁
カバンには、「生きている仏像たち」の本が入っていたのは言うまでもありません。

黒石寺に行くには、一日数本しかないバスしかなく、なんと夕刻着いて檀家総代・堂守の渡辺熊治さんのお宅に、泊めていただきました。
八十歳近い熊治老は、みちのくの古老そのものという風貌で、「熊んつぁん」と呼ばれていました。
生粋の東北なまりで、何をしゃべっているのかさっぱりわからないのには往生しました。

翌朝、「熊んつぁん」に伴われ、朝露に濡れた夏草を踏みしめながらお堂に向かいました。


黒石寺~当時はこんなに整備されていなかった
黒石寺本堂への階段~訪れたときはこんなに整備はされていませんでした
 
朝陽が燦々と降り注ぐ中、薬師如来像の姿を拝しました。
荒々しき螺髪、目尻の強烈に吊りあがった厳しい眼、その魁偉な異貌を眼の前にしたときの、強烈なインパクトは、今もこの眼に焼きつき忘れられません。

昭和46年探訪時に撮影した黒石寺薬師像の写真

昭和46年探訪時に撮影した黒石寺四天王像の写真
昭和46年に黒石寺を訪れたとき撮った、薬師如来像と四天王像の写真
 

この時の、心揺さぶられた鮮烈な感動。
それが、私が仏像好き、平安古仏好きになった「心の原点」になっているのではないかと思います。

黒石寺薬師如来像は、私にとっても、
「記念碑的出会いの仏像であったなあ・・・」
と、懐かしく思い出されます。


深大寺・釈迦如来倚像からスタートした仏像発見物語シリーズも、今回で7件目になりました。
奈良博・白鳳展出展仏像のなかから、幾つかの仏像の発見物語をご紹介し、ついでに東寺御影堂の不動明王・三神像、黒石寺・薬師像の発見について振り返ってきましたが、ここらで「おしまい」にさせていただきたいと思います。
ご覧いただき、有難うございました。
お愉しみいただけましたでしょうか??




岩手・黒石寺の薬師如来像の発見  【追補】    2016.2.5  ~本文から続く~


~~貞観4年墨書銘の発見時期と、疑問が呈された「怖い顔」の造像背景~~



黒石寺・薬師如来像の発見物語について、新たに判ったことがありました。
そこで、本文に追加して、ちょこっとだけ新たなお話を、紹介させていただきます。


【黒石寺・薬師像の貞観4年墨書銘の発見時期が判りました】

黒石寺・薬師如来坐像が、「いつごろから注目され、いつ墨書銘が発見されたのか」という話なのですが、前段の本文では、このように記しました。

「黒石寺の薬師坐像に、年紀の記された墨書が遺されているのが知られるようになったのは、昭和に入ってからでしょうが、何時の頃なのか、よく判りません。
・・・・・・・・
『黒石寺薬師像の墨書銘は、当初のものかもしれない?』
このような眼で注目されはじめたのは、昭和20年代の終わり頃から30年代初頭にかけてのことでした。」

私の調べた資料では、薬師像の墨書銘が、いつ頃、誰によって発見されたのかが、よく判らなかったのです。

この、薬師像墨書銘発見のいきさつが、はっきりしました。
ここで、ご紹介しておきたいと思います。


去年(2015)12月に発刊された、東京国立博物館研究誌「MUSEUM」659号に、こんな論文が掲載されていました。

「岩手・黒石寺薬師如来坐像と像内銘記」    執筆:西木政統氏

西木政統氏「岩手・黒石寺薬師如来坐像と像内銘記」
「MUSEUM」659号に掲載された西木政統氏の論文


【貞観4年墨書銘の発見は、昭和25年(1950)のこと】

面白そうな論文なので、早速目を通してみると、墨書銘発見に至る経緯が、このように述べられていました。

「もともと銘文の存在は知られておらず、明治20年代(19世紀末)の臨時全国宝物取調局による調査でも墨書銘は見逃されていたようで、わが国の美術史学の黎明期には残念ながらその名はみえない。
もつぱら、『県内に稀な弘仁様式を覗われる本尊薬師仏』といつた評価がなされていたようである。
ところが、昭和25年(1950)に像内墨書銘が見出され、同29年に奈良国立博物館でおこなわれた「平安初期展」に出陳されるに及び、研究者の関心を集めることになった。」

黒石寺・薬師如来像の銘文が発見されたのは、昭和25年(1950)のことだったのです。

西木氏論文の、この部分の「注記」を見ると、
明治期の、岡倉天心をはじめとする臨時全国宝物取調局による調査の際に出された、明治29年2月6日付けの監査状が残されており、黒石寺像は「五等」と記され、国宝指定には至らなかった。
ということと、

昭和25年に、墨書銘が発見された時の経緯は、

・吉川保正「黒石寺薬師如来座像」(奥羽史談4-1・1953年)
・宮城県史編纂委員会編「宮城県史17巻・金石志」(宮城県史刊行会1956年・司東眞雄解説)

に詳しいと、記されていました。


早速、図書館で、この二つの墨書銘発見資料に目を通してみました。

この資料には、このような発見経緯が記されていました。

昭和25年(1950)、東北史研究家の司東眞雄氏の案内によって、文部省文化財研究所の小林剛氏や県文化財委員の吉川保正氏等が黒石寺を訪ねた時に、薬師像が小林剛氏の目にとまり、改めて小林氏が来訪し、県美術調査委員の佐伯敬紀氏とともに調査を行ったときに、体内から貞観銘の墨書が初めて発見された

という、発見経緯であったと述べられていました。

黒石寺薬師像の墨書銘が、発見された年と経緯が、はっきり判りました。
墨書銘は、何時頃から、その存在が地元では知られていたのだろうかと、何だかモヤモヤしていたのですが、これでスッキリしました。


司東眞雄氏という人は、奥州大学教授を経て岩手県文化財審議会委員を務めた東北文化史の研究家で、多数の著作が残されています。
「古代文化の黒石寺」1957年・亀梨文化店刊、という著作もあります。

小林剛氏
小林剛氏
墨書銘の発見者、小林剛氏というのは、仏教美術史に関心ある年配の方には、聞き慣れた名前でしょう。
大変著名な仏教彫刻史の研究者で、沢山の著作、論考が残されていますので、目にされた方も多くいらっしゃるのではないかと思います。
墨書銘発見当時は47歳、文化財保護委員会保存部美術工芸課在職当時のことだったようです。


重箱の隅をつつくような細かい話で、皆さんには、何の興味もなく、どうでもよいようなことだと思います。
私にとっては、黒石寺薬師像・墨書銘発見経緯を知るということでは、大切なことでしたので、それが判った嬉しさついでに、ここでご紹介させていただきました。


【恐ろしい顔は「蝦夷調伏の祈りの表現」か?  疑問を呈した、西木氏の論文】

ところで、西木政統氏の論文には、大変興味深い考えが述べられていました。

この論文は、薬師像の銘文の釈読、造像記の内容検討、及び造立意図を中心に論及されたものなのですが、薬師像の「恐ろしげで畏怖感を発散させる顔貌」の解釈のあり方についても、新たな考究がされています。

威嚇的で恐ろしい顔貌といわれる黒石寺・薬師如来像
威嚇的で恐ろしい顔貌といわれる黒石寺・薬師如来像

前段の本文でふれたように、黒石寺薬師像が「威嚇的で恐ろしいお顔」をしているのは、

東北の開拓にあたり、蝦夷と厳しく対峙した人たちが、その前進基地において、蝦夷に対する調伏の祈りをこめて、畏怖するような容貌の仏像を造ったのだ。

という風に、これまで説明されてきました。


【黒石寺薬師の容貌、造形は、「唐風の新様」の採り入れという考え方】

西木氏は、この考え方に、一つの疑問を呈しています。

結論からご紹介すれば、
黒石寺薬師像の特異な容貌やその造形は、夷狄調伏などといった意図を顕したものではなくて、当時都で流行していた「唐風の新様」を採りいれ、東国に馴化した造形表現になったものではないか。
という新たな考え方が、示されているのです。

「黒石寺薬師の威嚇的容貌は、夷狄調伏の祈りの造形にはあらず。」

という考えを主張された論考を読んだのは、この論文が初めてです。
これまでの、所謂「常識、定説」に対する、大いなる問題提起といえるのでしょうか?

西木氏の主張のポイントは、次のようなものです。

・蝦夷調伏の為の造像という考えは、「三代実録」貞観15年の条に、「武蔵国に倣った、蛮夷の野心をやわらげる「五大菩薩像」を陸奥国分寺への安置」の記述があることからくるものであるが、胎内墨書銘には、夷狄調伏的な造立願意はどこにも触れられていない。

・胎内墨書銘は、あくまで貞観4年に、在地の有力者であろう主として4名の人物がかかわって造立された、という事実のみが記されているだけなので、氏族繁栄や追善供養のような願意を想定する方が、妥当ではないだろうか。

・薬師像の特異な造形は、調伏的表現とみるより、むしろ、都で流行していたであろう「唐風の新様」を採り入れた造形と考えた方が良いのではないか。

・目頭から目尻にかけてつりあがった眼の表現は、同時期の日本でこそすくないものの、中国・唐代に類例を求めることができ、武周期(7世紀末〜8世紀初め)の龍門石窟にはこうした表現の像が多く、東山・擂鼓台の宝冠如来坐像などに、顕著な例がみられる。

龍門石窟~東山・擂鼓台の宝冠如来坐像・顔部.黒石寺・薬師如来像・顔部
龍門石窟~東山・擂鼓台の宝冠如来坐像(左)と黒石寺・薬師如来像・顔部(右)
~目尻を厳しく吊り上げた眼の表現~


・脚部の、下から上に刻まれる「八」の字形に流れる衣文については、金剛峯寺西塔の大日如来坐像(仁和三3年・887頃)など、平安時代前期の造像に類例として見出せる。
東山・擂鼓台の宝冠如来坐像も同様の衣文形式で、こうした表現は唐の影響を受けたものだと考えられる。

黒石寺薬師如来坐像
黒石寺薬師如来坐像~下から上に刻まれる「八」の字形に流れる脚部の衣文

金剛峯寺西塔・大日如来坐像.龍門石窟~東山・擂鼓台の宝冠如来坐像
金剛峯寺西塔・大日如来坐像(左)  龍門石窟~東山・擂鼓台の宝冠如来坐像(右)

・総じて、古様さにもとづく正統的な造形の名残がうかがえるなかに、新渡の図様を採用したところが、本像の特色といえるのではないだろうか。

大胆に端折りましたが、このような考え方が述べられていました。


たしかに、黒石寺薬師像の顔貌を「威嚇的で恐ろしいお顔」として受け止め、蝦夷調伏的な願意に結び付ける考え方は、大変魅力的でロマンに満ちたものですが、確かな根拠資料があるものでないことも事実です。

「渡来の新様を採り入れた表現」という見方も、また一つの切り口ではないかとも思います。
ただ、目尻が吊り上がった表現の我が国での類例や、何故中央でなく東北に唐風新様の作例が残されているのかと云ったことについて、もう少し深い言及があればと思いました。

神護寺薬師像や、秋篠寺地蔵像、勝尾寺薬師三尊、霊山寺十一面観音像など、所謂「怖い仏像、恐ろしい仏像」については、その霊威感を表出する造立意図、背景について、いろいろ議論されていますが、現代の視点から当時の造形表現の精神、背景をさぐっていくというのは、なかなか決め手のない難しいものでしょう。

西木氏の論考は、黒石寺薬師像の「恐ろし気な威嚇的容貌」の考察を主眼としたものではないので、造形表現の類例検討などについて、詳しく考察されたものではありませんが、一つの問題提起として、大変興味深く感じました。


そんな訳で、この追記で、簡単にご紹介させていただきました。

皆さん、この新たな考え方、どのように感じられたでしょうか?


コメント

The地方仏

黒石寺の薬師如来像の銘文について色々と議論があったのですね。
今でこそ、都から遠く離れた地方に9世紀の仏像があることはさほど不思議ではないですが、疑われた時代もあったとは。

黒石寺薬師は、歴史的な価値からして国宝級だと思うのですが、正統作との壁が厚いのか、国宝には指定されないようですね。
特別に国宝だからどうだというわけではないですが、個人的には「地方仏」の代表として指定されて欲しいと思っています。

  • 2015/11/04(水) 22:31:39 |
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  • とら #VBkRmpN2
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Re: The地方仏

とら様

おっしゃるように、黒石寺薬師の平安前期彫刻史上の意味というか価値は、大変大きなものがあると思います。

東北の仏像では、勝常寺薬師如来像が、平成8年(1996年)東北地方で初めて国宝に指定されましたが、近畿地方以外の仏像で国宝指定されているのは、あとは、鎌倉大仏、臼杵磨崖仏、願成就院の運慶作諸像(2013年国宝指定)だけではないかと思います。

それを考えると、とら様のおっしゃる国宝指定への途は、結構険しいかもしれませんね。

それはそれとして、本当にインパクトのある心に残る地方仏像ですね

管理人

  • 2015/11/08(日) 17:53:55 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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Re: The地方仏

群像での指定ですが、平泉中尊寺金色堂堂内諸仏も国宝ですね。
都の仏師が現地へ行って作ったものと思いますが、京都から像だけ送ったということもあるかもしれません。もっとも願成就院諸像も運慶が下向したかどうかは分からないので、事情は同じですね。

  • 2015/11/09(月) 00:43:44 |
  • URL |
  • むろさん #6GgKOieI
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Re: Re: The地方仏

むろさん様

東北の国宝仏像、ご指摘ありがとうございます
平泉中尊寺金色堂堂内諸仏は、平成16年(2004年)に重文から国宝指定されていたのですね
うろ覚えで、ちゃんと確認せずに書いてしまうとダメですね
有難うございました

仏像の国宝指定も、年々少しずつ増えてきてますが、東北3件目の国宝指定がされるのはいつの頃になるのでしょうか?

管理人

  • 2015/11/09(月) 17:35:54 |
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  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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久しぶりに書き込みます。
薬師像の魁夷な容貌についてなんですが、
面奥の浅い感じ、またやや見開きの強い目の強調されたカーブ、吊り上がった目尻と、また突き出した口の表現はとかく見るものを畏怖させる表現と説明されているのですが、
晩唐から五代にかけての仏像の表現に同じような暗黒的情感への造形志向の傾向がみられるので、ルーティンにそのようにみられていることにちょっと違和感を感じます。それは神護寺の薬師像の表現の解釈にも当てはまることなのですが。
まあ、全体的な体躯の薄さは作者が側面の指図をうっかり持ってなかったという楽しい想像を許してくれるだろうとは思います。
ただし、作者は在地で生えぬいてきたのではなく、いちおう都のそれなりの名声のあった作者で、表現についての特殊性をもういちど慎重に考えてみる必要があるのではないかと思います。

  • 2015/11/13(金) 18:58:56 |
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  • 修理屋 #-
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Re: タイトルなし

修理屋様

ご覧いただき、またご意見、ご教示いただき有難うございます。
中国の彫刻表現については不勉強でよくわからず、「晩唐から五代にかけての仏像の表現」の特色、傾向など少し勉強してみたいと思います。

平安前期彫刻の中でも、神護寺薬師像、黒石寺薬師像のような、とりわけ魁偉で畏怖感を強烈に感じさせる仏像については、その尋常でない造形表現がされた訳を、どう解釈するかという模索がされてきたということでしょうか?
神護寺像は、道鏡の怨霊や一派の呪詛を防御するためあのような威相表現になったとの考えがありますし、黒石寺像は、蝦夷を威嚇する畏怖表現だとされているのかと思います。

おっしゃるように、こうした魁偉な威相表現に、とりわけの歴史背景や思想背景となる事実で説明解釈するということに、最近、私もちょっとばかり違和感を感じてもおります。
なるほど!と感じる一方で、平安前期の仏像彫刻の一つの表現方法、表現パターンとして、このような魁偉な威相表現という領域があったのかもしれないという気もしております。

また、所謂地方仏の仏像彫刻風土論、厳しい自然をうつしたみちのくの仏像、明るく伸びやかな山陽路の仏像といった見方も、そんな風に考えてよいのだろうか、整理できるのだろうか、とも感じております。

ただ、黒石寺薬師像の膝前や体側脚部あたりの衣文線の粗略とも言えそうな造形表現を見ていると、作者はどのような経歴の仏師であったのだろうかと考えてしまいます。

思いを巡らすと、なかなか難しくて、よくわからなくなってしまいます。
これからも、ご意見ご教示いただけますよう、よろしくお願いいたします。

管理人

  • 2015/11/16(月) 10:18:58 |
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  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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若輩者の不躾な書き込み容赦、誠に傷み入ります。
突っ込んだ上級者向きの話はここでしかできないので、平に海容いただけますよう。
ともすれば精神論的なものに傾きがちに見える世間の造形解釈に違和感を感じており、もうちょっと即物的な見方ができないか、と強く感じているこのごろです。

あくまでも思いつきなのですが、膝前両側部の彫り足りない感じは、もともと乾漆が盛り上げられて整形されていたのが部分脱落し、見栄えを気にした後世の修理者がすべて落として整形しなおした、という考えはどうでしょうか?
乾漆がすべて脱落したあとの木芯というとなかなか思いつかないのですが、ロンドンギャラリー蔵の如来坐像の現状を見るにあたり、薬師像との類似性を感じられるように思うのです。
また、顔と肩に乾漆を盛り上げているのが残存している以上、両足部にも盛り上げていた可能性を否定する理由もないと思うのですが。

  • 2015/11/16(月) 13:27:19 |
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  • 修理屋 #-
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連投失礼します。

薬師本体といかにも都風な化仏の作風ー本体と化仏の作者が異なることはまあ、考えにくいだろうーの違いを詳細に比べるのも、この造形をどう解釈する
のが適当か、判断する大事な要素でしょうね。
ところで、鉈彫りという東国特有の造形がある、とはかの久野健先生が樹立された鉈彫り論の骨子で、近年では霊木化現と並列して論じる向きも出てきていますが、奥健夫先生の新解釈ですこし潮流が変わってきています。
私は数年前から「日限作仏」あるいは「頓作仏」というものではないか(両用語とも自作で,歴史上このような術語は存在していないが。。。)、つまり、完成させるまでの時間を七日間なら七日、と自誓しその間に完全な形でなくてもそれはそれで完成として入仏する、というちょっと遊戯めいた作法で作られた仏なのではないか?と考え始めています。この思いつきは奥氏が紹介して知れた興福寺仏所での「一日造立仏」なるものから出たものなのですが、ある程度の時期から期限内での作仏作法が流行しだし、試行錯誤で各地の鉈彫り仏を輩出、その極として編み出されたのが一日造立作法なのではないか?
また興福寺でしか完遂できない一日造立が、興福寺の宗教的な威風を知らしめる示威行為だったのではないか、とも勘繰れるのです。
翻って、地方に鉈彫りが多く分布するのは、日限りで作仏して各地を遊行する作仏聖のような存在の活動の痕跡ゆえなのではないか?
仏教美術における東国文化、というものがもう一度検討されるべき時なのだろうなあ、と思っているこのごろです。

  • 2015/11/16(月) 14:25:48 |
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  • 修理屋 #-
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Re: 連投失礼します。

修理屋様

ご意見、有難うございます。
「膝部の衣文は、乾漆脱落後の彫り直し?」ですか。
これまで思い付きもしなかったのですが、なるほど、そのような考え方も、ありうるかもしれませんね!

ただ、貞観らしいダイナミックな衣文になるほど、分厚く乾漆が盛り上げられていたとは、ちょっと考えられないような気もしますが・・・。
黒石寺像の乾漆は、「面部・両肩・手首等に薄く乾漆を盛り上げる(最大4~5ミリ)」ということですし、
制作時期の近い、広隆寺阿弥陀像は「像全面に厚く乾漆層(1.0~1.5㎝)」、観心寺如意輪像は、「全身に薄く乾漆を盛り上げ、右裾側面・背面条帛分で最大6.5ミリ」~いずれも日本彫刻史基礎資料集成記載数値~ということですので、
黒石寺像の膝前両側部の盛り上げも、その程度で何センチもある分厚いものではなかったとみると、衣文の彫りというか抑揚は、比較的浅くシンプルなものであったような気がして、貞観彫刻としてはちょっと似つかわしくないものであったように思えますが、如何でしょうか??

ロンドンギャラリー蔵の如来坐像というのは、2000年に大倉集古館で開催された「拈華微笑展」に出展され、図録に掲載されている如来坐像(50.0㎝)のことでしょうか?
もとは唐招提寺にあったものらしいですが、比較的彫りの浅い奈良風の像ですね。体奥の厚みも薄そうですし。

鉈彫りや日限り作仏といったお話がありましたが、黒石寺像の膝前両側部の彫りが粗略なのは、むしろそのような観点から考えたほうが良いような気もしています。
地方の平安仏に割と有り勝ちなのですが、「顔部・上半身は見事に丁寧に彫られているのに、下半身の方になると急に力が抜けたように、粗略で手を抜いたような造型になっている仏像」を見かけます。
やはり、地方へ行けば行くほど、「造仏への経済的制約、日数的制約」のなかで、仏像制作が行われたのではないでしょうか。
その結果、眼を惹く上半身・顔貌はしっかり造られるが、厨子に隠れてしまう下半身は粗略になり勝ち、ということがあったのではないでしょうか?
黒石寺像も、そのような背景で、下半身部分が粗略になってしまっているようにも思えるのですが・・・・・

素人の勝手な想像で、根拠もありませんので、放念いただければ。
よろしくお願いいたします。

管理人


  • 2015/11/18(水) 10:23:03 |
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  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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なるほど。逆に教えて頂いた感じです。

またも丁寧にありがとうございます。
制作日時や経済的な制約によるものと考えるほうが正しいかもしれないです。
みえづらい脚や脇よりも「顔が命」で大事な顔や胸のあたりを集中的に仕上げることになったのでしょうか。
当時の職人は日給による雇用が多いので、制作費用につまって、必要なところ以外はざっくり作らせたのかもしれません。
ちなみに、この時代までは制作を指揮する棟梁は俗人で、支配下の職人ともども制作そのものを神聖視することはなかったようですね。
思いつきの発言、失礼しました。

  • 2015/11/20(金) 21:54:26 |
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  • 修理屋 #-
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わが意を得たりという感じ

お久しぶりです。
西木論文、読んでませんでした。目の釣りあがる表現の解釈については、伝統的な情緒的解釈に違和感を持っていたんで、ようやく即物的に考えられる時代になったのかな?と喜びました。
さて、目の釣りあがる顔貌表現ですが、ささやかながら一点国産作品に例があります。
茨城は鹿島の神迎寺の如来座像です。
東博で行われた「金銅仏」展で展示された以外はほとんど一般に公開されていないので、なかなか注目されないのでしょうが、手足のこわばったような、なかなか硬い感じの表現には、盛唐期を過ぎるあたりの金銅仏の堅苦しい表現を彷彿させるもので、それが一層在地的なプリミティブな表現に翻案されています。
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/tyokoku/3-152/3-152.html
顔の表現は例の目の釣りあがったきつい感じの表現が作者なりに再現されていると思います。

追記ですが、
興福寺から耕三寺に渡り、平成24年度に文化庁が購入した 銅造薬師如来座像は耕三寺からの直接購入ではなく神戸の神田紫雲洞が購入するか、あるいは代行者として同社が仲介して納入したのが正しく、また同年度購入の木造二天王立像は直接古美術祥雲からではなく、町田の茶道具商、宝永堂にいったん?譲渡されてから同社が納入したのが正しく、訂正させていただきます。
http://www.kantei.go.jp/jp/kanbou/26tyoutatu/rakusatu/1_buppin/pdf/016.pdf#search='%E6%96%87%E5%8C%96%E5%BA%81%E6%AC%A1%E9%95%B7+++%E9%8A%85%E9%80%A0%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%A6%82%E6%9D%A5'

  • 2016/02/06(土) 11:45:38 |
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  • 修理屋 #-
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Re: わが意を得たりという感じ

修理屋様

この西木論文の主張、修理屋さんは、きっと「わが意を得たり」と感じらるであろうと思っておりました。

平安初期の、所謂、「怖い仏像」の表現は、これまで調伏とか怨霊封じとかに結び付けて説明されているようですが、このような、平安前期の一つの表現パターンという観点からのアプローチの方が、スムーズのような気もするところです。
興味深いアプローチで、この方面の研究がもっともっと進められて欲しいですね。

眼の吊り上がった類例の情報、ありがとうございます。
この像のことは全く知りませんでした。

併せて、文化庁購入仏像の、来歴情報有難うございました。

管理人

  • 2016/02/07(日) 11:57:43 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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  • 2016/03/14(月) 14:58:32 |
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