観仏日々帖

トピックス~東寺御影堂・不動明王像、三神像の秘仏発見物語~発見物語おまけ⑥ [その1] 【2015.10.3】


これまで、奈良博「白鳳展」に出展された5躯の仏像の発見物語を、ご紹介してきました。

発見のいきさつなどをたどってみると、こんなエピソードがあったのかと感心したり、ドラマチックな物語もあったりして、感慨深いものがありました。

皆さん、愉しくご覧いただきましたでしょうか?

綴った本人の私は、仏像発見のいきさつを色々調べたり、確認していくほどに、ミステリーを解いていくような心ときめくものがあり、ついつい熱が入ってしまったような気がします。


そこで、熱の入りついでに、ちょっと調子に乗って、「おまけ」で仏像発見物語を1~2ご紹介してみたいと思います。
「白鳳展」とは何の関係ないのですが、仏像彫刻では「大変重要な美術史上の発見」となる二つの仏像発見物語を、おまけで振り返ってみます。

一つは東寺・西院御影堂の秘仏・不動明王坐像と八幡三神像の発見です。

もう一つは、岩手黒石寺の貞観4年(862)銘のある薬師如来坐像の発見です。


【東寺西院御影堂に秘されていた不動明王坐像、八幡三神像】

それでは、東寺西院御影堂の秘仏発見物語から振り返ってみましょう。

ご紹介する、不動明王坐像、八幡三神像は、共に東寺西院御影堂に祀られていました。

東寺御影堂・不動明王坐像(日本の美術「貞観彫刻」至文堂刊掲載)
東寺御影堂・不動明王坐像(日本の美術「貞観彫刻」至文堂刊掲載)

東寺・八幡三神像(「東寺の歴史と美術」東京美術刊掲載)

東寺・八幡三神像(「東寺の歴史と美術」東京美術刊掲載).東寺・八幡三神像(「東寺の歴史と美術」東京美術刊掲載)
東寺・八幡三神像(「東寺の歴史と美術」東京美術刊掲載)

秘仏・不動明王坐像については、仏像好きの方ならご存知ないという方はいらっしゃらないことと思います。
何人も拝観が出来ませんので、写真でしか観ることはできませんが、その素晴らしい造形、堂々たる姿は、超一流の平安前期の優作で、見惚れてしまいます。

また、八幡三神像は、これまたパワフルで一種妖しげな魅力を発散させる、平安初期の神像です。
僧形、俗体神像彫刻の最古例ともいわれる、貴重な傑作です。


不動明王像は、昭和29年(1954)6月に調査(発見)され、翌年、昭和30年(1955)2月に重要文化財指定後、その4か月後の6月に「国宝」に指定されました。

八幡三神像は、昭和32年(1957)に調査(発見)され、翌年、昭和33年(1958)2月に重要文化財指定、3年後の昭和36年(1961)4月に「国宝」に指定されました。

不動明王像、八幡三神像共々、調査発見後、「即座に重要文化財指定から、一気に国宝へ」とスピード指定されていることからも、これらの像が日本を代表する優れた傑作であることが、容易に理解できることと思います。

東寺御影堂から、これほどの仏像、神像が発見されたのです。
仏教彫刻を愛好するものにとっては、世紀の発見といっても過言でない「大発見」でありました。


【古来、厳重秘仏として守られる御影堂・不動明王像】

東寺伽藍・遠望
東寺伽藍・遠望

まずは、西院御影堂の不動明王坐像の調査発見物語から始めたいと思います。

御影堂は、金堂、講堂などが立ち並ぶ東寺伽藍からちょっと離れた境内の西北部、西院と呼ばれる一角にあります。
この場所に、空海の住坊があったと伝えられています。
御影堂は、その名のとおり、弘法大師・空海をお祀りするお堂で、鎌倉時代創建の国宝建造物です。

お堂の北面には、弘法大師・空海の彫像(康勝作・天福元年1233~重要文化財)が祀られています。

御影堂北面・大師像側
御影堂北面・大師像側

御影堂・弘法大師像(天福元年・1233康勝作)
御影堂・弘法大師像(天福元年・1233康勝作)

秘仏・不動明王像は、御影堂の南面の後堂本尊として祀られています。

御影堂南面・不動明王像側
御影堂南面・不動明王像側

この像は、空海の作、日夜恭敬の仏と伝えられており、弘法大師・空海と密接不離の霊像として、寺内の畏敬は一際ただならぬものがあります。
それ故、古来、絶対秘仏として人目を隔てられてきました。

秘仏といっても、何十年に一度はご開帳されたり、特別な場合には拝観が可能だったりする秘仏が結構あるのですが、この御影堂・不動明王像は、厳重秘仏として誰の目にふれることなく秘されてきたのでした。


【東宝記が伝える、畏怖される不動明王霊験譚】

東寺の歴史を記した「東宝記」には、この不動明王が厳重秘仏とされるようになったいきさつや、畏怖の念をもって鄭重に伝えられるようになったことが各所にふれられています。

東宝記(巻第一)
東宝記(巻第一)

ちょっと、ご紹介したいと思います。

「東宝記・西院」のくだりには、不動明王像についてこのような記事があります。

平安時代末に近い仁平3年(1153)、東寺の長者(寺の代表者・管長職にあたる)寛信の代の時、不動明王の後光(光背)の破損した部分に修理が、2月15日に行われた。

ところが、3月7日に寛信が急に入滅した為、諸人の間に、ご本尊の修理をしたせいだとの噂が立った。

その後には、不動明王の頭上を飾る天蓋が落下して、光背や像の右手に持つ宝剣が折れて損傷した時にも、数代の寺務のあいだ修理に及ばなかった。

平安時代の昔から、この不動明王の威力が畏れられ、像を触ったり、手を入れたりすると「祟りのある怖い不動様」という評判が広まっていたようです。

その他のくだりにも、

・寛遍僧正(1100-1166)が寺務の時に、御影堂の修理を二度行ったが、本尊は他所に動かさずに修理を行った。

・文治4年(1188)に、俊証権僧正が事務の時にも、不動堂の修理を行ったが、この際も東廊東門に移坐しただけであった。

・応安元年(1368)に、光背や天蓋にわずかな修理が加えられた。

・康暦元年(1379)、西院が炎上した際には、不動明王像は無事運び出され講堂に仮安置、翌年西院が再興されると、盛大な法会の中、不動堂に戻った。

というようなことが記されています。

御影堂・不動明王像の修理や移坐について、これだけの記録が、わざわざ残されていることをみても、この像がとりわけ畏怖の念をもって、ひたすら鄭重な取扱いがされてきたことが判ります。

こんな謂れのある不動明王像ですから、古来、特段厳重な秘仏として、開かずの扉の奥に祀られてきたのです。
一方、誰の眼にもふれたことはないのですが、御影堂には、平安時代の古作であろうと思われる不動明王が安置されていることは、広く世に知られていることでもありました。


【何故か残されている、明治時代の不動明王像の撮影写真】

ところが、絶対秘仏であるはずの不動明王像ですが、何故か、明治時代に撮られた写真が残されているのです。

日本初の官製日本美術史の書といわれる「稿本帝国美術略史」や、明治の豪華美術書「真美大観」に、この不動明王の写真が、掲載されているのです。

(「稿本日本帝国美術略史」とは、明治33年(1900)のパリ万国博覧会を機会に出版されたフランス語版の Histoire de l'art du Japonの日本語原稿を、 大正5年(1916)に国内出版した本です。)

「稿本帝国美術略史」(大正5年1916刊・東京帝室博物館蔵版).「稿本帝国美術略史」(大正5年1916刊・東京帝室博物館蔵版)
「稿本帝国美術略史」(大正5年1916刊・東京帝室博物館蔵版)

「稿本帝国美術略史」の解説全文をご紹介しますと、このように記されています。

「此の不動は弘法大師一刀三礼の作と伝えられる。
その刀痕を検するに、仏師の作としては熟練を欠きて鋭利ならざる点あれども、全体の形状は雄偉にして自ら高邁の気象を帯び、真に弘法大師の作として信ずるに足るべきものなり。」

このように、明治時代に一度開扉されたことは間違いないのですが、この解説と一枚の写真以上の資料は、何も残されていません。

「稿本帝国美術略史」掲載写真をご覧ください。

御影堂・不動明王像(「稿本帝国美術略史」掲載写真)
御影堂・不動明王像(「稿本帝国美術略史」掲載写真)

この一枚の写真が、残されているだけのようです。

ところで、「稿本帝国美術略史」に掲載の写真は、誰の手で撮影されたのでしょうか?
誰が、この不動明王像を、直接拝したのでしょうか?

この点について記された資料等は見当たりませんが、私は、このように推測しています。

この写真は、明治21年(1888)の「近畿地方古社寺宝物調査」の際に、写真家・小川一真によって撮影されたものではないかと思っています。

東京国立博物館の情報アーカイブに掲載の「古写真データベース・東博所蔵」を検索すると、この不動明王像の写真が1枚だけ掲載されています。

明治21年・小川一真撮影写真(東博・古写真データベース所収)
明治21年・小川一真撮影写真(東博・古写真データベース所収)

この写真と、「稿本帝国美術略史」掲載写真を較べると、ピッタリ一致するのです。
構図も、ライティングの感じも、同じように思えます。

この不動明王像の写真には、
「撮影者:小川一真、撮影時期:明治21年(1888)」
と記されています。

小川一真が、「近畿地方古社寺宝物調査」の撮影記録者に任命され、調査に同行した時に撮影されたものと思われます。

「稿本帝国美術略史」掲載写真..明治21年・小川一真撮影写真
(左)「稿本帝国美術略史」掲載写真   (右)明治21年・小川一真撮影写真 

「近畿地方古社寺宝物調査」は、政府初の組織的宝物調査として実施された本格的文化財調査で、九鬼隆一、岡倉天心、フェノロサ等が参加しています。
撮影時期の明治21年というのは、「近畿地方古社寺宝物調査」の実施年に一致しています。

この「近畿地方古社寺宝物調査」の時、御影堂不動明王像が開扉されたのではないでしょうか。
岡倉天心、フェノロサ等は、東寺に調査に赴き、
「国家による宝物調査であるから、厳重秘仏もすべて官命により調査する。」
と厳命し、扉を開かせたのでしょう。

あの法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を強引に開扉して、巻き付けられた白布を解いた天心、フェノロサのことですから、東寺御影堂についても無理にでも開扉させ、小川一真に写真を撮影させたのではないだろうかと、私は想像しています。


【昭和29年、開かずの扉が開かれた不動明王像】

明治時代の開扉の事情がどうだったのかという話はさて置き、その後は一切開扉されることなく、厳重秘仏の掟は厳しく守られ、何人もこの像を拝することが出来た人はありませんでした。
文部省や研究者にとっては、本当の処どのような仏像なのかもはっきりとはせず、是非とも直接調査をする機会を得たいという念願の像であったのでした。

その実像が、ベールに閉ざされたままとなっていた御影堂・不動明王像でしたが、昭和29年に至り、ついにそのベールが開かれることになったのです。


不動明王像が開扉され、調査が叶うことになったいきさつを、当時、調査にあたった人たちの回顧文、論文などから振り返ってみたいと思います。

昭和28年(1953)、文部省文部技官で国宝調査を担当していた丸尾彰三郎氏は、当時の管長・山本大僧正に、その拝観について折り入って願い出ました。
文化財指定のための調査が、是非とも必要ということでお願いしたようです。
ところが、大僧正自身も、未だ拝したことも安置の間に入ったことさえないとの話でした。

ただし、御影堂の桧皮が傷んで、葺き替えをしなければいけない時期に来ており、屋根の修理の間は、不動明王像も他堂に移坐しなければならない。
移動には、その道の専門家が必要になろうから、その際に一応記録のために、写真も撮影しておく必要があろうという話になったのだそうです。

この調査了解は、まさに山本大僧正の大英断でありました。

翌昭和29年(1954)6月、移坐の日を迎え、限られた専門家の拝観が叶ったのです。
拝観が叶ったのは、丸尾彰三郎氏、倉田文作氏、西川新次氏等のようです。
この3氏は、秘仏拝観を振り返る論文、回顧文をいくつか執筆されています。

倉田文作氏の回顧文から、不動明王像拝観の有様を、振り返ってみたいと思います。

「御影堂の南面には、当然のことだが、大きな大壇があって、さまざまな法具があって、また供物もたくさんにおかれている。
作業は、この大壇や供物のかたづけからはじまる。
それが終って、扉を開くと、たたみ敷の中ノ問がある。
何もおかれていない。
片すみに、古い大壇が一基仮におかれているだけである。

この中ノ間の正面に、三つの観音開きの頑丈な扉がある。
これを開くのにやや時間がかかった。
扉が、重い音をたてて開かれると、灯をまったく用いない堂内は、文字どおり漆黒の闇で、しばらくは、どこに御本尊があるのかもわからない。
懐中電灯を直接あてるのがはばかられる一瞬である。

わずかに、かいまみたときの、仏・光・座のはなやかな暈繝彩色のあざやかな色あいが、今日も忘れられない。
それにしても、息をころし、進み出る一足ごとに気づかれのする一時であつた。

像は、中ノ間まではこび出されて、前もって用意した電灯が、ここで照らされて、実はあまりはっきりした記憶がないが、たぶんこのとき撮影を行なったのではないかと思う。
記憶がうすれたのではなくて、ともかくこちらが上気していたために、こんがらかっているのである。

そのくらい、この不動さまにお日にかかるということは、私の一生でも何度もない、千載一遇の折だったのである。
何しろ、国宝調査の仕事をしているありがたさが身にしみて感じられたのだから。」
(「東寺の秘宝」倉田文作・芸術新潮1966年8月号所収)

西川新次氏は、このように語っています。

「始めてこの像を拝した時の不思議な感動を、筆者は述べる言葉を知らない。
それは予想外に大きな、静かで、しかも常ならぬおそろしさの溢れる姿であった。

真の秘仏のみが持つ手の切れるような空気にとり巻かれて、それは千古のままの新しさ厳しさを守っていたのである。」
(「東寺西院の秘仏」西川新次・大和文華第35号1961年7月)

二氏の回顧文をみると、絶対秘仏・不動明王が開扉されるという、ただならぬ緊張、興奮に包まれた中で、その姿を拝し、一種異様な空気感、不可思議な感動を覚えたことが、ひしひしと語られているのが実感されます。


【紛うことなき平安前期の傑作、不動明王像~即座に国宝指定】

果たして、不動明王の姿を拝すると、紛うことなく平安前期の不動明王像の優作に間違いありませんでした。

御影堂・不動明王坐像(日本彫刻史基礎資料集成・重要作品編第4巻掲載)

御影堂・不動明王坐像(日本彫刻史基礎資料集成・重要作品編第4巻掲載).御影堂・不動明王坐像(日本彫刻史基礎資料集成・重要作品編第4巻掲載)
御影堂・不動明王坐像(日本彫刻史基礎資料集成・重要作品編第4巻掲載)

この像については、皆さんよくご存じでしょうから、ここでは極々エッセンスのみ記しておきます。

像高123cm、ヒノキ材の一木造りの彩色像で、一部に乾漆を併用しています。
長く秘されていたことから、衣と条帛には鮮やかな繧繝彩色、截金が残されています。
空海により将来された「大師様」という不動明王の形式で、東寺講堂の不動明王像と同じ形姿をとっています。

御影堂・不動明王坐像(日本彫刻史基礎資料集成・重要作品編第4巻掲載)
御影堂・不動明王坐像
(日本彫刻史基礎資料集成
重要作品編第4巻掲載)
堂々たる安定感ある造形で、忿怒の面相などには、他に類を見ない周りを圧するような、神秘的重圧感を漂わせています。
古来、畏怖の念をもって祀られてきたというのも、誰もが納得という姿です。

弘法大師当時の作と伝えられますが、穏やかでゆったりとした表現からは、9世紀後半の造立と推定されています。
具体的な造立年としては、貞観9年(867)という推定もされています。
宝菩提院蔵の「九徹剣図」が、不動明王像の右手に執る宝剣を図示したものと考えられ、そこに
「貞観九年歳丁亥十月五日始」
と記されており、この年紀が制作時期を推定する最有力の手懸りと考えられているとのことです。

いずれにせよ、講堂・不動明王像に少し遅れるころの制作とみられています。
講堂・不動明王像は、わが国最古の不動明王彫像ですが、それに次ぐ貴重な古例ということになります。

東寺講堂・不動明王坐像(日本の美術「貞観彫刻」至文堂刊掲載)

東寺講堂・不動明王坐像(日本彫刻史基礎資料集成・造像銘記編第1巻掲載)
東寺講堂・不動明王坐像
(上)日本の美術「貞観彫刻」至文堂刊掲載
(下)日本彫刻史基礎資料集成・造像銘記編第1巻掲載


不動明王像は、美術院の仏師の方々のご奉仕により、御影堂から灌頂堂に移坐されました。

この時の調査、発見によって、平安前期の傑作と確認された不動明王像は、調査の翌年、昭和30年(1955)2月に重要文化財指定の後、その4か月後の6月に、即座に「国宝」に指定されました。

この超ハイスピードの国宝指定をみても、この像が日本彫刻史上の傑作といって良い像であることが、納得頂けると思います。


【調査で明らかになった新事実~別保管の天蓋は不動明王像のものと判明】

この移坐時の調査、その後の修理により、新発見というか、このようなことも新たに判明しました。

「東宝記」に、
「不動明王の頭上を飾る天蓋が落下して、光背や像の右手に持つ宝剣が折れて損傷した時にも、数代の寺務のあいだ修理に及ばなかった。」
と記されていますが、
それが事実に相違ないことを実証するかの如く、不動明王像には損傷の痕が残されていたのです。

そして、落下した「天蓋」というのは、東寺に別に保管され、京都国立博物館に寄託されている古様な天蓋に違いないことが、判明したのでした。

御影堂・不動明王像天蓋(「東寺国宝展」図録1995刊掲載)

不動明王像天蓋・彩色文様(「東寺国宝展」図録1995刊掲載)
御影堂・不動明王像天蓋、圏帯に描かれた彩色菩薩像の姿が美しい
(「東寺国宝展」図録1995刊掲載)


御影堂・不動明王像光背(日本彫刻史基礎資料集成掲載)
御影堂・不動明王像光背(日本彫刻史基礎資料集成掲載)

別保管の古様な天蓋は、その文様、彩色の特色、八葉部の各弁の彫り口が、御影堂・不動明王像の光背のそれとそっくりであったのです。
光背と天蓋は、一具のものである可能性がきわめて大きくなったのです
さらには、天蓋には、落下した時のものと思われる大きな損傷痕まで残されていました。
一方、不動明王像の宝剣の方も、東宝記に伝えるとおり、柄頭の三鈷形の上のあたりで折損して、竹の副木で応急につないでありました。

まさに、東宝記に伝える、天蓋落下、宝剣損傷の有様が、そのとおりの形で遺されていたのでした。

調査にあたった丸尾彰三郎氏は、このように述べています。

「東宝記抄記中『天蓋落而御光并剣破損』とあるのを実状等から想定して見ると、天蓋が何かの故障で落ちた、先づ光背の火炎部が透彫で弱かつたのでこれを散落せしめ、次に沙髻を打ってこれを壊ぼつと、次いで弁髪の中間部、透彫になって弱いところをたたき折り、右手の三指を折り、剣身を打ち落してから膝辺に当って天蓋も一部破損した。

天蓋破損とは応安注記に
『於天蓋者朽損之間不及釣、只御座後邊寄立之 天蓋裏有八葉形 其廻有飛天図像等』
とあるのによつての想定で、墜落して破損したのを旧のように懸けずに置いてあつた間に朽損した、のであると解いて見たのである。」
(「教王護国寺西院不動明王像」丸尾彰三郎・美術研究183号1955.9)

同じく倉田文作氏は、このように回顧しています。

「こうして、私は、この東寺の天蓋は、今日こそ西院の不動像とはなれて保存されているものの、元来一具をなすべきものと考える。
『東宝記』の伝える不動像の損傷は、この天蓋が落ちたときに生じたものであるという。
それなら、天蓋もまたそのときこわれたにちがいない。

この問題の天蓋は、まさしく、八葉と吹返しの一部が欠失して、かなりひどい損傷があった。
こうしてこの天蓋と、御影堂の本尊とは、一具のものとして扱ってよいであろう。

それにしても、この天蓋は、平安初期の天蓋の貴重な作例として尊ぶべきであるとともに、その華麗な彩色は、このころの絵画のすぐれた作品としても注目されればならない。」
(「東寺の秘宝」倉田文作・芸術新潮1966年8月号所収)

この不動明王像の天蓋は、たまに博物館の展覧会に出展されることがありますので、ご覧になった方も多くいらっしゃるのではないかと思います。
落下損傷した痕は、今ではきれいに補修されています。

不動明王像は、宝剣や羂索が損傷していたり、矧ぎ目がゆるんだりしていましたので、国宝指定後に美術院で、入念な修理がなされました。


この時の調査、修理の後も、現在まで、御影堂不動明王像は厳重秘仏として守られ、一度も開扉されたことはありません。

一度は、この目で直に拝したいというのが念願でありますが、当面、御開帳されそうな気配は全くありません。

60代半ばになった私にとっては、どうも叶わぬ夢で終わってしまいそうです。



【ちょっと付けたり】

ここからは、ちょっと付けたりの話です。

御影堂不動明王像は、この調査後も厳重秘仏として、誰の眼にもふれたことが無いものと思い込んでいました。

・不動明王像の写真は、この昭和29年(1954)の調査から一連の修理の時に撮影された写真しか存在しない。

・美術書などには、不動明王像の写真が、折々掲載されていますが、すべてこの時に撮影された写真が使われているのだ。

・現場での調査なども、この時限りだ。

このように、思っていたのです。

ところが、今般、この発見物語をご紹介するために、いろいろな資料や写真集にあたってみました。
意外にも、昭和29年調査以降にも、不動明王像の写真が撮影されていることに気がつきました。

「大師のみてら 東寺」東寺文化保存会刊行・土門拳写真 美術出版社制作1965刊

「秘宝・東寺」佐和隆研著・講談社1969年刊

に掲載されている写真は、新たに撮影されたものだと思います。

「大師のみてら東寺」東寺文化保存会1965刊掲載・土門拳撮影写真

「大師のみてら東寺」東寺文化保存会1965刊掲載・土門拳撮影写真
(上下共)「大師のみてら東寺」東寺文化保存会1965刊掲載
土門拳撮影写真


「秘宝・東寺」講談社1969年刊掲載写真
「秘宝・東寺」講談社1969年刊掲載写真

「大師のみてら 東寺」掲載の写真は、ご覧のとおり、いかにも「土門拳の写真」というものです。
私が気がついた新しい写真は、これだけなのですが、厳重秘仏とはいえ、写真撮影だけは事情によってなされているのかも知れません。


「日本彫刻史基礎資料集成・平安時代 重要作品編第4巻」中央公論美術出版1972年刊

には、御影堂・不動明王像が採り上げられています。
その記述をみると、
「実査 昭和46年8月 西川新次 水野敬三郎」
と記されていました。
昭和46年(1973)にも、実査調査がなされたようです。

どうでもいいことだと思いますが、ちょっと付けたりでご紹介してみました。


東寺御影堂の厳重秘仏・不動明王像の開扉、調査に至る物語について振り返ってみました。
私は、当時の関係資料などを辿ってみただけなのですが、書き綴るにつれ、何やら息を詰めて緊張してしまうような気持ちになってしまいました。

これも、不動明王の霊威力のなせる技なのでしょうか?


【その2】では、同じ西院御影堂から発見された、国宝・八幡三神像の発見物語をたどってみたいと思います。

コメント

秘仏 不動明王

こんばんは。
僕が愛媛・今治から毎年3回程度東寺に行っていますが2年位前に東寺に行った時に金堂・講堂・五重塔がある庭園の中でテレビに出てくる総務部長の和尚さんが掃除をしている最中に秘仏のお不動さんの話をして尋ねたら、
「あなた相当詳しいですね。」
と仰ってました。
八幡さんのお社が明治元年に火災で焼失した(一説によると明治の廃仏毀釈で放火したのではないかと仰っていました。)際に八幡さんは火災で焼失したものと思われていましたが調査員が秘仏のお不動さんを開けた際奥に包帯ぐるぐる巻きの状態で3体仏像らしき物がありその包帯を解いてみると何と八幡さんが発見されて調査員が驚いて大急ぎで国宝に指定したという逸話を総務部長の和尚さんが仰っていて思わず僕はビックリしたのを覚えています。

ちなみに、東寺の八幡さんは石清水八幡宮よりまだ50年も古いそうです。

  • 2015/10/18(日) 20:45:34 |
  • URL |
  • 桜三里 #wLMIWoss
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Re: 秘仏 不動明王

桜三里様

ご覧いただき、有難うございます

近年、秘仏の御開帳をされるお寺さんも増えてきたようですが、御影堂の不動明王像が開帳されることは、まずないのでしょうね。

不動明王像の調査発見物語も興味深いのですが、三神像の発見のほうが、もっとドラマチックな感じがいたします
ちょうど【その2】で、三神像発見物語について振り返らせてもらいました
ご参考になりましたら、有難く存じます

管理人

  • 2015/10/20(火) 21:58:02 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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国宝仏最難関

東寺の不動明王像は、国宝仏の中では最も実見の機会が得られない像でしょう。色々といわくつきのようですから…。

仁和寺の薬師如来檀像や、神像ですが吉野水分神社の玉依姫命像もまず拝めない国宝ですね。
特に、後者はこれまで公開されたこともなく、公開される機会もなさそうです。

  • 2015/10/20(火) 23:16:38 |
  • URL |
  • とら #VBkRmpN2
  • [ 編集 ]

金剛峯寺 旧金堂本尊 

管理人様、お返事どうも有り難うございます。

一つ疑問に思うことですが、火災で焼失してしまった金剛峯寺の伽藍内にあり東寺 御影堂 不動明王像同様に厳重秘仏で秘されていた 旧金堂本尊 薬師如来(阿シュク如来)像を知る手立ては一切無いのでしょうか。

写真すらない状態で高村光雲氏は一体どのようにして薬師如来(阿シュク如来)像を作成したのでしょうか。

  • 2015/10/21(水) 18:42:41 |
  • URL |
  • 桜三里 #JalddpaA
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Re.金剛峯寺 旧金堂本尊

昭和元年に焼失した旧金堂本尊ですが、高野山霊宝館の下記HPでも「当然写真なども無く、今となっては尊容を知るすべもありません。」と書かれているので、まず無理だと思います。

http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/nenpyo/kondo-s.html

  • 2015/10/21(水) 19:37:38 |
  • URL |
  • むろさん #PMoz9hdc
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Re.金剛峯寺 旧金堂本尊

ご参考になりそうな資料がありました。
真鍋俊照博士古稀記念論集「密教美術と歴史文化」(2011.5.10 法蔵館発行)という本に、東京文化財研究所の津田徹英氏が「高野山金剛峯寺旧金堂所在焼失七尊私見」という論文を書いていて、焼失した七尊について詳細に論じています。その中で高村光雲の作った本尊について「(再興された本尊の像容は)現図金剛界九会曼荼羅成身会の阿閦如来の図像表現と一線を画する。菩薩相で両手を同じ手勢であらわす阿閦如来の姿が、根津美術館所蔵(滋賀・金剛輪寺伝来)の金剛界八十一尊曼荼羅に見出せることは重要である。やはり再興に際して何らかの図像的根拠があったことを窺わしめる」とあります。

なお、写真の残されている六尊については、文化庁編「戦災等による焼失文化財」(2003.10.20 戎光祥出版)に大きい写真(一部の像については側面や背面の写真も)と解説が載っています。

ともに専門書なので、大学図書館や都道府県の大きな図書館でないと置いていないかもしれません。

  • 2015/10/22(木) 19:14:55 |
  • URL |
  • むろさん #6GgKOieI
  • [ 編集 ]

Re: 国宝仏最難関

とら様

コメントありがとうございます。
吉野水分神社の玉依姫命像は、これまた絶対に拝めないでしょうね。
カラー写真は本などに載っていますが、文化財指定調査関係者以外に拝したことがある人はいないのではないでしょうか。

仁和寺の薬師如来檀像の方は、秘仏で公開されていませんが、これまでに展覧会に出展されたことがあるかと思います。
この像は、1986年、京都国立博物館の調査で発見というか、概要が初めて明らかになり、1990年に国宝指定になっていますが、私の記憶では、1988年、京博と東博で開催された「仁和寺の名宝」展と、1999年、東博開催の「金と銀 ―かがやきの日本美術―」展に出展されているのではないかと思います。
近年は、残念なことに、公開されることがないようですね。

管理人

  • 2015/10/24(土) 22:37:36 |
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  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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Re: 金剛峯寺 旧金堂本尊 

桜三里 様
むろさん様

金剛峯寺・旧金堂本尊以下7尊が、昭和元年に全部焼失してしまったのは、本当に残念なことですね。
現存しておれば、真言系の平安初期仏像の極めて重要かつ貴重な作品として、その意義は多大であったことでしょう。

むろさん様には、さっそくに貴重な情報、参考論文、写真資料などのご紹介をいただきまして、ありがとうございます。
流石のご造詣で、敬服いたします。

6尊の写真も、むろさんご紹介の「戦災等による焼失文化財」掲載写真の1種類限りしかないのではないでしょうか。
この写真で、イメージするしかないようですね。

管理人

  • 2015/10/24(土) 22:52:45 |
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  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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こんにちは、うわもう本当に詳しく有難うございます。大変勉強になりました。というのは、割合近くに住んでおりまして、昨日、拝みに行ったところでしたので、お姿について詳しく教えて頂き、更に感動しました。古色蒼然とした、扉の前に、参拝客の皆さまが真剣に祈られておられましたよ。東寺は今修理中ですが、仏様エリアには熱心な参拝客の方々が多いです(いわゆる、物見遊山だけの観光客らしい方は余り見受けません)。平安建都以来の法灯が今も守られている、有難いことです。

  • 2017/04/22(土) 02:08:30 |
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  • ローズ #-
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