観仏日々帖

トピックス~般若寺・伝阿弥陀如来像の発見物語~白鳳展に寄せて④  【2015.9.5】


白鳳展出展仏像の発見物語の第4回目は、般若寺の小金銅仏、伝阿弥陀如来像です。

昭和39年(1964)に発見されました。

般若寺・伝阿弥陀如来金銅立像
般若寺・伝阿弥陀如来金銅立像


【般若寺のシンボル・十三重石塔から発見された、白鳳の小金銅仏】

般若寺は、東大寺・転害門の前の道を北に行き、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきったあたりに在り、コスモス寺という通称で知られています。
鎌倉時代の国宝の楼門が、我々を迎えてくれます。

般若寺・本堂
般若寺・本堂

般若寺・楼門
般若寺・楼門

般若寺の伝阿弥陀如来立像(重要文化財)は、境内の十三重石塔の中から、発見されました。
般若寺・十三重石塔といえば、境内地のど真ん中に堂々とそびえ立つ、あのシンボルタワーのような石塔です。

般若寺・十三重石塔
般若寺・十三重石塔

この石塔が、昭和39年(1964)に解体修理が行われた際に、石塔内から、白鳳時代の小金銅仏・伝阿弥陀如来像が発見されたのでした。

般若寺の伝阿弥陀如来立像は、像高28.8cmの小金銅仏です。
短躯で大きな頭部が印象的、いかにも白鳳仏といった雰囲気の仏像です。

般若寺・伝阿弥陀如来金銅立像
般若寺・伝阿弥陀如来金銅立像

白鳳展の図録には、このように解説されています。

「額が狭く四角ばった面貌や、大ぶりな手足の表現などは、朝鮮半島三国時代の金銅仏を想起させる。 
一方、衣や台座の稜線に特殊な鑿で二列の点線を刻む複連点文を施す点や、衣端の周縁帯に半裁九曜文を表す点などは、法隆寺観音菩薩像(伝月光)のような白鳳金銅仏に共通し、本像も三国時代の渡来仏に倣って、日本で制作されたとみるのが穏当であろう。」

我国で制作された、白鳳小金銅仏の一類型といえるものだと思います。

般若寺・伝阿弥陀如来金銅立像

般若寺・伝阿弥陀如来像~衣端の周縁帯の文様..法隆寺観音菩薩立像(伝月光)
般若寺・伝阿弥陀像の衣端周縁帯の文様と、同様文様のある法隆寺観音菩薩像(伝月光)

この小金銅仏像が、十三重石塔の中に埋納されていたのです。
昭和39年の仏像発見に至るいきさつを知るためには、まず、この十三重石塔の鎌倉時代の建造から今日に至るまでの、歴史、道程をたどってみる必要があると云えるでしょう。


【般若寺・十三重石塔の歴史をたどる~建立・修復】


〈鎌倉時代の石塔建立の由来〉

般若寺十三重石塔は、総高13.3mの大石塔です。
鎌倉時代、建長5年(1253)頃に完成したといわれています。

「般若寺文殊縁起」の叡尊願文中には、石塔建立の由来が、このように語られています。

「件の寺、聖武天皇の草創、観賢僧正の遺跡なり。
星霜頻りに移りて空しく礎石を遺し、春秋しばしば仏像を改めて早く灰燼に変ず。
野干、居を卜して、古墓、列を成す。厳重の伽藍、名のみ有りて無実なり。
ここに大善巧の人有り。時に懐旧の悲しみを含みて、ついに興隆の願を起こす。
時、将に十三重の塔婆を立てんとす。
・・・・・・・・・・・・・・・・」

即ち、聖武天皇草創の般若寺は、その後空しく荒れ果てていたが、或る大善巧の人がその有様を悲しみ、十三重の塔を建立せんとしたというのです。

般若寺文殊縁起
般若寺文殊縁起

願文は、この後、このように続きます。

大善巧の人は、初重の大石を基礎に重ね、願を成就しないうちに死去し、その後一人の禅侶が完成を果たしたが、ただ石塔のみ成り、未だ仏殿が無かったので、かの上人(良恵上人)が仏殿造立を発願した。

般若寺の草創については、諸説あってはっきりしないそうですが、出土瓦などから奈良時代にこの地に寺が造営されていたことは間違いないようです。
その後、般若寺は荒廃し、「般若寺文殊縁起」にあるように、鎌倉時代に至り再興されることになります。

再興にあたって、まず十三重石塔が発願、建立されます。

塔建立のいきさつを想定すれば、
初め塔の建立を発願した人(大善巧の人)があって、初重の石を据え、完成を見ずに死去した後を継いで、良恵上人が完成したもので、延応2年(1240)頃には既に五重目を組上げ、建長5年(1253)頃に最上部を積上げ、間もなく完成をみた、
と考えられています。

その後、西大寺の中興と仰がれる叡尊上人が、般若寺の復興を始め、周丈六の文殊菩薩像を発願、造立(善慶作、文永4年・1267開眼)、その後、楼門(現存)をはじめとする諸堂も建立され、伽藍が整備されました。

このような由来で、建立された十三重石塔が、今も残る般若寺・十三重石塔で、伝阿弥陀如来・小金銅仏もこの建立時に、石塔内に納入されたものであろうと想定されているようです。

般若寺十三重石塔

石塔初層軸部には四方仏が線刻されている
般若寺十三重石塔~初層軸部には四方仏が線刻されている


〈石塔を造った宋渡来石工・伊行末~花崗岩石彫技術の確立者〉

この石塔を制作したのは、「宋渡来石工の伊行末」でした。

伊行末は、俊乗坊重源が東大寺復興のため、宋から招請した石工人の一派です。

この伊行末は、我国では加工が難しかった、硬質花崗岩の石彫技術の確立に成功します。
それまで、我国では、軟質の凝灰岩の石彫技術しかなく、我国に広く分布する硬質花崗岩の彫刻が技術的に難しかったのです。
有名な臼杵石仏(平安後期)は、軟質の溶結凝灰岩に彫られた石仏です。
伊行末の制作した宇陀大蔵寺・十三重石塔
伊行末の制作した花崗岩石塔
宇陀大蔵寺・十三重石塔

宋工人・伊行末は、硬質の花崗岩を克服し、その石彫技術を確立しました。
これにより、鎌倉時代以降、花崗岩による石仏、石塔などの石造彫刻美術の制作が一般化する時代が到来するのです。

我が国、石造技術史の進展にとって、画期的な時代を到来させたのが伊行末であったといえるのでしょう。
般若寺・十三重石塔は、伊行末による硬質花崗岩の石彫技術確立を象徴する、シンボリックな作品といえるのだと思います。

「伊行末と花崗岩石彫」についての話は、神奈川仏教文化研究所HP・埃まみれの書棚から~、仏像の素材と技法・石で造られた仏像編~で、ふれたことがありますので、参照いただければと思います。


〈石塔の損傷と修復~元禄・明治の納入品取出しと再納入〉

伊行末の話はさて置き、十三重石塔の歴史をたどっていきたいと思います。

般若寺・十三重石塔は、鎌倉時代・建長5年(1253)頃完成したのち、現在に至るまで、相輪が取り替えられるなど、何度かの修復がされています。
室町時代、江戸時代の慶長~元禄年間(1596~1073)、嘉永~安政年間(1854~1860)、明治2~3年(1868~9)などに、損傷した石塔の修理が行われました。

これらの中で、まずふれておかねばならないのは、「慶長~元禄年間の損傷と修理」についてです。

慶長元年(1956)7月12日、大地震が発生し、相輪と上部の二重が墜落してしまいます。

慶長元年の地震で墜落した石製相輪~現在は十三重石塔の脇に建てられている
慶長元年の地震で墜落した石製相輪
現在は十三重石塔の脇に建てられている
その後、地に落ちたまま百年余放置されたままとなりますが、元禄13年(1700)に至り、修理に着手されます。
この時、従来の石相輪が、銅製のものに取り換えられました。
旧石製の相輪は、石塔の近くに今も立てられています。
この修理時に、第四重以上の壇を積み替えました。
元禄13年(1700)、5月のことです。

そうすると、石塔の重ね目から、いろいろな奉納物が発見されたのです。
紺紙金字の経巻、仏舎利入りの琥珀玉、閻浮檀金阿弥陀如来、十一面観音像、唐本法華経などが、発見されたのでした。
この「閻浮檀金阿弥陀如来」というのが、今回取り上げた小金銅仏・伝阿弥陀如来像のことです。

これら納入物の発見は、当時、大変な出来事であったのでしょう。

般若寺では、これらの霊宝を諸人に結縁することを企画します。
そして、なんと霊仏等を、江戸まで運んで、出開帳まで行っているのです。
石塔再建資金の調達に充てるためであったのでしょう。
その後も、元禄14年から15年にかけて、般若寺で、また大阪・浄国寺で、開帳が行われています。

石塔の修復は、元禄16年(1703年)に、無事完成しました。
そして、発見された納入物は、石塔内に再度奉納されたのでした。


もう一つ、ふれておかなければならないのが、明治初年における、十三重石塔の破壊とその修復の話です。

明治2年(1868)3月、なんと十三重石塔が引き倒されて破却されてしまったのです。
廃仏毀釈の嵐の吹き荒ぶさなかのことでした。

住侶隆恵が西大寺僧と共に還俗し、楼門を閉ざして塔を破却、本尊・文殊菩薩を経蔵へ押し込め、本堂に神壇を構えて、八意思兼命(ヤゴコロオモイカネノミコト)を祀るという事件が起こったのでした。
幸いにして、この事件は寺存続派の人々の意向が通り、8月には再び寺院に復し、年末から壊された石塔の修造が始められました。
翌明治3年(1864)、石塔の積み上げが完了し、旧に復しました。

この時、石塔の破却によって取り出された塔内納入品については、「般若寺宝塔出現霊仏奉納目録」がつくられ、再度、木箱に詰められたりして、石塔内に再納入されたということです。

明治の修復時に作られた「般若寺宝塔出現霊仏奉納目録」
明治の修復時に作られた「般若寺宝塔出現霊仏奉納目録」



【白鳳・金銅仏はじめ石塔納入物の発見~昭和39年の解体修理】


〈解体修理のはじまり〉

そして、昭和39年(1964年)に至り、この十三重石塔の解体修理が行われることになったのです。

この石塔は、積み重ねられた各層(重)の石と石とのの間にホゾが入っていないため地震などでずれてしまって弓なりとなっており、大きいところで20㎝のひずみが出て危険な状態になっていました。
また風化により、軸石に描かれた線仏の傷みが激しいことから、解体修理に踏み切られたのでした。

この解体修理によって、石塔内から納入品が発見されるであろうことは、予想されていました。
一方、巷のうわさには、明治初年の暴徒による石塔破壊の時に、納入品は殆ど散逸したかとも伝えられ、解体修理、調査にあたった人たちは、本当に納入物がおさめられているのだろうかと半信半疑の状態であったということでした。

石塔の解体調査は、4月27日から始められました。
調査員の人々は、一層、一層がクレーンで順に吊り降ろさるのを、かたずをのんで見守ったことと思います。

石塔解体修理の有様
クレーンを使って行われる石塔解体修理の有様


〈納入物の発見と新聞報道〉

果たして、納入品は、各層から出現したのでした。

4月28日、五重目から、白鳳時代と思われる小金銅仏が発見されました。
元禄時代修理の時「閻浮檀金阿弥陀如来」と称されていた仏像です。

「閻浮檀金阿弥陀如来」と称されていた伝阿弥陀像
発見された閻浮檀金阿弥陀如来」と称される伝阿弥陀像

5月4日には、初層から、鎌倉時代の五輪塔型舎利容器6基が発見されました。
その他の各層からも、種々の納入品が発見されたのです。

初層に納入されていた五輪塔型舎利容器

初層に納入されていた五輪塔型舎利容器
初層に納入されていた五輪塔型舎利容器

これら納入品の発見は、ある程度予想されていたとはいえ、大発見でありました。

新聞各紙は、十三重石塔の解体から始まって、白鳳小金銅仏の発見、舎利容器の発見を、大きな見出しでスペースを割いて報じています。

ご覧ください。

毎日新聞・大阪本社版1964.4.27朝刊
毎日新聞・大阪本社版1964.4.27朝刊

毎日新聞・大阪本社版1964.4.29朝刊
毎日新聞・大阪本社版1964.4.29朝刊

朝日新聞・大阪本社版1964.4.29朝刊
朝日新聞・大阪本社版1964.4.29朝刊

毎日新聞・大阪本社版1964.5.5朝刊
毎日新聞・大阪本社版1964.5.5朝刊

4月29日付の小金銅仏像発見報道の内容を、少しご紹介してみましょう。

「穴から絶品の金銅仏~奈良般若寺の十三重石塔」

という見出しの朝日新聞は、このように報じています。

「天平時代、聖武天皇の創建と伝えられる奈良・般若寺にある十三重塔(重要文化財)は、さる26日から奈良県教委で解体修理しているが、28日、下から五重目の石をくり抜いた穴の中からキリの箱に入った金銅仏が見つかった。

奈良国立文化財研究所小林剛所長の話では、約1250年前白鳳時代を下らない仏像で、旧御物の法隆寺四十八体仏(現東京国立博物館)とよく似た貴重なもの。
衣のひだから台座に至るまで克明にタガネのきざみが図案化された様式は他の例がなく、同所長は『絶品の金銅仏』と折紙を付けた。
・・・・・・・・・・・・・・
五重目の穴は直径30㎝、深さ45㎝、この中に『明治3年修理した際に元からあった仏像を納めた』と書かれた箱があり、中から高さ40.9cm、右手を上、左手をさげた仏像が出てきたもので、阿弥陀如来らしいという。
・・・・・・・・・・・・・」


〈五重目軸石内から発見された白鳳金銅仏像~納入品発見の状況〉

この小金銅仏のほかに、各層から様々な納入品が発見されたのですが、この図をご覧いただければ、その概要をお判りいただけるのではないかと思います。

十三重石塔・納入物の一覧図
十三重石塔・納入物の一覧図

この図は、般若寺で春秋に開かれている、「秘仏秘宝特別公開」の時に、いただける説明書です。

各層からどのような納入物が発見されたのかが、一覧で大変わかりやすくまとめられています。
ご覧のように、数々の納入物がおさめられていました。
【赤マル】のところが、白鳳小金銅仏が発見された、第五重の処です。
納入物は、明治の破却修復時に記された寺蔵の「般若寺十三重宝塔修理明治三年記」の「塔内霊仏目録」にあった納入品が、そのまま残されていました。
幸いにして、廃仏毀釈の時に石塔が壊された時に、巷間云われたような「納入品の散逸」は無かったのでした

伝阿弥陀如来小金銅仏をはじめとした納入品の数々は、普段は公開されていませんが、春秋の特別公開の時には、宝蔵堂で拝見することが出来ます。


伝阿弥陀如来金銅仏の発見状況などについて、もう少し詳しくご紹介したいと思います。

伝阿弥陀如来小金銅仏は、第5重軸石内から発見されました。
発見時の納入状況などの写真をご覧ください。

五重軸石内に奉納されていた木箱~箱書きがされ伝阿弥陀金銅仏等が収められていた
五重軸石内に奉納されていた木箱
箱書きがされ伝阿弥陀金銅仏等が収められていた


木箱の蓋を開けた状況
木箱の蓋を開けた状況

取り出された伝阿弥陀金銅仏~赤地錦の裂に包まれていた
取り出された伝阿弥陀金銅仏~赤地錦の裂に包まれていた

軸石の中央に円筒形の納入孔が穿たれ、その中に桐箱がおさめられていました。
縦横約20㎝、高さ43センチの桐箱でした。
箱の表裏には、このような墨書きがありました。

木箱の空間に詰め物として入れられていた「閻浮檀金阿弥陀如来」の刷仏
木箱に詰め物として入れられていた
「閻浮檀金阿弥陀如来」の刷仏
明治三庚午年四月初三日

閻浮檀金如来御丈八寸五分
御腹仏
金 大日如来    木像一躰
  十一面観世音  金像一躰
  地蔵菩薩    木像一躰
明治三庚午四月三日納之

この箱は、明治3年の石塔修造の時に新造して納められたようです。
箱を開けると、中には赤地錦の裂に包まれた如来形金銅仏が納められ、その周囲に刷仏が詰め物として入れられ、舎利、般若心経の一包が添えられていました。

箱書きにある、御腹仏は、文字通りの胎内仏で、伝阿弥陀如来金銅仏の台座裏の空間に紙に包んで納入されていたのでした。

伝阿弥陀如来胎内納入仏
伝阿弥陀如来の胎内納入仏


さて、新発見の伝阿弥陀如来金銅仏は、いつの時に、この石塔に納入されたものなのでしょうか?

金銅仏は、間違いなく白鳳仏ですので、この十三重石塔が建造された鎌倉時代に納入されたと考えるのが、素直なところのように思えます。
軸石にも、相応しい納入孔が穿たれています。

ただ、記録を遡ってみると、元禄年間、明治年の目録に、はっきりと「閻浮檀金阿弥陀如来」と指摘され、法量も一致することから、納入の下限が元禄年間であることは間違いありません。
記録上は、これ以上さかのぼることが出来ないので、鎌倉時代建立時の納入とは断言できないということになるそうです。

胎内仏の方はどうでしょうか?

胎内仏は、像高5~11㎝の小仏で、共に鎌倉時代の制作とされています。
この3躯の胎内仏については、明治目録には記載されていますが、元禄目録には記載されていません。

修理報告書には、

「包紙その他底面に入れられた刷仏の状況からは、明治修理時に納めたか、又は元禄修理時に納めたものを、明治修理時に納めなおしたものと想像されるものである。」
(「重要文化財・般若寺塔婆修理工事報告書」奈良県文化財保存事務所編・1965刊)

と述べられています。
これもまた、推定がなかなか難しいようです。


いずれにせよ、昭和39年(1964)の十三重石塔の解体修理で、新たな白鳳の小金銅仏が、我々の眼前によみがえったのでした。
何度もの層塔の積替え修理があったにも関わらず、よくぞ取り出されずに、石塔内に奉納し続けられたものだと思います。
これも、信仰の力なのでしょうか。
もし、いずれの時代かに、この小金銅仏が取り出されてしまっていたらば、散逸してしまったり、明治の廃仏毀釈の時に売り払われてしまっていたかもしれません。

般若寺・伝阿弥陀如来立像..般若寺・伝阿弥陀如来立像
般若寺・伝阿弥陀如来立像

今も、白鳳のやさしさ、清明さを伝える、金銅仏を拝することが出来ることは、本当に嬉しいことです。


【春秋・特別公開されている伝阿弥陀如来金銅仏などの納入物】

この伝阿弥陀如来金銅仏をはじめとする、十三重石塔から発見された納入物の数々は、発見から3年後の昭和42年(1967)6月に、「大和般若寺石造十三重塔内納置品」という呼称で、一括して重要文化財に指定されました。
現在は、般若寺の宝蔵堂に安置、保管されています。

昭和46年(1971)10月には、奈良県文化会館で「般若寺名宝展」と題した展覧会が開催され、十三重石塔から取り出された納入物の数々が一般展観されました。
もちろん、伝阿弥陀如来金銅仏も展示されました。

現在は「大和般若寺石造十三重塔内納置品」は、常時は公開されていませんが、春秋には「白鳳秘仏特別公開」と称して宝蔵堂が開かれ、拝見することが出来ます。

「般若寺名宝展」図録..春秋の「白鳳秘仏特別公開」パンフレット
「般若寺名宝展」図録      春秋の「白鳳秘仏特別公開」パンフレット



今回は、般若寺の伝阿弥陀如来金銅仏の発見と、金銅仏が奉納されていた般若寺のシンボル、十三重石塔の歴史を振り返ってみました。




【ご参考~追記】

この般若寺十三重石塔の建立、修復の歴史や、納入品の発見などの詳しい話は、次の資料に詳しく記されています。

①「重要文化財・般若寺塔婆修理工事報告書」 奈良県文化財保存事務所編・1965刊

②「般若寺石造十三重塔」 奈良県教育委員会(元田長次郎・村野浩) 月刊文化財14号・1964.11刊

③「大和古寺大観・第3巻」(般若寺の解説部分) 岩波書店1977.6刊

特に、①の「重要文化財・般若寺塔婆修理工事報告書」には、石塔の解体修理と納入品発見の詳細な報告、写真が掲載されているとともに、般若寺十三重石塔の歴史についての詳しい論考、解説が収録されています。

ご関心のある方は、一度、ご覧になってみていただけると、ご参考になると思います。


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/tb.php/90-b373e730
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)