観仏日々帖

トピックス~千葉龍角寺・薬師如来坐像の発見・・・白鳳展に寄せて③ 【2015.8.22】


白鳳展出展仏像の発見物語の第3回目です。

今回は、千葉県印旛郡栄町にあるにある龍角寺の薬師如来坐像の発見について振り返ってみたいと思います。


【関東地方の数少ない古代金銅仏~龍角寺・薬師如来坐像】

龍角寺の薬師如来坐像は、関東に残る数少ない白鳳~奈良時代の金銅仏として知られています。

残念ながら、首から下は江戸時代、元禄年間に後補されたものに変わっており、頭部のみが白鳳~奈良時代のものが遺されています。

龍角寺・薬師如来坐像

龍角寺・薬師如来坐像
龍角寺・薬師如来坐像(頭部のみ白鳳~奈良時代)

関東では、古代の金銅仏は4躯が遺されているにすぎません。
そのうち2躯は、小金銅仏です。
(東京八王子市・真覚寺薬師如来倚像、東京三宅島・海蔵寺・観音菩薩立像)
大型の金銅仏の遺作は、龍角寺・薬師如来坐像と、先に発見物語をご紹介した深大寺・釈迦如来倚像の2躯だけで、関東の古代彫刻を語るうえでは、大変重要、貴重な作例となっています。

真覚寺薬師如来倚像..海蔵寺・観音菩薩立像
真覚寺薬師如来倚像          海蔵寺・観音菩薩立像

深大寺・釈迦如来倚像
深大寺・釈迦如来倚像


龍角寺の薬師如来坐像は、昭和7年(1932)に発見されました。

仏像そのものが、新たに出現して発見されたというものではありません。
昔から龍角寺のご本尊として、祀られていました。
像高92cmもある、立派な金銅仏です。

お堂(収蔵庫)に安置されている龍角寺・薬師如来坐像
お堂(収蔵庫)に安置されている龍角寺・薬師如来坐像

この仏像の頭部が、古代の金銅仏であるということが判明し、白鳳仏であることが発見されたのが、昭和7年(1932)のことというものです。
倉庫や納屋の片隅から、仏像が見つけ出されたというわけではありませんので、この発見は
「美術史上の発見」
と云えるものでしょう。

そうはいっても、関東の地で、白鳳時代まで遡り得る大型の金銅仏像が見出されたのです。
「関東における白鳳仏像の大発見」といって間違いないものだと思います。
ただ、以前から知られていた仏像が、白鳳~奈良時代であると判明したという話ですから、それほどドラマチックな発見物語があるわけではありません。

あまり面白くない発見物語のご紹介になろうかと思いますが、ご容赦ください。


【最初に薬師像に注目した人~氏家重次郎氏】

龍角寺・薬師如来像の第一発見者は、氏家重次郎という人でした。
氏家重次郎氏は、建築家ということです。

氏家氏は、仏像発見の数年前に、偶然に龍角寺に来合わせ、本堂の建築が優れているのに心を止め、昭和7年の3月、再度、龍角寺の撮影に赴きました。

龍角寺境内と本堂
龍角寺境内と本堂

本堂は、江戸時代、元禄10年の建立で、氏家氏は、この本堂が特別保護建造物に指定できないかと思っていたようです。

氏家氏は、この時の龍角寺訪問時に、本尊の薬師如来像の写真を撮影しました。
また、椎名寅吉氏所蔵の、当地出土の古代の鐙瓦も預かったのでした。

昭和7年当時に撮影された龍角寺・薬師如来坐像.龍角寺出土の古代鐙瓦
昭和7年当時に撮影された龍角寺・薬師如来坐像(左)龍角寺出土の古代鐙瓦(右)

元々龍角寺は、和銅2年(709)創建と伝えられ、境内には古代の塔心礎が残されているという古刹です。

境内に遺る塔心礎
龍角寺境内に遺る塔心礎

龍角寺・仁王門址礎石
龍角寺・仁王門址礎石

氏家氏も、
「鐙瓦は、創建時のものではないか?」
「薬師如来像も、存外古いのではないか?」
と、感じとったのではないかと思います。


【調査に赴いた、文部省の丸尾彰三郎氏】

氏家氏は、この薬師如来像の写真を、当時、文部省・国宝監査官であった丸尾彰三郎氏に見せたのでした。

丸尾彰三郎氏(1892~1980)という人は、仏像彫刻史にご関心のある方なら、名前を御存じのことと思います。
文部省で、文化財保護行政に長らく携わった仁で、戦前は国宝鑑査官を長らく務め、戦後は、1956年文部省退官後、文化財専門審議会専門委員を務めた仏像彫刻の専門家です。
今も刊行が続く「日本彫刻史基礎資料集成」の編集者でもありました。

丸尾氏も、この仏像写真を見て、強い関心を抱いたようです。
早速、その年(昭和7年)の4月に、龍角寺に調査に出かけたのです。

丸尾氏は、発見の年の8月、雑誌「宝雲」(第3冊)に、龍角寺・薬師像のことを採り上げ、このように記しています。

龍角寺・薬師如来像頭部
龍角寺・薬師如来像頭部
「本年の始でしたか、この像の発見者建築士氏家重次郎氏からその話を聞き、其後その小さな写真を見せられて『おや』と思い、この4月17日それを実査して『これは』と認めた次第、その後関野先生も実査されて新聞にも報道されることとなったのです。」
(「龍角寺薬師如来像」宝雲第3冊、1932.8刊所収)

文中の
「『おや』と思い、・・・『これは』と認めた」
というのは、丸尾氏は、薬師像の頭部が、白鳳時代の制作と考えたということでした。

「厳然として、奈良朝前期と言いますか、天平時代より早い頃の、即ち奈良薬師寺や蟹満や、この辺では深大寺の諸銅像の時代の様式が存しております。」

このように語っています。

丸尾氏も、この仏像の存在は、それまで認識していなかったのでしょう。

なんといっても、龍角寺のある場所は、国鉄成田線安食駅の東2~3キロの辺鄙な田舎といっても良いところです。
訪れる人めったになかったに違いありません。
古代伽藍があった場所とは知られていても、そんなに古い仏像が遺されているなどとは考えられもしていなかったのだと思います。
また、薬師如来像は、首から下は江戸時代の後補ですから、仏像全部が江戸時代(龍角寺再建の元禄年間)に制作された仏像だと思われていたのでしょう。


文部省の丸尾氏が龍角寺を訪れて、「奈良朝前期」の仏像と認めたということなのですが、この「白鳳仏像の発見」は、世に大きく発表されるとか、新聞報道されるということはなかったようです。
丸尾氏の方が、積極的に世間に発見を発表しなかったのではないでしょうか?


【重鎮、関野貞氏の調査と、大発見の新聞報道】

丸尾氏の龍角寺調査の翌月、昭和7年(1932)5月、今度は、関野貞氏が調査に訪問します。

関野氏は、龍角寺調査のいきさつについて、このように述べています。

「龍角寺は千葉縣印幡郡龍角寺に在り、成田線安食駅より約一里、今すこぶる衰微すれども昔時は有名の大伽藍であつた。
近頃建築家氏家重次郎氏偶然寺に詣り、其本堂と本尊の写真と境内出上の古瓦片とを余に示された。

余は其本尊と古瓦片の寧楽時代初期の者たるに驚き、去る5月15日文部省国宝建造物保存室の諸氏と往訪し、仕職及び有志諸氏の好意により調査かつ必要の撮影を為すことができた。」
(「龍角寺銅造薬師如来像及古瓦片」歴史教育7巻4号1932年刊所収)

氏家重次郎氏は、龍角寺薬師像の写真と、出土の古代の鐙瓦を関野氏にも見せたようです。
丸尾彰三郎氏経由だったのかどうかは、良く判りません。
関野貞氏も、調査の結果、薬師如来像頭部は白鳳期の制作と認めます。

仏教美術好きで、関野貞氏(1868~1935)の名前を知らない人はいないでしょう。
「明治期の古建築の文化財指定」「法隆寺再建非再建論争の非再建論者」「平城宮址の発見」「天竜山石窟寺院の発見」などで知られています。
建築史、仏教美術史の研究者、文化財保護行政の大御所として余りに著名です。
龍角寺・薬師像発見当時は65才、東京帝国大学名誉教授、古社寺保存会委員という重鎮です。

その関野貞氏が、お墨付きを与えたからか、重鎮・関野氏出馬の調査ということで新聞記者の取材対象になったのか、
「龍角寺薬師如来坐像の発見」「白鳳期大型金銅仏の大発見」
が新聞紙上に大々的に報じられたのでした。

「奈良の大仏より古い国宝的佛像発見さる
1250年を経た寧楽初期の傑作
関東最古の珍しいもの」


「大昔の千葉県に驚異の伽藍
国宝と史蹟の価値は充分
鑑定した関野博士談」


6月4日付の都新聞には、このような大見出しで白鳳仏像の発見が報じられ、龍角寺の薬師像は、広く世に知られることになりました。

新聞記事は、ご覧のとおりです。

龍角寺・薬師如来像発見報道記事(都新聞)

龍角寺・薬師如来像発見報道記事(都新聞)

龍角寺・薬師如来像発見報道記事(都新聞)

都新聞は、龍角寺・薬師像の発見を、このように報じています。

「従来、学者、専門家にも全く知られずにいた国宝的佛像が発見された。
千葉県印旛郡安食町近傍龍角寺の従来殆ど扉の鎖された薬師堂内にある一躯の薬師如来の坐像がそれである。

発見の端緒は、数年前建築家氏家重次郎氏が偶然ここへ来合せて、寺の建築の優れているのに心を止め、今春3月再び同寺撮影に行きついでに古色蒼然たる仏像も写して文部省の関野貞博士に鑑定を乞うたところ、寺の建築は元禄時代のものだが、仏像は稀に見る古い。

早速、5月中旬から同博士が龍角寺に出張調査すると、これは丈4尺の銅造りの薬師如来坐像で、残念にも胴体は当寺が元禄5年に全焼した際破損し、元禄10年本堂再建の際に継足したもののようであるが、頭部は正しく美術史上の寧楽時代初期(白鳳期)の傑作で、すでに1250年を経、奈良の薬師寺の東院堂の聖観音、法隆寺の夢違観音等と同時代であり、有名な奈良の大仏より古いというのである。

従来寧楽時代初期の彫刻は、関東には府下北多摩郡神代村の深大寺釈迦如来像唯一つであったのだが、この深大寺像より多少古いとみられる仏像がここに新たに発見せられたわけである。」

この龍角寺・薬師像発見のニュースは、都新聞のスクープだったのか、当時の朝日新聞などの有力紙は報道していないようです。


奈良とか京都とかではなくて、関東地方、それも千葉の田舎から、白鳳の大金銅仏が発見されたわけですから、全く想定外の大ビックリだったのだと思います。
「本当に、本当? 嘘じゃないの?」
と疑ってしまいます。

ところが、当時、撮影された龍角寺・薬師像の写真を見てみると、その頭部は、
「誰が見ても堂々たる白鳳~奈良期の金銅仏」
です。

発見の年・昭和17年当時の龍角寺薬師如来像の写真.発見の年・昭和17年当時の龍角寺薬師如来像の写真
発見の年・昭和17年当時の龍角寺薬師如来像の写真(「宝雲」第3冊掲載)

切れ長の眉目、鎬線が立ち美しいカーブを描く鼻筋、ふくよかさを示す頬など、いわゆる白鳳仏の特長を備えています。
それも、小金銅仏というのではなくて、等身ほどの大型金銅仏であったのですから。
実際に、この薬師像を目の前にした人達は、本当に、びっくりしたのだろうなと思います。


関野貞氏も、この発見の調査報告的に書かれた「龍角寺銅造薬師如来像及古瓦片」(歴史教育7巻4号1932年刊)という文章で、このように語っています。

深大寺・釈迦如来倚像~頭部
深大寺・釈迦如来倚像~頭部
「要するに其様式手法は、明かに寧楽時代の初期の特色をあらわし、薬師寺東院の聖観音に次ぎて法隆寺の夢違観音や新薬師寺の香薬師如来及び深大寺の釈迦如来と殆んど同時代に成つたもので.稀れに見る所の傑作である。

唯惜むべきは 頸以下の体躯は全部後世の補修であることである。
頭部は人災に遭った形跡が明かに,膚が處々荒れている。
・・・・・・・・・
要するに龍角寺の其本尊は寧楽時代初期の傑作でみる。
其当初屋上に用ひられた巴瓦唐草瓦亦同様寧楽時代初期の代表的優作で、共に寺伝の創立と称する和銅までは下るものとは考えられぬ。
蓋し和銅創立説は恐らぐは後世の附會で、寺はそれよりも前に既に建立せられでゐだのであろう。

兎に角従来あまり世間に知られていなかつた大伽藍が、其本尊と新たに発見された瓦當とにより、寧楽時代の初頭に都を遠く離れたかヽる僻遠の地に建てられたことが明かになったことは, 極めて興味あることに属する。」
(「龍角寺銅造薬師如来像及古瓦片」歴史教育7巻4号1932年刊所収)

この龍角寺の薬師如来坐像、美術史上の重要な作例であると認められたのでしょう。
発見の翌年、昭和8年1月に、早速、国宝(旧国宝・現重要文化財)にスピード指定されました。


【おわりに】

皆さん、奈良国立博物館の白鳳展で、もう龍角寺の薬師如来坐像をご覧になったでしょうか?

確かに、首から下が江戸時代の後補なので、展示された周りの立派な白鳳仏を較べると、全体的には、ちょっと見劣りしてしまうような気もしますが、頭部だけに目を凝らして、じっくり見てみると、大変完成度の高い優作であることが判ります。


この金銅仏像、奈良などの中央で造られたのでしょうか?
それとも、関東の当地で造られたのでしょうか?

制作年代は、7世紀後半の白鳳期なのでしょうか、
それとも8世紀和銅年間に入って以降のものなのでしょうか?

薬師像の前に立ち、そのお顔を眺めていると、そんな疑問が、ちょっと湧いてきます。

専門家は、蟹満寺・釈迦如来像の頭部、面貌との類似を指摘しているものが多いようです。

蟹満寺・釈迦如来坐像~頭部.龍角寺・薬師如来坐像~頭部
蟹満寺・釈迦如来坐像~頭部      龍角寺・薬師如来坐像~頭部

龍角寺縁起は、寺の創建を和銅2年(709)と伝えますが、出土瓦の編年からは、龍角寺の創建年代はもっと古い650年から660年代とみられると云われています。
薬師像の制作時期についても見方も定まっていないようで、なかなか興味深いところです。

皆さん、どのようにみられるでしょうか?

なかなか、難しいところのように思えます。
私は、これまでなんとなく8世紀に入ってからの制作なのかなと感じがしていたのですが、今回、白鳳展でじっくりとその顔部の造形表現を観てみて、白鳳期に造られた像のように思えてきました。
感覚的な話ですが、龍角寺薬師像には、大陸風というか渡来系の造形の空気感が、より漂っているように強く感じました。
そのあたりの処は、発見物語のテーマから外れていってしまいますので、この辺にしておきたいと思います。


今回は、龍角寺・薬師如来坐像の昭和7年(1932)の発見のいきさつを振り返ってみました。

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