観仏日々帖

トピックス~野中寺・弥勒半跏像の発見とその後・・・白鳳展に寄せて②【その2】   【2015.8.15】


【その1】では、野中寺金銅弥勒像の劇的発見物語と、発見報道の真相についてたどってきました。
    
近年になって、本像の銘文、制作年代に疑問を投げかける、センセーショナルな問題提起がなされました。

ここからは、この問題提起をめぐる論争や研究を振り返ってみたいと思います。


【その後の野中寺像研究と、近年の偽名、擬古作の可能性の問題提起】

野中寺像の発見の経緯には、振り返るといろいろあったようですが、弥勒半跏像そのものが、白鳳の冒頭期を飾る基準作例であるという位置づけは定着し、長らく変わることはありませんでした。
即ち、丙寅、天智5年(666)の制作であり、斉随様から初唐様式の影響を受けた作品であるということでした。
昭和40年代までは、この点についての大きな異論は、唱えられなかったのではないかと思います。

野中寺・弥勒半跏像
野中寺・弥勒菩薩半跏像

どんな仏像の本を読んでも、白鳳時代の処には、必ず野中寺弥勒像が採り上げられています。
天智5年(666)の制作で、白鳳らしい明るくのびやかな造形表現への転換を感じ取れる作品としています。


こうしたなかで、議論があったのは、刻銘文の、判読、解釈に関することでした。
・銘文の「四月大八日」のにあたる文字は、「朔」なのか、「旧」なのか、あるいは「洎」と判ずるのではないか?

・「栢寺」というのは、橘寺のことか、そのほかのいずれかの寺を指すのか、野中寺そのもののことなのか?

野中寺像台座の「四月大□八日」と刻された□の文字...野中寺像台座の「栢寺」と刻された栢の文字
野中寺像台座の「四月大八日」と刻されたの文字(左)と「栢寺」と刻された栢の文字(右)

・「中宮天皇」とは誰のことをさすのか?

・天皇号が用いられるようになった時期は、いつ頃と考えられるのか?

このような事柄が、野中寺弥勒半跏像にまつわる問題として議論されていたのではないでしょうか。


〈野中寺像は、偽銘・擬古作か?~センセーショナルな問題提起〉

ところが、近年、平成12年(2000)に至って、センセーショナルな問題提起がなされました。

結論から言いますと、

・野中寺弥勒半跏像の銘文は、明治末年以降に撰文された偽銘の可能性がある。

・野中寺像そのものの制作年代にも疑問が生ずる。

という問題提起でした。

これこそ、大正時代の野中寺像の大発見よりも、大ビックリ、驚きの問題提起でした。
この問題提起は、東野治之氏によってなされたものです。

その論旨は、
野中寺弥勒像台座銘の再検討(東野治之) 国語と国文学・77巻11号所収 (2000.12刊)
に、詳しく述べられています。

東野治之氏は、日本古代史、文化財史料学者で、奈良国立文化財研究所文部技官、大阪大学教授、奈良大学教授を歴任した、大変著名な研究者です。
「正倉院文書と木簡の研究」「日本古代木簡の研究」「日本古代金石文の研究」などの著作で知られています。
その東野氏の問題提起ですから、センセーショナルで注目を浴びる出来事であったのではないかと思います。

東野氏は、それまでにも、
「野中寺像は、その銘文も含め7世紀末ごろに作られた可能性が大きい。」
(「正倉院文書と木簡の研究」1977.9塙書房刊所収)
と述べていましたが、
そんなレベルの異説どころではなく、これまでの美術史の定説を根本から覆させるものでした。

私には、古代金石文学とか文字資料学といった話は、全くわかりません。

東野氏の論文の結論部分の処をそのまま転記すると、このように述べられています。

「造像銘の撰文時に空白符が使われているという特異さと、右述のような特徴を総合すれば、この銘文は古写本や古代の暦注・文章・書風などに詳しい人物によって後代に撰文されたと考える余地もあるのではなかろうか。
・・・・・・・・・・・・・
もしそうであるとすれば、撰文の年代は極めて新しいことになる。
もちろん理屈の上では、古い銘文が伝えられていて古像に追刻されるということも想定できるが、銘文の書風は伝聖徳太子筆『法華義硫』のそれに極めて近い。
このような書風に則って刻銘することが、中世や近世前半になされるとはまず考えられないであろう。

しかも十二直の知識が再発見されるには、明治末年の山田孝雄の研究を俟たねばならなかった。
銘文が新たに撰文されたとすると、その時期は野中寺像が、学界や世間に知られるようになった大正7年(1918)に比較的近い時点とならざるをえない。

私自身、空白符の問題に思い至るまで、本銘文は古代のものとして何ら疑ったことはなかった。
現時点でこれを偽銘と断じる気は更々ないが、これまで説き来たった通り、この銘文に奇異な点が残るのは打ち消しがたい。
仄聞するところでは、美術史研究者の中にも、野中寺像そのものの制作年代を疑う意見があるという。」

また、東野氏は、冒頭の「丙寅年四月大八日癸卯開記」のを「旧」と読み、元嘉暦(旧暦)と儀鳳暦(新暦)の併用された持統4年(690)以前の銘ではありえないとしました。

これに対して、この後の論争でご紹介する、麻木脩平氏は、
「野中寺弥勒菩薩半迦像の制作時期と台座銘文」(『佛教美術』256号 2001年5月)
で東野氏に反論し、
銘文の(旧)を「朔」と読み、像の作成直後に入れられたものと主張しています。

この論旨、お判りいただいたでしょうか?
私には難しすぎて、全く理解できません。
ただ、東野氏が、銘文は明治末年以降の偽名・追刻、仏像は後世の擬古作という疑問を提起していることは、間違いありません。


野中寺像の制作年代を、擬古作とか、現代の偽作である可能性について、美術史の世界で論じられたものはみたことがありませんが、疑問を感じられていたこともあったのかも知れません。

「日本仏像史」(2001年美術出版社刊)に、こんなことが書かれていました。

「しかし、野中寺像については最近、銘文内容に若干の疑問がもたれ、発見の経緯にも疑問があるなど、なお検討すべき点が残される。」(浅井和春氏執筆)


〈論争の展開と深められた検証研究~近代擬古作の疑問払拭へ〉

この、東野治之氏の論文の問題提起を発端に、野中寺の銘文と制作年代についての論争や、検証研究が行われました。
目についた関係論文をピックアップしてみると、こんな感じです。

・野中寺弥勒半跏像の制作時期と台座銘文(麻木侑平)仏教芸術256号2001.5

・野中寺弥勒像銘文再説~麻木侑平氏の批判に接して(東野治之)仏教芸術258号2001.9

・再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず(麻木侑平)仏教芸術264号2002.9

・野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証(松田真平)仏教芸術313号2010.12

・野中寺菩薩半跏像をめぐって(礪波恵昭)「方法としての仏教文化史」2010.11勉誠社刊所収

・野中寺弥勒菩薩像について(藤岡穣)ミューゼアム649号2014.4

このように、続々、研究論文が発表されました。
論争もありましたし、実証研究も行われました。

東野氏の疑問、問題提起を契機として、新たに野中寺弥勒半跏像の研究が、より一層深められることになったといって良いのでしょう。


昨年4月には、大阪大学大学院助教授の藤岡穣氏によって、野中寺像を多面的に検証した研究論文が発表されました。
この論文、「野中寺弥勒菩薩像について」は、野中寺像の伝来をめぐる問題、蛍光X線による科学的組成分析、様式検討、銘文検討などを総合的に検証研究した、大変充実した論文です。

この論文で、藤岡氏は、野中寺像を、
「銘記の丙寅年を、666年と解釈し、それを制作ないし銘記鐫刻の時期とみなすのが妥当」
と結論付けています。

この研究成果によって、「偽銘、偽作(擬古作)」という疑問は、払拭され、白鳳期の仏像と考えてよいとされるようになったのではないかと思います。


その論拠のポイントは、どんなものであったでしょうか?

野中寺像が、近代の偽作(擬古作)ではないかという疑問を解いていくには、
「そもそもこの野中寺像の存在が、記録上、何時頃まで遡れるか」
ということが、最重要問題となります。

先にもふれましたが、江戸後期、享和元年(1801)に刊行された「河内名所図会」の野中寺の条には、
「経蔵  又弥勒佛金像を安置す。これは聖徳太子悲母追福の為に鋳させられし霊尊也」
と記されています。

「河内名所図会」の野中寺の条「河内名所図会」の野中寺の条・詞書
「河内名所図会」の野中寺の条~詞書の経蔵のところに「弥勒金仏」についての記述がある
この弥勒金仏像が現存野中寺弥勒象かどうかの議論があった



この「弥勒佛金像」が、現在の弥勒半跏像と同一であれば、江戸後期には当該像が間違いなく存在していたこととなり、少なくとも近現代の偽作(擬古作)とは考えられないことになります。

麻木侑平氏は、
本論争の中で、「河内名所図会」にあえて「弥勒佛金像」と記しているのは、台座銘に弥勒という文字が刻まれていたからと考えるのが自然として、現存像のことを指していると主張しました。

一方、東野治之氏は、
「河内名所図会」に記される「弥勒佛金像」に銘文があったのならば、作者は必ずそのことに言及している筈である。
図会に銘文についての記載がないので、現存像とこの「弥勒佛金像」を結びつけることはできないと、主張しました。


やや水掛け論的に膠着していたこの問題に対して、藤岡氏は、新史料を提示し、一つの結論を示しました。

藤岡氏は、これまで未紹介の野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」という文書に、
「弥勒大士金像坐身長八寸聖徳太子為悲母而鋳之 有銘
と記されていることを見出したのです。
この目録は、元禄12年(1699)に記されたものです。

野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」
野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」
右から3行目に「弥勒大士金像坐身長八寸聖徳太子為悲母而鋳之 有銘」の記述がある


この目録にある「弥勒大士金像」には、はっきりと「有銘」と記されているのです。
従って目録記載の像が、現存の弥勒半跏像であることは、間違いないと考えられることを指摘しました。

この新史料の発見により、現存像は、元禄年間に存在し、刻銘のあったことが明らかになったのです。
また、大阪府八尾市の「下之太子」大聖勝軍寺の如意輪観音半跏像が、寛文5年(1665)の再興造像時に、衣文、文様などを現存野中寺弥勒像から模刻しているとみられると想定しました。

大聖勝軍寺・如意輪観音半跏像..野中寺・弥勒半跏像
大聖勝軍寺・如意輪観音半跏像(左)と野中寺・弥勒半跏像(右)

この事実によって、現存像が、近現代の「偽銘、偽作(擬古作)」ではないことが、明確になったといって良いと思われます。

今般の奈良博「白鳳展」の図録でも、このように解説し、擬古作説を否定しています。

「刻銘をめぐっては従来さまざまな疑義が呈され、像そのものを近代の作とみるむきもあつた。
これに対し、近年の研究で元禄12年(1699)成立の『青龍山野中律寺諸霊像目録』に『弥勒大士金像』の文言が見出され、大阪・大聖勝軍寺で江戸時代の作とみられる本像の模刻像が再確認されたことにより、少なくとも擬古作との疑念は払拭された。」


藤岡氏は、このほかにも、
・蛍光X線による科学的組成分析の結果、青銅の成分は日本の古代金銅仏として許容範囲内にあること。
・細かな技法的を検討しても、擬古作とは考えられないこと。
・様式的には、随様式を基調としつつ、北斉様式との関連を想定すべきだと思われること。
などを示して、
野中寺弥勒半跏像は、白鳳期、天智5年(666)の制作、刻銘も制作当時とみて良いとの結論に達しています。



【おわりに】

センセーショナルとでも言ってよい、野中寺像擬古作、偽銘追刻問題でしたが、数々の論争、研究を経て、「白鳳初頭期の基準作例」という、元の鞘に戻ったようです。

この問題提起、大波乱といった様相でしたが、それにより論争が起こり、より深い実証研究がすすめられ、野中寺像についての研究が進展した、また白鳳期の金銅仏研究が深められたという、大きな成果があったのではないかと思います。


近年の擬古作、偽銘問題のいきさつをたどってみましたが、話のまとめ方があまりにも拙劣で、よくお判りにならなかったことと思います。
金石文解読、検証などといった分野は、ど素人も良いところで、研究論文を読んでいても、何が何だか全くわからず、参ってしまいました。
何が云いたいのか、何が論点なのか、整理できないまま、つまみ食い的にポイントを羅列しただけになってしまいましたが、何卒、ご容赦ください。

こんな問題提起、論争があったことを知っていただければ、それだけで有難く思います。



駆け足でしたが、野中寺弥勒半跏像の発見物語、その真相と背景、近年の擬古作・偽銘論争などを振り返ってきました。

このテーマ、調べれば調べるほど、ドラマチックなサスペンスやミステリーになかに身を置いているような思いに駆られます。
何やらドキドキ、心ときめくようで、「歴史探偵になったような気分」とでもいうのでしょうか?

野中寺弥勒像の姿を眺めていると、そんな発見物語や、擬古作論争などがあったことなど、知るや知らぬや、穏やかな表情を、こちらに投げかけています。
我々観るものを、やさしい雰囲気に包みこみ、親しみを与えてくれるようです。

野中寺・弥勒半跏像
野中寺・弥勒半跏像

奈良博・白鳳展では、もう一体の丙寅銘像「法隆寺献納宝物156号像」と並んで展示されていました。

法隆寺献納宝物156号・丙寅銘菩薩半跏像
法隆寺献納宝物156号・丙寅銘菩薩半跏像

こちらの丙寅銘は「606年」なのでしょうか?「666年」なのでしょうか?
皆さんは、それぞれにお考えをお持ちのことと思います。
こうして並べられると、今更ながらにいろいろと考えさせられてしまいます。

野中寺像のミステリーのような物語を振り返りながら、この二つの「丙寅銘像」を鑑賞いただければ、白鳳とはどのような時代であったのだろうかという思いも、より深まるのではないでしょうか。


コメント

美術史の論争について思うこと

久しぶりに投稿します。
私もこの野中寺弥勒擬古作論争についてはずっと気になっていました。仏教芸術掲載の論文もいくつかをざっと読みましたが、古代の文字や用語の意味の議論は難し過ぎて全く理解できなかったので、どちらが正しいのか判断できませんでした。
今回管理人様には素人にも分かりやすい解説をしていただき、スッキリしました。ありがとうございます。

論争によって研究が深まるということで思い出すのは、以前仏教芸術誌上で争われた「興福寺大仏師職」の論争です。この中で記憶に残っているのは、論文の内容ではなく、「この説に対して誰も反論しないと、それが定説となってしまうことを危惧する」という一文です。今回の野中寺の件では、お寺側も調査にかなり協力したのではないかと思います。それが資料の新発見につながったのでしょう。

一方で、美術史研究者側の気がつかない点を別の分野の研究者が指摘するということも大切なことと思っています。この件で思うのは神護寺の源頼朝画像の論争です。最近では教科書の写真も伝頼朝像と書かれたり、甲斐善光寺の頼朝彫刻を使うようになったようです。また、昨年「日本歴史」誌上に載った「運慶願経の女大施主阿古丸」の新解釈も印象に残っています。この説が正しいかどうかは分かりませんが、なるほどと思う点は多々ありました。著者は美術史専門家ではないようで、今後美術史研究者側からの反論(または賛同)が待たれます。

仏像彫刻分野のうち私が調べている鎌倉初期の像では、新発見により定説が書き換えられるということがよくあります。上記の藤岡氏(今は教授です)による「本来の興福寺南円堂四天王の発見」(国華)もその一例です。昭和40年代発行の岩波六大寺大観の興福寺では中金堂四天王の年代を鎌倉中期としていますが、今は康慶一門の南円堂四天王であることを疑う人はいなくなりました。同様のことは運慶周辺だけでも光得寺大日如来、光明院大威徳明王、興福寺木造仏頭、吉野如意輪寺の蔵王権現など多数あり、また、最近は年輪年代による木材伐採年の確定ということもあるので、定説が覆されることも多いと思います。

これらのことで思うのは、美術史家の考える様式・年代というのはある意味でいい加減だということと、研究者も後で新発見があると間違っていたことが分かるので大変だということです。(いい加減というよりも、正確に年代判定をするのはそれだけ難しいということかもしれません。その点、素人はもともと権威も責任もないので、好きなことを言ってもいいから気楽です。)

今後もこのような最新の論争について分かりやすく解説していただけると助かります。また、次のブログの龍角寺金銅仏の発見物語のように、あまり紹介されたことのない話はとても貴重に思います。私も12世紀半ばから100年間ぐらいの鎌倉初期を中心とした彫刻に関する論説についてはウォッチしているつもりですが、それ以外の時代のことはほとんど追いかけていませんので、このブログに期待しております。東大寺法華堂修理に伴う不空羂索観音、日光・月光菩薩・戒壇院四天王についての新説(仏教芸術の奥氏の論文は一応読みましたが)及び(もし出ているなら)それに対する反論など、詳しくご存知でしたらお願いします。

  • 2015/08/22(土) 22:46:58 |
  • URL |
  • むろさん #6GgKOieI
  • [ 編集 ]

Re: 美術史の論争について思うこと

むろさん様

コメントいただき、有難うございます。

先週土曜(8/22)に、奈良博・白鳳展に行ってきました。
公開講座で、藤岡 穣氏の「東アジアのなかの白鳳仏」 という講演がありましたので聴いてきましたが、その中で野中寺像の制作年代問題について詳しく、時間をかけてのご説明がありました。
私には、良いタイミングで、興味深く勉強させてもらいました。

仏教美術史の諸論争、新研究について、大変詳しく専門的に、論文等に目通され把握されておられ、敬服の至りです。
私などは、なかなか勉強が至らず、素人のつまみ食い程度といったところで、勘弁願っている処です。

この観仏日々帖も、いわゆるガイドブック的解説書では少々飽き足らなくなってきた仏像愛好の方の、「もう一味のご興味ご関心に、ちょっとお役にたつHP/ブログ」ということになればという気持ちで、掲載させていただいております。

野中寺弥勒像発見物語では、話しのスジのいきさつ上、近年の研究論争の話に踏み込んでしまいましたが、難しい研究論争や論文の世界に踏み込み過ぎないで、なるべく平易で興味関心を持っていただけるように努めたいと思っております。

そんなところですが、これからもご覧いただけますよう、よろしくお願いします。

管理人

  • 2015/08/25(火) 18:59:53 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

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