観仏日々帖

古仏探訪~国東市国見町の古仏たち(平等寺、万福寺、千燈寺の如来像)  【2015.5.16】


前回に引き続き、宇佐、国東方面の古仏をご紹介してみたいと思います。

今回は、国東半島の知られざる古仏のご紹介です。

国東の仏像と云えば、まず思い浮かぶのは、真木大堂の阿弥陀如来、大威徳明王などの諸仏、富貴寺の阿弥陀如来像、長安寺の太郎天像あたりでしょう。
あとは、熊野磨崖仏の巨大石仏といったところでしょうか?

今回の国東探訪では、こうした有名諸寺も訪ねたのですが、国東半島を代表する諸仏像は、ガイドブックや解説書に良く紹介されていますので、「観仏日々帖」では、有名仏像はスキップして、国東半島の東北端にある国見町の古仏を採り上げてみたいと思います。

ご紹介するのは、国東市国見町にある、平等寺講中の釈迦如来像・二天像(平安時代)、万福寺の薬師如来像(平安時代) 、千燈寺の如来形像(鎌倉時代)です。
共に、県指定文化財に指定されています。

国東半島と国見町
国東半島と国見町エリアのイメージ

国見町というのは、国東半島の東北のはずれにあたるところで、国東観光に出かけられる人もなかなかそこまで足を伸ばす方は少ないかもしれません。
私も、国見町のこれらの古仏については、全く知りませんでした。
国東で、一見に値する平安古仏はないかと、「大分の古代美術」という本を調べていたら、平等寺講中と万福寺の古仏の写真が目にとまりました。
折角、国東半島まで出かけるのだから、思い切って訪ねてみようかと、足を伸ばしたのでした。


【平等寺講中の釈迦如来像を訪ねて】

まずは、平等寺をめざします。

平等寺(講中)は、国東市国見町野田という場所にあります。
国東半島のメイン、富貴寺からは、車で30分ほど北東へ走ったあたりです。
観光ルートからは完全に外れていて、随分鄙の地まで来た感じで、のどかな山村が続きます。

「平等寺講中」という名称でご想像がつくように、今は無住で、地区の講中の方々によって管理されています。
国東市の教育委員会のご担当の方にご連絡して、拝観お願いの労をとっていただきました。
教育委員会の方に頂いた地図をたよりに、県道からほど近いところの「平等寺入口」と書かれた標識を見つけました。
そこから橋を渡って曲がりくねった細道をしばらく登って行って、やっと小さなお堂に辿りつきます。
収蔵庫を兼ねた簡素なお堂で、一見、集会所のような建物です。
入り口には、「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」というちょっと古ぼけた木札が懸けられていました。

平等事講中のお堂..「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」の札
平等事講中の簡素なお堂と、「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」の木札

お堂のなかには、講中の女性が二人、我々をお待ちいただいておりました。
わざわざ、お堂を開いてご準備いただいたことにお礼を申し上げ。早速ご拝観です。

堂内に安置されている平等寺諸仏
堂内に安置されている平等寺諸仏

仏像は、お堂の正面奥に、並んで祀られています。
まずは、釈迦如来坐像のご拝観です。
像高82.5cm、カヤ材の一木彫で、内刳りは施されていません。

平等寺・シャカ如来坐像
平等寺・釈迦如来坐像

如何にも平安の地方作の如来坐像といった雰囲気です。
地方作ではありますが、一見してなかなか優れた出来の仏像であることが判ります。
平安前期のダイナミックさやボリューム感は薄れてしまっていますが、いわゆる定朝様の藤原仏のような様子はまだ感じられません。
丁度その中間のような感じです。

平等寺・釈迦如来坐像

平等寺・釈迦如来坐像..平等寺・釈迦如来坐像
平等寺・釈迦如来坐像

お顔の造形をみても、藤原の円満相ではなく、けっこう鼻筋がしっかり通ってキリリとした表情です。
野趣を感じさせる風貌でもあります。

平等寺・釈迦如来坐像~顔部..平等寺・釈迦如来坐像~顔部
平等寺・釈迦如来坐像~顔部

造形を見ると、上体は割合薄めに造られていて、厚みやボリューム感は感じられませんし、衣文の彫りもさほど凌ぎは立てず丸みを帯びたものになっています。
しかし、定朝様の仏像にみられるような、ととのえられた浅い衣文線の処理というのではありません。
シンプルな衣文の処理ですが、それなりのダイナミックさが表現されているように思われます。

平等寺・釈迦如来坐像~衣文
シンプルだがダイナミックさを感じさせる衣文の彫り口

全体の造形や衣文の表現から受ける印象は、「モッチリした」とか「ムッチリした」という言葉が似合うような、粘りのある造形表現、彫口のように感じられました。
ボリュームある造形ではないのに、「軽量感」は感じません。
むしろ、力感があるというか、「質量感」を感じさせます。
この像が、カヤ材の一木彫で、内刳りも施さないという造形であるから、そう感じさせるのでしょうか?


この釈迦如来坐像を拝していると、「平安彫刻の地方伝播」という彫刻史の教科書のひとつの典型を見ているような気になってきます。

中央の彫刻をたどると、平安中期になると、平安前期彫刻の塊量感、森厳性、鋭い彫口がだんだん失われ、落ち着いたバランス感重視の穏やかさを強調する表現になっていきます。
そして平安後期には、定朝様といわれるような整った均整な優美さや軽量感を感じさせる表現へと展開していきます。

平等寺の仏像をみると、それらの要素が折衷され混ざり合っているようです。
上体や造形バランスは平安中後期のボリュームを抑えた穏やかな表現となっているのですが、
顔貌のキリリとした表現、モッチリムッチリした質感ある彫り口に、平安前期の余風を残しています。
膝前も、そこそこのボリューム感です。
それに、地方特有の、野趣、田舎臭さがミックスされています。
古様がミックスされた、出来の良い地方仏の典型といって良いように思いました。

脇侍の二天像も、なかなかの出来で、本尊と一具とみられているということです。

平等寺・二天像
平等寺・二天像


〈平等寺・釈迦如来像の制作年代は〉

これらの仏像の制作年代は、どのように考えられているのでしょうか?

実は、脇侍の文殊菩薩像の像底に、後補の近世の追銘ではありますが「康平7年」(1064年)の墨書が見つかっています。
この墨書を全面的に信用することはできないのですが、何らかの拠り所があって記されたのかと思われています。
釈迦如来像の造形の印象も、その頃の制作と考えると、ぴったりという感じもします。

この像を採り上げた本を見ると、このように解説されています。

「面長の相好で、丸昧の強い両肩、厚い膝、中尊の左肩から垂れる納衣の端の折り返しなどに古様がみられ、郷山には一木造りで地方色の濃い仏像が多く伝わるが、その中の典型的な佳作ということができよう。」

(「大分の古代美術」岩男順氏執筆、大分放送1983刊)

「高めの肉髻、厚い膝、中尊の左脇の衲衣の折り返しなどに古様が見られ、後世の追銘であるが、文殊像像底の康平7年(1064)の墨書銘を首肯させるものがある。
一木造の地方色の濃い国東平安仏の中にあって、最も古様かつ典型的な作例といえよう。」

(「大分県の文化財」大分県教育委員会1991刊)

いずれにせよ、11世紀初頭ごろ当地で製作された出来の良い像で、真木大堂や富貴寺の仏像に先立つ、国東半島最古級の木彫像ということになろうかと思います。


〈盗難に遭い、行方知れずの両脇侍像〉


両脇侍が失われた平等寺釈迦三尊像
両脇侍が失われた平等寺釈迦三尊像

ところで、仏像が祀られている写真をご覧になってお気付きかもしれませんが、釈迦如来像の両脇侍、普賢菩薩、文殊菩薩像の姿が見えません。
仏さまを乗せていた、獅子と象の像が置かれているだけです。

平等寺釈迦三尊像~盗難前の姿
平等寺釈迦三尊像~盗難前の姿

実は、この両脇侍は、平成6年(1994)に盗難に遭い、未だに行方知れずになっているのです。
誠に、残念なことです。
今は、防犯のため、仏様の前面に鉄格子の扉が取り付けられています。
拝観に際して、扉の鍵を外して、開けていただきました。

やはり、無住のお寺は、このように盗難の危険にいつもさらされているということなのでしょう。
博物館などに寄託すれば、盗難リスクは回避されるわけですが、地域の住民の方々にとってみれば、この地に在ってこその村人を守る仏様であるわけで、信仰と文化財のハザマの問題は、なかなか難しいのだと思います。


〈平等寺、近年の歴史を振り返る〉

この平等寺の仏様も、近年の歴史をたどると、このようないきさつがありました。

平等寺は、江戸中期に衰微一度無住となり、その後一時期、寺運を持ち直したものの、明治 大正へと近代化の激浪の中で再び無住、廃屋の様相を呈してしまいました。
仏像を安置するのも厳しいというような状況に至り、昭和45年(1970)に、釈迦三尊像、二天像は京都国立博物館に委託保管されることになりました。
地方作の平安古仏で、釈迦、普賢、文殊の三尊がそろった仏像は珍しく、京博展示室に展示されていたということです。

博物館に大切に保管されておれば、管理という意味ではこの上ないのですが、当地国見町野田の人々にとってみれば、先祖代々苦楽を共にしてきた村の仏さまを、遠く持ち去られていることは淋しいかざりです。
また、土地の人々を守っていただける仏様でもあります。
そこで昭和47年(1972)、地元の人々は力を合わせて浄財を募り、また県や町の援助も得て収蔵庫の釈迦堂を新築し、これらの仏像の里帰りを実現したのでした。
釈迦堂を守る村の講中が中心となって、仏様をお祀りし、管理をしていくようになりました。

昭和54~55年(1979~80)には、顕彰会の援助によって、大修理もされたようです。
この大修理の時に、文珠菩薩像像底に康平7年(1064)の墨書銘があるのが発見されたのです。

ところが、仏様の里帰りを実現したことがアダとなってしまったような、盗難事件が起こってしまいました。
平成6年(1994)、普賢、文殊菩薩の両脇侍像が、盗み取られてしまうという災難に遭ってしまったのでした。
盗難後の二菩薩像の行方は杳として知れず、残念ながら行方不明のままだということだそうです。

ご拝観の段取りをいただいた女性方にお話をお聞きすると、昔は、諸行事も行われ、釈迦堂へお参りする人も頻繁であったが、土地在住の人々が減るようになり、高齢の方が多くなるにしたがって、このお堂を訪れる人も無くなりがちだそうです。
長い坂を登って、ポツンとたてられたこのお堂まで歩いてお参りするのは、高齢の方には結構きつくて、訪れる人も本当に少ないということの様でした。
この日は、我々が来るというので、わざわざ講中の女性方がお堂まで赴いて、鍵を開けてお待ちいただいたということでした。

こうした無住のお堂の文化財を、過疎化、高齢化が進む地で、村人の手で守っていくということが、そう簡単なことではなく、本当に難しい時代になったのだなと、実感した次第です。



【万福寺・薬師如来像を訪ねて】

次に、国見町櫛海にある万福寺・薬師如来坐像をご紹介します。

万福寺は、平等寺から車で15分ぐらいのところにあります。
もうあと2キロほど行けば、国東半島の東北の先端の海岸という場所です。
平等寺は、民家から離れた高台山中にポツリとありましたが、万福寺さんの方は村落の民家に軒を並べてありました。
国東特有の、石造の仁王像が立つ山門をくぐると、簡素な本堂があります。
村落の人々と共に在る鄙びたお寺という感じです。

万福寺山門の石造仁王像

万福寺・本堂
万福寺山門の石造仁王像と本堂

ご本尊の薬師如来像は、普段は年2回のご開帳の時だけしか拝観が叶わないようですが、国東市の教育委員会のご担当から拝観のお願い連絡をしていましたので、ご住職がご拝観の段取りをしてお待ちいただいていました。

早速、薬師如来像のご拝観です。
本堂中央の立派な厨子内の少し高いところに、お祀りされています。

本堂に祀られた万福寺・薬師如来像

万福寺・薬師如来像...万福寺・薬師如来像
本堂に祀られた万福寺・薬師如来像

像高71cm、カヤ材の一木彫で、内刳りはされていません。

この薬師像については、解説書には、このように記されています。

「大粒の螺髪に肉厚のモデリングなど古様であるが、丸顔の面相は穏やかな童顔に表わされ、腹前から両膝に至る翻波風の衣文も形式化が著しい。
平安前期木彫の伝統を受け継ぎながらも、和様化と形式化が進んだ12世紀前半の造立であろう。」

(「大分県の文化財」大分県教育委員会1991刊)

万福寺・薬師如来像
万福寺・薬師如来像

「衣文の彫りには簡略化が見られる。
衣のひだは溝状に刻み込むが、ひだとひだの間には小さく降起を見せる。
これはいわゆる貞観彫刻にみられる翻波の彫法を踏襲しているものである。
特に膝のひだを平行楕円曲線に表わしているのが目につく。

これは奈良元興寺や、京都神龍寺薬師如来保など9世紀仏像の大腿部のひだの表現に見られるものと同様なものであるがそれを、著しく形式化したものである。
8世紀末唐招提寺旧講堂如来立像に始まり、9世紀に盛んに行なわれた様式が地方に伝わりその終末を示す資料としても興味深いものがある。
しかしながら左肩を覆う衣の端の折り返しの軽妙な彫法などには、地方仏師の創意工夫の跡が見られる。
彩色はわずかに白下地を残す他は、ほとんど剥落している。
・・・・・・・・・・・・・・
総体的に形式化が明らかであるが、
いかにも地方作らしい素朴さの中に、どっしりと落着きを示す特色ある作である。制作年代は平安末期と推測される。」

(「大分の古代美術」岩男順氏執筆、大分放送1983刊)

眼近にじっくりと拝させていただきました。
たしかに、造形や表現は、解説にあるとおりの平安古仏だなと感じました。

平等寺の釈迦像が、平安前期の余風を残しながら、その造形が地方化、形式化していった、11世紀初頭の地方の一木彫像の典型的な像だとすれば、
この万福寺像・薬師像はその地方化と形式化が、更にもう一歩進んで、温和さ、穏やかさがも増してきた11世紀末~12世紀の国東地方の地方作古像ということになるのでしょう。

地方作の匂いがくっきりと漂い、「国東半島の地に在る古仏」という表現がピッタリくる仏様だなと思いました。

この仏様は、海底から出現したという「海上渡来の伝承」があるそうで、古来、近郷の人々の厚い信仰を受けてきたとのことです。
彩色像であったのでしょうが、いまは素木像のようで、手先も亡くなっています。
お顔も、穏やかな童顔のような優しさをたたえています。
そうした飾らぬ素朴さが、この古仏の魅力といえるのでしょう。
素晴らしく出来がよい像というのではないのですが、「飾らぬ素朴さ」に何とも言えない親近感を覚えてしまいました。

美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像

美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像...美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像
万福寺で拝見した、美しく撮影された薬師如来像の写真

いつもはインパクトのある仏像に惹かれてしまうのですが、万福寺・薬師如来像を拝して、何やら、国東・国見町の山村風景の雰囲気のような、のどかで優しい気持ちになりました。



【千燈寺・如来坐像を訪ねて】

国見町の古仏ご紹介の最後は、千燈寺・如来坐像です。

千燈寺には、鎌倉初期の県指定文化財の如来坐像が祀られているということでしたが、スケジュールの都合もあり、鎌倉期の像でもありということで、パスをするつもりでした。

県道31号山香国見線を走って、平等寺へ向かって車を走らせていたところ、県道沿いの左手に千燈寺が見えてきました。
天台宗六郷満山・千燈寺と刻された大きな石碑が見えます。
少し時間もあるので、ダメもとでご拝観をお願いしてみようと、山門をくぐりました。

千燈寺・山門

千燈寺・本堂
千燈寺・山門と本堂

本堂には誰もいらっしゃらないようで、あきらめかけていた処、地元のウォーキング・ハイキングかと思われる10~20人の団体さんがやってきました。
これはラッキーと後ろについて、お堂に上がりました。

団体のリーダの方のお話では、
「御住職は行事があって留守にされており誰もいないのだが、我々が来るということで、仏像をはじめ寺宝をお堂に並べておいていただいているんですよ。」
ということだそうです。

堂内に取り揃えられた千燈寺の宝物
本堂内に並べられた千燈寺の寺宝

お目当ての如来坐像も、本堂内に台が置かれて、祀られていました。

我々は、拝観が叶いラッキーだったのですが、開け放たれたお堂にこんなに無造作に置かれていて、防犯上大丈夫なのでしょうか?
のどかな山村ならでは、ということなのかもしれませんが、本当に心配になってしまいます。


それはさておき、仏像のご拝観です。
像高51.5cm、ヒノキの寄木造の漆箔像で、鎌倉初期の制作とされています。
左右2材を頭体の正中線で矧ぎ、頭部を割り首にしているということです。

千燈寺・如来坐像

千燈寺・如来坐像
千燈寺・如来坐像

小ぶりで、可愛らしいという雰囲気の仏像です。
定朝風の典型のようなお姿をしていますが、よく見ると、体躯、肉取り、衣文の処理に鎌倉の空気感をはっきり感じさせます。
両手先が欠失しており、当初の尊像名が良く判らず、「如来坐像」という指定名称になっています。
「キリリとした少年の、清新な空気感を感じさせる」
とでもいうのでしょうか?
小品ながら可愛くすっきりした古仏という印象でした。

千燈寺・如来坐像...千燈寺・如来坐像
千燈寺・如来坐像

千燈寺は、かつては六郷満山の大寺で、16の末寺を有し六郷満山の中核を成す寺院として栄え、「西の高野山」とも称されました。
天正年間に大友宗麟による焼き討ちに遭って大規模な伽藍は焼失し、文禄年間に再建されたものの往時の繁栄を取り戻すことはなかったということです。
現在の千燈寺は、旧千燈寺の坊が昭和初期に山麓に移転したもので、旧千燈寺址は六郷満山ふれあい森林公園として整備されているということです。
現在は、国東六郷満山霊場第二十三番札所になっています。

この仏像は、元々千燈寺の末寺の法教寺(下払坊)の本尊であったのですが、後に旧千燈寺本堂に安置され、さらに本堂の破損がひどくなったため、現在の千燈寺に移されたということのようです。


今回は、国東市の東北端、国見町の古仏を三躯ご紹介しました。

皆、如来坐像のご紹介でしたが、こうして順にみていくと、平安中後期から鎌倉へと変化していく、国東の地方仏の有様の典型を見ているように感じました。

地方特有の野趣や土臭さの匂いをしっかりと刻みこんで、のどかな親近感を発散させているようです。


国東・国見町の古仏を訪ねて、何やらホッとしたような、ほのぼのしたような、そんな優しい気分になることが出来ました。



【追加の写真掲載】

コメントにてご確認のありました、平等寺釈迦如来坐像の趺坐の様子を別の角度から撮った写真です。
ご参考までにご覧ください。

平等寺釈迦如来坐像の趺坐の様子

コメント

平等寺講中の釈迦如来像

ご無沙汰しております。
いつも「観仏日々帖」を拝見しております。
平等寺講中の釈迦如来坐像の写真を見て、半跏趺坐の様に見えましたが、実際はいかがでしたでしょうか?
一般的には、10世紀中頃から、半跏趺坐は消滅していくはずなのですが、11世紀の作例で、半跏趺坐だとすると、大変珍しい例となります。
先日、成城大学での「仏像と木の交流」シンポジウムに出かけてきました。残念ながら、お会いできませんでしたが、その感想も「観仏日々帖」でお聞かせいただけたらと思います。

Re: 平等寺講中の釈迦如来像

> 加藤春秋様
>
> ご覧いただき有難うございます。
>
> 平等寺講中の釈迦如来坐像の趺坐の様子ですが、ご指定のように「半跏趺坐」で間違いないように思います。
> 別の角度から撮った写真でも、半跏のように見えます。
> ご参考に、写真を追加掲載させていただきましたので、ご確認いただければと思います。
>
> この釈迦像の造形を見ると、11世紀中頃あたりが穏当なところかなという感じです。
> 盗難で失われた文殊菩薩像底の、後補の近世追銘「康平7年」(1064年)の墨書も、それなりのよりどころがあったのではと思わせます。
> 地方の造像では、年代が下がっても古様が残されるというケースなのでしょうか?
>
>
>
> 成城大学「仏像と木の交流」シンポジウムは、私も出かけました。
>
> 大変、興味深く聴かせていただきました。
> これまでに各所で発表されていること以上の、新たなお話はあまりなかったような感じでしたね。
>
> 奈良末平安初期から「カヤ」材を用いられた事由、とりわけ「なぜカヤ材だったのか」というテーマの話がされていましたが、「時代時代に求められた造形表現に最もマッチした樹種の持つ特性」という観点からの言及・議論がもう少し聞いてみたかったというように思いました。
> たとえば、素木・緻密・シャープな造形に最適はカヤ、寄木造(割裂性)・漆箔・穏やかな造形に最適はヒノキ、といった造形上の要請に対応した適材選びとか、
> 工具(ノミ)の、時代による技術的発展と用いられる用材樹種との関係、
> といったような観点のテーマの話についてです。
>
> いずれにせよ、私には、大変興味関心のあるテーマで、これからの研究成果がますます愉しみです。
> ちょっとマイナーなテーマですのに、大変多くの一般の方々が来られて聴講されておられ、熱心な方々が多いなと感じた次第です。
>
> 管理人

  • 2015/05/19(火) 07:10:43 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

古様を残した地方仏

精力的な九州の仏像めぐりに驚かされます。

ぎこちない衣紋線がいかにも地方仏という感じです。都の仏像の衣紋の美しさとは全く違いますが、味があってとても良いですね。
解説文にもありますが、万福寺の薬師如来像の左肩の折り返しの様子がとても珍しく、地方仏師の創意工夫というところがまた惹かれます。

他方、千燈寺・如来坐像はきりりとしたお顔がいかにも鎌倉仏です。鎌倉時代は、仏像様式が地方に伝わるスピードが相当早かったんだろうなということを想像させました。

まだまだ地方を回られる予定でしょうか。
興味ふかい仏像の紹介を楽しみにしています。

  • 2015/06/14(日) 20:48:44 |
  • URL |
  • とら #VBkRmpN2
  • [ 編集 ]

Re: 古様を残した地方仏

とら様

コメント有難うございます

地方の仏像は、時代が下がってもずいぶん古様を残しているものも多いようで、なかなか面白いですね。
その鄙びた感じというか、土臭い感じが、また魅力です
古様がみられる像を、地方だから時代が下がるとみるのか、実は結構古いとみるのかは、いつも悩ましいというか、考えてしまいます
そんなところがまた、地方仏探訪の魅力、愉しみと感じています

結構、各地回っているのですが、ご紹介が追い付かなくて・・・・・
という処です
よろしくお願いします

管理人

  • 2015/06/19(金) 19:41:18 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

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