観仏日々帖

トピックス~立山神像の数奇な物語を振り返る・重文指定名称変更によせて(その2)【2015.4.25】


〈その1〉は、立山神像・帝釈天像の流転と里帰りの物語でしたが、
〈その2〉では、本像の重要文化財指定名称が、「銅造男神立像」から「銅造帝釈天立像」に名称変更された話についてふれてみたいと思います。


【「男神立像」から「帝釈天立像」への指定名称の変更】

今年(2015)、3月、富山県文化振興課(立山博物館)は、「立山神像の名称変更のプレス発表」を行いました。
ご覧のようなニュースリリースです。

富山県文化振興課(立山博物館)の、「立山神像の名称変更」のニュースリリース

文化財指定名称の変更というのは、そう多くあることではないのだと思います。
指定名称が正式に変更されるということは、本像が帝釈天像であるというのが有力な説というのではなく、研究成果によって実証されたということなのだと思います。

ニュースリリースには、このように記されています。

「このたびの名称変更においては当館学芸員の地道な調査研究が認められ、文化庁文化審議会の答申にいたったものであります。」

この調査研究の成果については、(その1)の冒頭でご紹介した、
2014年10月、立山博物館開催の「立山と帝釈天」展図録に、詳しく掲載されています。
この図録は、所謂展覧会図録という内容ではなく、立山神像と立山帝釈天信仰についての研究論集ともいえる、密度、濃度の大変濃いものとなっています。
図録の目次をご覧いただければ、その充実度が想像いただけると思います。

「立山と帝釈天」展図録の目次

「立山と帝釈天」展図録の目次~掲載論考


なかでも、

「国指定重要文化財『銅造男神立像』の銘文を読む」
「『立山神像』をとらえなおすために~国指定重要文化財『銅造男神立像』への視点」

という2編の論考は、立山神像が帝釈天像であったことを、きっちりと実証するものです。


【「立山神像」とされた重美指定の名称とその後】

それでは、この銅像、これまで、どうして立山のご神体、「立山神像」であるとして、「銅造男神立像」という指定になっていたのでしょうか?

この像が立山のご神体の神像であると、公に認知されたのは、昭和15年(1940)、「重要美術品」に指定された時のことでした。
この像には、奉納された時の状況を示す銘文が残されています。

立山神像・帝釈天像の刻銘

立山神像・帝釈天像の刻銘

立山神像・帝釈天像の刻銘


像本体の前面と方形の框三面に鏨で銘文が刻まれています。
ただ、像の表面が相当荒れてしまっていることから、肉眼で判読するのが難しい個所も多くあります。

重要美術品指定の調査の際、胸部に刻まれている銘文が「立山神体」と判読されたのです。
この時の調査には、香取秀真氏、田沢金吾氏等があたったようです。
後でふれますが、今回の科学的調査によって「立山禅頂」と記されていることが明らかになった銘文です。

立山神像・帝釈天像の胸部の刻銘
立山神像・帝釈天像の刻銘
中央上部の刻銘が「立山神体」と判読された


重要美術品目録には、

「銅造立山神像 1躯
像正面に、立山神体 如法経六部寛喜二年三月十一日、台座に越中新川郡田寺奉納ノ刻銘アリ」
(立山神体の体の字は、で囲まれており、判読が難しかったものと思われます)

と記載されています。

この指定により、本像は、立山神像であると認められることになりました。

それまでは、帝釈天像だと思われていたらしく、昭和12年(1937)、本像が名古屋新聞社主催の「仏教博」に展示されたときには、「帝釈天像」という名称で展示されていましたが、この重要美術品指定で、「立山のご神体である立山神像」という位置づけがなされたといって良いのかもしれません。

そして、本像の富山県への里帰り後、昭和43年(1968)に重要文化財に指定された時も、この考え方が継承されました。
重要文化財指定時の、説明はこのように記されています。

「銅造男神立像 1躯
像正面に立山神体、寛喜二年三月十一日の刻銘がある」
とし、
・両眦(まなじり)をつり上げた面貌を見れば、神体像として造られたものであると考えられる、
・立山の神体として越中新川郡の一寺において鋳造されたものであることが判る

と、説明されています。

こうして、立山神像として制作されたことが確定的にみられるようになり、かつて立山山頂にご神体として祀られていた神像として、広く知られるようになったわけです。


立山神像だとされた決定的事由は、胸の銘文が「立山神体」と判読されたからでした。

重要文化財指定当時においても、刻銘を「立山禅頂」と判読する解し方、神像ではなく帝釈天像ではないかと考える見方もあったようです。

買戻しにあたった吉田実氏も、芸術新潮寄稿の「海外流出を免れた立山神像」(1967.11)に、立山神像の実物に対面した時の様子を、
「古香ゆたかな書体で彫った『寛喜2年』とか『立山禅頂』というような文字が明確によみとれる記文もある。」
と、記しています。

その後も、帝釈天と見るべき、あるいは「立山権現」と判読し神像と見るべき、という考え方などが出されたこともありました。

何故、判読が極めて困難なほどの状況であった銘文が「立山神体」と解読されたのかは良く判らないのですが、重文指定の際も重美指定時代の判読が継承され、そのように刻されたものだと長らくされていたのです。
最近、平成18年に発刊された「日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記編4」(中央公論美術出版刊)でも、刻銘は「立山神体」と記されている、とされています。


【科学的調査で刻銘は「立山禅頂」と判明、「帝釈天像」だったことが明らかに】

ところが、この刻銘が「立山神体」ではなく「立山禅頂」であることが明らかになったのです。
平成24年12月、立山博物館の依頼により、元興寺文化財研究所によるマイクロスコープ調査が行われました。

元興寺文化財研究所によるマイクロスコープ調査の様子
元興寺文化財研究所によるマイクロスコープ調査の様子

その結果、判読が難しかった文字の9割が確定され、銘文は「立山禅頂・・・・」と刻されていたことが明確となったのです。

立山神像・帝釈天像の判読銘文
立山神像・帝釈天像の判読銘文

「立山禅頂」と刻された銘文
「立山禅頂」と刻された銘文

即ち
「寛喜2年3月11日に、御経聖人頼禅が立山禅頂(修行)において、本像を山中に奉納した」
ということが記録されていたのでした。
「禅頂」とは、霊山の頂上のことを云い、「立山禅頂」とは、「立山の頂上に鎮まります」、あるいは「立山霊山の頂上への登拝行」と解することが出来るそうです。


このことが明らかになり、長らく「立山神像」であったとされた本像が、神像であるという解釈は、白紙に戻されたというか、「帝釈天像」であった可能性が強まったわけです。

「立山と帝釈天」展図録に収録された諸論文、就中、杉崎貴英氏の「『立山神像』をとらえなおすために」の論考によれば、本像は「帝釈天像」として造像されたと考えて間違いないということです。

その事由や考え方については、図録の諸論考をじっくり読んでいただければと思いますが、「帝釈天像」と考えられるポイントは、次のようなことではないかと思われます。

立山神像・帝釈天像..立山神像・帝釈天像
立山神像・帝釈天像..立山神像・帝釈天像
「帝釈天像」であったことが明らかになった像容

・像容についてみると、後頭部に光背をとりつけるための柄が突き出ており、これは一般的に神像ではなく、仏像の天部像と考えられ、また帝釈天像の諸作例を見ると、本像は、鎌倉時代の「瞋目で筆と紙(巻子)をとる帝釈天像」であったとみられる。

・立山信仰は、近世以降は阿弥陀信仰の影響が非常に強くなったが、それ以前は、古代から「帝釈天信仰」があったとみられ、中世には帝釈天が立山にいるという信仰が重要な要素を有していたと思われる。
立山が、仏教世界の中心にそびえる、帝釈天のいます須弥山に重ね合わされ、信仰されていた。

・立山は、神の山というより仏の山としての信仰が色濃く、また立山における本地垂迹説のなかに、帝釈天は組み込まれてはいない。
こうした状況からも、本像を立山の神の像とする理解と名付けは、否定的にならざるをえない。

・明治以降の諸記録からも推察されるが、重要美術品に認定され「立山神像」という新たな名付けがなされるまで、本像は一貫して帝釈天と呼ばれていたと考えてよいであろう。。

調査研究のポイントのまとめは、以上のようになろうかと思いますが、先ほどご紹介した、富山県のニュースリリースでは、このように説明されています。

「かつて本像の正面に刻まれた文字を「立山神躰」と判読したことにより神像とみなされ『銅造男神立像』の名称で指定されました。
しかし近年の科学的調査により「立山禅頂」と判読されることが明らかとなりました。

表情は厳しく、宝冠をかぶり、左手には巻子、右手には筆をもっていたと考えられ、ほとけの帝釈天の像にふさわしい姿をしています。
立山における帝釈天信仰については『法華験記』のなかの話からうかがい知ることができ、本像は古代の帝釈天の理解に基づく像と考えられます。

こうした理由から、本像の名称が『銅造帝釈天立像』と変更されます。」


こうしてみると、この銅像は、昭和の重要美術品指定の時に「立山神体」と銘文判読され、立山のご神体であったとされるまでは、中世以来ずっと、立山信仰における帝釈天として、信仰されていたことが明らかになったのです。


【「立山神像」とされてきた、副次的意義を振り返る】

ただ、感慨深いのは、この銅像が「立山神像」という呼称で、立山信仰を象徴する神体像として世に知られなかったならば、当時の富山県知事が自ら買い戻しに動き、注目を浴びるということも無かったのかも知れないということです。
「鎌倉時代の天部形銅像」として、海外に売られていってしまった可能性は大きかったように思えます。

杉崎貴英氏は、論考の結びに、昭和の「立山神像」という新たな名付けが、買い戻しのきっかけとなり、里帰り後に「富山県のシンボル」として果たした役割もまた大きいものがあるとして、このように述べられています。

「もし戦前の重美認定の際、『立山神像』という新たな名付けがなされることなく、『帝釈天像』とでも記載されていたら、はたして本像は、ゆかりの地に帰還する端緒を得られたであろうか。

吉田氏の回顧によれば、昭和32年ごろ長嶋氏から聞いていた本像のことが『脳裏に焼き付いていた』のだという。
吉田氏が『富山県のシンボル』とみなし、入手と普及に心を砕いた経過には、県域を見守る立山連峰を人格化したような名称の魅力も作用していたに違いない。」


明治時代、立山の地を離れ、長きにわたる流転を経て、ようやく立山に里帰りした「立山神像・帝釈天像」の数奇な物語を振り返ってみました。
よくぞ富山・立山に戻ることが出来たものと、その物語に感慨深いものを覚えてしまいます。

今般の新研究で「帝釈天像」であることが明らかになりました。

一方、里帰りまでのいきさつをたどると、
「昭和15年(1940)の重要美術品指定の時、『立山神像』という名称がつけられたことに、むしろ感謝しなければいけないのかもしれない?」
ちょっと、そんな妙な気持ちになってきました。


 富山県・立山博物館では、4月4日から5月17日まで、「立山の至宝展」が開催され、この「銅像帝釈天立像」も展示されるということです。

「立山の至宝展」ポスター
「立山の至宝展」ポスター

コメント

いつもながら面白いお話ありがとうございます。

旧立山神像は、具体的にどこにお祀りされていたか知りませんでしたが、立山近辺に安置されており、今も立山博物館にあることから、当然ずっと立山の地にあるものだと思っていました。
しかし、こんな経緯があったとはまったく知りませんでした。
「あるべきところにある」ということは、決して当たり前のことではなく、皆の努力のおかげだということに改めて気付かされる話でした。

本来は帝釈天像だったという話は、先日国宝になった醍醐寺の虚空菩薩像が連想されます。
尊格の決定も長い研究の成果があってのことなのですね。

  • 2015/05/06(水) 20:33:01 |
  • URL |
  • とら #VBkRmpN2
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

とら様

立山神像の流転と里帰りの話は、やはり感動的なものがありますよね。
それは、きっとこの像が霊山立山の信仰を象徴するシンボルの像として、心に刻まれるものがあったからだと思います。
そんな思いが、海外流出をとどめて、里帰りを可能にしたのではないかと思ってしまいます。

醍醐寺の聖観音像が、虚空蔵菩薩像に名称変更されたのも。ホットニュースですね。
この像が虚空蔵像であることを明らかにした副島弘道氏の論考、「菩提寺虚空蔵菩薩像版木と醍醐寺木造聖観音立像(川勝守・賢亮博士古稀記念東方学論集・汲古書院刊2013.10)」を早速読んでみました。
醍醐寺霊宝館付設の倉庫内に残されていた版木の中から、「菩提寺虚空蔵菩薩版木」が発見され、平安時代初め頃の虚空蔵菩薩求聞持法本尊像である可能性が高いことが明らかになったようですね。

仏教彫刻研究も、もう調べつくされているようで、新事実がまだまだ明らかになってくるようです
興味は尽きませんね

管理人

  • 2015/05/08(金) 16:19:39 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

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