観仏日々帖

トピックス~立山神像の数奇な物語を振り返る・重文指定名称変更によせて(その1)【2015.4.20】


【指定名称が「男神立像」から「帝釈天像」に変更された立山神像】


「神様 実は 仏様でした 立山博物館の像、名称変更」

こんな見出しの新聞記事がネット上に掲載されたのが目にとまりました。
今月の初め、2015.4.3付の中日新聞の記事です。

「立山博物館の像」とは、現在、富山県の立山博物館に所蔵されている「立山神像」のことです。
立山のご神体として祀られていた、といわれた像です。
鎌倉時代の銅造鋳造像で、像高54.4cm、重要文化財に指定されています。

記事の本文を、そのままご紹介します。

「立山町の県立山博物館が所蔵する国指定重要文化財『銅像男神立像』が、『銅像帝釈天立像』に名称変更する。
立山神像・帝釈天像
帝釈天像に名称変更された立山神像

神像とみられていたが、最近の研究で仏像の帝釈天と判明したため。
帝釈天の銅像としてはかなり古く、同博物館は『鎌倉時代の立山信仰を知る貴重な手掛かりになる』としている。

博物館によると、これまで像の胸部に刻まれた字を『立山神躰(しんたい)』と読んでいたが、博物館の調査で『立山禅頂(ぜんちょう)』と判読でき、神像ではないことが判明した。
表情が厳しく、宝冠をかぶる姿が各地の帝釈天像に似ているため、帝釈天像と結論付けた。
博物館が、2年前の企画展で研究成果を発表したところ、文化庁から名称変更の提案があったという。

像は、鎌倉時代の1230(寛喜2)年に立山山麓で作られた高さ54.4cmの銅像。
愛知県の個人が所蔵していたものを、富山県が1967(昭和42)年に買い戻した。
博物館によると、平安時代後記の書物『本朝法華験記』に帝釈天が立山にいることが記されており、立山では古代から『帝釈天信仰』があったとみられている。
その後、時期は不明だが、えんま王が死者の罪を裁く『十王信仰』に代わったとされる。」

以上の通りです。
「あの立山神像の指定名称が、ついに変更されるのか!」
このように、思いました。

この像は、長らく立山の山頂に「御神体」として祀られてきた、「神像」であるとされてきました。
立山信仰の象徴とされてきた像なのです。

立山神像・帝釈天像
立山神像・帝釈天像
立山神像・帝釈天像

私も、かつて立山博物館を訪れたとき、
「これが、立山信仰の象徴、立山神像なのか」
と、ガラス越しに、小さな銅像をしげしげと眺めた記憶があります。

一昨年(2013)秋、富山県・立山博物館で「立山と帝釈天」という特別展が開催されました。
この企画展で、「立山神像」は、実は「帝釈天像」であるという研究成果が発表されたのです。

展覧会図録を取り寄せてみた処、科学的調査や多面的考証の結果、帝釈天像であったと考えるべきという調査結果、論考が掲載されていました。
それを読んでみると、これは、神像ではなくて帝釈天像に間違いないように思いました。
それから1年余ですが、なんと早々にこうした研究成果が反映されて、文化財指定の名称変更が行われるというのです。

文化庁・文化審議会の答申で、名称変更が行われるというわけですから、「有力な説」というレベルではなく、「帝釈天像であることが、研究成果によって実証された。」といって良いものだと思います。


【数奇な運命を辿った立山神像】

ところで、この立山神像・帝釈天像は、新聞記事にもあるように、昭和42年(1967)に、富山県が買い戻したという像です。
明治の廃仏毀釈以来、立山の地を離れてしまっており、海外に流出する運命であった直前、富山県に買い戻されました。
約100年を経て、数奇な運命をたどって、里帰りを果たすことが出来たのです。

ホットな話題で、立山神像・帝釈天像が注目されているタイミングですので、所謂「立山神像」が、その地を離れてから、里帰りを果たすまでの、数奇な物語を振り返ってみたいと思います。
また、「帝釈天像」に名称変更されることに至った調査研究の成果についても、ご紹介してみたいと思います。


これからご紹介する話は、ほとんどが立山博物館で開催の「立山と帝釈天」展図録の論考、調査結果に、大変詳しく掲載されているものです。
それらのエッセンスを、適宜ピックアップしてご紹介するだけというものです。
ご関心のおありの方は、是非、展覧会図録をご覧いただきたいと思います。

「立山と帝釈天」展図録
「立山と帝釈天展」図録


【廃仏毀釈から始まった立山神像の流転の物語】

まずは、立山神像の数奇な流転の物語を辿ってみたいとおもいます。

この像は、今は帝釈天像に名称変更されたのですが、近年までは「立山神像」として語られていますので、ここでも「立山神像」という呼称を使わせていただきます。

立山神像は、明治初年までは、立山信仰を象徴するご神体とされていました。
立山連峰は、3000m級の山々が連なる、信仰の霊峰です。

立山連峰

立山連峰(雄山と別山)
立山連峰~雄山と別山"

その立山三山の一つ「雄山」山頂にある雄山神社・峰本社に、立山神像が祀られていたといいます。
峰本社は、今も雄山山頂にあり、写真で見るだけでも恐ろしげな岩頭に建てられています。

雄山山頂・峰本社
雄山山頂~峰本社

雄山・峰本社
雄山神社・峰本社

資料を見ると、雄山神社・峰本社に祀られていたと書かれているものが多いのですが、そうではなくて、立山、別山の祠に祀られていたとの見解も有力なようです。
別山というのも、立山三山の一つです。

別山の祠
別山山頂の祠

像の表面を見ると相当荒れています。
いずれの祠に祀られていたにせよ、長らく3000メートルの山頂社殿に祀られたため、地獄谷から噴出する硫黄ガスのために、硫化して錆びているのだそうです。

明治維新となり、明治元年(慶応4年・1868)神仏分離令が発布され、その後廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。
そうしたなか、当時、立山神像は仏像だと考えられたのでしょう、山頂社殿から下されてしまいます。

その後、どうしたわけか明治の半ばごろ、立山神像は、売り払われてしまい、立山の地を離れてしまうことになります。
売られたいきさつについて、このような話が残されているようです。

「(立山神像は)山麓の岩峅寺(イワクラジ)の某社家に他の神像と共に納めてあった。
それを同家の次男の古物商なにがしが富山市内の店舗にならべた。
そのうち、神像は僧侶風の人物に買われて持ち去られたという。」
(吉田実「海外流出を免れた立山神像」芸術新潮215号1967.11)

「明治27年に、芦峅寺(アシクラジ)開山堂本堂増築の費用捻出に苦面していた時、偶々、愛知県春日井郡の加藤師が立山登山に来られ、真長坊佐伯薫氏を仲介して、内々を以て売り渡されたのである。」
(佐伯幸長「立山信仰の源流と変遷」1973)

何が本当なのかはっきりしないようですが、立山神像は、明治の中頃に売り払われ、その後の行方については、よくわからないという状況になってしまったのでした。


時は過ぎ、昭和17年(1942)頃のこととなります。

立山神像~胸部に刻まれている銘文が「立山神体」と判読された
立山神像
胸部に刻まれている銘文が
「立山神体」と判読された
富山県文化財専門委員を長く務めた長嶋勝正氏は、国指定の重要美術品目録に
「銅造、立山神像一躯」
とあるのを見出しました。
「立山神像」というキーワードが、強い関心を惹き起こしたのだと思います。

本像が、重要美術品に指定されたきっかけは、昭和12年(1937)、本像が名古屋新聞社主催の「仏教博」に展示され、像に「立山神躰」「寛喜2年(1230)」の刻銘があると判読されたことによるものでした。
なんと行方不明になった立山神像は、この昭和15年(1940)に、「重要美術品」に指定された像らしいのです。

所蔵者は、愛知県の浄土真宗・松林寺の住職、加藤一氏となっていました。

長嶋氏は、この像がもともと立山に在ったものかを確かめるべく、愛知県春日井郡の加藤氏を訪ねます。
加藤氏の話によると、
「祖父が富山の駅前の古道具屋から買ったものだと伝え聞いている」
とのことでした。
この話で、明治年間に売られて立山を離れた、立山神像そのものに間違いないと判明したのでした。
この立山神像発見の話は、長嶋勝正氏著「越中の彫刻」(1975年巧玄社刊)などで、語られています。

長嶋氏がこの訪問記を地方紙に掲載したことなどから、県内でも立山神像の行方が判明したと、反響を呼びます。
昭和20年代には、地元立山町の神社総代等が、たびたび名古屋に出かけて所蔵者と折衝し、300万円で本像の譲渡をお願いしたということですが、叶わなかったということのようです。


【海外流出寸前で富山県に買い戻された立山神像】

立山神像は発見されましたが、愛知県で個人所蔵となったまま、また月日は20余年が経過します。

昭和42年(1967)7月のことでした。
当時富山県知事であった吉田実氏の処に、知り合いの古美術商から一本の電話がありました。

「むかし立山の社寺から流出したと覚しい旧重要美術品の銅像が、外国人に売られようとしている。」

という話でした。

吉田知事は、古美術に造詣が深かったことから、このような連絡があったのでした。

吉田知事は、即座に自身自らこの対応に動き、立山神像の海外流出を食い止め、富山県にこの神像を買い戻すことに成功します。
立山神像は、立山山頂から下されてから100年、立山の地を離れ行方不明になってから70~80年を経て、ようやく、富山・立山の地に戻ることになったのです。


吉田実氏は、芸術新潮誌上に、
「海外流出を免れた立山神像」(芸術新潮215号1967.11)
という寄稿文を掲載し、その時のドラマチックな有様を、活き活きと語っています。

「海外流出を免れた立山神像」(芸術新潮215号1967.11)
芸術新潮215号に掲載された「海外流出を免れた立山神像」

この時の劇的な買い戻しの物語を、少しばかりご紹介したいと思います。
寄稿文は、このような書き出しで始まります。

「今夏(1967年)、7月10日のことである。
高岡市と東京とで古美術商を営む南健吉氏から、私に次のような電話があった。
東京の『ギャラリー・谷庄』で聞いたが、むかし立山の社寺から流出したと覚しい旧重美の立山の帝釈天というものが、名古屋の美術商の手で、まさに外人の手に渡ろうとしている。
実物は『ギャラリー・谷庄』に預けられてあるが、その期限は今月15日までです、という。

私があわてて聞き返してみると、鎌倉初期の年紀名があること、鋳銅の立像であることなどから、それは私が年来何とか探し出して富山へ取り戻したいと念願していたものらしいことが判った。
私は、たちまち緊張した。」

立山神像は、旧蔵の加藤氏から、同県在住の日本画家のもとに移っており、その画家が没したのち再び流転の運命をたどり始め、海外との商談がまとまりかけているということらしかったのでした。

吉田実氏(当時富山県知事)
吉田実氏(当時富山県知事)
即刻、吉田知事は、東京・赤坂の『ギャラリー・谷庄』を訪れ、立山神像と対面します。

「私は、一瞬名状しがたい感動に捉えられた。
それは、かつて写真で見、また話に聞いていた私のイメージの神像よりは、はるかに優れたものであった。
・・・・・・・・・・
私は即座に、万難を排してもこれは富山へ取り戻すべきものだと判断した。」

そして、富山県で購入し、県で保管するべきことを決し、海外流出をすんでの処で食い止めたのでした。
7月23日、立山山麓の関係者達が多数で迎えるなか、吉田知事は買い戻した立山神像を携えて、富山駅に降り立ったということです。
買い戻した値段は、500万円だったということです。

寄稿文は、このように語られ締めくくられています。

「私が喜びを禁じ得ないのは、県民の多くが、この立山の神体が郷土に帰ったことを、予想以上に喜んでくれていることである。」

この、海外流出食い止めには、美術評論家の白崎秀雄氏のアシストがあったようです。
白崎秀雄氏は、北大路魯山人研究や、益田鈍翁、原三渓など近代数寄者の評伝で著名な人物です。
白崎氏は、文芸春秋に掲載した「古美術流出して国亡ぶ」(1971年1月号)と題する小文で、その時の思い出をこのように語っています。

白崎秀雄氏
白崎秀雄氏
「名古屋の懇意な古美術商が、
『実は客からこういうものの処分を頼まれたが、日本人では指値の500万円で買い手がなく、アメリカ人が買いたいというので売ろうかと思っている』
という。
・・・・・・・・・・・
(白崎氏は、像容・銘文から、それが立山神像であると気がつき)
わたしは、当然それが富山県へ戻されるべきものと考えて、名古屋の美術商にしばらく保留を頼み、北陸出身の在京の古美術商の下に実物を預けてもらった。
そのうえで富山県へ伝手を求めた処、たまたま当時の知事の吉田実氏が直ちに上京されて実物を見るや、これこそ自分らが多年行方を探していた富山の宝であるといわれ、その場で買い取りを約されたのであった。」

文化財への造詣の深い評論家・白崎氏の眼にとまり、氏が海外流出防止に尽力するという幸運もあって、立山神像は郷里の富山へ戻ることが出来たのでした。

立山神像の富山への無事帰還のニュースは、当時のマスコミ各紙にも採り上げられ、大きな注目を浴びました。
そして、翌年(1968年)、立山神像は国の重要文化財に指定されることになりました。
重要文化財の指定名称は「銅造男神立像 1躯」というものでした。


以来、立山神像は、中世の立山信仰を物語る貴重な遺品として、鎌倉前期鋳銅像の古例の一つとして、世に広く知られるようになりました。
金銅仏や神仏習合、修験といったテーマの本には、立山信仰を象徴する銅造神像として、採り上げられるようになり、こうした関連の展覧会にも、折々出展されるようになりました。

平成3年(1991)11月に、富山県立山博物館が開館すると、立山神像は同館の所蔵となり、常設展示等で展示され、広く一般の観覧に供されるようになり、現在に至っています。


数奇な立山神像流転物語を、ご紹介してみました。

〈その2〉では、立山神像の重文指定名称が、「帝釈天像」に変更された訳などについて、見てみたいと思います。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/tb.php/78-81dfc814
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)