かつて、「願成就院」と題された本が、中央公論美術出版から美術文化シリーズの一冊として発刊されていたのを覚えておられるでしょうか?
「願成就院」久野健著 (1972) 中央公論美術出版刊 【36P】 250円
今から43年前、昭和47年(1972)に、発刊されています。
著者は久野健氏です。
A5版、36ページという小冊子ですが、大変内容が充実しており、所謂「ガイドブック的啓蒙書」とは、はっきり一線を画し、研究成果のエッセンスを凝縮した、中身の濃い内容になっている本です。
〈充実の小冊子だった「美術文化シリーズ」(中公美術出版刊)〉
この美術文化シリーズ、昭和40年代を中心に、50冊以上刊行されたのではないかと思います。
当時、
このシリーズ本には、その昔、大変お世話になりました。
当時、多くは1冊200円でしたから、学生にも十分買える値段。
古寺探訪に出かけるときには、この薄い一冊をポケットにねじ込んでいけば、目指す古寺の歴史、仏像などについて、しっかりした学問レベルでのエッセンスがコンパクトに解説されているのです。
ガイドブック的な本とは全く違う、学問的雰囲気が漂う、小冊子であったのです。
代表的な古社寺の執筆者をあげると、ご覧のとおりで、それぞれの古寺、仏像についての、当時の第一線の研究者の名前が登場します。
「薬師寺」(町田甲一)、「法華寺」(町田甲一)、「唐招提寺」(安藤更生)、
「神護寺」(久野健)、「六波羅蜜寺」(毛利久)、「法界寺」(中野玄三)、
「日向薬師」(渋江二郎)、「勝常寺」(佐藤昭夫)「醍醐寺」(清水善三)、
といったようなところです。
そして、「願成就院」は、久野健氏の執筆となっているのです。
ご存じのとおり、久野健氏は、願成就院の阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王三尊像が、文治2年(1186)の運慶の真作に間違いないことを、世に明らかにした研究者です。
この小冊子も、願成就院の諸仏像が運慶の制作であることを発見した経緯や、その学問的意義が凝縮して綴られています。
この本を手にしたとき、ちょっと興奮気味に、何度も繰り返して読んだ記憶がよみがえってきます。
私には、大変思い出深い、冊子本なのです。
〈嬉しい新版「願成就院」(水野・山本著)の再刊〉
それから40年余を経て、同じ出版社・中央公論美術出版社から、同じ版型A5版で、昔の体裁と同様の新版が、発刊されたのです。
平成26年(2014)8月の発刊です。
新版の執筆は、水野敬三郎、山本勉の両氏で、これまた当代運慶研究の第一線の専門家の執筆となっています。
この本が発刊されていたことは、この4月になるまで、私は、全く知りませんでした。
ネットで、〈山本勉氏のツィッター〉をみていたら、この本が刊行されたということが書かれていたのです。
早速、中央公論美術出版社にTELして、問い合わせてみましたら、
したがって、書店での販売はされていませんし、当社にも在庫は置いていないのです。」
どおりで、出版されていたのに気がつかなかった訳です。
すぐに、伊豆の国市の願成就院さんにTELしてみました。
御住職がTELに出ていただき、このようなお話をされました。
「これまでは、久野先生のご本が出されていたのですけれども、先年(2013年)、国宝に指定されたものですから、国宝指定を機に、新しいものを出そうということにして、水野、山本両先生にご執筆を願って、新版を出したのですよ。
ただし、今回は、願成就院の刊行ということで、お寺にみえられた方に解説書として販売させていただいているのです。」
そういえば、昔、願成就院を訪ねると、拝観受付に久野氏執筆の「願成就院」が置かれていたように思います。
2013年の国宝指定を機に、最新研究成果を盛り込んだ、新版に一新されたということのようです。
願成就院さんに、郵送購入のご無理をお願いして、やっと手に入れたのが、この新版の「願成就院」です。
「願成就院」水野敬三郎・山本勉著 (2014) 願成就院刊
お寺の発刊で、このような学問レベルの高い解説冊子が出されるのは、めずらしいことかと思います。
普通は、お寺の縁起とか、御利益を中心としたガイドブック的なものが一般的です。
願成就院さんの御見識に、敬意を表したいと思います。
さて、この二つの解説書の内容を、見比べてみましょう。
体裁、目次の構成は、ほとんど同じなのですが、書かれている中身の内容は、大幅に変わっています。
一言でいえば、
久野健著旧版は、
水野・山本新版では、
それぞれも本の、エッセンスや興味を惹く点などについて、もう少しご紹介してみたいと思います。
〈願成就院諸像が、運慶作品と判明した経緯〉
まずは、久野健著旧版についてです。
繰り返しになりますが、久野健氏は、浄楽寺諸像と願成就院諸像が運慶作であることを明らかにした研究者です。
願成就院諸像は、それまで、運慶作の銘札が伝わるものの、その像は失われてしまったとされていました。
現在の阿弥陀如来像などは「都らしからぬ、男性的で荒々しくダイナミックな表現」で、到底運慶の作品とは考えられないという事由によるものです。
それが、昭和34年(1959)の浄楽寺諸像の調査による運慶作銘札・銘記の発見、昭和40年(1965)の願成就院の矜羯羅・制タ迦像のX線透過撮影による同型銘札納入の判明により、浄楽寺諸像、願成就院諸像がともに運慶の作品に間違いないということが明らかになったのです。
久野健著旧版には、そのあたりの発見経緯のエッセンスが、しっかり綴られているのです。
本書の内容と、運慶作の発見経緯については、以前に、
「埃まみれの書棚から~古寺、古佛の本~〈各地の地方佛ガイドあれこれ〉」
において、紹介したことがあります。
その文章を、もう一度転載させていただきたいと思います。
次のとおりです。
「願成就院」久野健著(S47)中央公論美術出版社刊・美術文化シリーズ 【36P】
願成就院諸像、浄楽寺諸像が、運慶の作であることを発見実証した、久野健の著作。
美術文化シリーズの一冊で、ガイド的小冊子だ が、運慶作実証のいきさつなどが語られ、濃密な内容。
願成就院諸像が、運慶作であることが実証されたいきさつには、次のようなドラマチックな物語がある。
願成就院 には、古来2枚の塔婆銘札が残されている。
銘札には、文治2年(1186)に「檀越平朝臣(北条)時政」発願の仏像を「巧師勾当運慶」作り始めたという墨書が残されている。
この2枚の銘札は、不動明王像、毘沙門天像の胎内から出たもので、これまでは、銘札は真正で本物だが、当初像はその後失われてしまったと考えられていた。
即ち、現在の仏像は、阿弥陀如来像も含め「鎌倉期の作だが、運慶の作品ではない」とされてきたのだ。
運慶作ではないとされた理由は、運慶作の円城寺大日如来像や興福寺北円堂弥勒像などの作風に比べると、男性的で「都らしからぬ様子」を感じさせるからであった。
昭和34年4月、久野健は、三浦半島にある芦名・浄楽寺の諸像を調査する。
調査中に、毘沙門天像の頭部が首から抜け、胎内に月輪形銘札が納入されているのを発見した。
その銘札には、なんと、文治5年(1189)に、「平(和田)義盛」を願主に「大仏師興福寺内相応院勾当運慶」が造った、と記されていた。
そうは云っても、これだけで、この毘沙門天像が、銘札どおりの運慶作の像だという確証にはならない。
しかしながら、この墨書は明らかに鎌倉時代の墨跡で、しかも阿弥陀如来像の胎内背面に一面に記されている梵字と、同筆である事が確認された。
もともと、この阿弥陀如来の胎内にも、後筆が明らかな「文治5年勾当運慶作」の銘札が収められている事が、知られていたが、胎内墨書と毘沙門銘札が同筆という事などから、阿弥陀如来像も毘沙門天も、間違いなく「運慶作」とみられることとなった。
不動明王像は、そのとき首が抜けなかったが、X線撮影で、月輪形銘札が納められている事がわかり、その後の修理の際、毘沙門天像と同文の銘札が取り出され確認された。
この調査により、浄楽寺阿弥陀如来像、毘沙門天像、不動明王像が運慶作に間違いないと確認されたわけであるが、実は、願成就院の諸像、即ち阿弥陀如来像、毘沙門天像、不動三尊像が、その顔立ち、モデリング、衣文の様式などが、浄楽寺諸像のそれと、酷似しているのであった。
そうなってくると、願成就院諸像も運慶作の可能性は極めて高いということになってくる。
その後の、願成就院像の調査で、不動三尊像をX線調査した処、古来伝わる不動明王像の銘札・釘跡と、X線調査による胎内の釘跡とが一致する事や、衿羯羅・制タ迦二童子の胎内にも、塔婆形銘札がそれぞれ納入されている事が確認されるなどのことが明らかになり、今では、願成就院諸像は運慶の代表作のひとつとして、認識されるに至ったのである。
以上が、かって〈各地の地方佛ガイドあれこれ〉に掲載させていただいたものです。
願成就院諸像が、文治2年(1186)、運慶作であることが明らかにされた物語が、お判りいただけたことと思います。
久野健著旧版(1972刊)では、以上のような発見経緯を記した後に、
未だ、運慶作であることが最終確定していない段階での著作であることが判ります。
その後、昭和52年(1977)に、不動明王像・二童子像の解体修理が行われ、X線撮影の影像のとおりの銘札が、二童子の胎内から取り出されました。
銘札には、想定通り既存銘札と同筆の「運慶作」の銘記があり、願成就院諸像が運慶作であることが、確定したのでした。
〈近年の運慶作品新発見と水野・山本著新版の内容〉
それから40年余、今般、水野・山本著新版が発刊されましたが、近年、思いのほか、いくつかの運慶作品の判明、発見がありました。
・光得寺・大日如来坐像(作風、X線による納入品形態から運慶作と推定)
・真如苑・大日如来坐像(作風、X線による納入品形態から運慶作と推定)
・興福寺・西金堂本尊釈迦如来像頭部(史料発見により文治2年・1186運慶作が判明)
・称名寺光明院・大威徳明王坐像(納入文書発見により健保4年・1216運慶作が判明)
以上のとおりです。
今度の新版では、阿弥陀如来坐像の印相の系譜、諸像の像容、品質構造についての解説とともに、五輪塔形銘札の記述についての見方、新発見諸像の存在も踏まえての願成就院諸像の造形の特色、彫刻史上の位置づけ、意義などについて記されています。
共著ですが、運慶作品に関係する処は、水野敬三郎氏が執筆されています。
その中で、「ちょっと興味深いな」と感じたところを、つまみ食い的に、いくつかご紹介したいと思います。
①阿弥陀如来坐像の顔面は、損傷しており、目から鼻にかけて近世の補修がなされていること、X線撮影の結果、元々は「玉眼」であったと判明したというという解説がされています。
全く運慶らしくないのです。
また、この阿弥陀如来像は、運慶が制作した「如来形像」のなかで、唯一の「玉眼像」であったことになります。
運慶は天部像、童子像では、玉眼を、見事に巧みに用いていますが、如来形像では、願成就院像を除いては、すべて彫眼で表現しています。
もし当初の顔貌が残されていたら、どのような造形であったのしょうか?
「運慶の玉眼如来像」は、どのような表情をしていたのだろうでしょうか?
運慶が、その後、如来像に玉眼を用いていないのは、今一歩似つかわしくない感じだったからなのでしょうか?
誠に興味津々なのですが、残念というしかありません。
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「巧師勾当運慶」 と墨書された銘札 |
水野氏は、このように述べられています。
「仏師の名前が記されるかどうかは、施主と仏師との社会的地位関係によって決まったようである。
すなわち、これらの銘記は通常施主の側で記すものであるが、仏師が施主と同等の地位にあると認められた場合に、その名が記されたらしい。
この像では、地方豪族北条時政と同等の地位にあるから名を記されたのであり、そのように考えると、他に例がない『巧師』という呼称は運慶の自称ではなく、施主の側から敬意を以て『仏師』ではなく『巧師』と記したと解すべきであろう。」
大変興味深く感じた次第です。
③運慶の東国下向、非下向の問題、「都らしからぬ荒々しい造形表現」の事由という、最も論議がある問題については、このような考え方が記されています。
「運慶が願成就院造仏に際して、東国に下向したのか、それとも奈良での造仏であったのかは、従来から議論がある。
この造仏の前年11月に北条時政は上洛、翌文治2年4月13日に鎌倉に帰着した。
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願成就院・阿弥陀如来坐像 (荒々しいダイナミックな造形の膝部の衣文) |
この時間的経過から、運慶の伊豆での造仏始めと東国下向へ導いた説は魅力がある。
しかし、願成就院像を東国で造立したかどうかについての決め手はまだない。
いずれにせよ、当時の東国武士たちの戦いぶりは西国の人たちにとって驚異的であったことは、たとえば『平家物語』のなかで、富士川の戦いを前に斉藤別当実盛が平維盛に語った言葉によく示されている。
・・・・・・・・・・
東国武者は『親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗越え乗越え戦う候』。
そんな東国武士のイメージが、願成就院像の荒々しいともいえるほどのたくましさにつながったのではなかろうか。」
〈運慶、東国下向、非下向問題の最近の諸説〉
願成就院像、浄楽寺像を、運慶は東国に下向して現地で製作したのか、奈良の地において東国からの注文に応じて制作したのかは、従来ずっと議論が続いている問題です。
大胆に端折って要約すると、
「北条時政のリクエストなら、東国まで赴いたと考えるのが妥当であるし、あの荒々しい都らしからぬ表現は、運慶自ら東国へ赴かないと、到底難しいであろう。」
という、下向説の考え方と、
「当時の南都興福寺の造仏状況を見ると、康慶の懐刀の運慶が、到底奈良を離れられるとは思われない。
南都にあっても、東国武士の趣向にあった、荒々しい表現での制作は可能だろう。」
という、非下向説の考え方だと思います。
古くは、ご紹介した久野健氏は「非下向説」でしたが、鎌倉彫刻史研究で著名な毛利久氏は「下向説」でした。
近年でも、諸説あるようです。
たとえば、
山本勉氏は、
(「運慶に出会う」2008小学館刊)
瀬谷貴之氏は、
(「別冊太陽・運慶」2010平凡社刊)
浅湫毅氏は、
すなわち前者には『巧師勾当』とのみあり、後者には『興福寺内相応院勾当』とある。
前者は、ホームである興福寺内で造像したものだから寺名を記さず、後者はアウェーである関東の地で造像したので、あえて興福寺の名を記したのではないか。」
(「別冊太陽・運慶」2010平凡社刊)
根立研介氏は、
そうすると、東国二武将の造仏も、じつは興福寺ないしその近辺の畿内の慶派工房であった可能性は十分考えられる。」
(「運慶」2009年ミネルヴァ書房刊)
このようは、諸説まちまちといった感じです。
運慶は、これらの都らしからぬ諸像を、東国で作ったのでしょうか?奈良の地で作ったのでしょうか?
興味津々、ミステリーのように興味深いところです。
ちょっと話が長くなりましたが、
「願成就院」と題する、中身の濃い、充実した2冊の解説・小冊子のご紹介をさせていただきました。
「久野健著・旧版」、「水野敬三郎・山本勉著新版」共に、是非手元に置いておきたい本です。
コンパクトな冊子ですが、この2冊を通して読めば、浄楽寺、願成就院諸像が運慶作品であることの発見の話から、近年の運慶作品判明、発見を踏まえでの、願成就院諸像の造形の特色、彫刻史上の位置づけなどを、判りやすく凝縮して知ることが出来ます。
是非、2冊セットを携えて、願成就院を訪ねて見られてはいかがでしょうか。
余計な話ですが、久野健著・旧版は、ネットのアマゾンの中古本で、なんと48円からという超安値で販売されていました。