観仏日々帖

トピックス~慈尊院弥勒仏ご開帳によせて「秘仏発見物語を振り返る」 【2015.3.14】


〈国宝秘仏・弥勒仏坐像のご開帳〉

慈尊院の秘仏・弥勒仏坐像の御開帳が近づいてきました。
高野山開創1200年を記念して、2015年4月2日から5月21日まで開帳されます。

4月からの御開帳の垂れ幕が下げられた慈尊院
4月からの御開帳の垂れ幕が下げられた慈尊院

ご存じのとおり、この弥勒仏像は、古来厳重な秘仏で、現在は、21年に一度、開帳されることになっています。
弥勒像を安置する、弥勒堂の桧皮葺の屋根の葺替えを21年毎に行うことから、その際、弥勒堂から遷座して開帳されるということのようです。
21年というのは、弘法大師空海の命日が21日ということに因んでいるともいわれています。

近年の御開帳を振り返ると、

平成5年(1993)10月30日~31日の2日間、21年に一度の定期開帳で開扉されました。
平成17年(2005)3月3日~9日の7日間、高野山世界遺産登録記念ということで、特別開帳されました。

前回2005年3月特別御開帳の時の慈尊院
前回2005年3月特別御開帳の時の慈尊院

そして今回は、前回定期開帳から22年目になりますが、なんと50日間の長期御開帳となります。

平安前期の傑作・国宝仏像の御開帳ということですから、きっと大勢の人々が訪れることでしょう。


私は、2005年の御開帳の時に拝することが出来ました。

「平安彫刻を代表する名作仏像を、眼近にじっくり拝した。」

といいたいところなのですが、拝する場所から、お厨子の弥勒仏像までの間がかなり遠くて、「目の当たりに」というわけにはいきませんでした。
今回は、どのような形で拝することが出来るのでしょうか?

慈尊院・秘仏弥勒仏坐像(国宝)
慈尊院・秘仏弥勒仏坐像(国宝)

慈尊院の弥勒仏坐像、この仏像の写真を見て、一度は拝してみたい魅惑の仏像となっている方も多いのではないかと思います。
やや下ぶくれのエキゾチックなお顔、重厚な中にもおだやかさ匂わせる姿には、心魅せられます。
「流石に国宝!」と唸らせる、平安前期の傑作仏像です。


〈昭和に発見された国宝仏像〉

この慈尊院、国宝弥勒仏、その存在は長らく世に知られていませんでした。
専門家の眼に初めて触れたのは、なんと昭和35年(1960)のことです。
まさに「傑作仏像の大発見」といえるビックリの出来事でした。

国宝に指定されるほどの、見事な傑作仏像が、新たに発見されるなどということは、そうめったにあるものではありません。
明治の頃のことならまだわかるのですが、それも昭和に入ってからの出来事です。

昭和に入ってからの、傑作仏像の発見には、どのようなものがあるでしょうか?
私の独断で、「昭和の国宝仏像、三大新発見」を選んでみました。
次の3つあたりかな?と思います。

第1は、昭和12年(1937)の興福寺(旧山田寺)仏頭の東金堂本尊台座下からの発見

第2は、昭和29年(1954)の東寺西院御影堂の不動明王坐像の調査と、同時に御影堂にて確認され、昭和32年に調査された三神像(国宝)の発見

第3は、昭和35年(1960)の慈尊院・弥勒仏坐像の発見


興福寺東金堂本尊台座下から発見された旧山田寺仏頭(国宝)
興福寺東金堂本尊台座下から発見された旧山田寺仏頭(国宝・白鳳時代)

東寺西院御影堂の秘仏・不動明王坐像(国宝・平安時代)
東寺西院御影堂の秘仏・不動明王坐像(国宝・平安前期)

東寺鎮守八幡宮・三神像のうち女神坐像(国宝・平安前期)
東寺鎮守八幡宮・三神像(国宝・平安前期)のうち女神坐像
明治初年の社殿火災焼失以降御影堂内厨子に仮安置、秘されていた


慈尊院・弥勒仏坐像(国宝・平安前期)
慈尊院・弥勒仏坐像(国宝・平安前期)

東寺御影堂の不動明王像は、明治年間一度だけ写真が撮られて、帝国美術略史に載せられたことがあり、新発見とは言えないかもしれませんが、厳重秘仏で、昭和29年の調査時以来、専門家の調査も含めて、一切開かれたことはありません。

いずれも、日本彫刻史を代表する傑作ぞろいで、これだけの名作が、昭和になるまで良くぞ知られずに秘されていたものだと、驚いてしまいます。


〈厳重秘仏の慈尊院弥勒仏像〉

さて、そろそろ慈尊院の弥勒仏坐像発見の話に入りたいと思います。

慈尊院に、厳重秘仏として守られている弥勒仏が祀られていることは、古くから知られていました。

ご存じのとおり、慈尊院は、弘法大師空海が高野山参詣の表玄関として伽藍を創建したと伝えられる古刹です。

慈尊院・山門
慈尊院・山門

由緒を振り返ると、高齢となった空海の母・阿刀氏が、讃岐から息子を訪ね来てこの政所に滞在し、空海はひと月に9度高野山を下って母を訪ねたので、「九度山」という地名が付けられたといいます。
空海の母は承和2年(835)に逝去しますが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったと伝えられています。
弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、慈尊院と呼ばれるようになったとのことです。

弥勒仏像が祀られている慈尊院・弥勒堂
弥勒仏像が祀られている慈尊院・弥勒堂

このような言い伝えがある弥勒仏ですから、古来厳重に秘仏として守られてきました。
鎌倉時代に、早くも厳重秘仏であったことを伝える古記録が残されています。

後宇多院御幸記には、
正和2年(1313)、後宇多院が高野に行幸の折、慈尊院弥勒堂の開扉を命ぜられたが、住職は困惑、
「弥勒像は弘法大師の御作として、昔から扉を開いたことが無い旨を言上」
したが、お聞き入れならず、やむなく恐る恐る扉を開いた。
という記事が見えるそうです。

そんな由来の本尊でしたから、存在は知られていても、誰も拝したことはないという仏像でした。
現在の21年に一度の御開帳というのも、何時の頃からのことなのか良く判りません。

このような秘仏は、開扉してみると、後世の拙劣な仏像であったりしてガッカリということが多いのも事実ですので、どれ程の仏像が祀られているのか良く判らないという処だったのかと思われます。
ところが、慈尊院・弥勒仏像は、開けてビックリ、超一流の名作であったのでした。


〈秘仏発見物語〉

この仏像を、初めて実見した専門家は、倉田文作氏と西川杏太郎氏です。
昭和35年(1960)夏のことで、両氏は共に、後に奈良国立博物館長を務めた仁ですが、当時は、倉田氏は文化財保護委員会(現文化庁)事務局・美術工芸課彫刻部主査、西川氏は同文部技官でした。

大発見だったのでしょう、
倉田氏は、発見3年後の1963年、芸術新潮5月号に、

「国宝になった新発見の弘仁仏~慈尊院の弥勒像~」

と題する、発見回想記を寄稿しています。

芸術新潮掲載・「国宝になった新発見の弘仁仏~慈尊院の弥勒像~」
芸術新潮に掲載された発見回想記


この回想記に沿って、発見物語をご紹介したいと思います。

倉田文作氏
倉田文作氏
倉田氏らが慈尊院を訪れることになったのは、ひょんなことからでした。
高野山文化財総合調査を実施している折、
高野山・蓮華浄院の増田僧正から、
「慈尊院本尊はともかく大きな、立派なお像ですよ。」
と聞き及び、
本山からねんごろにご連絡願って、高野山を降りて慈尊院に向かったそうです。
増田僧正は、いずれの時にか拝したことがあったのでしょう。

倉田氏は、高野山総合調査の疲れか、それほど気乗りがしていなかったようで、

「元来秘仏というのは我々には苦手で、拝見して驚嘆する場合と、黙って帰る場合と両極端があるように思える。
中世焼損したり、他像と入れ替わったりの理由で、他見をはばかる秘仏となった例もしばしばである。」

と語っています。
また、古来の厳重秘仏ですので、訪れたとしても、まさか開扉が許されるとは考えもしていなかったようです。


慈尊院を訪ねた処、御住職は退院後の静養中で、長い杖をついて本堂に案内いただけたそうです。
想定外に、開扉ということになったのです。

「なぜこんなに快く開扉してくださったかは、今日もってわからない。
御住職も、最初は開扉のおつもりがなかったのだから、やはり機縁、仏縁というほかない。」

倉田氏は、このように回顧しています。

そして、読経が終わって厨子が開かれると、見るも見事な弥勒仏像が出現したのでした。
正真正銘、堂々たる一木彫の、平安前期仏像が祀られていたのです。

慈尊院・弥勒仏坐像
慈尊院・弥勒仏坐像

「我々の懐中電灯が灯されたとき、私は唖然としてしまった。
八重の蓮華座の上、床から80センチほどの高さに、大きな円光を背にして、堂々たる一木彫の弥勒仏の等身像がすわっておられる。
・・・・・・・・・
電灯の光を台座に向けるにおよんで、私はまさに歓喜してしまった。
観心寺の蓮弁にみられるような見事な藻文が、繧繝の色も鮮やかに目に入る。

これは大変なことになりました、と私はいった。
これでは今日調査をすますというわけにはいかない。
あらためてその心組みでうかがいます、というわけで私どもは心残りながらこの日はお別れした。」

倉田氏の、驚きと喜びがあふれ出てくるような、大発見の感動が語られています。

1年後の昭和36年(1961)、倉田氏、田辺三郎助氏、西村公朝氏(美術院)、小川光三氏(写真・飛鳥園)のメンバーで、正式な実査が行われました。
この時、細かな計測から撮影、細部の実査と記録などが綿密に行われました。

実査の結果、

・像本体は膝前までを含めた一木彫成で、頭体部とも背面から内刳りして背板を当てていること。

・像の量感や、衣文の彫り口は平安初期のものであるが、目鼻立ちや、体側面の一種やわらいだ表現、衣文の形式化された特色は、9世紀末の造立を想定させること。

・台座の各部、蓮弁などに美しい繧繝彩色が残っているが、すべて完存、当初のものであること。

が判明しました。

あざやかな繧繝彩色がのこる弥勒仏像の蓮弁..あざやかな繧繝彩色がのこる弥勒仏像の蓮弁
あざやかな繧繝彩色がのこる弥勒仏像の蓮弁

そして、膝前の取り外し可能な裳先は後補だったのですが、その裏面から墨書きが発見されたのです。

「寛平4年 歳次壬子 五月十九日造仏事已了」

と書かれていました。

膝前裳先の裏面の墨書き..慈尊院弥勒仏像・像底~膝前裳先の裏面に墨書きがのこる
膝前裳先の墨書きと、像底(膝前裳先裏面に墨書が見える)

後世の筆ではありますが、何らかの典拠に基づいて記されたことには間違いなく、造形、作風も、この年紀と合致することから、9世紀末制作の基準作例としてよいと考えられました。
寛平4年は、892年、平安初期彫刻の成熟期にあたります。

この大発見の慈尊院弥勒仏坐像は、平安前期の傑作として、実査翌年の昭和37年11月、重要文化財に指定されました。
そして翌昭和38年3月末には、「国宝」に指定されました。

昭和35年の新発見から3年、実査からたった2年弱で国宝指定という、大スピード出世となったのでした。

倉田氏は回想記の終わりを、

「このように新発見の作品が国宝になることは、まことにまれである。
これほどのめぐりあいは、調査にあたるわれわれの一生にも、そう繰り返されるものではない。
慈尊院像のめでたさが、今さら思い出されるとともに、わが国の文化財の底知れぬ可能性をあらためて認めざるを得ない気がする。」

このように、感慨深く締めくくっています。


〈弥勒仏像の修理と秘仏の仏罰〉

ついでの話ですが、国宝指定後の昭和40年(1965)、慈尊院弥勒仏像の修理が行われました。
携わったのは、美術院国宝修理所の辻本干也氏です。

辻本氏は、慈尊院像修理の思い出を、青山茂氏との共著対談集

「南都の匠 仏像再見」辻本干也・青山茂著 1979年 徳間書店刊

で語っています。

東寺講堂・千手観音像の顔を復元する辻本干也氏
東寺講堂・千手観音像の顔を復元する辻本干也氏
辻本氏が弥勒像修理に訪れたときには、慈尊院の方からは、歓迎されたという感じでもなかったようです。

「あそこの御住職が長らく臥せっておられて、修理どころではないようなお寺の雰囲気のなか、私らは行ったわけです。
そのために、私たちには庫裏を使わせてもらえない。
こんなところでもと通された一室が、隙間風の入る部屋で、・・・・・・・・・」

という風であったようです。

勝手な推測ですが、御住職が静養中の時に、厳重秘仏を開扉したことや、その後病臥中の時に本尊を修理するなどということは、決して良いことではない、良くないことが起こるというムードであったのかもしれません。


厳重秘仏を開扉すると、仏罰が下されるという言い伝え、信仰は、古くから残されています。

あの有名な、明治17年(1884)の法隆寺夢殿・救世観音像の開扉の時には、

寺僧は、開扉すれば、地震が起こり、寺が壊れるとして、開扉に抵抗した。
岡倉天心、フェノロサ等が強引に開扉すると、寺僧は皆、恐れおののいて逃げ去った。

ということです。

また、先にご紹介した、東寺西院・御影堂の不動明王などは、東宝記に、このように記されています。

平安末、仁平3年(1153)に、時の東寺長者・寛信の代に、不動明王の後光損傷の修理が行われたが、その一月後に寛信が急逝した。
以来、厳重秘仏として守られ、その後に像の頭上にかけた天蓋が落下して、再び光背が痛み、宝剣が損傷した時にも修理には及ばなかった。

このように、厳重秘仏の仏罰を畏怖する風があったのです。


こうしたなかで、慈尊院弥勒像の修理が始められたというわけです。

そんなさなか、修理にあたっていた辻本氏自身も、風邪をこじらせ入院、心嚢炎であることが判明して、何か月もの入院を余儀なくされてしまいました。
辻本氏は、

御住職は病臥されているし、自分も倒れたら、「秘仏の仏罰が当たった」という風に結び付けられてはいけないと、不調を隠して我慢を重ねていたら、ついに長期入院になってしまった。
お見舞いに病院にみえられたお寺の方に、
「私が身代わりで、こないな病気になったんだから、御住職には心配はないと、そんなことをうわごとのように言って、・・・・・・・」

と、回顧されています。
こうしたこともあり、お寺の方にも随分気を遣ってもらえるようになったそうです。

辻本氏は、復帰後しばらくして、美術院を辞し新たな門出を果たすことになります。

「仏さんから時間を与えてもらい、自分を見直し、大事にするということを教えられた。」

このように、思ったそうです。
これもまた、「弥勒仏の思し召し」、ということなのかもしれません。


修理の話のついでですが、この修理の時に、弥勒像の螺髪が、全部前面部に植え替えられています。
お気付きになっていたでしょうか?
修理前は、螺髪が相当数失われて、まばらになっていましたが、お寺さんの方の前から見たお姿が良くなるようにとの意向もあり、後頭部の螺髪を前面に移して整えたということだそうです。

螺髪がまばらになっている修理前の弥勒仏像..螺髪がまばらになっている修理前の弥勒仏像
螺髪がまばらになっている修理前の弥勒仏像

螺髪を前面に整えられた修理後の弥勒仏像.....螺髪を前面に整えられた修理後の弥勒仏像
螺髪を前面に整えられた修理後の弥勒仏像


慈尊院弥勒仏坐像の開扉物語、発見物語を、しばし振り返ってみました。


昭和の大発見仏像の傑作を、この4月からの御開帳で、拝することが出来るのは、大変有難く嬉しいことです。

仏像そのものだけでも、流石国宝という美しく魅惑的な弥勒仏像ですが、こんな発見物語も振り返りながら拝すると、また一層、味わい深いものになるのではないでしょうか?

コメント

仏像発見のドラマ

大変興味深く拝読しました。
仏像発見の話はドラマチックなものが多いですが、
慈尊院の弥勒仏にもこんな経緯があったのですね。
螺髪の修理は面白いです。こんな修理方法もあるとは。


新しく国宝になった醍醐寺の虚空菩薩像ですが、私も虚空菩薩と判明した話は知りませんでした。ニュースで見た時、醍醐寺に国宝になるような虚空菩薩像はあったかなあと思ったのですが、元の聖観音像だったのですね。
東大寺の弥勒仏は、アクの強い作風ゆえ、国宝になったのは正直意外でした。平安前期の彫刻は個性的で、次はどの像が国宝になるのか楽しみです。もっとも、前年は鎌倉仏、今年は平安前期仏で、来年はまた違う時代の像かもしれませんが。

  • 2015/03/21(土) 23:41:52 |
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Re: 仏像発見のドラマ

とら様

コメント有難うございます

仏像発見の話は、あまり知られていませんが、仏像好きには結構ドラマチックですよね
また機会を見て、ご紹介できたらと思います
東寺御影堂、深大寺釈迦、多田寺薬師などの発見物語は、興味深いドキュメントのようです。

今年は平安初期の国宝指定でしたから、次回は、平安中後期あたりのところでしょうか?
禅定寺観音あたりは、平安中期の代表仏像として候補の一つかもしれませんね??

神奈川仏教文化研究所 管理人

  • 2015/03/23(月) 08:16:57 |
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  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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>仏像好きには結構ドラマチックですよね

これは間違いないと思います。
私は分けても、笹野大日堂の大日如来像発見のように、「こんなところにこんな像が」といった意外性のある話が好きです。

>今年は平安初期の国宝指定でしたから、次回は、平安中後期あたりのところでしょうか?

順番的にはその辺りでしょうか。
平安中期仏もなかなか個性的で決め手に欠けるのですが、禅定寺の十一面観音は有力候補だと思います。
個人的には、同聚院の不動明王が好きなのですが、五尊の中の一体だけ残ったもので、しかも脚部など後補が多いのがネックですかね。せめて康尚の真作と確証が得られればチャンスはあるかもしれませんが…。

平安後期仏は没個性で決め手に欠けると思います。
観世音寺の巨像群や、鎌倉時代への繋ぎとして重要な長岳寺の阿弥陀三尊などは候補になり得ると勝手に思っています。

  • 2015/03/25(水) 00:39:19 |
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  • とら #VBkRmpN2
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Re: タイトルなし

とら様

笹野大日堂の大日如来像は、昨年、現地まで出かけてみてきましたが、本当によく地元の人々によって守られてきたものだと思いました。

平安中後期・国宝候補者群は、おっしゃるようなところかもしれませんね
同聚院像は、出来のよさでは一番だとは思いますが、上半身のみが現存というのが、ちょっと苦しい処でしょうか?

管理人

  • 2015/03/27(金) 09:50:54 |
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  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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国宝となる条件には、おそらく保存状態も大事なポイントになるでしょうから、苦しいと思います…。

地方仏は現地まで行って、お寺の方や地域の方とお話しながら拝すのが一番ですね。
ただ、なかなか遠方には行けないので、展示会はとても貴重な機会でありがたいものです。

  • 2015/03/29(日) 23:57:14 |
  • URL |
  • とら #VBkRmpN2
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この文章を読んでますます楽しみになってきました

当時かよっていた健康道場の仲間たちと1993年の御開帳のときに、なぜか心惹かれるものがあり、生まれて初めてご開帳という行事に参列したのを今でも覚えてます。その頃はまだインターネットという便利なものもなく、たまたま目にした一枚のチラシが参拝のきっかけでした。
あれから21年になります。今ではすっかり開帳フリークになりました。

Re: この文章を読んでますます楽しみになってきました

kurataid様

ご覧いただき、有難うございます

1993年の慈尊院の御開帳では、ごくごく間近で弥勒仏像を拝することができたという話を、耳にしております
前回開帳では、かなり遠く離れたところから拝するという処で、仏像の姿をはっきりと間近に拝することはできませんでした。
今回も、即日駆けつけた方の情報によりますと、前回と同じで、遠くからの拝観とのことです

kurataid様の、徹底した秘仏開帳情報の収集、秘仏拝観探訪ぶりには、脱帽です。
これからも、秘仏探訪、精進されますよう。

管理人

  • 2015/04/03(金) 16:58:17 |
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  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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