観仏日々帖

古仏探訪~秋田・小沼神社「廃仏毀釈を乗り越えた観音像たち」  【2015.1.24】


東京国立博物館で「みちのくの仏像展」が開催されています。

東北の仏像を代表する、平安古仏の三大薬師一木彫像が勢揃いして、一堂に観ることが出来るという、またとない機会です。

みちのくの仏像展ポスター


早速、出かけてきました。

会場には、東北三大薬師といわれる、福島会津・勝常寺、岩手・黒石寺、宮城・双林寺の薬師三尊像が、三方に展示され、眼近に観ることが出来ました。
その堂々たる姿は、まさに圧巻で、みなぎる迫力に圧倒されてしまいます。
ライティングも巧みで、現地のお寺で拝するのとは、また違った、新たな魅力を発見できたような気がしました。

「みちのくの仏像展」会場に展示された勝常寺・薬師三尊像
「みちのくの仏像展」会場に展示された勝常寺・薬師三尊像

そのほかも、魅力あふれる仏像ばかりでしたが、私がこの展覧会で、再会できることを愉しみにしてきたのは、秋田・小沼神社の聖観音立像です。

小沼神社・聖観音立像
小沼神社・聖観音立像

2013年7月、七夕の日、秋田県大仙市豊岡に在る小沼神社を訪れて、聖観音、十一面観音の2躯の観音立像を拝してから、丁度1年半になります。

この観音像、東博では、勝常寺・薬師三尊の真正面に、成島毘沙門堂・吉祥天立像と並んで展示されていました。
平安時代の前期から中期の制作といわれています。

スラリとした立ち姿で痩身の観音像は、立ち並ぶ仏像達のなかでも、何やら霊的なオーラを感じさせます。
聖観音立像の前に立ち、その姿を拝していると、鬱蒼とした杉林の中の小沼神社を訪れた時の感動が、ふつふつと心の中に蘇ってきました。

小沼神社は、「おぬま」ではなく「こぬま」と読みます。

その名のとおりの、小さな沼のほとりに佇む社殿に祀られた、2体の観音像を拝したとき、

「心洗われる」

という言葉が、本当にそのままあてはまるような思いに浸されたのでした。

小沼神社の社殿に祀られる聖観音像・十一面観音像
小沼神社の社殿に祀られる聖観音像・十一面観音像


鬱蒼とした杉林のなか、突然眼の前に開けた空間が出現し、そこには緑色の小沼が水をたたえています。
そして、沼の向こう側には、小さな社殿がひとつ、ポツリと静かに佇んでいます。

小沼神社の佇む小沼の景観

小沼神社社殿
小沼のほとりにたたずむ小沼神社の景観

まさに、「霊境」の趣で、神が降臨する聖地の佇まいです。
その景観は、「神仙境、幽玄境」という言葉が、そのまま当てはまりそうな霊境空間だなという気がしました。

観音像は、そんな霊境に佇む小沼神社の社殿に祀られていました。
沢山の蝋燭が像前に灯されるなか、女性の宮司さんの祝詞が挙げられるという、厳粛で霊的な雰囲気の中、拝させていただいた二体の観音像は、本当に心惹き付けられるものがありました。

女性の宮司さんによって執り行われる御開帳儀式
女性の宮司さんによって執り行われる御開帳儀式

私にとっては、本当に久方ぶりの「心洗われる」時間でありました。

この情景は、今でも心になかに鮮明に刻み付けられており、忘れることのできない感動です。

小沼神社を訪れ観音像を拝した時の有様、感動、2躯の観音像の事などについては、
この観仏日々帖
古仏探訪~秋田県大仙市 小沼神社・観音菩薩像【その1】【その2】
に、以前、詳しく記させていただきましたので、そちらをご覧ください。

小沼神社を訪れてから、小沼神社の歴史と観音像について興味関心が深まってきました。

「もっと、小沼神社のことについて知りたい。」

と、資料をあたっていたら、

「中仙町史・文化編」  中仙町史編纂委員会編   1989.3.20刊

に、近代小沼神社の歴史が詳しく語られているのを見つけました。

そこには、二体の観音像が、廃仏毀釈の嵐のなか、村人たちの力によって守られ、これを乗り越えてきた歴史が記されていたのです。

この機会に、ご紹介しておきたいと思います。


小沼神社の古い歴史は良く判りません。

養老2年(718)建社という言い伝えがあるようですが、それはさておいて、江戸時代後期には、今の小沼神社と同じような景観のなかにお堂が建てられていたようです。

江戸時代後期の旅行家、菅江真澄が遺した旅行記「菅江真澄遊覧記」のなかの、「月の出羽路」に、文政11年(1828)頃の小沼観音の俯瞰図が描かれています。

菅江真澄筆「月の出羽路」に描かれた小沼観音の風景
菅江真澄筆「月の出羽路」に描かれた小沼観音の俯瞰図

この俯瞰図をみると、今の小沼神社の景観にそっくりです。
その頃には、「霊境空間」「神仙境」に佇む観音様として、村人たちに大切に守られ、祀られていたことは間違いないでしょう。


明治元年(1968)、維新政府は神仏分離令(正式には神仏判然令)を発布します。

この東北の地、秋田においても、神仏分離は強硬に進められました。
秋田藩でも明治2年に、神仏仕分け係が任命され、神仏混淆調査が始まります。

小沼神社は、神仏分離以前は小沼観音堂と呼ばれ、院内観音・蓮池観音とともに「仙北北浦の三観音」の一つでした。
小沼神社は、観音堂と呼ばれた(元々神仏習合の)お寺だったのです。

村人にとってみれば、神仏分離といわれたところで、平安時代から伝わる聖観音・十一面観音への厚い信仰から離れるということなど、到底出来るものではありませんでした。

小沼神社・聖観音像..小沼神社・十一面観音像
小沼神社・聖観音像と十一面観音像

村人たちは、外向きは政府や藩の仰せに従いながらも、信仰の対象としては観音を守ることで衆議一決しました。
そして、その方法は、当時の新しい制度の中で神官となった、水原東に一任することになりました。
水原は、住民がこぞって神道の葬祭に変ることを条件として、観音像を神社のご神体とすることにしました。

二体の観音を厨子に入れて戸をしめ、その前にすだれを下げ、鏡を置いて御神体にみせかけ、自ら棟札をつくって中心にすえ、それには、
「郷社小沼山大神 神位」
と書き、山の神に見立てました。

申請書にも、
「奉鎮、大山祗之大神・伊邪那伎大神・伊邪那美大神・久々理日大神」
明治二年七月、仙北郡小沼村鎮守神主・水原東・秋田県神祗方・神社方
として提出し、一回で合格しています。

ここで、小沼観音は、小沼神社と衣替えしたのです。

ところが、その後、秋田藩士神仏仕分け係が巡回してくるという情報を得て、あわてて厨子から大きな仏像を藁菰に包んで背負い出し、笹原の中に数日かくし、一時、白岩村の雲巌寺に宿を借りたとも語り伝えられています。
この時以来、村人の葬祭はすべての家が神道に変わりました。

このようにして、小沼神社の2体の観音像は、村人たちによって守り抜かれたということです。

古代、みちのく辺北の地では、佛教という「宗教」が、この地に伝播していったというよりも、それ以前のこの地に根ざした「固有の信仰」と結びついて、
「カミとホトケが一体化した像」
を造らせ、これをシンボルとして拝するようになった。

田中恵氏は、このように語っています。

小沼観音への村人の信仰は、江戸から明治に至るころにおいても、このようなカミとホトケが一体化した「固有の信仰」として、しっかりと土地に根付き、脈々と続いていたように思えます。


その後、明治45年には、行政の神社合併政策にあい、八日市の諏訪神社と合併し、神社名も「豊岳神社」と改称したそうですが、現在では「小沼神社」と称されています。


このようにして、神仏分離、廃仏毀釈の嵐をかろうじて乗り越えた、聖観音像、十一面観音像でしたが、長い星霜のなかで、随分と傷んでしまっていました。
仏像の下部(脚部)の腐食が進み、朽ちかけていたようです。
昭和27年(1952)、秋田県指定文化財に指定されましたが、立像でありながら自ら立つことができないほど、下部が腐朽していて、みるからに痛々しい姿となっていました。

そこで、昭和33年(1958)、仏像が自力で立つことが出来るように修理することになりました。
修理は、文部省美術工芸課の国宝修理技官の計画策定により、竹内不忘の手によって96日を要して実施されました。

小沼神社・十一面観音像を修理する竹内不忘
小沼神社・十一面観音像を修理する竹内不忘

竹内不忘は、日展審査員でもあり乃木将軍の銅像で有名であった彫刻家です。
これが、秋田県内での仏像修理の第一号でもあったそうです。

その後、昭和50年ごろから仏像に虫穴があき、そこから木の粉が落ちてくるようになり、昭和54年11月から2ヶ年計画で、財団法人美術院国宝修理所において、殺虫と虫穴補修したほか、聖観音の白毫には水晶が入れられました。

この2度の修理によって、2体の観音像は、平安時代の面影をとりもどし、現在の姿となったのでした。


「みちのくの仏像展」に出かけ、小沼神社・聖観音像に再会することが出来、小沼神社を訪れた時の感動を、少しばかり蘇らせることが出来ました。

小沼神社・聖観音立像
小沼神社・聖観音立像

そして、2体の観音像が、明治維新以来、地元の村人たちによって、廃仏毀釈の嵐を乗り越え、守り抜かれてきた歴史を振り返ってみました。

聖観音、十一面観音が、「土地と人々を守るカミとして、ホトケとして」、村人たちが必死の思いと信仰に支えられて、守り抜かれてきた話を知ると、益々「心洗われ、心揺さぶられる」ように思えます。


・鬱蒼とした杉林の山中に突然現れる空間
・鏡面のような水をたたえた、緑深く染められた小沼
・小沼の奥に、ポツリと佇む神社の社殿

小沼神社と2体の観音像は、江戸時代から、いやもっと以前から、このような景観の中に佇み、村人に祀られてきました。

これからも、こんな神仙のような霊境空間の中で、末永く祀られ、しっかりと守られていってほしいと、念ずるばかりです。

小沼神社と小沼の景観
小沼神社と小沼の景観


コメント

「みちのくの仏像展」行ってきました。
出展件数は少なめでしたが、選りすぐりといった感じで満足でした。
時間の都合で1時間強しか見ることができませんでしたが、時間が足りませんね。

小沼神社の聖観音立像は、他では見ることができない独特な雰囲気で引きこまれした。
欲を言えば、十一面観音像と並んでいるところを見たかったのですが、それはまたいつかの楽しみとしておきます。

この像も廃仏毀釈の苦難を乗り越えてきた像なのですね。フェノロサや岡倉天心だけではなく、一般の民衆もまた仏像を守ってきたというのはとても大事なことだと思います。

ところで、「あれこれ~今年の観仏を振り返って 〈その2〉」で、平安仏の年代が上がっているということを書かれてらっしゃいましたが、ここでも、双林寺の諸仏が9世紀になっていたのが目に付きました。従来は、細かな彫りや、やや控えめな抑揚等から10世紀に入っての造像だと言われてきたように思います。

色々と研究が進んだ結果だとは思いますが、これまでの見方では年代を下げて見すぎていたため、その見直しが入りつつあるのかなという印象をもちました(実際のところ、どういう研究の動向があるかは知りませんが)。

  • 2015/01/25(日) 23:05:37 |
  • URL |
  • とら #VBkRmpN2
  • [ 編集 ]

Re: みちのくの仏像展

とら様

「みちのくの仏像展」行かれたのですね
小沼神社の十一面観音のほうは、現在、宮城・東北歴史博物館で「みちのくの観音さま展」の方に出展されているようですね。
仙台・多賀城まで出かけるかどうか、思案中です。
できれば、東博で並んでみたかったものです。

おっしゃるように、最近東北の平安木彫も、制作年代を上げて見られるようになってきたのかもしれません。
小沼観音も、9世紀とみる考え方もあるようですし・・・・・
ただ、双林寺・薬師像を、はっきり9世紀と決め打ちで解説されると、ちょっと躊躇してしまうような気もしますが・・・・。
どうしても、勝常寺や黒石寺の厳しい造形感と比べると、穏やかさ、柔らかさを格段に増しているように感じますが?
ただ、肩太りの塊量感のすごさを見ると9世紀もありなのかとも感じますが・・・・・

久野健氏の「東北古代彫刻史の研究」(1971)などは
「この薬師如来像の様式はまさしく10世紀のものとしてよいと考えられ・・・・」
と記されてますし、「仏像集成」の解説あたりも同様です。
最近では、1999年開催の「東北の仏像展」東北歴史博物館・解説にも、
「本像の制作時期は10世紀前半と考えられる。同寺に伝わっている近世の棟札には天徳2年(958)の本寺建立が記されている。本像の制作時期とほぼ一致することが注目される。」
となっています。
今回の展覧会図録解説には、9世紀の制作と考える根拠については、はっきり触れられていないようですね。
同寺の創建は8世紀にさかのぼると伝えられている云々と書かれているだけでした。

平安古仏の制作年代については、近年いろいろな観点からの見方が多様になってきたような感じですね!

「九州仏展」では、9世紀仏が続出で、自分の感覚では、ちょっと戸惑いました。
これまでの、自分の年代観、既成概念を取り払ったほうがよいのか、迷ってしまう処です。

ただ、いろいろ多様な観点からの議論や意見が出てくることは、興味深く嬉しいことで、そのことで研究のレベルもまた上がり、研鑚されていくのではないかと感じております。

「やはり、平安前期は面白い!!!」
という実感です。

管理人


  • 2015/01/27(火) 13:17:51 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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  • 2015/05/29(金) 16:25:45 |
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