観仏日々帖

トピックス~「奈良・日吉館をめぐる文化人」というシンポジウムが開催されました 【2014.11.2】


「奈良・日吉館をめぐる文化人~会津八一を中心に」

と題するシンポジウムが、早稲田大学で開催されました。

ビックリしました。

こんなシンポジウムが開かれるなどとは、思いもよらなかったのです。
20年近く前に廃業した「奈良の宿・日吉館」をめぐる話などというのは、あまりにもマイナーなテーマです。

知り合いの方に、

「こんなシンポジウムが開かれるみたいだよ。
貴方は、きっと興味があるんじゃないの?」

と、開催パンフレットをいただいたのです。

「奈良・日吉館をめぐる文化人」シンポジウム・チラシ
「奈良・日吉館をめぐる文化人」シンポジウム・チラシ


「これは、万難を排してでも、出かけねばなるまい!!」

と、10月25日(土)、満を持して出かけたのでありました。

というのも、
つい最近まで、神奈川仏教文化研究所HPの「埃まみれの書棚から」というコーナーに、
「奈良の宿あれこれ」
と題する連載を掲載して、その中で「奈良の宿・日吉館」について綿々と書き綴ったばかりです。

日吉館は、奈良にかかわる学者たちを中心に、文人、芸術家、またこうした世界を志す学徒達の溜り場、一種の文化的サロンとして、知られた奈良の宿です。

大正以来約70年間の長きにわたって続いた「日吉館」ですが、平成7年(1995)完全廃業します。
その後、建物の老朽化に耐えられなくなり、平成21年(2009)には、日吉館の建物も取り壊されました。

日吉館
昭和55年(1980)頃の奈良の宿・日吉館

日吉館の歴史、名物オバサン・田村きよのさんの事や、日吉館をめぐる文化人にまつわる話について、あれこれ調べてみて、

「自分も、ちょっとばかり日吉館通になったのではないか。」

という自己満足的気分になっていた矢先に、このシンポジウムの開催だったのです。

日吉館のオバサン・田村きよのさん
日吉館の屋台骨を支え続けた名物オバサン・田村きよのさん


このシンポジウムは、「早稲田大学文化芸術週間・2014年度シンポジウム」として開催されました。

小野記念講堂前のシンポジウム看板
小野記念講堂前のシンポジウム看板
チラシには、このようなシンポジウム開催概要が記されています。

日吉館は、大正初めに奈良で創業した旅館で、奈良を愛する文学者、画家、彫刻家や歴史、建築史、美術史の研究者らの定宿でした。

多くの文化人にゆかりのある日吉館は、「奈良の芸術院」とも称されました。

本シンポジウムでは、奈良と日吉館をめぐる大正・昭和初期の文化人の足跡について、日吉館をめぐる文化人―會津八一を中心に―」と題し、講演・研究報告をいただきます。


プログラムは、ご覧のとおりです。

シンポジウム・プログラム


どんな話が聞けるんだろうかと、興味津々で、会場の小野記念講堂に出かけました。

「奈良・日吉館をめぐる文化人」シンポジウム


こんなマイナーなテーマだし、宣伝もしていないので、大した人数は集まらないのだろうと思って行ったら、ざっと100名以上もの人が来場され、盛況ぶりに驚きました。

司会の方が、
「日吉館に泊まったことがある方は、手を挙げていただけませんか?」
と尋ねた処、
なんと、ほとんどの人の手が上がりました。

皆さん、「奈良の宿・日吉館」に泊まり、奈良美術を愛する人となったり、研究の途に進まれたのでしょう。
そして、私も含めて今や、皆中高年という方々なのだと思います。

そんな会場でしたので、
「シンポジウム」というよりも、

「日吉館での日々やオバサンのことを思い出し、若かりし頃を懐かしむ」

そんなノスタルジックなムードで、プログラムが進行していったような感じでした。


ところで、このシンポジウム、どうして開催されることになったのでしょうか?

川尻秋生・早稲田大学会津八一記念館副館長の、開催挨拶の話を聞いて、その訳が判りました。

早稲田大学会津八一記念館には、これまで、会津八一揮毫の日吉館の二つの看板(扁額と吊るす立て看板)などが、預けられて居ましたが、先年、故田村きよのさんのご子息から、正式に寄贈となったのに加えて、
今般、日吉館に遺された大量の「宿帳」と、会津八一揮毫の「我思古人」の横額が、ご子息の夫人から、寄贈されたのだそうです。

日吉館屋根に掲げられていた会津八一揮毫・扁額.日吉館軒に吊るされていた会津八一揮毫縦看板(拓本)
会津八一揮毫・日吉館の扁額横看板と縦看板(拓本)


日吉館の縦横看板が掲げられていた日吉館(昭和52年・1977)
会津八一揮毫・縦横看板が掲げられていた日吉館(昭和52年・1977)
屋根上に横看板が掲げられ、軒下に縦看板が吊るされている




「日吉館の宿帳」というのは、日吉館の名物とも云ってよいもので、大正6年(1917年)以来の宿泊人名簿が平成7年(1995)まで、大量40冊もが、遺されているものです。

日吉館の宿帳
日吉館に残されている宿帳(宿泊人名簿)

ここに現れる名前の数々は、いちいち説明する必要はないほどの、綺羅星の如くの著名な学者、文人、芸術家などなどのオンパレードです。
日吉館が、多くの文化人ゆかりの「奈良の芸術院」とも称されたことが偲ばれる、誠に貴重な史料ということが出来る、宿帳なのです。

早稲田大学会津八一記念館が、これらの寄贈を受けたことを機に、このシンポジウムが開催されることになったのでした。


また現在、早稲田大学会津八一記念館の常設展示室のコーナーで、
「奈良・日吉館と会津八一」
という特集展示も行われています。
(開催期間:10月13日~11月8日)

記念館には、「日吉館の宿帳」のほか、会津八一揮毫の「日吉館」の扁額、「観仏三昧」「「我思古人」の横額などが展示されています。

早稲田大学会津八一記念博物館
早稲田大学会津八一記念博物館

会津八一揮毫の「観仏三昧」の横額
会津八一揮毫「観仏三昧」の横額

会津八一揮毫の「我思う古人」の横額
会津八一揮毫「我思古人」の横額



さて、シンポジウムの講演内容などを、ちょっとご紹介したいと思います。

「日吉館のエピソード」といった類ものばかりですので、話の中身、前後関係がわかりにくいかもしれません。
HP連載「奈良の宿あれこれ」の日吉館についての項(その1~その6)を、ご参照いただければと思います。


大橋一章氏の「會津八一と日吉館」と題する、基調講演がありました。
大橋一章氏
大橋一章氏

講演の内容は

・会津八一が奈良美術に傾倒するようになる経緯と、日吉館との関わり合い
・日吉館と早稲田大学に関わるいくつかのエピソードや、日吉館をひいきにした学者たちの話
・大橋氏自身の日吉館の思い出

といったものです。

「奈良の芸術院・日吉館」の昔をしのんで、懐かしく回顧するというといったお話でした。

大橋氏が、初めて日吉館に泊まったのは、大学2年になった時、昭和38年(1963)の事であったそうです。
その時の宿代は「700円」
やはり、名物のすき焼きを腹一杯愉しんだそうです。
私が初めて泊まったのは、昭和45~6年(1970~71)の頃で、宿代は「1200円」でした。

会津八一と日吉館がらみの話では、

・初めて日吉館に泊まるようになったいきさつ

・日吉館の看板を揮毫した時の話

・日吉館定宿の二大巨頭、会津八一と足立康は仲が悪くて、オバサンが大変苦労した話

などなどのエピソードが紹介されました。

日吉館前に立つ会津八一...日吉館前の会津八一と田村きよのさん
日吉館前に立つ会津八一(左)と八一と田村きよのさん(右)

足立康
建築史・美術史学者~足立康

このあたりの話は、

単行本「奈良の宿・日吉館」太田博太郎編 S55講談社刊

に詳しく語られているとおりのものです。
HP連載「奈良の宿あれこれ」<その2><その4>でも、紹介させていただきました。

単行本「奈良の宿・日吉館」
単行本「奈良の宿・日吉館」


今回の大橋氏の講演で、私が初めて新たに知った話は、こんな話です。

日吉館の名物看板のうち、吊るしの「ひよし館」と書かれた縦看板の方は、何度も盗難にあったそうです。
幸いにも、その都度、無事帰ってきたのだそうです。

その縦看板と、横看板が、早稲田大学に寄託され、寄贈されるようになったいきさつの話です。

平成9年(1997)に、早稲田大学から、日吉館のオバサン・田村きよのさんに、感謝状を贈ることになったのです。
どうしてこの時に贈ることになったのかの説明はありましたが、ちょっと忘れてしまいました。
奥島孝康氏
奥島孝康氏

当時の早稲田大学総長・奥島孝康氏が、感謝状の授与に、大橋一章氏を同行して、奈良の日吉館を訪れました。
この時、横看板の扁額は屋根から下されて、部屋に据えられていたそうですが、大橋氏は奥島総長に、

「早稲田に博物館が出来たら、是非ともこの看板を貸して欲しい。」

とオバサンに頼んでもらえるように、言ったそうです。

部屋に据えられた横看板の扁額の前で、総長が、そのようにお願いしたところ、
オバサンは、快く

「この看板は、永久にお貸しする。」

と応えてくれたそうです。

部屋に下された名物看板の横に座る田村きよのさん
部屋に下された名物看板の横に座る田村きよのさん

オバサンは、その翌年、平成10年(1998)、88歳で亡くなります。
同じ年、平成10年に会津八一記念博物館が、開館することになりました。

そして、会津八一揮毫の二つの日吉館の看板は、会津八一記念博物館に保管されることになったのだ、ということでした。


もう一つ、会津八一が日吉館に遺した、掛け軸の話です。

「いかるがの さとのをとめは よもすがら きぬはたおれり あきちかみかも」

という、鹿鳴集に載せられた会津八一の歌は、みなさんよくご存じのことと思います。

日吉館には、会津八一の書によるこの歌の軸物があり、八一の書のなかでも、大変良く書けた出来の良いものであったそうです。
薬師寺・高田好胤師
薬師寺・高田好胤師

この軸物、薬師寺の高田好胤師が大変気に入り、何度も何度も、譲ってほしいと、日吉館のオバサンを訪ねてきたそうです。

オバサンも、ホトホト根負けして、最後には、
「そこまで言われるのなら、差し上げましょう。」
といって、高田師を一瞬喜ばせたのです。

が、間髪入れず、
「その代わりに、お宅様の聖観音様を持ってきて欲しい。」
と、切り返したのだそうです。

以来、高田師も、この話はしなくなったとのことでした。

こんなエピソードのある軸物も、今般、会津八一記念博物館に寄贈されたそうです。

他にも、面白い話がいくつかありましたが、大橋氏の講演からの紹介話は、これくらいにしておきます。


會津八一記念博物館助手・金志虎氏の興味深い研究報告がありました。
「日吉館の宿泊人名簿(宿帳)について」
と題する報告です。

金氏は、今般寄贈された「日吉館の宿泊人名簿」、40冊と、欠落部分のコピー1冊に書かれている人たちについて、現在検証分析中だそうです。

宿帳は、大正6年(1917年)から平成7年(1995)までの80年間近くに及びます。
日吉館が、下宿兼旅館業を始めたのは大正3~4年頃のことですから、旅館業間もないころからの宿帳が遺されていることになります。
欠落箇所もいくつかあるようで、最長10年以上の間の欠落もあるとのことです。

日吉館の宿帳・会津八一の署名がある(上段)
日吉館の宿帳
上段・大正11年11月、下段・昭和18年7月
上段には会津八一の記名が見える


この宿帳には、仏教美術史、建築史、古代史などの世界の、綺羅星の如くの著名な学者たち、誰もが名を知る文人、芸術家、評論家などなどが、オンパレードで登場します。

金氏からは、どんな名前が登場するのかという紹介説明が、宿帳画像を交えてありました。
登場する学者、著名人については、
HP連載「奈良の宿あれこれ」<その4>をご参照ください。

面白かった話は、こんな発見でした。

大正6年(1917年)、第1冊宿帳の冒頭には、「滋賀県高島郡士族・井上傳介」の名が記され、次頁には立命館・野球部のメンバーの名前が連なっています。
ただ、同じ年に、福井利吉郎、中川忠順、上野直昭、藤懸静也といった名前が見られますので、奈良博前の立地の宿ということで、自然と研究者・文化関係者の最寄りの宿になっていたのでしょう。

日吉館に、欧米の外国人が初めて泊まったのは、大正13年(1924)の事でした。
欧米人3人の名前が、宿帳にカタカナ、アルファベットで登場します。

興味深かったのは、宿帳への登場件数ベスト3の名前です。
著名学者のベスト3ということですが、

会津八一:18回

足立 康:18回

金森 遵:17回

となっているそうです。

日吉館定宿、贔屓の二大巨頭、会津八一と足立康の名前が挙げられるのは、当然の事という処でしょうが、意外であったのが、「金森遵」の名前が挙がったことです。

金森遵という、美術史学者の名前はご存じでしょうか?

「日本彫刻史要」(昭和23年・高桐書院刊)、「日本彫刻史の研究」(昭和24年・川原書店刊)
という著作で知られる、日本彫刻史の研究者です。
なかなか切れ味良く、思い切った論陣の論考で、惹き付けられるものがあり、熱心に読んだ記憶があります。

東京帝大美術史学科を卒業し、昭和8年に東京帝室博物館に籍を置いたのですが、昭和19年に39歳で召集され、翌20年、フィリピンにて40歳で戦死します。

金森が日吉館に泊まったのは、学生時代、博物館勤務の十数年間(うち2年間は奈良博勤務で奈良に居住)ですので、その間に二大巨頭に迫る17回、日吉館に泊まったということになります。
東京から奈良まで出かけるということが、たいそう大事であった昭和初期に、大変な頻度であったと思います。

金森自身が、大の日吉館ファン、日吉館贔屓であったのでしょうか?
当時、奈良を訪ねた頻度が断トツで、宿は日吉館ということだったのでしょうか?
「金森遵と日吉館」にまつわるエピソードが、あまり伝えられていないようで、良くは判りませんが、この宿泊回数の多さは、金森遵の
「奈良仏像研究への熱き情熱」
の証左であるように感じました。


研究報告の後は、パネルディスカッション、会場参加者との質疑応答と続きました。

会場の参加者からも、日吉館の思い出話を交えた発言もいくつかあり、大変なごやかな、質疑となりました。

あの日吉館贔屓の二大巨頭の一人、「足立康」のご兄弟のお孫さんにあたる方からの、思い出を交えたご発言もありました。

また、「根本さん」という方のご発言もありました。
根本さんは、若き頃、日吉館の一員のように手伝いをされていた、日吉館党の方であったとのことです。

金氏の、日吉館の宿帳についての研究報告の中で、

「宿帳を見ると、終戦の日(8/15)前後の日吉館は、宿泊人は誰もなく、終戦の日当日に一人の泊り客がいただけであった。」

という説明があったのに対し、

根本氏から、

日吉館に下宿していた鷹司平通氏
日吉館に下宿していた鷹司平通氏
「終戦前後の日吉館は、宿屋というより、下宿という感じで滞在している人が、いたのが実情であったと思う。
例えば、鷹司 平通(タカツカサ トシミチ)氏(五摂家の一つだった鷹司家の当主)は、当時、日吉館に下宿しており、日吉館で終戦の日を迎えたのは知られている話。

また、日吉館の歴史のなかでは、宿帳には記されていないが、折々日吉館を訪れて、文化サロン的交友を深めていた人々も数多くいたのが実情。

宿帳に登場する人物だけで、日吉館をめぐる人々を語るだけではなく、多面的な眼でみていく必要もあるのでしょう。」

こんなご発言もありました。

「さすがに、日吉館党といわれる人は、奥が深い!」

と、感心した次第です。

同時に、「根本さん」という名前を聞いて、

「この方は、単行本『奈良の宿・日吉館』に登場する、根本信義さんという人に違いない!!」

と確信しました。

同じ日吉館党の、針生千絵さんと結婚したという、根本信義さんだと思います。
この話は、日吉館にまつわるエピソードのなかでは、大変有名な話です。
「奈良の宿・日吉館」には、「日吉館に結ぶ愛」という章立てで、二人のことが語られています。

「奈良の宿・日吉館」に綴られている「日吉館に結ぶ愛」の章
「奈良の宿・日吉館」に綴られている「日吉館に結ぶ愛」の章
青山茂執筆「日吉館の星霜~田村きよの半世紀」の一節に綴られている


針生千絵さんは、著名な評論家・針生一郎氏の息女です。
針生一郎氏は、「奈良の宿・日吉館」に寄せた「父娘二代の縁」と題する寄稿で、この話にふれています。

針生一郎氏
針生一郎氏
針生氏は、このように語っています。

「(昭和55年~1980)三月末、その娘がやはり日吉館の常連の根本信義と結婚した。

この結婚の事実上の推進力は、自分の目の黒いうちに二人を一緒にしてやりたい、というおばさんの熱意だが、日吉館大先輩の宮川寅雄さんご夫妻に媒酌をお願いし、新郎新婦を含め常連・友人らが日吉館に泊まり込み、氷室神社で挙式の上、おばさんら手製の料理を興福寺の広間に運んで、披露宴が行われた。

裏方に徹してついに式にも出なかったおばさんは、あとで疲労のため寝込んだらしい。

わたしは娘をとおしてできた日吉館との太いきずなを、いま感慨深くうけとめている。」

この話の主人公、根本信義さんも、このシンポジウムにいらっしゃっていたのでした。

こんな、和気あいあいとして、良き思い出の「奈良の宿・日吉館」を振り返り、懐かしむという会場の雰囲気に包まれて、シンポジウムは、終幕を迎えました。


最後に、会場にいらっしゃった田村きよのさんのご子息の夫人が、司会の方から指名を受け、一言、ご挨拶がありました。
今般、「日吉館の宿帳、会津八一の横額など」を、寄贈された方です。

「会場参加の方々も含め、皆さんの日吉館に対する愛情には、本当に気持ちが込められていて、有難く思います。
皆さんの心の中に、日吉館という宿のことが、少しでも残り続けていることを感じ、懐かしく嬉しく思います。」

このように、感慨を込めて話されていました。

ジーンと心に訴える話でした。

参加の皆さんは、一人ひとりの

「自分にとっての日吉館のそれぞれの思い出」

に浸りながら、会場を後にされたことと思います。

看板の下ろされた日の日吉館(昭和57年・1982年12月31日)
屋根上の名物看板の下ろされた日の日吉館(昭和57年・1982年12月31日)
オバサン・田村きよのさんは72歳の時、廃業を決意し、看板を下ろしました
日吉館党の人々が、ボランティア支援で営業を再開、平成7年(1995)完全廃業しました



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