観仏日々帖

古仏探訪~京都府精華町・常念寺の菩薩立像 【その2】  【2014.7.12】


ここからは、「神仏習合と常念寺菩薩立像」についての話です。

常念寺・菩薩形立像
常念寺・菩薩立像

この菩薩立像は、祝園神社の神宮寺であった薬師寺から、神仏分離の運動の中で、常念寺に移坐されてきた像であることは、【その1】でふれたとおりです。

明治11年(1878)のことでした。
祝園神社の有力氏子の人物が、常念寺の檀徒でもあったことから、常念寺で預かることになったということです。

祝園神社
祝園神社

祝園神社・神宮寺の本尊であったであろう、この菩薩形像。
その姿からだけでは尊名がはっきりしないのですが、いかなる尊像として祀られてきたのでしょうか?

実は、「薬師菩薩」という尊名の、神仏習合像として祀られていたようなのです。

「薬師菩薩??」

聞いたこともないような呼び方です。

「薬師」なのに、何故「菩薩」なのか?
「薬師は如来でしょう!」
と言いたくなります。
如来の尊格しかありえない筈です。


しかし、「薬師像」、すなわち「菩薩形の薬師像」として、祝園神社の神宮寺・薬師寺に祀られて来たのは、間違いないようです。

その証拠とも云えるのは、本像が安置される堂内には、薬師の眷属である十二神将像(江戸時代)が祀られていることや、薬壺を持つ江戸時代の左手先が、遺されていることです。
この薬壺を持つ手先は、昭和25年の修理時に、新しく後補された現在の左手先に変えられています。

常念寺・菩薩形立像の脇に祀られる十二神将像
常念寺・菩薩形立像の脇に祀られる十二神将像

昭和修理前につけられていた薬壺を持つ左手先(江戸時代)
昭和修理前につけられていた薬壺を持つ左手先・江戸時代
(この写真は「ブログ・然るを訊く」から転載させていただきました)



そうはいっても「菩薩形の薬師像」というものは、本当に存在したのでしょうか?

実は、古文献に「菩薩形の薬師像」が造られていたという記録が残されています。
六国史の第五「文徳実録」の天安元年(857)年の条に、

「在常陸国大洗磯前・酒列磯前両神、号薬師菩薩明神」

とあって、この両神が「薬師菩薩明神」と号されているのです。

神仏習合思想の初期においては、「神」には「菩薩」の尊格が与えられているようです。
こうしたなかで、平安前期には、薬師菩薩という神の概念が生まれてきたということのようです。

常念寺・菩薩形像は、神仏習合思想による、「薬師菩薩像のきわめて貴重な遺例」と考えられている訳です。

そうだとすると、この菩薩形像は、祝園神社・祝園神を化体する

「神像」すなわち「「薬師菩薩明神像」

であったのだ、ということになるのです。


こうした薬師菩薩という観念で造られた神仏習合像としては、

太秦・広隆寺の吉祥薬師と呼ばれる薬師如来像、
京八幡・薬薗寺の薬師如来像

が知られていますが、これらの像は吉祥天に似た天部形の姿をしています。

広隆寺・吉祥薬師像..京八幡薬薗寺・薬師如来像
広隆寺・勅封薬師像         京八幡薬薗寺・薬師如来像

祝園神社伝来の常念寺・菩薩形像は、これらの像と違って、「普通の仏菩薩の姿を顕した薬師菩薩像」ですが、この姿の遺例は他にはなく、唯一のものだということです。

神仏習合思想史、神像彫刻史を語るうえでは、誠に貴重で、興味深い像だということなのです。


伊東史朗氏は、祝園神が平安前期に遡るものであること、常念寺像がその神仏習合像とみられることの歴史的根拠を、このように述べています。

「『新抄格勅符抄』には、大同元(806)年、祝園神の封戸を認定する文書を収録しており、平安時代の初頭にはこの神社が存在していたことは明らかである。

その後貞観元(859)年5月、京畿七道の諸神267社に進階および新叙が授けられた際、祝園神も従五位上に進んだ。

本像の古風な表現は、平安時代前期(9世紀)をくだるものではないことを示すので、製作の時期は、従五位上に進階した貞観元年ごろが、可能性として考えられよう。」
(精華町史~古代中世の仏教美術・精華町史本文編所収1996年)


【その1】では、この像のことを、「菩薩像」とか「仏像」とか呼んできました。
しかし、造像時の本来の造像意図に則って呼ぶとすれば、神仏習合による「神像彫刻」とか「薬師菩薩像」と呼ぶべき、ということになるのでしょうか?

常念寺・菩薩形立像
常念寺・菩薩形立像
「仏力を以て神威を増す」薬師菩薩神像であったのだろうか


この像が、9世紀に神像として造られたのだとすれば、

「凛とした男らしさ」とか「堂々たる雄渾さ」

といった造形表現も、十分納得できるように思えてきました。

「仏力を以て神威を増す」

という神の願いを体現した、造形表現のあらわれとも云えそうです。


さて、このような「仏様」の姿をした像が、本当に「神像」なのでしょうか?

「神像」と言えば、奈良・薬師寺の八幡三神坐像や嵐山・松尾大社の三神坐像などのような姿をした像のことを言うのではないでしょうか?
常念寺の菩薩像は、どう見ても仏様の姿をしているように思えます。

薬師寺・三神像~僧形八幡神像

薬師寺・三神像~仲津姫命像(向かって左)...薬師寺・三神像~神功皇后(向かって右)
薬師寺・三神像~真中・僧形八幡神像、向かって左・仲津姫命像、向かって右・神功皇后像


松尾大社・神像~男神像

松尾大社・神像~男神像...松尾大社・神像~女神像
松尾大社・神像~真中・男神像、向かって左・男神像、向かって右・女神像

従来語られてきた神像の考え方からすれば、常念寺の菩薩像などを神像と考えるかどうかも、まだまだ異論があるのかもしれません。

神像彫刻というものの概念につては、いまだにしっかり確立したものがないようですが、
近年は、神像の概念を、僧形八幡神や俗体の姿の像よりも広げて、地蔵菩薩のような僧形、吉祥天のような天部形をした像のなかにも、数多くの神像が含まれているのではないかという考え方が、強まってきているようです。

「神像とは、どのような像のことを云うのか?」

これまで、どのように考えられてきたのでしょうか?

私は、神像のことや、神仏習合といったことは勉強不足で、全くもって良く判りません。
たどたどしく、おぼろげながらという処ですが、ちょっと振り返ってみたいと思います。


神像彫刻の研究については、ご神体の神像の多くが厳重に秘され、拝することが難しいことから、あまり深く考究されることが少なかったようです。
所説の発表も、多くはありません。

戦前、渡辺一氏が「神像彫刻」(日本美術大系2巻・1916誠文堂新光社刊)という所論で、このように述べています。

・神像は、平安時代初期に神仏習合思想を背景に出現した。

・神像は、仏像の手法で制作されたが、面貌表現において仏像との差異化を目指している。

・平安後期になると、形態・彫法が簡素になり、脚部を省略する素朴な像も出現する。

この頃、初期の神像とされていたものは、
松尾大社三神像、薬師寺八幡三神像、石清水八幡神像(1945焼失)、熊野速玉大社諸神像など
です。

戦後になって、東寺・八幡三神像が発見され、これに加わります。

ご覧のとおり、僧形の八幡神像か、俗体の衣装・装束の姿の像のことを、神像としています。
一般常識的な「神像」のイメージだといえます。
仏像の姿のイメージとは、全く異なっています。
渡辺氏も、
「神像は、仏像との差異化を目指してる。」
と論じています。


こうした神像出現の時期や、神像の概念を、大きく覆すような新説が、戦後、昭和30年代に発表されました。
長らく奈良博物館に籍を置いた岡直己氏の説です。
氏の博士論文「神像彫刻の研究」(1966角川書店刊)におさめられています。

岡直己著「神像彫刻の研究」


岡氏はこの中で「僧形神像考」「薬師菩薩神社の神体考」という、ユニークな論文を発表しました。

思い切って、端折って説明しますと、次のようなものです。

【その1「僧形神像考」】

・従来、平安前期の地蔵菩薩像とされてきた像のうち、以下の像は、地蔵菩薩ではなく「僧形の神像」であると考えられる。

・その由緒、表現などから神像と考えられるのは、橘寺・伝日羅像、融念寺・地蔵菩薩像、法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪神社伝来)である。
(弘仁寺・明星菩薩像、当麻寺・伝明幢菩薩像も対象候補者群に入る)

・8世紀の神像の一形態としては、僧形八幡神像以外にも、このような立像の僧形神像があり、神像発生期には、地蔵菩薩のような仏像の形式をとる神像が存在した。


橘寺・伝日羅像...融念寺・地蔵菩薩像
橘寺・伝日羅像           融念寺・地蔵菩薩像

法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪寺伝来)
法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪寺伝来)

弘仁寺・明星菩薩像...当麻寺・伝明幢菩薩像
弘仁寺・明星菩薩像           当麻寺・伝明幢菩薩像


【その2「薬師菩薩神社の神体考」】

・初期神像の形態として、菩薩形の(薬師菩薩という)像が存在した。

・太秦・広隆寺に残る2体の薬師像、即ち「勅封薬師像」「祖師堂薬師像」と呼ばれる天部のような菩薩形像や、京八幡・薬薗寺の吉祥薬師と呼ばれる「薬師如来像」がこれにあたる。

・広隆寺像は、乙訓社・向日明神の神像であったと考えられ、薬薗寺像は、石清水八幡関係の像と考えられる。

・ここでいう「薬師」とは、大乗仏教の云う薬師如来を意味するのではなく、現世の医薬的霊験あるという意味に解される。

・こうした神仏習合による神像造立の思想は、古文献(先に挙げた六国史の第五『文徳実録』の例等々)に見られるとおりである。


広隆寺・祖師堂薬師像...広隆寺・勅封薬師像
広隆寺・祖師堂薬師像          広隆寺・勅封薬師像

薬薗寺・薬師如来像
薬薗寺・薬師如来像

大胆に端折りましたが、以上のようなものです。

平安初期における神像の発生形態として、従来のイメージの神像に加えてというか、それらの先行形態として、地蔵菩薩形や、天部形・菩薩形をした仏像のような神像の存在を想定したのです。


この説は、初期神像の発生について、大きな一石を投ずるものであったようですが、即座に支持を得るということもなかったようです

井上正氏は、この新説について、このように回想しています。

「同氏が行った提言は、いずれも当時の常識を大きく超える大胆な所説で、その魅力ある内容にもかかわらず、学界に賛否の論を巻きおこすことなく、時には奇説のような扱いを受けて今日におよんだ。」
(神仏習合の精神と造形「図説日本の仏教第6巻」所収1988年)

当時は、「地蔵菩薩形や、天部形・菩薩形の神像」という発想は、突飛で大胆に過ぎたのかもしれません。
橘寺・伝日羅像や融念寺・地蔵菩薩像、法隆寺・地蔵菩薩像などが「僧形神像」だといわれただけでも、

「エッ!!あの地蔵菩薩が、神像?」
「お寺でも、展覧会でも、地蔵菩薩と書いてあるじゃないか!」

と思ってしまう処です。


岡氏の説が発表されてから20余年の後、井上正氏は、岡氏の説を継承し、もっと大胆な神像論を展開しました。

井上氏は、「神仏習合の精神と造形」(「図説日本の仏教第6巻」所収1988年)という著作で、神像というものをこれまでにない新たな視点でとらえ直すべきとし、次のように提唱しました。

・神仏習合像は神像、僧形神像、菩薩・天部形神像のみではなく、通形の仏像形式のものも、幅広く加えられるものが存在する

・神仏習合の原初的発生経緯をたどってみれば、岡氏の主張する諸像のほかにも、
兵庫・満願寺天部形像、大阪・勝尾寺天部形男神像、京都・常念寺菩薩像、
福島・勝常寺天部形像、奈良・定林寺僧形像、奈良・正覚院僧形像、
京都・神応寺伝行教律師像、神奈川・箱根万巻神社万巻上人像
なども、皆、神像と考えられる

というものです。

兵庫・満願寺天部形像..奈良・定林寺僧形像
兵庫・満願寺・天部形像          奈良・定林寺・僧形像

神奈川・箱根万巻神社万巻上人像
神奈川・箱根神社・万巻上人像

京都・神応寺伝行教律師像
京都・神応寺・伝行教律師像

井上氏は、「霊木化現像」というかねてからの所論と、神仏習合という問題を融合させてとらえて、古式の木彫像は神仏習合思想によって造られたもので、その制作は行基によって行われたとしています。

これらの造像を、「下からの神仏習合」と位置づけ、宇佐八幡のような「国家による神仏習合」が進められる先駆けをなしたものとしています。
したがって、登場する諸像の制作年代は、皆8世紀に遡るという、井上氏流の結論となっています。

井上氏の言う、行基伝承とか、制作時期を8世紀に遡らせるという話は、ちょっと別においておくとして、
このように神像の概念を幅広く考えるという見方は、近年、段々と市民権を得はじめているのではないかと思います。


ちょうど10年前(2004)、「神像の美」と題する、別冊太陽のムック本が発刊されました。
紺野敏文氏の監修で、神像の美しいカラー写真が満載されています。

別冊太陽「神像の美」


ここに掲載されている諸像を見ると、「神像」というイメージが一変してしまうような、アッ!と驚くラインアップです。
神像の概念を広角でとらえたものです。

いわゆる一般イメージの神像のほかに、岡直己氏、井上正氏が、神像と考えた、
「僧形諸像、菩薩天部形諸像」
が全部掲載されています。

そのほかにも、
大阪貝塚・孝恩寺・難陀龍王像・跋難陀龍王像、
福岡・浮嶽神社・地蔵像・薬師像、
三重・金剛証寺・雨宝童子像
なども、神像の一形態として掲載されています。

大阪貝塚・孝恩寺・難陀龍王像
大阪貝塚・孝恩寺・難陀龍王像

福岡・浮嶽神社・薬師像
福岡・浮嶽神社・薬師像


ちょっと冗長で退屈な話が、続いてしまいました。

これまでの初期神像発生についての所説を振り返ると、神仏習合思想による造像、神像というものを考えるとき、結構、広角で多面的な視点で「カミとホトケとの関係」を見ていくことも必要なのだろうと、今更ながら思った次第です。


常念寺の菩薩像が「薬師菩薩」なのか?
神仏習合による神像なのか?

そんなことを考えているうちに、初期の神像の色々な有様に、眼を拡げてみることができました。


神仏習合の初期においては、神には菩薩の尊格が充てられたようで、「神」と「菩薩」は、切っても切れないもので一体化していきます。

八幡神は8世紀末頃には「大菩薩」と呼ばれたことが知られていますし、八幡神を「護国霊験威力神通大菩薩」と呼ばれていたという史料もあるそうです。
多度神宮寺の伽藍縁起資財帳(801)には「多度神の多度大菩薩像」という記録も残されています。

そういえば、今でも

「南無八幡大菩薩」

と唱えるなどというのを、耳にすることがあります。

こんなことをつらつら考えていると、常念寺像のような姿の「薬師菩薩像」が、もっと遺されていても良いんじゃないか?
という気がしてきました。


これまで、三度も常念寺を訪れて、菩薩像を拝してきましたが、

「薬師菩薩という神像」

ということについて、深く考えて拝したことはありませんでした。

にわか勉強の「神仏習合像と薬師菩薩」の話でしたが、
綴り終えて、また新たな気持ち、新たな眼で、もう一度、この菩薩像を拝しに、常念寺を訪れたくなってしまいました。

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