観仏日々帖

新刊・旧刊案内~「奈良帝室博物館を見る人へ」小島貞一著 【その2】


さてここからは、もう一度、「奈良帝室博物館を見る人へ」の本に戻って、当時の展示の有様を振り返ってみたいと思います。

各室の展示作品の内容、区分は、次のようなものでした。

大正14年(1924)の奈良帝室博物館・各室の展示品目

大正14年(1924)の奈良帝室博物館・各室の配置図
大正14年(1924)の奈良帝室博物館・各室の展示品目と各室配置図

この建物は、以前の旧館、今の「なら仏像館」の建物です。

現在は、このスペースの全てを使って仏像だけが展示され「なら仏像館」となっています。
大正14年当時は、このスペースの中で、彫刻(仏像)には、第1室から第3室までしか割かれていません。

絵画、工芸、文書などの展示もあるので、当然仕方ないところでしょうが、この狭い3つの部屋に、先に挙げたリストの仏像が、全部並べられていたのですから、本当に狭苦しい展示であったことは、容易に想像がつきます。

国宝級の名作仏像が、林立して、ごった返していたという感じではなかったかと思います。

各室別の展示仏像の配置略図を見てみると、ご覧のとおりです。

第1室の展示仏像配置略図~大正14年(1924)
第1室の展示仏像配置略図~大正14年

第1室には、飛鳥~天平時代の名品仏像が、狭い部屋にひしめきあって大量に展示されています。
百済観音、法輪寺・虚空蔵菩薩、大安寺・不空羂索、興福寺・阿修羅・迦楼羅が、小さな一つの島に寄せ合わさって展示されています。
興福寺の八部衆・十大弟子像も、両側の壁に並べられ林立状態のようです。
大変な混み合いぶりです。


第2室の展示仏像配置略図~大正14年(1924)


第3室の展示仏像配置略図~大正14年(1924)
第2室・第3室の展示仏像配置略図~大正14年

秋篠寺の伎芸天・帝釈天などが、第3室の鎌倉時代作品の展示室に展示されているのは、興味深い処です。
ご存じのとおり、これらの像は、頭部は奈良時代の脱活乾漆像、体部は鎌倉時代の後補の木彫が組み合わされた像です。
現在では、天平の美作として親しまれている仏像ですが、当時は鎌倉時代作品に分類されていたようです。
ひょっとしたら、第1室のあまりの混み合い状況で、やむを得ず鎌倉時代の第3室に展示されたのかもしれませんが・・・・・

これらの仏像が「奈良帝室博物館に展示されていた当時の仏像写真」が手元にありましたので、ご紹介しておきます。
明治43・44年(1910・11)に奈良帝室博物館にて印刷発行され、販売されていた写真です。
50~60葉ほどあり、かつて古書店で入手したものですが、3葉ほどご覧ください。
定価は、「1葉・金五銭」となっていました。

明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺・阿修羅像)..明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺・阿修羅像)
明治43年(1910)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺・阿修羅像)"


明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(唐招提寺・獅子吼菩薩像)...明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(唐招提寺・獅子吼菩薩像)
明治43年(1910)奈良帝室博物館出陳仏像写真(唐招提寺・獅子吼菩薩像)"


明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺北円堂・世親像)...明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺北円堂・世親像)
明治43年(1910)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺北円堂・世親像)"


当時の「各室での仏像展示風景の写真」も残されていますので、ご紹介します。
岩田茂樹氏「奈良国立博物館の仏像展示」(なら仏像館・名品図録・所載解説)に掲載されていた風景写真です。

奈良帝室博物館~第1室から第2室を望んだ写真

奈良帝室博物館~第1室から第2室を望んだ写真・展示仏像名
奈良帝室博物館~第1室から第2室を望んだ写真と、展示仏像名"



奈良帝室博物館~第3室仏像展示風景写真
奈良帝室博物館~第3室仏像展示風景写真・展示仏像名
奈良帝室博物館~第3室仏像展示風景写真と、展示仏像名"


この、ごった返した仏像の展示の有様について、和辻哲郎は「古寺巡礼」のなかで、このような厳しいコメントを、語っています。

「それにつけても博物館の陳列の方法は、何とか改善して欲しい。
経費などの都合もあることで、当事者ばかりの罪でもあるまいが、今のままでは看者に与える印象などはほとんど顧慮せられていない。
・・・・・・・・
せめて一つ一つの仏像が、お互いに邪魔をし合わないで独立した印象を我々に与えるように、もう少し陳列の順序と方法を考えれば、短時間に見ていこうとする者にも、もう少しまとまった、強い印象を与え得るかと思う。
・・・・・・・・・
あの入口の陳列壇などには、そのために特に一室を設けてもいいような傑作が、いくつも雑然と並べられている。
そのためにどれほど見物が損をしているか解らない。
当事者に解りいい言葉でいうと、
『こういうことは、日本の恥である。
こういうことがあるから、西洋人が日本人を尊敬しないのである。』
国宝という言葉を、もっと生かして貰いたい。」

和辻の批評、コメントは、「そのとおり」と思いますが、
傑作仏像のほとんどが、博物館を離れて所蔵寺院に戻ってしまった現在の状況を思うと、

「混み合ってっても良かったから、これだけの仏像を一堂に会して、それぞれを見比べ、比較してみるチャンスが欲しかった。」

という気持ちにも、本音のところでなってしまいます。


当時の奈良帝室博物館は、これだけの傑作仏像を、十把一絡げに呑み込むが如くに、所蔵寺院から集めることができたのでしょうか?

奈良に博物館が開館したのは、明治28年(1893)4月のことでした。
はじめは、「帝国奈良博物館」と称されましたが、5年後の明治33年(1898)には「奈良帝室博物館」と名が改められています。

博物館では、展示する文化財を主として奈良の社寺から集めたのですが、
開館当時の展示品は、御物11点、宸翰22点、歴史関係品38点、美術品91点、美術工芸品91点などであったと記録に残されています。

「奈良帝室博物館彫刻一覧」(第10版大正13年刊・明治43年初版)
「奈良帝室博物館彫刻一覧」
(第10版大正13年刊・明治43年初版)
奈良博開館後、15年を経た明治43年(1910)に初版が出された
「奈良帝室博物館彫刻一覧」
という冊子によりますと、そこには221件・296件の彫刻作品が収録されており、そのうち仏像は126件・188点となっています。

出展されていたのは、さきに見ていただいたように、傑作名品ぞろいですから、博物館展示可能な大きさの名品仏像は、根こそぎ奈良帝室博物館に集められたといっても過言ではありません。
出展品があまりに多すぎて、陳列棚に一体だけではなく、二重三重に並べたため、肩ごしに仏像を見るという有様であったと、伝えられています。

当時、博物館では、所蔵社寺に出展要請をして集めたものだと思いますが、要請のあった社寺側も、廃仏毀釈の傷跡がいまだ生々しかった時期でもあり、喜んで出展に応じたということだそうです。

そうはいっても、各社寺は、大切な宝物・仏像の出展要請に、皆押しなべて、進んで応じたのでしょうか?

実は、これだけのものを集め得た訳には、当時の政府の博物館運営に関する行政方法、「官から民への命令」といった仕組みに理由があるようです。

出展の仕方には3通りがありました。
「寄託」「出品」「出陳」
の3通りです。
「奈良帝室博物館彫刻一覧」の凡例を見ると、それぞれの意味は、このように記載されています。

寄託とあるは、社寺より寄託するものを云い、
出品とあるは、官庁又は一般人民より出品するものを云い、
出陳とあるは、内務大臣の命令によりて、社寺より出陳するものを云う。」

なんと、「出陳」というのは、

「政府の命令で、強制的に出陳させる。」

というもので、ある意味強引な方法で、名品・傑作を博物館に展示させたのでした。

先に【その1】でご覧いただいた、単行本「奈良帝室博物館を見る人へ」の展示仏像リストの右側に、「出陳」「寄託」の区分の*マークをつけておきましたが、「出陳」の方に*マークがついている仏像は、「政府命令による強制出品」ということになります。
リスト全部で89件のうち、50件が「出陳」で、なんと5割を超えています。

また、中身を見てみると、傑作中の傑作は、みな命令による「出陳」になっています。
法隆寺・百済観音像、興福寺・十大弟子八部衆像、元興寺・薬師如来像、興福寺・無着世親像、金剛力士像、秋篠寺・伎芸天像
などは、みな「出陳」になっています。

さすがに、当時の「官命の強さ」というのがしのばれます。

各社寺とも、めぼしいものは皆博物館に出品ということで、その運搬だけで2年数か月を要したといいます。

この大がかりな古美術品の運搬をみて、時の奈良県知事・古沢滋が、
「こんなに大量に運び出してもらっては困る」
と、宮内省に抗議したという有名な話が、伝えられているほどです。

命令出陳させた社寺の国宝級宝物には、年間1点につき最高60円からグレードをつけて出展料が払われたそうです。
信貴山縁起絵巻や百済観音は、最高の60円組であったとのことです。


「仏像彫刻の精華」を集めた博物館も、昭和に入ってからは、陳列の「顔」であった仏像が所蔵寺院に還る動きが始まります。

明治以来の、文化財を博物館に移して安全に保管しつつ展覧に供するという方法から、国が国庫補助により各社寺の収蔵庫建設を援助し、現地で管理する宝庫へと、方針転換の流れにあったことによるものです。
また、昭和に入ると、大和の社寺は「観光ブーム」「社寺ブーム」という言葉が生まれるほどになり、社寺の宝物館建設の勢いが加速していきました。

聖林寺・十一面観音が大正末年頃、寺に還ったことは、先に記しましたが、昭和16年(1941)には、法隆寺大宝蔵殿が完成し、百済観音はじめ法隆寺の宝物が還っていきました。
その後も、昭和34年(1959)には、興福寺国宝館が開館、大安寺(1963)、薬師寺(1966)、唐招提寺(1970)、橘寺(1997)、にも収蔵庫ができるなどして、傑作仏像達は、どんどん博物館を去っていきました。

最近では、平成23年(2011)に、東大寺ミュージアムが開館、誕生釈迦像、試みの大仏、西大門勅額などが、博物館から東大寺に戻されました。


大正末年の「奈良帝室博物館を見る人へ」に掲載されている仏像達のなかで、現在も奈良博「なら仏像館」に展示されている仏像は、どれくらいあるのでしょうか。

「奈良帝室博物館を見る人へ」の展示仏像リストには、現在も残されている仏像を色分けしておきました。
リストに挙げた仏像は、全部で89件・137躯でしたが、今も奈良博に留まり展示されているのは、23件・26躯で、2割前後に過ぎません。

今の「なら仏像館」には、昔のような超傑作の仏像ばかりが展示されているわけではありません。
しかしその分、かくれた仏像や、ちょっとなじみの薄い社寺の名像など、キラリと光る見どころのある仏像の数々が、折々出陳されるようになり、興味深い展示がされるようになりました。
別の面で、仏像愛好者には「必見の、なら仏像館」になっているのではないでしょうか。


今回は、奈良の博物館に、「奈良の仏像の精華、精髄」が集められていた明治~大正当時の頃を、振り返ってみました。

ここに綴った、奈良の博物館の展示仏像の変遷についての話は、
岩田茂樹氏が
「奈良国立博物館の仏像展示」
という小論にまとめられたものがあります。

奈良博で出している「なら仏像館・名品図録」の冒頭に掲載されています。

「なら仏像館・名品図録」岩田茂樹氏「奈良国立博物館の仏像展示」所載

こちらからもずいぶん引用させていただきましたが、大変わかりやすく書かれており、参考になります。
ご関心のある方には、是非ご一読をお薦めします。


コメント

大変興味深く拝読しました。
なら仏像館で昔の博物館の写真が展示されているのを見て、全体はどうなっているのか気になっていまいた。

展示されている仏像のラインナップは本当にすごいです。現在これだけ揃えることができれば、確かにものすごい特別展になりそうです。

ところで、なら仏像館ができて、寄託仏がかなり公開されるようになりましたが、
それでも、なかなか倉庫からお出ましにならない仏像があります。
例えば、秋篠寺の救脱菩薩や、元興寺の十一面観音は、この前少し展示されていたと思いますが、すぐに引っ込んでしまいました。
保存上の理由か、他の理由か何かあるのか気になります…。

  • 2014/05/11(日) 22:32:14 |
  • URL |
  • とら #VBkRmpN2
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

とら様

コメント有難うございます。
「奈良帝室博物館当時の展示仏像」などといった話は、ただの懐古趣味的な話で、書き綴るのも如何かな?
とも思っていたのですが、ご関心を持たれていたようで、何よりです。

奈良帝室博物館の仏像展示の歴史は、近代奈良の文化史的なものを振り返り考えていく上では、なかなか興味深いものだと感じています。
ただ、これからも古寺巡礼・探訪ブームは、われわれ高齢者の増加に伴い、ますます盛況になりそうなので、「奈良仏像館」の展示仏像が、どんどん所蔵寺院に還っていくのではないかと、ちょっと心配でもあります。

秋篠寺の救脱菩薩や、元興寺の十一面観音が、すぐ引っ込んでしまう訳は、私もよくわかりません。

神奈川仏教文化研究所・管理人

  • 2014/05/16(金) 09:56:35 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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