観仏日々帖

新刊・旧刊案内~「仏教美術を学ぶ」中野玄三・加須屋誠著


大変興味深い、うれしい本が発刊されました。
「めずらしい本」と云っても良いのかもしれません。


「仏教美術を学ぶ」中野玄三・加須屋誠著
 

2013年12月 思文閣出版刊 【341P】 3000円


「仏教美術を学ぶ」


「仏教美術を学ぶ」という本の題名を見ると、誰もが、仏教美術の入門書・ガイドブックのような本だと思われるでしょう。
ところが、意外にも、内容は全く違うものでした。

一言でいうと、
「中野玄三氏の、50年余にわたる仏教美術史研究の軌跡を回顧する」
という内容の本なのです。

中野玄三氏は、みなさんよくご存じの仏教美術史学者だと思います。

何といっても、

「神護寺薬師如来立像は、和気清麻呂に対する道鏡の怨霊の祟りや、道鏡一派の呪詛を防御するために、あのような恐ろしく怖い姿に造られた。」

という説を発表し、大きな反響を呼んだ研究者として、有名な人です。

共著者の加須屋誠氏は、中野氏の弟子にあたる人で、奈良女子大学の教授をされている仏教美術史学者です。

この本は、中野氏と加須屋氏の対談形式で、中野氏の美術史研究の業績、研究成果を振り返るといった内容になっています。


目次は、ご覧のようなものになっています。

目次目次

目次目次


中身を読んでいくと、加須屋氏が、恩師宅を訪問し、間もなく90歳を迎える中野氏から、過去の研究業績について色々と話を伺う、という体裁の構成になっています。

中野玄三氏と対話する加須屋誠氏
中野玄三氏と対話する加須屋誠氏

主要な研究成果について、そのテーマに取り組んだきっかけ、
「仏教美術を学ぶ」を持つ加須屋誠氏
「仏教美術を学ぶ」を持つ加須屋誠氏
自説に至った道程や考え方、その後の学界での反響や論争などについて、加須屋氏が質問し、中野氏がやさしく答えていくという対話形式で進められています。
まだゼミ生の女性なども質問者に登場したりして、誰にもわかりやすく解きほぐして語られています。

「中野玄三論」と題した、加須屋氏執筆の110頁にもわたる長文の「中野氏の評伝」も掲載されており、これも読みごたえ十分です。


仏教美術史学者の、研究の軌跡を振り返ったり、自伝、評伝といった本は、これまで、まずお目にかかったことがありません。

歴史学者や考古学者の評伝、自伝は、数えきれないほどに数多く出版されています。

私も、
「二粒の籾~森本六爾伝」「学問への情熱~明石原人発見から50年」「考古学とともに75年~斉藤忠自伝」「考古の巨星~末永雅雄と橿原考古学研究所」
などといった本を、
面白く引き込まれるように読んだ記憶があります。

考古学と仏教美術史学とでは興味ある人の人口に、圧倒的な差があるが故ということなのでしょうか?
考古学のほうが、読み物になるような大発見や発掘があるからなのかもしれません。


望月信成著「一筋の細い道」
望月信成著「一筋の細い道」
仏教美術史学者の評伝、自伝的な本は、これまで私の知る限りは、
望月信成氏の、

「一筋の白い道」1984年 清文堂出版刊 【374P】 1600円

ぐらいしか、思い浮かびません。

この本は自伝ですが、仏教美術研究についてはほとんど語られてはいなくて、開設から30年間にわたって館長を務めた大阪市立美術館時代の回顧にほとんどのページが割かれています。
望月信成氏の研究の軌跡を回顧するというものではありません。


この「仏教美術を学ぶ」という本の出版で、仏教美術史学者の研究の軌跡を回顧する評伝的書に、初めて出会ったように思います。

「うれしい本が発刊されました。」

と、冒頭に書かせていただいたのは、そんな訳からです。


ところで、「中野玄三」という名は、私にとっては懐かしく、思い出深い名前なのです。

古い話になりますが、今から45年も前の学生時代のことです。
経営学部の学生で、学部の講義はサボりっぱなしでしたが、仏像に興味があって、文学部の毛利久教授の授業に顔を出してみたのです。
ご存じのとおり、毛利教授は「仏師快慶論」などで大変著名な仏教美術史研究の大家です。
授業は、毛利教授が指定したテーマについて、持ち回りで学生が発表するという演習形式で進められていましたが、私が顔を出した時、毛利教授が指定した最初のテーマが、
中野玄三氏が仏教芸術に発表した論文、
「8世紀後半における木彫発生の背景~神護寺薬師如来立像の制作事情を中心にして」(仏教芸術54号・1964年)
であったのです。

神護寺・薬師如来立像

神護寺・薬師如来立像~顔部
神護寺・薬師如来立像

私は、その発表を隅の方で、小さくなって聴いていたのですが、

「神護寺薬師のあの恐ろしげな顔貌の謎は、こんな風に考えれば謎解きができるんだ!」

「今までそんなこと考えてみたこともなかったけれど、すごいことを考える人がいるんだ!」

と、びっくりしてしまいました。
結構衝撃的で、すぐにこの中野論文を、気合を入れてじっくり読んだ記憶があります。

その頃から、中野玄三という人は、どのような人なのだろうかという興味関心が芽生えたのです。
それから40余年を経て、「仏教美術を学ぶ」という本が出版され、「仏教美術史学者・中野玄三」という人物と、その研究の軌跡を知ることができたというのが実感です。


そこで、この「神護寺薬師の中野説」とはどんなものかを、ごくごく簡単にご紹介しようと思います。
ご存じの方ばかりだと思いますが、ご容赦ください。

まず、中野氏が着目したのは
「神護寺薬師像は、何故周囲に畏怖感を与えるような、恐ろしい姿に造られたのか」
という問題です。

8世紀後半かと考えられる他の木彫像、たとえば唐招提寺講堂木彫群、元興寺・薬師如来立像などは、ボリューム感、迫力はありますが、神護寺像のような恐ろしげな顔をしていません。

唐招提寺講堂・薬師如来立像...元興寺・薬師如来立像
唐招提寺講堂・薬師如来立像             元興寺・薬師如来立像    .

中野氏は、神護寺像は、和気清麻呂が創建した神願寺の本尊であったと考え、あの怪異な顔貌は、この薬師像の造顕事由にあると考えました。
和気清麿は、宇佐八幡の神託を受け、称徳女帝の寵愛を受けていた時の権力者、道鏡を失脚させたのですが、その道鏡は下総の国で客死します。

神願寺を創建した和気清麻呂は、道鏡の怨霊の祟りや、道鏡一派の呪詛を防御するため、本尊薬師像を恐ろしげな畏怖感を与える姿に造ったのだと論じました。
本来あるべき仏の慈悲相をしていないのは、こうした調伏のための修法の本尊にふさわしい力を顕しているからだと考えたのです。

神護寺・薬師如来立像
神護寺・薬師如来立像

さらには、平安初期木彫発生の問題について、神仏習合や霊木信仰などの影響が論ぜられていますが、ここでは省かせていただきます。

この中野氏の「怨霊調伏説」は、大きな反響を呼び影響を与えました。
その基本的考え方は、その後、多くの研究者からも支持されていくようになりました。

井上正氏は、このように語っています。

神護寺・薬師如来立像~顔部
神護寺・薬師如来立像~顔部
「唐招提寺(講堂薬師)像が一般的な尋常の彫刻世界にあるのに対して、神護寺像はこれとは本質的に異なった精神をもつ。
形象においては相通ずるものをもちながら、顔つきや全身にみられる怪異ともいえる神護寺像の表現は明らかに異質である。
単なる彫刻手法の相違ではなく、造像に際してはじめから、別の狙いを定めて唐招提寺像とは異なった方向を目指していたことは疑いない。
・・・・・・・・
この問いかけに対して、明快ともいえる解答を提示されたのが、若き日の中野玄三氏であった。
『8世紀後半における木彫発生の背景-神護寺薬師如来立像の製作事情を中心にして』なる一論がそれである。

当時の私は、ただちにこれに賛同する力を具えるに至っていなかったが、十年余りを経て、この論文を精読し、神護寺像を怨霊退散のための仏像とするその主たる部分の画期的な内容に目を瞠った。
他の研究者たちにも、徐々にその重味が理解されるようになっていったようである。」
(怨霊世界の造形について~神護寺薬師如来立像と神応寺伝行教律師坐像【続古仏・古密教彫像巡歴2012.12法蔵館刊】)

中野論文は、画期的なものといえるものであったようです。

仏教彫刻史というと、彫刻的な造形の優劣や、様式の伝播、制作年代をどのように位置づけるかということが、当時主流でありました。
そこに、仏像の造形というものについての、宗教思想的背景や怨霊の祟りの防御のための造形といった新たな視点に踏み込んだのです。
美術史と政治史や宗教思想史を初めて結びつけて論じた画期的な説と位置付けられたといわれるようです。


この中野説については、その後さまざまな反論や、中野説に言及する論考が発表されています。
いちいちふれている余裕はないのですが、なかでも近年の、長岡龍作氏との論争は、結構知られています。

神護寺は、天長元年(824)に、神願寺と高雄山寺とが合併して、高雄山寺のあった現在の地に、建てられた寺院です。

神護寺・金堂
神護寺・金堂

長岡氏は、

神願寺が移転した事由が、「地勢汚穢」「地勢沙泥」によるとされており、そのような、けがれた場所にあった神願寺本尊が、新たな神護寺の本尊に移坐されることはありえないのではないか。

現薬師如来像は、神願寺ではなくて、高雄山寺の本尊であった像であり、七高山といわれる愛宕山系の清浄なる山に祀られた神護寺像は、薬師悔過の本尊で法華法会とも関係がある

という考えを示したのです。

中野氏は、この長岡説に対していくつかの反駁論文を発表し、長岡氏もこれに応えるなど、注目の論争となりました。

中野氏は、

丹波国・国分寺周辺の仏像調査や、木津川流域に数多く祀られる薬師像などから、薬師仏は汚泥を厭わず、むしろ進んで汚泥にまみれ、人々を救済する仏であることを論証して、

「地勢汚穢」「地勢沙泥」の地にあった本尊が移坐されることは考えられないとする長岡説に、強く反論しました。

最直近では、2011年に皿井舞氏が、
「神護寺薬師如来像の史的考察」(美術研究403号)
において、この問題に踏み込んだ論考を発表されています。

皿井氏は、
神護寺薬師如来像は、もともと神願寺本尊像であったと考えられることを論証するとともに、その恐ろしげな「異相」に顕わされた事由について、

神願寺が宇佐八幡の要請に応えて創建されたことに注目し、
「仏力をもって、神威を増す」
という造形表現の、神仏習合の一つの類型として考えるべきである

という考えを発表されています。


神護寺薬師如来像についての中野論文の話が、ずいぶん長くなってしまいました。

神護寺薬師像に関する中野論文は、次の本に収録されています。

「悔過の芸術~仏教美術の思想史」 1982年 法蔵館刊 

「8世紀後半における木彫発生の背景~神護寺薬師如来立像の制作事情を中心にして」が収録されています。

中野玄三著「悔過の芸術」


「日本仏教美術史の研究」1984年刊、「続日本仏教美術史の研究」2006年刊、「続々日本仏教美術史の研究」2008年刊  いずれも思文閣出版刊

中野玄三著「仏教美術誌研究」


さて、もう一度、中野玄三氏の研究の軌跡と回顧の話に戻りたいと思います。

良い機会かと思って、中野氏の処女出版「悔過の芸術」を、もう一度本を繙いてみました。

冒頭の「序章・仏教美術の思想史的研究」のインデックスをみると、このような項目が並んでいました。

1.死と宗教心   2.怨霊に対する薬師悔過 ・・・・・・ 
5.仏教美術の思想史的研究についての展望


そして、「あとがき」には、このように語られています。

「以上述べてきた私の半生の体験が、この『悔過の芸術』に収めた論文を生み出す動機を作った。
死に対する恐怖が、かつては日本の歴史を動かし、ひいては日本の美術史も左右させていたことがわかったからである。

なにか得体の知れぬ不思議な魔力が、ひそかに身辺にしのび寄ってくるのに気付いたとき、人はどれほど恐怖を覚え、救済主にすがりつこうとするか、私は少年のころからの体験から痛いほどわかっているように思う。

その救済主に対する絶対的な帰依が、人智の限りを尽くしてさまざまな偶像やその他の宗教美術を生みだすのである。
そして時代が遡れば遡るほど、その恐怖の度は純粋で大きく、それによって製作される宗教美術が人の心を打つことも大きい。

平安初期の薬師像や、平安・鎌倉両時代の来迎図の美は、このようにして私の心をとらえたのであった。」

中野氏は、自身の「死」や「怨霊」といったものに着目した美術史研究について、「自らの半生の体験」に深くかかわり、その動機があると語っています。

どのような、半生の体験があったのでしょうか?

「仏教美術を学ぶ」という本の、加須屋氏による「中野玄三論」には、中野氏の生い立ちから美術史学者になるまでが、丁寧につづられています。

その話を、ちょっとたどってみたいと思います。

中野氏は、大正13年(1924)、佐賀県唐津市に生まれます。

ところが、翌年、父が急性肺炎で急死します。
東京帝大卒で筑豊の鉱山会社に勤める働き盛りであったそうです。

家族は上京しますが、中野家は兄弟姉妹がいる母子家庭となったのです。
昭和9年(1934)最年長の姉が、20歳で肺結核で死去します。
当時人気職種のデパート勤務となり、間もなくの哀しい出来事であったそうです。

中野玄三氏
中野玄三氏
昭和14年(1939)中野氏は、経済的理由でお金のかからない陸軍予備士官学校を受験合格します。
軍隊に入隊しますが、「自分たち将校が全員死ぬまでは、敗戦にはならないだろう」と漠然と思ったとのことです。
士官学校同期の半分の1100名余もが、戦死、戦病死ということになってしまったそうです。
生き残った中野氏たちは、いずれも耐え難い苦痛と慙愧の念を感じずにはいられなかったということです。

戦後は、公職追放で仕事がなく、工員や守衛の仕事をしていましたが、東京国立博物館を訪れるようになり、「美術の勉強をしてみたい」と、強く念ずるようになりました。
一念発起勉強し、昭和28年(1953)、京都大学に入学、29歳の時でした。
10歳以上年下の学生達と一緒に学生生活を送り、京大文学部国史科を卒業します。

卒論は、「平安前期における民間の六道思想」で、中野氏自身が語っているように、「六道信仰・怨霊信仰」といった死の恐怖とか罪悪感というテーマを扱ったものでした。

昭和32年(1957)に卒業後は、京都府の文化財保護課に就職、この時代(10年間)に神護寺薬師如来の制作事情といった論文をはじめ、単行本「悔過の芸術」に収録された論文を発表しています。
大学卒業後まもなく30歳代で、学界の反響を呼ぶ鋭い論文を続々発表していたということになります。

その後は、奈良国立博物館、京都国立博物館に勤務、昭和60年(1985)に退官し、京都大学講師、嵯峨美術短期大学学長などを経て、現在90歳。
悠々自適の生活ということだそうです。

中野玄三自筆調書「禅林寺・山越阿弥陀図」..中野玄三自筆調書「禅林寺・山越阿弥陀図」
中野玄三自筆調書「禅林寺・山越阿弥陀図」(昭和45年)・「仏教美術を学ぶ」所載


この中野氏の半生をたどる話、哀しい死との度々の遭遇を知ると、

「私の半生の体験が、この『悔過の芸術』に収めた論文を生み出す動機を作った。
死に対する恐怖が、かつては日本の歴史を動かし、ひいては日本の美術史も左右させていたことがわかったからである。」

と、「悔過の芸術」のあとがきに書かれていることが、心に沁みるような気がしてきました。

中野氏が、神護寺薬師如来像の恐ろしげな畏怖する顔貌に謎に取り組み、一つの解を得たことや、その後の研究の軌跡は、
こうした苦しくつらい「死」に幾度も直面した、人生体験に根差したものであることを、「仏教美術を学ぶ」という本を読んで、初めて知り、心にずしりと重いものを感じるようになりました。

仏教美術を愛好し、また仏教美術史の研究者に関心のあるものにとってみれば、こんな「美術史学者の研究の軌跡と人生をたどる本」が、これからもいくつも刊行されることを願っています。
なかなか難しそうな願いではありますが・・・・・・

一読を、是非お勧めいたします。


追伸というわけではないのですが、
時を同じくして、中野玄三氏との神護寺薬師論争の論争相手であった、長岡龍作氏の本が出版されました。

「仏像~祈りの造形」日本文化・私の最新講義  長岡龍作著
2014年1月  敬文社刊 【319P】 2800円

長岡龍作氏著「仏像~祈りの造形」


どういうわけか、絶妙のタイミングの刊行となりました。
仏像が祀られる場や風景という問題をテーマにした本ですが、残念ながら神護寺薬師如来像についての話は取り上げられていませんでした。

併せて、ご紹介させていただきました。

コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

  • 2014/03/26(水) 09:56:59 |
  • |
  • #
  • [ 編集 ]

Re: 大井様

大井様

ご連絡ありがとうございます。
こちらこそ、お世話になり、ありがとうございます
ご依頼の件、ご連絡差し上げたく、下記アドレスにメールを頂戴できますでしょうか?
bunkaken@hotmail.co.jp
ご返信差し上げたく、よろしくお願いします

  • 2014/03/27(木) 06:12:11 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

中野玄三氏が逝去されました

この【新刊・旧刊案内~「仏教美術を学ぶ」中野玄三・加須屋誠著】でご紹介した中野玄三氏が、4月21日に逝去されました。

京都新聞の記事はこのように報じています。
「中野 玄三氏(なかの・げんぞう=元嵯峨美術短期大<現・京都嵯峨芸術大>学長、仏教美術史)21日午後11時、鼻腔(びくう)悪性黒色腫のため京都府城陽市の病院で死去、90歳。佐賀県出身。
・・・・・・・
京都国立博物館美術室長や嵯峨美短大教授を経て、1991年から学長を3年務めた。著書は『六道絵の研究』『日本仏教美術史研究』など。」

ご紹介した中野氏の長きにわたる美術史研究の軌跡をたどった著作「仏教美術を学ぶ」が、奇しくも遺著になってしまいました。

ご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りいたします。

神奈川仏教文化研究所  管理人

  • 2014/05/06(火) 08:56:47 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/tb.php/52-7dec23e5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)