観仏日々帖

新刊・旧刊案内~「日出新聞」記者金子静枝と明治の京都・・・明治21年古美術調査報道記事を中心に


こんな本、出版されることがあるのでしょうか!!
まさか、本になることなどあり得ないなと思っていたのに、びっくりです。
それほどマイナーな本が刊行されました。
ほとんどの人にとっては興味・関心の外といった内容だと思いますが、私には興味津々の本です。



「日出新聞」記者 金子静枝と明治の京都
~明治21年古美術調査報道記事を中心に~

竹居明男編著 (2013.11) 芸艸堂刊 【345P】 6000円


「日出新聞」記者 金子静枝と明治の京都


目次をご覧いただきたいと思います。

「日出新聞」記者 金子静枝と明治の京都・目次


ご覧のとおり、この本の主な内容は、明治21年(1888)に行われた、「近畿地方古社寺宝物調査」の有様が「日出新聞」に掲載された記事を、再録したものです。
執筆しているのは、当時の京都「日出新聞」の記者・金子静枝という人物です。
金子が書いた膨大な調査随行日記や、取調員の動向に関する記事、約300本が日付順に並べられて収録されています。


「近畿地方古社寺宝物調査」とは、どんなものであったのでしょうか?

「近畿地方古社寺宝物調査」は、明治政府が初めて実施した組織的な古社寺美術品の本格的調査でした。
政府が古社寺の所蔵する宝物をあまねく調査し、保護・保存しようとしたものです。
そのために臨時全国宝物取調局が設置され、「近畿地方古社寺宝物調査」を皮切りに、その後9年間のうちに21万5千余点の宝物を調査しました。

この調査をベースにして、明治30年(1897)「古社寺保存法」が制定され、国宝155件・特別保護建造物44件が指定されたのです。
現在の「国宝・重要文化財」に相当する、宝物の「文化財指定」が、国家によってはじめてなされたのです。
この時、国宝には、東大寺戒壇院四天王像、薬師寺吉祥天像、法隆寺玉虫厨子、厳島神社平家納経、中尊寺一字金輪像などが、指定されています。

「近畿地方古社寺宝物調査」に際しては、臨時全国宝物取調局・首班の九鬼隆一をはじめ、岡倉天心、フェノロサ等、総勢二十余名という大調査団が結成されています。
明治21年5月から7か月にわたる調査で、6万1千点以上の古美術品を実見、調査しました。

この調査がエポックメーキングであったことは、調査宝物の優劣を判定して、差別等級化を実施したことです。
「優等と認めるもの」「之に次ぐもの」「その他」
の三段階に分けて台帳登録しました。

江戸時代以来の古器古物を愛でて観るという視点から、美術作品として「美術の価値」「美術の優劣」を評価するという近代的概念が、この時正式に導入されたのです。
そうした画期的な美術品の見方を新たに切り拓き、「日本美術の発見」とでもいうべき大きな貢献を果たしたのが、岡倉天心であり、フェノロサであったと云えるのだと思います。

岡倉天心...フェノロサ
岡倉天心                フェノロサ

このあたりの話は、「埃まみれの書棚から~明治の文化財保存・保護と、その先駆者」(その5~7)で、詳しくたどったことがありますので、参考にご覧いただければと思います。


話しを、日出新聞の報道記事に戻したいと思います。

これだけの古社寺宝物の大調査ということなので、官報、報知新聞、大阪朝日新聞など7社の記者が同行し、調査の模様を報道しました。

明治24年の日出新聞
明治24年の日出新聞
(ロシア皇太子が負傷した大津事件を伝える)
金子静枝も日出新聞の記者として、この調査に同行したのです。

他紙の報道記事がどのようなものであったのかは、私はよく知らないのですが、金子静枝の日出新聞の美術調査報道記事は、誠に詳しく膨大なものとなっています。
約300本の記事が残されており、調査宝物の品目、調査の有様などが、詳細に、また活き活きと記録されています。
「古社寺宝物調査」の様子がこれほど具体的にわかる資料は他になく、「日本の文化財行政の黎明期を知るうえで誠に貴重な資料」と云えるものです。

「日出新聞の古美術調査報道記事」というものがあるのというのは知っていましたが、実は読んだことがありませんでした。
かつて「博物館学年報」(同志社大学博物館課程)という研究誌に再録掲載されたことがあります。(13~17号・1981~5)
私は、読む機会がなかったのですが、今般、これが単行本化されて出版されたということなのです。


近年、私は明治の古社寺宝物の調査などについて、大変興味を感じるようになりました。

明治5年の壬申検査で正倉院宝物を開封した時の話、明治17年に天心、フェノロサが法隆寺・秘仏救世観音像を開扉した時の話などなど、現在の奈良・京都の仏像や古文化財が発見され、その美しさが発見評価されていくいきさつ、道程をたどると、本当に面白く興味深いのです。

現在われわれが、第一級の仏像、魅力あふれ心を撃つ仏像、また古美術品は、明治初年以来、どの様にして見い出され、どんな評価の変遷を経て、今日に至っているのだろうか?
そんなことを考えていると、「美のものさし」というものも、時間とともに移ろって行っているような気がして、興味津々となっていきます。


「日出新聞の美術調査報道記事」を読むと、当時の調査の有様とともに、諸寺の仏像などがどのように見られていたのかを知ることが出来ます

ちょっと高かったのですが、「この本は入手すべし」と思い購入しました。


パラパラとページをめくって見ると、古い文体で読みにくいのですが、面白い記事が並んでいます。
まだ、全部読めていませんが、眼についた面白いものを、1~2ご紹介します。


6月17日、法隆寺金堂壁画を調査した時の記事です。
金子静枝は、その時の有様と感動を、このように語っています。

「四方の壁を見れば、是ぞ之れ、近世絵画家の尤(もっと)も尊び模範となすべしといへる曇徴(どんちょう)の筆痕なり。
蓋(けだ)し、曇徴は推古天皇の朝百済国より帰化せしものにて、最勝王経の四方浄土を移(写カ)し・・・・・・・・着色にて描きしなり。

惜むらくは、堂内暗くして配色の妙・衣紋の精瞭(あき)らかに之を観る事能(あた)はず。

然るに希世の物品を撮影せん為め、図書頭(ずしょのかみ)に随行の小川一真氏は、ホッケットより一錫線を出し、之に点火すれば、堂内乍(たち)まち太陽を現じ光輝赫々(かくかく)、壁画の仏像は衣紋の皺襞(しゅうへき)、花蓋の小紋、隅から隅まで残る隈なく一見せり。

須臾(しゅゆ)にして錫線燃焼すれば、小川氏更に一粉薬を出し、板上に置きて之に点火すれば電光一閃、霹靂(へきれき)の声あるが如く、其火光は先の光力に十倍し、視神経の直射して外物を見る事なく、瞬時にして光り消たり。

這(この)両薬は倶(とも)に夜間写真を採るの光線にして、麻倶涅臾母(マグネシウム)の原質に火綿を調和したる粉薬にて、其光力劇(はげ)しく、秒時間に写真する事を得、鮮明なる事太陽の光線に劣る事なしと。
・・・・・・・・・
銅仏の大なるもの、壁画を(のカ)動かし難さもの等をも、意の儘(まま)に移(写カ)し得たり。」

この写真を撮っていたのは、写真師・小川一真(おがわかずまさ)で、マグネシウム閃光粉を発火させ、瞬間発光を行っていたようです。
小川一真は、「近畿地方古社寺宝物調査」の行程に同行し、多数の古社寺宝物古写真を残しています。

小川一真撮影・法隆寺金堂壁画8号壁

小川一真撮影・法隆寺金堂壁画10号壁
小川一真が近畿地方古社寺宝物調査でマグネシウム閃光で撮影した法隆寺金堂壁画
(上・8号壁、下・10号壁)


金子は、金堂壁画をつぶさに検分できた驚きと感動を、活き活きと綴っています。
閃光の明るさには、皆、びっくりしたようです。
マグネシウム閃光により、暗い金堂内がさながら昼光のように照らし出され、今は亡き金堂壁画の美しい彩色が、鮮やかに浮かび上がり、眼に焼き付いたのだと思われます。


7月6日、京都・法性寺を訪れた時の記述です。
法性寺・十一面観音像(国宝)
法性寺・十一面観音像(国宝)


「法性寺にては、一の画幅なし。黒く薫りたる仏体数躯あるのみ。
其れとても余りの佳作なし。
本尊三面千手観音像(木造)一体(長一尺五寸)、伝春日作といふ。
時代は千年位のものなり。」

これだけの記述です。

現在、国宝となっている素晴らしく美しい千手観音立像も、注目をひかなかったようで、「余りの佳作なし」と云い捨てられてしまっています。
当時の「美のものさし」では、評価されなかったのでしょうか?


また、8月26日には神護寺を訪れています。

日出新聞の記事をみると、伝頼朝像をはじめとした画幅や経巻については、詳しく書かれていますが、国宝・薬師如来立像や五大虚空蔵菩薩像のことには全くふれられていません。
この記事のほかに、明治19年の古社寺調査の時、岡倉天心が提出した巡覧美術品目録をみても、神護寺の処には、伝頼朝像をはじめとした画幅、高雄曼荼羅が載せられており、薬師如来立像、五大虚空蔵菩薩像の記述はありません。
神護寺・薬師如来像(国宝)
神護寺・薬師如来像(国宝)

岡倉天心の眼にも、優れた仏像として写らなかったのでしょうか?
現代の眼で見ると、「どうしたのかな?」と思ってしまいます。

一方、神護寺薬師像が全く知られていなかったのかと思うと、そんなこともなかったようです。
翌年(明治22年)1月に九鬼隆一が大阪で講演し、今回調査で「霊器宝什を蔵蓄保存する処」として、各寺の宝物を列挙していますが、京都の彫刻の部には「神護寺の空海作と伝える薬師立像」が挙げられています。
当時、神護寺薬師像がどのように見られ評価されていたのか、よく判りませんが、興味深いところです。


まだ、ちょっと読みかじっただけですが、この「日出新聞の古美術調査報道記事」を、岡倉天心の著述などと照らし合わせてじっくり読んでいけば、当時の古社寺宝物調査の実情や、美術作品の見方などを知るのに興味深いものがありそうです。

まだまだ、驚きある記述、知らなかった話が出てくるのかもしれません。
読み通すのは、ちょっとシンドイのですが、そのうちに頑張ってみたいと思っています。


ところで、「日出新聞」の記者・金子静枝というのは、どの様な人物だったのでしょうか?

金子静枝(明治36年)
金子静枝(明治36年)

金子静枝という名前をみると、女性だったのかと勘違いしそうですが、れっきとした男性です。
静枝は本名ではなく号ですが、「しずえ」と読むのではなく、「せいし」と読んだのではないかという考えもあるようです。

金子は、嘉永4年(1851)、越後国(新潟県)中蒲原郡生まれで、新潟、東京、京都でそれぞれ新聞記者として活躍しました。
明治18年(1885)京都で「日出新聞」(京都新聞の前身)が創刊されるにあたり、招かれて記者として入社、3年後に「近畿地方古社寺宝物調査」に派遣記者として同行することになります。
金子静枝翁之居の墓碑(嵯峨野・二尊院)
金子静枝翁之居の墓碑(嵯峨野・二尊院)

それだけだと、単なる新聞記者ということなのですが、小説家としても知られていたようですし、美術文化分野にも造詣が深く、その方面での見識も認められ文化人との交友も深かったようです。

京都の美術工芸関係者による団体「京都美術協会」の幹事を務めたほか、内国勧業博覧会など国内の展覧会の審査員の任にもありました。
明治42年(1909)、京都で没し、建仁寺で葬儀が行われていますが、千人もの参列者があったそうで、交流の広さが伺えます。

今では、

「金子静枝って聞いたことないけれど、誰?」

というほどに、ほとんど知られていませんが、一新聞記者という枠にとどまらず、実に多彩な活躍をした文化人であったと云えるのでしょう。
金子静枝の研究をされている木下知威氏は、金子を評して
「京を愛したマルチ文化人」
と呼んでいます。

そして、金子が「京の文化人」として多方面に交友があったことが、この度の本書の出版に結び付いたのでした。
本書出版のいきさつに、ふれておきたいと思います。


この本を刊行したのは、京都・二条寺町にある「芸艸堂」という出版社です。
二条寺町の「芸艸堂」本社
二条寺町の「芸艸堂」本社

「芸艸堂」は「うんそうどう」と読みますが、出版社というより手刷りの美術木版画の老舗として有名です。
芸艸堂製の、美しく趣のある木版絵葉書などは、買われたことのある方もおられるのではないかと思います。

「芸艸堂」は、明治24年、山田直三郎の創業で、屋号の命名者は富岡鉄斎です。
明治39年に、兄弟創業の「本田雲錦堂」と合併します。

この「本田雲錦堂」の命名者が、なんと金子静枝であったのです。

明治39年、芸艸堂と本田雲錦堂の合併を案内するチラシ
明治39年、芸艸堂と本田雲錦堂の合併を案内するチラシ

金子静枝が命名した本田雲錦堂の扁額(創業時のもの)
金子静枝が命名した本田雲錦堂の扁額(創業時のもの)

芸艸堂顧問の本田正明氏は、この本が出版に至った事情を、本書の「序にかえて」で、このように記されています。

芸艸堂顧問・本田正明氏
芸艸堂顧問・本田正明氏
「過日、『京都新聞』の木下知威氏が書かれた記事『京愛したマルチ文化人・金子静枝』が目にとまった。
また同時に翁の残されたスクラップ・ブック『棄利張』(きりばり)の存在も知ることとなった。
このスクラップ・ブック八冊は、数奇な時の変遷を経て、今は同志社大字文学部教授・竹居明男氏の許にある。
竹居氏はこの内容を研究し、いくつかの優れた文章を発表されている。
私も、このお二方によって金子翁のことを多く知ることとなった。

竹居明男氏所蔵の金子静枝のスクラップ・ブック「棄利張」
竹居明男氏所蔵の金子静枝のスクラップ・ブック「棄利張」

竹居氏は昭和55年、古書展で偶然この「棄利張」5冊を入手(その後3冊追加入手)、
これもきっかけになり博物館学年報に「日出新聞の美術調査報道記事」を掲載するなど、
金子静枝研究に取り組むようになったそうです。



本書の刊行とその意義を伝える新聞記事
本書の刊行とその意義を伝える新聞記事
(2013.12.6京都新聞)

そして弊社ゆかりの人物の記録を、何とか本の形で残したいと思うようになったのである。

さらに、金子翁は明治期に『日出新聞』(現『京都新聞』の前身)の記者として多方面に活躍したばかりでなく、近畿地方の古美術調査を中心に、弊社にも関連ある染織図案関係の諸先生方の記事もかなり詳しく遺されているので、これを弊社の将来を担う人たちにも伝えたいと切に願うようになったのである。


折しも、本年は岡倉天心先生の生誕150年(没後100年)の記念の年でもあり、日本美術の恩人フェノロサの研究学会も長年活動を重ねてきている。


そうした機運の到来を強く感じるので、この翁の残した『明治二十一年の近畿地方古美術調査』の報道記事を纏めて刊行したいと思ったのである。」


「芸艸堂」と金子静枝の古い縁(えにし)がなかったならば、

近年の竹居氏・木下氏の金子静枝研究がなかったならば、

そして本田正明氏の出版への英断がなかったならば、

決して多くの部数が売れそうにない本書が、出版されることはなかったに違いありません。

芸艸堂・本田氏が金子静枝に思いを致し、本書出版を決断されたことにより、明治の古文化財調査、文化財保護行政の実情を詳しく知ることが出来ることになりました。

本当に、意義深いことだと思います。



ついでに、というのもどうかとは思いますが、

次回は、明治時代に実施された古器物調査、古社寺宝物調査について、

どの様な調査記録や調査日記が残されているのか?
どんな本が出版されているのか?

を、振り返ってみようかと思います。

金子静枝の「日出新聞・古美術調査報道記事」のほかにも、折々の調査で、いくつかの記録が残されたり、復刻出版されています。

マイナーな話ですが、お付き合いいただければと思います。


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