観仏日々帖

トピックス~興福寺仏頭展によせて・・・「仏頭発見記」をたどる


東京芸術大学美術館で「興福寺仏頭展」が開催されています。興福寺仏頭展ポスター
(2013.9/3~11/24)

「白鳳の貴公子」と呼ばれ、清々しい青年の美しさを思わせ、観る人を惹き込む仏頭の東京出展です。

流石になかなかの人気で、大変な混雑ぶりのようです。

私も早速出かけてみました。
仏頭だけでなく、東金堂十二神将像を一体一体眼近に観ることが出来、また台座の四面にはめ込まれた形での板彫十二神将像の姿にも出会え、愉しむことが出来ました。


興福寺仏頭


興福寺仏頭
興福寺仏頭


【新聞に掲載された仏頭発見の思い出~発見者の妻・黒田康子さんの話~】

こんな新聞記事が目に留まりました。

「仏頭の目覚め 見届けた夫~戦前の興福寺修理中、500年ぶりの再発見に立ち会う~」

という見出しの記事です。

日本経済新聞、10/14付の文化欄に掲載されていました。

黒田康子さんの記事(日本経済新聞・2013.10.14)
日本経済新聞(2013.10.14)に掲載された黒田康子さんの記事"

筆者の黒田康子さんは、昭和12年(1937)、仏頭が興福寺東金堂薬師如来像の台座の中から発見された時、その場に立ち会った奈良県文化財の技官・黒田曻義(のりよし)氏の妻女です。黒田康子さん
(右の写真が黒田康子さん)

黒田康子さんは、もう98歳になられるそうですが、夫君が仏頭を発見した時の、感動と興奮の思い出を、次のように語っています。

「1937年。秋の深まる古都で、興福寺は東金堂の解体修理中だった。
当時、夫は奈良県で古建築保存業務に携わっていた。
10月も終わる頃、本尊・薬師如来の後ろの板壁をはがすと、台座の下に四隅の柱と4つの支柱に守られた小空間が現れた。
内部にはあの仏頭が。
緊張が走ったという。

夕暮れ時だったので検分は翌日に持ち越された。
『おまえは責任を持ってそこで番をしとれ』と上司。
仏頭の傍らで2、3人の同僚と一晩を過ごした。
一升瓶の酒が差し入れられたが、飲んでも興奮で震えが止まらなかったと繰り返していた。

夫は静岡県出身で名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)を出た建築史が専門の技官。
古美術にも明るかったから、一晩中、胸を高鳴らせていたに違いない。

翌朝、作業員6人がかりで仏頭を明るい場所に取り出した。
『しみじみと眺めた時の興奮はなお生々しく残っている』と夫はよく述懐した。
胴体のない破損仏だが、異例の早さで翌年には国宝に指定された。」

ご夫妻の会話の中の思い出だけに、発見の驚きや感動が、生々しく活き活きと伝わってきます。

黒田曻義氏は、昭和16年(1941)に康子さんと結婚しますが、その後昭和19年(1944)に軍に召集され、翌年フィリピン戦で戦死します。
31歳であったそうです。

この新聞記事は、「仏頭発見の思い出の記」ではありますが、黒田ご夫妻の心の通い合った強いきずなと愛情の深さがいまもジーンと伝わってきます。
黒田氏没後70年弱を経てなお、康子さんから夫への「ラブレター」のようにも読めました。

「この海のつづきの海を」黒田曻義著黒田曻義氏は、「春日大社建築論」「大和の古塔」といった本で知られる建築学者ですが、調べてみましたら、こんな本が出版されていました。

「この海のつづきの海を」  黒田曻義著  1980年 綜芸舎刊 

早速、取り寄せてみました。
黒田氏の、妻・康子さんへの手紙、日記、遺詠とともに、康子さんの夫・曻義氏の思い出話が載せられています。
お二人の愛と絆の強さが伺えます。
ココにも、仏頭発見の話が、少しだけ書かれていました。


【黒田氏が書き残した「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」】

それはさておき、黒田曻義氏の名前をこの記事でみて、
「確か、『仏頭発見記』といった黒田氏が書いた文章があったはずだが・・・・」
という、おぼろげな記憶がよみがえってきました。

調べてみると、東洋美術25号(1937年12月刊)に、黒田氏執筆の「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」と文章が掲載されていました。

「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」東洋美術25号(1937年12月刊)所収
「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」東洋美術25号(1937年12月刊)所収

早速、もう一度読み返してみることとしました。

黒田曻義氏仏頭発見後、間もない時(1ヶ月内外)に書かれた発見記だけに、稀代の仏頭発見の有様と、その時の感動、興奮が活き活きと手に取るように綴られていました。
(右の写真・黒田曻義氏)

そこで、この「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」をたどりながら、昭和12年、火災で失われてから500年を経ての大発見となった「仏頭発見の顛末と当時の反響の有様」などを、一度振り返ってみたいと思います。

仏頭が発見されたのは、昭和12年(1937)秋、興福寺東金堂の解体修理のときのことでした。
修理が始められたのは9月1日からでしたが、10月中旬に入ってからは堂内諸仏・諸具の搬出に取り掛かりました。
本尊と両脇侍は、堂内に置いたまま覆屋を設けて保護する段取りとなっており、覆屋架構の必要上本尊台座に取り合っている来迎壁を撤去することとなりました。
来迎壁とは、本尊の背後をかざっている板壁で、背面には、阿弥陀三尊がかかれています。
この撤去が、世紀の大発見の契機となったのです。

「発見記」は、その瞬間をこのように記しています

「愈々この部(来迎壁)の実測を了へて撤去にかかったのは、10月30日のそれも夕冷えのする秋の暮色がひそひそと堂内に漂ひ初めた頃であった。
そしてその来迎壁の撤去によって、はしなくも本尊台座内部に、木箱とその上に正面に対って奉安せられた鋳銅の仏頭とを発見したのである。」

これが、仏頭が発見された時の、台座内部に据えられていた時の写真です。
こんなものが出てきたら、本当にびっくりすると思います。

興福寺仏頭発見時の写真
興福寺仏頭発見時の写真

興福寺仏頭発見時の台座内部見取り図
興福寺仏頭発見時の台座内部見取り図

これは大変なものが見つかったということで、黒田氏は上席の岸技師(当時の奈良県古社寺修理技師の岸熊吉氏)に報告、指示を仰いだところ、もう夕刻になっていたので、全ての措置と調査は翌朝から行うということになりました。

その夜、黒田氏等は現地で寝ずの番をすることになり、

「堂内で一晩過ごしたが、差し入れられた一升瓶の酒を飲んでも、興奮で震えが止まらなかった」

というのは、先の新聞記事のとおりです。

翌日は、仏頭を取出し、その下の木箱を開けることになったわけですが、「発見記」はその有様をこのように綴っています。

「翌31日は日曜日であったが、技師も早期から出て来られ、寺にも通告して総務・板橋良玄師、事務長・樋口定俊師、信徒総代・中村雅真氏等の立会を得て、まず仏頭を取出した。
・・・・・・
約一時間の努力の後、人夫六人掛りでやっと搬出することができた。
明るい陽光のもと、始めて仏頭をしみじみ眺め得た時の興奮はいまも胸に生々しい。
続いて木箱を開けた。
二重の内箱は脚をとった唐櫃であった。
錠が錆びついていた。
そしてこの唐櫃の中に納められていたのが、焼けただれた銀の仏手と、その熔滓と刀装具の一部とであった。
しかし取り出した暫くは、その乳白色に光っている仏手が、誰も銀であろうとは思い及ばなかった。
何故なれば、さかしらな常識がこの様な並外れた現実を直ちに消化する筈がない。
やがて銀であることが解って来ると、一同の驚きは譬えようもなかった。
それから写真の撮影、実測などを行い、一通の調査を終ったのは正午も過ぎて一時に近い頃のことであった。」

木箱から発見された銀製の仏手
木箱から発見された銀製の仏手

これが、仏頭発見のいきさつです。

こんな発見に遭遇するというのは、文化財保護に従事する専門家と雖も、一生に一度でも経験できるというものではないほどの出来事であったはず。
当時24歳の若き青年であった黒田氏にとってみれば、驚愕そのものであったことでしょう。
文章からも、その驚きと興奮は並大抵のものではなかったことが、ひしひしと伝わってきます。


【仏頭発見の新聞報道】

新聞社も、この仏頭発見は、驚きのニュースであったようです。
新聞記事も、戦時下で戦局関連の記事が盛りだくさんのなか、大きく採り上げています。

大阪朝日新聞は、

「興福寺東金堂からでっかい佛頭現る   
白鳳時代の金銅製で百五十貫   学界近来の大発見」


という大きな見出しで、報じています。

仏頭発見を伝える大阪朝日新聞記事(S12.11.3)
仏頭発見を伝える大阪朝日新聞記事(S12.11.3)

大阪朝日新聞は、「山田寺旧仏で白鳳時代製」と報じていますが、大阪毎日新聞は「天平?白鳳期?」と疑問符を投げかけています。

仏頭発見を伝える大阪毎日新聞記事(S12.11.3)
仏頭発見を伝える大阪毎日新聞記事(S12.11.3)


【仏頭の来歴は?】

さて、この仏頭は、如何なる来歴の仏像であったのでしょうか?
仏頭の発見された台座の内部の篏板に、墨書が残され、仏頭の由緒がしたためられていました。
漢文で書かれた墨書ですが、その大意は、次のようなものでした。


「応永18年(1411)閏10月15日に、春日の東塔の雷火の災を蒙って、東金堂および廻廊などが焼失した。
この際、諸尊秘仏六躰は悉く取出すことができたが、本尊は大綱がなくて取出すことを断念した。
しかし幸いに、災後その御首だけが残っていた。
よって、その御首を据え奉るために台座を造営した。
堂宇および本尊か再建、再鋳されたならば、この台座をその本尊の御座の下に置いて、御首の久住とせよ。」

台座の内部篏板の墨書
台座の内部篏板の墨書

この墨書により、この仏頭が、応永18年(1411)の火災の際に東金堂の本尊であった仏像の頭部であることが判るのです。
現在の東金堂の本尊は、応水18年の火災後間もなく、応永22年(1415)に河内鋳師により新鋳された薬師如来像です。
その台座の下に、この旧本尊の御首を、正面をむけて安置されていたわけですから、東金堂に参拝する人は、現代に至るまでの長きに亘って、知らず知らずにこの仏頭を拝んでいたのでした。

現在の東金堂内部と薬師三尊像
現在の東金堂内部と薬師三尊像

それでは、この仏頭は、いつの頃に造られたものなのでしょうか?

即座に思い出されるのが、興福寺・東金堂衆によって奪い取られた山田寺旧仏が、これにあたるのではないかということです。
鎌倉時代に山田寺の仏頭が奪われた事件は、今更ここで語る必要もないほどに、よく知られた話です。
そのエッセンスにだけふれておきます。

山田寺址山田寺の丈六金銅仏は、不幸な死を遂げた蘇我石川麿を追福して造立されました。

法王帝説によれば、この仏像は天武14年(685)に開眼されています。
この薬師三尊像を、文治3年(1187)、興福寺・東金堂衆が山田寺から無理やり奪い取り、東金堂の本尊として安置してしまうのです。

興福寺の東金堂は、治承4年(1180)の平重衡の兵火に炎上し、その後、文治元年(1185)にお堂だけは再建されたが、本尊像の制作までは力及はず、いつ出来るという見込みさえつかない状況でした。
このことに業を煮やした東金堂衆が、強引に山田寺の丈六薬師三尊像を移安し、本尊に据えようとはかったのでした。

この出来事は、九条兼実の日記「玉葉」に、そのいきさつが書き残されています。
九条兼実は、藤原氏の氏長者で当時、摂政(のちに関白)の地位にあった最高級貴族です。
兼実は、この事件が起きた時には、困り果てていたようですが、文治5年(1189)に興福寺を訪れた時には、

「当時はいろいろ問題になったけれども、いま拝してみると、はなはだこの堂の本尊にふさわしい姿で、これも何かの機縁だろうか」

と記しており、事件を追認し、満足していたようです。

台座から発見された墨書きの由緒を素直に信じて読むと、この山田寺旧仏・薬師三尊像の中尊の頭部が、応永18年(1411)の火災で焼け落ち、台座の中に収められた仏頭ということになろうかと思います。

興福寺に、仏頭発見当時の事務所日誌が残されており、今回の「仏頭展」に際し、その内容が確認されたそうです。
10月29日の日誌に仏頭発見についてこのように記されています。


仏頭発見を記す興福寺事務所日誌(S12.10.29付)
仏頭発見を記す興福寺事務所日誌(S12.10.29付)

「目下修繕工事足場取付中ノ東金堂本尊台座下ヨリ旧本尊ノ御首并ニ御首ノ台中唐櫃ノ中ヨリ一尺五寸位ノ銀ノ御手ヲ発見ス 
御首ハ何時代ノ鋳造ナリヤ不明ナレトモ文献ヲ綜合スルニ治承四年災焼ノ折東金堂堂衆ニ依テ山田寺ヨリ持チ来リシモノナラン
東金堂本尊ハ山田寺ノモノナリトハ諸処ニ散見スル所ナリ
山田寺最初ノ本尊トスレハ天武天皇ノ御願ニ依リ石川麿追福ノ為に鋳造セラレシモノ也…」

これを見ると、興福寺でも、発見された仏頭が山田寺旧仏であろうと考えたことが判ります。


【さまざまな説が出された、仏頭の制作年代】

ところが、専門家、研究者の間では、そうすんなり話は運ばなかったようです。

そう簡単に山田寺旧仏と即断するということにはならず、仏頭制作年代の見解は、随分別れていたようなのです。
なんと白鳳時代の制作から、鎌倉時代の擬古作まで、各人各様の意見が出されました。

仏頭発見後の新聞報道を追ってみると、仏頭の制作年代に、いろいろな見方や観測がなされているという記事が、続報されています。

その見出しを追ってみると、こんな具合です。

「興福寺山田寺の仏像争奪  事件解明の謎? 藤原時代説も有力」

「仏頭の謎 愈よ深し  鎌倉初期に興福寺で作ったもの  岸技師が意見発表」

「謎の仏頭 薬師像の首  白鳳期の作  明珍氏ら研究」

大阪朝日新聞の記事です。

大阪朝日新聞記事(S12.11.3)
大阪朝日新聞記事(S12.11.3)

大阪朝日新聞記事(S12.11.6)
大阪朝日新聞記事(S12.11.6)

大阪朝日新聞記事(S12.11.9)
大阪朝日新聞記事(S12.11.9)

この辺の議論は、黒田氏の「発見記」が掲載された東洋美術25号に、まとめられています。
「古美術界雑記」という記事があり、この仏頭の制作年代についての、それぞれの研究者の第一印象のような見解が載せられています。

当初は、多様な意見が出されていたことを垣間見ることが出来ますので、ご紹介してみたいと思います。

・足立康氏


「文献的には、この考へ(山田寺旧仏という考え)が最も妥当の様であるが、然し実際の御首は金森氏がいはれる如く白鳳時代のものでなく、天平のものとすれば、忽ち矛盾に逢着する。
・・・・・・
私の実物を拝見した時の考へをいへば、この首は決して白鳳時代のものでないと信ずる。
それでは何時代かと問われれば困るが、非白鳳説である事は動かし難い。
今暫く慎重にその断定を避けようと思ふ。」


・明珍恒男氏

「形式及び様式の上から白鳳時代であるとして間違はない。
奈良中期又は末期とするのは一理はあるが、初期の白鳳に作られたものとするのが最も無理がないと思ふ。」


・源豊宗氏

「実物をまだ見せてもらはないのでよく解らないが、写真を見た処では和銅前後の製作であり、奈良前期様式の末期に置かれるものだと思ふ。」


・金森遵氏

「様式上和銅以後の奈良時代初期だと云ふ事が出来るが、まだ釈然としない点がある。」


・岸熊吉氏

「仏頭と両脇侍の手法が違うことは、もし脇侍が山田寺から奪ったものに相違ないとすれば、この仏頭を持った仏像は、元暦年間東金堂が再興された際、興福寺で作られたものではなからうか。」


・望月信成氏

「この仏頭が鎌倉時代だと云ふのはお気の毒です。一見白鳳ではありませんか。
斜めから見ても横から見ても実に出来のよい彫刻で、どこにも鎌倉時代らしい所はない。奈良時代でよいではありませんか。」


まとめると、

明珍恒夫、望月信成の両氏が、白鳳時代説。
足立康、源豊宗、金森遵の三氏が、天平(奈良)時代説。
岸熊吉氏が、鎌倉時代擬古作説。

ということになるのでしょうか?

現在では、興福寺の仏頭は、

「山田寺旧仏に間違いなく、天武14年(685)の制作、白鳳彫刻を代表する基準作例」

ということに、誰も異論がない常識になっていますが、発見当初には、これだけ多様な見方がされていたことは、本当に驚きです。

昭和12年当時の日本彫刻史の様式研究のレベルが未熟な面があったということなのでしょうか?
明治時代のことならまだしも、この頃になると、飛鳥~奈良時代の仏像彫刻の様式展開などについての研究は、随分進んでいたように思うのですが・・・・・・

「様式から仏像の製作年代を割り出す」ということの、難しさを物語っているようにも思えます。


【仏頭・山田寺旧仏説の定着】

このように、仏頭が発見されて間もない頃には、種々の意見がありましたが、時が経つにつれ鎌倉擬古作説、天平説は次第に淘汰され、白鳳説が有力になっていきました。

足立康氏も、昭和15年に発表した「白鳳彫刻に関する基礎的問題」ならびに「薬師寺東院堂聖観音像」の2論文では、この仏頭を天武14年完成の旧山田寺像として認める立場をとるようになりました。
天平説をとっていた金森氏も、昭和17年に「美術研究125号」に発表した「白鳳彫刻私考」という論文の中では、この仏頭を天武14年開眼の山田寺旧仏として 白鳳時代の基準作例の一つに数えるようになりました。

以降、仏頭は天武14年(685)完成の基準作例として広く認知されていくことになり、戦後はまったく白鳳説が定説化していきました。


後年、久野健氏は、仏頭発見の意義の大きさについて、

「この仏頭の発見は、これまで模糊としていた白鳳時代というものに強烈な光明を与える結果になった。
昭和年代は、法隆壁画を失ったけれども、その代わりにこの仏頭を得た。」

と語っています。

日本彫刻史上にそれほどの重みを与えた、世紀の大発見であったのでした。

興福寺仏頭...興福寺仏頭
興福寺仏頭

興福寺仏頭の発見は、その後の日本彫刻史の研究に、大きなインパクトを与えることになります。
制作年代が確定できる数少ない白鳳時代の優作仏像が世に顕れたわけですから、それだけでも大変なことです。
それにもまして、薬師寺金堂・薬師三尊像の制作年代論争に大きな影響を与えることになりました。

現在の西ノ京・薬師寺金堂の薬師三尊像が、藤原京の本薬師寺で造られたものの移座なのか、平城京の薬師寺で新鋳されたものなのかという大論争です。

薬師寺金堂・薬師如来像
薬師寺金堂・薬師如来像

興福寺仏頭が山田寺において造られた時期が、丁度、本薬師寺建立の頃にあたることから、この論争に大影響を与えたわけです。
この薬師寺論争の話にふれると、大変ややこしいことになりますので、ここでは触れないでおきたいと思います。


焼け落ちて首だけになり、大きくゆがんだ痛々しい姿であるにもかかわらず「白鳳の貴公子」と呼ばれ、清楚で秀麗な造形で人々の心を魅了する、興福寺仏頭。

今回は、その発見のいきさつや数奇な運命、その後の議論の顛末をたどってみました。


仏頭発見のいきさつなどが詳しく書かれた出版物には、次のようなものがあります。

「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」(黒田曻義)、「古美術界雑記」(小川晴暘執筆か?)
共に東洋美術25号(1937年12月刊)所収

「白鳳時代に光を与えた仏頭」(久野健) 
芸術新潮1967.6号掲載
「興福寺の仏頭」と改題して、「白鳳の美術」(久野健著)1978年 六興出版刊に所収

「興福寺仏頭」(片岡直樹)  
「興福寺~美術史研究のあゆみ~」2011年 里文出版刊所収


ご関心のある方は、ご覧になってみていただければと思います。

コメント

感想

仏頭の発見はすごくドラマチックです。
発見の関係者がまだご存命というのも驚きです。

頭だけで国宝というのが凄い像だと思います。もし全体が残っていれば、
国宝中の国宝といった感じになっていたかも。
もっとも、頭だけというのも歴史の移ろいが感じられて、
それはそれで深みがあると思います。

解体修理は本当に発見があって面白いです。
近年でも唐招提寺の金堂や、東大寺の法華堂で新しい発見がありました。
仏像でいうと、法華堂には現存の塑像が安置されていた可能性があることが判明し、
様式論や文献の難しい吟味なしで、色々と分かってしまうのが利点です。


新連載の「奈良の仏像盗難ものがたり」は大変面白そうで楽しみです。
所在不明の重文の話題もあってタイムリーです。
ところで山梨の大善寺ですが、御開帳のニュースで
「日光、月光の両菩薩像は1987年に盗難被害に遭い、
90年に窃盗グループの手から寺に戻った経緯がある」とありました。
ものがたりには昭和22年の盗難を紹介されていますが、
その後も盗難にあったようです。
それほど小さい像ではないと思いますが、狙われやすいのでしょうか。
ちなみに、ニュースには
「このため寺は93年から、5年に1度だけ公開するようにした。」とありました。
それ以前は秘仏ではなかった、もしくは、もっと厳重な秘仏だったようです。

  • 2013/11/04(月) 09:37:57 |
  • URL |
  • とら #VBkRmpN2
  • [ 編集 ]

Re: 感想

とら様

感想コメント、有難うございます。

仏頭発見のものがたりは、本当のドラマチックですね。
自分で書きながら、ちょっと感動してしまいました。

おっしゃるように、法華堂の基壇痕跡や年輪年代、唐招提寺の年輪年代、更には法隆寺の年輪年代、蟹満寺の発掘成果などなど、仏教美術史の世界では新発見などもう期待できないのかと思っていたら、驚きの科学的事実の解明が相次いで、すごいですね。
これまでの、様式展開や制作年代の考え方も、大きく見直されていくのかもしれませんね。

新連載の「奈良の仏像盗難ものがたり」、ご期待頂き有難うございます。
結構、面白い話になるのではないかと思っています。
大善寺の盗難の話、お教えいただき、有難うございました。
早速リストに追加して、差し替えさせていただきました。
仏像の盗難事件は、きっちりと整理された一覧のようなものがなくて、ピックアップしていくのが結構大変でした。

よろしくお願いします。

  • 2013/11/04(月) 22:00:31 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

>驚きの科学的事実の解明が相次いで、すごいですね。

科学の力はやはり頼りになります。
解体修理などの現物調査の重要性もよく分かります。

>早速リストに追加して、差し替えさせていただきました。

わざわざ反映して頂きありがとうございます。
こういったリストはとても貴重だと思います。
連載の方は楽しみにしています。

  • 2013/11/08(金) 21:51:15 |
  • URL |
  • とら #VBkRmpN2
  • [ 編集 ]

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