観仏日々帖

トピックス~奈良三郷町・一針薬師笠石仏に「快慶作」を示す銘文?


2013年9月2日付け新聞各紙は、

奈良県、三郷町の持聖院に伝わる、「一針薬師笠石仏」(町指定文化財)に、快慶を示すとみられる銘文が刻まれていることが判った。

調査委員会では、この石仏像は「快慶最初期の作品である可能性が強い」としている。

という、ニュースを報道しました。

一針薬師石仏・朝日新聞記事(2013.9.2)
朝日新聞の報道記事(2013.9.2付)

持聖院は、奈良県生駒郡三郷町勢野東、JR奈良線の王寺駅から北へ500メートルほど行った処に在ります。 

持聖院
奈良県三郷郡・持聖院

創建年代など不詳ですが、近くにあった補陀落山「惣持寺」の子院だったそうです
戦国末期に松永久秀と筒井順慶の争乱で焼失したようですが、江戸初期まで僧坊が残っていたとのことです。
持聖院は江戸前期に再興され、惣持寺の什宝を受け継いで現在に至っています。


一針薬師笠石仏は、高さ幅各約2メートル、花崗岩の表面に線刻された仏像で、薬師如来を中心に日光月光菩薩と十二神将を刻んでおり、従来から鎌倉時代の製作と考えられています。

一針薬師笠石仏
一針薬師笠石仏

各紙の記事を総合すると、次のようなことが報道されていました。

一針薬師笠石仏は、持聖院の裏山に安置されていましたが、周囲に木が茂って倒壊の恐れが出てきたため、今年5月に場所を移動した際、調査委員会が拓本をとって刻銘を調査した処、造立にかかわった人物として「アン(梵字) 大工上人」の名があることが判明しました。

一針薬師笠石仏の安置状況
持聖院・裏山に安置されていた一針薬師笠石仏

ご存じのとおり、快慶は「巧匠アン阿弥陀仏」という法号を用いており、そのことから快慶作品である可能性が高まったとこことです。

一針薬師笠石仏・描起し図
一針薬師笠石仏・描起し図

石仏銘文には、
持聖院の前身寺院の総持寺を創建した、鎌倉時代の高僧・解脱房貞慶が、造立を発願したことや、
「如月廿日」(2月20日)に誰かの一周忌にあわせて造られたこと
などが記されていました。

貞慶と親しかった九条兼実(玉葉の執筆者)の長男・良通が、文治4年(1188)2月20日に亡くなっていることから、文治5年(1189)に造られた可能性があるそうです。

現存の快慶最初期作品であるボストン美術館・弥勒菩薩像が文治5年(1189)9月15日の作とされていることから、一針薬師笠石仏は、それ良い半年早い快慶最古作品となる可能性が強くなった、ということです。

ボストン美術館蔵・快慶作弥勒菩薩立像
ボストン美術館蔵・快慶作弥勒菩薩立像

新聞記事のまとめは、このようなものです。

快慶の作品は、銘記や関係史料から真作と判明しているものだけで40件近く現存しますが、その作品群のなかに、「一針薬師笠石仏」を加えることになりそうです。


新聞を読むと、

「今般、突然、快慶作品の石仏が発見された」

かのように思えてしまいます。


しかし、この一針薬師笠石仏は、従来から、
「快慶作品ではないか?」
とする議論があった石仏です。

ついでに、そのあたりのいきさつについても、簡単に触れておきたいと思います。

一針薬師笠石仏の地元案内看板
一針薬師笠石仏の地元案内看板(快慶についてもふれられています)

話しは、持聖院の前身である総持寺の本尊造立の経緯に遡ります。

記録によると、「三輪上人行状」という建長5年(1253)に書かれた古記録に、

解脱房貞慶が「法性寺の安阿弥陀仏」に依頼して薬師像を造り、大和信貴山麓に総持寺という寺を興して、これを安置した

と伝えられています。
この、「法性寺の安阿弥陀仏」が、快慶を指すことは間違いありません。
造立された時期の記述はないのですが、12世紀末から13世紀初頭のことと考えられています。

これまでの研究では、この総持寺の本尊として造立された薬師如来像は、木彫像で「ある時期に失われた」という認識で一致していました。
毛利久氏、小林剛氏、水野敬三郎氏等は、そのように考えられるとしています。

これに対し、仏師で仏像研究家の太田古朴氏は、昭和41年発刊の自著で、

この記録にあらわれる快慶作・薬師如来像は、総持寺の跡地である持聖院に現在も残る「一針薬師笠石仏」のことではないか

と、想定していました。
大和の石仏鑑賞
太田氏は、「大和の石仏鑑賞」(太田古朴著・1966年・綜芸社刊)で、「一針薬師笠石仏」像を採り上げ、

・本尊、脇侍が宋風であること
・快慶の作風に類似すること
・貞慶住持の笠置寺本尊(弥勒磨崖仏)は石仏であり、同じ貞慶創建の総持寺本尊は石仏が相応しいこと

などを、本像を快慶作・総持寺本尊であると考える根拠に挙げています。

今回の新聞報道どおり、本像が快慶作で間違いないということになれば、太田古朴氏の見方は慧眼であったということになります。

ところで、この石仏は快慶作であったとしても、快慶やその工房が刻んだ像だとは考えられません。
一針薬師笠石仏は、花崗岩に線刻されています。
花崗岩は大変硬質で、当時、石彫が難しかった石材で、この線刻は渡来の宋人石工の手によるものと考えられています。

従って、本像が記録に残る「総持寺・本尊像」であったのだとすれば、

「解脱房貞慶の依頼により、快慶が石仏の下図を描き、宋人石工がこれを制作した石仏像である。」

と考えられることになります。

そうした意味では、いわゆる快慶作木彫像の作例とは、作品の意味合いがちょっと違ってくるのかもしれません。
太田古朴氏は、「大和の石仏鑑賞」での本石仏の論考には、
「解脱上人発願、三輪上人開眼の仏師快慶下図の薬師三尊笠石仏」
という表題が付けられていますが、
それは、こうした考え方を踏まえたものであろうと思います。

一針薬師笠石仏
快慶下図、宋人石工石彫かと思われる花崗岩製線刻像

また、今回の調査委員会の主要メンバーである山川均氏(大和郡山市教育委員会)も、以前から、
「一針薬師笠石仏」は、太田古朴氏の主張のとおり、快慶作品であると考えられるという論考を発表しています。
山川氏の論考「一針薬師笠仏と貞慶」は、海住山寺HP「解脱上人寄稿集」に掲載されています。
今回の刻銘文判読で、山川氏の考え方がより一層裏付けられるようになったということなのかと思います。

なお、調査委員会での詳しい研究成果については、
11月30日に岡山・就実大学で開催される、歴史シンポジウム「歴史考古学の現在」で、山川均氏により発表されるとのことです。

コメント

一針薬師の意味は

薬師の意味は分かります。針は鍼師のことでしょうか。お分かりでしたらお教えください。

Re: 一針薬師の意味は

近藤様

「観仏日々帖」ご覧いただき有難うございます。

一針薬師の「一針」の意味ですが、 
『奈良県史7 石造美術』名著出版(清水俊明氏執筆・1984刊)によりますと、
「『一針』の通称は、まるで針で刻んだような繊細な線彫りに由来するという。」
ということだそうです。
私も、この本は読んだことがないのですが、本文中でご紹介しました山川均氏の論考、<a href="http://www.kaijyusenji.jp/gd/kiko/sentence/k36.html">「一針薬師笠石仏と貞慶」</a>の中で、「一針」の由来として引用されておりました。
ご参考にご覧いただければと思います。

  • 2013/09/18(水) 07:38:07 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/tb.php/37-6ef3ed13
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

ケノーベルからリンクのご案内(2013/09/09 08:49)

生駒郡三郷町エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。

  • 2013/09/09(月) 08:49:52 |
  • ケノーベル エージェント