観仏日々帖

トピックス~「国華」創刊期の高橋健三と岡倉天心【その2】

【その1】では、「国華」の創刊期の事情やいきさつについて振り返ってみました。


さて、そろそろ高橋健三の話に入って行きたいと思います。

新聞記事には、高橋健三所蔵文書が見つかったことを端緒に「研究報告書」が出されたと書かれていました。
神奈川県立博物館の御執筆者に問い合わせて見ましたら、非売品の研究報告書ですが、参考になるのならと、報告書を頂戴いたしました。

「国華」創刊に関する研究~研究報告書
【「国華」創刊に関する研究~新出の高橋健三資料を中心にして~】

という研究報告書です。

ご覧の目次のような内容で、国華草創期と高橋健三の事績について、新発見の高橋健三旧蔵の経営収支報告書、日記、書簡などをもとに、詳細に研究された論考が掲載されていました。

大変、興味深く読ませていただきました。
詳細な論考で、とてもここでご紹介するのは大変に過ぎます。

研究報告目次
研究報告目次

論旨を、思いきって独断で端折って要約すると、このように結論付けられているように思いました。


・従来、「国華」の創刊は、岡倉天心が主役で、高橋健三の協力により進められたというように理解されてきた。

・それは、高橋が国華創刊時、内閣官報局長という職にあり、いわゆる官僚と考えられていたことにもよる。

・しかし、高橋健三は官僚ではあったが、大変な文化人で、こうした方面の人々との交友も深く、日本美術とその研究のあり方についても高い見識を有した人物であった。

・また、印刷出版事業についても、当代有数の出版人と云って良い知識、経験を有しており、美術研究雑誌発刊への主体的な意欲には並々ならぬものがあった。

・「国華」は、高橋のこのような見識と構想に基づいて企画・創刊された側面も、大きかったものがあると考えられる。

・「国華」を支えた人々は、編集面、経理面のメンバーから、図版制作の木版技術の名工に至るまで、ほとんどが高橋の人脈により構成されており、出版事業は、高橋を核として運営されていた。

・最大の資金援助者となる朝日新聞の村山と上野とのつながりも、高橋健三の存在が結節点として重きをなしていた。

高橋人脈図
角田拓朗氏執筆論文所載・高橋健三人脈図(角田氏作成)


・このようにみていくと、「国華」の創刊時から出版事業の中心となっていたのは、岡倉天心ではなく、高橋健三であり、また高橋を支えてきた諸々の人々によるものであったと考えられる。

・明治期に「美術」というものを形成してゆく一つの大きな柱となった「国華」という存在を考える時、高橋健三の果たした功績は大なるものがある。



高橋健三とは、どのような経歴の人物だったのでしょうか?

岡倉天心の方はよく知られていますが、高橋健三はあまり知られていません。

「国華の軌跡」からそのまま引用すると、このように書かれています。

高橋健三「他方、安政2年(1855)生まれで、岡倉より7歳上の高橋健三は、この年(国華創刊の明治22年)35歳。大学南校(東京大学)を中退して、明治12年官界に入り、駅逓局などを経て明治16年太政官報告掛、18年官報局次長、22年には官報局長に在任していた。

やがて、官報局を辞して朝日新聞社客員となり、事実上主筆を務める高橋は、明治期のナショナリストとして欧化の風潮批判などに鋭い筆鋒を揮ったが、偏狭な国粋主義者ではなく、文化・美術への感性と教養も豊かな智識人であった。

・・・・・・・・・・

そして高橋も,維新以後忘れられ置き去りにされている日本文化の現状に慨嘆し、わけても美術・文芸の再評価への強い意欲を抱いていた。

それはまさに岡倉と相通じる希願にほかならず、資質にも近しいものがあるこの両人が、肝胆相照らす仲に進んだのは自然の成り行きであった。」


その後、高橋は、明治29年内閣書記官長の重職に任ぜられたりしますが、明治31年(1898年)7月に肺結核のために、神奈川県小田原の別荘で42歳の若さで没しています。


高橋健三という人物も、大変な大人物であったようです。

ただ、岡倉天心が、近代美術文化史上のあまりにも偉大な巨星であったために、その陰に隠れてしまったということなのでしょうか。
「国華」発刊という大業績も、岡倉天心をもって語られ、高橋健三はわずかに共同創刊者としての名を留めるということになってしまったのかもしれません。

「国華創刊といえば岡倉天心」
というイメージが、何時頃から定着していったのかはよく知りませんが、
昭和15年(1940)年11月発行の「国華600号」に収録された「国華沿革略」には、このように記されています。

「国華は明治22、憲法発布の年の10月、時の官報局次長高橋健三氏に依て発起せられ、東京美術学校岡倉覚三氏の協力を得て月刊美術雑誌として創刊せられた。」

ここにでは、発起者が高橋健三、協力者が岡倉天心であったと述べられているのです。
存外、真実が語られているのかもしれません。
執筆者の人選や執筆テーマなどについては天心が深くかかわり、「国華」出版印刷事業全体については高橋が全て運営をしていたということなのかもしれません。


また、明治34年(1901)から44年の長きに亘り「国華」主幹を務めた瀧精一は、高橋健三の甥にあたる人物です。

高橋は瀧の東洋美術研究者としての資質に着目、「国華」編集の任に登用する意思を、村山・上野に漏らしていたのではないかと、推測されています。
これもまた、「国華」の中核が、高橋健三であったことを物語っているようです。


余談ですが、高橋健三と岡倉天心は、明治26年頃、絶交します。

高橋健三から岡倉天心に、絶交状が出されたとのことです。
絶交の事由については、これまで明らかではなく、
「天心の詩人的無軌道の行為が祟って」
などとされていたようです。
今回の高橋資料のなかに天心の債務に関する史料が発見され、天心の金銭トラブル問題が大きく横たわっていたのではないかと考えられるとのことです。
天心が金銭的に無頓着で、豪遊をしたり放漫な面があったことは、良く知られていますので、納得できる話といえそうです。


今回の新聞記事

【「国華」創刊期に悪戦苦闘~高橋健三の資料から判明】

を、読んだことがきっかけで、

国華創刊者の一人とされる高橋健三と、国華創刊期の頃について、調べて見たり勉強したりすることが出来ました。
そして、高橋健三という人物と果たした功績にもふれることが出来ました。

皆さんには、ご関心があまりなかったかもしれませんが、「明治期の文化財保護」や「日本美術の発見」ということに関心が強い私にとっては、大変興味深い話でした。



最後に、本題と全く関係のない話なのですが、
「国華」創刊号に関連して、私が気になっていることがあります。

国華創刊号の目次をみると、挿画として

「無着像  ビゲロー氏所蔵写真  小川一真製写真版」

と記してあります。

国華創刊号目次
国華創刊号目次


ビゲローが、興福寺北円堂の運慶作「無着像」を所蔵していたということなのでしょうか?

無着像写真
国華創刊号掲載・無着像写真(小川一真撮影)


これについては、「国華の軌跡」の本に、このようなエピソードが記されています。

「挿話の伝えるところ、その折(明治21年近畿地方古社寺調査の時~天心・高橋も参加)、文部省美術顧問ビゲローに奈良興福寺が運慶作無着像を十数円で売り渡した事実を知って憤激した、という。
我が国の古美術の危機を世に知らしめる早急な措置の必要が、一同に痛感されたに違いない。」

これによると、無着像は一時ビゲローの手に渡り、また何らかの事情で興福寺に戻されたということになります。
もしくは、ビゲローは売買の約束をしたのか、代金は払ったが無着像を未だ引取りはしていなかったとも考えられますが、「国華目次」には「ビゲロー氏所蔵」となっていますので、普通に考えれば一度引きとっていたということになるのでしょう。

かねがね、どうしてなのだろうかと思っているのは、

興福寺で明治期、
「無着像が売られたとか、売られたが戻ってきた」
といった、挿話や秘話が書かれたものを、他には見たことがないのです。

興福寺の廃仏棄釈や仏像の流出、売却などについては、いろいろな本や資料に、結構詳しく採り上げられています。
薮中五百樹氏執筆の

「明治時代に於ける興福寺と什宝」立命館大学考古学論集Ⅲ-2(2003)
という論文が、こうした仏像の移動などについて最も詳しい論考ではないかと思うのですが、そこにも無着像のことは何も触れられていません。

興福寺の廃仏棄釈と仏像の流出については、
[埃まみれの書棚から~第141話第142話
に書いたことがありますので、参照いただければと思います。


「どうも不思議だな?」と思いながら、
「国華」目次をよくよく見ていて、気が付いたことがあります。
全く的外れの疑問なのかもしれませんが、このようなことです。

目次の、図版の記載をみると、
無着像以外の掲載美術品は「フェノロサ氏所蔵」といったように「○○氏所蔵」と記してあるのに、
無着像だけが「ビゲロー氏所蔵写真」と書いてあるのです。
「所蔵」の後に「写真」という言葉が付加されています。

20130706kokka17.jpg.......................20130706kokka16.jpg
国華目次・無着像写真の記載           国華目次・岩佐又兵衛美人図版画の記載


同じ創刊号に掲載の、岩佐又兵衛筆美人図のほうは、「ビゲロー氏所蔵」と記されています。
無着像だけ「所蔵」ではなく、「所蔵写真」と書いてあるのは、何か意味があるのでしょうか?


ビゲローが無着像を所蔵しているのに、後ろに「写真」という言葉をつけただけなのでしょうか?
それとも、ビゲローが持っていたのは「無着像の写真版」ということで、無着像そのものを所蔵していたと訳ではないということなのでしょうか?

本文の無着像の解説をみると、

「無著菩薩ノ塑像ハ南都興福寺中金堂ニ安置スル所ニシテ天親菩薩卜一対ノ内ナリ」

とあり、無着像は興福寺中金堂に安置してあると書かれています。

また、明治20年頃の興福寺中金堂内陣を撮影したと云われる写真には、ご覧のとおり、無着像と世親像がしっかりと写っています。(国華の創刊は、明治22年です)

明治20年頃の中金堂内陣
明治20年頃の興福寺中金堂内陣古写真(「興福寺の全て」田川俊映・金子啓明監修所載)


「国華」創刊号の図版に使われている無着像の写真は、小川一真の撮影による有名な写真です。
「国華」の掲載写真は全て小川一真が請け負っており、コロタイプ印刷も小川一真が引き受けています。
そうであれば、「ビゲロー氏所蔵写真」と「写真の所有者がビゲローである」というようにわざわざ記すのも、変のように思えます。

どうもよくわからないのです。

「無着像は、本当にビゲローに、一度売り渡されたのであろうか?」
「無着像が売られたとしたら、どのようにして興福寺に戻されたのだろうか?」

どなたか、このことについてご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?
何かご存じのことがありましたら、是非ご教示ください。


どうでもいいような、とるにたらない疑問なのかもしれませんが、
「国華」創刊号の目次の「記述」を見るたびに、大変気になっていることなのです。

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