観仏日々帖

トピックス~「国華」創刊期の高橋健三と岡倉天心【その1】


5月に、朝日新聞にこんな記事が掲載されました。

朝日新聞記事


「国華」という美術研究誌は、美術史にちょっと興味のある方なら誰でもその名をご存じだと思います。
日本を代表する、権威ある美術研究誌です。

新聞記事は、このような主旨を伝えています。

「国華社」は関東大震災で被災し資料が失われたため、国華草創時の詳細は不明なことが多かったが、創刊者のひとりである高橋健三所蔵の書簡や経理文書などが見つかった。
文書からは、草創時の「国華」は天心を中心に語られがちだが、実際は政府の官報局長の高橋が核になっていたことが浮かび上がった。

「国華」の創刊は、岡倉天心というよりも、高橋健三がその中核になって進められていたことが判明したというのです。

高橋健三
高橋健三

国華は、高橋健三と岡倉天心が共同で明治22年(1889)に創刊したのだそうですが、私も、国華の創刊というと、岡倉天心のことがまず頭に浮かんできます。

岡倉天心
岡倉天心

なんといっても「国華」という誌名の名付け親であったということですから。
岡倉天心の名が、余りにも偉大でポピュラーであることから、
「国華といえば岡倉天心」
と思われるようになり、共同創刊者であった高橋健三の名は、その大きな影に隠れて忘れられてしまったようです。

高橋健三といわれても、
「そんな人がいたのだろうか? あまり良く知らない人物だなー」
というのが、実感です。


明治期の日本美術研究の道程を振り返る時、「国華」を置いて語ることは出来ません。
「国華」が、明治期の日本美術の発掘、評価、研究に多大な寄与をしたことは、ご存じのとおりです。

東京国立博物館HPでは、「国華」について、このように解説しています。
「国華創刊120年記念特別展」での説明文です。


(右の写真は、国華創刊号です。)
「国華」創刊号

『國華』とは
 
『國華』は、明治22年(1889)10月に岡倉天心、高橋健三らによって創刊されました。
現在も刊行されている美術研究誌としては世界最古の歴史を誇り、その名は広く海外にも知られています。
『國華』という名称は、岡倉天心による創刊の辞「美術ハ國ノ精華ナリ」から採られたものです。
それに従い、『國華』は日本と東洋の優れた美術について第一線の研究者による質の高い論文を掲載し、また埋もれていた名品を数多く紹介してきました。
2008年4月には、1350号が発行されています。


国華目次草稿
新たに発見された国華創刊号【目次】の草稿>
「創刊の辞」は天心執筆といわれていたが、それが裏付けられた



余談ですが、「国華」は豪華で稀少な研究誌で、揃いの古書価が格段に高いことでも有名です。
「日本の古本屋」で検索してみましたら、明治22年創刊から平成23年(1338号)までの「大揃い」は、なんと1260万円の値がついていました。
ビックリの値段です。


この新聞記事を機会に、明治の「国華」創刊の頃について振り返ってみたいと思います。
そして、高橋健三という人物についても、ふれてみたいと思います。


まずは、「国華」創刊期の事情やいきさつを見てみたいと思います。

「名品探索百十年・国華の軌跡」という本があります。
「名品探索百十年~国華の軌跡」
平成15年(2003)国華創刊110年を記念して、水尾比呂志氏が「国華の歴史」を執筆まとめたものです。
そこには、国華草創期のことが詳しく、興味深く記されています。
47ページの冊子本ですが、残念ながら非売品です。

本書から、創刊事情を要約すると、このようです。

「国華」は、明治22年(1989)10月に創刊された。

当時は、フェノロサ、天心を美術取調係として欧米に派遣したり(明治19年)、東京美術学校を設立したり(明治20年)、全国宝物取調局が設置されたり(明治21年)、「日本美術再発見」の時流にあった。
この時流に棹さして「国華」の創刊は、当代の官野の有識者を糾合した、一大文化プロジェクトの事業であった。
国華創刊を推進したのが、天心・岡倉覚三と、自恃・高橋健三であった。

岡倉・高橋が構想したのは、精巧な図版と充実した論考を兼ね備えた、超豪華版の月刊誌。
創刊号は、「定価金壱円」という、高価なものであった。
原色図版は、木版色摺りで当代一流の名工彫り師がこれにあたり、百三十度摺りから百六十度摺りという、超絶技巧を極めたものであったという。
単色図版は、当代最新写真技術を米国で習得した小川一真の撮影写真を用い、コロタイプ印刷という明暗濃淡の微妙さを再現できる精密な印刷法を用いた。

ここに、国華創刊号の目次と、豪華な図版を掲載しておきますので、ご覧ください。

国華創刊号目次
国華創刊号・目次

伴大納言絵詞
国華創刊号・木版原色精巧図版(伴大納言絵詞)

岩佐又兵衛筆美人図
国華創刊号・木版原色精巧図版(岩佐又兵衛筆美人図)


このようにして船出した「国華」でしたが、その後順風満帆とはいかなかったようです。
なんといっても贅を尽くした雑誌で金がかかりすぎ、赤字続きで直ぐに経営難に陥ったのです。
その難局を救ったのが、朝日新聞社の社主、上野理一と村山龍平の二人でした。

上野理一(右)と村山龍平(左)
村山龍平(左)と上野理一(右)

「国華の軌跡」には、上野、村山の救済のいきさつを語るエピソードが語られています。

「高橋は無類の凝り性、岡倉は放膽な贅沢好みで、二人とも編集費や印刷費、製本費のことなど念頭に置かぬような」作り方だから「その出来あがりの見事なことは舌を巻くようなもの」と感嘆されても、初手から赤字続きにならざるを得なかった・・・・

発刊数年後に、「国華」の文化的意義を説かれて、経営の懇請を受けた村山は、

「新聞社として国華を引き受けることは危険であって、我らのとらぬところである。
しかし、これは新聞社と切り離し、自分と上野君とが、個人の力でお引き受けすればよかろう」

上野もまた、

「このようにして両人揃ってお引き受けしました限りは両人とも破産しませぬ限り、終生変わりないものとお考えくださってよろしいと思います」

このように語ったと云います。

こうして、「国華」は、明治24年(1891)秋から、上野理一と村山龍平によって経営されることになったそうです。

これが「国華」が、現在も朝日新聞社の重要な文化出版事業である所以です。

高橋健三は、明治26年からは朝日新聞社の主筆格の客員となり、「国華」事業にも携わりますが、その後、明治31年に肺結核のため42歳で早逝してしまいます。

一方、岡倉天心は、東京美術学校長をつとめていましたが、明治31年に怪文書などの天心排撃事件が起こります。
天心は美術学校長を非職となり、日本美術院を設立することはよく知られるとおりです。
天心も国華の監修どころではなくなってしまう状況に陥ります。

国華の編集体制も、根本的な立て直しを迫られ、明治34年(1901)には主幹という職位が設けられます。
弱冠28歳の瀧精一が、主幹の任に就きますが、経営状況は大変苦しかったようです。
瀧精一は、その後、昭和20年(1945)に73歳で逝去するまで、44年の長きに亘り主幹をつとめます。
東京帝国大学の美術史学の教授で、美術史学界の重鎮であった人です。

明治38年には、村山、上野両人が国家のために出資した資金の累計は、なんと2万5千円余に上っていたそうです。
これがいかに巨額であったかは、この年の朝日新聞社の1ヶ月の広告収入の総額が3万2千円余であったそうですから、容易に想像がつきます。

「国華の軌跡」は、このように語っています。

「収益なき文化事業とも云うべき国華の存続のために、かかる大金を拠出し続けた村山・上野両人の、篤志と熱情には感嘆のほかはない。」


この後も、そもそも不採算文化事業である「国華」事業は、厳しい経営状況を乗り越えていかざるを得なかったようです。
なかでも関東大震災、太平洋戦争前後には、廃刊の危機に見舞われたとのことです。
このあたりの歴史にふれているときりがありませんので、国華草創期の話は、これぐらいにしておきます。

「国華」は、幾多の困難を乗り越えて、現在も毎月発刊継続され、日本を代表する権威ある美術研究誌の地位をゆるぎなきものとしています。


ここまで、「国華」創刊期の事情やいきさつについて振り返ってみました。
【その2】では、「国華」の創刊と経営に、高橋健三が果たした役割や功績について、ふれていきたいと思います。

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