三重県伊賀市にある、観菩提寺の十一面観音像。
「若き日の最後の地方仏探訪」 となった、思い出深い仏像です。
この仏像を拝し、発散する
「得も言われぬ物凄い“気”、強烈なオーラ」
に、受けた衝撃は、今でも忘れることは出来ません。
【学生から会社勤めへ~地方仏探訪など、とても無理そうな忙しい職場】
学生時代の後半は、地方仏探訪にハマっていましたが、卒業の時が来て就職、会社勤めとなりました。
職場は東京で、住み慣れた関西の地を離れることになりました。
昭和48年(1973)のことです。
いわゆる日本の高度成長期の最後となる年です。
その頃は「モーレツ社員」とか「企業戦士」とかいう言葉が流行語になったような時代で、私の勤めた職場も、ご多分に漏れずという感じでした。
先輩方を見ていると、毎日夜遅くまで働いて、そのあと飲みに行って、休みの日は、疲れた身体を休めるか、たまった仕事を片付けるかという様子です。
当時は、土曜日は勤務日で、休みは日曜、祝日だけでしたから、なかなか泊りがけでどこかへ出かけるという訳にもいきません。
「これは、奈良、京都はおろか、地方仏探訪に出かけるなどということは、到底できそうなことではないな!」
「これからは、仏像探訪などは、キッパリと諦めるしかないな!」
と覚悟を決めたのでした。
【若き日最後の地方仏探訪旅行へ~愛知から三重方面を探訪】
ただ、入社最初の年は、見習の新人でしたので、何日間かの夏休みがとれることになりました。
そこで、
「これが、最後の地方仏探訪旅行になるのだろう。」
そんな思いで、数日間の仏像探訪に出かけることにしたのでした。
真夏、8月の数日間、一人で、旅に出ました。
教養文庫の「日本古寺巡礼」(社会思想社刊)をポケットにねじ込んで、事前の拝観予約など全く無しで、出たとこ勝負で出かけたのです。
愛知の甚目寺、七ツ寺、岐阜の華厳寺、横蔵寺、滋賀湖南の善水寺、櫟野寺、阿弥陀寺、三重亀山の慈恩寺などを巡りました。
【最後に訪ねた観菩提寺~突然の秘仏拝観のお願いを承知いただく】
この地方仏探訪旅行の最後の最後に訪ねたのが、三重の観菩提寺となったのでした。
宿の予約もない、行き当たりばったりの旅でした。
善水寺のある、国鉄草津線の三雲駅に着いたところで日が暮れて、駅で紹介してもらった安宿に泊まりました。
翌日、観菩提寺を訪ねてみたいと思い、お寺にTELをしてみたのです。
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「日本古寺巡礼」(社会思想社刊) 掲載の観菩提寺・十一面観音写真 |
観菩提寺の十一面観音像は、33年に一度の開扉の厳重な秘仏ということでしたので、きっと拝観は無理に違いないと思ったのですが、ダメもとで、TELをしてみたのでした。
ご住職が電話に出られました。
「突然ですが、明日、十一面観音様を拝観させていただけないでしょうか?
秘仏と伺ってはいるのですが、如何でしょうか?」
とお尋ねしました。秘仏と伺ってはいるのですが、如何でしょうか?」
当然のことですが。
「観音様は秘仏で、拝観は一切受けていない。」
というお答えです。今にして思えば、前夜、突然電話して拝観のお願いなどというのは、失礼の極みで恥ずかしき限りです。
ご住職は、あまりの若者からの電話に、ご興味を持たれたのでしょうか、
「随分、若い方のようだが、どうして、うちの観音様を拝観したいのか?」
と、聞いてくださいました。きっと、当時は、専門家以外の一般人が拝観したいという話は、めったにないことであったのだと思います。
「私は、仏像を愛好していまして、これまで全国各地の仏像を訪ねてきました。
・・・・・・・
この夏は、このような古寺、古仏を巡って来ました。
最後に、観菩提寺を訪ねて、観音様を拝むことができればと思って、
・・・・・」
などなど、縷々、お話ししました。
そうしたところ、ご住職は、何とか拝したいという心持を察していただいたのでしょうか、
「厳重な秘仏にしているのだけれども・・・・・・
そういうことなら、まあ、いらっしゃい。」
と、おっしゃっていただいたのでした。そういうことなら、まあ、いらっしゃい。」
【東大寺、実忠和尚ゆかりの修正会で知られる正月堂・観菩提寺】
観菩提寺は、三重県伊賀市島ケ原という処にあります。
国鉄(JR西日本)関西本線の、島ケ原の駅で降りて、20分ほど歩いたところです。
まもなく三重県と京都府と奈良県の県境というあたりです。
観菩提寺は、東大寺の開山、良弁僧正の弟子の実忠の創建になると伝えられ、旧正月に行われる修正会の行事が長らく伝えられることから、「正月堂」の名前で親しまれています。
この正月堂のご本尊が、秘仏・十一面観音像です。
9~10世紀制作の一木彫像で、重要文化財に指定されています。
この観音像は、「異形で呪術的霊気を発する特異な像」だということなのです。
厳重な秘仏として祀られ、33年に一度の開扉とされています。
最近では、平成27年(2015)11月に、8日間の、ご開帳がありました。
【ほの暗い厨子から、もの凄い“気”を発散する観音像に、激しい衝撃】
お寺を訪ねると、ご住職が、
「33年に一度開扉の秘仏なのだが、特別に、開扉してあげましょう。」
と、おっしゃっていただき、ご配意に感謝しつつ、正月堂に入堂しました
ご読経の後に、厨子の扉が、厳かに開かれました。
堂内は、暗くて、厨子の中の観音像の姿がはっきり見えません。
やがて、目が慣れてくるにしたがって、2メートルを超える怪異な大像が、眼前に迫ってきます。
なんと表現したらよいのでしょうか?
得も言われぬ「物凄い“気”」を発して、迫ってくるのです。
発散する“気”のパワーに圧倒されて、思わず後ずさりしてしまうような、インパクトです。
頭がバカにでかくて幅広で、上半身が異様に大きく、下半身は不釣り合いに長くて細身です。
プロポーションとしては、アンバランスそのものです。
バランスの取れた優れた造形とかという世界とは、全く縁遠い、「歪み、デフォルメ、いびつ」といった造形です。
「アクが強い、クセが強い」という言葉が、似つかわしそうです。
お顔を見ると、分厚い唇、小鼻の膨らんだごつい鼻は、強烈な迫力です。
細く切れ長の目は、異様に厳しく、鋭い眼光を発しています。
射すくめられてしまって、動けなくなってしまいそうな、恐ろしい目です。
内から発するオーラというか、霊気というか、ものすごいものがあるのです。
こんなに、激しく、強烈なインパクトのある仏像に出会ったのは、初めてのことのように感じました。
【「呪術的信仰」、「不思議な力の宿り、凄い力」と、専門家もコメント】
ポケットの「日本古寺巡礼」の本には、
「その面相は、怪奇とでも表現するよりほかないようなものである。
頭や胴がばかに大きく、それに較べて腰から下がいかにも細身である点も変わっており、いわばこの像は正統な彫刻の技法になるものでなく、地方的な要素が強く、あえていうなら山間遊行の行者たちの呪術的な信仰にささえられた像の系統をひいているように思えてならないのである。」
(「日本古寺巡礼・上」社会思想社教養文庫 1965.7刊)
このように書かれていました。
後に出版された、井上正氏著の「古仏」という本には、
「美術のもつ力とは異なる、不思議な力の宿りを本像に感じた。
9世紀彫刻の凄い奥行きを、土着の相の中に垣間見たように思った。」
「一見して、凄い力を蔵する像である。
十一面六臂の異常な形相に加えて、精神の強い表現は、拝者を圧倒する。」
(井上正著「古仏~彫像のイコノロジー」法蔵館1986.10刊)
と述べられていました。
【異様な呪術的霊気に魅入られた、若き日最後の観菩提寺・観音像探訪】
その通りというか、それ以上のデモーニッシュなエネルギーを強烈に感じました。
いわゆる「平安初期一木彫の、森厳さとか鋭い迫力」というものとは、ちょっと違った、「土着的、呪術的霊気」のようなものを発散しています。
ほの暗いお堂の中で、ぼんやり浮かび上がるような中で、拝したからでしょうか。
その姿を拝し、あの鋭い眼に射すくめられると、何やら、闇の中の暗黒の世界に惹き込まれて行ってしまうような、「もの凄い“気”」を、強烈に感じたのでした。
観れば観るほどに、異様な霊気や、凄みのあるエネルギーに、魅入られてしまいました。
頭をガツーンと殴られて、そのまま痺れてしまったような気分になってしまいました。。
「写真も撮ってよい」とのお赦しもいただき、ご住職のご配意に感謝しつつ、いずれの時にかの再訪を誓って、観菩提寺正月堂を辞しました。
駅までの道程を歩く間も、この異形の十一面観音像の発するオーラから受けた「火照り」のようなものが、なかなか消えることがありませんでした。
今でも、その時の興奮のようなものが、鮮明に蘇ってきます。
そして、この観菩提寺の十一面観音像に拝したのが、「若き日の最後の地方仏探訪」となりました。
まさに、「忘れがたき観菩提寺」となったのでした。
【それから30年、50歳過ぎまで地方仏探訪とは無縁の生活に】
それからは、仕事々々の会社人間への変身を余儀なくされてしまい、地方仏探訪などには全く出かけることがなくなってしまいました。
「ゴルフに出かける暇はあっても、仏像を観に行く暇はない」
という生活が長く続きました。ずっと東京勤務になりましたので、京都、奈良へ仏像を観に行くということも、ほとんどなくなって、
「仏像とは縁遠い、仕事の日々」
を過ごすことになりました。結局、最後に観菩提寺を訪ねてから、50歳を過ぎるまで、30年間ほど地方仏探訪に出かけることはありませんでした。
その間は、隠れ仏像愛好家とでもいうのでしょうか。
暇を見つけて、神田神保町あたりに出かけて、仏像の本を購い蒐めるのが、「仏像探訪に代わる、密かな愉しみ」になったのでした。
【37年ぶりの観菩提寺再訪~やはり、「物凄い“気”」を発散していた観音像】
50歳代半ばごろからでしょうか。
徐々に、地方仏探訪を再開し、同好の方と出かけるようになるのですが、平成22年(2010)の秋、観菩提寺を再訪することができました。
実に、37年ぶりに訪ねたのです。
縁あって、秘仏の十一面観音像を拝することが叶いました。
開かれた厨子から姿を現した観音像は、やはり、「物凄い“気”」を発散していました。
ほの暗い堂内の釣灯籠の明かりに、妖しく浮かび上がるような姿は、
「私の古い記憶に刻印された、鮮烈な衝撃」
そのままのオーラを、変わらずに発散していたのでした。
若き日、この像に出会った衝撃は、その時限りの一過性の感動ではなかったようです。
「やはり、この観音像の“気”は、ただものではない、尋常のものではない!」
との実感を、心新たにしたのでした。
【博物館へ出展された、秘仏・十一面観音像~どこかへ消えてしまったような、あの霊気】
そして、三度目に、この観音像に出会ったのは、翌年の2011年の春のことでした。
なんと、世田谷美術館で開催された「白洲正子~神と仏、自然への祈り~展」に、観菩提寺の十一面観音像が出展されたのです。
まさか、この厳重秘仏が、展覧会に出展されるとは、驚きでした。
白洲正子の著作「十一面観音巡礼」に、この観音像の拝観の話が語られていることから、出展の運びとなったようです。
「あの、もの凄い“気”を発する、観菩提寺の観音像にまた出会えるのだ!」
「博物館で観ると、どんなにすごいだろう。」
と、勢い込んで出かけました。
ところが、博物館に展示された観菩提寺・十一面観音像の前に立った時の印象は、全く違ったものでした。
率直に言えば、
「異常にアンバランスな造形の、出来が今一歩の、ゴツイ感じの一木彫像」
が、展示されていると感じたのが、本音のところです。
「あのデモーニッシュな霊気は、どこへ消えてしまったのだろうか?」
と思うほどに、さほどに、発散するオーラを感じなかったのです。
ちょっと拍子抜けという処です。
展覧会場でも、この観音像の前で足を止めて見入る人、惹き付けられる人も、多くはいなかった様子でした。
厨子から出た明るいところで撮影された写真を見ると、そこからは、観音像の発散する“気”やオーラを感じ取ることは、難しいように感じます。
やはり、
「この観音像の霊気やデモーニッシュなエネルギーは、博物館のような場では、体感することは出来ないのだ。」
「あのほの暗い正月堂の厨子の中に秘められるという、宗教空間の場においてでないと、観音像の“気”は、決して発散することはないのだ」
と、つくづく実感しました。
今回は、若き日最後の地方仏探訪で、「霊気発散する観菩提寺・十一面観音像」に出会い、忘れ得ぬ衝撃を受けた話の回想でした。