昭和46年(1971)秋、東京国立博物館で特別展「平安時代の彫刻」が開催されました。
【今でも、圧巻の仏像展として語り草に~「平安彫刻展」】
この「平安彫刻展」も、地方仏の魅力に惹き付けらることになった、忘れ得ぬ展覧会でした。
また、平安前期の一木彫像の圧倒的な迫力にふれ、ますます「平安前期好き」になってしまいました。
この特別展を若い頃に観たという方は、そう多くはいらっしゃらないのではないでしょうか?
50年近く前に開催された、昔の展覧会ですが、今でも、
「あの平安彫刻展は、すごい展覧会だった!」
と、語り草になっているのではないかと思います。
平安時代の仏像、それも平安前期の一木彫像を中心とした平安彫刻、なんと約100点もが一堂に展示されたのです。
仏像彫刻だけを、これだけの規模で集めて展示される特別展というのは、国立博物館でも初めてのことではなかったかと思います。
神護寺・薬師如来像、新薬師寺・薬師如来像などといった一木彫像が、「平安初期彫刻」とか「貞観彫刻」とか呼称され、その魅力が熱く語られるようになるのは、戦後になってからのことだと思います。
この特別展、通称「平安彫刻展」に立ち並んだ仏像を観て、多くの人が、
「平安前期の一木彫像の、圧倒的なパワーとか迫力」
に惹き付けられたのではないでしょうか。平安前期一木彫像の魅力を、世に広く知らしめた展覧会として、「平安彫刻展」は、仏像ファンの記憶に刻まれています。
【思い切って、関西から泊りがけで「平安彫刻展」へ ~選りすぐりの地方仏も勢ぞろい】
この「平安彫刻展」のもう一つの大注目は、「地方仏」の出展でした。
日本各地の、魅力ある平安前期一木彫が、数多く出展されたのです。
選りすぐりの「平安古仏の地方仏」の勢ぞろいです。
この年の夏、東北みちのくの地方仏探訪旅行で、「地方仏の魅力」に感動、感激したばかりの頃です。
その興奮が、まだ冷めやらぬ時に、東博で「平安彫刻展」が開催されたのでした。
「この展覧会には、なんとしてでも出かけねばなるまい!!」
そう、勢い込んだのでした。
関西から、同好会のメンバ6~7人で、泊りがけで「平安彫刻展」に出かけることになりました。
当時は、関西から東博へ展覧会を観るために、わざわざ出かけるというのは、
「相当、思い切って出かける!」
という気分です。貧乏旅行でしたから、たしか深夜バスで東京まで出かけたように思います。
【第一番目に展示の、香川 正花寺・菩薩像の魅力に、釘付けに】
朝早く、東京国立博物館の開館と同時に入場しました。
当時は、当然「平成館」はありませんから、特別展は「本館」での開催です。
本館1階の全フロアーを使って「平安彫刻展」は、開催されていました。
正面玄関を入って、右側の展示室が入口、第1室でした。
現在、「仏像彫刻」が平常陳列されている部屋です。
入口を入ると、いの一番の展示仏像は、香川県、正花寺の菩薩立像でした。
前に立った途端に、「眼が釘付け」になってしまいました。
唐招提寺・講堂木彫群の一つの伝衆宝王菩薩像にそっくりの仏像です。
「こんなに見事で出来の良い一木彫像が、香川の片田舎に残されているのか。」
と、ビックリです。ふっくらと頬を張った顔立ち、口元をキリリと結んだ締りのある表情は、何ともたまらなく惹かれてしまいます。
「顔面も膨らんだ胸のあたりも、木目が見事なまでにシンメトリーで、美しい弧線を描いている。」
このことが、たいへんに印象的でした。木心を、ピタリとど真ん中に持ってきた、真っ直ぐの良材を使っているのだと思います。
仲間たちと、図録と首っ引きで、
「あーだ、こーだ」
と、夢中に話をしている間に、1時間ぐらいがあっという間に立ってしまったように思います。【第一室展示の仏像だけでも目を奪われるラインアップ
~平安前期の地方仏優品、中央作名品が、目白押し】
正花寺・菩薩像の隣には、愛媛県北条市、庄部落の菩薩像が置かれていました。
粗野ながらも、骨太で筋肉質、2メートルを超える偉丈夫の像です。
夏に探訪した東北の地方仏の雰囲気とは全く違う空気を感じます。
大陸風というか異国風というか、のびやかで雄大なインパクトで迫ってきます。
振り返ると、部屋の斜め後方、反対側には、福島会津、勝常寺の薬師三尊像、三重、慈恩寺の阿弥陀如来立像、新潟佐渡、佐渡国分寺の薬師如来坐像が並んでいました。
夏の東北地方仏探訪で、緊張感でコチコチになって、本堂で正座したまま、ろくすっぽ観ることなく終わってしまった、勝常寺の薬師如来像が出展されているのです。
今度は、ノビノビとした気分で、前から、横から、斜めから、これでもかというぐらいじっくりと薬師像を眺めまわしました。
今更ながらに、「みちのく随一の傑作仏像」を堪能することができました。
佐渡国分寺の薬師如来像は、豊かな量感で堂々たる像なのですが、やや鈍いような重みというか、ドッシリとかズングリという言葉が似合う像です。
平安前期の迫力・量感というより、北陸の素朴で粘り強く辛抱強いといった気風を、そのまま顕しているようで、
「佐渡や越後の気候風土を、象徴しているような仏像だなあ。」
との印象を強くしました。まさに、平安前期の地方仏の代表選手ともいえる優品デレゲーションに、唯々、目を奪われ、心惹き付けられたのでした。
第1室には、ご紹介した地方仏の優品だけではなく、中央の平安初期名作像もいくつも展示されていました、
元興寺・薬師如来像、橘寺・日羅像、興福寺東金堂・広目天像、観心寺・聖観音像、
室生寺弥勒堂・釈迦如来像、秋篠寺・十一面観音像、東寺講堂・梵天像
といった処です。
今振り返ってみても、スタートの第1室の展示から、ものすごいラインアップだったなあと思います。
朝一番に入館したのに、あっという間に時間が経ってしまい、「第1室」を観ただけで、とっくにお昼を過ぎてしまいました。
展示は、なんとまだまだ「第9室」まで、あるのです。
【丸々2日間、居続け、見続けた「平安彫刻展」~今では考えられない情熱、気力】
一泊二日、マル2日間、東京国立博物館「平安彫刻展」にべったりと居続けました。
昼飯もそこそこに、唯々、立ち並ぶ仏像に見入ったのでした。
あんなに一生懸命に展覧会を観たのは、後にも先にも、この「平安彫刻展」の時しかなかったと思います。
「学生時代で若かった、同好の6~7人で出かけた、どれもこれも魅力あふれる仏像で感動の連続であった。」
ということもあろうかと思うのですが、よくあんなに長時間、展覧会を見続けられる気力や、情熱があったものだと思います。
齢を取った今では、展覧会を見るのは、1時間ちょっとがいいところ、どんなに長くても腰が痛くて2時間が限界という処です。
しんどくて、気力が続きません。
平安彫刻展に出品された、そのほかの地方仏の主だったものだけをご紹介しておきますと、次のようなものでした。
大阪勝尾寺・薬師三尊像、山梨大善寺・薬師三尊像、兵庫普門寺・千手観音像、
静岡箱根神社・万巻上人像、三重普賢寺・普賢菩薩像、福井長慶院・観音菩薩像、
福岡浮嶽神社・如来像、岩手黒石寺・伝慈覚大師像、神奈川日向薬師宝城坊・鉈彫り薬師三尊像、
神奈川弘明寺・鉈彫り十一面観音像、滋賀善勝寺・千手観音像、福岡観世音寺・トバツ毘沙門天像・馬頭観音像
ご覧いただいただけでも、なかなかすごいライアップであったことがお分かりいただけることと思います。
【ますます地方仏の魅力にハマって、地方仏行脚へ】
この夏の、東北みちのく地方仏探訪旅行に続いて、平安彫刻展で平安前期一木彫と地方仏の持つ魅力、引力をたっぷりと見せつけられました。
ますます、地方仏に魅入られ、ハマっていくという感じがしました。
「もっと、もっと、魅力ある地方仏を観てみたい。」
「地方仏が祀られている、現地まで訪ねて行ってみたい。」
「仏像が生きてきた、その地方、土地の風土を、直に感じてみたい。」
そんな思いが、強くこみ上げてきました。
それから一年半ぐらいの間に、全国各地の地方仏探訪行脚にせっせと出かけることになったのでした。
【「平安彫刻展」企画の倉田文作氏が、展覧会場に】
「平安彫刻展」では、こんなこともありました。
展覧会場で、倉田文作氏に出会ったのです。
![]() |
倉田文作氏 |
長らく文部省で文化財調査、保護に努めた日本彫刻史の専門家で、奈良国立博物館の館長もされた方です。
「仏像のみかた~技法と表現」(第一法規刊)や、至文堂刊の日本の美術「貞観彫刻」をはじめ、多くの著作でもよく知られています。
当時は、東京国立博物館の学芸部長で、この「平安彫刻展」の企画、推進に自ら当たっていた方です。
私たちは、別に、倉田文作氏と面識などあるわけではありません。
著作の本の掲載写真で、顔を知っているというだけでした。
展覧会場に、倉田文作氏らしき人がいるのを、誰かが見つけたのです。
「あそこにいるのは、倉田文作じゃないか?」
「うーん、確かにそうだ。」
と、仲間内でヒソヒソ話をしていました。
倉田氏は、この展覧会の思い入れが強く、しょっちゅう会場に顔を出されていたようなのです。
こんなエピソードが、後年「倉田氏の逝去を偲ぶ回顧文」に残されています。
「文化庁から東京国立博物館の学芸部長に迎えられたとき「平安彫刻展」が行われた。
これこそは自分の専門と倉田さんは大いに張り切った。
自ら作品を選び、仏像を抱きかかえ、陳列台を動かし、照明を調整し、と文字通り陣頭指揮である。
開会してみるとこの展覧会はまた大入りである。
倉田さんは部長室ではなく、会場受付に毎日出勤した。
土曜の午後も日曜もである。
求められれば会場内での解説も喜んでする。
その心はすべて『平安彫刻展』に奪われていたのである。」
(「倉田文作館長を偲んで」西川杏太郎著・文化財五十年を歩む~竹林社刊所収)
まさに、この回想文のような感じで、倉田文作氏は、展覧会場にいたのでした。
【ちょっとミーハー気分で、倉田氏からもらった “サイン”】
その時、小脇には、「平安彫刻展の図録」と、倉田氏著の「貞観彫刻」(日本の美術・至文堂刊)を抱えていました。
思い切って、声を掛けました。
「倉田先生でしょうか? アノー、この本に、サインをいただけるでしょうか?」
と、二冊の本を差し出したのでした。
倉田氏は、一瞬、面食らったような顏をされました。
タレントやスポーツ選手でもないのに、いきなりサインが欲しいといわれたのですから。
それでも、一生懸命そうな学生からお願いということで、すぐににこやかな表情になって、
「ハイハイ、いいですよ。サインですね。」
と、たいへん気持ちよく、2冊の本にサインをしていただきました。
関西からわざわざやってきた学生達ということで、好感をお持ちいただいたような気もします。
これが、その時に、倉田文作氏から頂いたサインです。
今から振り返れば、ミーハーそのもので、本当に気恥ずかしくなってしまうのですが、その時は、
「あの倉田文作からサインをしてもらった!!」
と、有名タレントのサインをもらったような気分で、嬉しくなったのを覚えています。
それから、50年近くが経ち、もう半世紀も前の昔話になってしまいました。
今でも、懐かしく思い出されます。
「平安彫刻展」は、その後数限りなく訪れた仏像の展覧会のどれよりも、
「心に深く刻まれた、忘れ得ぬ展覧会」
となっています。
また、
「平安前期一木彫像の魅力に惹き込まれ、地方仏探訪への情熱をかきたてた展覧会」
になりました。