観仏日々帖

こぼれ話~奈良の仏像写真家、「鹿鳴荘」永野太造氏のこと  【その2】  【2017.8.26】


ここからは、永野太造氏が、戦後「鹿鳴荘」店主となり、仏像写真家としての知られるようになっていく軌跡を振り返ってみたいと思います。


【戦後、三代目「鹿鳴荘店主」となった永野太造氏~仏像写真はズブの素人で独学】


永野太造氏が、鹿鳴荘の店主となったのは、戦後のことです。

永野氏は、大正11年(1922)8月16日大阪市生まれ。
戦前は、大阪市内の料亭鶴屋で板場修行をしていたということです。
戦後、軍隊から復員後、父方の伯父が営んだ永野鹿鳴荘を継ぐことになりました。
永野太造氏、20歳代のことかと思われます。

永野氏は、写真についてはズブの素人だったのですが、長谷川伝次郎「大和仏像写真展」に刺激を受けて写真撮影を始めたということです。

写真家・長谷川傳二郎氏長谷川傳二郎撮影仏像写真~法隆寺・夢違観音像
写真家・長谷川傳二郎氏と、同氏撮影~法隆寺・夢違観音像

まさに、独学、独力で写真撮影技術を習得していったのでした。

永野氏自身は、写真を始めたころについて、昭和57年の日本経済新聞・文化欄の記事で、このように語っています。

永野太造撮影薬師寺東院堂・聖観音像
永野太造撮影~薬師寺東院堂・聖観音像
「復員して店を継いだ私は、大阪の大丸百貨店で長谷川伝次郎さんが撮影した『大和仏像写真展』を見た。
その写真に刺激を受けて、独学で写真を撮り出した。

まず許可のいらない石仏や仁王さんなどを写して修行していたら、薬師寺の橋本凝胤長老が、『しっかりやれ』と応援して下さった。

最初にとった仏像は、薬師寺の東院堂にある『聖観音』である。
その後は橋本長老に紹介して頂き、いろんな寺を写して回った。」
(「後光さす仏像保存運動~浄瑠璃寺・吉祥天像を会長に浄財募る」1982.9.18付日本経済新聞朝刊)

この日経新聞掲載「後光さす仏像保存運動~浄瑠璃寺・吉祥天像を会長に浄財募る」は、永野太造氏自ら執筆したもので、浄瑠璃寺・吉祥天像の厨子の修復運動からスタートし、仏像鑑賞見学会に発展した「吉祥会」の活動などを、世話役の永野氏が紹介するというものです。

この中で、自身が、仏像写真家となったいきさつ、足跡などに少しだけ触れられています。
この新聞記事が、永野氏が写真家人生を回顧して語った唯一の文章ではないかと思われます。、



【小林剛氏との出会い~仏像写真家として大きな飛躍のキッカケに~
~奈文研・草創期を支えた写真家として活躍】

小林剛氏
小林剛氏
そのような永野太造氏が、仏像写真の専門家として、大きく飛躍したのは、小林剛氏との出会いでした。

ご存じのとおり、小林剛氏は奈良国立文化財研究所所長をつとめた仏教彫刻史研究の大御所ともいえる著名な研究者です。
ちょっと年配で仏教美術にご関心ある方なら、その名を知らない方はおられないでしょう。

小林剛氏は、昭和27年4月、新たに設立された奈良文化財研究所の美術工芸研究室長として着任します。
設立当初の奈良文化財研究所は奈良博の近く、現在の仏教美術資料研究センターの建物に置かれました。

開設当初、奈良国立文化財研究所が置かれた、現仏教美術資料研究センター
開設当初、奈良国立文化財研究所が置かれた、現仏教美術資料研究センター

いきさつは判りませんが、小林剛氏は、鹿鳴荘・永野太造氏に、仏像をはじめとする文化財写真の撮影を依頼します。
以降、小林剛氏と共に、長きにわたり、各地をめぐり膨大な写真撮影に携わることになります。

永野氏は、このように回顧談を語っています。

「昭和27年、奈良国立文化財研究所が設立、小林剛先生が彫刻室長になって来られた。
幸いなことに小林先生から調査のための写真の応援を依頼され、以後、一緒に15年間、仏像、経巻、工芸品、絵画、建築など無数の文化財を撮って回った。
東は岩手、西は大分まで足を延ばし、一年の内10か月は家に帰らなかったこともある。
ネガは、2万点ほどになったろう。」
(「後光さす仏像保存運動~浄瑠璃寺・吉祥天像を会長に浄財募る」1982.9.18付日本経済新聞朝刊)

この小林剛氏とのコンビによる写真撮影の実績によって、仏像写真の専門家としての地位を名実ともに築くことが出来たのだろうと思います。



【小林剛氏著書の掲載写真の多くは、永野太造撮影写真】


小林剛氏は、昭和44年(1969)に急逝するまで、自身の仏教美術の著作で、永野太造氏の撮影写真を用いるようになっていったようです。

永野大造氏の写真を掲載したことが明記されている著作をピックアップしてみると、以下のものがありました。

永野太造氏撮影写真掲載が明記された、小林剛氏著作


「日本彫刻美術」小林剛・松本楢重著、永野太造写真(鹿鳴荘1953年刊).「浄瑠璃寺」小林剛・森蘊著、永野太造写真(鹿鳴荘1957年刊)

「奈良の美術」小林剛著・永野太造写真(創元社1958年刊).「肖像彫刻」小林剛著(吉川弘文館1969年刊)



【古くから、古美術関係書を出版していた「鹿鳴荘」】


小林剛氏の著作の中に、出版社が「鹿鳴荘刊」となっているものがあるのに、お気づきになったと思います。

鹿鳴荘は、永野太造氏の先代の頃から、茶店写真販売などの他に、古美術関係書の出版も手掛けていました。
私が調べてみた限りでは、次のような出版物が鹿鳴荘の手で刊行されていました。

鹿鳴荘によって刊行された出版物の一覧


鹿鳴荘刊「仏像通解」..鹿鳴荘刊「奈良県下国建見学提要」

鹿鳴荘刊「仏像彫刻案内」鹿鳴荘刊「仏像彫刻~知識と鑑賞」


永野太造氏が発行人になっている3冊には、もちろん永野太造撮影写真が使われています。



【美術書に、ポスターに、~広く知られるようになった「永野太造の仏像写真」】


小林剛氏とコンビで写真撮影を担った永野氏は、まさに昭和27年(1952)に創立された奈文研の専属写真家のような仕事ぶりであったと思われ、「奈良文化財研究所の草創期を支えた写真家」ともいえる存在でした。

昭和31年には、近畿日本鉄道制作「奈良大和路」ポスターが、国際観光ポスター展グランプリを受賞します。

国際観光ポスター展グランプリを獲得したポスター~永野太造氏撮影、東大寺法華堂・月光菩薩像~
国際観光ポスター展グランプリを獲得したポスター~永野太造氏撮影、東大寺法華堂・月光菩薩像~

このポスターの東大寺法華堂・月光菩薩像の写真を撮ったのが、永野太造氏でした。
こうしたなかで、仏像写真家としての名声、地位も、着々と確立していったと思われます。

永野氏の仏像写真は、ポスターやカレンダーなどにも、多く使われるようになりました。
また、六大寺大観などの掲載写真も、そのいくつかを永野氏が撮影しています。

冒頭にもご紹介したように、

奈良六大寺大観・第14巻「西大寺」(岩波書店・1973年刊)

大和古寺大観・第5巻のうちの「不退寺」(岩波書店1978年刊)

大和古寺大観・第7巻のうちの「浄瑠璃寺」(岩波書店1978年刊)

古寺巡礼シリーズ (淡交社・1979年刊)

の掲載写真は、永野太造氏の撮影によるものです。

奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(四仏像)
奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(四仏像)

奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(愛染明王像)
奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(愛染明王像)

大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(九体阿弥陀像)
大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(九体阿弥陀像)

大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(吉祥天像)
大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(吉祥天像)



【唯一の個人写真集となった本~「奈良の仏像 七十」】


仏像写真家として著名であった永野太造氏ですが、個人の仏像写真集を出版するということはありませんでした。

唯一の仏像写真集と云える本は、奈良の美術印刷の老舗、岡村印刷工業の創業70周年を記念して出版された、

「奈良の仏像七十」  写真:永野太造 解説:青山茂 1990年4月刊 非売品

という、大型豪華本です。

永野太造唯一の個人写真集ともいえる、「奈良の仏像七十」(岡村印刷工業1990年刊)

この写真集は、岡村印刷工業が毎年制作してきた「古彫塑カレンダー」の中から、70点の仏像写真を選んで、創業70周年記念の贈呈配布用に作った本です。
この「古彫塑カレンダー」シリーズの仏像写真を、昭和30年(1955)の第1集以来、直近第36集まで、撮影していたのが永野太造氏でした。

「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(東大寺戒壇堂・増長天像)
「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(東大寺戒壇堂・増長天像)

「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(聖林寺・十一面観音像)
(聖林寺・十一面観音像)

「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(法華寺・十一面観音像)
(法華寺・十一面観音像)


永野太造氏は、平成2年(1990)に、68歳の若さで逝去しました。
その1年ほど前に転んで頸椎を損傷したことが原因で、急逝されたということです。

奇しくも、亡くなった年に出版された「奈良の仏像七十」が、永野氏唯一の個人写真集、遺著となりました。


【永野の遺品、膨大なガラス乾板資料が、帝塚山大学に寄贈へ
~貴重な仏像写真資料の永続保存実現】

鹿鳴荘では、永野太造氏が亡くなられてから、しばらくの間は、仏像写真や美術図書の販売など続けられていましたか、太造氏の御長男が急逝されたこともあってか、いつの頃からか、茶店土産物販売に専念されるようになり、現在の姿での営業となっているようです。

仏像写真を継ぐ人がいなくなってしまったなかで、太造氏が残した仏像写真や関係資料が、散逸したり、失われてしまうこともあるのではないかとの心配もあった訳ですが、冒頭でご紹介したように、平成27年(2015)、膨大な「ガラス乾板資料」等が、帝塚山大学に寄贈されることになったのでした。



【寄贈実現へのいきさつ~永野氏写真パネル「展示実習」企画展がきっかけ】


寄贈が実現した経緯は、次のようなものであったようです。

帝塚山大学と鹿鳴荘・永野太造氏との縁のはじまりは、青山茂氏であったようです。
青山茂氏は、『斑鳩の匠 宮大工三代』など、いわゆる「奈良学」に関する多数の著作で知られた仁ですが、長らく帝塚山短期大学教授の職にありました。
永野太造氏との交流もあり、永野氏の写真集「奈良の仏像七十」の解説執筆も青山氏によるものです。
また、青山氏は、永野氏撮影の仏像写真パネル100枚以上を、大学で購入していました。

「写真で巡る大和・山城の社寺彫刻~永野鹿鳴荘の写真作品から」ポスター
平成26年(2014)1月、大学博物館に保管された、この写真の確認と、写真パネル展示実習の目的で、博物館実習生による「写真で巡る大和・山城の社寺彫刻~永野鹿鳴荘の写真作品から」という企画展示が行われました。
この企画展示の準備作業で、鹿鳴荘の永野太造氏の子息、息女に協力を仰ぐことになり、これがきっかけとなり、将来的な一括保存の希望を受けて、写真資料の寄贈の実現へと至ったということです。

寄贈された「ガラス乾板資料」の総数は、6934枚という膨大なものです。
昭和27年(1953)から46年(1965)の間に、撮影されたもので、永野氏はこの20年間、ガラス乾板を使用して撮影していたと思われます。

「ガラス乾板」というのは、今ではなじみがありませんが、感光する写真乳剤を塗ったガラス板のことで、この乾板をもとに写真を焼き付けるものです。
フィルム写真が普及レベルアップする前の、明治から昭和40年代にかけて、学術、美術写真などで使用されていたものです。

永野太造氏撮影のガラス乾板
永野太造氏撮影のガラス乾板

鹿鳴荘・永野氏宅に残された膨大なガラス乾板の保管の様子
鹿鳴荘・永野氏宅に残された膨大なガラス乾板の保管の様子

近代奈良の仏像写真史を語るうえでの、大変貴重な写真資料が、帝塚山大学博物館で永続的に保存されることになった訳で、本当に喜ばしいことだと思います。



【近代奈良の文化史を語るうえで、忘れてはならない永野氏の功績】



最後に、永野太造氏がのこした、特筆すべき功績を二つご紹介しておきたいと思います。

自身の写真撮影そのものとは、ちょっと違うのですが、忘れてはならない話だと思うのです。



【奈良古美術写真の草分け、「工藤精華」写真資料の、奈良市への寄贈保存に尽力】


第一は、奈良の古美術写真の草分け、工藤精華の遺した写真資料の散逸を防ぎ、奈良市への寄贈に尽力し、その実現を果たしたのが永野太造氏であるということです。

ご存じのとおり、工藤精華(利三郎)は、奈良の地で仏像写真の専門家として、はじめて古美術写真を撮影し、営業した人物です。
明治26年(1893)、奈良市へ移り住み、猿沢池東畔の菩提町に写真館「工藤精華堂」を開業しました。
そして豪華写真集「日本精華」全11輯を、明治41年(1908)から大正15年(1926)まで、18年間にわたり個人出版により刊行しました。

工藤精華刊「日本精華」「日本精華・第一輯」1908年刊
工藤精華が個人出版で刊行した「日本精華」

「日本精華」に収録されている、奈良の古仏像の写真は、当時のありのままの姿を伝える誠に貴重な写真資料となっています。

「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、興福寺・阿修羅像写真~明治修理の前の手が損傷した写真~
「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、興福寺・阿修羅像写真
~明治修理の前の手が損傷した写真~


「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、三月堂・月光菩薩像写真~明治修理で手先が修復される前の写真~
「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、三月堂・月光菩薩像写真
~明治修理で手先が修復される前の写真~


工藤精華の遺した写真資料は、永野太造氏の尽力などにより、昭和42年(1967)に奈良市に寄贈され、現在は、入江泰吉記念奈良市写真美術館に所蔵されています。
2008年には、ガラス乾板1025点が、貴重な近代文化史料として、国登録有形文化財に登録されるに至りました。

工藤精華の写真資料が所蔵されている入江泰吉記念奈良市写真美術館
工藤精華の写真資料が所蔵されている入江泰吉記念奈良市写真美術館

工藤精華の生涯などについては、以前、神奈川仏教文化研究所HPの「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者」「精華苑 工藤利三郎」として採り上げていますので、ご覧ください。



【散逸寸前だった、工藤精華ガラス乾板等資料の保存を提唱、市寄贈に向け奔走】


奈良市への寄贈に至るいきさつを、振り返ってみたいと思います。

工藤精華は、昭和4年、81歳で逝去します。
工藤の撮影した写真とガラス乾板は、養女であるコトノさん(お琴さん)のもとに残されていました。
お琴さんは、戦後、何度か、この写真資料の売却処分を考えたようですが、当時は、なかなか、買い手、引き取り手が見つからなかったとの話です。

そのお琴さんも、昭和39年、80歳で逝去します。
遺品となった、工藤精華の写真資料の保存を提唱し、工藤精華の名を残すべく、市への寄託を実現したのが、永野太造氏だったのです。

「奈良いまは昔」(北村信昭著)という本には、そのいきさつについて、このように語られています。

「昭和39年(1964)2月2日、お琴さん(故・工藤精華の養女)は今小路の桜井病院で80歳の生涯を閉じられた。
鹿鳴荘主・永野太造ら近隣役員10名程が世話、特に同月5日、山の寺での告別式は永野さんが力になられたと仄聞している。

尚、すんでの処で屑屋さんに売られようとしていた膨大な量のコロタイプ写真を保存し、写真原版と共に市に寄託、工藤利三郎の名を残すことを主張し、その実現を見たのも鹿鳴荘主の提唱によるものであった。

近年、工藤精華堂が俄かにクローズアップされ、新聞記事にもなり、NHKのテレビでも紹介されたが、それまでのプロセスには以上のような裏話があったわけである。」
(「奈良いまは昔」北村信昭著・奈良新聞出版センター1978年刊)

今では、工藤精華の仏像写真は、奈良市写真美術館のHPに、主要収蔵品として紹介掲載されるなど、貴重な明治大正期の古美術写真と広く知られるようになっていますが、
永野氏が奈良市への寄贈を実現した昭和42年頃は、それほどに世の認知を受けていなかったのだと思います。

「すんでの処で屑屋さんに売られようとしていた」

というエピソードも、決して誇張した話ではなかったのでしょう。

忘れ去られようとしていた工藤精華の写真資料。
その貴重性を認識し、後世に残そうという永野太造氏の提唱が無かったならば、
また、その実現に奔走した無償の尽力が無かったならば、
これらの資料は、散逸し失われてしまった可能性は、大いにあったのではないでしょうか。

今では「国登録有形文化財」にも登録されている、工藤精華のガラス乾板資料の保存を実現した、鹿鳴荘・永野太造氏の功績は、忘れてはならないものだと思います。



【浄瑠璃寺・吉祥天像「厨子の復元実現」めざす「吉祥会」
~発起人一員として永野氏が一手に世話役を】

もう一つの永野太造氏の功績は、長年にわたる「吉祥会」の主催運営ではないでしょうか。

「吉祥会」というのは、浄瑠璃寺・吉祥天像の保護と、厨子扉絵の復元修理の実現を目指して、多くの人々から浄財を集める会として、昭和32年(1957)に発足したものです。

浄瑠璃寺・吉祥天像
浄瑠璃寺・吉祥天像

浄瑠璃寺の吉祥天像は、戦前は博物館に寄託されていましたが、昭和27年(1952)にお寺に戻ってきました。
吉祥天像は帰ってきたのですが、お祀りする厨子の方は、その三面の扉と後壁羽目板が、寺外に流出してしまっていたのでした。
扉は、弁財天、梵天帝釈天、四天王像が描かれた鎌倉時代のものですが、明治時代に寺外に流出し、現在は、東京藝術大学の所蔵となっているのです。

明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)~弁財天像

明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)~梵天像..明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)~帝釈天像
明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)
上段:弁財天像、下段(左):梵天像、(右)帝釈天像



この扉絵を模写復元し、厨子の修復を実現しようというのが「吉祥会」で、その会長は浄瑠璃寺の吉祥天様という会です。
当時の浄瑠璃寺住職・佐伯快龍師、奈良国立文化財研究所・小林剛氏が中心となり、永野太造氏も発起人の一人として、会の運営推進の世話役を一手に引き受けたのでした。
おそらく、小林剛氏と永野太造氏とのコンビ関係が、「吉祥会」発足の大きな力になったのではないでしょうか。
会発足の昭和32年(1957)には、小林剛、永野太造両氏の合作共著ともいえる力のこもった一冊「浄瑠璃寺」(鹿鳴荘刊)が、出版されています。

「吉祥会」の尽力の甲斐あって、会の発足から19年を経ましたが、昭和51年(1976)、厨子の復元は見事に実現しました。

扉板と背面板は美術院で製作し、描かれた絵の模写は、原画の所蔵先である東京芸大美術学部保存技術研究室によって行われました。

復元修復なった厨子に安置された浄瑠璃寺・吉祥天像
復元修復なった厨子に安置された浄瑠璃寺・吉祥天像



【厨子復元実現後も、息長く続いた「吉祥会」~平成18年には開催500回迎える】


吉祥会500回記念誌「吉祥 第7号」
吉祥会500回記念誌「吉祥 第7号」
厨子修復の目的は実現した「吉祥会」ですが、併せて開かれていた古社寺・古美術見学会の方はその後も継続し、専門家の講師を迎えて、毎月開催されました。

平成18年(2006)には、なんと吉祥会は開催500回を迎え、記念誌「吉祥 第7号」も発刊されています。

永野氏は、厨子の修復にも尽力されましたが、定例の「吉祥会」の見学会の方も、見学寺院との折衝、会員への案内連絡など一手に引き受け、会の運営を担っていたということです。



【おわりに~記憶にとどめておきたい「鹿鳴荘・永野太造」の足跡】


鹿鳴荘と永野太造氏の話が、少々長くなってしまいました。

奈良博前の茶店、「鹿鳴荘店主・永野太造氏」が、ただただ茶店の店主として終わることなく、

奈文研を支えた写真家として、近代奈良の仏像写真家の一人として、大いなる業績を残した人物であること、

工藤精華写真資料の保存、浄瑠璃寺吉祥天厨子復元実現などに無償の尽力、奔走を行った、近代奈良文化史を語るに、忘れられない人物であること、

など、その軌跡を振り返ることが出来ました。

かつて、HP「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者」の中で、「鹿鳴荘・永野太造」についてふれた時には、仏像写真家としての足跡などがほとんどわからなかったのです。

その後、ガラス乾板の帝塚山大学への寄贈を機に、論考も発表され、また、永野氏に関するいくつかの資料を見つけることが出来て、永野太造氏の仏像写真家としての軌跡、その他の功績について、いろいろ知ることが出来ました。



一度、永野氏の足跡を、記憶にとどめ振り返っておきたいと思って、判る範囲ではありますが、「奈良の仏像写真家、『鹿鳴荘』永野太造氏のこと」を、掲載させていただきました。


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