観仏日々帖

トピックス~「常念寺(京都精華町)・菩薩像は、薬壺を持っていたのか?」仏像の手の話⑦  【2017.7.1】


【平安前期の優作、一木彫像~常念寺・菩薩像】


京都府相楽郡精華町にある常念寺の菩薩立像を、拝されたことはあるでしょうか?

常念寺・菩薩立像
常念寺・菩薩立像(平安前期・重要文化財)

常念寺は、京都府の南の外れ。
もうすぐ奈良という、「祝園」(ホウソノ)駅の近くの古い集落の一角にあります。

祝園駅から歩いて7~8分の集落のなかに在る常念寺
祝園駅から歩いて7~8分の集落のなかに在る常念寺

平安前期、9世紀の、素晴らしい一木彫像です。
像高170.5㎝、ケヤキ材の等身像で、重要文化財に指定されています。

常念寺・菩薩立像

常念寺・菩薩立像
常念寺・菩薩立像

キリリと引き締まった緊張感あふれる、堂々たる当代一流レベルの優作です。

「凛として、静かなる雄渾さ」

を感じさせる、見事な造形といって良いと思います。
私の大好きな仏像です。



【昭和修理前は、「薬壺を手に持つ姿」をしていた常念寺像】


この平安前期の菩薩立像が、

「左手に、薬壺を持っていたのだろうか?」

というのが、今回のお話です。

「何を、馬鹿なことを云っているのか。」
「菩薩像が、薬壺を持っているなんて、あり得ないでしょう!」
「薬壺を持っているのは、薬師如来だけで、菩薩とは尊格が違うのだから。」

と、一笑に付されてしまいそうな話です。

現在の、常念寺・菩薩像の姿を見ると、右手は垂下し、左手は屈臂して指を捻じています。

常念寺・菩薩立像~右手を垂下し左手を屈臂する
常念寺・菩薩立像~右手を垂下し左手を屈臂する

ところが、かつては、左手に薬壺を持っていたのです。
この菩薩像、昭和25年(1950年)に修理されているのですが、修理前の写真が残されていますので、ご覧ください。

昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている
昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている

ご覧のとおり、この修理以前は、左手に薬壺を持った姿に造られていたのです。

本像は、両手肘から先は、共に後補でしたので、昭和修理の際に、薬壺を持つ後補の手は取り除かれて、現在の、指を捻じる姿に改められたのでした。

昭和修理後の左手
昭和修理後、指を捻じる姿に改められた左手先



【江戸時代には、間違いなく「薬師像」として祀られていた】


後補の薬壺を持つ手は、江戸時代に造られたと思われるものです。
この修理時に取り除かれた、薬壺を持った手は、現在もお寺に残されています。

昭和修理以前についていた薬壺を持つ左手先~江戸時代の後補
昭和修理以前についていた江戸時代の後補の薬壺を持つ左手先
お寺に残されている


また、常念寺のお堂には、この菩薩像と共に祀られていた、江戸時代の十二神将像も伝えられています。

常念寺・菩薩像と共に祀られる十二神将像(江戸時代の制作)
常念寺・菩薩像と共に祀られる十二神将像(江戸時代の制作)

ご存じのとおり、十二神将は、薬師如来の眷属です。
この菩薩像、江戸時代には、何故だか「薬師像」として祀られ、拝されていたのは間違いありません。

ただ、そうだとしても、

「薬師像として祀られていたというのは、近世になってからの話でしょう。
後世になってから、無理に薬師に改変されたに違いない。
なんらかの事情で、造像時の菩薩という尊格とは関係なく、薬師信仰の仏様に充てられたということじゃないの?」

と考えるのが、常識的ということになるのでしょう。
昭和25年の修理の時も、そのように考えられたから、今の左手の姿に改められたのだと思います。



【平安時代の制作当初から、「薬師像」として造られたとの新たな見方】


ところが、近年、この常念寺の菩薩像は「神仏習合像」で、

・平安前期造立当初から、薬師像として制作されたに違いない
・制作当初から、左手に薬壺を持つ姿に、造られていたのかもしれない

とみる考え方が、有力になってきたのです。

結論から云うと、常念寺の菩薩像は、

・神仏習合の思想に基づく、仏としての神像で、「菩薩の姿をした神様」として造られた。
・古記録に、「薬師菩薩」と称されている造像例と考えられる。

というのです。

「薬師は、如来じゃないの?
薬師が菩薩だなんて、そんな話聞いたことがない!」

と、おっしゃる方も多いのではないかと思います。


ここから、どうして常念寺の菩薩像が、神仏習合の「薬師菩薩」像と考えられるのかという話をみていきたいと思います。



【祝園神社の神仏習合像として造立された、常念寺・菩薩像】


まずは、常念寺・菩薩像の来歴です。

本像は、もともと祝園神社のなかにあった薬師寺の本尊として祀られていました。

祝園神社
祝園神社

明治の神仏分離の運動のなかで、明治11年(1878)に、神社関係者の菩提寺であった常念寺に、客仏として移されたと伝えられています。
先にふれたように、この像が、祝園神社・神宮寺において薬師像として祀られていたのは間違いなく、常念寺でも、境内に薬師堂が建てられて安置されています。

常念寺・菩薩像が祀られる「薬師堂」
常念寺・菩薩像が祀られる「薬師堂」"

祝園神社の歴史をたどると、崇神天皇時代の創立と伝える神社ですが、平安時代の初期には、この神社が存在したことが、明らかになっています。
平安時代に書かれた法制書「新抄格勅符抄」に、大同元年(806)、祝園神の封戸を認定する文書が収録されていることから、判るそうです。

常念寺・菩薩像は、この祝園神にかかわる神仏習合像として造立されたものと見られており、
伊東史朗氏は、貞観元年(859)に、祝園神が従五位上に進んだという記録があることから、この頃の制作の像の可能性があるとしています。(「精華町史」1996年刊)

いずれにせよ、常念寺像は、祝園神社、祝園神にかかわる神仏習合像として平安前期に造立され、長らく、「薬師」として祀られてきたというのは間違いないようです。



【「神」の姿は「菩薩」のカタチであらわされた神仏習合思想】


それでは、何故、神社で「菩薩」の姿をした「薬師」が造られたというのでしょうか?

この話は「神仏習合思想史」とか「神像の成立」といったことに、関わってくるわけですが、思い切って端折って云うと、こんな話になろうかと思います。

奈良時代、神仏習合の思想によって神宮寺などが造られ、「神」は神身を離れて仏道に帰依し、「菩薩」と称されるようになります。
よく知られる話ですが、

「天平宝字7年(763)に、多度神が仏道に帰依したいと満願禅師告げ、満願は小堂と神像を造立し、多度大菩薩と号した。」
(多度神宮寺伽藍縁起資材帳)

とされています。

多度神宮寺伽藍縁起并資材帳(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
多度神宮寺伽藍縁起并資材帳(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
多度神宮寺伽藍縁起并資材帳~冒頭部(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
7~10行目に「仏道に帰依し・・・・神像を造立し、多度大菩薩と号した」との記述がある


また、八幡神のことを「八幡大菩薩」と称するのは、ご存じのとおりです。

「神」は、「如来」ではなくて「菩薩」のかたちで、その姿を現したという訳です。



【「文徳実録」にある、「神の姿をあらわす薬師菩薩」の作例か?】


そして、平安前期には、「薬師菩薩」という神の概念が生まれてきたようです。
六国史の第五「文徳実録」の天安元年(857)年の条に、

「常陸国に在る大洗磯前、酒列磯前両神、薬師菩薩名神と号す」

と、記されているのです。
この二つの「神」が「薬師菩薩」と称され、「薬師菩薩名神像」が造られ祀られていたとみられるのです。

大洗磯前神社(薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる)

酒列磯前神社(薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる)
大洗磯前神社(上)と酒列磯前神社(下)~薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる~"

この「薬師菩薩」の造像遺例が、常念寺・菩薩像と考えられるという訳です。
神仏習合の「薬師菩薩像」として造立された像なのであれば、

「制作当初から、左手に薬壺を持った姿に、造られていたかもしれない?」

という想定は、それなりに真実味を帯びてくるということになってくるのです。

常念寺像が、神の姿を現す薬師菩薩像だといわれると、その厳しく凛々しい「静かなる雄渾さ」を感じさせる表情や造形が、まさに、神像としての神威を顕しているような気持ちになってきます。

厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)

厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)
厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)


「本当に、薬師菩薩像だったのでしょうか?」
「薬壺を持っていたのでしょうか?」

誠に、興味深い話です。

一方で、
「きっと、神仏習合の薬師菩薩像に違いない。」
とされる菩薩形の像は、常念寺像の他に、具体例を聞いたことがありません。
当時、「薬師菩薩」という神仏習合像が、それなりに造られていたのであれば、同様の作例が、もっと遺っていそうに思うのですが・・・・・

「神仏習合の薬師菩薩」という像が、まだまだ存在するのでしょうか?



【天部形なのに薬壺を手に持つ、もう一つの平安古仏~広隆寺・勅封薬師像】


実は、如来形ではないのに薬壺を手に持つ像が、もう一つ存在します。

「天部形なのに、左手に薬壺を持っている。」

のです。

ご想像がつく方が多いのではないかと思うのですが、京都太秦・広隆寺にある「勅封・薬師如来」と呼ばれている像が、それです。

この薬師像は、明治維新までは勅封の秘仏とされ、現在は、広隆寺の霊宝館の閉じられた厨子のなかに祀られています。
毎年、11月22日の一日に限ってご開帳されます。

この像は、「薬師如来」とされているのですが、その姿はちょっと変わっています。

広隆寺・勅封薬師如来像

広隆寺・勅封薬師如来像
広隆寺・勅封薬師如来像

ご覧のとおりです。

一見して天部形の姿をしていますが、左手に薬壺を持っているのです。
両手先は後補なので、造立当初から、薬壺を持っていたのかどうかはわかりませんが、古来、「薬師像」として祀られてきた像であることは間違いありません。

この像の制作年代は、平安前期のものと考えられており、重要文化財に指定されています。
像高97.6㎝、両手首先以外はすべて針葉樹の一材から彫り出され、内刳りはありません。



【天部形と菩薩形とが同居する薬師像?】


それにしても、不思議な姿をしています。

どう見ても、吉祥天とか梵天・帝釈天といった天部の衣をつけているのですが、よく見ると、天冠台を被り条帛を着けています。
天冠台、条帛は、天部の像には見られるものではなく、「菩薩」が身に着けるものです。
そして、薬壺を持っているのです。
天部と、菩薩と、(薬師)如来のスタイルが、同居しているのです。

どうして、このようなお姿に造られたのでしょうか?



【神仏習合像として神社で祀られていた、広隆寺・勅封薬師像】


この像の由来については、諸説あるのですが、もともと神社にあったもので、神を仏の姿にあらました像と云われています。

岡直巳氏は、

「広隆寺来由記」の檀仏薬師の項に、向日明神が神木に仏の形であらあれ、神が自らの姿にたいして「南無薬師仏」と唱えて拝んだことが説話的に述べられており、この像が天部形薬師像にあたる。(「薬師菩薩神社の神体考」神像彫刻の研究所収1966年刊)

としています。

伊東史郎氏は、

山城の乙訓社から、延暦13年に大原寺へ移された神験ある「仏像」が、平安後期に広隆寺に移されたという古記録があり、この像が現存像にあたる。(「広隆寺本尊薬師像考」学叢18号1996.3)

としています。

いずれにせよ、広隆寺の勅封・薬師像は、神社において神仏習合の像として造られた像なのです。
神の姿を、天部と菩薩の姿をミックスした形に表現した、薬師菩薩像として造られたということなのでしょうか?
やはり、当初から、薬壺を持つ姿に造られたのかもしれません。


菩薩形の薬師菩薩像の例は、ご紹介した常念寺・菩薩像の他には、明らかに該当するといわれるものがないのですが、
天部形の薬師像、神像とみられている像は、他にもいくつか存在しています。

同じ広隆寺の薬師堂安置の天部形薬師像、京八幡市・薬薗寺の吉祥薬師像、箕面市・勝尾寺の天部形像などです。

広隆寺・薬師堂(祖師堂)天部形薬師像.薬薗寺・吉祥薬師像
(左)広隆寺・薬師堂(祖師堂)天部形薬師像、(右)薬薗寺・吉祥薬師像

勝尾寺・天部形神像
勝尾寺・天部形神像


薬薗寺の吉祥薬師像は、もともと石清水八幡にあったと伝えられており、現在も、日光・月光菩薩像(室町時代)が脇侍で、薬師像として祀られています。
勝尾寺像は、両手を拱手し、笏を執っており、明らかに神像として造られたものと見られます。



【奥深く興味深い、神像と神仏習合の世界~神像なのか、僧形像なのか、仏像なのか?】


「神像」というと、一般的には、薬師寺の三神像や熊野速玉神社の女神、男神像のような姿の像を想像してしまいます。

薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像
薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像
薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像

熊野速玉神社・速玉大神像熊野速玉神社・熊野夫須美大神像
熊野速玉神社~速玉大神像(左)、熊野夫須美大神像(右)

僧形の八幡神坐像を別にすれば、みな高貴な人の服装というか、貴人の姿のように現されています。
昔は、神像といえば、当然に、このスタイルの像のことであったのだと思います。

ところが、近年は、いわゆる一般的な神像の姿をした像が造られる前に、そうではないスタイルの神像が造られていたのではないか、と云われるようになってきました。
神仏習合のなかで、神の姿は、僧の形や仏の姿で造り始められ、こうした像が、いわゆる一般に神像と呼ばれる像とは別に、結構存在するのではないかというのです。

何を以て「神像」という言葉を定義するかというのは、なかなか難しい問題だと思うのですが、

先にご紹介した薬師菩薩、吉祥薬師と呼ばれるような像も、神仏習合における神の姿を現す像、即ち神像として造られたのではないか?
また現在、僧形像とか地蔵菩薩像と呼ばれている像も、神の姿を僧のかたちであらわした神像として造られたものもあるのではないか?

とみられるようになってきたようです。

もともと姿などなかった神を、神像として「カタチ」にあらわすようになったのは、奈良時代の後期ぐらいからかと思うのですが、その最初期は僧形神像の姿で造られ、その後、菩薩形、天部形の神像が制作されるようになった。
こうしたなかで、一方では、貴人の姿の、いわゆる一般的な神像も作られるようになったというのが、最近の考え方になってきているようです。

かつては、こうした僧形や菩薩・天部形に造られた像は、僧形像や仏像と考えられ、神像とはみられていなかったのですが、実は神像として造られたのだという訳です。


平安前期までの制作の像で、近年、神像ではないかとみられるようになった像と、一般的な神像の代表的例を挙げると、ご覧のようなものになります。

平安前期までの、神像(神仏習合像)との見方がある像の代表例


箱根神社・万巻上人像神応寺・行教律師像
箱根神社・万巻上人像(左)、神応寺・行教律師像(右)

橘寺・日羅像.弘仁寺・明星菩薩像
橘寺・日羅像(左)、弘仁寺・明星菩薩像(右)

融年寺・地蔵菩薩像.法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪寺伝来)
融年寺・地蔵菩薩像(左)、法隆寺・地蔵菩薩像~大御輪寺伝来(右)

こうした見方は、まだまだ一般的な見方として、定着したとはいえないようですが、神仏習合と神像の始まり、初期神像の有様を考えていくうえで、大変興味津々のテーマです。


「仏像の手の話」ということで、
「如来の姿ではないのに、薬壺を手に持っている」
不思議な像の話から、
神の姿を仏の姿で現した仏像?神像?という神仏習合の世界について、少しばかり垣間見てみることになりました。


常念寺の菩薩像は、本当に薬壺を持っていたのでしょうか?

神の姿を現したという「薬師菩薩」であったのでしょうか?



常念寺の菩薩像と初期神像の話は、以前、観仏日々帖に「古仏探訪~京都府精華町・常念寺の菩薩立像 【その2】」に、採り上げたことがあります。
そちらもご覧いただければと思います。


コメント

薬壷を持つ菩薩としては、釈迦如来の脇侍である「薬王菩薩」が該当するようです。
有名な像では法隆寺金堂、興福寺仮金堂の本尊脇侍がありますが、どちらも持っていません。
薬師如来と薬王菩薩には直接的な関連はないようです。
常念寺の菩薩立像が脇侍とは思えないので、やはり特殊な信仰によるものなのでしょうね。

  • 2017/07/09(日) 19:03:45 |
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