観仏日々帖

トピックス~「広隆寺・弥勒菩薩の指の話Ⅱ」仏像の手の話④  【2017.5.20】


前回は「弥勒菩薩の指折り事件」を、振り返ってきました。


【弥勒菩薩の指は、もともと頬に触れていたのか?】


ここからは、広隆寺・弥勒菩薩の指の話の、もう一つのテーマ

「弥勒菩薩の指先は、頬に触れていたのか?」

という話に入っていきたいと思います。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

今、頬から少し離れている弥勒菩薩像の中指は、制作当初は、実は頬に触れるように造られていたのではないか、という話です。

例えば、中宮寺の弥勒菩薩像の指は、頬にしっかり触れているのです。
広隆寺の像も、指が頬に触れるように、木屎漆(乾漆)のモデリングによる盛上げが、顔の頬の方にも、指先にも、なされていたのではないかという見方があるのです。



【現代人の感性にマッチする、弥勒菩薩の瞑想美、繊細な指先~近代の後補?との見方も】


今、私たちが観る、広隆寺・弥勒菩薩の指は、得も言われぬ美しさを感じるものです。

か細い繊細さが、美しい魅力の弥勒菩薩像の指
「か細い繊細さ」が、美しい魅力の弥勒菩薩像の指

シャープに鼻筋の通った瞑想と微笑みの表情も魅力的ですが、あの、か細く繊細に過ぎるような指先に魅了されたという方も、多いのではないでしょうか?

「微笑みに添えられる、指先の繊細美」

と表現しても良いのかもしれません。
現代人の美の感性にマッチしているのでしょう。

こんな造形感覚は、飛鳥時代には考えられない。
現代人の手になる手指に違いない、弥勒菩薩の右の手指は後補なのではないか?
と、云われたことことがありました。

久野健氏は、木彫家の後藤良氏(昭和32年・1957没)から、このように聞かされたことがあると語っています。

「あの広隆寺の弥勒の右手は、飛鳥時代のものではなく、明治になって作ったものだろう。
あの手は、ブールデルの彫刻の手を知っているものでなければできない。
おそらく明治・大正にかけて仏像修理に活躍した明珍恒男君が、修理の時に新しく作ったものではないか。」
(久野健著「仏像」1961年・学生社刊)



【X線調査で、飛鳥時代当初の指と判明】


この謎は、昭和31年(1956)に行われたX線撮影調査で明らかになりました。
あの、か細く繊細な指は、間違いなく、飛鳥時代、制作当初のものであったのです。

広隆寺・宝冠弥勒像のX線撮影写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
広隆寺・宝冠弥勒像のX線撮影写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)

X線撮影をしたのは久野健氏ですが、頬杖をつく右手まで本体と一木から刻み出されていることが明らかになったのでした。
頭部の縦に通った木目が、手や指までも連続して通っていたのです。
ただ、人差し指と小指とは、後世の補作となっていました。

広隆寺・弥勒像の手指の木目と後補箇所の図~西村公朝氏作図(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
広隆寺・弥勒像の手指の木目と後補箇所の図~西村公朝氏作図
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


あの細い指先までも、縦目を目切れのままで彫り出しているため、非常に折れ易く、「指折り事件」で、ほんのちょっと触れただけも折れてしまったようです。

それにしても、あの手の指は、ちょっと特異といって良いほどに、か細く、華奢で、

「飛鳥時代の仏師は、本当に、今の姿のように指を彫ったのだろうか?」

と、疑問を残すものでもありました。



【西村公朝氏の問題提起「当初は指先が頬に触れていた?」~飛鳥白鳳の半跏思惟像の、多くの作例と同じ】


この問題に、一つの新たな見方を投げかけたのは、美術院の西村公朝氏でした。

西村氏は、

・弥勒像の指先だけでなく、顔面、上半身にも、制作当初は木屎漆の盛上げ(モデリング)が施されていたに違いない。

・指先も、顔貌も、現在に比べて、もう少しふっくらしたものであった。

・今、頬との間に隙間が空いている中指は、元々は頬に触れるように造られていたと思われる。

と、いうのです。

西村氏は、いろいろな著作の中で、このことに触れていますが、最も詳しく述べているのは、

「広隆寺弥勒菩薩像の構造についての考察」  東京芸術大学紀要第4号1968.3

という論文です。

西村氏は、弥勒像の制作技法や当初の姿の推定などについて言及していますが、その中で、特に注目した一つの事実は、

「広隆寺・弥勒菩薩の指が、頬に触れていない」

ことでした。

飛鳥白鳳時代のかなりの半跏思惟像は、指が頬に触れているのに、広隆寺・宝冠弥勒像は指が離れているのです。
指先と頬との隙間は、約7ミリあるそうです。
中宮寺の弥勒菩薩像は、頬にわずかに窪みが造られ、中指で頬を押しているように造られています。

中宮寺・菩薩半跏像

指が頬にしっかりと触れている中宮寺・菩薩半跏像
指が頬にしっかりと触れている中宮寺・菩薩半跏像


四十八体仏と呼ばれる、法隆寺献納宝物中の丙寅銘半跏思惟像の指も、頬に触れています。

法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている
法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている

そして、広隆寺・宝冠弥勒像と瓜二つと云われる、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像の指も頬に触れています。

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている
韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている

一方で、四十八体仏には、指が頬に触れていない像も、複数みられるのも事実ですので、必ず頬に触れているとはいえるものでもないようです。
なお、広隆寺のもう一つの弥勒像、泣き弥勒と云われる宝髻弥勒像の指は頬から少しだけ離れているのですが、この指先は後補なので、制作例に入れては考えにくいということです。

広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補
広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補



【木屎漆で盛上げられていた指先と頬~半木心乾漆像か?】


広隆寺・宝冠弥勒像の指が、ここに挙げた作例と同じように、制作当初は頬に触れていたとすると、当初は乾漆、木屎漆で頬に触れるように盛上げられていたに違いないのです。

西村公朝氏は、弥勒像の各部の造形や彫り口などを検証し、像の顔部、上半身を中心に乾漆、木屎漆の盛り上げがなされていたと推定しています。
半木心乾漆像とでも言ってよい造形だったことになります。
西村氏が推定した、当初の乾漆の盛り上げ状況は、ご覧のようなイメージです。

西村公朝氏による広隆寺・宝冠弥勒像の乾漆盛上げ想定図(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
西村公朝氏による広隆寺・宝冠弥勒像の乾漆盛上げ想定図
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


西村氏は、中指の方に2~3ミリ、頬の方に4~5ミリの乾漆の盛り上げがなされて、現在の約7ミリの隙間を埋めていたと推定しています。



【ちょっとアンバランスに感じる、現在のプロポーション】


たしかに、この弥勒菩薩像の前に立ち、その姿をじっと眺めていると、プロポーションが何処かしらアンバランスなのに気が付きます。

広隆寺・宝冠弥勒像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

胸の辺りが扁平、細身で華奢、下半身と上半身とがうまく釣り合っていないようにみえます。
細かいところでは、左手の甲がこそげたように窪んでいますし、左指には爪が彫られているが右指には爪が彫られていないのです。

広隆寺・宝冠弥勒像~手の甲がこそげたように窪んでいるか細い指の広隆寺・宝冠弥勒像
広隆寺・宝冠弥勒像~左手の甲がこそげたように窪んでいる、か細い指の右手

このことも、一部に乾漆の盛り上げが行われていたことを裏付けているものと思われます。

実は、この像が造られた時の姿は、顔から胸にかけて、木屎漆で盛上げられて、お顔も身体も、もっとふっくらとして、豊かなボリュームがある仏像であったようです。
そして全身に金箔が置かれ、金色に燦然と輝いてたのでしょう。

現代人を魅惑する、細くて繊細な指も、実は、もう少し太く膨らみがあるように造られていたのでしょう。
そして、

「弥勒菩薩の指は、頬に触れていた」

そのような可能性は、十分に考えられるといって良いのかもしれません。



【もともとの弥勒像の姿を想像させる明治の修理前古写真~ふっくらとした表情】


それでは、広隆寺の弥勒菩薩像、元々は、どのような姿に造られていたのでしょうか?

制作当初を、想像させてくれる、明治時代の貴重な写真が残されています。
この弥勒菩薩像は、明治36年(1903)に、美術院の手で修理、修復されているのですが、その修理前の写真です。

一つは、明治34年頃にとられた、弥勒菩薩像の修理前写真です。

明治の復元修理前の宝冠弥勒像写真~明治34年頃(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
明治の復元修理前の宝冠弥勒像写真~明治34年頃
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


もう一つは、久野健氏が古書店から入手したという、明治修理以前にお寺に祀られていた時の写真です。

久野健氏入手の明治修理前の宝冠弥勒像安置写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
久野健氏入手の明治修理前の宝冠弥勒像安置写真
(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)


写真を一見して感じられたと思いますが、現在の姿とずいぶん雰囲気が違います。
現在の姿と較べると、顔の表情が、「おおらかでふっくらした感じ」というか「ぼんやりとしたというか、茫洋とした表情」をしているのです。



【朝鮮仏の表情にそっくりな、明治修理前石膏型のお顔】


明治の修理前に、頭部の石膏型を抜いたものが残されているのですが、その顔を見ると、益々その実感があります。

明治修理前に石膏で型抜きされた宝冠弥勒像頭部(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
明治修理前に石膏で型抜きされた宝冠弥勒像頭部(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)

率直に云って、朝鮮仏の面相の雰囲気に、すごく似ているのです。
瓜二つと云われている、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像の顔の表情と見較べてみると、本当に「そっくり」です。

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像
韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像

現在の、広隆寺弥勒像の顔よりも、格段に類似しているのは、間違いありません。

現在の広隆寺・弥勒像の顔貌は、両眉が秀でて鼻筋が通り、両眼もくっきりした形をして、理知的で清楚な気品を漂わせるものを感じます。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像


そこに醸される雰囲気は、日本的な造形感覚を思わせるものがあるのです。
ところが、明治の修理前には、如何にも朝鮮風の表情を思わせる造形であったようなのです。

弥勒像の造形は、現代人の感性に通じるものがあるとか、近代彫刻を知るものでないと、あの指を造形するのは無理だといわれたことがあるという話は、先にご紹介しましたが、制作当初の造形感覚とは、ちょっと違っていた可能性があるのです。
明治の修理の結果、弥勒像の見た目の印象が、かなり変わってしまったのかもしれません。



【明治36年に修理されている弥勒像~朝鮮風の風貌に変化があったのだろうか?】


明治36年の修理の時は、虫喰いなどで崩れそうになった木地を押さえるなどの処置をしたそうなのですが、その修理の折に、顔の表情の造形などが、当初のものと変わってしまったのだと指摘する見方もあるのです。

この像の表面は、明治修理の当時は相当に傷みやつれていたようです。
辻本干也氏は、弥勒像の修理にあたった一人の藤村新次郎氏から、その苦労話をこのように聞いたと語っています。

木肌の木目がのこる広隆寺・宝冠弥勒像顔部
木肌の木目がのこる広隆寺・宝冠弥勒像顔部
「随分虫食いがひどくて、手で押さえたらポコッとヘッ込んでしまうような状態にあった。
その修理を、私がやったんだ。
いま残っている、だれもが木目だと思っているあのあしゃれた素地も崩れかかっていて、木の虫が食った穴へ木屎漆を丹念に詰め込んで、木目が残っている感じを表したものだから、いま古い木目がように見えてているところは、私が苦労して復元していったものなんだ。」
(辻本干也・青山茂共著「南都の匠~仏像再見」1979年徳間書店刊)


大変な苦労のあった修理修復であったようなのですが、この修理の時に、修理担当者が削り直しなどの思い切った改変をしてしまったので、朝鮮風の表情から、現代風ともいえる今の表情に変わってしまったのだ、ともいわれています。。

多くの専門家が、大なり小なりこのような見方をしているようですが、なかでも、大変手厳しいのは安藤更生氏です。
安藤氏は、広隆寺弥勒像の修理態度について、このような批判を語っています。

明治の修理に際しては、

・本来、顔がふっくらしていたのを、相当思い切った削り直しをしている。

・鼻の側面は、鎬が経つほど削り直している。

・眉毛の線も、右眉の傷みを削ったために、傷んでいない左眉も、調子を合わせて削った。

などと指摘したうえで、

「今日とは時代が違うので、当時の工人としては最上と思う方法を施したつもりかもしれないが、なお疑問が僕の心の底に残るのは何とも仕方がない。」
(安藤更生著「南都逍遥」国宝修理譚の章所収~1970年・中央公論美術出版刊)

と、当時の修理に疑問を呈しています。

この他にも、指や顔などに盛り上げられた乾漆(木屎漆)は、いつの時代にか、はがれてしまったのか、あるいは人為的にはがされたのではないか?
人為的にはがしたと考えられるのは、その方が日本人の好みに合うからだという推論まであるそうです。

明治修理の時に、どの程度の修正が加えられたのか、よく判りませんが、広隆寺の弥勒菩薩像が、現在よりもはるかに朝鮮風の雰囲気、風貌した仏像であったというのは、間違いのない事実のようです。



【朝鮮半島での制作と云われている宝冠弥勒像~我が国で用いられないアカマツ材と判明】


広隆寺・宝冠弥勒像は、朝鮮風どころか、実は朝鮮半島で制作されたのではないかという説が有力であることは、皆さんよくご存じのことと思います。
今更ここでご説明することでもないのですが、そのエッセンスだけ触れておこうかと思います。

そもそも、広隆寺宝冠弥勒像は、韓国に類似像があることから、朝鮮半島作の可能性が云われていました、
昭和26年(1951)の小原二郎氏の科学的調査によって、宝冠弥勒像の用材が、「アカマツ」であることが判明しました。
我が国の飛鳥白鳳期の木彫像は、例外なく「クスノキ」で造られています。
朝鮮半島では、クスノキは一般に産しないこと、アカマツは朝鮮では通例用いられる用材であることから、朝鮮半島作に違いないといわれるようになったのでした。

ただこの考えに異論もあります。
弥勒像の腰から下につけられた綬帯・垂飾紐と、背中の内刳りの蓋板の用材に「クスノキ」が使われているのです。
そして、このクスノキの部分は、制作当初の時代のものと見られのです。

広隆寺・宝冠弥勒像背面~綬帯と背中内刳り蓋板はクスノキ材を使用
広隆寺・宝冠弥勒像背面~綬帯と背中内刳り蓋板はクスノキ材を使用

となると、朝鮮で造られた像が渡来した後に、欠損等となっていた綬帯、蓋板を日本で補ったと考えることもできますし、朝鮮半島から用材だけが日本に運ばれ、我が国で帰化系工人などの手で制作されたので、一部にクスノキが使われているのだという見方もできるわけです。


いずれにせよ、弥勒菩薩像は用材からみても、朝鮮半島の要素が極めて色濃い仏像であることは確実です。

宝冠弥勒像が、
もし飛鳥時代の当初の造形、風貌をもっと色濃くとどめていたならば、
もう少し太い指、ふっくらとした顔貌で、朝鮮風の雰囲気が強い像であったならば、
現代人の心に残る美しい仏像として、多くの共感や支持を得たであろうかと思うと、ちょっと複雑な気持ちになってしまいます。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

「弥勒菩薩像の指は、頬に触れていたのか?」

という話なのに、指は後補なのかという話、乾漆盛上げの話、明治の修理のやり方の話、用材がアカマツの話など、随分、様々な話に立ち至ってしまいました。

単なる「指が頬に触れていたのか?」というテーマが、意外にも、いろいろな問題に絡んでいることを、再認識させられることになりました。

「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」という話で、「弥勒菩薩の指折り事件」と「指は、頬に触れていたのか?」というテーマを、長々と綴ってしまいました。

魅惑の広隆寺・弥勒菩薩像にまつわる話の実像、真実に踏み込むといったような話になりましたが、こんな話はさておいて、やはり、広隆寺の弥勒菩薩像は、日本人の心に残る仏像として、我々を魅了し続けてくれることに変わりないことでしょう。




【追 記】


ご紹介した、「弥勒菩薩の指の話」に、ご参考になる本を、1冊だけ、ご紹介しておきます。
広隆寺・宝冠弥勒像を採り上げた本は、沢山あるのですが、今回のテーマにかかわる話が、一番まとまってわかりやすく語られた本だと思います。

「シンポジウム~美の秘密・二つの弥勒菩薩像」 1982年 日本放送出版協会刊 【229P】 3800円

「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊

35年も前に出た古い本ですが、このテーマにご関心のある方には、必読といってもよい、面白く興味深い内容です。

同名のNHKテレビの特殊番組から発展して開催されたシンポジウムの内容等を編集、構成して単行本化したものです。
シンポジウムに参加した、上原和、田村圓澄、小原二郎、西村公朝、山田宗睦の各氏の共著となっています。

二つの弥勒菩薩像とは、広隆寺の宝冠弥勒像と、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像のことです。
宝冠弥勒像の用材、造像技法、修理復元の問題、韓国国立中央博物館像との関連などが詳しく論じられています。
「第1章・二つの弥勒菩薩像」の目次詳細を、ご参考までにご覧ください。

「二つの弥勒菩薩像」第1章・目次
「二つの弥勒菩薩像」第1章・目次



ついでに、これ以上にご関心のある方には、西村公朝氏の論文、

広隆寺弥勒菩薩像の構造についての考察(西村公朝)東京芸術大学紀要第4号1968.3

が、お薦めです。
西村公朝氏の名前は、多数の著作で、よくご存じのことと思いますが、国宝、重文級の仏像の修理修復にあたる、美術院国宝修理所の所長を長く務めた仁です。

広隆寺弥勒像の造像技法について調査研究し、本像が準木心乾漆像と云ってもよい仏像と云えること、乾漆の盛り上げにより指と頬が触れていたと考えられること、歪んだアカマツ材からの特異な木取り法などについて、詳細に論じられています。



なお、本文ではふれませんでしたが、同じく仏像修理、技法研究者の山崎隆之氏は、
広隆寺・宝冠弥勒像は、一部に塑土が盛上げられた、部分的な木心塑像であったのではないかという見方を示しています。
上半身はきれいなやすり目で仕上げられるのに対して、下半身を覆う裾の部分は荒いノミ跡を残していることから、この下半身の裾の部分に塑土を盛り上げていたとみられる。
上半身は、木彫のままで完成段階とみるべきである。
と述べています。

山崎氏の見方は、西村公朝氏のいう上半身木屎漆盛り上げ説と全く逆ということになります。
何が当初の真実であったのかは、本当に難しく、判らないものです。

山崎氏の考えは、次の本の中で述べられています。

「一度は拝したい京都の仏像」山崎隆之著 2010年 学研新書 【275P】933円

「一度は拝したい京都の仏像」山崎隆之著・学研新書 

「天空から注がれる慈悲のまなざし~広隆寺弥勒菩薩半跏像」の章のなかで述べられています。
この本は新書版ですが、一読に値する、大変興味深いお薦め本です。


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