観仏日々帖

トピックス~「広隆寺・弥勒菩薩の指の話Ⅰ」仏像の手の話③  【2017.5.5】


広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

我が国を代表する、飛鳥時代の仏像です。

「好きな仏像は?」
と人に訊ねれば、必ずといって良いほどその名があげられる、心に残る美しき仏像として、知られています。

シャープに鼻筋の通った瞑想の表情と共に、木の素地の肌をそのままにした「飾らぬ美しさ」が、多くの人々の心を魅了してやみません。
現代人の悩みや苦しみを吸い取ってくれるような、哲学的な美しさを感じる人も多いのではないでしょうか?



【弥勒菩薩の指をめぐる二つの話~指折り事件と、指先は頬にふれていた?】


さて、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」といわれれば、どなたもこの事件のことが思い浮かぶのではないでしょうか。

「弥勒菩薩の指折り事件」です。

当時の京大生が、広隆寺弥勒像の指にふれて、薬指を折ってしまったという事件です。
昭和35年(1960)の出来事で、大変な大騒ぎになりました。
もう、60年近くも前の事件なので、ご存じない方も結構いらっしゃるのかもしれません。

「弥勒菩薩の指折り事件」は、新聞ニュースを賑わす大事件として採り上げられました。
世界各国のニュースになったということです。
仏像の指がたった一本折れただけというのに、それほど大騒ぎになったというのは、広隆寺の弥勒菩薩像が、我が国を代表する、美しく、魅力あふれる国宝仏像の傑作として、誰もが認めるところであったからなのだと思います。


「弥勒菩薩の指にかかわる話」として、もう一つ、挙げておきたいのは、

「弥勒菩薩の指先は、もともと頬に触れていたのだろうか?」

という疑問です。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像~指が頬から少し離れている
広隆寺・宝冠弥勒半跏像~指が頬から少し離れている

ご覧の通り、広隆寺・弥勒菩薩の細い中指の指先は、頬から少々離れています。
飛鳥白鳳の半跏思惟形の像の多くは、指先が頬にしっかり触れているのです。

広隆寺の弥勒像も、
「制作された当初は、指先は頬に触れるように造られていたのではないか?」
という議論です。

当初は、指と頬に、木屎漆が盛上げられて、ちゃんと接触していたのが、木屎漆が剥げ落ちて、現在のような姿になっているのではないか、という見方があるのです。


今回の、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」は、この「指折り事件」と「指先は頬に触れていたのか?」という話を、採り上げてみたいと思います。



【広隆寺・宝冠弥勒像の魅力を存分に引き出した、小川晴暘の写真】


ちょっと話はそれますが、指が折れただけで大変な大騒ぎになるほど、国民的に超有名な仏像になったのは、飛鳥園・小川晴暘が撮った美しい写真の力によるところが大きいのだそうです。

小川晴暘撮影の写真をご覧ください。

飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真

飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真.飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真
飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真

小川晴暘が、この黒バックの写真を撮ったのは大正末年頃です。
この写真が、宝冠弥勒像の魅力を引き出し、世に名を押し上げたのです。

弥勒像の斜め向き上半身を撮影した写真で、鼻筋が通って、瞑想にふける清楚な気品をたたえた表情、細く繊細でしなやかな指を、見事にとらえたものです。
黒バックのなかから浮き上がる、弥勒像の美しさ、魅力は、流石、小川晴暘ならではの世界です。
今でも、観る者の心が、思わず吸い込まれてしまうかのようです。



【宝冠弥勒像の国民的人気を創り出した立役者は、写真家・小川晴暘】


大正13年(1924)に、飛鳥園発行の古美術研究誌「仏教美術」の」創刊号の巻頭に、この焼き付け写真を載せられました。
これが、世に、広隆寺・弥勒像の魅力が広められ、圧倒的人気を博するようになる、大きなきっかけになったともいわれているそうです。

実は、それまでは、広隆寺の宝冠弥勒像は、さほど有名な仏像ではなく、むしろ、同じ広隆寺の泣き弥勒と呼ばれている宝髻弥勒像(乾漆像)の方が、よほど知られていたようなのです。

広隆寺・宝髻弥勒菩薩像
広隆寺・宝髻弥勒菩薩像

安藤更生氏は、その頃の思い出をこのように語っています。

「太秦の広隆寺には弥勒が二体あるが、宝冠を被っている大きい方の弥勒は、近頃は『国宝第一号』などという寺の宣伝文句で大変な有名な像になっているが、僕があの像を上野の帝室博物館の彫刻室で見たのは、大正4、5年ごろだったから、それ以前から上野に出ていたのだろう。
・・・・・・・・・
その頃はあまり顧みる人もなかったし、当時の図録類にも余程特殊なものにしか出ていなかったから、あの像の美的価値に気づいた人も少なかったことだろう。

あの像が有名になったのは、震災後(注:関東大震災・1923年)に寺に戻され、小川晴暘君が美しい写真を撮ってからのことである。」
(安藤更生著「南都逍遥」1970年中央公論美術出版刊所収)


ドイツの哲学者、カール・ヤスパース(1883~1969)が、広隆寺の弥勒像を評して、

「此の廣隆寺の佛像には、本當に完成され切った人間『實存』の最高の理念が、あますところなく表現され盡している。」

と、絶賛したというのは有名な話です。
この弥勒像の名を、大いに世に高らしめることになったのですが、ヤスパースは、弥勒像の実物を見たのではなくて、この小川晴暘の写真を見て語った話なのだそうです。


晴暘の子息、小川光三氏も、この弥勒菩薩の上半身の写真について、

「古美術写真専門の『飛鳥園』で販売している各種の仏像写真のなかでも、この写真の依頼が最も多く、春や秋の観光シーズンになると、その注文に追われて、何百枚もの焼付を作る日が続いたものです。
その数は、大きな引き伸ばしから小型のキャビネ写真まで、今までに焼き付けた数を総合すると、おそらく百万に近い枚数に達しているに違いありません。
・・・・・・
このような超ロングセラーの写真は、例がないのではないでしょうか。」
(「魅惑の仏像4・弥勒菩薩」1986年毎日新聞社刊所収)

と、その人気の高さの思い出を語っています。

小川晴暘こそ、広隆寺の弥勒菩薩を広く世に出し、この仏様に魅了される数多くのファンを創り出した立役者と云えるのかもしれません。



【広隆寺・弥勒菩薩の、指折り事件を振り返る】


ちょっと横道にそれましたが、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」の第一のテーマである、「弥勒菩薩の指折り事件」とは、どんな事件だったのかを、振り返ってみたいと思います。

事件が起きたのは、昭和35年(1960)8月18日のことでした。

弥勒像は、今祀られているのと同じ霊宝館に安置されていましたが、午後1時頃、弥勒菩薩の薬指が折れてなくなっているのに、案内人が気が付いたのでした。
きっと、大騒ぎになったのだと思います。

その日の夕刻、京都大学3回生の学生が、自分が指を折ったと警察に自首しました。
監視人がいなかったのを幸いに、勝手に台に上がって弥勒菩薩にさわり、指に触れて折ってしまったということでした。
折れた指は、三つに欠けてしまっていまっていました。



【大きく事件を報道した、新聞各紙】


この「指折り事件」、先程来ふれてきたように、あまりに有名で美しい国宝・弥勒菩薩像の指が折られたという事件でしたので、新聞各紙も、大きく報道しました。

朝日、読売、毎日の三大紙の報道記事をご紹介すると、ご覧のとおりです。


新聞記事の文章の一部をご紹介します。

一番詳しいのが朝日新聞です。

広隆寺指折り事件を報ずる朝日新聞記事~1960.8.20朝刊
広隆寺指折り事件を報ずる朝日新聞記事~1960.8.20朝刊

「国宝『弥勒菩薩』の右手の指を折る 京都広隆寺 学生いたずら」

京都右京区太秦、広隆寺霊宝殿にある国宝、木造弥勒菩薩像の右手クスリ指が第一関節あたりから折られ、三つの破片になって落ちているのを十八日午後一時ごろ案内人が見つけ、びっくりした清滝英弘貫首から京都府教委文化財保護課と太秦署に届けた。

指が折れた状況の写真~朝日新聞記事拡大写真
指が折れた状況の写真~朝日新聞記事拡大写真
同課からの連絡で文部省文化財保護委員会の西川新次技官、奈良美術院国宝修理事務所の辻本干副所長が十九日、京都府教委文化財保護課の中根金作技師らと調査し、ほぼ元どおりに修理できることが分かったが、太秦署の調べで拝観の学生のいたずらが原因とわかり、国宝の維持管理に大きな警告を与えている。

事故をみつけた日の夕京大法学部学生A(20)が、川端署に自首し、太秦署で身柄不拘束のまま文化財保護法違反の疑いで調べたところ、十八日午後一時ごろ友人と二人で弥勒菩薩を見にきて、監視人がいなかったのでイタズラ心を起こし、台に上がったとき、左ほおが像の指にあたり、ポトリと落ちた。
驚いて三つに折れた指を霊宝殿から外に持ち出して捨てようとしたが、思いかえして像の足もとにおいて逃げ帰った。
「有名な弥勒さんにホオずりしたことを友だちに自慢するつもりだった」
といっている。
・・・・・・・・・・・・・
弥勒菩薩の指をこわした京大生は下宿先で次のように話した。
弥勒菩薩の実物を見たら“これがホンモノだろうか”と思った。
期待はずれだった。
金パクがはってあると聞いていたが、木目も出ており、ホコリもたまっていた。
ちょうど監視人もいなかったので、いたずら心が起こった。
なぜ像にふれようとしたのかあのときの心理はいま自分でも説明できない。


毎日新聞の記事のエッセンスです。

広隆寺指折り事件を報ずる毎日新聞記事~1960.8.20東京朝刊
広隆寺指折り事件を報ずる毎日新聞記事~1960.8.20東京朝刊

「折れた弥勒菩薩の右手指 京大生、持帰る」

・・・・・
同署では捜査中十八日夕方、・・・京大法学部三年生・・・が、私が弥勒菩薩の指を持ちかえった”と届出た。
・・・・・・
調べによると十八日午後一時ごろ友だちと二人で同菩薩を見物に行った時、あまりの美しさにキスしたくなって近寄ったところ左ほおが指に触れ折損してしまったのでポケットに入れて持ち帰ったといっている。
なお折られた指は、・・・君が十八日川端署へ提出したので太秦署で保管しており、近く京都府教委文化財保護課が修理する。


読売新聞記事のエッセンスです。

広隆寺指折り事件を報ずる読売新聞記事~1960.8.20夕刊
広隆寺指折り事件を報ずる読売新聞記事~1960.8.20夕刊

「国宝弥勒菩薩の指を折る 京大生が自首」

・・・・・・・・・
同署で捜査中、午後四時三十分ごろ川端署へ左京区吉田下大路町京大法学部三回生A君(20)が折れた指さきの破片二個を持って自首した。
A君は
「話のタネにしようと思い像の口にキスした際、ホオが像の右手に触れ折った。破片を持って嵐山に逃げ、途中道ばたへいったん捨てたが引き返して拾った」
と自供。
同署では帷子ノ辻付近で残りの破片を全部見つけた。


以上が、「弥勒菩薩指折り事件」の新聞報道のエッセンスです。



【弥勒菩薩の指にふれた動機の真実は~美しさに心酔した故ではなかったのか?】


この記事を読んで、「アレッ?」と思いました。
京大生が、弥勒菩薩の指に触れた動機が、3紙ともそれぞれ違うのです。

私は、
「弥勒菩薩の美しさに心酔し、頬に触れキスしようとして、指を折った。」
と、思い込んでいたのです。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

大学生の青年が、この像の美に魅惑され、思いが募ったあまりの行為だったと思われている皆さんがほとんどではないでしょうか。
いろいろな本などにも皆、そのように書かれていたような気がします。

例えば、西川杏太郎氏も、このように記しています。

「この像を拝観したひとりの大学生がその美しさに見とれ、思わず壇の上にかけ上がってキスしようとし、この像の大切な薬指を折ってしまったという事件がおこり、その頃の新聞をにぎわしたことがありますが、むかしレオナルド・ダ・ビンチの名画『モナリザ』の謎の美に魅惑され、恋をした青年がいたという話を想い出させるような事件です。
この大学生も、そんな謎の美しさをこの弥勒像に見出したのかもしれません。」
(「魅惑の仏像4・弥勒菩薩」1986年毎日新聞社刊所収)



【新聞各紙で何故か違う、指にふれた訳、動機】


ところが、事件発生当時、
「あまりの美しさにキスしたくなって近寄ったところ」
と報道しているのは、読売新聞だけで、

毎日新聞は、
「話のタネにしようと思い像の口にキスした際」
としています。

朝日新聞は一番詳しく、直接取材により、本人が語った話として、

「弥勒菩薩の実物を見たら“これがホンモノだろうか”と思った。
期待はずれだった。
・・・・・・
ちょうど監視人もいなかったので、いたずら心が起こった。
なぜ像にふれようとしたのかあのときの心理はいま自分でも説明できない。」

と報道しています。

本人に直接取材したという朝日新聞記事が、信頼性がありそうな気がしますが、この「指折り事件」が発生したときの、弥勒菩薩像に触れた心の動機の真実は、いかがなものだったのでしょうか?
弥勒像が期待外れでイタズラ心が起こったのか、美しさに心酔したからなのか、よく判りません。

「弥勒像のあまりの美しさに魅せられて・・・・」

青年の思いが募って起こした事件という話のほうが、なんといってもロマンティックです。
そんな動機だったといわれるようになったことが、弥勒菩薩の美しさを、ますます神話化していったようにも思えます。



【折れた指が戻されたいきさつも、各紙報道はまちまち】


記事を読んで、もう一つ疑問に思ったのは、
「折れた指は、どのようにして回収されたのか?」
という話です。

どうでもよい、些細なことですが、ちょっと興味がわいてきました。

ご紹介の新聞3紙は、それぞれ全部違っています。

朝日新聞は、「三つの破片になって、(仏像の傍に)落ちているのを案内人が見つけた」

毎日新聞は、「ポケットに入れて持ち帰り、自首した際に警察に提出した」

読売新聞は、「破片2個を持って自首した。本人は、破片を持って嵐山に逃げ、途中道ばたへいったん捨てたが引き返して拾ったと自供、警察が帷子ノ辻付近で、残りの破片を全部見つけた。」

このように、全部まちまちです。


実は、加えて、もっと違う話もあるのです。
この弥勒像の折れた指を元通りに修復した、西村公朝氏が語っている思い出話です。

「(本人は)指先をポケットに入れて外に出た。
外に出たが落ち着かない、
それで近くのバスの駐車場に捨てた。
この時3センチくらいの指先が三つに割れて飛び散ったのである。
下宿に帰ったがなお落ち着かない。
友人や先生に相談の結果、寺に謝りに来た。
たちまち大騒ぎになって、この断片を拾い集めるのに半日もかかった。」
(「仏像修理の思い出5~広隆寺の弥勒菩薩半跏像」日本美術工芸436号1975年)


実際に指の修理にあたった美術院の西村公朝氏の話が、一番詳細で具体的なのですが、真実の処は、よく判りません。
むしろ、ほぼ同時に報道しているのに、一つの事実が、よくこれだけ違っているものだと、そちらの方に、感心してしまいました。
新聞報道されている記事というのは、間違いない事実と思い込んでしまいそうですが、意外にそうでもないようです。

本当に、些末なことで、どうであろうと何の影響もないのですが、資料を調べていて、ちょっと面白かったので、ご紹介してみました。



【美術院の手で見事に修復された、三つに折れた指】


三つに折れた弥勒菩薩の薬指は、早速、美術院国宝修理所の手で修理されることになりました。

美術院所長の西村公朝氏、辻本干也氏等3人によって、修理に着手され、約一か月後の9月12日に修復が完了しました。
折れた指の接着には麦漆を使い、付けた部分に古色付けが施されました。

三つに折れた弥勒像の薬指
三つに折れた弥勒像の薬指

修理前写真~薬指が折れた写真.修理完了後写真~三つに折れた薬指が修復された
(左)薬指が折れた修理前写真、(右)薬指が修復された修理完了後写真
(「仏像修理の思い出5~広隆寺の弥勒菩薩半跏像」日本美術工芸436号所載)


広隆寺・弥勒菩薩の指
広隆寺・弥勒菩薩の指

西村公朝氏は、修理の思い出を、このように語っています。

「かけつけた私達三人の修理者は、必死になってこの作業にあたった。
折られた傷口を、絶対わからないように接合せねばならない。
そして、少々のショックにもたえられるよう強固にしておかねばならない。
多くの仏像を修理してきた私達できえ、これほど小さな部分で、全神経を使った作業はなかった。
一週間闘にやっと直ったときには、実にうれしかった。
しかも良くできたからである。」
(一本の指~広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像・仏像修理の想いで5)日本美術工芸436号1975年)


当時、この弥勒菩薩の指の修復は、相当の世の関心事であったようで、

「弥勒菩薩の修理始まる」
「弥勒菩薩の修復なる」

といった、新聞記事が掲載されたりしています。

広隆寺・弥勒菩薩の指の修理開始を報じる朝日新聞記事(1960.9.6夕刊)
広隆寺・弥勒菩薩の指の修理開始を報じる朝日新聞記事(1960.9.6夕刊)

弥勒菩薩の指の修復完了を報じる毎日新聞記事(1960.9.9東京夕刊)
弥勒菩薩の指の修復完了を報じる毎日新聞記事(1960.9.9東京夕刊)


「弥勒菩薩の指折り事件」を振り返る話は、この辺にしておきたいと思います。


次のテーマ、

「弥勒菩薩の指先は、頬に触れていたのだろうか?」

という話については、「その2」で、ふれていきたいと思います。


コメント

文化財を取り巻く危険

この弥勒菩薩の一件は、金閣放火事件程の大事件ではなかったものの文化財保護の問題点を世に問うものとなったでしょう。保護も大切ですが、一部の不心得者(或いは愉快犯)のために文化財が我々にとって縁遠い物となってしまうのは、いささか残念な事です。

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