観仏日々帖

こぼれ話~続・「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」仏像の手の話② 【2017.3.28】


【「興福寺阿修羅像1300年の新事実」という、興味深いTV番組が】



NHKテレビで「興福寺阿修羅像1300年の新事実」という番組が放送されました。

NHKテレビ「興福寺阿修羅像1300年の新事実」


ご覧になられた方が多いのではないかと思います。

観仏日々帖「仏像の手の話①」で、
「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」
というテーマを採りあげて間もないところで、タイムリーにも、この「興福寺阿修羅像1300年の新事実」というNHK番組の放送です。
見逃すわけにはいきません。

古舘伊知郎・井浦新・松下奈緒さんが、阿修羅像の新発見事実などの謎に迫っていくという、ドキュメンタリータッチの番組でした。
3/23のPM10:00から、75分間という長い時間の放送でしたが、私にとっては、なかなか興味深いいくつかの新事実を知ることが出来て、大変面白く愉しめました。

4/2のAM0:05から再放送があるようです、お見逃しの方は是非ご覧になってください。



【番組で、阿修羅像の合掌手問題の謎もテーマに】


番組の中では、
「阿修羅像は、合掌していたのか?」
という問題について、CTスキャン撮影調査研究の結果の話や、像内の心木の復元実験による検証がされていましたので、前話「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」の続報として、採り上げされていただくこととしました。

前話では、この問題について、朝日新聞が「阿修羅の合掌ずれた? 明治時代の修理で CT画像解析」と題する記事を2/22に掲載し、
「合掌手とみるのが妥当、という研究結果が明らかになった。」
との報道があったことをご紹介しました。

朝日新聞記事「阿修羅の合掌ずれた?」
2017.2.22付、朝日新聞記事

短い新聞記事の内容だけでは、その判断根拠がよく判らなかったのですが、今回放送のNHK番組を見て、どうしてそのように判断されたのかよく判り、

「当初から合掌していたに違いない。」

という見方に、私なりに納得した次第です。



【「阿修羅像は合掌していたのか?」を検証する放送内容をご紹介】


そこで、前話「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」の続報として、NHK番組の放送内容を、ご紹介しておきたいと思います。

阿修羅像の謎解明の科学的データとなった、仏像のCTスキャン撮影は、7年前、2009年に東京国立博物館と九州国立博物館で開催された「阿修羅展」に際して、実施されたものだそうです。

阿修羅像のCTスキャン撮影の状況
阿修羅像のCTスキャン撮影の状況

研究チームは、0.2ミリ間隔で撮影した15万枚という膨大な量の画像をあつめて、8年にわたって解析してきたということです。

CTスキャン撮影による阿修羅像画像(頭から下を見る)
CTスキャン撮影による阿修羅像画像(頭から下を見る)

研究の結果、CTスキャンによる3次元画像から、いくつかの新たな事実が浮かび上がってきたのでした。

そのの一つとして、
「阿修羅像の第一手は、当初から合掌していたのか、持物を持っていたのか?」
という問題に、決着をつける諸事実が明らかになったというものです。

結論から云うと、先の新聞報道のとおり、
「阿修羅像は、合掌していたと考えて間違いはない。」
という検証成果を得たという内容でした。


【明治修理以前から、外開きになり正中線からズレていた、左手合掌手】


先の新聞報道を読んだ限りでの、私の疑問は、

・明治修理前の手先の折れた写真では、合掌手の左手の手のひらは、わずかに外開きになっているように伺え、このままの姿での合掌は難しそうに見える。

・現在の阿修羅像の合掌の手のひらが正中線からずれているのは明らかですが、明治の修理前写真でも、やはり正中線から少しずれているように見える。

という点でした。

明治修理以前の阿修羅像の写真(明治27年・工藤精華撮影)
明治修理以前の阿修羅像の写真(明治27年・工藤精華撮影)

この疑問にたいして、どのような研究、検証で、当初は合掌手に違いないという結論が導かれたのだろうかというのが一番の関心事でした。

TV番組を見て、私のこの疑問に対して、
「なるほど、そういうことなのですね!」
と納得する回答、説明をしてくれたように思えました。


放送内容をたどって、合掌手で間違いないと判断るに至った経緯と、根拠のポイントをご紹介したいと思います。

まず、明治修理以前の姿を古写真で検証すると、たしかに修理前の時点においても、左手のひらがやや開いて上向きとなり合掌していないように見えるとともに、修理前も正中線から左に寄っていることが判るという説明がありました。

ごらんの写真のとおりです。

明治修理以前の左手の手のひら~正中線からズレている状況

現在の阿修羅像の左手のCT映像~手のひらが左へ約2㎝ズレている
阿修羅像の合掌手が正中線からズレている状況
(上)明治修理以前の写真~左手のひらが少し上向きに開く
(下)現在の阿修羅像のCT画像~合掌手が約2㎝左へズレている




【左腕心木を留める釘が抜けて、脱臼状態になっていたのが、ズレの原因】


その事由について、研究チームの今津節生氏(奈良大学教授)は

「(左腕と肩の心木を留める) 釘が抜けた分だけ肩がずれ落ちてしまっている。
つまり肩が脱臼してしまっているような感じですね。」

と話しています。

阿修羅像の肩・腕の心木の映像~両肩を支える板に右腕は釘で留められているが、左腕は釘が無くなっている

左腕は釘止めが無くなり、脱臼したようになって固定されている
阿修羅像の肩・腕の心木の映像
~両肩を支える板に右腕は釘で留められているが、左腕は釘が無くなっている~


CTスキャン画像を見ると、両肩を支える板に腕の心木を釘で打ち付けて留めているのですがが、左肩の釘は、かつて抜けて無くなってしまっていたのでした。
ズレ落ちて左側に寄っている腕をそのまま固定したので、中心線からからズレてしまっているとともに、手のひらが開き気味になってしまったということです。



【CTスキャンデータによる心木骨組み再現で、合掌手の姿を検証】


そこで、制作当初の状態を再現するために、CTスキャンのデータに基づき骨組み(心木)を正確に再現して、本来の両手の姿をさぐることとなりました。
再現には、仏師で研究家の矢野健一郎氏があたりました。

再現に際して着目された、最も重要なポイントは、第一手の両肘の角度でした。
両肘部分は、制作当初からそのまま残っているものです。
計測した両肘の角度は、左右、全く同じ角度となっていました。

この前提のもとに再現した両腕の心木の先に、手の模型をつけて組み立て、当初の姿を検証してみたのです。
もし、合掌していなかったとすると、その可能性は、

両手のひらを開いて持物を捧げ持つようにしていたか、
右の手のひらに何かを載せて、左手は合掌手のような姿をしていたか

ということになります。



【制作当初の両肘は角度が左右同一、合掌以外のポーズは不可能】


検証結果は、次のようなものとなりました。

まず、左手です。
釘が抜け落ちていた左肩に、当初の釘痕どおりに脱臼したように外れていた腕を打ち付けると、手のひらの位置は中心に移動し、開き気味だった手のひらは、合掌に相応しく垂直となりました。

肩の釘痕の処に腕の心木を留めると、正中線で合掌の姿となった
左腕の心木を肩の釘痕の位置に止めた様子

左腕を肩の釘痕の処に腕の心木を留めると、合掌手はピッタリ正中線の処に来る明治修理前の阿修羅像も合掌手が左にズレ、手のひらが上向きに開いている
(左)左腕を肩の心木を留めると、合掌手はピッタリ正中線の処に来る
(右)修理前の合掌手は、左にズレ、手のひらが上向きに開いている


右手の方も、同じ肘の角度にぴったり合うように手首から先の手を付け、肩に打ち付けると、左手と同じように合掌手にしか成り得ないこととなりました。
今の肘の角度で、両手のひらを開いて持物を持たせようとすると、両腕の幅は異常に狭まってしまい、不自然に過ぎてしまうし、肩と腕の心木の接合状況から、考えられないということなのだと思います。

両手のひらを開いて持物を持たせようとすると、両腕の幅は不自然に狭まってしまう
両手のひらを開いて持物を持たせようとすると、腕の幅は不自然に狭まってしまう

左手は合掌手の形で、右手にものを載せるように、手のひらを開いたものに作ろうとすると、肘の造形を左の肘と角度が違うように造らざるを得なくなるということです。

手のひらを開いたものに作ろうとすると、左右の肘の角度を変えざるを得ない
右手のひらに持物を載せると、左右の肘の角度を変えざるを得ない

即ち、左手は、手のひらが開いて、何かを持つことだ出来るような状態で手が付いていないし、右手にものを載せようとすると左右の肘の角度が変わってしまうということです。

腕と肩の心木の当初の接合状況、両肘の角度を検証すると、合掌手以外の手の姿は、考えられないのであろうとの結論になるとのことでした。

当初の心木の接合状況を再現、復元すると、合掌手以外の姿は不可能
当初の心木の接合状況を再現、復元すると、合掌手以外の姿は不可能

番組では、この問題について、

「つまり1300年前、阿修羅像は体の正面で合掌していたのです」

という語りで、締めくくっていました。

合掌する阿修羅像
合掌する阿修羅像

「観仏日々帖」前話では
「阿修羅像は、合掌していたのかという疑問は、解消されたわけではないのでしょうか?」
とというフレーズで終えたのですが、
このTV番組を見て、私個人としては、当初から合掌していたということで間違いないのだろうと、納得した次第です。



【西金堂の阿修羅は、何故、合掌した姿なのか?】


ところで、そもそも激しい戦闘神、闘争神であるはずの阿修羅が、興福寺西金堂像では、

「何故、合掌の姿をしているのでしょうか?」

TV番組でも、このテーマを採り上げていました。

合掌する阿修羅像
合掌する阿修羅像

番組に登場した、万葉集研究の上野誠氏(奈良大学教授)は、このようなコメントを語っていました。

「阿修羅というのは極悪非道、戦争、つまり強いものの代表者なんですよね
その強いものの代表者が、ここにその合掌する。
・・・・・
それは、ある意味で感謝ですよね。
とか、尊いものに接したときの感動を表す一つの形ですよね

(ナレーション:飢饉や外国の脅威と直面した厳しい時代)

苦しい時代を生きていく人たちを励ます最大の祈りの形、造形物になっていくのかなというふうに。
見る人にとっては、そんな強い人だから合掌してくれたらと嬉しいよね。」


私には、阿修羅像の合掌の意味といった宗教的な問題は、全くの苦手分野で、何もわかりません。



【「金光明最勝王経の夢見金鼓懺悔品の情景」をジオラマ展開した、西金堂・釈迦集会像
~懺悔の心を表し、合掌する阿修羅像~】


研究者の方によると、阿修羅像が、本来の激しい怒りや闘いの姿に作られているのではなく、静かで敬虔な精神表現の姿に作られている事由について、次のように説明されているのではないかと思います。

興福寺西金堂の仏像群は、「釈迦集会像」として造られました。

西金堂・釈迦集会群像の情景~京博本興福寺曼陀羅(鎌倉時代)の西金堂部分
西金堂・釈迦集会群像の情景~京博本興福寺曼陀羅(鎌倉時代)の西金堂部分
阿修羅像は向かって左の一番奥


この釈迦集会群像は、「金光明最勝王経」のなかの、「夢見金鼓懺悔品」(むけんこんくさんげぼん)にある情景を形にしたものと云われています。
それは、

「妙幢菩薩が、夢の中で大金鼓を撥で叩いて大きな響きを出した。
その大金鼓の音が響いている中で、美しい讃美歌がうたわれ、懺悔の方法が述べられた。・・・・・」

という情景を、ジオラマのように西金堂内部に展開したものです。
そうした情景のなかで釈迦の下に集会した、十大弟子、八部衆像の表現であるということなのです。

例えば東野治之氏は、こうした造像主旨を踏まえ、阿修羅像の表現について、このように述べています。

「阿修羅像をはじめ八部衆像、十大弟子像は、釈迦集会の像であることを前提としてみなければならない。
・・・・・・
阿修羅像の眉をひそめた表情は、金鼓が響いて讃美歌が歌われ、懺悔の方法が述べられたという話を集まって聞いている表情なのであろうと考えられる。
・・・・・・・
こうして見てくると、あの阿修羅像の魅力ある表情は、懺悔の心を表している可能性が高い。」
(東野治之「阿修羅像と天平文化」阿修羅を究める・興福寺監修2001年小学館刊所収)

静かな姿の阿修羅像をはじめとする八部衆の表現について、同じ趣旨を述べている研究者が多いのではないかと思います。

静かに合掌する阿修羅像
静かに懺悔、合掌する阿修羅像


釈迦の前に集い、心中深く懺悔の心を起こした阿修羅の姿を思い浮かべると、

「阿修羅は、静かに合掌していた」

というのが、おのずと自然な姿のように思えてくるのです。


以上が、前話「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」の続報です。



ついでに、TV番組「興福寺阿修羅像1300年の新事実」のなかで、大変興味深く感じた話を、ちょこっとだけご紹介しておきたいと思います。



【塑像原型と全く違った表情の阿修羅像~怖い顔から優し気な顔に変化】


それは、阿修羅像の塑像原型を、再現した処、その顔の表情とは全く違ったものであったという話です。

ご存じのとおり、脱活乾漆像は土で作った塑像の原型に、麻布を漆で貼り重ね、木屎漆でモデリングして細かい姿を表現していきます。
阿修羅像も、5枚程度の麻布が漆で貼り重ねられています。

今回撮影したCTスキャンの画像から、乾漆層の内側に、塑像原型の痕跡を見つけ出すことが出来たことから、塑像原型の再現を試みた処、なんと、今の阿修羅像とは全く違う表情が浮かび上がってきたということです。

CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型
CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型

原型は、眉も目も吊り上がった厳しい顔、恐ろし気な表情をしていたのです。
眉は、左右が連なったインド風の連眉で表現されており、現在の眉根を寄せた愁いを含む表現と全く違います。
制作当初は、古代インドの荒ぶる神を想起させる、猛々しい表情を想定していたことになります。
CT画像から塑像原型を復元した画像をご覧いただくと、よく判ると思います。

CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型~厳しく恐ろしげな表情

CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型~厳しく恐ろしげな表情
CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型~厳しく恐ろしげな表情

その塑像原型段階の厳しく怖い表情が、木屎漆のモデリングの最終段階で、清らかで愁いを含んだ少年を思わせる、今の阿修羅像の優し気な表情に、大きく変更されたのだということです。

優しく愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像の表情
優しく愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像の表情



【脱活乾漆像の木屎漆モデリングの実際を実感】


この新事実は、私には、大きな驚きでした。

脱活乾漆像を制作するときは、
「塑像原型で大まかな形を造っておいて、最終的には木屎漆のモデリングで造形の細かい処を整え表現していく。」
という話は、本で読んで知っていました。

しかし、当初の顔の表情プランを、木屎漆のモデリング段階で100%変えてしまうほどまでに、造り変えることだ出来るのだというのを、初めて知りました。

再現した阿修羅像の塑像原型塑像原型に麻布を貼り、木屎漆のモデリングを行う有様

塑像原型に麻布を貼り、木屎漆のモデリングを行う有様
塑像原型に麻布を貼り、木屎漆のモデリングを行う有様


実は、2012年に唐招提寺の鑑真和上像のお身代わり像が、美術院で制作された時、この像は木屎漆の層が大変薄いことが明らかになり、奈良時代脱活乾漆像のなかで、常識的手法でない異例なものであると発表されました。

模造制作にあたった、美術院国宝修理所の木下成通氏は、
「木屎層が薄くても彫刻表現が完成されていることから、塑土原型の段階ですでに細かい箇所まで作り込まれていたことがわかる。」
(「唐招提寺・国宝鑑真和上坐像・模造制作について」木下成通・美術院紀要8号2016年刊所収)
と指摘して、鑑真像が、奈良の仏像専門の工人ではなく、弟子たちの手による制作である可能性を示唆しています。

唐招提寺・脱活乾漆鑑真和上像
唐招提寺・脱活乾漆鑑真和上像

今回、脱活乾漆による、木屎漆による面貌、表情のモデリングのやり方を、画像で目の当たりにして、脱活乾漆技法や、鑑真和上像の制作技法の特異性とはこういうのは、こういう話なのだと、腑に落ちた次第です。



【阿修羅像が、優しい少年の顔に切り替えられた訳は~光明皇后の基王への追慕の投影か?~】


話は戻って、

「阿修羅像の、元の怖い表情が、何故作り替えられたのか?
どうして、愁いを含んだ少年を思わせる、優し気な表情になったのか?」

という謎についての問題です。

愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像
愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像

番組で解説に登場した、興福寺国宝館館長の金子啓明氏は、その訳について、興福寺西金堂建立の願主である光明皇后の想いに心を馳せて、このように語っていました。

八部衆像には、子供の姿に造られた像がある。
幼い順にみていくと、まずは沙羯羅像で5~6歳、次は五部浄、乾闥婆像で10代初めの少年、そして阿修羅像は10代半ばごろの姿に造られている。
これは、我が子、基王(もといおう)を1歳にならないうちに亡くしてしまった、光明皇后の基王への追慕の想いが託されたものだと思われる。

西金堂諸像は、亡くなってから6年後、これらの像が造られるが、光明皇后は、その子供の面影を追う想いを仏像に託しながら、少しずつ成長していくような姿をイメージとして子供とだぶらせていたということが考えられる。
年齢を順に追っているところに、光明皇后の、子供を想う親としての思いが託されていたとみることが出来る。

興福寺・八部衆のうちの沙羯羅像~童子の表情
沙羯羅像~童子の表情
興福寺・八部衆のうちの五部浄像~10代初めの表情興福寺・八部衆のうちの乾闥婆像~10代初めの表情
(左)五部浄像、(右)乾闥婆像~10代初めの表情

金子啓明氏は、これまでも、この考えを示していて、自著、「仏像のかたちと心~白鳳から天平へ」においても、このように述べています。

「光明皇后が実母である故橘美千代の一周忌供養のために建立した興福寺西金堂に、嬰児の羅睺羅像を安置したのは、母の菩提供養と合わせて、夭折したわが子基王の供養も果たそうとしたからではないだろうか。
釈迦の生まれてまもない実子・羅睺羅に皇太子・基王の姿をイメージするのは、亡き嬰児を想う母親としては、自然な考え方である。
興福寺西金堂の羅睺羅像は残念ながら現存しない。
しかし、今も残る八部衆8体のうちの半数の4体までが少年像であることは、光明皇后の亡き皇太子に対する思いを考える上で注目される。
先にも述べた、阿修羅、沙羯羅、五部浄、乾闥婆の4体である。」
(金子啓明著「仏像のかたちと心~白鳳から天平へ」2012年岩波書店刊)

京博本興福寺曼陀羅図にみえる西金堂・羅睺羅像
京博本興福寺曼陀羅図に見える西金堂・羅睺羅像

この光明皇后の、亡き子、基王への思慕、追慕の想いが、西金堂諸像に投影され、阿修羅をはじめ少年相の諸像が造られたという見方は、大変ロマンチックで説得力もあるようには感じるのです。

ただ、阿修羅像の少年相の訳は、このストーリーで決まりという風に、決定打的に考えても良いのかな?という気も、少しばかりしてきますが・・・・・・

皆さんは、いかがでしょうか?

興福寺・阿修羅像
興福寺阿修羅像



NHKテレビ「興福寺阿修羅像1300年の新事実」の番組から、興味深かった話を紹介させていただきました。


テレビ番組としては、なかなか突っ込んだ、中身の濃い内容でした。
光明皇后をちょっと美化しすぎのような感もありましたが、興味深く、面白く見ることが出来ました。


(掲載写真の多くは、TV番組「興福寺阿修羅像1300年の新事実」の映像から転載させていただきました)


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