観仏日々帖

こぼれ話~「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」 仏像の手の話①  【2017.3.18】


【「仏像の手の話」のテーマを、しばらく採り上げてみます】



「この観仏日々帖に、なにか採り上げるテーマはないだろうか?」

と思いを巡らせているうちに、 「仏像の手の話」 と題するテーマを考え付きました。

思いつくのは、こんな話、

興福寺・阿修羅像の合掌手の話、広隆寺・弥勒菩薩の指の話、広島古保利薬師堂・薬師像の手の話、新薬師寺・薬師像の腕の材の木目の話、失われた新薬師寺香薬師像の右手の話

等々、といった処でしょうか

「仏像の手」にまつわる、ちょっと面白そうで、興味深い話を、連載的にいくつかご紹介が出来そうです。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像

スタートのテーマは、

「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」

が良いかな、と考えていた処でした。

「阿修羅像は、制作当初は合掌せず、何かを捧げ持っていたに違いない」
という見方があるという話です。



【「阿修羅の合掌手ずれた?」の、新聞記事にビックリ】


そんな矢先です。

新聞を読んでいると、ビックリの記事が目に入ってきました。
2月22日付の朝日新聞の朝刊に、こんな見出しの記事が載せられていたのです。

「阿修羅の合掌ずれた? 明治時代の修理で CT画像解析」

「阿修羅の合掌ずれた?」朝日新聞記事


この「見出し文」に、鋭く反応された方は、結構、仏像に詳しい方なのではないかと思います。

現在、阿修羅像を拝すると、合掌した姿に造られています。
「阿修羅の合掌ずれた? 明治時代の修理で」
といわれても、

ごく普通には、合掌手がちょっとずれていただけということで、
「わざわざ新聞記事にするほど、大した話ではないのでは?」
と感じられるのではないかと思います。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像~よく見ると合掌手が向かって右に少しずれている~

阿修羅像の合掌手の問題をご存じの方は、

「阿修羅像は、実は持物を捧げ持っていたとする説は、間違いで、やはり当初から合掌手であったということなのか!」

と、興味深くこの記事を読まれたのではないでしょうか。



【CTスキャンで、制作当初から合掌していた可能性大と判明~「実は持物を持っていた」説を否定?】


この新聞記事の冒頭にも、このように記されています。

「天平彫刻の傑作、奈良・興福寺の国宝阿修羅像(734年、脱活乾漆造り)について、1300年前の制作当初は両腕を正面で合掌させていた可能性の高いことが、九州国立博物館(福岡県太宰府市)などの研究チームの調査で分かった。

X線CTスキャン画像の解析で、明治時代に再接合された修理の詳細が判明。
本来合掌していなかったとの見方もあったが、内部の芯木の復元実験も行い、合掌の姿勢が妥当と判断された。」

記事は、この後、

阿修羅像の6本の手が、明治年間には、一部損傷欠失していたこと。
明治の修理で、第一手は合掌手に修復されたが、本来は何か持物を持っていたという説があること

について、このようにふれています。

「阿修羅像は奈良時代以来、火災や地震、戦災などをくぐり抜けたが、転倒などで6本ある腕のうち数本が損なわれた。
1902~05(明治35~38)年の修理で、最も正面に近い左右2本の腕のうち、ひじから先がなくなっていた右腕などが補われた。
それ以降、この2本の腕は体の正面より左寄りの位置で合掌する姿になり、本来は合掌と違う姿で、何らかの法具か宝物を手にしていたのではないかとの見方も出ていた。」


新聞記事は、この後

「CT撮影などの調査で、明治の修理前も、自然な合掌手であった可能性が高まった。」

ことについて、解説されています。

この記事を採り上げた記者の方は、阿修羅像は、
「当初、合掌していなかったという見方を否定する調査結果」
が発表されたことを、重要な新事実とみて、この記事を執筆されたのでしょう。



【「興福寺・阿修羅像は、合掌していなかった」という議論を振り返る】


新たな調査事実の話は、ちょっと後回しにして、

「興福寺・阿修羅像は、当初から合掌していたのだろうか?」

そのような議論がされるようになったいきさつを、振り返ってみたいと思います。

ご存じのとおり、興福寺の阿修羅像は、興福寺・西金堂に祀られる八部衆像の一つとして制作されたものです。
天平6年(734)に創建された、興福寺西金堂に当初から安置された、天平彫刻を代表する脱活乾漆像の名作です。

興福寺・阿修羅像

興福寺・阿修羅像
愁いを含んだ少年のような面差しが絶賛される興福寺・阿修羅像

明治時代には、阿修羅像だけが単体で素晴らしい傑作と評価されることは無かったのですが、大正期以降、とりわけ昭和10年代以降、愁いを含んだ少年のような面差しが絶賛されるようになり、いまや人気NO1の仏像といってよい超有名像になりました。



【明治修理以前、手が欠失していた阿修羅像~残されていた修理前写真】


この阿修羅像は、明治35年(1902)9月から38年1月に興福寺の諸仏像が、美術院により修理された際に、修理修復が行われました。
この時に、手の一部が欠損していたものが、修復されました。

この修理以前の、興福寺阿修羅像を撮影した写真が残されているのです。
2種類、残されています。

一つは、明治21年(1888)、政府による近畿地方古社寺調査に同行した写真師、小川一眞が撮影したものです。
東金堂に寄せ集められた諸仏の集合写真の中に、阿修羅像の姿が見えます。
左の第一手、合掌手の手先が欠失しているのが、判ると思います。

興福寺古写真~明治21年小川一眞撮影

興福寺古写真~明治21年小川一眞撮影
興福寺古写真・東金堂に集められた諸仏~明治21年小川一眞撮影
阿修羅像の手が欠損しているのが判る


もう一つは、阿修羅の手が欠損していた状況が、はっきりと判る有名な写真です。
明治41年に刊行された、工藤精華撮影出版の「日本精華・第1輯」に収録されています。
明治27年(1894)に撮られた写真で、美術院修理前の阿修羅像の貴重な写真です。

明治27年工藤精華撮影・阿修羅像~日本精華第1輯所載
明治27年工藤精華撮影・阿修羅像~日本精華第1輯所載
明治修理前の手の欠失状況がよく判る


ご覧の通り、右手第一手(合掌手)と左手第三手が、欠失しているのがはっきりとわかると思います。



【美術院での修理時、合掌する姿に修復される】


この欠損していた手は、当時の日本美術院、新納忠之介等によって修理され、現在の第一手が合掌している姿に修復されたのでした。

現在の阿修羅像の写真を見ると、右手・第一手の肘から先の処に、手先を継ぎ足した跡がはっきりと残っていて、そこから先が明治に作られた後補の手先であることが、よく判ります。
後補部分の右手先は、木彫で補われています。

興福寺・阿修羅像~左肘部から先が木彫後補であることが見て取れる
興福寺・阿修羅像~左肘部から先が木彫後補であることが、よく見て取れる

新納忠之介は、阿修羅像の第一手は、当然に合掌していたものと考えて、このように復元修理したのに違いありません。

しかし、真正面から、阿修羅像を拝すると、合掌する手のひらの位置が、向かって右側に少々ズレていることにも気が付きます。
パッと見は気になりませんが、じっくり拝していると、合掌手の正中線からの軸ブレは、ちょっと不自然な感じであることは事実です。



【提起された疑問~本当に合掌していたのだろうか?】


近年、専門家の間では、

「実は、阿修羅像は、合掌していなかったのではないか?」
「第一手は、持物を捧げ持つような姿であったのではないか?」

という疑問が、結構持たれていたようです。

興福寺・阿修羅像.興福寺・阿修羅像~合掌手
興福寺・阿修羅像~合掌手

この疑問は、

・阿修羅像の合掌の手のひらが合わさった位置が、正中線から向かって右に、わずかにズレていること。
・修理前の写真の第一手、左手の掌は、外に向って開いており、合掌していたにしては不自然なこと。
・修理前の手が欠失した写真を見ると、第一手の脇が締り、肘が下がっているのに対して、現状は、肘が外に広がるように張っており、明らかに角度が改変されていると思われること

などから、発した疑問のようです。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像~工藤精華撮影(明治27年)
現在の阿修羅像(上)と、明治修理前の阿修羅像(明治27年・工藤精華撮影)

このようなことを総合すると、阿修羅像は、当初合掌していたのではなくて、右手に何かを手に捧げ持ち、左手をそれに添えるような姿ではなかったのかという見方も出てきたという訳です。



【当初は、持物(法輪か法螺貝)を、両手で捧げ持っていた?】


「阿修羅像は、合掌していなかった。」

という問題提起を、最初に文章にして発表した方は、山岸公基氏(奈良教育大学教授)だと思います。
これまで、次のような論考を発表されています。

「阿修羅の手」月刊奈良38巻11号・1998年刊)所収
「阿修羅像は合掌していなかった」仏教新発見2号・興福寺(朝日新聞社刊)2007.07所収

山岸氏は、
明治の修理前写真と現状を比較し、第一手の角度が、かなり外に広げられていることを指摘したうえで、

「胸前にささげた腕は肩を支点に現状と比べると肘が内側に回転しており、そのぶん左の手先は現在も左に偏っていると見えるのがいっそう外に開いて、もと合掌していたと見ることは困難になる。

つまり阿修羅は合掌しているものという先人見のもと、明治修理に際して、当初の左手指先が合掌らしく正中に近くなるよう、胸前にささげた腕の肩からの角度が改変されたのではないだろうか。」
(「阿修羅像は合掌していなかった」仏教新発見2号)

と述べています。

我が国の、阿修羅の古像には、法隆寺五重塔の塔本塑像(奈良時代)、三十三間堂の二十八部衆の一躯(鎌倉時代)が知られています。

法隆寺の阿修羅像は、手先が欠損していますが、合掌していたとは考えられません。
三十三間堂像像の方は、胸前で合掌しており、現在の興福寺阿修羅像と同じ手の姿に作られています。

法隆寺五重塔・塔本塑像~阿修羅像三十三間堂・二十八部衆~阿修羅像
(右)法隆寺五重塔・塔本塑像~阿修羅像、(左)三十三間堂・二十八部衆~阿修羅像


もし阿修羅像が合掌していなかったとすると、どのような手の姿をしていたのでしょうか?

山岸氏は、阿修羅像の中国の遺例をみると、第一手が合掌している作例の他に、

・法輪を持つ例~四川省の広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像(8C前半)
・法螺貝を持つ例~敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画(8C末~9C)

があることを上げて、こうした持物を胸前に執る姿であったのではないかとみられています。

四川省の広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像~法輪を持つ
四川省広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像~法輪を持つ

敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画~法螺貝を持つ
敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画~法螺貝を持つ

北進一氏も、自著
「アシュラブック」2012年美術出版社刊
のなかで、「本当に合掌していたのか?」という項立てを設けて、この問題に触れています。
北氏は、山岸氏と同様の観点から、当初は合掌手ではなかったと考え、
第一手は、両手で法螺貝か輪宝を持ち、第二手は左手に弓、右手に弦に矢をつがえる姿、第三手には日輪、月輪を持っていた、
と思われると述べています。

このように、

「興福寺阿修羅像は合掌していたのではなくて、両手で法輪か法螺貝を持っていたのに違いない。」

という考えは、一つの見方として有力であったのではないかと思います。



【合掌手は、意図的に軸ブレして造られたという見方~斜めから拝する視線を計算】


一方で、この問題を、

「阿修羅像が祀られる姿が、拝者の眼にどのように映るのか。」

という視点から、とらえる見方もありました。

阿修羅像の合掌手が、正中線から向かって右に少しズレている理由を、仏像を拝する側の視線、視点から解き明かそうとするものです。
合掌手がずれているのは、おかしなことでもなんでもなくて、斜めから拝する側の視線を考えれば、このようにズレて造るのが、最も適切なのだと考えられるというものです。

阿修羅像は、西金堂の、向かって左側の奥に祀られていました。
京博本・興福寺曼陀羅の西金堂の図を見ると、阿修羅像の祀られていた位置がよく判ります。

京博本・興福寺曼荼羅図(鎌倉時代)~西金堂の部分

京博本・興福寺曼荼羅図~西金堂・阿修羅像の部分拡大図
京博本・興福寺曼荼羅図(鎌倉時代)~西金堂の部分(上)と、向かって左上の阿修羅像の拡大図(下)

お堂の真ん中に坐して諸仏を拝する時、左奥に祀られる阿修羅像が、斜めから一番良いバランスで、美しく見えるように、意図的に合掌手などが少し軸ブレしたように造られたのだというものです。

こうした拝する人への見え方を計算して造られた仏像は、巨像によくあることはご存じのとおりです。
東大寺南大門の仁王像が、見上げて拝することから、頭部が大きく造られたり、乳首や臍の位置が修正されたりしているのは、代表的な事例ではないかと思います。

東大寺南大門・仁王像~体の中心(真ん中)から撮影した写真.東大寺南大門・仁王像~通常の見上げる位置から撮影した写真
東大寺南大門・仁王像
体の中心(真ん中)から撮影した写真(左)、通常の見上げる位置から撮影した写真(右)



【左斜めに見上げて拝するのが、ベストの「仰角」の阿修羅像】


この阿修羅像を拝する視線の角度について、論じた論文があります。

「迎角から探る興福寺阿修羅像の立ち位置」(水野谷憲郎)淑徳短期大学研究紀要 53号2014.2

というものです。

水野谷憲郎氏は、仏像が置かれる場所によってその形や傾きを変える事実を「迎角」として追究し、いくつも論文を発表しています。
水野氏は、「仰角」の観点から阿修羅像について研究し、阿修羅像は、お堂の正面に向かって左奥に祀られ、拝観者が斜め左側に像を観る位置に祀られて、一番バランスよく見えるように制作されていると論じ、このように述べています。

「何故このような不自然な右側面を作らねばならなかったのか。
ここに明快な意図が見える。

先に述べた通り、阿修羅像を前から見ると向かって右の形の方が主に整えられてた。
言い換えるなら、阿修羅像は向かって左奥に倒れていく形の不自然を作り、その反対方向である向かって右前からの視線に最良の形を見せる変形が行われていることになる。

即ち阿修羅像はやや右側、拝観者からは正面やや左側に置かれるとバランスが良く立って見える造りとなる。」
(「迎角から探る興福寺阿修羅像の立ち位置」)

水野氏は、このような見方によると、阿修羅像の「最良の拝観位置に近い写真」は、ご覧のような斜め角度のものであるとされています。

向かって右斜めの最良の拝観位置から見た写真(水野谷憲郎氏による)
水野谷憲郎氏が最良の拝観位置からとする写真

向かって右斜めから見た阿修羅像のカラー写真
向かって右斜めから見た阿修羅像のカラー写真

確かに、この角度から拝すると、阿修羅像の合掌手が正中線から軸ブレしていることが全く気にならないどころか、きちっと正中線上で合掌しているように目に映るのです。

以前に、ある先生からも、

阿修羅像は向かって左斜めから拝されることを意図して造られている。
合掌手の位置だけでなく、顔貌や脇面などの出来映えをみても、そのように感じられる。

という話を耳にしたこともありました。

興福寺・阿修羅像.興福寺・阿修羅像~向かって左斜めからの写真
阿修羅像の左右斜め位置から見た写真



【CTスキャン調査で、「制作当初は、真正面位置で合掌」の可能性大と判明】


「阿修羅像は、本当は合掌していなかったのか?」

「阿修羅像は、斜めから拝すのを計算し、意図的に軸をずらすなどして造られたのか?」

どっちが真実なんだろうか?
そんな疑問が提起されていた処に、新たに科学的な調査事実が判明したというのが、冒頭でご紹介した新聞報道記事なのです。

「阿修羅像は、制作当初、中心軸の真正面で合掌していた可能性が強い。」

という、調査結果が判明したというものです。

新聞記事を、そのままご紹介します。

「CT撮影は、2009年の「国宝 阿修羅展」に合わせて九州国立博物館で行われた。
その後、今津節生・奈良大教授(保存科学)らが解析を続けた。
その結果、正面側の両腕のわきの下に木屎漆(木粉と漆のペースト)が詰められ、それが両ひじを外側へ開き気味に押し上げていたことが判明した。

研究チームによれば、木屎漆を除去し、修理前の姿に戻せば、左の手のひらが現状より約2センチ内側、仏像の中心軸(正中線)上に乗り、胸のほぼ正面に来ることが分かった。
右腕の角度も狭まり、合掌以外のポーズは取りにくい状態とされる。
像内の芯木を原寸大で復元した実験でも同じ結果が得られた。
CTスキャンのデジタルデータで構造を細部まで立体的に把握・再現でき、制作当初の姿に迫ることができたという。

金子啓明・東京国立博物館名誉館員(日本彫刻史)は
『胎内構造の復元実験からも両腕のひじが張っていなかったことを確かめ、阿修羅像が現状よりもっと自然に合掌していた可能性が高まった。
仏像に手を加えない先端科学による重要な発見だ』
と話す。」


新聞記事に掲載されていたCTスキャン画像、修理前想定の画像をご覧ください。

阿修羅像のCTスキャン画像写真
阿修羅像のCTスキャン画像

CT画像によると、明治の美術院の修理で、両腕わきに木屎漆が埋め込まれて、両肘が外側に広げられたことが判るということです。

明治修理前の阿修羅像の合掌手の位置の推定修正図
明治修理前の阿修羅像の合掌手の位置の推定修正図

明治修理時に埋め込まれた木屎漆を取り除くと、脇がグッと締まるとともに、約2㎝左手のひらが正中線側に動くこととなり、真正面で合掌していたとみられるようになるとのことです。

以上のとおり、CT撮影調査結果、心木の原寸大復元などの研究結果によると、(明治の)修理前の姿は、

・左の手のひらが仏像の中心軸(正中線)上に乗り、胸のほぼ正面に来る。

・阿修羅像は、当初は、現状より自然に真正面で合掌していた可能性が強い。

というものです。

阿修羅像の内部構造推定図~山崎隆之著「一度は拝したい奈良の仏像」掲載図
阿修羅像の内部構造推定図
山崎隆之著「一度は拝したい奈良の仏像」(2009年学習研究社刊)掲載図


明治35~8年の美術院の修理で、阿修羅像がどのように改変修復されたのかは、これまで、よく判っていませんでした。
美術院の仏像修理記録は、そのほとんどが、具体的修理内容の記録、修理図解、修理前後写真が残されているのですが、明治のごく初期の修理だけは詳しい記述がされていないのです。

残されている修理資料の、興福寺「乾漆八部衆立像 八躯」の処には、
「彩色ノ剥落ヲ防止シ、破損ノ部分ハ堅牢ニ修理ヲ加ヘ、適当ノ古色ヲ附スベシ。
破損シタル半身ノ像ハ箱ヲ造リ、之レニ保存スベシ。
右ニ対スル修繕費金参百六拾八円八拾参銭也。」
という記述と、緊那羅像の内部構造図が残されているだけとなっているのです。
(「日本美術院彫刻等修理記録Ⅲ」奈良国立文化財研究所1977年刊による)

今回の研究調査で、当時の修理改変の状況が明らかにされ、

「阿修羅の合掌手についての、永年の疑問」

が、解決されたということになりそうです。



【2月開催のシンポジウムで、研究成果発表されるも、参加できず残念!】


実は、この研究成果については、2月25日に東京で開催された、
公開シンポジウム「阿修羅像を未来へ―文化財保護のこれからを考える―」(興福寺、朝日新聞社主催)
において、詳しく発表されました。

「阿修羅像 CTスキャン調査の全容」(奈良大学教授・今津節生、九州国立博物館・展示課長・楠井隆志)
というものです。

私は、この講演会を是非とも聞いてみたかったのですが、残念ながら、参加申し込みの抽選に外れてしまい、行くことが叶いませんでした。
詳しい解説等がどのようなものだったのか興味津々なのですが、いずれ、どこかに研究結果が掲載されるのを待つしかないという処です。
今のところ、私には、新聞記事の情報以上のものがありませんので、これ以上突っ込んだ話をご紹介することが出来ません。

当初から合掌手であったということについては、こんなあたりも、知りたくなるところです。

阿修羅像は、明治の修理以前にも、近世まで何度も修理が行われているのですが、今回のCTスキャン調査で、当初の実像がどのあたりまで解明されたのだろうか?

明治修理前の写真を見ると、たしかに現状より脇が締り、肘が下がっているのですが、その時でも、左の手先、手のひらは外側に開いているようで、合掌していたにしては不自然に見えます。
これは、明治以前に、第一手の角度が、制作当初よりも外開きになってしまっていたたからなのでしょうか?

また、気のせいでしょうか、左の手のひらは正中線より、わずかに(向かって右に)ズレているような気がしないでもありません。

明治27年工藤精華撮影・阿修羅像
明治修理前写真(工藤精華撮影)

大変、興味深い処です。
皆さんは、この阿修羅像の合掌手の問題、どのように感じられ、考えられておられるでしょうか?


今回の研究発表、新聞報道で、

「阿修羅像は、合掌していたのか?」

という問題に、正中線上で合掌していたと、はっきりとした結論が出た、ということなのでしょうか?


それとも、まだまだ、

「阿修羅像は、合掌せずに、持物を持っていたに違いない?」

「阿修羅像の合掌手は、『仰角』(拝する角度)の関係で意図的にズレている?」

という疑問が、解消されたわけではないのでしょうか?



コメント

快慶仏の手相の話

仏像の手の話と言えば、・・・
4/8から奈良博で始まる快慶展に関連して、読売テレビの快慶展特設サイトで一昨日から奈良博岩田学芸員の快慶仏の手相の話が公開されています。(下記アドレス、動画)
http://www.ytv.co.jp/kaikei/about/lecture/?platform=hootsuite

この話の元ネタは同じ岩田氏がMUSEUM588号(平成16年)に書いた「ハーバード大学サックラー美術館 木造仏手―伊賀新大仏寺本尊の手である可能性をめぐって」で考察された内容で、快慶・行快作品の手相の運命線の有無についての表も載っています。(上記動画では行快の手相までの話は出てきませんが、清凉寺釈迦の運命線のことを話されていたので興味深く聞きました。)

快慶展では新大仏寺本尊は出品されるのに、この手と松永耳庵旧蔵の菩薩像の耳(新大仏寺阿弥陀三尊脇侍と推定)は出品されません。2006年の奈良博「大勧進重源」展の時は新大仏寺本尊、サックラーの手、菩薩耳の3点がそろって出品されたのですが私は行けなかったので、今回は手と耳が出ることも期待していたのに残念です。快慶展に行ったら耳だけではなく、手相にも注意しようと思っています。

  • 2017/03/18(土) 01:25:23 |
  • URL |
  • むろさん #PMoz9hdc
  • [ 編集 ]

Re: 快慶仏の手相の話

むろさん様

快慶展サイトの快慶仏講座は、HPの展示会案内でもご紹介したのですが、なかなか面白いですね
展覧会サイトで、こんな企画が掲載されるのは初めてで、愉しく見ています

今度の快慶展は、もうこれだけ一堂に集めるのは無理じゃないかと思う程で、すごい充実ぶりですね
今年一番の愉しみです

管理人

  • 2017/03/20(月) 15:57:51 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

NHK番組でも

23日の夜10時から「阿修羅1300年の新事実」でとりあげられるそうです。見逃したくないですね。
http://www4.nhk.or.jp/P4360/

Re: NHK番組でも

藤鎌天平様

NHK「阿修羅1300年の新事実」のTV放送は、私もさっき知ったばかりです。(3/23・22:00~)
75分もの、長いドキュメンタリー番組のようで、興味津々です
CTスキャンの研究チームの今津節夫氏、楠井隆志氏が出演するほか、非合掌・持仏捧持説の山岸公基氏も出演予定のようです。
これこそ必見で、どのような放送がされるのか本当に楽しみですね

管理人

  • 2017/03/21(火) 18:50:50 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

手の話で気になっていること

仏像の手の話で気になっていることが2点ほどあります。
ひとつは上の快慶仏の手相でも書いた清凉寺釈迦の運命線のことです。清凉寺釈迦の手については今まで気にしていなかったのですが、岩田氏の説明の中で「中指の先まで運命線が延びている」とのことなので、早速写真で確認しました。また、模刻像の状況も簡単に調べたら、在銘品では目黒の大円寺像と奈良博(野田吉兵衛旧蔵)像が清凉寺像と同様であり、因幡薬師像と西大寺像は運命線が彫ってありませんでした。基礎資料集成平安時代造像銘記編1の清凉寺釈迦の項目には「掌面の竪の一筋の線は長く中指に及ぶ」と書かれているだけです。

実在の人間でこのように中指の先まで延びているということはあるのでしょうか?そしてこれは仏像としては何を意味しているのでしょうか? 奥健夫著 日本の美術513「清凉寺釈迦如来像」(至文堂2009)は清凉寺釈迦を詳しく論じた本ですが、この手相のことは何も触れていません。このような彫り方をしていることは当然認識されているはずですが、何も書いていないのは、その意味についての回答を持ち合わせていないためかと思っています。

もう1点の疑問は唐招提寺金堂の本尊盧舎那仏と薬師如来立像の手に埋められていた珠玉と貨幣のことです。(盧舎那仏の珠玉についてはこの前の記事で書かれていた「唐招提寺 美術史研究のあゆみ」で初めて知りました。P141、X線調査結果) 手にこういった品を埋め込むことがどのような意味なのか知りたいと思っています。なお、上記奥健夫著「清凉寺釈迦如来像」を読み返したら、P47~48に唐招提寺の2像のことを取り上げて、「これらの光を放つ品が像に仏としての霊力をそなえさせるはたらきをもっていることを示している」とありました。もう少し明確な答えが欲しいところです。

以上2点につきまして何かご存知でしたら、また、これらを取り上げている文献資料などをご存知でしたらご教示ください。

Re: 手の話で気になっていること

むろさん様

清凉寺釈迦の手相、運命線に関することは、むろさんとご同様に岩田氏のNET快慶講座で初めて知りました。
私も、これ以上の知識は全くありません

唐招提寺の廬舎那仏、薬師像の手のなかの納入物の話は、いずれこの「仏像の手の話」で採り上げてみようかと思っているのですが、手にものを埋め込む意味については、私も詳しく知りませんので、いずれ採り上げるまでに少しわかれば調べてみようかという処です。
奥健夫氏は「保存修理による新知見」(月刊文化財2009/11唐招提寺金堂修理特集)」で
「本像のこれらの工作(瞳に半円板を入れていることと、両手の掌に珠を埋め込んでいること)は、像が眼からの放光や摩頂のような「好相」を示すことを期待してのことも想像され、それが梵網菩薩戒の本尊としての廬舎那仏像の性格と関わってくるとすれば興味深い。」
と述べられていますが、これは主として瞳についての話のようにも思えます
それ以上のことは、よく判りません。
ご了解ください

管理人

  • 2017/03/25(土) 18:02:00 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

Re: 手の話で気になっていること

どうもありがとうございます。
月刊文化財は近いうちに確認してみます。
清凉寺釈迦の手相の件は、原像に近い模作だからといって必ずしも運命線を長く刻んでいるのではないようです。(野田吉兵衛旧蔵像は原像から遠いのに長い運命線を刻んでいる。三室戸寺像は原像に近いのに写真で見る限り刻んでいないように見えます。)
この件はもう少し調べてみます。

運命線手相

手相に縦の中指からの運命線を刻んでいるのは、清凉寺釈迦が手本というけれど、
室生寺釈迦坐像のほうが・・・

室生寺釈迦坐像の運命線

藤鎌天平様
室生寺釈迦坐像の運命線の件、お知らせいただきありがとうございます。早速大和古寺大観6室生寺で確認しました。写真を見ると右手では中指の第3関節と第2関節の中間より少し上ぐらいまでしか運命線は彫られていません。左手の平はよく見えないのですが、右手と同じ彫りのようです。(なお第1、第2は指の先からの順番です。)つまり室生寺釈迦では中指全体の長さの3分の1よりも短い長さしか運命線は彫られていません。やはり中指の先まで運命線が延びている清凉寺釈迦の特異性が際立つようです。また、大和古寺大観の室生寺釈迦解説(井上正)でも手相のことは何も述べられていませんでした。仏像でこのぐらいの長さの運命線は珍しくないということでしょうか。
清凉寺釈迦が日本にもたらされた10世紀末以前の作で、室生寺釈迦の他に運命線を刻んでいる仏像があるようでしたら教えてください。

運命線

運命線があるのはやはり珍しいのでしょうか、私が知ってる古いほかの例は慈尊院の弥勒ぐらいです。
写真ではかすかに確認できますが、ご開帳では双眼鏡で必死に見つめましたが分かりませんでした。

慈尊院弥勒仏の運命線

基礎資料集成平安時代造像銘記編1を確認しました。解説編P27に「右手は掌面の竪の一筋線が長く中指に及ぶ。」とあります。(執筆西川新次)左手のことは書かれていないので、これは左手には「竪の一筋線」はないということかと思います。図版編P24の正面写真を見ると確かに右手には運命線が彫られているが、左手にはないようです。小学館日本美術全集第4巻平安時代1のカラー写真を見ると、右手中指の第3関節の少し下まで(中指全体の真ん中より少し上まで)運命線が見えます。左手には竪線は見えません。両手先とも当初のものですから、片手だけに彫られているということもあるのですね。そして中指の先まで運命線が延びている清凉寺釈迦は特殊な像だということをますます強く感じました。
(2年前の慈尊院弥勒仏ご開帳ですが、葬儀等諸般の事情が重なり、残念ながら行けませんでした。)

唐招提寺金堂盧舎那仏

月刊文化財2009/11唐招提寺金堂修理特集を確認しました。また、これと同時期に奥健夫氏が書かれた唐招提寺金堂盧舎那仏の眼と手の玉についての別の本がありました。朝日新聞社の「国宝の美」第13号(2009.11)で、内容は大体同じですが、梵網経に述べられている好相としての摩頂について、もう少し詳しく、そして分かりやすく説明されています。

Re: 唐招提寺金堂盧舎那仏

むろさん様

唐招提寺・盧舎那仏の手に埋められた「珠」の話は、ちょっと気になったので、図書館で、「唐招提寺金堂・盧舎那仏像、千手観音像、薬師如来像修理報告書」(2000.03)を見て見ましたら、
「唐招提寺廬舎那像・修理で発見した新事実」という章に、
「エックス線撮影では、両手の掌に珠がそれぞれ大小二箇ずつ埋込まれていることも判明した・・・・・・・・・・
類例としては金堂薬師如来像の左掌に隆平永宝・万年通宝・和銅開称が埋込まれているのが昭和四十七年修理時に発見され、また本寺の木心乾漆菩薩像二躯の両掌および胸中央に瑠璃玉(やはり数珠玉)が埋込まれているが、他寺院の仏像では例が知られない。」
と、述べられていました。

木心乾漆菩薩像二躯とは、どの像をさすのか、六大寺大観を見てみた処、
「菩薩立像・伝観音菩薩立像~木心乾漆・185.2㎝」の解説に、
「なお、珍しい手法として、胸飾垂飾のわずか下方に小孔があり、奥深く瑠璃一粒が納められている。
後世の納置とは考えられないので、おそらく乾漆盛上げの際にある意図をもって、納められたものであろう。」
と記されていました。
もう1躯の両掌に収められた像というのは、どの像のことをさすのか、判りませんでした。

いずれにせよ、唐招提寺像にこうした「珠」の埋め込みがみられることは、どのような意図があったのか、興味深いところですね

管理人

  • 2017/04/17(月) 22:09:08 |
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  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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