観仏日々帖

古仏探訪~「山科区御陵平林町・安祥寺の十一面観音像」京のかくれ仏探訪⑧   【2016.09.23】


今回は、山科にある安祥寺の本尊、十一面観音立像をご紹介したいと思います。

安祥寺・十一面観音像(大遣唐使展図録掲載)

安祥寺・十一面観音像(大遣唐使展図録掲載)
安祥寺・十一面観音像



【知られざる奈良時代に遡る一木彫像~安祥寺・十一面観音像】


この十一面観音像は、近年、その存在が注目された仏像です。
ご覧のとおり、堂々たる、大変出来の良い一木彫像です。
そして、なんと奈良時代の制作に遡る古像ではないかとみられているのです。

この安祥寺・十一面観音像、2010年春に、奈良国立博物館で開催された「大遣唐使展」に出展されました。

大遣唐使展ポスター

この時が、本像が、一般の人の目に触れた初めての機会であったと思います。

「知られざる、奈良時代の一木彫像の出展」

ということで、愛好者の間では大きな話題となりました。
ご覧の写真は、大遣唐使展の図録に掲載された写真です。

実は、私はこの「大遣唐使展」に出かけることが出来ず、注目の奈良時代の一木彫像を見逃してしまったのでした。
それ以来、何とか一度は拝したいものと、念願していました。

安祥寺は非公開寺院で、お寺の境内にも立ち入ることが出来ません。
そんなことで、十一面観音像の拝観も無理なのであろうと思っていたのですが、今春に拝観することが叶いました。
そこで、この「京のかくれ仏探訪」で、ご紹介させていただきたいと思います。



【安祥寺と云えば、重文・五智如来像~9世紀、入唐僧・恵雲の開山】


ところで、ここで採り上げる「安祥寺」というのは、「平安前期の五智如来像で知られる、あの安祥寺」のことです。
ご紹介の本尊の十一面観音立像については、近年まで、知られていなかったというか、注目されることは無かったのでした。


十一面観音像の話に入る前に、安祥寺とゆかりの仏像について、ちょっと振り返ってみたいと思います。

ご存じのとおり、安祥寺は、嘉祥元(848)年、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子(809-871)の発願により、入唐僧・恵運(798-869)が開山した真言系の密教寺院です。
山科の地に建立され、山上伽藍=上寺と山下伽藍=下寺があり、大伽藍の定額寺として、大いに繁栄しました。

都名所図会の安祥寺伽藍
都名所図会(江戸後期)の安祥寺伽藍図

著名な五智如来像は、開山・恵運による造像で、いわゆる承和様式に連なる850年代の制作とされています。
中尊・大日像が像高161㎝という大きな像で、重要文化財に指定されています。
五智如来像は、京都国立博物館に寄託されており、平常陳列に5躯揃って長らく展示されていましたので、皆さん、何度もご覧になっていることと思います。
(現在、平成知新館の平常陳列には、展示されていません。)

安祥寺・五智如来像

安祥寺・五智如来像中尊~大日如来像
安祥寺・五智如来像~(下)中尊・大日如来像

もう一つ、安祥寺ゆかりの仏像といえば、現在、東寺・観智院に祀られる五大虚空蔵菩薩像(重文)です。
この五大虚空蔵像は、入唐していた恵運が、承和14年(847)に帰朝した際に、唐より将来し安祥寺に安置されていました。
後に東寺の観智院に移されたものです。

東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像~金剛虚空蔵菩薩像
東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像~(右)金剛虚空蔵菩薩像


平安時代前期には大いに繁栄した安祥寺も、平安末期以降衰退し、上寺は中世には廃絶したようです。
下寺の方は、応仁の乱で焼失したと伝えられ、現在では、江戸時代に復興した堂舎が残されています。



【山科、琵琶湖疎水べりに、ひっそりたたずむ安祥寺】


安祥寺をお訪ねしたのは、今年(2016年)の4月でした。

安祥寺は、山科区御陵平林町、JR山科駅から北へ1キロほどのところにあります。
駅から北に10分ほど歩くと、閑静な住宅の傍を琵琶湖疎水が流れています。

山科付近の琵琶湖疎水
山科付近の琵琶湖疎水風景

明治年間に、琵琶湖から京都市内まで人工的に水をひくという一大プロジェクトによって建設された、あの琵琶湖疎水です。
疎水は、この山科から、皆さんご存知の蹴上インクライン、南禅寺水路橋・水路閣へと続いていくのです。

山科疎水は、遊歩道が整備され、緑あふれ心安らぐ散歩道になっています。
桜は散ってしまいましたが、新緑の木々と疎水の流れを眺めていると、本当に和やかな気持ちになります。

めざす安祥寺は、この山科疎水べりに、ひっそりと在りました。

琵琶湖疎水べりにある安祥寺
山科・琵琶湖疎水べりにある安祥寺

疎水に面したところにある表門は、しっかりと閉じられています。
インターフォンを押すと、ご住職がお見えになり、本堂にご案内いただきました。

安祥寺表門
安祥寺・表門

実は、安祥寺の十一面観音像を是非とも拝させていただきたい旨のお願いの書状を差し上げ、ご連絡した処、非公開にされているそうですが、特別に拝観のご了解を頂戴したのでした。

ご住職に、ご挨拶方々、本日の拝観の御礼を申し上げると、ご住職自身も80歳過ぎのご高齢の故、一般の訪問への対応は大変なので、原則非公開にして拝観も謝絶されているというお話でした。

表門をくぐって参道を北に上がると、森に囲まれた丘陵の裾に、江戸時代に再興されたという本堂、本堂手前東方に地蔵堂、大師堂が並んでいました。
念願の十一面観音像は、本堂に祀られています。

安祥寺・本堂

安祥寺・地蔵堂
安祥寺・本堂(上)、地蔵堂(下)


【伸びやかで均整のとれた腰高プロポーションに、目を奪われる】


本堂内には、須弥壇上に大きく広いお厨子があり、その中に十一面観音像が安置されていました。

本堂須弥壇上の厨子に祀られる十一面観音像
本堂須弥壇上の厨子に祀られる十一面観音像

見上げるほどに長身で、すくっと立つ凛とした姿に、目を奪われます。
像高252㎝、半丈六立像の一木彫です。

安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

「天平彫刻を観ているようだ」

一見して、そのように感じました。
それも、キリリと締りがあるプロポーションです。
堂々たる巨像なのですが、腰高で均整がとれたシルエットで、いわゆる八頭身なのが印象的です。

安祥寺・十一面観音像.安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

平安初期像のような肥満したとか、デフォルメしたようなところは、全くみられません。
身体のバランスが見事にとれた造形表現です。
「しなやか、伸びやか、おおらか」
この十一面観音像には、こんなキーワードが、似つかわしいように感じます。

安祥寺・十一面観音像

安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

胸の張り、ウエストのくびれ、腰回りのふくらみなどは、天平彫刻の造形感覚を思わせるものを強く感じます。
「奈良時代の制作に遡る一木彫像」
とみられるというのは、全くその通りだなと思いました。
それも、中央作の像といってよいのでしょう。



【黒光りする観音像~当初は、乾漆併用の像だった】


厨子内のライトをつけていただいたせいもあるのでしょうか。
黒く漆で地固めされた像の表面が、照り返すように光って、金銅仏のような硬質感を感じます。
現在は、漆で黒光りしているのですが、もともとはそうではなかったようです。

十一面観音像の足先残欠(乾漆が盛られている)
十一面観音像の足先残欠(乾漆が盛られている)
調査によると、面部や上半身には後世の黒漆塗りの下に、布貼り、木屎漆の層があり、いわゆる乾漆併用像であったということです。
お寺には、観音像の当初の足先部分(現在の両足先は後補)の残欠が残されており、そこには乾漆が全体的に薄く盛上げられていることからも、乾漆併用像であったことがわかるのです。

そうすると制作当時は、今のような硬質な感じではなくて、東寺講堂諸像や、観心寺如意輪観音像、神護寺五大虚空蔵像のような、木屎漆のモデリングによるソフトでふくらみがあるような印象を感じる像であったのでしょう。



【奈良時代に遡る、数少ない一木彫像の例との解説】


この十一面観音像は、一木彫像には珍しい奈良時代の制作に遡るとみられていますが、ちょっと専門家の見方、解説をみてみたいと思います。

安祥寺彫刻調査により、本像に注目、再評価した根立研介氏は、このように述べています。

「改めてこの像を見ると、伸びやかな身體を持ち、肉身の抑揚も自然で、先にも触れたようにその造形には奈良時代の古佛に通じる古様さが認められる。

面貌に関しても、子細に見れば眼嵩縁を半円形に明瞭に表す点は、奈良時代頃の佛像にしばしば認められるもので、さらにV字形の下瞼を持ち目尻が上るところなどは、奈良時代後半期に制作された京都・高山寺伝来(東京藝術大學所蔵)の木心乾漆造月光菩薩像の顔立ちに近いところがある。
また、肩を張り、胴部を絞った腰高の造形は、奈良時代後期の奈良金剛山寺十一面観音立像や法隆寺観音菩薩立像の造形などにも相通じるところがある。

カヤ材を用いた乾漆併用の一木造りという造像技法も併せ考慮すれば、この安祥寺の十一面観音像の制作年代は奈良時代後期に遡る可能性が十分考えられよう。」
(「安祥寺十一面観音立像」根立研介・国華1355号2008.09)

東京芸大蔵・月光菩薩像(高山寺伝来)安祥寺・十一面観音像顔部
(左)東京芸大蔵・月光菩薩像(高山寺伝来)、(右)安祥寺・十一面観音像

大遣唐使展図録の解説は、次のとおりです。

「頭部を小さく、腰の位置を高くとった姿は均整がとれ、的確な肉取りによって、のびやかで、かつ、しなやかな姿態表現があらわされている。
このような品格高い彫刻表現を生み出す背景には、遣唐使らがもたらした盛唐前期(8世紀前半)の彫刻様式の影響が考えられる。

つまり本像には、奈良彫刻の正統派の造形感覚が感じられるのである。」
(「大遣唐使展図録」鈴木喜博氏解説2010.4)

金剛山寺・十一面観音像.法隆寺・観音菩薩立像
(左)金剛山寺・十一面観音像、(右)法隆寺・観音菩薩立像

薬師寺・十一面観音像.圓満寺(和歌山)・十一面観音像
(左)薬師寺・十一面観音像、(右)圓満寺(和歌山)・十一面観音像

ついでにもう一つ、本像が2011年に重要文化財に指定された時の解説には、このように記されています。

「その腰高の像容は、奈良・薬師寺十一面観音像(重要文化財)、和歌山・圓満寺十一面観音像(重要文化財)、奈良・金剛山寺十一面観音像(重要文化財)等に通じ、裾背面の左右に縦に並べ刻まれた茶杓形衣文は圓満寺像、金剛山寺像や唐招提寺木彫群のうち、伝衆宝王菩薩像(重要文化財)、奈良・大安寺伝楊柳観音像(重要文化財)等と同様である。
また、胸飾の列弁を二段に重ねる意匠は唐招提寺伝獅子吼菩薩像(重要文化財)の天冠台にみられるものである。
金剛山寺像とは両脚の間の衣文および衣縁の形も類似している。

このように本像の作風には奈良時代風が濃厚に認められ、いわゆる翻波式衣文を表さないことからしても、その末期までには造られていたと思われる。」
(月刊文化財573号「新指定重要文化財の解説」2011.6)

金剛山寺・十一面観音像~背面安祥寺。十一面観音像~背面
(左)金剛山寺・十一面観音像~背面、(右)安祥寺・十一面観音像~背面

唐招提寺・伝獅子吼菩薩像~列弁天冠台安祥寺・十一面観音像~列弁胸飾
(左)唐招提寺・伝獅子吼菩薩像~列弁天冠台、(右)安祥寺・十一面観音像~列弁胸飾

金剛山寺・十一面観音像~脚部衣文安祥寺・十一面観音像~脚部衣文
(左)金剛山寺・十一面観音像~脚部衣文、(右)安祥寺・十一面観音像~脚部衣文

いずれの解説も、奈良時代にまで遡る像とされています。



【注目される、古典的な奈良風造形感覚一木彫像の世界】


一昔前には、奈良時代は乾漆と塑像の時代で、平安初期に至って一木彫の時代になると、一般に考えられていました。
奈良時代に遡る一木彫像は、唐招提寺の木彫群、大安寺の木彫群、薬師寺十一面観音像ぐらいとされていたのかと思います。
近年は、新薬師寺・薬師如来像をはじめとして、奈良時代に遡るものも、それなりにあるのではないかと云われるようになりました。

また、此処に名前が挙げられている、金剛山寺・十一面観音立像、法隆寺・観音菩薩立像、圓満寺・十一面観音立像なども、昔は、平安時代の制作とみられていたのではないかと思います。
ところが、近年では、これらの像も、奈良時代の制作とみられるようになってきたようです。

いわゆる、平安初期の典型と云われる肥満、デフォルメ、森厳といった造形とは別の系統の、古典的な奈良風の造形感覚を継承した一木彫像のタイプという、新たな視点で考えられるようになってきたようです。

「奈良時代に遡る、奈良風一木彫像の世界」

とでも呼んでみるのでしょうか?
ご紹介した安祥寺の十一面観音像も、金剛山寺像、法隆寺像、圓満像などと同様に、奈良風の造形感覚を継承した一木彫像といってよいのでしょう。
安祥寺像は、それらの中でも、傑出した優作の巨像として、大いに注目される像だと思います。



【大きく湾曲したカヤ材から彫り出された観音像~霊木像か?】


ところで、この十一面観音像の材質や構造はどうでしょうか?

カヤ材の一木彫像で、背面から内刳りがされています。
注目されるのは、円弧状にかなり湾曲した材を使い、材内部にはウロ状の空洞が広がっているとみられることです。

根立研介氏は、このことについて、

頭部がかなり前傾している安祥寺・十一面観音像
頭部がかなり前傾している
安祥寺・十一面観音像
「木心は、地髪部頂き付近と裙裾付近ではほぼ中央に位置しているものの、上背部辺でいったん像から外れ、腰下付近で再び像内に入り込むように後方に大きく弧を描いていることが判明した。
頭部の前傾の角度がかなり大きくなつたのも、こうした木心の性質に影響されたところもあろう。

それにしても、これだけの巨像の用材に、これほど湾曲した木心を持つものが使用されていたことには驚かされる。
・・・・・・・・
この像は木心が大きく湾曲し、さらに一部ウロ状の空洞が広がっているカヤの木を敢えて用材としたと思われ、霊木などといつた特殊な要因に基づいて用材の選択が行われた可能性がある。」
(「安祥寺十一面観音立像」国華1355号2008.09)

と、カヤ材の霊木を以て造像した可能性に言及しています。

この観音像を拝していると、頭部を不自然なほどに大きく前に傾けているようにみえます。
頚から上は付け替えられたのではないだろうか思うほどの傾きで、一見違和感があったのですが、湾曲した霊木を使用した故の前傾と云われると、なるほどと納得しました。



【十一面観音像の当初安置寺院は?~近接の山階寺か】


さて、十一面観音像が奈良時代の制作ということになると、平安時代創建の安祥寺に於いて造像されたということは、あり得ないこととなってしまいます。
冒頭にふれたように、安祥寺は、平安時代、嘉祥元年(848)の発願で、恵運が開山した真言密教寺院なのです。
貞観9年(867)勘録の「安祥寺資財帳」にも、本像に該当する記載はありません。
また、十一面観音像の当初安置寺院について示唆する記録や伝承も、全く残されていないようです。

何処の寺から、安祥寺に移されたのでしょうか?
山階寺址推定地・石碑
山階寺址推定地・石碑

これだけの正統派の優作巨像ですから、それなりの大寺院に祀られていたに違いありません。
根立研介氏は、同じ山科の地にあった「山階寺」に安置されていた可能性に言及しています。

山階寺(やましなでら)というのは、奈良・興福寺の起源とみなされている寺で、現在の安祥寺の寺域を西端に含む安祥寺下寺の近接地にありました。
山階寺の伽藍配置や規模も、明らかにはなっていませんが、

「山階寺は、この像の当初の安置寺院の候補地として、なかなか魅力的に思えてくる。」

と、根立氏は述べています。



【近年の安祥寺総合調査で、発見・再評価された十一面観音像~奈良時代の制作と判明】


話が後先になってしまいましたが、この安祥寺の十一面観音像が、奈良時代に遡る一木彫像として注目されることになったいきさつについて、ふれておきたいと思います。

安祥寺・十一面観音像の調査が行われることになったのは、京都大学の「王権とモニュメント」と題する研究会で、安祥寺の調査研究がテーマとなったことによるものでした。
この研究会では、2002年から数年間にわたり多方面の分野からの総合研究が行われ、その成果として、
「安祥寺の研究Ⅰ・Ⅱ」(2004・2006)
「皇太后の山寺 ~山科安祥寺の創建と古代山林寺院」(上原真人編・柳原出版2007.3刊)
が、出版されました。

仏像については、2005~7年度に、根立研介氏等によって調査が実施されました。
この時調査された仏像は、本堂安置の十一面観音像、四天王像、地蔵堂の地蔵菩薩像などでした。
目視調査に加えて、X線撮影調査、樹種同定調査などが実施された結果、十一面観音像は奈良時代に遡る一木彫像であること、四天王像は平安前期の制作とみられることが明らかになったのでした。

安祥寺にこれらの諸像が存在することについては、以前から知られていたようです。
明治期には臨時宝物取調局が、第二次世界大戦中には京都府社寺課が調査を行うなど、一部の文化財関係者は、その存在を把握していたとのことです。
ただ、保存状態の問題もあってか、その後詳細な調査が実施されることは無く、その価値が見過ごされてきたということでした。

修復修理される前の安祥寺・十一面観音像

修復修理される前の安祥寺・十一面観音像~顔部
保存修理される前の安祥寺・十一面観音像

そういう意味では、根立氏の調査により、「奈良時代一木彫像の優作の新発見」がなされたといっても良いのかもしれません。
2005年11月には、「安祥寺の十一面観音像が奈良時代の制作と判明」との新聞報道がなされたりしました。
2007年に美術院国宝修理所に於いて、十一面観音像の保存修理が行われた後、2010年には、奈良博での「大遣唐使展」に出展され、世の注目を浴びました。

そして、2011年に、国の重要文化財に新指定となったのでした。



【本堂内に祀られる四天王像も、平安前期の制作】


ついでに、平安前期と云われる四天王像についても、ちょっとだけご紹介しておきたいと思います。
四天王像は、十一面観音像が祀られる厨子の外側に安置されています。

安祥寺本堂内厨子の両脇に安置される四天王像
安祥寺本堂内厨子の両脇に安置される四天王像

これらの像は、2000~3年になされた修理で、全面古色仕上げと、眼、口、髪などに彩色仕上げがされています。
ちょっと厚塗りの仕上げ、彩色なので、鑑賞しにくいのですが、平安前期に遡る像であるとのことです。
像高150~60センチ程度の四天王像で、なかなかユニークな姿態をしています。

安祥寺・四天王像~東2像
安祥寺・四天王像~東2像

安祥寺・四天王像~東1像安祥寺・四天王像~西1像
安祥寺・四天王像~(左)東1像、(右)西1像

1躯(西2像)は、江戸時代に補われた像なのですが、残りの3躯は、平安期の古像で、トチノキとみられる一木彫です。

根立氏は、2躯(西1・東2像)は、怪異な容貌を示しており、
「10世紀第一四半期頃の作とみられる醍醐寺霊宝館五大明王像(中院伝来)の作風にきわめて近く、製作の時期もほぼこの頃かと思われる。」
(「安祥寺所在の彫刻」根立研介・安祥寺の研究Ⅱ所収2006)
と述べています。

醍醐寺中院伝来・不動明王像醍醐寺中院伝来・軍荼利明王像
(左)醍醐寺中院伝来・不動明王像、(右)軍荼利明王像

本堂で拝していると、十一面観音像の堂々たる姿に目を奪われてしまい、ちょっと厚塗りの四天王像の方になかなか目がいかず、あまり印象に残っていないというのが私の率直な感想です。


十一面観音像の見事さに見惚れて、なかなか立ち去り難かったのですが、あまりの長時間はご住職にもご迷惑かと、後ろ髪をひかれつつ、本堂を辞しました。



【多宝塔は明治年間に焼失~京博寄託で難を逃れた五智如来像】


その後、本堂の北東の方に上ったところにある多宝塔の址をご案内いただきました。
今は、基壇、礎石が残されているだけです。

安祥寺・多宝塔址~基壇

安祥寺・多宝塔址~礎石
安祥寺・多宝塔址~(上)基壇、(右)礎石

この多宝塔に、あの五智如来像が祀られていたのです。
ご住職のお話によると、多宝塔は明治39年(1906)に火災にあい焼失してしまったのだそうです。
幸いというのか、五智如来像は火災以前に、当寺の京都帝室博物館に寄託されており、難を逃れたのだということでした。
あの京博の平常展でおなじみだった安祥寺・五智如来像は、明治年間から博物館に預けられていたのでした。



拝観をお許しいただいた上に、ご高齢にもかかわらず丁寧にご案内いただいたご住職に、心より感謝しつつ、山科・安祥寺を後にしました。

まっすぐ駅に向かうのが、何やら名残惜しく、新緑にかこまれた山科疎水べりをブラリとしながら

「天平彫刻のような、一木彫の優作巨像」

を拝した余韻にしばらく浸った、安祥寺・十一面観音像の観仏となりました。


コメント

目の付け所

安祥寺・十一面観音像は大遣唐使展で見ました。
黒光する漆と暗めの照明で、お顔がよく見えなかったのですが、なるほど、確かに高山寺伝来の月光菩薩と似ています。
また、年代判定に背面の衣紋まで着目するのは面白いと思いました。

法隆寺・観音菩薩立像他は、平安時代と見られていたのですね。奈良時代の木彫仏はほぼないだろうという先入観があったのでしょうか。
確かに、一見しただけでは平安時代(中期頃?)の像と見分けがつきにくいです。

  • 2016/10/08(土) 10:19:20 |
  • URL |
  • とら #VBkRmpN2
  • [ 編集 ]

Re: 目の付け所

とら様

コメントありがとうございます
おっしゃるように、以前は「奈良時代の木彫像」というのは、原則的にないのだろうという考えが強かったのであろうと思います。

近年、いわゆる平安初期特有といわれる造型の仏像ではなくて、伝統亭奈良様タイプの木彫像が、制作時期も奈良時代の遡るのではないかというように考えられるようになってきたのかなと思います。
法隆寺・観音菩薩立像などを奈良時代とみるか、奈良様を継承した平安中期頃とみるのかは、なかなか難しい処なのかなと思います

管理人

  • 2016/10/11(火) 20:25:40 |
  • URL |
  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

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