観仏日々帖

トピックス~飛鳥寺シンポジウム行ってきました


9月21日、早稲田大学奈良美術研究所主催の「飛鳥寺」をテーマとしたシンポジウムが開催されました。
国際シンポジウム「文化財の解析と保存への新しいアプローチⅨ・飛鳥寺特集」と題されています。
プログラムを見ると、興味深い講演テーマが並んでいましたので、聴きに行ってきました。

飛鳥寺シンポジウム......挨拶する大橋一章氏
飛鳥寺シンポジウム                        挨拶する大橋一章氏


シンポジウムの講演の中で、興味深く注目の話は、二つの話でした。

一つは、
「飛鳥寺の一塔三金堂の伽藍配置の源流は、高句麗ではなく百済とみるべきである。」
という話です。

二つ目は、
「飛鳥大仏は、そのほとんどが後補といわれているが、大部分は飛鳥時代当初のものを残していると考えられる。」
という話です。

飛鳥寺伽藍想定図....飛鳥大仏
飛鳥寺伽藍想定図                        飛鳥大仏


二つ目の話は、「本当にびっくり!!」です。
これまでの常識を根本的に覆す驚きの主張で、私も、まさかこんな話が聞けるなどとは予想だにしていませんでした。

この二つの誠に興味深い話を、ここでご紹介したいと思います。

シンポジウムのプログラムは、ご覧のとおりです。

シンポジウム・プログラム


まずは、李炳鎬氏の「百済寺院からみた飛鳥寺三金堂の源流」についての話です。

李炳鎬氏の講演内容に入る前に、飛鳥寺伽藍配置のこれまでの研究について、簡単におさらいをしておこうかと思います。

皆さんご存知のように、飛鳥寺は日本最古の本格的寺院で、その伽藍配置は一塔三金堂式です。
我が国では、類例のみられない伽藍配置です。
この伽藍配置であることが判明したのは、昭和31~32年(1956~57)に、奈良国立文化財研究所が坪井清足氏を中心に実施した発掘調査の時です。
それまでは、飛鳥寺は金堂・塔・中門が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置と考えられていましたから、驚きの大発見でした。

そして、即座に想起されたのは、昭和13年に小泉顕氏が発掘した、朝鮮・平壌市にある清岩里廃寺の伽藍配置でした。
塔が八角か方形かの違いはありますが、三方に堂(中金堂・東金堂・西金堂)を配する一塔三金堂式であったからです。
平壌市は、高句麗のあった故地にあたります。

飛鳥寺伽藍配置図.......清岩里廃寺伽藍配置図
飛鳥寺伽藍配置図                        清岩里廃寺伽藍配置図


そして、この発見は、
「中国北朝(北魏・東魏)⇒朝鮮半島(高句麗→百済)⇒日本」
という文化伝播ルートを、すぐさま想起させることとなりました。
飛鳥仏の源流といわれる龍門賓陽洞本尊
従来から、止利様式といわれる飛鳥時代仏像様式は、中国・北魏の仏像様式の伝播したものとの考え方が主流でした。
その止利様式の丈六金銅仏が、飛鳥寺に遺されています。
飛鳥寺伽藍配置が、高句麗の地の平壌・清岩里廃寺の伽藍配置と同様であることが発見されたことは、北魏文化が高句麗を経て半島経由日本に伝播したという考え方を、実証し裏付けるものとされたのでした。

(右の写真は、飛鳥仏の源流といわれている「龍門賓陽洞本尊」の写真です。)

一方、
「中国南朝(梁)⇒朝鮮半島(百済)⇒日本」
という文化伝播ルートが、中国文化伝播の重要ルートであったことは文献上からも知られており、仏像では非止利様式といわれる仏像がこの文化伝播ルートでもたらされたという考えも有力でした。

こうしたなかで、吉村怜氏が、
「中国・北魏様式の仏像は、北魏で独自に造られたものではなく、南朝・梁の様式が北方に伝播したものであり、中国仏像様式の日本への伝播は、北魏様式といわれているものを含め、すべて『中国南朝(梁)⇒百済⇒日本』という単一ルートが主流となったものである。」
という新たなる説を発表しました。

それ以来、様々な研究が進展し、この吉村説を支持する考え方が多くなって来ました。
最近では、飛鳥時代の仏像様式の伝播ルートは
「中国北朝・北魏からではなく、南朝・梁から文化流入したものである」
という考え方が、主流になってくるようになってきました。

そうすると、飛鳥寺の一塔三金堂の伽藍配置は、本当に、高句麗からの文化伝播によるものなのだろうか?
平壌・清岩里廃寺のような伽藍配置は、高句麗の地にしか見られなかったのであろうか?
百済の地には、このような伽藍配置の寺院遺構は、存在しないのだろうか?
こんなことが、疑問になり、問題提起されることになってくるのです。


そして、その疑問に答えようとするのが、今回の李炳鎬氏の講演内容ということになるのです。
演題も、まさに「百済寺院からみた飛鳥寺三金堂の源流」です。

李氏の発表は、「飛鳥寺一塔三金堂伽藍配置は、百済文化の影響を受け成立したものと考えられる」というもので、ポイントは次のようなものです。

①近年の発掘調査の成果をふまえると、百済では、当時、多院式伽藍配置の寺院が存在しており、現在判明している遺構では三院並列式が遺されている

②その遺例は、扶余・軍守里廃寺址伽藍配置や、近年発掘された扶余・王興寺址伽藍配置、さらには益山弥勒寺址伽藍配置にみることができる。

③この、百済の三院並列型が、並列三金堂に変化したのが慶州皇龍寺址伽藍配置、品字型三金堂に変化したのが飛鳥寺伽藍配置と考えられる。

なお、百済の軍守里廃寺は6世紀中後半の建立、王興寺は577年の建立、益山弥勒寺は7世紀前半の建立、
慶州の皇龍寺は584年以後の建立、我が国・飛鳥寺は600年前後の建立、と考えられています。


扶余・軍守里廃寺と王興寺伽藍配置比較
【スライド】扶余・軍守里廃寺と王興寺伽藍配置比較


軍守里廃寺、王興寺と益山弥勒寺址伽藍配置比較
【スライド】軍守里廃寺、王興寺と益山弥勒寺址伽藍配置比較


王興寺址、皇龍寺址、飛鳥寺伽藍配置比較
【スライド】王興寺址、皇龍寺址、飛鳥寺伽藍配置比較


また、飛鳥寺の造営集団について、李氏から、このような考えの説明がありました。

*飛鳥寺の造営にあたっては、百済からプロジェクトチームのような技術者集団が派遣され、造営計画は、当初からこの百済の技術者集団によって立案、実行されたとみるべきである。

*百済がこうした技術者集団を派遣したのは、6世紀後半の新羅の浮上と隋の登場といった情勢下、日本に対する外交的な影響力や主導権を、より積極的に行使するためであったと考えられる。

以上のとおりです。

一言でいえば、

飛鳥寺の造営は、百済からの文化伝播、百済の技術導入によりなされたもので、
朝鮮半島から日本への文化伝播ルートは「百済」からという、近年の考え方を実証するものと考えられる。

というものです。

「なるほど、そうだろうなあ。」「やっぱり、納得」というのが、私の実感です。
この日の発表内容が、これまで知られていなかったり、考えられていなかったことなのか、そのような主旨の発表や研究が、すでにいくつかされているのかは、私にはわかりませんが、
飛鳥時代の文化流入ルートが、「中国南朝⇒百済⇒日本」であるという考え方が、ますます実証され、強固になりつつあるのかな、という実感がいたしました。



さて、次には、「突然びっくり!」の、飛鳥大仏の調査結果の発表の話にはいります。

桜庭裕介氏から「飛鳥寺本尊丈六釈迦如来坐像のX線分析について」
大橋一章氏から「飛鳥寺丈六釈迦像の制作年代について」
と題する発表がありました。

そこで発表された内容は、従来の定説、
「飛鳥大仏は、そのほとんどが後補で、当初の姿をとどめていない」
という定説を、完全に覆すものでありました。

今回のX線分析調査の結果などを踏まえれば、
「現在の飛鳥大仏は、像全体の約80%は、当初の姿をとどめると考えられる」
というものであったのです。

飛鳥大仏
【スライド】飛鳥大仏

もし、これが事実であったとすると、これまで云われていた、
飛鳥大仏は止利仏師が造った日本最初の大型鋳造金銅仏ではあるものの、当初の原形をとどめていないので、飛鳥様式の議論、研究を進める際に、さほど参考にならない。
もしくは、この仏像の形式や造形を踏まえて、飛鳥時代の仏像を論じるのは、慎重にする必要がある。
といった考え方が、大きく否定されてしまうことになります。

さて、これまで、飛鳥大仏の現状と当初部分、後補部分については、どのように説明されていたでしょうか。
飛鳥寺本堂飛鳥大仏は、現在安置されている場所が、飛鳥寺中金堂の位置にあり、当初からの石の台座の上に坐していることから、造立当初の位置から動いていないことが知られています。
また、その姿は、補修の跡や荒れた鋳肌など見るからに痛ましい姿で、火災のため大破損し、大修理を受けたためといわれています。
鎌倉時代、建久7年(1196)に、飛鳥寺は雷火のために全焼し、本尊の釈迦如来(飛鳥大仏)は頭部と手のみ残ったと、「上宮太子拾遺記」に記されています。

こうしたことから、この像について記した諸書には、いずれも、
「本像の飛鳥当初の部分は、頭部の鼻より上と右手のみで、後は後世のもの」
というふうに記されています。

かつて、この像の調査をした久野健氏は、このように記しています。

「本像の調査で深く感じたことは、建久火災で焼けた際、おそらく飛鳥大仏は大破損し、ほとんど断片になったらしいが、その断片を拾い集め、生かせる部分は、細かなところまで生かそうと努めている点である。
例えば、左手のように全部を木彫で造る方がはるかに簡単であったと思われるが、一部残った掌の下半分を生かして使っているところや、先の左足先などからもこのことは想像できる。
こうしたことは、本像の服制なども、かなり忠実に飛鳥当初の形式を復元しているのではないかということを考えさせる。」
(「飛鳥大仏論」美術研究300・301号1976年~日本仏像彫刻史の研究所収)


ここからは、シンポジウムでの研究発表に話に入ります。

X線調査状況早稲田大学奈良美術研究所では、本年(2012)7月に、ポータブルのXRDF装置を用いて、飛鳥大仏のX線調査を実施しました。
主な目的は、当初部分と推定されてきた箇所と、その他の補鋳部分とされてきた箇所とで、元素にどれほどの相違があるかについて調査することであったそうです。
X線調査の有様は、右の写真のような様子です。

桜庭裕介氏の説明による分析結果のデータは、次のとおりでした。

各部の金属組成分析結果

データ分析の結果をまとめれば、

「飛鳥大仏では、当初部分とされていた箇所(①左鼻梁、⑤右手第二指甲)と、補鋳部分とされてきた箇所(②鼻下、③左襟、④左膝上)とで、XRF定量検査に顕著な違いは、認められなかった。」

ということです。

このことは、鋳銅の組成成分から、当初部分と後補部分の区別ができないということで、後補といわれている部分も、当初のものが残っている可能性があるということです。

また、桜庭氏から、次のような説明や、氏の考えの説明がありました。

①組成分析データは、データ誤差が結構出るので、これを信用しすぎるのは危険で、目視による調査もまた重要である。
今回の調査による結論はこの両者を総合したものである。

②鋳造技術という面からみれば、顔と手先だけ当初のものを残した形で、修復鋳造するのは技術的には、大変難しいことだと思われる。
もし鎌倉破損時に修復するとすれば、そのような難度の高いことを行うよりは、全部新たに鋳造という方法を選んだ筈と考えるのだ自然であろう。
したがって破損時も、当初原型部分が相当部分とか、過半残存していたと考えたい。

③体部は。当初から土型鋳造で、削り中型で鋳造されたと思われる。
体部に田形の筋がはっきり残っているのは、土型鋳造の跡である。
頭部と手は、蝋型鋳造であったのではないか。
即ち、土型と蝋型の併用鋳造と考えられる。

④体部のタテヨコの鋳バリの線(筋)が、くっきりと残っている。
鋳バリは鋳浚いをして平滑に仕上げるのが本来ではあるが、造立完了の締め切り期限が迫り、仕上げ時間に制約を受け、鋳バリの筋を残したままになってしまったのではないだろうか。
鋳バリをとる鋳浚いは、古代では大変多難な作業であった。


飛鳥大仏・膝から腰
【スライド】飛鳥大仏・膝から腰


飛鳥大仏・側腰から背
【スライド】飛鳥大仏・側腰から背


飛鳥大仏・面部
【スライド】飛鳥大仏・面部


この説明をまとめたスライドは、次のようなものです。

調査結果の結論
【スライド】調査結果の結論


木による修復部分......塑土による修復部分
【スライド】木による修復部分               【スライド】塑土による修復部分


像造当初部分(白色部分)
【スライド】造像当初部分(白色部分)


さらに大橋一章氏から、この考え方を補強する文献記録についての説明がありました。

飛鳥寺焼失、飛鳥大仏大破損の根拠となっている古記録、「上宮太子拾遺記」「太子伝玉林抄」の解釈の仕方についてです。

「上宮太子拾遺記」には、
建久7年丙辰六月十七日亥時、為雷火令炎上了。寺塔無残。但仏頭與手残。

「太子伝玉林抄」には、
今此繍仏橘寺奉納、鋳仏本元興寺跡于今在之、云々
という記録があります。

この記録について、大橋氏は、このような解釈を提起しています。

①一般には飛鳥寺が、建久7年(1196)に、「寺塔無残」即ち、「寺塔残ルコトナシ」と記されるように全焼し、この時「但仏頭與手残」と、「本尊の頭部と手だけが焼け残った」というふうに読まれている。
これは、本当にそうだったのだろうか?
例えば、頭と手だけは火災の激しい損傷を受けなかった、という読み方も可能ではないだろうか?

②室町時代に法隆寺僧訓海が著わした「太子伝玉林抄」の「鋳仏本元興寺跡于今在之」という記述があるが、「本元興寺跡」即ち「跡」と記されていることは、飛鳥寺には建物がなかったと読める。
また「鋳仏」は残されていたと記されているので、これは、飛鳥大仏が「露座大仏」として残されていたという情景を述べているようにも読める。

③そのように考えれば、飛鳥大仏は火災に遭い破損したが、多くの部分は当初のものが残された。
一時期、長く露座のまま置かれていたが、江戸期に入って覆い屋のお堂が建築されたと考えることもできる。

④こうしたことと、実地調査などを総合判断すると、飛鳥大仏の土や木の補修部分以外の銅造部分が飛鳥時代の製作によるものだとも考えられる。


ちょっと飛鳥大仏についてのシンポジウムの説明が長くなりすぎ、疲れ気味という処ですが、
以上が、今回シンポジウムの、「驚きの発表内容」です。

皆さん、この発表を、どのように感じられたでしょうか?
私は、素人で、難しいことはよくわかりませんが、
これから、色々な意見が出されたり、議論が交わされそうに思います。

議論の中では、例えばこんな意見や反論が出されるかもしれません。

*数か所だけの鋳銅の組成分析結果だけを以って、当初・後補を判断するのは早計ではないだろうか。
また、焼損した金銅仏破片などを、新たな鋳造の時に再利用すれば、鋳銅の組成はあまり変わらない可能性はないだろうか。

*顔と手先だけ当初のものを残した形で、修復鋳造するぐらいなら、すべて鋳造しなおすと考える方が自然ということであるが、
ほんの一部分でも当初像の残存があれば、なんとしてでも、その部分を生かして、仏様を復元しようというのが、信仰の力ではないだろうか。
鋳造だからと言って、簡単にあきらめてしまうものなのだろうか?
困難を乗り越えても当初の仏像部分を鋳継ぐことを試みたのではないだろうか。

*像の表面に残された鋳バリの筋跡は、鋳浚いの時間切れで残されてしまったということは、考えられるのだろうか。
蘇我氏が、その総力を注ぎこんで造立した飛鳥寺の本尊が、鋳浚い未完了の鋳バリの筋を残した姿のままで鍍金され、そのまま長らく安置されるものだろうか。
少々時間がかかっても、開眼後でも、きれいな姿になるまで仕上げたと考えられないか。


シンポジウムが終了して、
朝日新聞記事「さてこの新説、これからどのような議論が始まるのだろうか?」
と思っていましたら、

朝日新聞の記事に、この新説が早速採り上げられました。
新聞記事は、ご覧のとおりです。


もし、飛鳥大仏の大部分が飛鳥当初のものが残されているのだとすれば、現状がいかに痛ましく、荒れた地肌になっているとしても、
飛鳥時代の仏像や止利様式の仏像を論じる前提が、大きく変わっていくことになろうかと思います。

この新説、今後どのように展開していくことになるのでしょうか?
注目していきたいと思っています。

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