観仏日々帖

古仏探訪~「左京区大原上野町・浄楽堂の十一面観音像」京のかくれ仏探訪① 【2016.6.4】



【ご紹介してみたい~私のとっておきの「京のかくれ仏」】


「京のかくれ仏探訪」と題して、あまり知られていない京都の古仏を、いくつかご紹介していきたいと思います。

「この観仏日々帖、これまで、どんな京都の仏像をご紹介してきただろうか?」

ちょっと振り返ってみました。
京都府全域に広げてみると、南山城の仏像とか亀岡市の仏像とか、いろいろご紹介しているのですが、
京都市内に限ってみると、意外に少なくて、ちょっとびっくりです。

北区上賀茂神光院町の神光院・薬師来立像(2012.5.22)

下京区中堂西寺町の勝光寺・聖観音立像(2012.6.22)

神光院・薬師如来立像.勝光寺・聖観音立像
神光院・薬師如来立像(左)  勝光寺・聖観音立像(右)

こ の二つだけでした。

この観仏日々帖では、一般のガイドブック、仏像本にはふれられていないような仏像を採り上げるように心がけています。
京都市内には、沢山の仏像が残されているのですが、私の好きな平安前期・中期の仏像となると、著名な寺院に在るものが多く、あまり知られていない仏像が、少ないからなのかもしれません。

ただ、たった二つだけ採り上げた、京の平安古仏、
ご紹介したときには共に「無指定」だったのですが、その後、平安前期制作の仏像として「京都市指定文化財」に新たに指定されました。
「ご紹介してみた甲斐があった!」
と、心密かに思っている次第です。


そこで、もう少し京都市内の知られざる仏像を、これまでの観仏探訪の中から、ご紹介してみようかと思いました。
「京のかくれ仏」などと、大それた題をつけるほどでもないのですが、

「あまり訪ねる人はいないけれども、心惹かれる仏像、魅力あふれる仏像」

そんな、心に残る仏像をご紹介できればと思います。

京都市内には、大好きな平安前期・中期の仏像がそれほど多くなく、一生懸命、くまなく訪ね歩いたわけではありませんので、私の個人的な思い出の仏像ということで、ご容赦ください。



【その存在を全く知らなかった美仏~浄楽堂・十一面観音像】


第一回目のご紹介は、左京区大原上野町にある、浄楽堂の十一面観音立像です。

私は、この仏像について、長らく、その存在を知りませんでした。
7~8年近く前でしょうか、古本屋でこんな京都の仏像の本を、たまたま見つけました。

「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」 京都市文化財ブックス第3集

という、図録風の冊子本です。

「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」

1988年に、京都市文化観光局文化財保護課の編集発行になっていました。

「まえがき」によると
「ここで取り上げた仏像は、そのほとんどが古くから地域の人々によって守り継がれきたもの、あるいは無住になった寺院に伝わるものであり、地元の人々の生活と密着した身近な文化財と云えるものです。」
ということです。

「地域の人々とともに在る、『京のかくれ仏』選集」といった感じです。

この冊子の、冒頭のカラー写真頁に、ご覧のような写真が掲載されていました。

浄楽堂・十一面観音立像(「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」掲載写真)
「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」に掲載されている浄楽堂・十一面観音像の写真

如何でしょうか?

「オッ!これは凄そう!なかなかの迫力、魅力十分。」

そう感じました。
どう見ても、平安中期ごろまでの仏像に違いないようにみえます。
こんな写真を見せられては、平安古仏好きとしては、見逃すわけにはいきません。

「大原三千院の近くに、こんな古仏がのこされていたのか。」
「いつか、チャンスを見つけて、是非とも拝したいものだ。」

と思っていたのでした。

「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」という冊子は、「あとがき」によると、昭和58~61年度(1983~86)に、京都市が京都彫刻調査研究会(代表・井上正氏)に委託した調査成果を取りまとめたものだそうです。
浄楽堂・十一面観音像も、この時に調査されたものらしく、昭和59年(1984)に、京都市指定文化財に新たに指定されています。



【京都・大原の静かな山里に、ひっそりと在る浄楽堂】


浄楽堂の十一面観音立像を、実際に拝することが出来たのは、ちょうど6年前、2010年の冬のことでした。

京都市の教育委員会・文化財担当の方にお願いをして、地元の管理者の方にご連絡を取っていただき、特別に拝観のご了解をいただきました。
浄楽堂の十一面観音像は、地区の人々の管理で守られており、通常は、公開されていません。
年に2回、オコナイがある成人の日と地蔵盆(8/24)に近い日曜日にのみ、御開帳されているとのことでした。

期待に胸膨らませて、浄楽堂へと向かいました。
浄楽堂は、左京区大原上野町という処にあります。
市内から大原を目指すと、もうあと5~600ⅿで三千院というあたりを、東に少し入った処です。
国道から2~300m入っただけなのですが、そこは観光客とは全く無縁の静かな山村の世界です

大原の山里風景
洛北大原の山里風景

「洛北大原の、四季の自然に囲まれた山里」

というのは、このようなところのことを云うのでしょうか。

NHKのテレビ番組「ベニシアさんの大原の暮らし~猫のしっぽカエルの手」に登場していた風景が、思い起こされます。

浄楽堂あたりの田園風景
浄楽堂あたりの田園風景

一本杉の巨木が目印で、ひっそりと小さな無住のお堂があります。
そこが、浄楽堂です。

浄楽堂傍の一本杉の巨木
浄楽堂傍の一本杉の巨木

浄楽堂
浄楽堂

地区の管理をされている何人かの方が、わざわざお待ちいただいていました。
十一面観音像は、堂内の白木の厨子の中に祀られています。
開扉いただくと、真ん中にめざす十一面観音像、両脇に地蔵菩薩像、阿弥陀如来像が安置されていました。

浄楽堂内厨子に祀られる観音像
浄楽堂内厨子に祀られる観音像



【ほのかな翳りをさした、クールビューティ~想定以上の美仏・十一面観音像】


眼前に拝した十一面観音像、一見しただけで、期待に違わぬ平安古仏です。

浄楽堂・十一面観音像

浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像

すらりと痩身、ハイウエスト、八頭身で、穏やかながらもキリリと締まった美しさです。
とりわけ、お顔の表情に惹かれてしまいます。

浄楽堂・十一面観音像浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像

美しいお顔ですが、ちょっと翳りをさしたような表情が印象的です。
目鼻口の線の彫りがくっきりして、理知的でキリリと締まった面立ちです。

「ほのかな翳りを漂わす、クールビューティ」

こんな表現が似つかわしそうです。

浄楽堂・十一面観音像浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像~顔部

平安前期特有の、分厚いボリューム感や、デフォルメ表現、抉ったような鋭い彫り口はみられません。
むしろ、「すらりとスリムなプロポーションで美しい。」と云った方が当たっている感じです。
そういうと、穏やかな和様の藤原仏のような表現になってしまいますが、決してそうではなくて、
「締りのある緊張感!」「凛とした気品!」
が、強く漂っています。

資料の解説によると、平安中期頃の作とみられているようです。
たしかに、平安前期の厳しい迫力と、優美でおだやかな美しさを、併せ持つ仏像のように思えます。

私は、この「翳りさすキリリとした美しさ」の十一面観音像に、惹き付けられる魅力を感じ、大好きになりました。



【ほとんど見当たらなかった本像の解説~ご紹介】


この浄楽堂の十一面観音像、本・資料などでは、どのように解説されているのでしょうか。
この観音像、これほどの美しい古像なのに、採り上げている本が、ほとんど見当たりませんでした。

私が見つけたのは、先にご紹介した、「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」の他では、
同じ京都市文化観光局発刊の「京都市の文化財~京都市指定・登録文化財集(美術工芸品)」(1992刊)、と
「京都の美術工芸~京都市内編・上」(1985年・京都府文化財保護基金刊)
だけでした。

像高168.7㎝、彩色、ヒノキ一木彫、内刳り無し、頭上面など後補

ということです。

ちょっとピックアップして、解説をご紹介します。

「丸顔で、肩幅広く、肘をゆるやかに体から離して、すらりとした体躯で立ち、小ぶりな眼、低い鼻、平明な肉どりをもつ面相には日本的な優しさがうかがえる。
また、肉身の穏やかな膨らみと、それをあらわに示す条帛の流れ、数少ない裳の衣文の巧みな設定など、美しい間合いが図られている。
奈良時代以来の古密教彫刻に新しい和風の情感を盛り込んだ美作であり、9世紀後半から10世紀前半にかけての制作と推定される。
また、当初の板光背を遺している点も貴重である。」
(「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」解説)

浄楽堂・十一面観音像~全身

浄楽堂・十一面観音像~側面...浄楽堂・十一面観音像~側面
浄楽堂・十一面観音像~正面・側面写真

「頭部を品よく小ぶりにまとめ体躯は長身でしかも腰高に造っており全体のプロポーションは誠に整っている。
彫技は巧みで、前面の天冠台下地髪には細かく毛筋を刻み、面相部の彫りは鎬立たせ端正な表情に作っている。
もとは天衣遊離部もすべて共木から彫り出していたと考えられる。
天衣や裳には先端或いは縁に波形の襞を混えながら翻派風の衣文を刻むが総体には彫は浅く細身になっており制作は10世紀も末頃と考えられる。
胸から腹にかかる条帛部は肉身のくびれにそって彫り込みを作るのは不思議である。
頭上面が替わっているが平安中期の等身大の美しい十一面観音として注目される。」
(「京都の美術工芸~京都市内編・上」解説)


解説を読むと、それぞれに、

「古密教彫刻に新しい和風の情感を盛り込んだ美作」
「平安中期の等身大の美しい十一面観音として注目」

と述べられ、
この浄楽堂像が、注目すべき「美しい作品」であることを特記しています。
私も、全くの同感です。



【制作時期はいつ頃?~9~10世紀前半なのか、10世紀末頃なのか】


ただ、制作時期については、
前者(京の古仏)では、「9世紀後半から10世紀前半にかけての制作」
と推定されているのに対して、
後者(京都の美術工芸)では、「制作は10世紀も末頃と考えられる」
としています。

皆さんは、どのように感じられるでしょうか?

この時代の、制作年の判る仏像を、ちょっと見較べてみたいと思います。
9世紀後半から10世紀末頃までで、制作年代が推定できる代表選手と云えば、このような仏像が挙げられるでしょうか?

9世紀末から10世紀前半の制作年代が明らかな代表的仏像

10世紀半ばから末頃の制作年代が明らかな代表的仏像

日本彫刻史の教科書のような感じになってしまいました。
今更、こんなリストアップをするのも、ちょっと子供じみた感じがしないでもないのですが、これらの仏像の造形と比較してみて、どのように感じられるでしょうか?
一番の見どころのお顔のアップ写真を並べてみました。

慈尊院・弥勒仏像(寛平4年・892)清凉寺・釈迦如来像(寛平8年・896)
慈尊院・弥勒仏像(寛平4年・892)   清凉寺・釈迦如来像(寛平8年・896)

醍醐寺・薬師如来像(延喜7~13年・907~913)法性寺・千手観音像(承平4年・934)
醍醐寺・薬師如来像(延喜7~13年・907~913)   法性寺・千手観音像(承平4年・934))

六波羅蜜寺・十一面観音像(天暦5年・951)遍照寺・十一面観音像(永祚元年・989)
六波羅蜜寺・十一面観音像(天暦5年・951)    遍照寺・十一面観音像(永祚元年・989)

善水寺・薬師如来像(正暦4年・993)禅定寺・十一面観音像(長徳元年・995)
善水寺・薬師如来像(正暦4年・993)    禅定寺・十一面観音像(長徳元年・995)

たしかに、「京都の美術工芸」解説文の
「翻派風の衣文を刻むが、総体には彫は浅く細身になっており」
という通りなのですが、

穏やかなお顔の表情の遍照寺像や禅定寺像などと、同じ頃に下がるというのは、この浄楽堂像の顔貌の、
「翳りを帯びて、キリリと締りのある造形」
の顔貌をみると、ちょっと可哀想なのではないかなと思ったりします。

浄楽堂・十一面観音像浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像~顔部

むしろ、法性寺像や清凉寺像にみられるような、締まったキリリとした顔の表情の面影を留めているように感じます。

たしかに、都・京都の地の仏像といっても、大原の鄙の地の、一流ではないというか、在地性が強い作の仏像であろうことを考えると、古様な表現が、時が下っても残されているという見方もできるのかもしれません。
ただ、10世紀末の代表的観音像の造形と較べると、浄楽堂像は、どうしても10世紀中頃以前に遡る像なのではないかと、私には思えてきます。

いずれにせよ、心に残る平安古仏の美仏で、

「ここまで拝しに来て、本当に良かった。」

という気持ちで一杯になりました。

「知られざる、京のかくれ仏」といって、過言ではありません。



【よく判らない観音像の由来~惟喬親王ゆかりの美仏か?】


この古仏の由来は、明らかなのでしょうか?
これだけの観音像ですが、どうして当地に遺され、守られてきたのかについては、よく判りません。

今は、無住のお堂を、地区の皆さんで管理して守っておられるようです。
今のお堂は、、昭和11年(1936)に、大原に別荘を持っていた大阪の谷川という方が、地元と協力して再建したものだそうです。
また、浄楽堂という名前は、惟喬親王が住職をしていた寺の名を継いだといわれています。

たしかに、浄楽堂から2~300mのすぐ近い処に、「惟喬親王の墓所」が残されています。

惟喬親王の墓所

惟喬親王の墓所
惟喬親王の墓所

ご存じのとおり、惟喬親王(844~897年)は、悲運の皇子として知られています。
惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子でありながら、生母が紀氏であることや、藤原氏の娘である皇后・明子に惟仁親王(清和天皇)が生まれたことから、出家を余儀なくされ、小野郷の地に隠棲したと伝えられます。
その小野郷の地が当地であるとされ(北区・北山小野郷ともされる)、墓所も残されているのです。

「惟喬親王の墓所」については、「ブログ~ノンさんのテラピスト」に「悲運の皇子・惟喬親王の墓 2013.8.28」という探訪記事・写真が掲載されているので、参考にご覧ください。


「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」の解説では、
「本像と惟喬親王との関係は定かではないが、時期的に一致することから、関係遺仏とする考え方もある。」
と記されています。

惟喬親王在世時の像となると9世紀後半の仏像ということになり、そこまで製作時期を遡らせるのは、ちょっと難しいのではという風に感じます。
惟喬親王を偲ぶなど、何らかのゆかりの仏さまなのかどうかは、全く判りませんが、ロマンチックにそう考えたくなるような、ちょっと影のある表情の美仏であることは、間違いありません。



想定以上の美しく魅力ある平安古仏を拝することが出来ました。

「翳り漂う、キリリと美しいお顔」を拝していると、なかなか立ち去り難いものがあります。
後ろ髪をひかれつつ、開扉のご面倒をおかけした地区の方々に心よりの御礼を申し上げて、浄楽堂を後にしました。

もう一度、訪れたいものです。

今度は、オコナイの日か、地蔵盆の日に訪ね、地域の人々の信仰とともに在る観音様のお姿を、是非とも拝したいものです。


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  • 2016/06/03(金) 17:54:44 |
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