観仏日々帖

新刊・旧刊案内~「仏師たちの南都復興」 塩澤寛樹著  【2016.3.12】


久々に、興味津々の本に遭遇しました。
面白いというよりは、知的興奮を刺激される内容で、読み始めると止まらなくなってしまいました。
一気呵成に、読んでしまいました。


「仏師たちの南都復興~鎌倉時代彫刻史を見なおす」塩澤寛樹著
2016年2月 吉川弘文館刊 【304P】 3800円

仏師たちの南都復興


新刊本を、書店で手に取ると、カバーには、このようなキャプションが書かれていました。

「平氏一門によって一夜のうちに灰燼に帰した南都(興福寺・東大寺)は、誰の手によってどのようにして復興されたのか。
朝廷・摂関家・幕府・寺家それぞれの思想や意図を明らかにするとともに、多くの作例から復興造像と仏師たちの関連性を探る。
造像の担い手を運慶ら慶派中心で論じる従来の学説に一石を投じ、新たな鎌倉時代彫刻史の地平を広げる。」


「造像の担い手を、運慶ら慶派中心で論じる従来の学説に一石を投じ・・・・」か?

「これは面白そうだ」

と、値段が少々高めでしたが、早速購入したのでした。



【鎌倉時代造像は、「慶派・新様式の独壇場ではなかった!」という問題提起】


結論から先にご紹介しましょう。

塩澤氏は、本書で次のような新たな問題提起をしているのです。
塩澤寛樹氏
塩澤寛樹氏


・これまでの鎌倉彫刻史の語り方は、一般には、
治承の兵火で焼亡した南都の復興造像に際し、運慶、快慶らの活躍により慶派が、一気に主役の座にのし上がり、その中で鎌倉彫刻の新様式が完成され、それを基盤として慶派が鎌倉時代の造像界に覇を唱えた。
とされている。

しかしながら、実のところは、そういう訳でもなかったというのが実態である。

・鎌倉時代の造像は、慶派の一人勝ちでも、誰もが慶派の新様式の仏像になびいたというわけでもない。
当時の造像は、院派、円派、慶派の正系三派体制の下で行われていた。
南都復興造像においても、都の造像に倣い、きっちりと正系三派体制の原則は守られていて、慶派のみが、圧倒的優位に立ったというようには考えられない。

・現代では、運慶、快慶を代表選手とした鎌倉新様式に、評価のスポットライトがあてられ、
「鎌倉彫刻≒慶派の時代」
であったかのように受け止められがちである。

・しかし、よく検証してみると、鎌倉時代の造像界は、
「伝統様式の延長線の院派、円派」と、「新様式の慶派」の三派が、
諸寺の造像を鼎立してシェアするという、正系三派体制が守られていたというのが、現実の姿であった。


以上のような、考え方、問題提起です。
この見方、考え方、皆さん如何でしょうか?

鎌倉時代彫刻に造詣の深い方々には、この話、それほどの驚きでも、何でもないのかもしれません。
鎌倉彫刻にはなじみが薄く、苦手分野の私には、本当に「ビックリポン」の話でした。

「鎌倉時代の彫刻と云ったら、運慶、快慶でしょ!
南都復興造像以降は、慶派の一人勝ちの時代じゃなかったの?

慶派は、ダイナミックな新様式で新風を吹き込み、鎌倉幕府の後ろ盾もあって、慶派全盛の時代になっていったと、美術史の本に書いてあったと思うのだけれど?」

これが、私の、素直な鎌倉時代彫刻のイメージです。
この塩澤氏の本は、そんな私の既成概念を打ち砕くような、インパクトを感じさせるものだったのです。


それでは、もう少し詳しく、本書における塩澤氏の考え方を、ご紹介していきたいと思います。


≪本書の構成~目次のご紹介≫

主要目次をご覧ください。

仏師たちの南都復興・目次1
仏師たちの南都復興・目次2

ご覧のとおり、南都復興の経過と、それに伴う興福寺、東大寺の仏師選定について詳しくたどり考証し、これを踏まえた「南都復興の造像世界」をどのように評価すべきかといった流れの内容になっています。

この話を順にたどっていくと、大変なことになってしまいますので、詳しくは本書を読んでいただくことにして、私が興味津々だったポイントだけ、ご紹介しておきたいと思います。



【院・円・慶派の正系三派体制で進められた南都復興造像
~慶派主役という定説への疑問?~】

まずは、「南都復興造像を契機に、慶派が主役の座に躍り出た」というのは、本当なのか?
というテーマについてです。


≪南都復興造像担当仏師の一覧と、慶派の独壇場という定説≫

本書に掲載されている、

「東大寺・興福寺主要堂宇における、主な造像の担当仏師一覧」

をご覧ください。

南都復興造像・堂塔別担当仏師一覧

この一覧をざっと眺めてみると、慶派、院派、円派、それぞれの名前が見られますが、康慶、運慶、快慶、定覚といった慶派の仏師の名前が、かなり多いように思えます。

「南都復興造像は、やっぱり、慶派が主流、主役だったということで、間違いないのじゃないの?」

そのように見えてくるのです。

鎌倉彫刻史の権威として著名であった毛利久氏は、

「南都復興で、慶派が主役に躍り出た」

とし、それ以降についても、

慶派の京都京都拠点・七条仏所址
慶派の京都京都拠点・七条仏所址
「建久9年(1198)から翌年にかけて、院尊と明円があいついで死去したころに、運慶一派が南都(奈良)から大挙して京都に出てきた。
京都の造像界でも、古いものから新しいものへの交代が行われたのである。

運慶は、京都の七条に仏所を設けたので七条仏所とも呼ぶようになった。
運慶及びその流派はもちろん、快慶派の仏師も、京都を中心として盛んな制作活動を繰り広げた。
世はまさに慶派全盛の時代となったのである。」
(日本の美術・第11巻「運慶と鎌倉彫刻」1964年平凡社刊)

このように述べています。


塩澤氏は、こうした
「南都復興を契機として、慶派が鎌倉彫刻の主流となっていく」
という従来の論説、すなわち定説を集約すると、
概ね、次のように語られると本書で述べています。

鎌倉時代彫刻の新様式は、運慶・快慶らの慶派によって完成、推進された。
南都復興初期には守旧派の院・円両派も未だ参加しているが、東大寺大仏殿内諸像の頃、ないし院尊・明円の没を境に、以後は運慶ら慶派の独壇場となる。
つまり、南都復興は彼らの飛躍の舞台となり、同時に鎌倉彫刻における新様式を推進させる舞台ともなり、以後の鎌倉時代彫刻では慶派が覇を唱えるに至る。
そして、慶派が培ってきた奈良古典の学習や南都復興における古像復興という性格が、復興造像(ひいては鎌倉時代彫刻)に天平復古という性格をいっそう強く植え付けることとなった。

私も、その通りだと思います。



【本書の問題提起~実は慶派の独壇場ではなかった、南都復興造像】


ところが、塩澤氏は、この定説に大いなる疑問を抱き、新たな問題提起をしているのです。


≪4期に区分して、仏師分担を検証してみると~守られている正系三派体制≫

南都復興造像は、実際には、慶派の独壇場であったのではなくて、4期に分けて検証してみると、どの時期においても、造像分担は

「院派、慶派、円派の正系三派体制分担の原則」

に則っていると論じているのです。


本書でいう「南都復興の4期」というのを、一表にしてみると、以下の通りです。

南都復興造像の4期の区分

塩澤氏の担当仏師の検証、問題提起が判りやすくなるように、先にご紹介した、本書掲載の「主な造像の担当仏師一覧」を、勝手に加工してみて、この4期別に分けて、三派を色分けした一覧表をオリジナルで作ってみました。

南都復興造像・4期区分した堂塔別担当仏師一覧1
南都復興造像・4期区分した堂塔別担当仏師一覧2

この一覧表をご覧いただきながら、本書、塩澤氏の考え方をご紹介したいと思います。


≪興福寺復興造像推進は、正系三派のバランス分担~筆頭、格上は円派≫

まず第1期、
興福寺復興の仏師担当が決められた時期です。
この時は、金堂・明円、講堂・院尊、食堂・成朝、南円堂・康慶、南大門・院実、それぞれこのような担当となりました。
正系3派、院派、円派、慶派にバランスよく担当が割り振られており、中でも最も重要な金堂造像は、明円・円派が担っている、としています。


≪東大寺復興造像は、院派、慶派の拮抗分担~格上は院派か??≫

第2期は、
興福寺では、第1期で計画された復興造営が、本格的に進められました。
東大寺では、鋳造修像された大仏の大仏殿を建立し、大仏光背と堂内諸像6躯、中門二天像、南大門金剛力士像と、巨像10躯が造立された時期です。

東大寺大仏殿・虚空蔵菩薩像(江戸時代制作像).東大寺大仏殿・多門天像(江戸時代制作像)
東大寺大仏殿内の巨像~虚空蔵菩薩像(左)、多門天像(右)~共に江戸時代制作再興像

東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作).東大寺南大門・金剛力士像(吽形像)
東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)


◆慶派独壇場論の拠り所となったのは、大仏光背制作(院派)の過小評価

一般には、この東大寺の大仏殿内諸像等の仏師分担の状況から、南都復興における慶派の独壇場が始まるとされています。
大仏殿、南大門などの巨像10躯すべての造像を慶派が担ったことから、そう考えられているのです。
それに比して、円派は東大寺造像にかかわれず、院派は、わずかに大仏光背の担当にとどまった。
主要巨像の造像は、鎌倉幕府、頼朝の後ろ盾もあって、慶派が独占しており、慶派の一人勝ちになったのは明らかだ。
このようにみられているのです。

例えば、三宅久雄氏は、

「本尊廬舎那仏に始まる東大寺諸像復興の特色は、興福寺と違って源頼朝の強力な支援を受けたこと、京都仏師はわずかに建久5年(1194)に大仏光背を制作した院尊、後には建保6年(1218)東塔4仏のうち2体を制作した院賢、院寛くらいであることである。」
(日本の美術459号「鎌倉時代の彫刻」2004年至文堂刊)

として、奈良仏師・慶派の重用を論じていますし、

古くは、毛利久氏が、
「京都仏師は、付属的な大仏光背の制作に留まる」
(「定朝より運慶へ」美術史31号1958年)
このように述べて、慶派(奈良仏師)の独壇場となっていったとしているのです。


◆実は、大仏光背制作は最上位、最格上の仕事~担当は院派

東大寺大仏殿・大仏光背(江戸時代制作)東大寺大仏殿・大仏光背(江戸時代制作)
大仏光背(江戸時代再興制作)~光背造像は最格上の仕事だったか?

これに対して、本書、塩澤氏は、

・大仏光背の制作というのは、決して付属的な仕事ではなく、大仏殿諸仏造像の中で、最上位の仕事であった。
・光背制作は、如来本体の一部というべき、最重要の仕事とみるべきである。
・院派、院尊は、最も格上の仕事を担ったことを意味しており、東大寺復興造像では、院派、慶派の2派によって、相応に分担されていると考えるべきである。
・大仏光背制作の重みを、軽く評価したことから、慶派の独壇場という見方になってしまっていたのだ。

としているのです。


≪南都復興造像の位置付けが低まった3~4期
~他派の関心低かった慶派・興福寺北円堂造像≫

第3~4期は、
東大寺の東塔、講堂の造営が行われ、興福寺は復興の仕上げとしての北円堂の造営が行われた時期です。

塩澤氏は、
興福寺北円堂
興福寺北円堂

・東大寺復興では、東塔、講堂の造仏担当仏師を見ると、院派・慶派の分担拮抗の状況が続いたとみられる。
・興福寺については、北円堂造像を慶派が担っていることが、慶派独壇場の見方の有力な拠り所にもなっているが、北円堂は興福寺復興の最後に回された公家の関与のない仕事で、位置づけの低いものであった。
・院派、円派からすれば、北円堂の仕事は、さほどの関心事ではなく、むしろ都、京都の仕事が関心事、優先事であったに違いない。

と述べて、この時期も、決して慶派の独壇場となって、院派、円派が駆逐されてしまっていたというわけではないとの見方を示しています。

また、3~4期になると、

・南都復興造像もピークを過ぎてきて、正系3派の軸足が京都の方に移っていく時期になる。
・その頃の京都における主要な造像、法勝寺、蓮華王院などの造像の仏師分担を見ると、院派、円派、慶派の正系3派体制による分担がしっかりと維持されており、東大寺復興造像にかかわらなかった円派も、決して退潮を招いていたわけではない。

総合的にみると、南都復興造像については、正系三派体制の原則が維持されており、都(京都)における造像を含めてみていくと、都、南都の造像は、正系三派体制がしっかりと維持、確立していたとみるのが、妥当と考えられる、と述べています。

上手くまとめられていませんが、このような結論に達しているのです。



【「都の天皇王権造像」と「東国の鎌倉幕府造像」という、鎌倉時代造像の二元性】


塩澤氏は、このような南都復興造像の仏師担当状況、正系三派の分担状況の検討を踏まえて、鎌倉時代彫刻の造像状況の実態について、以下のような新視点の見方を提起しています。

・鎌倉時代の造像を、都を中心とした朝廷、公家などによる「天皇王権の造像」と、「鎌倉幕府の造像」とに分けて考えると、「天皇王権の造像」では、正系三派体制かしっかりと維持、確立されていた。
一方、東国を中心とする「鎌倉幕府造像」に於いては、正系三派体制は成立せず、運慶はじめ慶派一派が主として用いられている。

・圧倒的に多くの仏像が造像されたのは、都(京都)を中心とする「天皇王権の造像」であるが、そこでは、南都復興造像も含め、鎌倉時代を通じて院派、円派、慶派の正系三派体制が維持されていたのが実態で、決して慶派の独壇場となったということは無かった。

・おそらく、鎌倉時代を通じて京都で最も大きな勢力を保ったのは、院派であったとみられ、院派が主導権をとる南北朝時代へとつながっていく。
足利尊氏が京都に進出してから院派を重用したのも、院派が当時の最大勢力であったことが理由でないかと思われる。

・鎌倉時代彫刻の実態を、大括りに俯瞰すると、
正系三派体制による「天皇王権の造像」と、慶派が主役の「鎌倉幕府の造像」という二元性、
新様式、新時代型の慶派と、伝統的表現型の院派、円派という二元性、
といった、多様性の中でみていく必要があろう。


皆さん、このような新視点、問題提起について、どのように感じられたでしょうか?
詳しくは、本書をしっかり読んでいただくしかないのですが、

「なるほど、そうだったのか!」

と、納得された方もおられるでしょう。

「これまで言われている、南都復興を契機に慶派の全盛時代になるという考えの方が、よほど納得的だ。
本書の見方、考え方には、ちょっと無理があるのでは?」

と、思われる方もあるのではないかと思います。



【「鎌倉時代彫刻は慶派の時代」という定説が造られた訳は?】


本書では、もうひとつ、興味深い話が述べられています。

日本美術史、日本彫刻史の中で、

「どうして、鎌倉彫刻史は、運慶・快慶を代表選手とする慶派独壇場の時代と云われるようになったのか?」
「どうして、運慶を中核に慶派が鎌倉彫刻様式を形成したという、運慶・慶派偏重の考え方が定着したのか?」

というテーマについてふれられているのです。


≪明治期以降の鎌倉彫刻の論述~一貫して運慶・快慶一色の見方で定着化≫

明治以降の日本美術史研究に於ける、「鎌倉彫刻」についての論述が、振り返られています。
次のようにまとめられるということです。

・明治中期の、岡倉天心「日本美術史」や、「稿本帝国日本美術略史」の頃から、鎌倉彫刻は、運慶、快慶中心で論述されており、その後も、一貫して運慶の評価は高まっていく。
こうした中で、運慶が鎌倉様式の完成者であり、彼によって完成された鎌倉新様式が時代を席巻し、その成立の際、南都復興が大きく作用したという筋立てが定着していく。
この定説を昭和前期に築いたのは、源豊宗氏、丸尾彰三郎氏の論述に追うところが大きい。

・戦後には、願成就院像、浄楽寺像という運慶作品の大発見があり、運慶様式と鎌倉幕府、関東武士とのかかわり合いの強さが、運慶様式成立に作用したという視点が一層加味されるが、その後の、毛利久氏、久野健氏、西川新次氏等々の主要著作、論述をみても、
「鎌倉時代彫刻の新様式は、運慶・快慶らの慶派によって完成、推進された。
南都復興は彼らの飛躍の舞台となり、同時に鎌倉彫刻における新様式を推進させる舞台ともなり、以後の鎌倉時代彫刻では慶派が覇を唱えるに至る。」
というように集約される見方が、一層定着し強固なものになっていった。

願成就院・阿弥陀如来像浄楽寺・阿弥陀如来像
運慶作品であることが発見された願成就院・阿弥陀如来像(左)、浄楽寺・阿弥陀如来像(右)

・鎌倉彫刻が、「多元的である」と論じた研究者には、古くは、金森遵氏、谷信一氏がいるが、そうした見方は、数少ないマイナーなもので、重視されることは無かった。
近年では、根立研介氏が、貴族を中心とする権門の造仏に京都仏師が重要な位置を占めていたと指摘しているのが特記されるぐらいである。

たしかにその通りで、どんな本を読んでみても、鎌倉彫刻の処は、運慶、快慶一色というか、
「鎌倉彫刻≒慶派、運慶、快慶の時代」
という論調で綴られています。
ほとんどのページ数は、運慶、快慶に割かれています。
院派や円派の仏像についての話などは、何も書いていないか、ほんの少しだけ申し訳のように触れられているという感じです。

特に近年は、光得寺・大日像、眞如苑・大日像、光明院・大威徳像など、運慶作と推定される作品の発見が続き、マスコミでセンセーショナルに採り上げられるなど、まさに「運慶フィーバー」といってもよいような状況です。

光得寺・大日如来像(推定運慶作)眞如苑・大日如来像(推定運慶作)
新発見の運慶作推定作品~光得寺・大日如来像(左)、眞如苑・大日如来像(右)

光明院・大威徳明王像(運慶作)
新発見の運慶作推定作品~称名寺光明院・大威徳明王像

「鎌倉彫刻=運慶、快慶」というイメージは、ますます盛り上がっているといってもよいのでしょう。


≪現存しているのは、何故か慶派の仏像ばかり
~現存像を語ることは、慶派を語ることになってしまう不思議≫

塩澤氏は、
どうしてこうした見方が定着したと考えられるのか?
本来はどのような視点で見るべきなのか?
について、いくつかの見方を提示しています。

云われるまで気づきもしなかったというか、その意外さに驚いたのが、現存作例の話でした。

南都復興の時に造像された仏像の中で、
「現存している仏像は、偶然にも慶派の作例だけなのだ」
という話です。
院派、円派の仏像は、全部焼失してしまって、跡形もなくなってしまっているのです。

南都復興造像の現存像は、

興福寺では南円堂・不空羂索像他諸像(湛慶)、食堂・千手観音像(当初成朝担当・その後慶派により完成)、西金堂・釈迦像(運慶)、北円堂・弥勒像他諸像(運慶)、
東大寺では、南大門・金剛力士像(運慶・快慶他)、八幡宮・僧形八幡神像

などで、見事に慶派の作品だけなのです。

興福寺南円堂・不空羂索観音像(康慶作)興福寺西金堂・釈迦如来仏頭(運慶作)
左・興福寺南円堂・不空羂索観音像(康慶作)、右・興福寺西金堂・釈迦如来仏頭(運慶作)

興福寺食堂・千手観音像(当初成朝担当~後に慶派により制作)
興福寺食堂・千手観音像(当初成朝担当~後に慶派により制作)

興福寺北円堂・弥勒如来像(運慶工房作)
興福寺北円堂・弥勒如来像(運慶工房作)

興福寺北円堂・無着像(運慶工房作)興福寺北円堂・世親像(運慶工房作)
興福寺北円堂・無着世親像(運慶工房作)


東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)
東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)

東大寺鎮守八幡宮・僧形八幡神像(快慶作)
東大寺鎮守八幡宮・僧形八幡神像(快慶作)


塩澤氏は本書で、

「院派や円派の仏師によって作られた作例はことごとくといってよいほどに現存せず、奈良仏師嫡流の成朝作例も確認されていないのは、改めて不思議としかいいようがない。
現存しているのは、康慶、運慶らの慶派作例ばかりという、極端なまでの偏りが見られる。
また別の見方をすると、東大寺大仏殿像、興福寺中金堂・講堂像といった、両寺の最も中心的な、言い換えれば格上の作例は全滅しているということになる。
・・・・・・・
この極端な偏りは、先人たちも気付いていたはずであるが、実際に作例が残っているかいないかは、もたらす効果に大変大きな違いが生まれる。
南都復興の造像史が慶派を中心に論述されてきた理由の一つに、知らず知らずこうした現存状況が影響した可能性があるのではなかろうか。」

このように述べています。

「目からウロコ!」

私にとっては、そんな気持ちになりました。

南都復興造像の現存作例を語ろうとするということは、偶然にも、慶派の造像を語るということになるのです。

この話は、南都復興造像に限らず、院派、円派の現存作例と、慶派の現存作例という世界に広げても、同じことが言えそうです。
慶派の作例は、像内銘記などが残されている事例が多く、数多くの現存作例が世に知られています。
これに対して、はっきり院派、円派の作例とすることが出来る作例は、大変少ないのです。
院派、円派作品には、像内銘記を残すものが少ないことや、都・京都の作例のほとんどが焼失してしまっていることによるものだと思われます。

京都~長講堂・阿弥陀三尊像(推定院尊作)
院派作品:京都~長講堂・阿弥陀三尊像(推定院尊作)

京都~宝積寺・十一面観音像(院範・院雲作)
院派作品:京都~宝積寺・十一面観音像(院範・院雲作)

京都~大覚寺・不動明王像(明円作)京都~大覚寺・降三世明王像(明円作)
円派作品:京都大覚寺・五大明王像(左・不動明王、右・降三世明王像~明円作)

京都~勝持寺・薬師如来像(推定円派作)
円派作品:京都勝持寺・薬師如来像(推定円派作)

鎌倉彫刻史が、慶派の仏像の時代のように語られるのは、意外にもこんなところにあるのかもしれません。



【鎌倉当時の実態に立ち戻る~慶派新様、院・円派伝統様の仏像が同居していた、多様な時代】


こんな話も踏まえて、塩澤氏は、本書で、

「現代の価値観や視点から評価するのではなく、復興の実像と当時の社会における等身大の評価を探る。
・・・・・・
近代的価値基準から離れる必要もある。」

と述べています。

塩澤氏の視点に則ると、南都復興造像に於いても、都(京都)での諸々の造像に於いても、慶派新様の仏像と、院派、円派伝統様の仏像が、あちこちに同居していたということになります。
もっと言うと、伝統様式、宋朝様式、運慶様式、快慶様式などが、各所に同居していたということなのだろうと思います。
発願者、施主も、そんな状況にこだわらなかったというか、当たり前に受け入れていたということになります。

鎌倉時代、当時の、各派、各様式の仏像の造像実態をそのまま受け止めて、鎌倉時代彫刻史を論じるならば、
慶派、運慶、快慶の新様式が席巻した時代であったかのように語るのではなく、それも含めて、

「多様な仏像が、多元的な状況の中で制作されていた時代」

と語らねばならないと云ってもよいのでしょう。



【運慶・慶派新様式が、圧倒的評価を受けたわけは?】


本書では、運慶、慶派の新様式表現が、明治期以降、大きく評価された事由として、二つの視点が指摘されています。


≪リアリズム重視の西洋美術概念にマッチした、慶派の造形概念≫

ひとつは、西洋美術概念による「リアリズム重視」の視点です。

塩澤氏は、運慶作品の高い完成度や魅力については、全く同感としながらも、このように述べています。

「確かに運慶は、近現代社会に評価されやすい要素を多く持っている。
運慶の創始独創ではなかったが、長い間続いた定朝様から転換した新様式を完成させたとして、変化と創造性を重んじる近現代の価値観によく適うし、その表現はおそらく定朝が造った京都・平等院阿弥陀如来坐像よりわかりやすく、西洋美術の古典的価値観に通じるところがある。」

運慶をはじめとする慶派の作品は、「写実的でダイナミックで惹きつける魅力がある」けれども、院派、円派の仏像といわれると、「伝統墨守の定型的、類型的造形で、何処が良いの?」という感じで好きになれない、というのが現代感覚だという話です。


≪「守旧的貴族階級を武士階級が打倒」という図式を積極評価する潮流に、ぴったりフィットする慶派の新様式≫

もう一つは、
「平安後期までの守旧的貴族階級は、新興民衆的な武士階級に打倒された。」
という政治史の見方を受けた視点です。

この見方に立てば、文化的な面でも、貴族階級が支持してきた守旧的なものは、新たなる精神の文化に乗り越えられるべきであるという思想的潮流で、評価されていくものだという話です。
つまり、仏像彫刻の世界でも、「守旧的、貴族的な院派・円派」が、「革新的新様式の慶派」に駆逐されていくという図式によって、慶派中心的史観を形成していったのではないかというのです。

塩澤氏はこのように述べています。

「新様式を打ち立てた慶派は、平安後期の長きにわたって墨守されてきた定朝様の停滞を打ち破るという大転換を成し遂げ、新鮮で創造性あふれる仏所とされ、その表現は写実主義に富むとして高く評価された。
運慶を代表作家とする慶派は、新しい時代精神の産物とされ、ここに慶派中心史観の大きな成立契機がある。

その半面で、院派や円派については古代貴族階級と結びついた仏所で、鎌倉時代においても定朝様の域を出ない無気力な仏所であるとされ、鎌倉時代の活動は決して大きな評価をされることはなかったし、しばしば用いられる彼らの「根強い」活動、「守旧的」な作風といった言葉には、かなり否定的ニュアンスが感じられる。」

こうやって、ズバズバと切り込まれると、
「そういわれれば、その通りかもしれない?」
「自分も、このような所謂既成概念の中で、モノを見ていたのかな?」
という気がしてきます。

私も、院派や円派の仏像というのは、藤原様式のマンネリのようで、面白みや新味がないという感じで、興味関心もほとんどありませんでした。
不謹慎かもしれませんが、ちょっと小馬鹿にした感じで見ていたような気がします。


そして、この話は、前話「明治時代の美術史書にみる「仏像の評価」を振り返る」で、テーマとした見方と、二重写しになってくるようです。
前話では、
「美の評価の物差し」「仏像を見る眼の物差し」も、時代時代の美の価値観、思想的潮流に大きく影響を受けて揺れていくものだ
ということを、実感したのですが、

「鎌倉彫刻史と運慶、慶派の新様式をどう評価するか」

という話もまた、同じような視点、時代の価値観の潮流の中で論じられているのかなと、今更ながらに感じてしまいました。


塩澤氏は、この視点に追い打ちをかけるように、厳しい問題提起をしています。


≪鎌倉時代を多元化の時代とみる歴史観転換に、対応していない鎌倉彫刻史観?≫

日本中世の見方は1960年代~70年代に、大きな転換期を迎えたのだそうです。
黒田俊雄氏による、権門体制論と顕密体制論の登場が、その転機と云われているそうです。

権門体制論というのは、
中世の国家権力を構成する支配階級は、公家(皇室、摂関家をはじめとする諸貴族)、寺家(南都北嶺をはじめとする寺社)、武家(鎌倉時代では幕府)という複数の権門によって構成され、諸権門は対立矛盾しながらも相互補完関係が認められる。
院、天皇、摂関家らの支配階級は、中世的権門に変貌しており、決して新興武士階級にとってかわられたのではない、
という考え方です。

まさに、鎌倉という時代は、多元的多様性の中で観ていく必要があるということなのだと思います。

塩澤氏は、これを受けて、中世史像、鎌倉時代像が大きく変貌を遂げる中に於いて、美術史界における鎌倉彫刻史像についてみれば、

「鎌倉時代の彫刻は運慶、快慶に代表され、その契機に南都復興を挙げるという、明治以来の伝統的構図がほぼそのまま残されている。
日本彫刻史を構築してきた偉大な人々の論説に僭越の感を免れないが、ここまでの日本彫刻史は、中世史や中世仏教史において行われてきた中世観の大きな転換、それに際しての活発な議論が踏まえられていないのではなかろうか。
顕密体制の象徴である東大寺、興福寺の復興造像がいずれか一派に極端に偏重されたり、一派だけの勝利に終わるはずはない。
この一点を取っても、その感を抱く。」

と述べて、厳しく大胆な問題提起をしているのです。



【造像構造の二元化と、正系三派体制のなかで考えたい、鎌倉彫刻史】


そして、本書を次のような言葉で、締めくくっています。

「京都の朝廷を中心とする一極集中構造の社会であった平安後期とは異なり、鎌倉時代は京都の朝廷と鎌倉の幕府という、日本に東西二つの中心があった二極構造の社会であったことを理解したうえで、政治史、社会史と同様に彫刻史においても二元的な視点で見ることが求められよう。
・・・・・・・・・
(鎌倉幕府の造像については、当初から奈良仏師及び慶派だけが独占的に主要造像に携わったものであり)
(鎌倉幕府造像は、)正系三派体制が鎌倉時代を通じて堅持された都を中心とする天皇王権の造像とはかなり異なることは明らかである。
逆説的に言えば、南都復興造像で正系三派体制が堅持されたこと自体が、鎌倉幕府造像との違いを際立たせている。
・・・・・・・・・
鎌倉時代を代表する国家的造像であったことは間違いない南都復興造像の実態をありのままに理解し、鎌倉幕府造像との相違も踏まえながら、鎌倉時代彫刻史を二元的視点で眺め、その上に立って総合するという観点で考察すること、これこそが明日の研究に新しい成果をもたらすことであろう。」


本書のカバーのキャプションに、

「造像の担い手を運慶ら慶派中心で論じる従来の学説に一石を投じ、新たな鎌倉時代彫刻史の地平を広げる。」

と書かれていました。

このキャプション、なるほど、その云わんとするところが、よく判るように思えました。



繰り返しの多いくどい文章になってしまいましたが、以上が、塩澤寛樹氏の新刊「仏師たちの南都復興」の内容のご紹介でした。

これまでになかった、新視点の問題提起の一書だと思います。

私にとっては、知的興味を大いに刺激するというか、久々に知的興奮を覚えた本でした。
本当に、惹き込まれるように読み耽ってしまいました。
この内容について、コメントしたり云々したりするほどの造詣が、全くない私ですが、これまで思ってみたこともない切り口からの、鋭い問題提起だということを、ビンビン感じたというのが率直な感想です。
まだ、全面賛成、共感という気分までには至っていない、というのも本音の処です。

ただこれからは、「鎌倉彫刻史や、運慶、快慶のことを書いた本の読み方、見方」が、随分変わってくるのは間違いないなという気がしています。

皆さんは、如何でしょうか?
私と同様の感想の方もいらっしゃるでしょうし、全く反対の方もいらっしゃるでしょう。
そんなこともう十分承知、という方もいらっしゃるかもしれません。

いずれにせよ、是非とも一読をお薦めしたい一書です。




【おまけ~関係書のご紹介】


最後に、塩澤寛樹の著作を、もう1冊ご紹介しておきます。


「鎌倉幕府造像論~幕府と仏師」塩澤寛樹著 
2009年吉川弘文館刊 【350P】 30000円

鎌倉幕府造像論

鎌倉時代の造像は、正系三派体制による天皇王権造像と、慶派を主体とした鎌倉幕府造像とに区分して、二元的な視点で考えていく必要があると、塩澤氏は論じています。
その鎌倉幕府造像の方をテーマにした論考が、まとめられた本です。

本書は、慶應義塾大学に提出された博士論文「鎌倉幕府造像の実態とその意義」を単行本化して出版されたものです。
「仏師たちの南都復興」の方が読み物としての論考本なのに対して、「鎌倉幕府造像論」の方は研究論文集というものなので、少々堅苦しくとっつきにくいのですが、鎌倉幕府の造像についての詳しい研究書となっています。


コメント

仏師たちの南都復興 を読んで

仏師たちの南都復興 私も先日興味深く読みました。この本については10月に都内某所で開催された塩澤氏による奈良・鎌倉大仏の講演会で、塩澤氏ご本人から紹介があり発売を心待ちにしていたものです。

内容については今までなんとなく感じていたことを、よくここまでズバズバと書いてくれた、その姿勢に拍手喝采というところです。賛否についてはまだなんとも言えませんが、かなり多くの部分は共感できます。この本の中で批判された現役の鎌倉彫刻研究者からの反論が待たれます。

私も参加している仏像趣味の集まりで3月初めにこの本の内容について紹介したのですが、そこで出された感想は「この中で取り上げられていることは、新しい資料が見つかったから考えた、というわけでもないのだから、今までの研究者も当然分かっていて鎌倉彫刻を論じているはず」というものでした。塩澤氏の前著「鎌倉大仏の謎」でもそうでしたが、今回の本の分かりやすいところは過去の論説を丁寧に取り上げ、批判や考察をしてから論点を組み立てているところです。なんとなく分かっていても、改めて明確に文章化したことで論点が浮き彫りになったと言えると思います。

この本を読んで思ったことはいくつかありますが、その一つは火災等で救い出された仏像についてどう考えるかということ。結局小さいもの、軽いものが残った、つまり主要堂宇の本尊クラスは大きくて重いので全部失われた。慶派の仏像だけが残ったのは不思議とされていますが、このことこそ院派、円派が主要な造像を行い、慶派は付随的な仏像を作ったに過ぎないということの一つの現れではないでしょうか。(もちろん東大寺の建久以降の復興では、頼朝と重源の存在により慶派が主要作品を作っていますが。)

仏像の重量のことで思い出すのは、昔東博で行われた講演会(確か佐藤昭夫氏)で、興福寺の八部衆か十大弟子の乾漆製の腕の残欠を持たせてもらい、非常に軽くて驚いたことです。これなら火災時にも全部救い出すことができたと実感しました。疑問に思っているのは興福寺南円堂の本尊不空羂索観音がなぜ残ったかということ。お堂は江戸時代ですから、火災の時にどうやってあの大きな像を救い出したのか分かりません。あるいはまだ南円堂まで火が回ってこないうちに避難したか、藤原氏にとって大切な像なので、そのぐらいのことはあったかもしれません。

三十三間堂の建長の復興のことはあまり書かれていませんが、従来は湛慶が本尊を作ったので、鎌倉中期は慶派が主導権を取っていたことの証拠と考えられていたと思います。しかし最近基礎資料集成の鎌倉時代造像銘記編8をよく読んだら、千体千手観音の数の上では院派が圧倒的に多いということで、湛慶が本尊を作ったからといって必ずしも慶派が主導権を取っていたとは言えないと思っています。湛慶はその時たまたま法印で、最長老だったから本尊を分担したということではないのでしょうか。

この本を読んで次に思ったことは、現代の常識で考えてはいけないということ。鎌倉時代の「写実主義」の例として玉眼のことがよく引き合いに出されますが、これも最近の論説では現代的な意味で像に迫真性、現実性を与えたというよりも、像の霊性を高めるため(最近よく言われる生身仏・霊験仏に通じる見方)と考えた方がよさそうです。塩澤氏が以前願成就院の運慶仏の製作場所の論文で書いていた「吾妻鏡の記事にある、院尊が頼朝を呪詛するために毘沙門天を作ったので頼朝は院派仏師の採用を避けたと論じられるが、呪詛とはもっと切実で命に関わるもの」という話も現代人の感覚ではピンと来ませんが、当時の感覚なら頼朝は配下の兵を差し向けて院尊を殺しても当然というくらいの出来事だったのかもしれません。

現代の常識で考えてはいけないということの例として西洋美術のことを取り上げて終わりにします。今上野ではカラヴァッジョ展が開かれています。カラヴァッジョはバロック絵画を築き上げたイタリアローマバロックの画家であるが、殺人まで犯した無頼漢と言われています。イタリア美術史家の石鍋真澄氏が最近出した本「カラヴァッジョ伝記集」で氏は「彼の時代と社会において見れば、カラヴァッジョは決して特別な存在、異常な人間ではない」「この時代の人びとのメンタリティや価値観には我々からすると謎の部分があり、カラヴァッジョの謎のある程度の部分は時代と社会に関する謎である」と書かれています。ここで氏が言われていることはそのまま平安から鎌倉時代の仏像研究、仏師研究にも当てはまるのではないでしょうか。

また、天平彫刻をギリシャ彫刻に対応させ、鎌倉彫刻をルネサンス彫刻に対応させる、特に「運慶は日本のミケランジェロだ」などという論は素人向けで分かりやすいようなたとえですが、物事の本質を見誤る可能性もあると思っています。

Re: 仏師たちの南都復興 を読んで

むろさん様

この話には、むろさん様からコメントがあるのかな、と思っておりました。

この塩澤氏の著作が、どのように受け止められ反応があるのかは、興味深いですね。
本書を読んでいて、仏教美術史(彫刻史)という領域が、考えるほどに難しく悩ましい領域だなと、今更ながらに思いました。

仏教美術史(彫刻史)というのは、仏像という彫刻作品を対象とする学問なので、「芸術的にすぐれた作品、優れた美術作品」と考えられる像を、主たる対象としていくものなのでしょう。
ただ、優れた美術作品・仏像であるかどうかは、現代の「美の評価の物差し」「仏像を見る眼の物差し」で測っているということなのかと思います。
鎌倉彫刻を現代人の眼で見ると、運慶、快慶をはじめとした慶派作品がクローズアップされ、評価が高くなり、研究対象として主たる対象となっていくのは、当然の潮流といえるのでしょうね。

一方で、仏教美術史は、歴史学としての性格を色濃く有しているのは当然のことで、当時の仏教彫刻を歴史的な側面から見て、どのように受け止められ、どのような潮流の中にあったのか、正しく認識、位置付けていくことも、欠くべからざるものなのかと思います。
塩澤氏は著作で、慶派作品の彫刻作品としての卓越性、魅力を十分に認めながらも、その歴史認識的な位置づけに問題がないかの問題提起をされたのだと感じています。

美術史の世界では、これからも、優れた美術作品・仏像の制作者として、慶派作品中心に語られ、採り上げられていくのでしょう。
その歴史的位置づけ認識の語られ方が、どのような変化が有るのか、無いのか、興味深いですね。

本文で、
「まだ、全面賛成、共感という気分までには至っていない、というのも本音の処です。」
と書きましたのも、
美術作品としての仏像史と、歴史の中に位置づけられる仏像史というものが、自分の中でなかなか整理がつかず、悩ましく戸惑うばかりという気持ちというところでしょうか?


南都復興造像の中で、慶派作品のみしか現存していないというのは、云われて気づいてビックリでした。
南円堂の不空羂索像が、江戸の火災後も残った話ですが、その救出された状況については
「日本彫刻史基礎資料集成・鎌倉時代造像銘記編1」に、このように記されています。
「享保2年火災時の本尊不空羂索観音像の救出については『興福寺伽藍炎上之記』に詳細に記される。
それによると、本尊は首と御手足等を取放ち、六祖及び四天王像とともにすべて取り出され、猿沢池と唐院之前池に投げ入れられた。
翌日取り出され、北円堂弥勒像とともに食堂、三倉、唐院に運ばれた。」
このことは、修理実施時に内部の構造等状況を検証したとき、その通りになっていて、古記録内容が裏付けられたという話も聞いたことがあります。

ご参考になればと存じます。

管理人

  • 2016/03/16(水) 16:10:34 |
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  • 神奈川仏教文化研究所 #-
  • [ 編集 ]

美術史研究の限界

仏教美術に限らず、美術史という学問の限界や曖昧さということは私もずっと思っていました。
一つには研究者の考える様式論や発展の考え方というものに疑問を持っていることです。私は鎌倉彫刻を中心とした仏師研究とイタリア・ルネサンス、バロック美術を並行して見ていますが、鎌倉彫刻については専門家の考えていた説が新資料の発見によって覆されたという例は最近でもたくさんあるし、西洋美術史では画家は自分が以前経験した様式は、後になってから自由に描くことができるので、研究者がいくら頭で画家の様式発展を考えても事実は異なるという例を見ています。また、技術のある人はそっくり同じものを描けるということもあります。(ラファエロの作品をアンドレア・デル・サルトが少し後にそっくりに描いた例)

そして今回の件で、「現代の価値観で優れた作品」ばかりを扱う美術史という学問のあり方はどう考えればよいのか、これでいいのかということをあらためて認識しました。西洋美術史でもルネサンス期の芸術家の伝記を集めたヴァザーリ著の「芸術家列伝」という書物には、現代に作品の残っていない画家も含まれていますが、そういう人の伝記を研究する意味があるのかという議論があります。歴史学の一部門としての美術史としてはこれも十分意義がある研究なのでしょうが、作品がない画家の伝記はやはり読んでいて興味がわかないのは事実です。

私自身は以前は平安初期から10世紀頃の彫刻が好きだったのですが、資料が少ないため素人がやるには限界があるということで、だんだん興味の対象が平安末期から鎌倉初期の仏師研究に移ってきました。最近は運慶作品周辺の御家人の動向などに関心があり、吾妻鏡が現代語訳で読めるようになったこともあって益々この方面にのめり込んでいるところです。

今気になっているのは、運慶作光明院大威徳明王の注文主である源氏大弐殿(加賀美遠光娘)と浄楽寺諸仏の注文主である和田義盛夫妻のうち妻(横山党出身、小野氏)が孫と祖母の関係であるのかどうかということです。もしそうなら和田氏の乱で褒賞を受けた者と罪人ということになり、同時代に運慶に仏像を注文した女性二人として、歴史の皮肉というものを感じるのですが、まだ確認できていません。(和田義盛は自分より年上の加賀美遠光に娘を嫁がせるということがあるのかという問題がある。)こういうことを調べるのが果たして仏像研究といえるのかどうかと思っているのですが、美術的なことや仏教教義・図像学などよりも自分としては歴史上の人物研究の方に惹かれています。

なお、興福寺南円堂の本尊不空羂索観音の火災の件、ご教示いただきありがとうございます。実は日本彫刻史基礎資料集成鎌倉時代造像銘記編については、最新刊の11、12巻以外はほぼ全てをコピーして持っているのですが、必要な時に出してきて確認する程度で、最初から読んでいるわけではないので、この部分は気がつきませんでした。今回改めて読むとともに、合わせて岩波六大寺大観の該当箇所も確認しました。

Re: 美術史研究の限界

むろさん様

おっしゃるように、美術史、就中仏教美術史という世界はどういうものなのかというのは、つくづく難しい世界だと思います。

「美術」という名のとおり、優れた芸術作品を対象とする史学としたとたんに、「優れた」というのは「現代の美の物差し」の価値観ということになりますから・・・・
美術史の本を見ていると、歴史学のようで歴史学ではないと思うのは、そんなところからなのでしょうか?
仏像彫刻通史の本が、原則鎌倉あたりまで中心で、そのあとは江戸時代の円空、木喰中心になっているのを見ると、この悩ましさを実感せざるを得ません。
また、仏教美術史を、学問としての研究領域として掘り下げていこうとすると、畢竟、芸術作品としての云々ではなくて、科学的分析とか、歴史学、仏教史学、図像学等々という世界を深めていくしかないということになってしまうということになるのでしょうか?
学問としての仏教美術史というのは、私にはなかなか難しい世界のように思えてしまいます。

そんなことを、つらつら考えることもあるのですが、所詮私にとって仏像愛好として愉しむというのは、あまり難しいことを考えずに、
「魅力ある仏像、大好きな仏像、惹きつけられる仏像」
との出会いを求めて、各地を観仏行脚するのが、一番の喜びということが、大前提になっていると思えます。

私は、平安前期と云われる一木彫像に一番の魅力を感じるところがありますので、どうしても、それに関係する処の話に、強い関心、興味を感じてしまいます。

それが、アマチュアの趣味の特権で、一番愉しい世界なのではないだろうかと思う、今日この頃です。

神奈川仏教文化研究所
管理人







  • 2016/03/30(水) 21:01:06 |
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  • 神奈川仏教文化研究所 #-
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むろさん様 すみませんでした

むろさん様

山本先生講演会のあと、皆でお待ちしてお食事へ、と、存じおりましたが、自宅バスの都合などあるものもおり、
山本先生とお話しをなさっていらっしゃいましたので、ご挨拶もいたしませず、失礼いたしました。
またのお目もじを楽しみにしております。

こちらこそ失礼しました

山田様
こちらこそ開場前の待合室で気がつきませんで失礼しました。最初にお会いしたのが東博新指定特別陳列での短時間のお話しだったため記憶があまり残っていなくて、言われるまで分からない状態でした。
山本先生からは光明院の大威徳明王と旧浄瑠璃寺十二神将の比較のこととか北円堂弥勒仏を実際に彫った源慶のことをどう考えたらよいかなど、講演会の内容を更に深く考えるヒントを聞かせていただきました。
今後またどこかでお会いすることがあれば、このへんのこともご紹介できるかと思います。また、ここのブログの管理人様をご紹介いただきありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

  • 2016/05/17(火) 23:43:28 |
  • URL |
  • むろさん #PMoz9hdc
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