観仏日々帖

新刊・旧刊案内~仏師成朝と運慶―猜疑の果てに 

「8月に出たばかりの本の新刊案内です。


「仏師成朝と運慶―猜疑の果てに」    西木 暉著 

2012年8月 鳥影社刊 278ページ 1800円

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この本は、「成朝と運慶」を主人公の舞台回しにした、フィクションの小説です。

新刊書棚から取り出して買った理由は、仏師「成朝」について書かれたものであったからです。


成朝は、ある意味「謎の仏師」と呼ばれています。

奈良仏師・康朝の正嫡仏師でありながら、成朝制作が確実な仏像は、現在一体も残されていませんし、ある時期から、成朝のことが記録から消えて行ってしまいます。
成朝には子供がいなかったのかもしれませんが、奈良仏師の系譜は、康朝の弟子であった康慶へ、そしてその子運慶へと、受け継がれていくこととなります。
その後は、御存じのとおり、「慶派の時代」が到来します。

成朝は、康慶、運慶、快慶と同時代に生き、正嫡仏師であったにもかかわらず、何故だか、影の薄い存在です。
この時代の仏師についての論考でも、史料が乏しいので、あまり深く採り上げられることもありません。
また、運慶や快慶については、彼らを主人公にしたり題材にしたりした物語は、数多く書かれていますが、成朝が登場することは、ほとんどありません。

その「謎の仏師・成朝」を主人公にした物語本の新刊であったので、
「どんな人物に描かれているのだろう?」
と、早速買ってみたのでありました。


本書に「仏師の系図と弟子たち」という仏師系図が掲載されていましたので、この話のご参考に、掲載しておきます。

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ここでちょっと、仏師成朝の事績について、振り返ってみたいと思います。


成朝の名前は、記録には、5度登場します。

最初は、治承5年(1182)。
興福寺金堂・講堂仏の最興造仏の担当仏師を巡って、院に訴えを起こしています。(吉記)
これらの造像を、院尊率いる「院派」の独占になりそうな情勢に対抗し、成朝は、興福寺の仏像制作や修理は「奈良仏師(南京仏師)」が代々務めてきているので、再興造仏に携わる権利がある旨の訴状を提出しています。

2番目は、同じく治承5年(1182)。
興福寺再興造仏が開始され、成朝は、食堂仏の再興造仏を担当することとなります。(養和元年記)
ただし、食堂諸仏はなかなか造仏が開始されず、成朝がこの造仏に携わることはありませんでした。

3番目は、文治元年(1185)。
成朝は、鎌倉・勝長寿院の阿弥陀如来を造仏、供養が行われています。(吾妻鏡)
勝長寿院は、頼朝が鎌倉に建てた初めての本格寺院で、その本尊制作を任されたのは、奈良仏師の「南京大仏師成朝」でした。
成朝は、頼朝の招請により、鎌倉に下向し、当地でこの仏像を制作しています。

4番目は、文治2年(1186)。
成朝は頼朝に、興福寺東金堂の造仏を、院派の院性が奪おうとしているとして、善処を訴えています。(吾妻鏡)
この時、成朝は、まだ鎌倉に在り、自分の不在中に東金堂造仏の権利が奪われるとして、頼朝に訴え出ているのです。

5番目は、建久5年(1194)。
興福寺再興造営供養が行われ、成朝は「金堂弥勒浄土」造仏の功により、法橋に補任されています。(愚昧記)
成朝の生没年は不明で、この時何歳だったのか判りませんが、父康朝の弟子、康慶は、はるか以前の治承元年(1177)に法橋に補任されており、すでに一段上の法眼の地位にありました。
康慶の子、運慶は、翌年、建久6年(1195)、これまた法眼に補任されています。
成朝にとってみれば、何とも随分遅い僧綱位の補任であったようです。


以上が、記録上にみられる「成朝」に関する出来事です。


こうしてみると、成朝は、康朝の子、奈良仏師の正嫡仏師として、当時隆盛を誇った京都の院派、円派の南都進出に対抗し、興福寺を中心とする南都の造仏権を守ろうと奮闘しているようです。
そして、次世代を担う武士勢力、源氏側に肩入れし、勝長寿院造仏のために、自ら鎌倉に下向しています。
唯その割には、南都での担当造仏にもあまり恵まれていないようですし、正嫡仏師でありながら、僧綱位の補任が、康慶より大幅に遅れ、1195年になってやっとのことで法橋です。
翌年、運慶がもう一段上の法眼に補任されているのを見ても、存在感が薄いと感じざるを得ません。
何時の間にやら、康慶とその一族が、奈良仏師の主流派にとって代わってしまっているようです。

また、成朝制作の確実な作品が、現在残されていないことも、成朝という存在の影が薄い一因になっているのかもしれません。
近年、山梨・放光寺の金剛力士像(二躯)が、成朝の作品ではないかといわれるようになりました。
放光寺に遺された「当山壇興大願主惟肖記」に「南京彫工浄朝」が造立したと記されており、この「浄朝」が「成朝」を指すと想定されています。

山梨.......山梨放光寺・仁王像


さて、そろそろこの本の物語の話に入りたいと思います。
作者は、成朝をどのように描いているでしょうか?

師・康朝から若き正嫡・成朝の育成と後ろ盾をくれぐれも頼まれた康慶は、成朝を一人前の大仏師となるよう面倒を見るが、成朝とのフィーリングは必ずしもうまくいかない。
成朝は、人生の苦労知らずのところもあり、興福寺堂衆の強訴に関わったりして、なかなか仏師としての仕事に専念できず、正嫡であることからの甘さや、腰の据わらぬところが見える。

康慶が、自分を立て、一門を盛り立てようとしてくれることへの信頼は大きいのだが、一方で、正嫡である自分を出し抜こうとしているのではないかとの猜疑心が芽生えてくる。
南円堂の造像が自分ではなく康慶に任ぜられたことも、そうした気持ちがおこる一因となる。

頼朝招請による鎌倉下向についても、康慶は「奈良仏師正嫡の成朝が、南都を離れることは、得策にあらず」と反対するが、これを押し切って勝長寿院造像に出向く。
成朝は、勝長寿院の後、北条時政から願成就院の造像を依頼されるが、時政が京へしばらく出向くことになり、造像はしばらく延期となる。
鎌倉から戻ることもできず、奈良の地を離れてしまったことへの後悔の念も起こって来るが、これもまた康慶が、成朝自身の反発する性格を利用して、奈良の地から離れるように仕向けたのではないかという猜疑心がむらむらと湧き起こる。

この間に、山梨・放光寺の仁王像造立の仕事が入り、完成を迎える頃、奈良の康慶より、院派の院性が興福寺東金堂造仏を奪い取ろうとしているという便りが来着。
頼朝に、その不当と善処を訴え出ると共に、成朝自身が奈良に戻ることを決意する。

成朝は康慶に、願成就院造像の仏師を代わりによこして欲しい、運慶か快慶でどうか、という便りを出すと、康慶は、息子運慶を派遣するとの返事をよこす。
その時、運慶は興福寺西金堂の釈迦像を作り終えたばかり。
北条時政も京より戻り、成朝は、頼朝と時政に、奈良に戻らざるを得ぬことと、願成就院造像の大仏師の交代を願い出る。
正嫡仏師から若い運慶への交替という申し出は、抵抗にあうと思っていた処、西金堂釈迦像を造った運慶の都での評判には高いものがあり、予想外に快諾されてしまう。


興福寺西金堂・釈迦如来像......伊豆願成就院・阿弥陀如来像
興福寺西金堂・釈迦如来像                  伊豆願成就院・阿弥陀如来像


そして、運慶鎌倉到着の後、奈良へ戻る旅に出る成朝であったが、京都・奈良では運慶の定評の方が、自分よりはるかに高くなっていることを今更ながらに知らされ、康慶・運慶が奈良仏師としての地位と定評を勝ち得るようになったことも、彼らの自分を遠ざけようとする策略の故ではなかったかと、猜疑の心が高まっていく。

成朝は、自らの人生の生き方や技量の至らなさについて、謙虚に認める気持ちはありながら、康慶・運慶に正嫡の地位を危うくしようと謀られているのではないかという猜疑心との葛藤に悩んでいく。


このようなストーリーになっています。
題名が「仏師成朝と運慶―猜疑の果てに」となっている、所以ではないかと思います。


私は、このフィクションの物語が大変面白く、あっという間に読破いたしました。
そして「成朝」という仏師の存在を、もう一度考えてみることが出来ました。

フィクションとはいうものの、当時の史実や記録、最近の仏像研究の成果などをしっかり踏まえた物語で、深い造詣がないと、この物語は書くことができないだろうと感じました。
巻末の参考書目を見ると、近年の最新レベルの研究論文がずらりと挙げられています。


著者、西木 暉氏は、著者紹介によると、1954年千葉生まれで、中学校の社会科の教員を経て、文筆業に入った方のようです。

西木氏は、ほかにも運慶に関する物語を、すでに2冊出版されています。


「運慶と快慶―相剋の果てに」 2008年 鳥影社刊 550ページ 2200円

「八条院暲子と運慶」       2010年 鳥影社刊 200ページ 1500円


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どちらも、造詣の深さに裏打ちされ、大変面白く読める物語です。


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