観仏日々帖

トピックス~「唐招提寺・仏の手の掌に埋め込まれたもの」仏像の手の話⑧  【2017.7.22】



「仏像の手の掌の中に、何か納入物が埋め込まれている。」

そんな話を、聞かれたことがあるでしょうか?

  
仏像の体内(内刳りの中)に納入物が納められている、いわゆる像内納入品、体内納入物の話については、皆さん、よくご存じのことと思います。

体内に納入物が納められている仏像は、数え切れないほど数多くあります。

そのなかでも、

五臓六腑が納められた、清凉寺・釈迦如来像

極彩色の心月輪・蓮台が納められた、平等院鳳凰堂・阿弥陀如来像

厨子入り檀像、板彫五輪塔、水晶珠・心月輪が納められた、興福寺北円堂・弥勒仏像

などは、超有名処といって良いのではないでしょうか。

986年奝然が宋から請来した清凉寺・釈迦如来像清凉寺・釈迦如来像の体内に納入された布製の五臓六腑
986年奝然が宋から請来した清凉寺・釈迦如来像と体内に納入された布製の五臓六腑

定朝作~平等院・弥陀如来像平等院・弥陀如来像の体内に納入された極彩色の心月輪・蓮台
定朝作~平等院・弥陀如来像と体内に納入された極彩色の心月輪・蓮台

運慶作~興福寺北円堂・弥勒仏像興福寺北円堂・弥勒仏像の体内に納入された厨子入り檀像、五輪塔、心月輪など
運慶作~興福寺北円堂・弥勒仏像と体内に納入された厨子入り檀像、五輪塔、心月輪など

ところが、体内の内刳りの中ではなくて、体の一部分に、納入物が埋め込まれているという話は、あまり聞いたことがありません。



【唐招提寺には、手の掌に納入物がこめられた仏像が・・・】


これからご紹介するのは、

「唐招提寺には、仏像の手の掌の中に、納入物が納められた像が何躯かがある。」

という話です。

何故だかはわからないのですが、「手の掌に、納入物が納められている仏像」が存在するのは、唐招提寺に残された仏像だけなのです。

「金堂・廬舎那仏坐像の手の掌の中と、瞳の奥に、珠が」

「木心乾漆菩薩像2躯の手の掌の中に、珠が」

「金堂・薬師如来像の手の掌の中に、古銭が」

それぞれ、納められているのです。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像

唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)唐招提寺・木心乾漆菩薩像
唐招提寺・木心乾漆菩薩像2躯、(左)伝観音像

唐招提寺金堂・薬師如来像
唐招提寺金堂・薬師如来像

現在、発見されている限りでは、唐招提寺の仏像以外で、手の掌への納入品が確認された例は、全くないのです。

何とも、不思議なことです。



【本尊・廬舎那仏の両手には、埋め込まれた数珠玉が~X線撮影で判明】


廬舎那仏像の手のなかから納入物が発見、確認されたのは、近年のことです。
それまでは、全く知られていませんでした。

発見のいきさつを、ちょっと振り返ってみたいと思います。

平成15年(2003)4月、こんな新聞報道がありました。

「X線撮影で本尊の両手に埋め込まれた数珠玉が判明 奈良・唐招提寺金堂」
(毎日新聞)

「鑑真の遺品? 謎の珠 仏の力増す? <唐招提寺本尊>」
(朝日新聞)

という見出しです。

唐招提寺金堂は、2000年から10年がかりでの解体修理、「平成の大修理」が行われました。
その間、2003年に廬舎那仏像と千手観音像の保存修理が行われました。
本尊・廬舎那仏像のX線撮影を行った処、両手のひらに数珠玉が埋め込まれていることが判明したという報道です。

朝日新聞の記事をご紹介すると、このような内容でした。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像
「解体修理の前半が終わり、24日、報道関係者に公開された唐招提寺金堂の本尊の盧舎那仏坐像と千手観音立像について、関係者が注目したのは盧舎那仏の両手のひらに数珠の珠(たま)が埋め込まれていたことだった。

『開祖の鑑真和上の遺品の数珠では』といった憶測も出て、謎の数珠への『ロマン』が一気に膨らんだ。
X線撮影で見つかった珠は水晶など鉱物質のもので、中央に貫通した穴があるため、数珠とわかった。

唐招提寺では、金堂の薬師如来立像(国宝)の左の手のひらに銅銭3枚が塗り込められている例と、収蔵庫の木心乾漆菩薩立像(重要文化財)の胸部と手のひらに瑠璃色の珠が込められている例と、類例が2体ある。
だが、他の寺では今のところ確認されていない。
このため、鑑真が中国から伝えた可能性も考えられている。

文化庁美術学芸課の奥健夫・文化財調査官は
『中国では、手のひらという例は見られないが、みけんや胸に珠を収めた例は文献にある。
仏の力を増すという意味があるのではないか』
と話す。

数珠の珠の材質が知りたいところだが、文化庁は保存上の問題はないため、後半の修理でも取り出さない方針という。永遠の謎で終わるかもしれない。」
(2003年4月25日付、朝日新聞・奈良版)

埋め込まれた「珠」が、鑑真和上の遺品かどうかは別としても、大変興味深い「手の掌に珠」発見の話でした。



【瞳の裏にも、珠が埋め込まれていた】


廬舎那仏のX線調査で判明した新事実のポイントは、次のようなものでした。

・両手の掌に、珠が、それぞれ大小2個ずつ埋め込まれている。

・珠の径は、約1.1センチ、0.9センチで、孔が貫通していることから、数珠玉と思われる。

・両眼の瞳には、石か焼き物の硬質材の、黒く塗られた半円板が貼り付けられている。

・その半月板の瞳の裏(あるいは内部)に、0.6センチ程の珠のような物体がこめられている。

X線撮影画像をご覧ください。
ごく小さな球が、手の掌と瞳の裏に込められていることが判ります。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先

唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先のX線撮影写真~手の掌の真ん中あたりに珠の白い影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先とX線撮影写真~
手の掌の真ん中あたりに珠の白い影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)"



唐招提寺金堂・廬舎那仏像~左手先

廬舎那仏左手のX線撮影写真~珠2個がこめられているのがはっきりわかる(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
唐招提寺金堂・廬舎那仏像~左手先とX線撮影写真~
珠2個がこめられているのがはっきりわかる(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)"



廬舎那仏像の眼~瞳に黒く塗られた硬質半円板が貼り付けられている
廬舎那仏像の眼~瞳に黒く塗られた硬質半円板が貼り付けられている
廬舎那仏像の眼のX線撮影写真~瞳の奥に丸い球の影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
廬舎那仏像の眼のX線撮影写真~瞳の奥に丸い球の影が見える
(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真




【唐招提寺の菩薩像2躯の手にも、珠の埋めこみが】


このような珠が、仏像にこめられているという例は、他には全くありません。

唯一、同じ唐招提寺の菩薩像2躯に、珠がこめられた仏像が存在するのです。

奈良末平安初期の作とみられる、木心乾漆造りの菩薩立像2躯です。
1躯の菩薩像(伝観音像)の胸に小孔が穿たれ、奥深く瑠璃一粒が納められていることは、前から知られていたのですが、
昭和53年(1978)に、本間紀夫氏によって行われたX線撮影で、2躯の菩薩像の手の掌に珠がこめられていることが判明したのです。
菩薩像(伝観音像)の左手の中と、もう1躯の菩薩像の右手と思われる残欠の中に、珠がこめられていたのでした。

唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)
木心乾漆菩薩像の右手先のX線撮影写真~手の掌の真ん中あたりに珠の影が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)
唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)と右手先のX線撮影写真
手の掌の真ん中あたりに珠の影が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)


唐招提寺・木心乾漆菩薩像
唐招提寺・木心乾漆菩薩像

唐招提寺・木心乾漆菩薩像の欠失した手(推定)木心乾漆菩薩像の欠失手のX線撮影写真~手の掌の真ん中に珠が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)
唐招提寺・木心乾漆菩薩像の欠失した手(推定)とX線撮影写真
手の掌の真ん中に珠が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)


菩薩立像の手のなかに珠がこめられているのが発見された時は、さほどの話題にならなかったのだと思います。
ところが、本尊・廬舎那仏像の手の掌のなかにも、珠(数珠玉)がこめられていたのが判明し、今度は、新聞記事に採り上げられるような話題になったという訳です。



【廬舎那仏の手と瞳にこめられた珠~その意味は?】


他にこうした例がないだけに、

「どうして、唐招提寺の仏像の手だけに・・・・・?」
「手のなかに珠をこめるのは、どんな意味があるんだろうか?」

と、俄然、注目を浴びるようになったのだと思います。

数珠玉をこめるというのは、なんらかの宗教的な意味があることは、間違いありません。
まだ、これだという解釈の決定打は、はっきりしないようです。

伊東史朗氏は、新聞の取材コメントで、

「貴重なものを埋め込むことで、信仰の深さや、仏像の高貴さを表そうとしたのではないか。」
(毎日新聞記事)

と語っています

発見に関わった文化庁の奥健夫氏は、もう一歩踏み込んで、このような見方を述べています。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像
「それらは(注:唐招提寺の仏像の手の掌に納入物があること)観念の上で、仏がその具体的な力を行使する道具である手の働きを増すことを願っての所為であろうと思われるが、特に廬舎那仏像についてはその造像の所依経典である『梵網経』に、自誓受の前に得るべき『好相』として仏の摩頂(頭を撫でること)を受けることが述べられていることとの関連が注目される。

菩薩戒を得るために像の前で慨悔する者は、その低く差し出された右手が自らの頭上に及ぶのを思い描きつつ、掌を注視したことであろう。

これらの二つの工作(注:瞳の裏と手の掌に、数珠玉がこめられていること)は、像が拝する者を目でとらえ、これに力を及ぼすことが期待されているとみられる点で、廬舎那仏像の性格を考える上で非常に重要な発見といえる。」
(「金堂の平成大修理で判明した祈りの造形」(奥健夫)週刊朝日百科・国宝の美13号2009.11)

「好相」とは、仏を見る神秘体験で、これによって懺悔が完了したことが証明されるというものだそうです。
瞳裏と手の掌に数珠玉が埋められたというのは、まさに「仏を見るという神秘体験」の中で、拝する者を仏に見つめられ、その手で頭を撫でられるという、宗教的な思いがこめられたということなのでしょうか。

それにしても、「手の掌に珠をこめた」仏像が、唐招提寺だけにしか存在しないというのは、何とも不思議なことです。
新聞記事の「鑑真の遺品の数珠玉か?」という記事ではないですが、ついつい鑑真と何らかの関係があるのではないかとの空想を巡らせてしまいます。



【金堂・薬師如来像の手の掌に埋め込まれていた、3枚の銅銭】


もう一つ、金堂・薬師如来立像の左手の掌に古銭が埋め込まれていた話も、振り返っておきたいと思います。

唐招提寺金堂・薬師如来像
唐招提寺金堂・薬師如来像

こちらの発見は、薬師像の制作年代推定の有力証拠となったため、よく知られている話で、ご存じの方が多いのではないかと思います。

薬師如来像の手の掌に、3枚の銅銭が埋め込まれているのが発見されたのは、昭和47年(1972)2月のことでした。

薬師如来像の表面の漆箔の浮き上がりが目立つため、一応の修理が行われた際、左手の掌の中央部に浮き上がりがみられました。
これを固定するために表層を起こすと、そこに、小さな丸い穴があけられ、3枚の銅銭が重ねて納入されていました。
「和同開珎、隆平永宝、万年通宝」の三枚です。

薬師如来像の左手の掌から銅銭が発見された状況
薬師如来像の左手の掌から銅銭が発見された状況
発見された3枚の銅銭(表裏)~左が「隆平永宝」
発見された3枚の銅銭(表裏)~左が「隆平永宝」

発見された時の所見によると、この納入が、造立当初に行われたことは間違いないとみられるものでした。



【銅銭発見により、薬師像制作年は延暦15年以降と判明
~金堂三尊の制作年代研究に大きな進展】


この銅銭の発見は、彫刻史研究上の大発見になりました。
これらの銅銭が鋳造された時期よりも、仏像の制作の方が古いということはあり得ず、制作年の上限を特定できることになるからです。

発見された銅銭のなかで、最も新しく作られたのは「隆平永宝」でした。
「隆平永宝」は、延暦15年(796)11月の詔により鋳造されたもので、薬師像の造立は、この時期を遡り得ないことが明らかになったのです。

唐招提寺金堂の三尊、廬舎那仏像、千手観音像、薬師如来像の制作年代については、この発見まで、同時期の制作か、時代差があるかなどについて、様々な議論がありました。

唐招提寺金堂・千手観音像
唐招提寺金堂・千手観音像

廬舎那仏像は脱活乾漆造り、千手観音・薬師如来像は木心乾漆造りと、技法が違うことから製作年代差があるのではないかとか、
薬師如来像などは、太腿の隆起を強調したY字状の衣文の平安初期的特徴から、奈良時代の制作ではなく平安時代に入ってからのものではないかともいわれるなどの疑問が呈されていました。

「隆平永宝の発見」は、これらの疑問を一気に解決したともいえるもので、薬師像は、奈良時代のものではなく、平安時代に入ってからの制作であることが明確になり、薬師像にみられる平安初期的な特徴が、美術史的に素直にすんなり理解できるものになったのでした。

現在では、廬舎那仏像は奈良時代の制作、その後に千手観音像、最後に薬師如来像という順に制作されたというのが、一般的な見方になっていると思います。



ところで、古銭を納める仏像についてですが、体内に古銭を納入する例はいくつかあり、最も有名なのは、清凉寺・釈迦如来立像でしょう。
背刳りの蓋板の裏にびっしりと銅銭が張り付けられていました。

清凉寺・釈迦如来像の背板があてられた背面釈迦如来像の背板裏面に貼り付けられた多数の銅銭
清凉寺・釈迦如来像の背面と背板裏面に貼り付けられた多数の銅銭


しかし、手の掌に古銭が埋め込まれているという仏像は、唐招提寺・薬師如来像だけです。

唐招提寺には、廬舎那仏像の造像以来、手の掌に何かを埋め込むことにより、宗教的な力を一層付与するという伝統が息づいていたのでしょうか?



【不思議な謎~どうして唐招提寺の仏像の手だけに・・・・】


今回の「仏像の手の話」は、

「唐招提寺の仏像の手の掌にだけ、何故だか、納入物かこめられている。」

話をご紹介しました。

どうして、唐招提寺に残る仏像にだけなのでしょうか?
この謎が、なかなか解明されるのは難しそうですが、不思議なことで、大変興味深い話です。



「仏像の手の話」を8回にわたって連載させていただきました。
そろそろネタ切れとなってしまいましたので、「今回で、おしまい」とさせていただきたいと思います。


新刊旧刊案内~「小説 日本博物館事始め」 西山ガラシャ著  【2017.7.8】


町田久成について描かれた、こんな本が出ました。


「小説 日本博物館事始め」 西山ガラシャ著 
 
2016年3月 日本経済新聞出版社刊 【256P】 1600円


西山ガラシャ著「日本 博物館事始め」


「町田久成? その人だれ?」

そう思われる方が、多いことと思います。



【東京国立博物館・庭園に建つ、町田久成顕彰碑】


東京国立博物館の本館の裏に、庭園があります。
その庭園の一角に、立派な石碑が立っています。

東京国立博物館庭園に建てられる「町田久成顕彰碑」

東京国立博物館庭園に建てられる「町田久成顕彰碑」~説明板
東京国立博物館庭園に建てられる「町田久成顕彰碑」

「町田石谷君碑」(石谷は久成の号)と題する、町田久成の業績をたたえる顕彰碑です。
碑文が刻されていますが、その一節に

「博物館ハ則チ君ガ提議シテ創設スル所ナリ」

とあります。

「この上野の地に、大博物館の創設を成し遂げた。」

この簡潔な一文に、町田久成、その人の業績が、凝縮されているといっても良いのかもしれません。

上野の博物館が開館したのは、明治15年(1883)のことでした。



【博物館の創設者、近代文化財保護の先駆者~町田久成】


この大博物館の創設にかけた町田久成という人物を描いた本が、ご紹介の「小説 日本博物館事始め」です。

町田久成(明治5年・34歳)
町田久成(明治5年・34歳)

AMAZONの本書内容紹介には、このように書かれています。

「明治15年、現在の東京国立博物館が竣工した。
外交官の道を断たれた男の、もうひとつの夢の実現でもあった。

『御一新とともに、寺や城は壊され、仏像や書画骨董が海外に流出していく。
<日本が生き残る道は西洋の物真似しかない>
と多くの人は信じているが、文明開化の時勢に流されて、日本の美と技をうち捨ててはおけぬ。
自分ひとりでもミュージアムを創る。
留学中に観た大英博物館のようなミュージアムを』

旧物破壊・廃仏毀釈の嵐に抗い、大久保利通、島津久光、岩倉具視など新政府の錚々たる面々が相見え火花を散らす政争に巻き込まれながらも、粘り強く夢を形にした官僚、町田久成。
幕末には薩摩国主の命で英国に留学した経験も持つ男を主人公として、維新の知られざる側面に光を当てたユニークな歴史小説です。」


設計者・コンドル筆の上野の博物館
設計者・コンドル筆の上野の博物館

町田久成という人物、本当に知られていないと思うのですが、明治維新以降の近代文化財保護保存の歴史を語るとき、また国立博物館の歴史を振り返るとき、忘れることは出来ません。


町田の業績として語られる、

・我が国文化財保護法の先駆となる「古器旧物保存方」の布告(明治4年・1871)

・近代初の文化財調査である古社寺宝物調査「壬申検査」の実施(明治5年・1872)

・東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)の上野の地での創設(明治15年・1873)

といった事柄は、まさに「近代文化財保護、保存の先駆者」そのものと言えるものでしょう。

明治期のこうしたテーマというと、必ず、その名が思い出され語られるのは、岡倉天心ですが、町田久成こそ、その先駆けとして、近代日本の文化財保護行政の方向を定めた重要人物なのです。

もっと、もっと広く知られ、語られていてもよい人物だと思っています。


町田久成の業績、人物像については、かつて、神奈川文化研HPに
と題する連載で、ご紹介をしたことがありますので、そちらをご覧いただければと思います。



【人間、町田久成を描き出した歴史小説~「日本博物館事始め」】


この町田久成にスポットライトを当て、博物館創設への生きざまを描いた歴史小説とは、何とも珍しい本が出たものです。
私にとって、「町田久成」について書かれた本となれば、捨てておくわけにはいきません。
早速、購入しました。

「目次」は、ご覧のとおりです。

西山ガラシャ著「日本 博物館事始め」~目次

一読してみた感想は、

「上野の博物館の創設を舞台回しに、人間、町田久成の生き様や、時代の空気を描き出した小説」

というものでした。
「小説」と題名の頭に冠している通り、町田久成を取り巻く人間模様など、まさに小説的要素が濃い内容となっています。

著者の西山ガラシャ氏は、1965年名古屋市生まれ。
2015年、『公方様のお通り抜け』で第7回日経小説大賞を受賞しデビューし、この本が、受賞後の第一作となるそうです。
まさに、作家として、「人間、町田久成」を描き出した作品ということなのだと思います。


この本、町田久成の評伝とか、博物館創設の物語を詳しく語った読み物かと思ったのですが、ちょっと違いました。
そうした知的興味、関心で読むと、少し物足りなく感じられるないかもしれません。



【もう一冊の、博物館と町田久成を知る好著~新書「博物館の誕生」】


この「小説 日本博物館事始め」を、本当に愉しく、興味深く読むためには、 もう1冊、次の本を読まれることをお薦めします。


「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」 関秀夫著
岩波新書 2005年刊  【241P】 780円


関秀夫著「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」

関秀夫著「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」~目次
関秀夫著「博物館の誕生」~目次

この本のAMAZONの内容紹介は、次のとおりです。

「東京帝室博物館(東京国立博物館の前身)は上野の山につくられた日本最初の近代総合博物館である。
国の中央博物館としての創設から皇室の博物館になるまでの激動のドラマを、明治維新の頃、外交官として活躍し、博物館づくりに情熱をそそいだ創設者、町田久成の生涯と重ね合わせて描きだす歴史物語。」

著者の関秀夫氏は、東京国立博物館名誉館員で、日本考古歴史学専攻の文学博士という研究者です。

新書版の本ですが、上野の博物館創設までの経緯と、町田久成の評伝的物語が、しっかりと要点を漏らさず、コンパクトにまとめられた名著ともいうべき本です。
こちらの方は、知的興味、関心を、十二分に満足させてくれる内容です。
読み物としても、面白く、興味深く愉しめる物語となっています。


この「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」を先に読んでから、「小説 日本博物館事始め」を読むと、明治維新後の博覧会から博物館創設への夢の実現へのいきさつ、苦難の道がよく理解され、小説の作者が語りたかった人間・町田久成についてもよく理解できて、その面白みが判るのではないでしょうか。

町田久成と博物館について書かれた、一般的な単行本は、この2冊しかないでしょう。
2冊セットで読んでみて、それぞれの本が、より興味深く味わいを以て読むことが出来るように思います。



【町田久成をめぐる ~IF~ 「もしも」の話】


ここからは、ちょっと付けたりですが、

「もし、町田久成が、・・・・・・だったとしたら?」

と、私が感じた話を、二つほどご紹介しておきたいと思います。



【もしも、外務省から左遷されていなかったなら?】


一つ目は、
若き日の町田久成が、外務官僚から左遷された話です。

「もし、この左遷がなかったとしたら?」

町田久成は、近代文化財保護の先駆者、博物館創設者として、現代に名を残すことは無かったのです。

町田家は、薩摩藩主、島津一門に連なる名家で、町田久成は26歳の若さで大目付となり、慶応元年(1865)には、藩のイギリス留学使節の監督として、2年余イギリスに滞在しています。

薩摩藩の留学生達(慶応元年・1865~ロンドンにて)前列中央が町田久成
薩摩藩の留学生達(慶応元年・1865~ロンドンにて)前列中央が町田久成

明治維新後は、新政府の外務省、外務大丞に任ぜられています。
新政府の外務官僚としての、スーパーエリートであったのです。
ところが、明治2年に来日した英国アルフレッド王子の接待役としての来賓饗応が厚遇に過ぎたということで、謹慎処分となり、左遷されてしまうのです。

上野博物館開館当時の町田久成(明治15年頃)
上野博物館開館当時の町田久成(明治15年頃)
この左遷は、薩摩の急激な開花政策に異を唱える尊王攘夷派が、反発を示す動きの一環であったようです。
開花派の大久保利通の権威を笠に着たようにふるまう町田久成を標的にして、追い落としたというのが真相のようです。
町田は、外務省を去り、閑職にも等しい大学(文部省)に移ることになりました。


政局に翻弄され、失意の中にあったであろう町田でしたが、新任務、大学(文部省)において、心機一転、「集古館」(博物館)建設、「古器旧物保存」(文化財保護)を、建議します。

そして、博覧会業務等を担当しながら、国家を挙げての大博物館の創設構想の夢をいだき、ついに上野の地に巨大な博物館創設を実現したのでした。
上野の広大な地に、大博物館の建設を実現するというのは、明治の初年においては、並大抵の腕力で出来得るものではないでしょう。
町田久成の毛並みの良さと実力、その後ろ盾となった大久保利通のパワーがあったからこそのことと思われます。

もし、外務省追放左遷という事件がなかったならば、町田久成は、明治期の外務官僚の大物として知られるようになったのかもしれません。



【岡倉天心にも、同じようなエピソードが】


同じような話で、思い出すのは、岡倉天心の話です。

若き日の岡倉天心(明治20年・24歳)
若き日の岡倉天心(明治20年・24歳)
岡倉天心は、東京大学での専攻は政治学で、卒論に「国家論」を数か月かけて書いた処、若くして結婚した基子夫人と喧嘩になり、夫人は、夫が3ヶ月を費やした労作を燃やしてしまうのです。
切羽詰まった天心は、たった2週間で、慌てて代用品の「美術論」を書きあげ提出。
おかげで、成績は下から2番目とふるいませんでした。

この「美術論」が縁となり、文部省に入省し、美術文化行政に関与することとなったという話です。
岡倉は、少年時から英語が堪能で、東大在学中もフェノロサの通訳をしていたという人材です。

この卒論焼却事件がなかったならば、政府の外務官僚として身を立てていた可能性が高かったのではないかとも思われます。


何やら、この二人、話が妙に符合します。

・明治期、近代文化財保護の大貢献者として名を残す、町田久成と岡倉天心が、共に外務官僚の道を進んでいた筈であった。

・或る事件、出来事をきっかけに、共に、心ならずも初志とは違う文化財、美術行政の道を歩むことになった。

・そして心機一転、博物館の創設、古社寺、文化財保護などに力を尽くし、今も、その名が語られる。

面白い話です。

町田も岡倉も、「もしも」このような事件がなかったならば、明治時代における外務官僚の大物とか、政治家として、名を残す人物になっていたのでしょうか?



【もしも、町田久成なかりせば、今の東博は違ったタイプに?
~歴史美術博物館?自然史博物館?産業科学博物館?】


二つ目の話は、

「もし町田久成がいなかったら、現在の東京国立博物館は違ったタイプの博物館になっていたかもしれない。」

という話です。

実は、  「近代日本の博物館の父」  と呼ばれる人物が、二人いるのです。

一人は、町田久成。もう一人は田中芳男です。

上野博物館開館当時の町田久成(明治15年頃).田中芳男
町田久成(左)、田中芳男(右)

田中芳男は、町田久成と同い年で、共に明治初年から博覧会事業、博物館創設事業などに携わった人物です。

町田久成(前列中央)と田中芳男(右向かってから3人目)~明治5年(1872)湯島聖堂博覧会記念写真
町田久成(前列中央)と田中芳男(右向かってから3人目)~明治5年(1872)湯島聖堂博覧会記念写真


当時、博物館の展示内容の性格付けには、三つの考え方がありました。

一つは、「動植物など天産物の自然史系博物館」という構想です。

自然科学を中心とした博物館構想で、動物園や植物園も備えた自然科学の総合博物館をめざそうとするものです。
もう一人の近代日本博物館の父と呼ばれる田中芳男の理想は、このような自然科学系の総合博物館を創設することでした。


二つ目は、「古器旧物など文化財展示のための歴史美術系博物館」という構想です。

考古遺物、古美術品をはじめとした古文化財美術品を展示する博物館をめざそうとするものです。
町田久成が構想した博物館は、この歴史美術系博物館でした。
町田久成は、明治4年に博物館建設の献言を行っていますが、その時、「博物館」という用語を使わずに「集古館建設の献言」を行っています。
当時、「博物館」という用語が、「博覧会とか物産会といった殖産興業的博物館」をイメージさせてしまう懸念をいだき、敢えて、わざわざ「集古館」という言葉を用いているのです。

現在の東京国立博物館は、この町田の構想通りの博物館として運営されています。


三つ目は、「殖産振興のための産業技術系博物館」というものです。

日本の輸出振興、産業発展をめざして、物産や工作機械などの展示を行う産業技術系博物館という考え方です。
この構想は、当然ですが、政府の産業振興のビジョンに沿ったものでした。


田中芳男の夢は、自然史博物館を創設することでした。
一方、町田久成の夢は、歴史美術博物館を創ることでした。

共に、強力な持論を以て推進しようとしたようで、上野の地に創設する大博物館の性格付けには、二人の間に、相当の確執があったようです。

完成時の上野の博物館
完成当時の上野の博物館

上野の動物園を開園したのは、田中芳男の構想によるものです。
町田久成は、動物園に反対であったようですが、博物館が開設された年の明治15年(1882)に、博物館の付属施設として開園しました。

上野動物園の正門(明治40年・1907頃)
上野動物園の正門(明治40年・1907頃)

上野動物園明治25~6年の上野動物園~子供が見えず大人が楽しんでいる
上野動物園明治25~6年の上野動物園~子供が見えず大人が楽しんでいる

上野の「博物館」が創設された当時は、町田久成、田中芳男に代表される二つの構想の確執が、決着を見ていない頃でした。

開館したころの博物館の展示品を見ると、古文化財より天産品の方が断然多いという状況であったようです。

開館当時の博物館~1階天産部陳列室(キリンの剥製が展示されている)

開館当時の博物館~~2階絵画陳列室
開館当時の博物館
(上)1階天産部陳列室~キリンの剥製が展示されている、(下)2階絵画陳列室


初代の博物館長には、町田久成が就任しますが、たった7ヶ月で解任となります。
その後、二代目の館長には、田中芳男が就任しますが、これまた、6ヶ月で辞任となりました。
いろいろな曲折があったようなのです。

そして、開館当時、農商務省の所管であった博物館は、その後、明治19年に宮内省の所管に変更され、皇室に相応しい、古文化財、古美術品を展示する「帝室博物館」として発展していくことになります。
町田久成は、博物館の宮内省への所管変更への動きのなかで、解任となった博物館に、別のポストで数年間復帰し、「歴史美術博物館」への方向付けに、尽力しています。

現在の東京国立博物館の有様を見ると、まさに、町田久成が明治初年に描いた「集古館」の構想の実現したものとなりました。

現在の東京国立博物館
現在の東京国立博物館

一方、田中芳男が抱いた「自然史博物館」への夢は、現在の国立科学博物館、上野動物園に実現されているといえるのでしょう。

国立科学博物館(上野公園内)
国立科学博物館(上野公園内)
現在の上野動物園入口
現在の上野動物園入口



【「町田久成の夢」を実現した、東京国立博物館】


上野の博物館の明治創設期をめぐる、こうした確執、経緯を振り返ってみると、現在の東京国立博物館の庭園に、立派な「町田久成顕彰碑」が建てられているのが、本当に納得できます。

町田久成顕彰碑
町田久成顕彰碑

その碑文に、

「博物館ハ則チ君ガ提議シテ創設スル所ナリ」

と刻まれていることへの、はかり知れぬ思いや重さを、感ぜずにはいられません。

もし、町田久成の「歴史美術博物館」創設への夢や執念が無かったならば、今の地に在る東京国立博物館は、もう少し違った性格の博物館となっていたのかもしれません。


私をはじめ、仏像好き、美術好きの皆さんは、明治初年の町田久成の博物館創設への夢に想いを致し、その功績に、大いに感謝しなければならないのかもしれません。

大津・三井寺法明院にある町田久成の墓
大津・三井寺法明院にある町田久成の墓