観仏日々帖

こぼれ話~「常念寺(京都精華町)・菩薩像は、薬壺を持っていたのか?」仏像の手の話⑦  【2017.7.1】


【平安前期の優作、一木彫像~常念寺・菩薩像】


京都府相楽郡精華町にある常念寺の菩薩立像を、拝されたことはあるでしょうか?

常念寺・菩薩立像
常念寺・菩薩立像(平安前期・重要文化財)

常念寺は、京都府の南の外れ。
もうすぐ奈良という、「祝園」(ホウソノ)駅の近くの古い集落の一角にあります。

祝園駅から歩いて7~8分の集落のなかに在る常念寺
祝園駅から歩いて7~8分の集落のなかに在る常念寺

平安前期、9世紀の、素晴らしい一木彫像です。
像高170.5㎝、ケヤキ材の等身像で、重要文化財に指定されています。

常念寺・菩薩立像

常念寺・菩薩立像
常念寺・菩薩立像

キリリと引き締まった緊張感あふれる、堂々たる当代一流レベルの優作です。

「凛として、静かなる雄渾さ」

を感じさせる、見事な造形といって良いと思います。
私の大好きな仏像です。



【昭和修理前は、「薬壺を手に持つ姿」をしていた常念寺像】


この平安前期の菩薩立像が、

「左手に、薬壺を持っていたのだろうか?」

というのが、今回のお話です。

「何を、馬鹿なことを云っているのか。」
「菩薩像が、薬壺を持っているなんて、あり得ないでしょう!」
「薬壺を持っているのは、薬師如来だけで、菩薩とは尊格が違うのだから。」

と、一笑に付されてしまいそうな話です。

現在の、常念寺・菩薩像の姿を見ると、右手は垂下し、左手は屈臂して指を捻じています。

常念寺・菩薩立像~右手を垂下し左手を屈臂する
常念寺・菩薩立像~右手を垂下し左手を屈臂する

ところが、かつては、左手に薬壺を持っていたのです。
この菩薩像、昭和25年(1950年)に修理されているのですが、修理前の写真が残されていますので、ご覧ください。

昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている
昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている

ご覧のとおり、この修理以前は、左手に薬壺を持った姿に造られていたのです。

本像は、両手肘から先は、共に後補でしたので、昭和修理の際に、薬壺を持つ後補の手は取り除かれて、現在の、指を捻じる姿に改められたのでした。

昭和修理後の左手
昭和修理後、指を捻じる姿に改められた左手先



【江戸時代には、間違いなく「薬師像」として祀られていた】


後補の薬壺を持つ手は、江戸時代に造られたと思われるものです。
この修理時に取り除かれた、薬壺を持った手は、現在もお寺に残されています。

昭和修理以前についていた薬壺を持つ左手先~江戸時代の後補
昭和修理以前についていた江戸時代の後補の薬壺を持つ左手先
お寺に残されている


また、常念寺のお堂には、この菩薩像と共に祀られていた、江戸時代の十二神将像も伝えられています。

常念寺・菩薩像と共に祀られる十二神将像(江戸時代の制作)
常念寺・菩薩像と共に祀られる十二神将像(江戸時代の制作)

ご存じのとおり、十二神将は、薬師如来の眷属です。
この菩薩像、江戸時代には、何故だか「薬師像」として祀られ、拝されていたのは間違いありません。

ただ、そうだとしても、

「薬師像として祀られていたというのは、近世になってからの話でしょう。
後世になってから、無理に薬師に改変されたに違いない。
なんらかの事情で、造像時の菩薩という尊格とは関係なく、薬師信仰の仏様に充てられたということじゃないの?」

と考えるのが、常識的ということになるのでしょう。
昭和25年の修理の時も、そのように考えられたから、今の左手の姿に改められたのだと思います。



【平安時代の制作当初から、「薬師像」として造られたとの新たな見方】


ところが、近年、この常念寺の菩薩像は「神仏習合像」で、

・平安前期造立当初から、薬師像として制作されたに違いない
・制作当初から、左手に薬壺を持つ姿に、造られていたのかもしれない

とみる考え方が、有力になってきたのです。

結論から云うと、常念寺の菩薩像は、

・神仏習合の思想に基づく、仏としての神像で、「菩薩の姿をした神様」として造られた。
・古記録に、「薬師菩薩」と称されている造像例と考えられる。

というのです。

「薬師は、如来じゃないの?
薬師が菩薩だなんて、そんな話聞いたことがない!」

と、おっしゃる方も多いのではないかと思います。


ここから、どうして常念寺の菩薩像が、神仏習合の「薬師菩薩」像と考えられるのかという話をみていきたいと思います。



【祝園神社の神仏習合像として造立された、常念寺・菩薩像】


まずは、常念寺・菩薩像の来歴です。

本像は、もともと祝園神社のなかにあった薬師寺の本尊として祀られていました。

祝園神社
祝園神社

明治の神仏分離の運動のなかで、明治11年(1878)に、神社関係者の菩提寺であった常念寺に、客仏として移されたと伝えられています。
先にふれたように、この像が、祝園神社・神宮寺において薬師像として祀られていたのは間違いなく、常念寺でも、境内に薬師堂が建てられて安置されています。

常念寺・菩薩像が祀られる「薬師堂」
常念寺・菩薩像が祀られる「薬師堂」"

祝園神社の歴史をたどると、崇神天皇時代の創立と伝える神社ですが、平安時代の初期には、この神社が存在したことが、明らかになっています。
平安時代に書かれた法制書「新抄格勅符抄」に、大同元年(806)、祝園神の封戸を認定する文書が収録されていることから、判るそうです。

常念寺・菩薩像は、この祝園神にかかわる神仏習合像として造立されたものと見られており、
伊東史朗氏は、貞観元年(859)に、祝園神が従五位上に進んだという記録があることから、この頃の制作の像の可能性があるとしています。(「精華町史」1996年刊)

いずれにせよ、常念寺像は、祝園神社、祝園神にかかわる神仏習合像として平安前期に造立され、長らく、「薬師」として祀られてきたというのは間違いないようです。



【「神」の姿は「菩薩」のカタチであらわされた神仏習合思想】


それでは、何故、神社で「菩薩」の姿をした「薬師」が造られたというのでしょうか?

この話は「神仏習合思想史」とか「神像の成立」といったことに、関わってくるわけですが、思い切って端折って云うと、こんな話になろうかと思います。

奈良時代、神仏習合の思想によって神宮寺などが造られ、「神」は神身を離れて仏道に帰依し、「菩薩」と称されるようになります。
よく知られる話ですが、

「天平宝字7年(763)に、多度神が仏道に帰依したいと満願禅師告げ、満願は小堂と神像を造立し、多度大菩薩と号した。」
(多度神宮寺伽藍縁起資材帳)

とされています。

多度神宮寺伽藍縁起并資材帳(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
多度神宮寺伽藍縁起并資材帳(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
多度神宮寺伽藍縁起并資材帳~冒頭部(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
7~10行目に「仏道に帰依し・・・・神像を造立し、多度大菩薩と号した」との記述がある


また、八幡神のことを「八幡大菩薩」と称するのは、ご存じのとおりです。

「神」は、「如来」ではなくて「菩薩」のかたちで、その姿を現したという訳です。



【「文徳実録」にある、「神の姿をあらわす薬師菩薩」の作例か?】


そして、平安前期には、「薬師菩薩」という神の概念が生まれてきたようです。
六国史の第五「文徳実録」の天安元年(857)年の条に、

「常陸国に在る大洗磯前、酒列磯前両神、薬師菩薩名神と号す」

と、記されているのです。
この二つの「神」が「薬師菩薩」と称され、「薬師菩薩名神像」が造られ祀られていたとみられるのです。

大洗磯前神社(薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる)

酒列磯前神社(薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる)
大洗磯前神社(上)と酒列磯前神社(下)~薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる~"

この「薬師菩薩」の造像遺例が、常念寺・菩薩像と考えられるという訳です。
神仏習合の「薬師菩薩像」として造立された像なのであれば、

「制作当初から、左手に薬壺を持った姿に、造られていたかもしれない?」

という想定は、それなりに真実味を帯びてくるということになってくるのです。

常念寺像が、神の姿を現す薬師菩薩像だといわれると、その厳しく凛々しい「静かなる雄渾さ」を感じさせる表情や造形が、まさに、神像としての神威を顕しているような気持ちになってきます。

厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)

厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)
厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)


「本当に、薬師菩薩像だったのでしょうか?」
「薬壺を持っていたのでしょうか?」

誠に、興味深い話です。

一方で、
「きっと、神仏習合の薬師菩薩像に違いない。」
とされる菩薩形の像は、常念寺像の他に、具体例を聞いたことがありません。
当時、「薬師菩薩」という神仏習合像が、それなりに造られていたのであれば、同様の作例が、もっと遺っていそうに思うのですが・・・・・

「神仏習合の薬師菩薩」という像が、まだまだ存在するのでしょうか?



【天部形なのに薬壺を手に持つ、もう一つの平安古仏~広隆寺・勅封薬師像】


実は、如来形ではないのに薬壺を手に持つ像が、もう一つ存在します。

「天部形なのに、左手に薬壺を持っている。」

のです。

ご想像がつく方が多いのではないかと思うのですが、京都太秦・広隆寺にある「勅封・薬師如来」と呼ばれている像が、それです。

この薬師像は、明治維新までは勅封の秘仏とされ、現在は、広隆寺の霊宝館の閉じられた厨子のなかに祀られています。
毎年、11月22日の一日に限ってご開帳されます。

この像は、「薬師如来」とされているのですが、その姿はちょっと変わっています。

広隆寺・勅封薬師如来像

広隆寺・勅封薬師如来像
広隆寺・勅封薬師如来像

ご覧のとおりです。

一見して天部形の姿をしていますが、左手に薬壺を持っているのです。
両手先は後補なので、造立当初から、薬壺を持っていたのかどうかはわかりませんが、古来、「薬師像」として祀られてきた像であることは間違いありません。

この像の制作年代は、平安前期のものと考えられており、重要文化財に指定されています。
像高97.6㎝、両手首先以外はすべて針葉樹の一材から彫り出され、内刳りはありません。



【天部形と菩薩形とが同居する薬師像?】


それにしても、不思議な姿をしています。

どう見ても、吉祥天とか梵天・帝釈天といった天部の衣をつけているのですが、よく見ると、天冠台を被り条帛を着けています。
天冠台、条帛は、天部の像には見られるものではなく、「菩薩」が身に着けるものです。
そして、薬壺を持っているのです。
天部と、菩薩と、(薬師)如来のスタイルが、同居しているのです。

どうして、このようなお姿に造られたのでしょうか?



【神仏習合像として神社で祀られていた、広隆寺・勅封薬師像】


この像の由来については、諸説あるのですが、もともと神社にあったもので、神を仏の姿にあらました像と云われています。

岡直巳氏は、

「広隆寺来由記」の檀仏薬師の項に、向日明神が神木に仏の形であらあれ、神が自らの姿にたいして「南無薬師仏」と唱えて拝んだことが説話的に述べられており、この像が天部形薬師像にあたる。(「薬師菩薩神社の神体考」神像彫刻の研究所収1966年刊)

としています。

伊東史郎氏は、

山城の乙訓社から、延暦13年に大原寺へ移された神験ある「仏像」が、平安後期に広隆寺に移されたという古記録があり、この像が現存像にあたる。(「広隆寺本尊薬師像考」学叢18号1996.3)

としています。

いずれにせよ、広隆寺の勅封・薬師像は、神社において神仏習合の像として造られた像なのです。
神の姿を、天部と菩薩の姿をミックスした形に表現した、薬師菩薩像として造られたということなのでしょうか?
やはり、当初から、薬壺を持つ姿に造られたのかもしれません。


菩薩形の薬師菩薩像の例は、ご紹介した常念寺・菩薩像の他には、明らかに該当するといわれるものがないのですが、
天部形の薬師像、神像とみられている像は、他にもいくつか存在しています。

同じ広隆寺の薬師堂安置の天部形薬師像、京八幡市・薬薗寺の吉祥薬師像、箕面市・勝尾寺の天部形像などです。

広隆寺・薬師堂(祖師堂)天部形薬師像.薬薗寺・吉祥薬師像
(左)広隆寺・薬師堂(祖師堂)天部形薬師像、(右)薬薗寺・吉祥薬師像

勝尾寺・天部形神像
勝尾寺・天部形神像


薬薗寺の吉祥薬師像は、もともと石清水八幡にあったと伝えられており、現在も、日光・月光菩薩像(室町時代)が脇侍で、薬師像として祀られています。
勝尾寺像は、両手を拱手し、笏を執っており、明らかに神像として造られたものと見られます。



【奥深く興味深い、神像と神仏習合の世界~神像なのか、僧形像なのか、仏像なのか?】


「神像」というと、一般的には、薬師寺の三神像や熊野速玉神社の女神、男神像のような姿の像を想像してしまいます。

薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像
薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像
薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像

熊野速玉神社・速玉大神像熊野速玉神社・熊野夫須美大神像
熊野速玉神社~速玉大神像(左)、熊野夫須美大神像(右)

僧形の八幡神坐像を別にすれば、みな高貴な人の服装というか、貴人の姿のように現されています。
昔は、神像といえば、当然に、このスタイルの像のことであったのだと思います。

ところが、近年は、いわゆる一般的な神像の姿をした像が造られる前に、そうではないスタイルの神像が造られていたのではないか、と云われるようになってきました。
神仏習合のなかで、神の姿は、僧の形や仏の姿で造り始められ、こうした像が、いわゆる一般に神像と呼ばれる像とは別に、結構存在するのではないかというのです。

何を以て「神像」という言葉を定義するかというのは、なかなか難しい問題だと思うのですが、

先にご紹介した薬師菩薩、吉祥薬師と呼ばれるような像も、神仏習合における神の姿を現す像、即ち神像として造られたのではないか?
また現在、僧形像とか地蔵菩薩像と呼ばれている像も、神の姿を僧のかたちであらわした神像として造られたものもあるのではないか?

とみられるようになってきたようです。

もともと姿などなかった神を、神像として「カタチ」にあらわすようになったのは、奈良時代の後期ぐらいからかと思うのですが、その最初期は僧形神像の姿で造られ、その後、菩薩形、天部形の神像が制作されるようになった。
こうしたなかで、一方では、貴人の姿の、いわゆる一般的な神像も作られるようになったというのが、最近の考え方になってきているようです。

かつては、こうした僧形や菩薩・天部形に造られた像は、僧形像や仏像と考えられ、神像とはみられていなかったのですが、実は神像として造られたのだという訳です。


平安前期までの制作の像で、近年、神像ではないかとみられるようになった像と、一般的な神像の代表的例を挙げると、ご覧のようなものになります。

平安前期までの、神像(神仏習合像)との見方がある像の代表例


箱根神社・万巻上人像神応寺・行教律師像
箱根神社・万巻上人像(左)、神応寺・行教律師像(右)

橘寺・日羅像.弘仁寺・明星菩薩像
橘寺・日羅像(左)、弘仁寺・明星菩薩像(右)

融年寺・地蔵菩薩像.法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪寺伝来)
融年寺・地蔵菩薩像(左)、法隆寺・地蔵菩薩像~大御輪寺伝来(右)

こうした見方は、まだまだ一般的な見方として、定着したとはいえないようですが、神仏習合と神像の始まり、初期神像の有様を考えていくうえで、大変興味津々のテーマです。


「仏像の手の話」ということで、
「如来の姿ではないのに、薬壺を手に持っている」
不思議な像の話から、
神の姿を仏の姿で現した仏像?神像?という神仏習合の世界について、少しばかり垣間見てみることになりました。


常念寺の菩薩像は、本当に薬壺を持っていたのでしょうか?

神の姿を現したという「薬師菩薩」であったのでしょうか?



常念寺の菩薩像と初期神像の話は、以前、観仏日々帖に「古仏探訪~京都府精華町・常念寺の菩薩立像 【その2】」に、採り上げたことがあります。
そちらもご覧いただければと思います。


トピックスに京都・新町地蔵保存会の地蔵像、3Dプリンタ・レプリカをお堂にお祀り 【2017.06.24】


「信仰の対象として地元の人々に守られる仏像」と「仏教美術・文化財としての仏像」との折り合いをつけることの悩ましさ、難しさについて、ちょっと考えさせられてしまうニュースがありました。


9世紀の一木彫像で、重要文化財に指定され、京都国立博物館に預託されている、「新町地蔵保存会の地蔵菩薩坐像」が、この度、3Dプリンターで精巧なレプリカが制作され、レプリカの方をお堂にお祀りすることになったという話です。



【18年前の調査で発見され、3年前、重文指定となった新町地蔵保存会・地蔵像】


この地蔵菩薩像、皆さんも、京都国立博物館の仏像陳列に、展示されているのをご覧になった方も、多くいらっしゃるのではないかと思います。
9世紀後半の制作とみられ、地蔵菩薩の坐像としては広隆寺講堂・地蔵菩薩像に次ぐ古例で、なかなかの迫力ある優作です。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(9世紀・重要文化財)
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(9世紀・重要文化財)~像高47.1㎝

実は、この地蔵像、京都下鴨(左京区下鴨松ノ木町)の、4~5坪ほどの小さな地蔵堂に祀られ、永年、地元の人々によって大切に守られ、信仰されてきた地蔵さまだったのでした。

1999年頃の文化財調査で、平安前期の制作の一木彫像であることが発見され、2002年に市指定文化財、2014年に重要文化財指定となりました。
2002年の文化財指定以来、京都国立博物館で保管、展示されています。



【貴重な文化財として博物館預託となり、やむを得ずレプリカをお祀りすることに】


永年この像をお守りしてきた地元の人々にとっては、文化財指定となったおかげで、お堂から肝心の仏さまが、いなくなってしまうことになってしまいました。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像が祀られていた、町の小さなお堂
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像が祀られていた、町の小さなお堂
(京都市左京区下鴨松ノ木町)


貴重な文化財の火災、盗難リスク対応として、博物館で保管管理されることになったのでした。
年に一度の「地蔵盆の日の里帰り」も、重要文化財指定以降は難しくなり、苦肉の策として、3Dプリンターによる模像をお祀りして、代替することになったという話です。



【NHK NEWS WEBで、地蔵様の「レプリカお祀り」のいきさつを報道】


このニュース、6/20付けの「NHK NEWS WEB~News up」に「地蔵菩薩を3Dプリンターで」という標題で、レプリカの里帰りのいきさつが掲載されていました。

記事の内容の一部をご紹介すると、次のようなものです。

「京都の世界遺産、下鴨神社にほど近い閑静な住宅街にある地蔵菩薩のお堂で、毎月、地域の人たちが集まって祈りを捧げてきました。
しかし、長年まつられていたお堂には、いま肝心の菩薩像がありません。
台座の上に置かれているのは、大きな写真パネルだけです。

地蔵像が博物館へ預託された後、厨子の前には写真が祀られている
地蔵像が博物館へ預託された後、祀られていた厨子には写真が置かれている

なぜ、写真だけになったのか、そのきっかけは京都市の調査です。
調査の結果、1000年以上も前の平安時代に作られた貴重なものだとわかったのです。
座っている地蔵菩薩像としては、国内で2番目に古い像だとされています。
そこで、京都市は平成14年、地蔵菩薩像を市の有形文化財に指定。
火災や盗難から守るため、菩薩像は国宝や重要文化財を数多く収蔵する京都国立博物館に移されました。

このためお堂には、地蔵の代わりに写真パネルが鎮座することになったのです。
それでも、毎年8月に行われる京都の伝統行事「地蔵盆」の時だけは元のお堂に戻されていましたが、2年前に国の重要文化財に指定されると、年に1回の里帰りもかなわなくなってしまいました。
長年親しんできた菩薩像が、写真だけではどうにも寂しい。
そこで、地域の人たちの思いに応える形で、本物そっくりのレプリカ作りが去年始まりました。
京都国立博物館がもっている3Dプリンターを活用して作成したのです。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(左)とそのレプリカ(右)
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(左)とそのレプリカ(右)

・・・・・・・・・・・・・・   (3Dプリンターでの仏像レプリカ制作の難しさや、苦労話などの話の記事が続きます)

そして6月初旬、地域の人たちが初めて作業現場を訪れ、レプリカと対面しました。
本物そっくりの姿に、歓喜の声があがりました。
衣のひだにうっすらと積もったほこりも再現され、細部に施された工夫に、じっくりと見入っていました。
そして、およそ1年の作業を経て完成したレプリカは6月13日から、京都国立博物館で、実物と並べてお披露目されています。

レプリカは、8月の地蔵盆に合わせて、地域の人たちが待つお堂に運ばれます。
そして、これからずっと、実物の代わりに安置されることになっています。
保存会の会長を務める矢島隆さんは、
「地域の宝として、これから大切にしていきたいです。関係者の皆さんに本当にお礼が言いたいです」と話していました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1000年の時を超えて、地域で親しまれ、残されてきた地蔵菩薩像。
3Dプリンターの技術や、慎重な色づけ作業のおかげで本物そっくりに仕上がったレプリカは、貴重な文化財を、どうやって後世に引き継いでいくのか、1つのヒントを示してくれているように感じました。」


お祀りされる主がいなくなってしまったお堂に、レプリカとはいうものの、地蔵菩薩が戻ってくることになった訳です。



【「信仰の対象としての仏様」と「貴重な文化財としての仏像」との折り合いの悩ましさ】


観光客、参拝客が多く訪れる有名寺院の場合は、こうした問題は起こらないのですが、地元の地区の人々に守られているお堂に祀られた仏像や、無住のお寺、住職はいらっしゃっても檀家や訪れる人も少ないお寺の仏像が、仏教美術として貴重な文化財であった場合、どのようにしてしっかり管理していくのかというのは、本当に難しく、悩ましい問題だと思います。

重要文化財に指定されている仏像の場合、お寺やお堂でお祀り管理していこうとすると、防災対策がされた収蔵庫が、原則必要ということになりますし、収蔵庫建設費用の地元やお寺の負担金も相当に必要ということになってしまいます。
また、収蔵庫が出来たとしても、防犯対応等の維持管理の手間も、なかなか大変です。

一方、仏さまは、その地の人々に永年守られ、厚い信仰のおかげで、現在在る訳で、
「貴重な文化財なので、博物館に移して管理します。」
と云われても、何とも割り切れない気持ちになってしまうことだろうと思います。


私も、地方のお寺や、地区の管理となっている仏像を拝しに、訪れることがよくありますが、

「大事にお祀り、お守りしているのですが、仏像もお堂の修理も、なかなかお金がかかってままならないのですよ。」
「貴重な文化財と云われても、管理していくのもなかなか大変で・・・・・」

といったお話を伺うことがよくあります。

ニュースになった新町地蔵保存会の地蔵さまも、博物館から戻そうとすると、お金をかけて収蔵庫を造らなくてはならないでしょうし、
コンクリートの収蔵庫ではなくて、今の小さなお堂にお祀りしてこそ、地元の人々にとって、お守りして拝する意味もあるということなのかと思います。

今般の、国立博物館の3Dプリンターによりレプリカを制作し、そのレプリカをお堂の方にお祀りするという話は、

「信仰の対象として祀られる仏様」と「仏教美術の貴重な文化財としての仏像」

という問題に、何とか折り合いをつける方法として、編み出されたものなのでしょう。

きっと、これがベストという訳ではないのでしょうが、大きなコストをかけずに、上手に対応していく一つのやり方として、これからも増えていくのかもしれません。



【京博で、本物とレプリカをセットで展示中】


この3D プリンターを用いたレプリカは、本物の重要文化財の地蔵像と二つ並んで、京都国立博物館に展示されているそうです。

京都国立博物館にセットで展示されている、新町地蔵保存会・地蔵菩薩像とそのレプリカ
京都国立博物館にセットで展示されている、新町地蔵保存会・地蔵菩薩像とそのレプリカ

レプリカの方は、8月17日に地元のお堂に戻って、19日の地蔵盆で開眼法要が営まれるということです。

どの程度精巧で、見紛うようなレプリカなのでしょうか?
機会があるようでしたら、京博に寄ってみられては如何でしょうか。



【近年の仏像模造、あれこれ】


近年、仏像の模造制作、いわゆるレプリカの精度は、本当に本物に限りなく近づいているようです。

ご存じのように、美術院国宝修理所では、制作当時の仏像の製作技術を研究するとともに、技術レベルの向上のためもあって、仏像の模造制作が行われています。
近年(2013年)では、唐招提寺・鑑真和上像の脱活乾漆技法による模造制作が行われました。

唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)~古色付けをする前唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)~古色付け後
唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)
~(左)古色付けをする前、(右)古色付け後~



また、東京藝術大学を中心とした「クローン文化財」と称する、文化財の模造制作も、マスコミを賑わして話題となっています。
仏像では、今年(2017年)「法隆寺・釈迦三尊像」の模造が、東京藝大と富山高岡市との連携で制作されました。
3Dデータ計測、および3Dプリント出力による原型づくりを行い、高岡の鋳造技術により金銅仏の模造を「クローン文化財」として制作したものです。
いわゆるレプリカ(複製)とは異なり、オリジナルを超越するという位置付けだそうです。

法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)~鋳造すぐの姿

法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)
法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)~(上)鋳造すぐの姿

この「クローン文化財」の法隆寺釈迦三尊像は、2017年7月2日まで、東京藝術大学の「Study of BABEL」展で、展示されています。
私も観てきましたが、なかなかの精巧なレベルで真迫性もあり、ビックリしました。



NHKニュースで採り上げられた、新町地蔵保存会のレプリカ制作と里帰りの話題、
近年の3D技術の精巧さに、今更ながら驚かされるとともに、
「信仰される仏様」と「文化財保護保存」という悩ましき問題の折り合いについて、考えさせられる話でした。

こぼれ話~「広島・古保利薬師堂、薬師坐像の手」仏像の手の話⑥  【2017.6.18】


【忘れ得ぬ「貞観の手、貞観の指」との出会い】


この手を初めて見た時、思わず、その魅力に惹き込まれてしまいました。

広島県の山中にある古保利薬師堂の薬師如来像の手です。

古保利薬師堂・薬師像の右手(昭和46年夏、初めて訪ねた時の撮影)

古保利薬師堂・薬師像の左手(昭和46年夏、初めて訪ねた時の撮影)
古保利薬師堂・薬師像の手~右手(上)、左手(下)
(昭和46年夏、初めて訪ねた時の撮影写真)


ご覧の「手の写真」は、初めてこの薬師像に出会ったときに、撮った写真です。

薬師像を拝すると、まず、グッと突き出した大きな手のひらが、目に飛び込んできます。
その手から発散するエネルギッシュなパワーに、まずもって圧倒されてしまいました。

グッと突き出した大きな右手に圧倒される古保利薬師堂・薬師像
拝すると、グッと突き出した大きな右手に圧倒される古保利薬師堂・薬師像

なんとも分厚い手のひら、太い指です。

「逞しく、頼もしく、力強く」

こんな修飾語がぴたりとあてはまるようです。

「凄い、貞観の手だ、貞観の指だ!」

と、すっかりその手の魅力の虜になってしまいました。

そんな興奮を覚えたのは、もう45年も前のことです。
昭和46年(1971)の夏、二十歳過ぎの学生時代に、はじめて古保利薬師堂を訪ねた時のことでした。



【苦労して訪ねた、広島の山間にある古保利薬師堂】


「古保利薬師堂? 聞いたことのないお寺だな。」

という方も、いらっしゃるのではないかと思います。

地方仏探訪をされたことがある方は、よくご存じなのではないでしょうか。
魅力あふれる平安古仏群が残されていることで、山陽方面の地方仏行脚では、必見度ナンバーワンといってもよいところかと思います。

古保利薬師堂は、広島県山県郡北広島町という処にあります。

広島市から北の方の山間部にあって、もうすぐ島根県との県境という鄙の地です。
私が学生時代、同行のメンバー数人でここへやってきたときは、広島駅からバスに乗って2時間もかかりました。
「八重」という名のバス停で降りて、お堂のある小高い森までトボトボ歩いて、やっとこさで行きついた覚えがあります。

今では「中国縦貫道の千代田インターから5分で到着」しますので、あの頃、苦労して訪ねたことが夢のようです。



【「豊かで、おおらか」地方仏の魅力満点の薬師像~平安前期の優作】


古保利薬師堂は、村の人々で管理されている無住のお堂でした。

昭和30年代の古保利薬師堂参道

昭和30年代の古保利薬師堂本堂
昭和30年代の古保利薬師堂参道と本堂

案内いただいた方によって、薬師如来像が祀られるお厨子が開かれた時、真っ先に目に飛び込んできたのが「この手」という訳です。

厨子が開かれると、真っ先に目に飛び込んでくる、逞しき右手((昭和46年夏、撮影)border=
お厨子が開かれると、真っ先に目に飛び込んでくる、逞しき右手
((昭和46年夏、撮影写真)


「逞しき手」に、釘付けになってしまったのでした。

薬師如来像の姿は、ご覧のとおりです。

古保利薬師堂・薬師如来坐像
古保利薬師堂・薬師如来坐像

一言で云えば、

「なんといっても、豊かなボリューム感が魅力!」

という表現に尽きるように思います。

「丸々と太った顔、大きな眼、彫りの深い衣文、はち切れるような量感」

で、観るものを惹き付けます。

古保利薬師堂・薬師如来坐像~丸々と太った顔、大きな眼が印象的
古保利薬師堂・薬師如来坐像~丸々と太った顔、大きな眼が印象的

平安前期の堂々たる優作と云って、間違いありません。
平安前期の像と云うと、

「緊張感ある迫力、強烈な個性や森厳さ、霊威的なオーラ」

このような言葉で形容されるイメージがあるのですが、この古保利薬師堂の薬師像は、そうした気合を入れた緊張感といったものを感じさせません。

「明るくおおらかで伸びやか、豊かで頼もしい」

そんな言葉が似つかわしいのです。

古保利薬師堂・薬師如来坐像~おおらかで伸びやか、豊かな造形
古保利薬師堂・薬師如来坐像~おおらかで伸びやか、豊かな造形

山陽地方の穏やかな気候に相応しく、土地の人々の豊穣の喜びがそのまま吹き込まれたような息吹を感じてしまうのです。

「これぞ、地方仏の魅力そのもの!」

といって良いのではないでしょうか。

そんな魅力の極め付けが、「肉付きの良い、頼もしい手」という訳です。



【専門家、評論家も「薬師の手」を絶賛】


古保利薬師堂を訪れた専門家や評論家の方々も、この「薬師如来の手」に、強く惹きつけられるものを感じられたようです。

その著作の中で、「手の魅力」を語っている文章を、ご紹介したいと思います。

地方仏の紹介者として知られる丸山尚一氏は、このように語っています。

「本尊の薬師如来像は坐高124㎝、仏像としてそれほど大きな方ではないが、その豊かな量感が坐高以上の大きさを感じさせる。
・・・・・・・・・
こんな大きな眼の仏像が、他にあるだろうか。
ぼくは見たことがない。
また、その大きな右手を見たまえ。
仏の手というより、仏を作る職人の力強い手だ。」
(「生きている仏像たち~日本彫刻風土論」1970年読売新聞社刊)

観る人を魅了し、惹きつけてやまない古保利薬師像の右手
観る人を魅了し、惹きつけてやまない古保利薬師像の右手


日本彫刻史研究の大御所、久野健氏の解説です。

「顔も、体躯も丸々と肥満しているところは、天平時代でも古い頃の様式が残っており、さらに唇に古式の微笑をたたえているところなど、まことに古様である。
肉付きの良い頼もしい両手は、新薬師寺薬師如来像の手に近いが、さらに古い要素を持っている。」
(「続・日本の彫刻~東北―九州」1965年美術出版社刊)

側面から見た古保利薬師像~右手指の大きさ太さが際立つ
側面から見た古保利薬師像~右手指の大きさ太さが際立つ
新薬師寺・薬師坐像の腕・手を思わせる



岡山の美術評論家、柳生尚志氏が綴った文章です。

「何よりも広げた掌の大きさに感動する。
指の一本一本が太く、厚く、仏の手というよりも土着の働く農民の手である。
これほどまでに健康で明るく、あけっぴろげな仏は珍しいと思う。」
(「西の国の仏たち」1996年山陽新聞社刊)

古保利薬師像の右手
分厚く太い指の、古保利薬師像の右手

それぞれに、表現は違いますが、「薬師像の手の造形」に目を瞠り、その魅力に賛辞を送っているのが、お判りいただけると思います。
それほどに、惹きつけるものを感じさせるのだと思います。


私も、古保利薬師との初めての出会いで、薬師如来の手に感動して以来、この手は、ずっと「平安前期の当初の制作」そのものだと信じ込んでいました。



【現代の新造だった「薬師の手」~知らなかった驚きの事実】


ところが、何と、そうではなかったのです!

そのことを知ったのは、古保利薬師を訪れてから四半世紀も経った頃ではなかったかと思います。
ある時、こんな珍しい古書を手に入れたのです。

「回想の古保利薬師」 三宅昭典編著 1985年刊  124P

回想の古保利薬師(私家版・1985年刊)

私家版の本で、少部数発行された本だと思います。

編著者の三宅昭典氏(歯学博士)は、長らく古保利薬師堂の護持、保存に努められてきた、地元の歯科医師、三宅蔶氏の長男にあたる方だそうです。

この私家版の本に、こんな記述があるのを見つけました。

「薬師如来像の手は、戦後、昭和の新造の手である。」

と、書かれていたのです。

「エ、エッ!! あの手は現代の手なの!」

超ビックリ、驚きの新事実です。

このように書かれていました。

古保利薬師堂・薬師如来像~右手
古保利薬師堂・薬師如来像~右手
「最後に手であるが、仏像に関心のある者が、仏体の造形上の性格によくあった貞観期の仏手として称賛されている。
しかし実情を紹介すると、これは仏師白石氏の制作にかかるものである。
それ以前は、元禄6年に立川氏を願主としての修理の際の作品で、実に粗末な見るに耐えないしろ物であった。
白石氏は、平安初期の代表的薬師如来である奈良の新薬師寺の仏手をイメージしながら新造したといわれた。」
(岡徹夫氏執筆「古保利薬師堂」の一節~「回想の古保利薬師」所収)


私が、薬師像にはじめてであった時、

「凄い、貞観の手だ、貞観の指だ!」

と、感動した手と指は、なんと現代の手、新造された手だったのでした。



【昭和24年の修理の時、白石仏師の手で新造されていた】



薬師如来像は、昭和24年(1949)の2月から5月の三か月をかけて、白石義男氏の手により修理されていました。
その時に、江戸の後補の手の部分を除去して、新造の手を制作したものであったのでした。
(松本眞著「古保利の仏像」広島修道大学学術選書・2004年刊所載の年表による)

修理にあたった白石義男氏は奈良在住の仏師で、仏像修理の「美術院」に長らく籍を置いた方だそうです。

「回想の古保利薬師」の本や、松本眞著「古保利の仏像」には、古保利薬師堂仏像修理をする白石氏の写真や、修理前の薬師像の姿、江戸の後補の手の写真などが、掲載されていました。

白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)
白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)

古保利薬師堂諸仏を修理する白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)

古保利薬師堂諸仏を修理する白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)
古保利薬師堂諸仏を修理する白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)


修理前の薬師像の姿は、今の魅力あふれる姿とは、似ても似つかない様な姿で、拙劣な上塗りで大きく像容を損じています。
江戸の後補の、取り除かれた手は、何とも拙劣、不細工と云えるものです。

昭和24年の修理前の古保利薬師像(松本眞著「古保利の仏像」所載)

昭和24年の修理前の古保利薬師像の江戸時代後補右手(松本眞著「古保利の仏像」所載)
昭和24年の修理前の古保利薬師像の姿と、取り除かれた江戸の拙劣な後補の右手
(松本眞著「古保利の仏像」所載)"


こんな見映えのしない像が、白石仏師の手で、貞観彫刻の魅力を取り戻すことが出来たのです。
そして、「新造された手」は、多くの専門家の方の眼にも、「制作当初からの魅惑の手」に映ったという訳です。

それほどに「見事な造形の新造の手」であるということなのだと思います。
白石仏師の巧みで素晴らしき腕に、感嘆、讃嘆するばかりです。



【新薬師寺・薬師像の手をイメージして造られた、古保利薬師の手】


久野健氏は、
「肉付きの良い頼もしい両手は、新薬師寺薬師如来像の手に近い。」
と綴っていますが、

白石仏師自身も、
「奈良の新薬師寺の仏手をイメージしながら新造した」
と語っています。

新薬師寺・薬師如来像古保利薬師堂・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像と古保利薬師堂・薬師堂

たしかに、新薬師寺・薬師像の逞しい手の指と見較べてみると、そっくりです。
古保利薬師像の手の方が、少々野太く、ゴツイ感じがしますが、よく似ています。

側面から見た新薬師寺・薬師如来像の右手

側面から見た古保利薬師堂・薬師如来像の右手
側面から見た新薬師寺・薬師如来像(上)と、古保利薬師堂・薬師像(下)の右手

新薬師寺・薬師如来像の右手指古保利薬師堂・薬師如来像の右手指
新薬師寺・薬師如来像(左)と古保利薬師堂・薬師像(左)の右手指


この驚きの新事実を知って、私は、
「なーんだ、昭和の新造か! カッカリだなー!」
と思ったというのではなく、
「昭和の仏手でも、観る者を、これだけ感動させる魅力あるカタチを造ることが出来るのだ!」
と、むしろ讃嘆の声を上げたい気持ちになりました。

まさに、モノの見事に、平安初期の迫力ある造形精神を注入した仏手の表現を、成し遂げたといえるのではないでしょうか。



【古保利・薬師像の魅力を存分に引き出した、現代の手】


田中恵氏も、その著作の中で、

「この手が後補新造だといえども、いささかもその魅力を減じるものではない」

という思いを、このように語っています。

「薬師像の右手の豊かさは、・・・・・強さと自信に満ちた意志の力を感じる造形である。
だが、右手の指は後補らしいと最近聞いた。
・・・・・・・
戦前の古保利の薬師の手はついているが現在のようなものではない。
従って常識的には、戦後の後補である。
しかし何とぴったりの手だろうか。
もしすべて後補としても、その存在感は後補の作者が全体の造形を鋭く観察していた結果であろう。
今でも、この手が後補ということは考えたくないほどである。」
(「隠れた仏たち・里の仏」1997年・東京美術刊所収)
~なお、古保利薬師の手は、両手先とも新造の後補です~


全くの同感です。

私達は、古仏の腕や手、顔などが後補だとわかると、

「なーんだ! 後補の模造か!」

と、ちょっと馬鹿にしたり、軽んじたりすることが、間々あるように思います。

たしかに、いかにも出来が悪かったり、わざとらしかったりするものも多いのですが、一方で、制作当初の造形精神を見事に体現している、素晴らしい新造の後補のものにも出会うことがあります。
古保利の薬師像の新造の手は、この仏像の魅力を、減衰させるどころか、むしろ、魅力を一層引き出し、惹きつける役割を果たしているといえるのでしょう。

この手がなければ、古保利の薬師像は、これほどに傑出した地方仏として、その魅力を語られることは無かったのに違いありません。

仏手の新造にあたった白石仏師に、大いに感謝しなければならないのかもしれません。



【奈良の有名国宝仏にも、間々ある、新造後補の手】


ちょっと余談ですが、日頃見慣れている名作仏像のなかにも、手が新造後補という仏像は、結構あるものです。

天平彫刻の傑作、興福寺・阿修羅像の右手合掌手や、東大寺戒壇院の四天王像の腕と手、三月堂の日光菩薩の指先なども、明治年間に、新納忠之介をはじめとする美術院によって、新造後補されたものです。
修理前の古写真と、現在の写真を見較べていただけると、一目瞭然で、よく判ると思います。

明治修理以前の腕の折れた興福寺・阿修羅像(明治27年・工藤利三郎撮影)
明治修理以前の腕の折れた興福寺・阿修羅像(明治27年・工藤利三郎撮影)

興福寺・阿修羅像(明治35~38年の修理で折れた手が修理修復された)
興福寺・阿修羅像(明治35~38年の修理で折れた手が修理修復された)


明治修理(明治38~39年)直前の東大寺戒壇堂四天王像~後世につけられた拙劣な腕・手が除去されている明治修理(明治38~39年)直前の東大寺戒壇堂四天王像~後世につけられた拙劣な腕・手が除去されている
明治修理(明治38~39年)直前の東大寺戒壇堂四天王像~後世につけられた拙劣な腕・手が除去されている

東大寺戒壇堂・四天王像(増長天像)東大寺戒壇堂・四天王像(広目天像)
現在の東大寺戒壇堂・四天王像~(左)増長天像、(右)広目天像


東大寺法華堂・日光菩薩像の手先(明治修理時、新造の指先が付けられている)東大寺法華堂・日光菩薩像の手先(明治修理時、新造の指先が付けられている)
東大寺法華堂・日光菩薩像の手先(明治修理時、新造の指先が付けられている)

これらも、新造後補とはいうものの、当初の造形表現に見事にマッチし、それぞれの仏像のもつ魅力を一段と高めているようです。

制作当初の造形精神、造形表現の体現を追求し、仏像修理修復にあたってきた仏師の方々の、労苦、研鑽に思いを致すのも、また大切なことと改めて感じました。


今回は、若き日にその魅力の虜になった、広島の山奥にある「古保利薬師堂・薬師像の手」にまつわる物語をご紹介させていただきました。



【魅力あふれる平安古仏群がどっさりの古保利薬師堂】


なお、この古保利薬師堂には、薬師如来像の他にも、数多くの平安前中期の魅力あふれる一木彫像群が残されています。
全部で12体が、収蔵庫に安置されており、全て重要文化財に指定されています。

現在の古保利薬師堂・収蔵庫の諸仏安置状況
現在の古保利薬師堂・収蔵庫の諸仏安置状況

なかでも、千手観音像、四天王像は、ひときわ惹きつけるものを感じる像です。

千手観音像は、千手の腕まですべて本体と共木で刻み出した像で、こうした造りの像は、本像の他には見られないのではないかと云われています。
前話の新薬師寺・薬師像の話ではないですが、「徹底した一木へのこだわり、執着」を感じさせる像です。

古保利薬師堂・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている

古保利薬師堂・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている
古保利薬師堂・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている

四天王像は、大きな動きで怒りをむき出しにした強烈な個性のある姿ですが、何処かしら愛着を感じる表情が魅力の古様な像です。

古保利薬師堂・四天王像~持国天像古保利薬師堂・四天王像~多聞天像
古保利薬師堂・四天王像~(左)持国天像、(右)多聞天像

古保利薬師堂・四天王像~増長天像
古保利薬師堂・四天王像~増長天像


まだ古保利薬師堂を訪ねられたことのない方は、是非一度、薬師像をはじめとした諸仏を拝されることをお薦めします。

私が、2009年に再訪したときには、寺観が整備されていて、40年前とはすっかり様変わりで、隣に歴史民俗資料館まで建てられていました。
仏像は、昭和56年(1981)に新造された収蔵庫に安置され、大変明るい照明のなかで拝することが出来ました。

古保利薬師堂・仁王門~昭和59年・1984新築
古保利薬師堂・仁王門~昭和59年・1984新築

古保利薬師堂・収蔵庫~昭和56年・1981新築
古保利薬師堂・収蔵庫~昭和56年・1981新築


広島県の山間というちょっと不便なところにありますが、中国縦貫道・千代田インターから5分の近さです。
わざわざ行ってみる値打ちのある、素晴らしい魅力の平安古仏群に出会えることと思います。


こぼれ話~「新薬師寺・薬師如来像の腕~一木への執着」仏像の手の話⑤  【2017.6.3】


【平安初期一木彫時代の劈頭を飾る傑作、新薬師寺・薬師如来像】


新薬師寺の薬師如来坐像。
ご存じのとおり、天平時代の十二神将塑像に取り囲まれて祀られています。

新薬師寺・薬師如来像
新薬師寺本堂に祀られる薬師如来像

今更言うまでもありませんが、神護寺・薬師如来像と並んで、平安初期彫刻を代表する一木彫像の傑作です。
カヤ材による一木彫、素木仕上げのいわゆる檀像風彫刻です。

新薬師寺・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像

眼近に拝すると、圧倒的な量感、存在感で迫ってきます。
異常なほどに大きく見開いた眼、大ぶりな鼻、めくれ上がるような唇で、強烈な個性を主張しています。
がっしり盛り上がった肩や、分厚い胸板、膝前の張りと厚み、どれをとっても、ものすごいボリューム感で、塊量的という言葉そのものです。

新薬師寺・薬師如来像

新薬師寺・薬師如来像
圧倒的な量感、存在感、大きく見開いた眼が印象的な新薬師寺・薬師像

整ったという言葉とは縁遠いアンバランスともいうべきものなのですが、発散する内なるエネルギーとかパワーを強烈に感じさせます。
「存在感」とはこういう造形のことを云うのだと、観るものを唸らせてしまいます。

造像年代については、奈良時代後期から平安初期に至るまでの諸説があるようですが、平安初期一木彫時代の劈頭を飾る優作の巨像に、間違いありません。



【パワフルで逞しい、薬師像の腕と手】


今回は、この新薬師寺・薬師如来像の「腕と手についての話」を採り上げてみたいと思います。

この薬師如来像の腕と手指ですが、これまたパワフルな迫力を感じさせるものです。

新薬師寺・薬師如来像の腕と指
逞しくパワフルな新薬師寺・薬師像の腕と手

右手の二の腕をみると、考えられないほど太い腕っぷしです。
肘から手首までも、これまた逞しさそのものです。
そして、最も目を見張るのは、掌と指の造りです。

新薬師寺・薬師如来像の右手掌と指
分厚く太い新薬師寺・薬師像の掌と指

異常に大きく、分厚く太いのです。
一本一本の指の太さ、親指の付け根の厚みは、何大抵のものではありません。
グッと前に突き出した腕と手指の造形だけをとっても、オーラというか、霊的なものを強く感じます。



【「縦木材」を用いる、特異な矧付け方の腕】


薬師如来像の腕と手、その造形の迫力もさることながら、ここで注目したいのは、その用材の特異な矧付け方です。

この薬師如来像の腕の構造上の特徴は、前の方に突き出した右手の腕と手先が、「縦木材」数材を矧ぎ付けて、造られているということです。
「縦木材で造られている」
と云われても、
「何のことか、何を言いたいのか、全くわからん!」
と、言われてしまうと思います。

しかし、この「縦木材」ということが、大変注目すべき重要事実なのです。



【大型の一木彫像を造るときの、用材の構造とは】


「縦木材」「横木材」の話に入る前に、大型の一木彫像を制作する時の、用材の使い方について、ふれておきたいと思います。

大型の一木彫坐像の標準的な木の寄せ方
大型の一木彫坐像の体幹部と膝前部の
標準的な木の寄せ方
大型一木彫像を制作する時には、腕や手の部分や、坐像の場合の膝前の部分など、頭や胸、胴といった体幹部から外れて、突き出したり拡がったりする部分は、体幹部の材とは別の材を寄せて矧ぎ付けるのが一般的です。

体幹部を一本の材木で彫り出せる樹木というだけでも、相当の巨木が必要になります。
体幹部から外へ拡がる部分まで、一つの材木から彫り出すことが出来るような巨木を得るというのは、極めて困難なことだからです。

新薬師寺の薬師如来像も、像高191㎝、膝張154.㎝もある大きな像です。
体幹部の主材だけでも、幅95㎝、奥行き75㎝もありますから、カヤの巨樹を用いているのです。
前に突き出した腕、手や、膝前の部分まで、すべてを一材から彫り出すことが出来る巨木など、望むべくも無かったのでしょう。

体幹部とは別の材を矧ぎ付けて、造られています。



【「横木材」を用いず、難しい「縦木材」を矧ぎ付けた、薬師像の腕】


話を、腕の材木の「縦木材、横木材」の話に戻したいと思います。

通常、突き出した腕を矧ぎ付けるときは、「横木材」を用います。

横木材(ヒノキ材)
横木材(ヒノキ材)

横木とは、年輪に対して並行にとった材で、長い材をとることが出来ます。
横木をつかうと、腕は、一本の横木を使って彫ることが出来るわけです。
また、木目に沿って鑿で彫ることになりますので、彫り易いということになります。

ところが、新薬師寺・薬師像の腕は、驚くべきことに「縦木材」を用いて造っているのです。
縦木とは、年輪に対して直角にとった材です。

縦木材(ヒノキ材)
縦木材(ヒノキ材)

当然に、用材の直径以上の長さ(横幅)の材はとれない訳です。
薬師像の腕、手は、この縦木材を、数材横に並べて矧ぎ付けているのです。
縦木を木目に直角に小口の方から彫り出すことになりますので、彫刻も難しくなります。
衝撃にも弱くなり、縦の木目に沿って折れやすくもなります。

長い横木を用いれば、そんな問題に煩わされず、全く造作なく作れるのです。
それなのに、わざわざ縦木材を前後に並べて、腕、手を造っています。
肘から先には、3材の縦木材を寄せています。

なお、左手の手首から先の部分だけは、横木材が使われています。
この手先を縦木で彫るのは、目切れがして、どうしても彫るのが難しかったのかもしれません。

腕の部分を、縦木と横木で造ることの違いは、山崎隆之氏作図の模式図をご覧いただけると、良くお判りいただけると思います。

横木材を用いた腕の矧ぎ付け方(通例の矧ぎ付け方)
横木材を用いた腕の矧ぎ付け方(通例の矧ぎ付け方)

縦木材を数材用いた腕の矧ぎ付け方(新薬師寺・薬師像の矧ぎ付け)
縦木材を数材用いた腕の矧ぎ付け方(新薬師寺・薬師像の矧ぎ付け)
~「一度は拝したい奈良の仏像」学習研究社刊所載・山崎隆之氏作図~


新薬師寺・薬師像の腕を横から撮った写真を見ると、縦木材を矧ぎ付けた矧ぎ目の線が、縦に入っているのが見て取れます。

新薬師寺・薬師像の右腕~縦木材を用いた矧ぎ目の縦線が見える
新薬師寺・薬師像の右腕~縦木材を用いた矧ぎ目の縦線が見える

さて、横木を用いれば、一本の材で容易に彫ることが出来るのに、どうして、わざわざ難しい縦木材にこだわったのでしょうか?

きっと、体幹部の縦の木目に、腕や手の木目も合わせることに、こだわったということなのでしょう。
腕や手先までも、一本の巨樹から丸ごと彫り出した像のように見せたかったということなのではないでしょうか?



【驚くべき事実~膝前部も「縦木材」を束ねるように矧ぎ付け】


実は、腕以上に、一木への執着が判る、驚くべき事実があるのです。
趺坐している、両脚部の膝前の拡がりの部分です。

新薬師寺・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像

この膝前の部分こそ、大きく長い「横木材」で彫るのが、当たり前なのですが、なんと「縦木材」を何材も複雑に寄せ、矧ぎ付けているのです。
横木なら一材で済んでしまう膝前部分を、不整形な縦木材9材を束ねるように寄せて造っているのです。

新薬師寺・薬師像の膝前、脚部
縦木材を束ねるように寄せた、新薬師寺・薬師像の膝前、脚部

縦木材への、徹底したこだわりとしか言いようがありません。

薬師如来像の、木寄せ、矧ぎ付けの状況を示した構造図が、「大和古寺大観・第4巻」に掲載されています。

新薬師寺・薬師像の木寄せ、矧ぎ付け構造図(大和古寺大観所載)

新薬師寺・薬師像の木寄せ、矧ぎ付け構造図(大和古寺大観所載)
右腕はD1~D4の縦木材4材を矧ぎ付けている

新薬師寺・薬師像の木寄せ、矧ぎ付け構造図(大和古寺大観所載)
膝前はE1~E9の縦木材9材を矧ぎ付けている

新薬師寺・薬師像の木寄せ、矧ぎ付け構造図(大和古寺大観所載)
新薬師寺・薬師像の木寄せ、矧ぎ付け構造図(大和古寺大観所載)

これをご覧になると、腕、手の部分や、膝前の部分を、如何に苦労して何材もの縦木材を束ねるように寄せているのかが、見て取れます。

そして、使われている用材は、単に縦木材を集めて矧ぎ付けているのではなくて、同じ樹木のもののようなのです。

大和古寺大観(第4巻)の解説には
「頭・体幹部材とこれに矧付けた両脚部材その他の矧木は、木目から見て、全てが一本の材から木取りされていると想像され、用材の面でも一木使用の態度を貫いているといえよう。」
と述べられています。

一木へのこだわりが、並み大抵のものでなかったことを物語っているようです。



【かつては、「全てが一木から彫り出されている」と考えられていた、薬師如来像】


この新薬師寺の薬師如来像が、このような縦木材を矧ぎ寄せた構造であることが判明したのは、昭和50年代のことでした。

それまでは、巨大な一本の樹木から、腕や手、膝前を含めて、仏像全体が一木で彫り出されていると考えられていたのでした。
全て縦木材で造られ、像の何処をみても木目が縦に揃って入っていたことから、長らく、全て一木から刻み出されたと思い込まれていたのでした。

新薬師寺・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像

大正13年(1924)に刊行された「日本国宝全集・第7輯」の新薬師寺・薬師如来像の解説文には、このように述べられています。

「一木造りでは稀に見る巨大な像である。
同じ一木造りでも矧木を用いたものもあるが、これは胴体は勿論、差出た手までも矧木となってはいない。
・・・・・・・
其造法が完全なる意味における一木彫成であることが、奈良朝製作と思はしめるよりも、寧ろ其法の盛んであった平安朝初期のものであるべく思はしめる。」

昭和47年(1972)に発表された久野健氏の論文「新薬師寺本堂の薬師如来像について」(後に「平安初期彫刻史の研究」所収)にも、このように述べられています。

「本像は、ヒノキ材の一木彫で、螺髪は植付、薬壺(後補)を持つ左手を手首より別木に作り、右手も肘より先及び手首より先を別木で作る他は、膝前にいたるまで一木から彫り出している。
・・・・・・・
さて、この像の特色の一つは、かかる大像であるにかかわらず、巨大な膝前まで、一木から刻みだしている点である。
小像では膝前、蓮肉まで体躯と共木から刻み出した例はかなり見られるが、このような巨像でしかも膝前まで一木というのは極めて少ない。」


この二つの解説・論考を読んでも、この薬師像がすべてを一材から彫り出した希有な例の像であると、大変長きにわたって考えられていたことが判ります。

なお、「日本国宝全集」では突き出した手も一材としていますが、久野健氏は、手首先と右肘から先は、別材であると見極められていたようです。
もう一つ、当時はヒノキ材と考えられていましたが、現在ではカヤ材とみられています。

私も、学生時代に新薬師寺を訪れた時、

「この薬師如来像は、手から膝まで、すべて一本の木から彫り出されているのだ。」

という話を聞き、
この大きな薬師像を、すべて彫り出すことが出来る巨大な木というのは、

「屋久島の縄文杉のような巨樹のイメージだろうか?」

と、大変に驚いた思い出があります。

昭和40年代のことです。

屋久島・縄文杉
屋久島・縄文杉

カヤの巨樹(和歌山県紀美野町・善福寺のカヤ)
カヤの巨樹(和歌山県紀美野町・善福寺のカヤ)



【昭和50年の修理調査で、「縦木材を束ねた構造」であることが判明】


これまで、完全な一木からの刻み出しだと思われていたこの薬師像が、実はそうではなかったことが判明したのは、昭和50年(1975)12月に行われた、文化庁による修理調査の時でした。

その年の6月に行われた予備調査の際、両脚部に不整の矧材があること、両手が矧付けであることなどが確認されたのです。
そして、修理調査で像を台座から下ろして調査した処、詳細な構造が明らかになったのでした。
先にふれたように、縦木材を束ねた構造であることが判ったのです。

これは、驚きの新事実でした。
本当は、完全な一材から刻み出してはいないのに、

「あくまでも、一材から刻み出したように思わせる。」

「あくなき一木へのこだわり! 一木への執着!」

こんな精神のもとに造られていたようなのです。



【完全一木彫、縦木材にこだわる、奈良末平安初期の一木彫】


奈良末~平安初期の一木彫像は、全てを一木から刻み出そうとする姿勢が強くうかがえます。
唐招提寺講堂木彫群と云われる獅子吼・衆宝王菩薩像や、神護寺薬師像をはじめとする一木彫像は、蓮肉、心棒に至るまで、一本の材から刻み出されています。

唐招提寺旧講堂・獅子吼菩薩像神護寺・薬師如来像
(左)唐招提寺旧講堂・獅子吼菩薩像、(右)神護寺・薬師如来像

この時期は、材の制約上やむを得ず矧木をする場合も、あえて縦木材の使用にこだわった時期であったのかもしれません。

神護寺薬師如来像の場合も、肘から先を別材で矧ぎ付けていますが、当初材がのこる右手の前膊、左手の前膊半ばまでは、しっかりと縦木材が用いられているのです。
(左手前膊半ばから先、両手首先は後補)

神護寺・薬師如来像の腕と手
縦木材(左右の前膊)を矧ぎ付けた神護寺・薬師如来像の腕

唐招提寺の獅子吼・衆宝王菩薩像、薬師像の場合も、今は、肘から先が欠失してしまっていますが、きっと縦木材を用いていたのではないかと、私は想像しています。

唐招提寺旧講堂・衆宝王菩薩像
唐招提寺旧講堂・衆宝王菩薩像

新薬師寺・薬師像の場合は、坐像にもかかわらず、縦木材を束ねるという無理をしながらも、そのような姿勢を体現しようとしているようです。



【一木への執着は、巨樹の霊性を、仏像の威力にとり込もうとするもの?】


どうしてここまで、一木の縦木材にこだわったのでしょうか?

膝前まで縦木材を寄せる作例は、新薬師寺像以外にはありません。
そこまで完全な一木であるかのように、こだわった訳について、巨木のもつ霊性や神秘性を、仏像に投影しようとしたものではないかといわれています。

日本彫刻技法史の研究者である山崎隆之氏は、新薬師寺像が巨樹から彫り出されているように見せている理由について、自著で、このように述べています。

「それにしても、仏師はなぜこれほどまで、縦木にこだわったのだろうか。
そこに一木素木像の原点である檀像の形式を守りたい、との強い意志があるのは確かである。
しかし、それだけでは説明のつかない別の要素もあるのではないか。
すなわち、そこに日本人が古来、木に対して抱く特別な感情、あるいは木に対する信仰も投影されているのではないか。」

こうした考え方の例として、「日本霊異記」にみられる、木が声を発しその木で仏像を造った話や、祟りをなした霊木を以て長谷寺十一面観音像を造ったという説話を紹介したうえで、

「これらの話は、木彫仏では、材料である樹木自体が不思議な力を持っているということである。
それは他の材料と違い、樹木が生命を持ち、古木となればなるほど霊力を持つと感じられるからである。
そうした樹木の神秘性、霊性を仏像にとり込むことで、仏像自体が威力を持つと期待するのは当然であろう。
その一つの手段が、新薬師寺像のように樹木の大きさを見せることだったのではないか。
新薬師寺像は、両膝を含むすべてが一本の樹木でできているように見せている。」
(山崎隆之著「仏像の秘密を読む」2007年・東方出版刊所収)


一木から彫り出されたように見せている新薬師寺・薬師像の巨樹イメージ図(山崎隆之氏作成図)
一木から彫り出されたように見せている新薬師寺・薬師像の巨樹イメージ図
(山崎隆之著「仏像の秘密を読む」東方出版刊所載)


新薬師寺・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像

驚くべき巨樹から刻み出したと見せることで、仏像が発する威力に、樹木の霊性をとり込もうとしたというのです。
たしかに、新薬師寺・薬師坐像の発散する、圧倒的な迫力や存在感を肌で感じていると、巨樹のもつ霊力が、仏像に乗り移ったものであるような気がしてしまいます。
あの内なる強力なパワー、エネルギーは、霊木のオーラの為せる業なのでしょうか。

このように、

「奈良時代末から平安初期の一木彫像の、完全な丸彫り、縦木材への強いこだわり」

を、樹木の霊性、神秘性といった、いわゆる霊木信仰との関わり合いから見ていこうとという話は、大変魅力的で、惹かれるものがあります。

大きなウロのある霹靂木から、ウロや節があるのを厭わずに彫り出している、仏像、神像の例や、一本の樹木から三神すべてを刻み出している、東寺、薬師寺の三神像などの例をみると、その感をますます強くするものがあります。



【「素木像の木肌、木目の美しさ追求」という視点からも考えてみたい、「縦木材」へのこだわり】


たしかにそうなのですが、一方、そうした精神性や信仰の世界から、一歩引きさがってみて、シンプルに「素木の仏像の造形表現の技法」という観点から、アプローチしてみることも面白いのではないかと思うことがあります。

木地そのままの素木の仏像の、

「木肌、木目の見え方の、美しさの追求」

とでもいった話です。

奈良末平安初期の一木彫像は、檀像彫刻の発展形の要素もあるといわれています。
こうした仏像は、像全体を彩色することはありませんので、木地そのものがはっきり見えることになります。
木地の美しさが重要になるのだろうと思います。

これらの像は、彩色をしないので、木肌そのもので、木目がはっきりわかります。
全ての部分を完全に一材から刻み出すときには、何の問題もないのですが、別の材を矧ぎ付ける必要が生じたときに、木目が縦目と横目とに不揃いになるのを、避けたかったのではないでしょうか?

縦木材の木目横木材の木目
縦木材の木目(左)と横木材の木目(右)
 
素木の彫刻を、いかに美しく見せるかと考えた時、腕や膝前の木目だけが、横に通って見えるというのは、美的な感覚からするとミスマッチ感が出てしまいます。
何処からみても、縦の木目が整然と通っているという、見た目の美しさを追求したかったということなのではないか?
このように、感じることがあるのです。



【巨樹への霊性信仰からか?木肌木目の美観追及か?
~「縦木材へのこだわり」の不思議】

敢えて誤解を恐れずに、思い切っていえば、
当時の一木彫像の縦木材へのこだわりというのは、
一木、巨樹の霊性への信仰、こだわりという側面もさることながら、

「木地そのままの素木像の整然とした木目の美観への、あくなきこだわり」

という意識が、結構強かったのではないだろうかという気がするときがあります。

新薬師寺・薬師如来像
縦の木目が像全体に通っている新薬師寺・薬師如来像

新薬師寺の薬師如来像が、あんなに巨像なのに、大変な無理として縦木材を束ねたように造った訳は、

頭から胴、膝前、そして腕、手に至るまで、白木の表面に、整然と縦の木目が見事に通った、美しい木肌の仏像を造りたかったから、
仏師の見事な腕を見せたかったから、

とも考えられるのではないでしょうか?

薬師像の左手の手先には、唯一、横木材が用いられています。
ここだけ、どうして縦木材にこだわらなかったのでしょうか?
縦木材を用いると、小口からの彫りとなり目切れがして難しかったという面もあろうかと思います。

新薬師寺・薬師如来像の左手先(横木材を使用)

新薬師寺・薬師如来像の左手先(横木材を使用)
横木材が用いられている新薬師寺・薬師如来像の左手先

私は、横木を使った訳は、

左手の手先は、手のひらを平らに開いた姿であったので、縦の面が見える部分が少なく、横材を使っても、全体の美観からは、木目の不揃いが、ほとんど気にならなかったからではないか

このような可能性もあるのではないかという気がしています。

この時期の大型の一木彫像で、手先が当初のまま残っているのは新薬師寺像ぐらいだと思いますので、他の像の例と較べてみることが出来ないのは、ちょっと残念です。



今回の話では、新薬師寺・薬師如来像の「腕の材の矧ぎ付け方の不思議」という処から始まって、本像の「縦木材への徹底したこだわり」という特異な構造と、「一木へのあくなき執着」という問題について、採り上げてみました。

「どうして、こんな風に造ったのだろうか?」

と、思いを巡らせていくと、
あの圧倒的な迫力、オーラは、巨樹の霊性をとり込もうとする霊木信仰の体現のようにも思われますし、
一方、素木像の木肌、木目の美しさの追求という視点も、捨てがたいような気もします。

皆さんは、この「縦木材へのこだわりの不思議」について、どのように感じられたでしょうか?

興味が尽きることがありません。