観仏日々帖

こぼれ話~「広隆寺・弥勒菩薩の指の話Ⅱ」仏像の手の話④  【2017.5.20】


前回は「弥勒菩薩の指折り事件」を、振り返ってきました。


【弥勒菩薩の指は、もともと頬に触れていたのか?】


ここからは、広隆寺・弥勒菩薩の指の話の、もう一つのテーマ

「弥勒菩薩の指先は、頬に触れていたのか?」

という話に入っていきたいと思います。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

今、頬から少し離れている弥勒菩薩像の中指は、制作当初は、実は頬に触れるように造られていたのではないか、という話です。

例えば、中宮寺の弥勒菩薩像の指は、頬にしっかり触れているのです。
広隆寺の像も、指が頬に触れるように、木屎漆(乾漆)のモデリングによる盛上げが、顔の頬の方にも、指先にも、なされていたのではないかという見方があるのです。



【現代人の感性にマッチする、弥勒菩薩の瞑想美、繊細な指先~近代の後補?との見方も】


今、私たちが観る、広隆寺・弥勒菩薩の指は、得も言われぬ美しさを感じるものです。

か細い繊細さが、美しい魅力の弥勒菩薩像の指
「か細い繊細さ」が、美しい魅力の弥勒菩薩像の指

シャープに鼻筋の通った瞑想と微笑みの表情も魅力的ですが、あの、か細く繊細に過ぎるような指先に魅了されたという方も、多いのではないでしょうか?

「微笑みに添えられる、指先の繊細美」

と表現しても良いのかもしれません。
現代人の美の感性にマッチしているのでしょう。

こんな造形感覚は、飛鳥時代には考えられない。
現代人の手になる手指に違いない、弥勒菩薩の右の手指は後補なのではないか?
と、云われたことことがありました。

久野健氏は、木彫家の後藤良氏(昭和32年・1957没)から、このように聞かされたことがあると語っています。

「あの広隆寺の弥勒の右手は、飛鳥時代のものではなく、明治になって作ったものだろう。
あの手は、ブールデルの彫刻の手を知っているものでなければできない。
おそらく明治・大正にかけて仏像修理に活躍した明珍恒男君が、修理の時に新しく作ったものではないか。」
(久野健著「仏像」1961年・学生社刊)



【X線調査で、飛鳥時代当初の指と判明】


この謎は、昭和31年(1956)に行われたX線撮影調査で明らかになりました。
あの、か細く繊細な指は、間違いなく、飛鳥時代、制作当初のものであったのです。

広隆寺・宝冠弥勒像のX線撮影写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
広隆寺・宝冠弥勒像のX線撮影写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)

X線撮影をしたのは久野健氏ですが、頬杖をつく右手まで本体と一木から刻み出されていることが明らかになったのでした。
頭部の縦に通った木目が、手や指までも連続して通っていたのです。
ただ、人差し指と小指とは、後世の補作となっていました。

広隆寺・弥勒像の手指の木目と後補箇所の図~西村公朝氏作図(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
広隆寺・弥勒像の手指の木目と後補箇所の図~西村公朝氏作図
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


あの細い指先までも、縦目を目切れのままで彫り出しているため、非常に折れ易く、「指折り事件」で、ほんのちょっと触れただけも折れてしまったようです。

それにしても、あの手の指は、ちょっと特異といって良いほどに、か細く、華奢で、

「飛鳥時代の仏師は、本当に、今の姿のように指を彫ったのだろうか?」

と、疑問を残すものでもありました。



【西村公朝氏の問題提起「当初は指先が頬に触れていた?」~飛鳥白鳳の半跏思惟像の、多くの作例と同じ】


この問題に、一つの新たな見方を投げかけたのは、美術院の西村公朝氏でした。

西村氏は、

・弥勒像の指先だけでなく、顔面、上半身にも、制作当初は木屎漆の盛上げ(モデリング)が施されていたに違いない。

・指先も、顔貌も、現在に比べて、もう少しふっくらしたものであった。

・今、頬との間に隙間が空いている中指は、元々は頬に触れるように造られていたと思われる。

と、いうのです。

西村氏は、いろいろな著作の中で、このことに触れていますが、最も詳しく述べているのは、

「広隆寺弥勒菩薩像の構造についての考察」  東京芸術大学紀要第4号1968.3

という論文です。

西村氏は、弥勒像の制作技法や当初の姿の推定などについて言及していますが、その中で、特に注目した一つの事実は、

「広隆寺・弥勒菩薩の指が、頬に触れていない」

ことでした。

飛鳥白鳳時代のかなりの半跏思惟像は、指が頬に触れているのに、広隆寺・宝冠弥勒像は指が離れているのです。
指先と頬との隙間は、約7ミリあるそうです。
中宮寺の弥勒菩薩像は、頬にわずかに窪みが造られ、中指で頬を押しているように造られています。

中宮寺・菩薩半跏像

指が頬にしっかりと触れている中宮寺・菩薩半跏像
指が頬にしっかりと触れている中宮寺・菩薩半跏像


四十八体仏と呼ばれる、法隆寺献納宝物中の丙寅銘半跏思惟像の指も、頬に触れています。

法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている
法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている

そして、広隆寺・宝冠弥勒像と瓜二つと云われる、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像の指も頬に触れています。

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている
韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている

一方で、四十八体仏には、指が頬に触れていない像も、複数みられるのも事実ですので、必ず頬に触れているとはいえるものでもないようです。
なお、広隆寺のもう一つの弥勒像、泣き弥勒と云われる宝髻弥勒像の指は頬から少しだけ離れているのですが、この指先は後補なので、制作例に入れては考えにくいということです。

広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補
広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補



【木屎漆で盛上げられていた指先と頬~半木心乾漆像か?】


広隆寺・宝冠弥勒像の指が、ここに挙げた作例と同じように、制作当初は頬に触れていたとすると、当初は乾漆、木屎漆で頬に触れるように盛上げられていたに違いないのです。

西村公朝氏は、弥勒像の各部の造形や彫り口などを検証し、像の顔部、上半身を中心に乾漆、木屎漆の盛り上げがなされていたと推定しています。
半木心乾漆像とでも言ってよい造形だったことになります。
西村氏が推定した、当初の乾漆の盛り上げ状況は、ご覧のようなイメージです。

西村公朝氏による広隆寺・宝冠弥勒像の乾漆盛上げ想定図(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
西村公朝氏による広隆寺・宝冠弥勒像の乾漆盛上げ想定図
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


西村氏は、中指の方に2~3ミリ、頬の方に4~5ミリの乾漆の盛り上げがなされて、現在の約7ミリの隙間を埋めていたと推定しています。



【ちょっとアンバランスに感じる、現在のプロポーション】


たしかに、この弥勒菩薩像の前に立ち、その姿をじっと眺めていると、プロポーションが何処かしらアンバランスなのに気が付きます。

広隆寺・宝冠弥勒像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

胸の辺りが扁平、細身で華奢、下半身と上半身とがうまく釣り合っていないようにみえます。
細かいところでは、左手の甲がこそげたように窪んでいますし、左指には爪が彫られているが右指には爪が彫られていないのです。

広隆寺・宝冠弥勒像~手の甲がこそげたように窪んでいるか細い指の広隆寺・宝冠弥勒像
広隆寺・宝冠弥勒像~左手の甲がこそげたように窪んでいる、か細い指の右手

このことも、一部に乾漆の盛り上げが行われていたことを裏付けているものと思われます。

実は、この像が造られた時の姿は、顔から胸にかけて、木屎漆で盛上げられて、お顔も身体も、もっとふっくらとして、豊かなボリュームがある仏像であったようです。
そして全身に金箔が置かれ、金色に燦然と輝いてたのでしょう。

現代人を魅惑する、細くて繊細な指も、実は、もう少し太く膨らみがあるように造られていたのでしょう。
そして、

「弥勒菩薩の指は、頬に触れていた」

そのような可能性は、十分に考えられるといって良いのかもしれません。



【もともとの弥勒像の姿を想像させる明治の修理前古写真~ふっくらとした表情】


それでは、広隆寺の弥勒菩薩像、元々は、どのような姿に造られていたのでしょうか?

制作当初を、想像させてくれる、明治時代の貴重な写真が残されています。
この弥勒菩薩像は、明治36年(1903)に、美術院の手で修理、修復されているのですが、その修理前の写真です。

一つは、明治34年頃にとられた、弥勒菩薩像の修理前写真です。

明治の復元修理前の宝冠弥勒像写真~明治34年頃(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
明治の復元修理前の宝冠弥勒像写真~明治34年頃
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


もう一つは、久野健氏が古書店から入手したという、明治修理以前にお寺に祀られていた時の写真です。

久野健氏入手の明治修理前の宝冠弥勒像安置写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
久野健氏入手の明治修理前の宝冠弥勒像安置写真
(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)


写真を一見して感じられたと思いますが、現在の姿とずいぶん雰囲気が違います。
現在の姿と較べると、顔の表情が、「おおらかでふっくらした感じ」というか「ぼんやりとしたというか、茫洋とした表情」をしているのです。



【朝鮮仏の表情にそっくりな、明治修理前石膏型のお顔】


明治の修理前に、頭部の石膏型を抜いたものが残されているのですが、その顔を見ると、益々その実感があります。

明治修理前に石膏で型抜きされた宝冠弥勒像頭部(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
明治修理前に石膏で型抜きされた宝冠弥勒像頭部(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)

率直に云って、朝鮮仏の面相の雰囲気に、すごく似ているのです。
瓜二つと云われている、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像の顔の表情と見較べてみると、本当に「そっくり」です。

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像
韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像

現在の、広隆寺弥勒像の顔よりも、格段に類似しているのは、間違いありません。

現在の広隆寺・弥勒像の顔貌は、両眉が秀でて鼻筋が通り、両眼もくっきりした形をして、理知的で清楚な気品を漂わせるものを感じます。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像


そこに醸される雰囲気は、日本的な造形感覚を思わせるものがあるのです。
ところが、明治の修理前には、如何にも朝鮮風の表情を思わせる造形であったようなのです。

弥勒像の造形は、現代人の感性に通じるものがあるとか、近代彫刻を知るものでないと、あの指を造形するのは無理だといわれたことがあるという話は、先にご紹介しましたが、制作当初の造形感覚とは、ちょっと違っていた可能性があるのです。
明治の修理の結果、弥勒像の見た目の印象が、かなり変わってしまったのかもしれません。



【明治36年に修理されている弥勒像~朝鮮風の風貌に変化があったのだろうか?】


明治36年の修理の時は、虫喰いなどで崩れそうになった木地を押さえるなどの処置をしたそうなのですが、その修理の折に、顔の表情の造形などが、当初のものと変わってしまったのだと指摘する見方もあるのです。

この像の表面は、明治修理の当時は相当に傷みやつれていたようです。
辻本干也氏は、弥勒像の修理にあたった一人の藤村新次郎氏から、その苦労話をこのように聞いたと語っています。

木肌の木目がのこる広隆寺・宝冠弥勒像顔部
木肌の木目がのこる広隆寺・宝冠弥勒像顔部
「随分虫食いがひどくて、手で押さえたらポコッとヘッ込んでしまうような状態にあった。
その修理を、私がやったんだ。
いま残っている、だれもが木目だと思っているあのあしゃれた素地も崩れかかっていて、木の虫が食った穴へ木屎漆を丹念に詰め込んで、木目が残っている感じを表したものだから、いま古い木目がように見えてているところは、私が苦労して復元していったものなんだ。」
(辻本干也・青山茂共著「南都の匠~仏像再見」1979年徳間書店刊)


大変な苦労のあった修理修復であったようなのですが、この修理の時に、修理担当者が削り直しなどの思い切った改変をしてしまったので、朝鮮風の表情から、現代風ともいえる今の表情に変わってしまったのだ、ともいわれています。。

多くの専門家が、大なり小なりこのような見方をしているようですが、なかでも、大変手厳しいのは安藤更生氏です。
安藤氏は、広隆寺弥勒像の修理態度について、このような批判を語っています。

明治の修理に際しては、

・本来、顔がふっくらしていたのを、相当思い切った削り直しをしている。

・鼻の側面は、鎬が経つほど削り直している。

・眉毛の線も、右眉の傷みを削ったために、傷んでいない左眉も、調子を合わせて削った。

などと指摘したうえで、

「今日とは時代が違うので、当時の工人としては最上と思う方法を施したつもりかもしれないが、なお疑問が僕の心の底に残るのは何とも仕方がない。」
(安藤更生著「南都逍遥」国宝修理譚の章所収~1970年・中央公論美術出版刊)

と、当時の修理に疑問を呈しています。

この他にも、指や顔などに盛り上げられた乾漆(木屎漆)は、いつの時代にか、はがれてしまったのか、あるいは人為的にはがされたのではないか?
人為的にはがしたと考えられるのは、その方が日本人の好みに合うからだという推論まであるそうです。

明治修理の時に、どの程度の修正が加えられたのか、よく判りませんが、広隆寺の弥勒菩薩像が、現在よりもはるかに朝鮮風の雰囲気、風貌した仏像であったというのは、間違いのない事実のようです。



【朝鮮半島での制作と云われている宝冠弥勒像~我が国で用いられないアカマツ材と判明】


広隆寺・宝冠弥勒像は、朝鮮風どころか、実は朝鮮半島で制作されたのではないかという説が有力であることは、皆さんよくご存じのことと思います。
今更ここでご説明することでもないのですが、そのエッセンスだけ触れておこうかと思います。

そもそも、広隆寺宝冠弥勒像は、韓国に類似像があることから、朝鮮半島作の可能性が云われていました、
昭和26年(1951)の小原二郎氏の科学的調査によって、宝冠弥勒像の用材が、「アカマツ」であることが判明しました。
我が国の飛鳥白鳳期の木彫像は、例外なく「クスノキ」で造られています。
朝鮮半島では、クスノキは一般に産しないこと、アカマツは朝鮮では通例用いられる用材であることから、朝鮮半島作に違いないといわれるようになったのでした。

ただこの考えに異論もあります。
弥勒像の腰から下につけられた綬帯・垂飾紐と、背中の内刳りの蓋板の用材に「クスノキ」が使われているのです。
そして、このクスノキの部分は、制作当初の時代のものと見られのです。

広隆寺・宝冠弥勒像背面~綬帯と背中内刳り蓋板はクスノキ材を使用
広隆寺・宝冠弥勒像背面~綬帯と背中内刳り蓋板はクスノキ材を使用

となると、朝鮮で造られた像が渡来した後に、欠損等となっていた綬帯、蓋板を日本で補ったと考えることもできますし、朝鮮半島から用材だけが日本に運ばれ、我が国で帰化系工人などの手で制作されたので、一部にクスノキが使われているのだという見方もできるわけです。


いずれにせよ、弥勒菩薩像は用材からみても、朝鮮半島の要素が極めて色濃い仏像であることは確実です。

宝冠弥勒像が、
もし飛鳥時代の当初の造形、風貌をもっと色濃くとどめていたならば、
もう少し太い指、ふっくらとした顔貌で、朝鮮風の雰囲気が強い像であったならば、
現代人の心に残る美しい仏像として、多くの共感や支持を得たであろうかと思うと、ちょっと複雑な気持ちになってしまいます。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

「弥勒菩薩像の指は、頬に触れていたのか?」

という話なのに、指は後補なのかという話、乾漆盛上げの話、明治の修理のやり方の話、用材がアカマツの話など、随分、様々な話に立ち至ってしまいました。

単なる「指が頬に触れていたのか?」というテーマが、意外にも、いろいろな問題に絡んでいることを、再認識させられることになりました。

「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」という話で、「弥勒菩薩の指折り事件」と「指は、頬に触れていたのか?」というテーマを、長々と綴ってしまいました。

魅惑の広隆寺・弥勒菩薩像にまつわる話の実像、真実に踏み込むといったような話になりましたが、こんな話はさておいて、やはり、広隆寺の弥勒菩薩像は、日本人の心に残る仏像として、我々を魅了し続けてくれることに変わりないことでしょう。




【追 記】


ご紹介した、「弥勒菩薩の指の話」に、ご参考になる本を、1冊だけ、ご紹介しておきます。
広隆寺・宝冠弥勒像を採り上げた本は、沢山あるのですが、今回のテーマにかかわる話が、一番まとまってわかりやすく語られた本だと思います。

「シンポジウム~美の秘密・二つの弥勒菩薩像」 1982年 日本放送出版協会刊 【229P】 3800円

「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊

35年も前に出た古い本ですが、このテーマにご関心のある方には、必読といってもよい、面白く興味深い内容です。

同名のNHKテレビの特殊番組から発展して開催されたシンポジウムの内容等を編集、構成して単行本化したものです。
シンポジウムに参加した、上原和、田村圓澄、小原二郎、西村公朝、山田宗睦の各氏の共著となっています。

二つの弥勒菩薩像とは、広隆寺の宝冠弥勒像と、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像のことです。
宝冠弥勒像の用材、造像技法、修理復元の問題、韓国国立中央博物館像との関連などが詳しく論じられています。
「第1章・二つの弥勒菩薩像」の目次詳細を、ご参考までにご覧ください。

「二つの弥勒菩薩像」第1章・目次
「二つの弥勒菩薩像」第1章・目次



ついでに、これ以上にご関心のある方には、西村公朝氏の論文、

広隆寺弥勒菩薩像の構造についての考察(西村公朝)東京芸術大学紀要第4号1968.3

が、お薦めです。
西村公朝氏の名前は、多数の著作で、よくご存じのことと思いますが、国宝、重文級の仏像の修理修復にあたる、美術院国宝修理所の所長を長く務めた仁です。

広隆寺弥勒像の造像技法について調査研究し、本像が準木心乾漆像と云ってもよい仏像と云えること、乾漆の盛り上げにより指と頬が触れていたと考えられること、歪んだアカマツ材からの特異な木取り法などについて、詳細に論じられています。



なお、本文ではふれませんでしたが、同じく仏像修理、技法研究者の山崎隆之氏は、
広隆寺・宝冠弥勒像は、一部に塑土が盛上げられた、部分的な木心塑像であったのではないかという見方を示しています。
上半身はきれいなやすり目で仕上げられるのに対して、下半身を覆う裾の部分は荒いノミ跡を残していることから、この下半身の裾の部分に塑土を盛り上げていたとみられる。
上半身は、木彫のままで完成段階とみるべきである。
と述べています。

山崎氏の見方は、西村公朝氏のいう上半身木屎漆盛り上げ説と全く逆ということになります。
何が当初の真実であったのかは、本当に難しく、判らないものです。

山崎氏の考えは、次の本の中で述べられています。

「一度は拝したい京都の仏像」山崎隆之著 2010年 学研新書 【275P】933円

「一度は拝したい京都の仏像」山崎隆之著・学研新書 

「天空から注がれる慈悲のまなざし~広隆寺弥勒菩薩半跏像」の章のなかで述べられています。
この本は新書版ですが、一読に値する、大変興味深いお薦め本です。


こぼれ話~「広隆寺・弥勒菩薩の指の話Ⅰ」仏像の手の話③  【2017.5.5】


広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

我が国を代表する、飛鳥時代の仏像です。

「好きな仏像は?」
と人に訊ねれば、必ずといって良いほどその名があげられる、心に残る美しき仏像として、知られています。

シャープに鼻筋の通った瞑想の表情と共に、木の素地の肌をそのままにした「飾らぬ美しさ」が、多くの人々の心を魅了してやみません。
現代人の悩みや苦しみを吸い取ってくれるような、哲学的な美しさを感じる人も多いのではないでしょうか?



【弥勒菩薩の指をめぐる二つの話~指折り事件と、指先は頬にふれていた?】


さて、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」といわれれば、どなたもこの事件のことが思い浮かぶのではないでしょうか。

「弥勒菩薩の指折り事件」です。

当時の京大生が、広隆寺弥勒像の指にふれて、薬指を折ってしまったという事件です。
昭和35年(1960)の出来事で、大変な大騒ぎになりました。
もう、60年近くも前の事件なので、ご存じない方も結構いらっしゃるのかもしれません。

「弥勒菩薩の指折り事件」は、新聞ニュースを賑わす大事件として採り上げられました。
世界各国のニュースになったということです。
仏像の指がたった一本折れただけというのに、それほど大騒ぎになったというのは、広隆寺の弥勒菩薩像が、我が国を代表する、美しく、魅力あふれる国宝仏像の傑作として、誰もが認めるところであったからなのだと思います。


「弥勒菩薩の指にかかわる話」として、もう一つ、挙げておきたいのは、

「弥勒菩薩の指先は、もともと頬に触れていたのだろうか?」

という疑問です。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像~指が頬から少し離れている
広隆寺・宝冠弥勒半跏像~指が頬から少し離れている

ご覧の通り、広隆寺・弥勒菩薩の細い中指の指先は、頬から少々離れています。
飛鳥白鳳の半跏思惟形の像の多くは、指先が頬にしっかり触れているのです。

広隆寺の弥勒像も、
「制作された当初は、指先は頬に触れるように造られていたのではないか?」
という議論です。

当初は、指と頬に、木屎漆が盛上げられて、ちゃんと接触していたのが、木屎漆が剥げ落ちて、現在のような姿になっているのではないか、という見方があるのです。


今回の、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」は、この「指折り事件」と「指先は頬に触れていたのか?」という話を、採り上げてみたいと思います。



【広隆寺・宝冠弥勒像の魅力を存分に引き出した、小川晴暘の写真】


ちょっと話はそれますが、指が折れただけで大変な大騒ぎになるほど、国民的に超有名な仏像になったのは、飛鳥園・小川晴暘が撮った美しい写真の力によるところが大きいのだそうです。

小川晴暘撮影の写真をご覧ください。

飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真

飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真.飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真
飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真

小川晴暘が、この黒バックの写真を撮ったのは大正末年頃です。
この写真が、宝冠弥勒像の魅力を引き出し、世に名を押し上げたのです。

弥勒像の斜め向き上半身を撮影した写真で、鼻筋が通って、瞑想にふける清楚な気品をたたえた表情、細く繊細でしなやかな指を、見事にとらえたものです。
黒バックのなかから浮き上がる、弥勒像の美しさ、魅力は、流石、小川晴暘ならではの世界です。
今でも、観る者の心が、思わず吸い込まれてしまうかのようです。



【宝冠弥勒像の国民的人気を創り出した立役者は、写真家・小川晴暘】


大正13年(1924)に、飛鳥園発行の古美術研究誌「仏教美術」の」創刊号の巻頭に、この焼き付け写真を載せられました。
これが、世に、広隆寺・弥勒像の魅力が広められ、圧倒的人気を博するようになる、大きなきっかけになったともいわれているそうです。

実は、それまでは、広隆寺の宝冠弥勒像は、さほど有名な仏像ではなく、むしろ、同じ広隆寺の泣き弥勒と呼ばれている宝髻弥勒像(乾漆像)の方が、よほど知られていたようなのです。

広隆寺・宝髻弥勒菩薩像
広隆寺・宝髻弥勒菩薩像

安藤更生氏は、その頃の思い出をこのように語っています。

「太秦の広隆寺には弥勒が二体あるが、宝冠を被っている大きい方の弥勒は、近頃は『国宝第一号』などという寺の宣伝文句で大変な有名な像になっているが、僕があの像を上野の帝室博物館の彫刻室で見たのは、大正4、5年ごろだったから、それ以前から上野に出ていたのだろう。
・・・・・・・・・
その頃はあまり顧みる人もなかったし、当時の図録類にも余程特殊なものにしか出ていなかったから、あの像の美的価値に気づいた人も少なかったことだろう。

あの像が有名になったのは、震災後(注:関東大震災・1923年)に寺に戻され、小川晴暘君が美しい写真を撮ってからのことである。」
(安藤更生著「南都逍遥」1970年中央公論美術出版刊所収)


ドイツの哲学者、カール・ヤスパース(1883~1969)が、広隆寺の弥勒像を評して、

「此の廣隆寺の佛像には、本當に完成され切った人間『實存』の最高の理念が、あますところなく表現され盡している。」

と、絶賛したというのは有名な話です。
この弥勒像の名を、大いに世に高らしめることになったのですが、ヤスパースは、弥勒像の実物を見たのではなくて、この小川晴暘の写真を見て語った話なのだそうです。


晴暘の子息、小川光三氏も、この弥勒菩薩の上半身の写真について、

「古美術写真専門の『飛鳥園』で販売している各種の仏像写真のなかでも、この写真の依頼が最も多く、春や秋の観光シーズンになると、その注文に追われて、何百枚もの焼付を作る日が続いたものです。
その数は、大きな引き伸ばしから小型のキャビネ写真まで、今までに焼き付けた数を総合すると、おそらく百万に近い枚数に達しているに違いありません。
・・・・・・
このような超ロングセラーの写真は、例がないのではないでしょうか。」
(「魅惑の仏像4・弥勒菩薩」1986年毎日新聞社刊所収)

と、その人気の高さの思い出を語っています。

小川晴暘こそ、広隆寺の弥勒菩薩を広く世に出し、この仏様に魅了される数多くのファンを創り出した立役者と云えるのかもしれません。



【広隆寺・弥勒菩薩の、指折り事件を振り返る】


ちょっと横道にそれましたが、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」の第一のテーマである、「弥勒菩薩の指折り事件」とは、どんな事件だったのかを、振り返ってみたいと思います。

事件が起きたのは、昭和35年(1960)8月18日のことでした。

弥勒像は、今祀られているのと同じ霊宝館に安置されていましたが、午後1時頃、弥勒菩薩の薬指が折れてなくなっているのに、案内人が気が付いたのでした。
きっと、大騒ぎになったのだと思います。

その日の夕刻、京都大学3回生の学生が、自分が指を折ったと警察に自首しました。
監視人がいなかったのを幸いに、勝手に台に上がって弥勒菩薩にさわり、指に触れて折ってしまったということでした。
折れた指は、三つに欠けてしまっていまっていました。



【大きく事件を報道した、新聞各紙】


この「指折り事件」、先程来ふれてきたように、あまりに有名で美しい国宝・弥勒菩薩像の指が折られたという事件でしたので、新聞各紙も、大きく報道しました。

朝日、読売、毎日の三大紙の報道記事をご紹介すると、ご覧のとおりです。


新聞記事の文章の一部をご紹介します。

一番詳しいのが朝日新聞です。

広隆寺指折り事件を報ずる朝日新聞記事~1960.8.20朝刊
広隆寺指折り事件を報ずる朝日新聞記事~1960.8.20朝刊

「国宝『弥勒菩薩』の右手の指を折る 京都広隆寺 学生いたずら」

京都右京区太秦、広隆寺霊宝殿にある国宝、木造弥勒菩薩像の右手クスリ指が第一関節あたりから折られ、三つの破片になって落ちているのを十八日午後一時ごろ案内人が見つけ、びっくりした清滝英弘貫首から京都府教委文化財保護課と太秦署に届けた。

指が折れた状況の写真~朝日新聞記事拡大写真
指が折れた状況の写真~朝日新聞記事拡大写真
同課からの連絡で文部省文化財保護委員会の西川新次技官、奈良美術院国宝修理事務所の辻本干副所長が十九日、京都府教委文化財保護課の中根金作技師らと調査し、ほぼ元どおりに修理できることが分かったが、太秦署の調べで拝観の学生のいたずらが原因とわかり、国宝の維持管理に大きな警告を与えている。

事故をみつけた日の夕京大法学部学生A(20)が、川端署に自首し、太秦署で身柄不拘束のまま文化財保護法違反の疑いで調べたところ、十八日午後一時ごろ友人と二人で弥勒菩薩を見にきて、監視人がいなかったのでイタズラ心を起こし、台に上がったとき、左ほおが像の指にあたり、ポトリと落ちた。
驚いて三つに折れた指を霊宝殿から外に持ち出して捨てようとしたが、思いかえして像の足もとにおいて逃げ帰った。
「有名な弥勒さんにホオずりしたことを友だちに自慢するつもりだった」
といっている。
・・・・・・・・・・・・・
弥勒菩薩の指をこわした京大生は下宿先で次のように話した。
弥勒菩薩の実物を見たら“これがホンモノだろうか”と思った。
期待はずれだった。
金パクがはってあると聞いていたが、木目も出ており、ホコリもたまっていた。
ちょうど監視人もいなかったので、いたずら心が起こった。
なぜ像にふれようとしたのかあのときの心理はいま自分でも説明できない。


毎日新聞の記事のエッセンスです。

広隆寺指折り事件を報ずる毎日新聞記事~1960.8.20東京朝刊
広隆寺指折り事件を報ずる毎日新聞記事~1960.8.20東京朝刊

「折れた弥勒菩薩の右手指 京大生、持帰る」

・・・・・
同署では捜査中十八日夕方、・・・京大法学部三年生・・・が、私が弥勒菩薩の指を持ちかえった”と届出た。
・・・・・・
調べによると十八日午後一時ごろ友だちと二人で同菩薩を見物に行った時、あまりの美しさにキスしたくなって近寄ったところ左ほおが指に触れ折損してしまったのでポケットに入れて持ち帰ったといっている。
なお折られた指は、・・・君が十八日川端署へ提出したので太秦署で保管しており、近く京都府教委文化財保護課が修理する。


読売新聞記事のエッセンスです。

広隆寺指折り事件を報ずる読売新聞記事~1960.8.20夕刊
広隆寺指折り事件を報ずる読売新聞記事~1960.8.20夕刊

「国宝弥勒菩薩の指を折る 京大生が自首」

・・・・・・・・・
同署で捜査中、午後四時三十分ごろ川端署へ左京区吉田下大路町京大法学部三回生A君(20)が折れた指さきの破片二個を持って自首した。
A君は
「話のタネにしようと思い像の口にキスした際、ホオが像の右手に触れ折った。破片を持って嵐山に逃げ、途中道ばたへいったん捨てたが引き返して拾った」
と自供。
同署では帷子ノ辻付近で残りの破片を全部見つけた。


以上が、「弥勒菩薩指折り事件」の新聞報道のエッセンスです。



【弥勒菩薩の指にふれた動機の真実は~美しさに心酔した故ではなかったのか?】


この記事を読んで、「アレッ?」と思いました。
京大生が、弥勒菩薩の指に触れた動機が、3紙ともそれぞれ違うのです。

私は、
「弥勒菩薩の美しさに心酔し、頬に触れキスしようとして、指を折った。」
と、思い込んでいたのです。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

大学生の青年が、この像の美に魅惑され、思いが募ったあまりの行為だったと思われている皆さんがほとんどではないでしょうか。
いろいろな本などにも皆、そのように書かれていたような気がします。

例えば、西川杏太郎氏も、このように記しています。

「この像を拝観したひとりの大学生がその美しさに見とれ、思わず壇の上にかけ上がってキスしようとし、この像の大切な薬指を折ってしまったという事件がおこり、その頃の新聞をにぎわしたことがありますが、むかしレオナルド・ダ・ビンチの名画『モナリザ』の謎の美に魅惑され、恋をした青年がいたという話を想い出させるような事件です。
この大学生も、そんな謎の美しさをこの弥勒像に見出したのかもしれません。」
(「魅惑の仏像4・弥勒菩薩」1986年毎日新聞社刊所収)



【新聞各紙で何故か違う、指にふれた訳、動機】


ところが、事件発生当時、
「あまりの美しさにキスしたくなって近寄ったところ」
と報道しているのは、読売新聞だけで、

毎日新聞は、
「話のタネにしようと思い像の口にキスした際」
としています。

朝日新聞は一番詳しく、直接取材により、本人が語った話として、

「弥勒菩薩の実物を見たら“これがホンモノだろうか”と思った。
期待はずれだった。
・・・・・・
ちょうど監視人もいなかったので、いたずら心が起こった。
なぜ像にふれようとしたのかあのときの心理はいま自分でも説明できない。」

と報道しています。

本人に直接取材したという朝日新聞記事が、信頼性がありそうな気がしますが、この「指折り事件」が発生したときの、弥勒菩薩像に触れた心の動機の真実は、いかがなものだったのでしょうか?
弥勒像が期待外れでイタズラ心が起こったのか、美しさに心酔したからなのか、よく判りません。

「弥勒像のあまりの美しさに魅せられて・・・・」

青年の思いが募って起こした事件という話のほうが、なんといってもロマンティックです。
そんな動機だったといわれるようになったことが、弥勒菩薩の美しさを、ますます神話化していったようにも思えます。



【折れた指が戻されたいきさつも、各紙報道はまちまち】


記事を読んで、もう一つ疑問に思ったのは、
「折れた指は、どのようにして回収されたのか?」
という話です。

どうでもよい、些細なことですが、ちょっと興味がわいてきました。

ご紹介の新聞3紙は、それぞれ全部違っています。

朝日新聞は、「三つの破片になって、(仏像の傍に)落ちているのを案内人が見つけた」

毎日新聞は、「ポケットに入れて持ち帰り、自首した際に警察に提出した」

読売新聞は、「破片2個を持って自首した。本人は、破片を持って嵐山に逃げ、途中道ばたへいったん捨てたが引き返して拾ったと自供、警察が帷子ノ辻付近で、残りの破片を全部見つけた。」

このように、全部まちまちです。


実は、加えて、もっと違う話もあるのです。
この弥勒像の折れた指を元通りに修復した、西村公朝氏が語っている思い出話です。

「(本人は)指先をポケットに入れて外に出た。
外に出たが落ち着かない、
それで近くのバスの駐車場に捨てた。
この時3センチくらいの指先が三つに割れて飛び散ったのである。
下宿に帰ったがなお落ち着かない。
友人や先生に相談の結果、寺に謝りに来た。
たちまち大騒ぎになって、この断片を拾い集めるのに半日もかかった。」
(「仏像修理の思い出5~広隆寺の弥勒菩薩半跏像」日本美術工芸436号1975年)


実際に指の修理にあたった美術院の西村公朝氏の話が、一番詳細で具体的なのですが、真実の処は、よく判りません。
むしろ、ほぼ同時に報道しているのに、一つの事実が、よくこれだけ違っているものだと、そちらの方に、感心してしまいました。
新聞報道されている記事というのは、間違いない事実と思い込んでしまいそうですが、意外にそうでもないようです。

本当に、些末なことで、どうであろうと何の影響もないのですが、資料を調べていて、ちょっと面白かったので、ご紹介してみました。



【美術院の手で見事に修復された、三つに折れた指】


三つに折れた弥勒菩薩の薬指は、早速、美術院国宝修理所の手で修理されることになりました。

美術院所長の西村公朝氏、辻本干也氏等3人によって、修理に着手され、約一か月後の9月12日に修復が完了しました。
折れた指の接着には麦漆を使い、付けた部分に古色付けが施されました。

三つに折れた弥勒像の薬指
三つに折れた弥勒像の薬指

修理前写真~薬指が折れた写真.修理完了後写真~三つに折れた薬指が修復された
(左)薬指が折れた修理前写真、(右)薬指が修復された修理完了後写真
(「仏像修理の思い出5~広隆寺の弥勒菩薩半跏像」日本美術工芸436号所載)


広隆寺・弥勒菩薩の指
広隆寺・弥勒菩薩の指

西村公朝氏は、修理の思い出を、このように語っています。

「かけつけた私達三人の修理者は、必死になってこの作業にあたった。
折られた傷口を、絶対わからないように接合せねばならない。
そして、少々のショックにもたえられるよう強固にしておかねばならない。
多くの仏像を修理してきた私達できえ、これほど小さな部分で、全神経を使った作業はなかった。
一週間闘にやっと直ったときには、実にうれしかった。
しかも良くできたからである。」
(一本の指~広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像・仏像修理の想いで5)日本美術工芸436号1975年)


当時、この弥勒菩薩の指の修復は、相当の世の関心事であったようで、

「弥勒菩薩の修理始まる」
「弥勒菩薩の修復なる」

といった、新聞記事が掲載されたりしています。

広隆寺・弥勒菩薩の指の修理開始を報じる朝日新聞記事(1960.9.6夕刊)
広隆寺・弥勒菩薩の指の修理開始を報じる朝日新聞記事(1960.9.6夕刊)

弥勒菩薩の指の修復完了を報じる毎日新聞記事(1960.9.9東京夕刊)
弥勒菩薩の指の修復完了を報じる毎日新聞記事(1960.9.9東京夕刊)


「弥勒菩薩の指折り事件」を振り返る話は、この辺にしておきたいと思います。


次のテーマ、

「弥勒菩薩の指先は、頬に触れていたのだろうか?」

という話については、「その2」で、ふれていきたいと思います。