観仏日々帖

こぼれ話~続・「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」仏像の手の話② 【2017.3.28】


【「興福寺阿修羅像1300年の新事実」という、興味深いTV番組が】



NHKテレビで「興福寺阿修羅像1300年の新事実」という番組が放送されました。

NHKテレビ「興福寺阿修羅像1300年の新事実」


ご覧になられた方が多いのではないかと思います。

観仏日々帖「仏像の手の話①」で、
「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」
というテーマを採りあげて間もないところで、タイムリーにも、この「興福寺阿修羅像1300年の新事実」というNHK番組の放送です。
見逃すわけにはいきません。

古舘伊知郎・井浦新・松下奈緒さんが、阿修羅像の新発見事実などの謎に迫っていくという、ドキュメンタリータッチの番組でした。
3/23のPM10:00から、75分間という長い時間の放送でしたが、私にとっては、なかなか興味深いいくつかの新事実を知ることが出来て、大変面白く愉しめました。

4/2のAM0:05から再放送があるようです、お見逃しの方は是非ご覧になってください。



【番組で、阿修羅像の合掌手問題の謎もテーマに】


番組の中では、
「阿修羅像は、合掌していたのか?」
という問題について、CTスキャン撮影調査研究の結果の話や、像内の心木の復元実験による検証がされていましたので、前話「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」の続報として、採り上げされていただくこととしました。

前話では、この問題について、朝日新聞が「阿修羅の合掌ずれた? 明治時代の修理で CT画像解析」と題する記事を2/22に掲載し、
「合掌手とみるのが妥当、という研究結果が明らかになった。」
との報道があったことをご紹介しました。

朝日新聞記事「阿修羅の合掌ずれた?」
2017.2.22付、朝日新聞記事

短い新聞記事の内容だけでは、その判断根拠がよく判らなかったのですが、今回放送のNHK番組を見て、どうしてそのように判断されたのかよく判り、

「当初から合掌していたに違いない。」

という見方に、私なりに納得した次第です。



【「阿修羅像は合掌していたのか?」を検証する放送内容をご紹介】


そこで、前話「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」の続報として、NHK番組の放送内容を、ご紹介しておきたいと思います。

阿修羅像の謎解明の科学的データとなった、仏像のCTスキャン撮影は、7年前、2009年に東京国立博物館と九州国立博物館で開催された「阿修羅展」に際して、実施されたものだそうです。

阿修羅像のCTスキャン撮影の状況
阿修羅像のCTスキャン撮影の状況

研究チームは、0.2ミリ間隔で撮影した15万枚という膨大な量の画像をあつめて、8年にわたって解析してきたということです。

CTスキャン撮影による阿修羅像画像(頭から下を見る)
CTスキャン撮影による阿修羅像画像(頭から下を見る)

研究の結果、CTスキャンによる3次元画像から、いくつかの新たな事実が浮かび上がってきたのでした。

そのの一つとして、
「阿修羅像の第一手は、当初から合掌していたのか、持物を持っていたのか?」
という問題に、決着をつける諸事実が明らかになったというものです。

結論から云うと、先の新聞報道のとおり、
「阿修羅像は、合掌していたと考えて間違いはない。」
という検証成果を得たという内容でした。


【明治修理以前から、外開きになり正中線からズレていた、左手合掌手】


先の新聞報道を読んだ限りでの、私の疑問は、

・明治修理前の手先の折れた写真では、合掌手の左手の手のひらは、わずかに外開きになっているように伺え、このままの姿での合掌は難しそうに見える。

・現在の阿修羅像の合掌の手のひらが正中線からずれているのは明らかですが、明治の修理前写真でも、やはり正中線から少しずれているように見える。

という点でした。

明治修理以前の阿修羅像の写真(明治27年・工藤精華撮影)
明治修理以前の阿修羅像の写真(明治27年・工藤精華撮影)

この疑問にたいして、どのような研究、検証で、当初は合掌手に違いないという結論が導かれたのだろうかというのが一番の関心事でした。

TV番組を見て、私のこの疑問に対して、
「なるほど、そういうことなのですね!」
と納得する回答、説明をしてくれたように思えました。


放送内容をたどって、合掌手で間違いないと判断るに至った経緯と、根拠のポイントをご紹介したいと思います。

まず、明治修理以前の姿を古写真で検証すると、たしかに修理前の時点においても、左手のひらがやや開いて上向きとなり合掌していないように見えるとともに、修理前も正中線から左に寄っていることが判るという説明がありました。

ごらんの写真のとおりです。

明治修理以前の左手の手のひら~正中線からズレている状況

現在の阿修羅像の左手のCT映像~手のひらが左へ約2㎝ズレている
阿修羅像の合掌手が正中線からズレている状況
(上)明治修理以前の写真~左手のひらが少し上向きに開く
(下)現在の阿修羅像のCT画像~合掌手が約2㎝左へズレている




【左腕心木を留める釘が抜けて、脱臼状態になっていたのが、ズレの原因】


その事由について、研究チームの今津節生氏(奈良大学教授)は

「(左腕と肩の心木を留める) 釘が抜けた分だけ肩がずれ落ちてしまっている。
つまり肩が脱臼してしまっているような感じですね。」

と話しています。

阿修羅像の肩・腕の心木の映像~両肩を支える板に右腕は釘で留められているが、左腕は釘が無くなっている

左腕は釘止めが無くなり、脱臼したようになって固定されている
阿修羅像の肩・腕の心木の映像
~両肩を支える板に右腕は釘で留められているが、左腕は釘が無くなっている~


CTスキャン画像を見ると、両肩を支える板に腕の心木を釘で打ち付けて留めているのですがが、左肩の釘は、かつて抜けて無くなってしまっていたのでした。
ズレ落ちて左側に寄っている腕をそのまま固定したので、中心線からからズレてしまっているとともに、手のひらが開き気味になってしまったということです。



【CTスキャンデータによる心木骨組み再現で、合掌手の姿を検証】


そこで、制作当初の状態を再現するために、CTスキャンのデータに基づき骨組み(心木)を正確に再現して、本来の両手の姿をさぐることとなりました。
再現には、仏師で研究家の矢野健一郎氏があたりました。

再現に際して着目された、最も重要なポイントは、第一手の両肘の角度でした。
両肘部分は、制作当初からそのまま残っているものです。
計測した両肘の角度は、左右、全く同じ角度となっていました。

この前提のもとに再現した両腕の心木の先に、手の模型をつけて組み立て、当初の姿を検証してみたのです。
もし、合掌していなかったとすると、その可能性は、

両手のひらを開いて持物を捧げ持つようにしていたか、
右の手のひらに何かを載せて、左手は合掌手のような姿をしていたか

ということになります。



【制作当初の両肘は角度が左右同一、合掌以外のポーズは不可能】


検証結果は、次のようなものとなりました。

まず、左手です。
釘が抜け落ちていた左肩に、当初の釘痕どおりに脱臼したように外れていた腕を打ち付けると、手のひらの位置は中心に移動し、開き気味だった手のひらは、合掌に相応しく垂直となりました。

肩の釘痕の処に腕の心木を留めると、正中線で合掌の姿となった
左腕の心木を肩の釘痕の位置に止めた様子

左腕を肩の釘痕の処に腕の心木を留めると、合掌手はピッタリ正中線の処に来る明治修理前の阿修羅像も合掌手が左にズレ、手のひらが上向きに開いている
(左)左腕を肩の心木を留めると、合掌手はピッタリ正中線の処に来る
(右)修理前の合掌手は、左にズレ、手のひらが上向きに開いている


右手の方も、同じ肘の角度にぴったり合うように手首から先の手を付け、肩に打ち付けると、左手と同じように合掌手にしか成り得ないこととなりました。
今の肘の角度で、両手のひらを開いて持物を持たせようとすると、両腕の幅は異常に狭まってしまい、不自然に過ぎてしまうし、肩と腕の心木の接合状況から、考えられないということなのだと思います。

両手のひらを開いて持物を持たせようとすると、両腕の幅は不自然に狭まってしまう
両手のひらを開いて持物を持たせようとすると、腕の幅は不自然に狭まってしまう

左手は合掌手の形で、右手にものを載せるように、手のひらを開いたものに作ろうとすると、肘の造形を左の肘と角度が違うように造らざるを得なくなるということです。

手のひらを開いたものに作ろうとすると、左右の肘の角度を変えざるを得ない
右手のひらに持物を載せると、左右の肘の角度を変えざるを得ない

即ち、左手は、手のひらが開いて、何かを持つことだ出来るような状態で手が付いていないし、右手にものを載せようとすると左右の肘の角度が変わってしまうということです。

腕と肩の心木の当初の接合状況、両肘の角度を検証すると、合掌手以外の手の姿は、考えられないのであろうとの結論になるとのことでした。

当初の心木の接合状況を再現、復元すると、合掌手以外の姿は不可能
当初の心木の接合状況を再現、復元すると、合掌手以外の姿は不可能

番組では、この問題について、

「つまり1300年前、阿修羅像は体の正面で合掌していたのです」

という語りで、締めくくっていました。

合掌する阿修羅像
合掌する阿修羅像

「観仏日々帖」前話では
「阿修羅像は、合掌していたのかという疑問は、解消されたわけではないのでしょうか?」
とというフレーズで終えたのですが、
このTV番組を見て、私個人としては、当初から合掌していたということで間違いないのだろうと、納得した次第です。



【西金堂の阿修羅は、何故、合掌した姿なのか?】


ところで、そもそも激しい戦闘神、闘争神であるはずの阿修羅が、興福寺西金堂像では、

「何故、合掌の姿をしているのでしょうか?」

TV番組でも、このテーマを採り上げていました。

合掌する阿修羅像
合掌する阿修羅像

番組に登場した、万葉集研究の上野誠氏(奈良大学教授)は、このようなコメントを語っていました。

「阿修羅というのは極悪非道、戦争、つまり強いものの代表者なんですよね
その強いものの代表者が、ここにその合掌する。
・・・・・
それは、ある意味で感謝ですよね。
とか、尊いものに接したときの感動を表す一つの形ですよね

(ナレーション:飢饉や外国の脅威と直面した厳しい時代)

苦しい時代を生きていく人たちを励ます最大の祈りの形、造形物になっていくのかなというふうに。
見る人にとっては、そんな強い人だから合掌してくれたらと嬉しいよね。」


私には、阿修羅像の合掌の意味といった宗教的な問題は、全くの苦手分野で、何もわかりません。



【「金光明最勝王経の夢見金鼓懺悔品の情景」をジオラマ展開した、西金堂・釈迦集会像
~懺悔の心を表し、合掌する阿修羅像~】


研究者の方によると、阿修羅像が、本来の激しい怒りや闘いの姿に作られているのではなく、静かで敬虔な精神表現の姿に作られている事由について、次のように説明されているのではないかと思います。

興福寺西金堂の仏像群は、「釈迦集会像」として造られました。

西金堂・釈迦集会群像の情景~京博本興福寺曼陀羅(鎌倉時代)の西金堂部分
西金堂・釈迦集会群像の情景~京博本興福寺曼陀羅(鎌倉時代)の西金堂部分
阿修羅像は向かって左の一番奥


この釈迦集会群像は、「金光明最勝王経」のなかの、「夢見金鼓懺悔品」(むけんこんくさんげぼん)にある情景を形にしたものと云われています。
それは、

「妙幢菩薩が、夢の中で大金鼓を撥で叩いて大きな響きを出した。
その大金鼓の音が響いている中で、美しい讃美歌がうたわれ、懺悔の方法が述べられた。・・・・・」

という情景を、ジオラマのように西金堂内部に展開したものです。
そうした情景のなかで釈迦の下に集会した、十大弟子、八部衆像の表現であるということなのです。

例えば東野治之氏は、こうした造像主旨を踏まえ、阿修羅像の表現について、このように述べています。

「阿修羅像をはじめ八部衆像、十大弟子像は、釈迦集会の像であることを前提としてみなければならない。
・・・・・・
阿修羅像の眉をひそめた表情は、金鼓が響いて讃美歌が歌われ、懺悔の方法が述べられたという話を集まって聞いている表情なのであろうと考えられる。
・・・・・・・
こうして見てくると、あの阿修羅像の魅力ある表情は、懺悔の心を表している可能性が高い。」
(東野治之「阿修羅像と天平文化」阿修羅を究める・興福寺監修2001年小学館刊所収)

静かな姿の阿修羅像をはじめとする八部衆の表現について、同じ趣旨を述べている研究者が多いのではないかと思います。

静かに合掌する阿修羅像
静かに懺悔、合掌する阿修羅像


釈迦の前に集い、心中深く懺悔の心を起こした阿修羅の姿を思い浮かべると、

「阿修羅は、静かに合掌していた」

というのが、おのずと自然な姿のように思えてくるのです。


以上が、前話「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」の続報です。



ついでに、TV番組「興福寺阿修羅像1300年の新事実」のなかで、大変興味深く感じた話を、ちょこっとだけご紹介しておきたいと思います。



【塑像原型と全く違った表情の阿修羅像~怖い顔から優し気な顔に変化】


それは、阿修羅像の塑像原型を、再現した処、その顔の表情とは全く違ったものであったという話です。

ご存じのとおり、脱活乾漆像は土で作った塑像の原型に、麻布を漆で貼り重ね、木屎漆でモデリングして細かい姿を表現していきます。
阿修羅像も、5枚程度の麻布が漆で貼り重ねられています。

今回撮影したCTスキャンの画像から、乾漆層の内側に、塑像原型の痕跡を見つけ出すことが出来たことから、塑像原型の再現を試みた処、なんと、今の阿修羅像とは全く違う表情が浮かび上がってきたということです。

CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型
CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型

原型は、眉も目も吊り上がった厳しい顔、恐ろし気な表情をしていたのです。
眉は、左右が連なったインド風の連眉で表現されており、現在の眉根を寄せた愁いを含む表現と全く違います。
制作当初は、古代インドの荒ぶる神を想起させる、猛々しい表情を想定していたことになります。
CT画像から塑像原型を復元した画像をご覧いただくと、よく判ると思います。

CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型~厳しく恐ろしげな表情

CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型~厳しく恐ろしげな表情
CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型~厳しく恐ろしげな表情

その塑像原型段階の厳しく怖い表情が、木屎漆のモデリングの最終段階で、清らかで愁いを含んだ少年を思わせる、今の阿修羅像の優し気な表情に、大きく変更されたのだということです。

優しく愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像の表情
優しく愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像の表情



【脱活乾漆像の木屎漆モデリングの実際を実感】


この新事実は、私には、大きな驚きでした。

脱活乾漆像を制作するときは、
「塑像原型で大まかな形を造っておいて、最終的には木屎漆のモデリングで造形の細かい処を整え表現していく。」
という話は、本で読んで知っていました。

しかし、当初の顔の表情プランを、木屎漆のモデリング段階で100%変えてしまうほどまでに、造り変えることだ出来るのだというのを、初めて知りました。

再現した阿修羅像の塑像原型塑像原型に麻布を貼り、木屎漆のモデリングを行う有様

塑像原型に麻布を貼り、木屎漆のモデリングを行う有様
塑像原型に麻布を貼り、木屎漆のモデリングを行う有様


実は、2012年に唐招提寺の鑑真和上像のお身代わり像が、美術院で制作された時、この像は木屎漆の層が大変薄いことが明らかになり、奈良時代脱活乾漆像のなかで、常識的手法でない異例なものであると発表されました。

模造制作にあたった、美術院国宝修理所の木下成通氏は、
「木屎層が薄くても彫刻表現が完成されていることから、塑土原型の段階ですでに細かい箇所まで作り込まれていたことがわかる。」
(「唐招提寺・国宝鑑真和上坐像・模造制作について」木下成通・美術院紀要8号2016年刊所収)
と指摘して、鑑真像が、奈良の仏像専門の工人ではなく、弟子たちの手による制作である可能性を示唆しています。

唐招提寺・脱活乾漆鑑真和上像
唐招提寺・脱活乾漆鑑真和上像

今回、脱活乾漆による、木屎漆による面貌、表情のモデリングのやり方を、画像で目の当たりにして、脱活乾漆技法や、鑑真和上像の制作技法の特異性とはこういうのは、こういう話なのだと、腑に落ちた次第です。



【阿修羅像が、優しい少年の顔に切り替えられた訳は~光明皇后の基王への追慕の投影か?~】


話は戻って、

「阿修羅像の、元の怖い表情が、何故作り替えられたのか?
どうして、愁いを含んだ少年を思わせる、優し気な表情になったのか?」

という謎についての問題です。

愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像
愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像

番組で解説に登場した、興福寺国宝館館長の金子啓明氏は、その訳について、興福寺西金堂建立の願主である光明皇后の想いに心を馳せて、このように語っていました。

八部衆像には、子供の姿に造られた像がある。
幼い順にみていくと、まずは沙羯羅像で5~6歳、次は五部浄、乾闥婆像で10代初めの少年、そして阿修羅像は10代半ばごろの姿に造られている。
これは、我が子、基王(もといおう)を1歳にならないうちに亡くしてしまった、光明皇后の基王への追慕の想いが託されたものだと思われる。

西金堂諸像は、亡くなってから6年後、これらの像が造られるが、光明皇后は、その子供の面影を追う想いを仏像に託しながら、少しずつ成長していくような姿をイメージとして子供とだぶらせていたということが考えられる。
年齢を順に追っているところに、光明皇后の、子供を想う親としての思いが託されていたとみることが出来る。

興福寺・八部衆のうちの沙羯羅像~童子の表情
沙羯羅像~童子の表情
興福寺・八部衆のうちの五部浄像~10代初めの表情興福寺・八部衆のうちの乾闥婆像~10代初めの表情
(左)五部浄像、(右)乾闥婆像~10代初めの表情

金子啓明氏は、これまでも、この考えを示していて、自著、「仏像のかたちと心~白鳳から天平へ」においても、このように述べています。

「光明皇后が実母である故橘美千代の一周忌供養のために建立した興福寺西金堂に、嬰児の羅睺羅像を安置したのは、母の菩提供養と合わせて、夭折したわが子基王の供養も果たそうとしたからではないだろうか。
釈迦の生まれてまもない実子・羅睺羅に皇太子・基王の姿をイメージするのは、亡き嬰児を想う母親としては、自然な考え方である。
興福寺西金堂の羅睺羅像は残念ながら現存しない。
しかし、今も残る八部衆8体のうちの半数の4体までが少年像であることは、光明皇后の亡き皇太子に対する思いを考える上で注目される。
先にも述べた、阿修羅、沙羯羅、五部浄、乾闥婆の4体である。」
(金子啓明著「仏像のかたちと心~白鳳から天平へ」2012年岩波書店刊)

京博本興福寺曼陀羅図にみえる西金堂・羅睺羅像
京博本興福寺曼陀羅図に見える西金堂・羅睺羅像

この光明皇后の、亡き子、基王への思慕、追慕の想いが、西金堂諸像に投影され、阿修羅をはじめ少年相の諸像が造られたという見方は、大変ロマンチックで説得力もあるようには感じるのです。

ただ、阿修羅像の少年相の訳は、このストーリーで決まりという風に、決定打的に考えても良いのかな?という気も、少しばかりしてきますが・・・・・・

皆さんは、いかがでしょうか?

興福寺・阿修羅像
興福寺阿修羅像



NHKテレビ「興福寺阿修羅像1300年の新事実」の番組から、興味深かった話を紹介させていただきました。


テレビ番組としては、なかなか突っ込んだ、中身の濃い内容でした。
光明皇后をちょっと美化しすぎのような感もありましたが、興味深く、面白く見ることが出来ました。


(掲載写真の多くは、TV番組「興福寺阿修羅像1300年の新事実」の映像から転載させていただきました)


こぼれ話~「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」 仏像の手の話①  【2017.3.18】


【「仏像の手の話」のテーマを、しばらく採り上げてみます】



「この観仏日々帖に、なにか採り上げるテーマはないだろうか?」

と思いを巡らせているうちに、 「仏像の手の話」 と題するテーマを考え付きました。

思いつくのは、こんな話、

興福寺・阿修羅像の合掌手の話、広隆寺・弥勒菩薩の指の話、広島古保利薬師堂・薬師像の手の話、新薬師寺・薬師像の腕の材の木目の話、失われた新薬師寺香薬師像の右手の話

等々、といった処でしょうか

「仏像の手」にまつわる、ちょっと面白そうで、興味深い話を、連載的にいくつかご紹介が出来そうです。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像

スタートのテーマは、

「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」

が良いかな、と考えていた処でした。

「阿修羅像は、制作当初は合掌せず、何かを捧げ持っていたに違いない」
という見方があるという話です。



【「阿修羅の合掌手ずれた?」の、新聞記事にビックリ】


そんな矢先です。

新聞を読んでいると、ビックリの記事が目に入ってきました。
2月22日付の朝日新聞の朝刊に、こんな見出しの記事が載せられていたのです。

「阿修羅の合掌ずれた? 明治時代の修理で CT画像解析」

「阿修羅の合掌ずれた?」朝日新聞記事


この「見出し文」に、鋭く反応された方は、結構、仏像に詳しい方なのではないかと思います。

現在、阿修羅像を拝すると、合掌した姿に造られています。
「阿修羅の合掌ずれた? 明治時代の修理で」
といわれても、

ごく普通には、合掌手がちょっとずれていただけということで、
「わざわざ新聞記事にするほど、大した話ではないのでは?」
と感じられるのではないかと思います。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像~よく見ると合掌手が向かって右に少しずれている~

阿修羅像の合掌手の問題をご存じの方は、

「阿修羅像は、実は持物を捧げ持っていたとする説は、間違いで、やはり当初から合掌手であったということなのか!」

と、興味深くこの記事を読まれたのではないでしょうか。



【CTスキャンで、制作当初から合掌していた可能性大と判明~「実は持物を持っていた」説を否定?】


この新聞記事の冒頭にも、このように記されています。

「天平彫刻の傑作、奈良・興福寺の国宝阿修羅像(734年、脱活乾漆造り)について、1300年前の制作当初は両腕を正面で合掌させていた可能性の高いことが、九州国立博物館(福岡県太宰府市)などの研究チームの調査で分かった。

X線CTスキャン画像の解析で、明治時代に再接合された修理の詳細が判明。
本来合掌していなかったとの見方もあったが、内部の芯木の復元実験も行い、合掌の姿勢が妥当と判断された。」

記事は、この後、

阿修羅像の6本の手が、明治年間には、一部損傷欠失していたこと。
明治の修理で、第一手は合掌手に修復されたが、本来は何か持物を持っていたという説があること

について、このようにふれています。

「阿修羅像は奈良時代以来、火災や地震、戦災などをくぐり抜けたが、転倒などで6本ある腕のうち数本が損なわれた。
1902~05(明治35~38)年の修理で、最も正面に近い左右2本の腕のうち、ひじから先がなくなっていた右腕などが補われた。
それ以降、この2本の腕は体の正面より左寄りの位置で合掌する姿になり、本来は合掌と違う姿で、何らかの法具か宝物を手にしていたのではないかとの見方も出ていた。」


新聞記事は、この後

「CT撮影などの調査で、明治の修理前も、自然な合掌手であった可能性が高まった。」

ことについて、解説されています。

この記事を採り上げた記者の方は、阿修羅像は、
「当初、合掌していなかったという見方を否定する調査結果」
が発表されたことを、重要な新事実とみて、この記事を執筆されたのでしょう。



【「興福寺・阿修羅像は、合掌していなかった」という議論を振り返る】


新たな調査事実の話は、ちょっと後回しにして、

「興福寺・阿修羅像は、当初から合掌していたのだろうか?」

そのような議論がされるようになったいきさつを、振り返ってみたいと思います。

ご存じのとおり、興福寺の阿修羅像は、興福寺・西金堂に祀られる八部衆像の一つとして制作されたものです。
天平6年(734)に創建された、興福寺西金堂に当初から安置された、天平彫刻を代表する脱活乾漆像の名作です。

興福寺・阿修羅像

興福寺・阿修羅像
愁いを含んだ少年のような面差しが絶賛される興福寺・阿修羅像

明治時代には、阿修羅像だけが単体で素晴らしい傑作と評価されることは無かったのですが、大正期以降、とりわけ昭和10年代以降、愁いを含んだ少年のような面差しが絶賛されるようになり、いまや人気NO1の仏像といってよい超有名像になりました。



【明治修理以前、手が欠失していた阿修羅像~残されていた修理前写真】


この阿修羅像は、明治35年(1902)9月から38年1月に興福寺の諸仏像が、美術院により修理された際に、修理修復が行われました。
この時に、手の一部が欠損していたものが、修復されました。

この修理以前の、興福寺阿修羅像を撮影した写真が残されているのです。
2種類、残されています。

一つは、明治21年(1888)、政府による近畿地方古社寺調査に同行した写真師、小川一眞が撮影したものです。
東金堂に寄せ集められた諸仏の集合写真の中に、阿修羅像の姿が見えます。
左の第一手、合掌手の手先が欠失しているのが、判ると思います。

興福寺古写真~明治21年小川一眞撮影

興福寺古写真~明治21年小川一眞撮影
興福寺古写真・東金堂に集められた諸仏~明治21年小川一眞撮影
阿修羅像の手が欠損しているのが判る


もう一つは、阿修羅の手が欠損していた状況が、はっきりと判る有名な写真です。
明治41年に刊行された、工藤精華撮影出版の「日本精華・第1輯」に収録されています。
明治27年(1894)に撮られた写真で、美術院修理前の阿修羅像の貴重な写真です。

明治27年工藤精華撮影・阿修羅像~日本精華第1輯所載
明治27年工藤精華撮影・阿修羅像~日本精華第1輯所載
明治修理前の手の欠失状況がよく判る


ご覧の通り、右手第一手(合掌手)と左手第三手が、欠失しているのがはっきりとわかると思います。



【美術院での修理時、合掌する姿に修復される】


この欠損していた手は、当時の日本美術院、新納忠之介等によって修理され、現在の第一手が合掌している姿に修復されたのでした。

現在の阿修羅像の写真を見ると、右手・第一手の肘から先の処に、手先を継ぎ足した跡がはっきりと残っていて、そこから先が明治に作られた後補の手先であることが、よく判ります。
後補部分の右手先は、木彫で補われています。

興福寺・阿修羅像~左肘部から先が木彫後補であることが見て取れる
興福寺・阿修羅像~左肘部から先が木彫後補であることが、よく見て取れる

新納忠之介は、阿修羅像の第一手は、当然に合掌していたものと考えて、このように復元修理したのに違いありません。

しかし、真正面から、阿修羅像を拝すると、合掌する手のひらの位置が、向かって右側に少々ズレていることにも気が付きます。
パッと見は気になりませんが、じっくり拝していると、合掌手の正中線からの軸ブレは、ちょっと不自然な感じであることは事実です。



【提起された疑問~本当に合掌していたのだろうか?】


近年、専門家の間では、

「実は、阿修羅像は、合掌していなかったのではないか?」
「第一手は、持物を捧げ持つような姿であったのではないか?」

という疑問が、結構持たれていたようです。

興福寺・阿修羅像.興福寺・阿修羅像~合掌手
興福寺・阿修羅像~合掌手

この疑問は、

・阿修羅像の合掌の手のひらが合わさった位置が、正中線から向かって右に、わずかにズレていること。
・修理前の写真の第一手、左手の掌は、外に向って開いており、合掌していたにしては不自然なこと。
・修理前の手が欠失した写真を見ると、第一手の脇が締り、肘が下がっているのに対して、現状は、肘が外に広がるように張っており、明らかに角度が改変されていると思われること

などから、発した疑問のようです。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像~工藤精華撮影(明治27年)
現在の阿修羅像(上)と、明治修理前の阿修羅像(明治27年・工藤精華撮影)

このようなことを総合すると、阿修羅像は、当初合掌していたのではなくて、右手に何かを手に捧げ持ち、左手をそれに添えるような姿ではなかったのかという見方も出てきたという訳です。



【当初は、持物(法輪か法螺貝)を、両手で捧げ持っていた?】


「阿修羅像は、合掌していなかった。」

という問題提起を、最初に文章にして発表した方は、山岸公基氏(奈良教育大学教授)だと思います。
これまで、次のような論考を発表されています。

「阿修羅の手」月刊奈良38巻11号・1998年刊)所収
「阿修羅像は合掌していなかった」仏教新発見2号・興福寺(朝日新聞社刊)2007.07所収

山岸氏は、
明治の修理前写真と現状を比較し、第一手の角度が、かなり外に広げられていることを指摘したうえで、

「胸前にささげた腕は肩を支点に現状と比べると肘が内側に回転しており、そのぶん左の手先は現在も左に偏っていると見えるのがいっそう外に開いて、もと合掌していたと見ることは困難になる。

つまり阿修羅は合掌しているものという先人見のもと、明治修理に際して、当初の左手指先が合掌らしく正中に近くなるよう、胸前にささげた腕の肩からの角度が改変されたのではないだろうか。」
(「阿修羅像は合掌していなかった」仏教新発見2号)

と述べています。

我が国の、阿修羅の古像には、法隆寺五重塔の塔本塑像(奈良時代)、三十三間堂の二十八部衆の一躯(鎌倉時代)が知られています。

法隆寺の阿修羅像は、手先が欠損していますが、合掌していたとは考えられません。
三十三間堂像像の方は、胸前で合掌しており、現在の興福寺阿修羅像と同じ手の姿に作られています。

法隆寺五重塔・塔本塑像~阿修羅像三十三間堂・二十八部衆~阿修羅像
(右)法隆寺五重塔・塔本塑像~阿修羅像、(左)三十三間堂・二十八部衆~阿修羅像


もし阿修羅像が合掌していなかったとすると、どのような手の姿をしていたのでしょうか?

山岸氏は、阿修羅像の中国の遺例をみると、第一手が合掌している作例の他に、

・法輪を持つ例~四川省の広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像(8C前半)
・法螺貝を持つ例~敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画(8C末~9C)

があることを上げて、こうした持物を胸前に執る姿であったのではないかとみられています。

四川省の広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像~法輪を持つ
四川省広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像~法輪を持つ

敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画~法螺貝を持つ
敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画~法螺貝を持つ

北進一氏も、自著
「アシュラブック」2012年美術出版社刊
のなかで、「本当に合掌していたのか?」という項立てを設けて、この問題に触れています。
北氏は、山岸氏と同様の観点から、当初は合掌手ではなかったと考え、
第一手は、両手で法螺貝か輪宝を持ち、第二手は左手に弓、右手に弦に矢をつがえる姿、第三手には日輪、月輪を持っていた、
と思われると述べています。

このように、

「興福寺阿修羅像は合掌していたのではなくて、両手で法輪か法螺貝を持っていたのに違いない。」

という考えは、一つの見方として有力であったのではないかと思います。



【合掌手は、意図的に軸ブレして造られたという見方~斜めから拝する視線を計算】


一方で、この問題を、

「阿修羅像が祀られる姿が、拝者の眼にどのように映るのか。」

という視点から、とらえる見方もありました。

阿修羅像の合掌手が、正中線から向かって右に少しズレている理由を、仏像を拝する側の視線、視点から解き明かそうとするものです。
合掌手がずれているのは、おかしなことでもなんでもなくて、斜めから拝する側の視線を考えれば、このようにズレて造るのが、最も適切なのだと考えられるというものです。

阿修羅像は、西金堂の、向かって左側の奥に祀られていました。
京博本・興福寺曼陀羅の西金堂の図を見ると、阿修羅像の祀られていた位置がよく判ります。

京博本・興福寺曼荼羅図(鎌倉時代)~西金堂の部分

京博本・興福寺曼荼羅図~西金堂・阿修羅像の部分拡大図
京博本・興福寺曼荼羅図(鎌倉時代)~西金堂の部分(上)と、向かって左上の阿修羅像の拡大図(下)

お堂の真ん中に坐して諸仏を拝する時、左奥に祀られる阿修羅像が、斜めから一番良いバランスで、美しく見えるように、意図的に合掌手などが少し軸ブレしたように造られたのだというものです。

こうした拝する人への見え方を計算して造られた仏像は、巨像によくあることはご存じのとおりです。
東大寺南大門の仁王像が、見上げて拝することから、頭部が大きく造られたり、乳首や臍の位置が修正されたりしているのは、代表的な事例ではないかと思います。

東大寺南大門・仁王像~体の中心(真ん中)から撮影した写真.東大寺南大門・仁王像~通常の見上げる位置から撮影した写真
東大寺南大門・仁王像
体の中心(真ん中)から撮影した写真(左)、通常の見上げる位置から撮影した写真(右)



【左斜めに見上げて拝するのが、ベストの「仰角」の阿修羅像】


この阿修羅像を拝する視線の角度について、論じた論文があります。

「迎角から探る興福寺阿修羅像の立ち位置」(水野谷憲郎)淑徳短期大学研究紀要 53号2014.2

というものです。

水野谷憲郎氏は、仏像が置かれる場所によってその形や傾きを変える事実を「迎角」として追究し、いくつも論文を発表しています。
水野氏は、「仰角」の観点から阿修羅像について研究し、阿修羅像は、お堂の正面に向かって左奥に祀られ、拝観者が斜め左側に像を観る位置に祀られて、一番バランスよく見えるように制作されていると論じ、このように述べています。

「何故このような不自然な右側面を作らねばならなかったのか。
ここに明快な意図が見える。

先に述べた通り、阿修羅像を前から見ると向かって右の形の方が主に整えられてた。
言い換えるなら、阿修羅像は向かって左奥に倒れていく形の不自然を作り、その反対方向である向かって右前からの視線に最良の形を見せる変形が行われていることになる。

即ち阿修羅像はやや右側、拝観者からは正面やや左側に置かれるとバランスが良く立って見える造りとなる。」
(「迎角から探る興福寺阿修羅像の立ち位置」)

水野氏は、このような見方によると、阿修羅像の「最良の拝観位置に近い写真」は、ご覧のような斜め角度のものであるとされています。

向かって右斜めの最良の拝観位置から見た写真(水野谷憲郎氏による)
水野谷憲郎氏が最良の拝観位置からとする写真

向かって右斜めから見た阿修羅像のカラー写真
向かって右斜めから見た阿修羅像のカラー写真

確かに、この角度から拝すると、阿修羅像の合掌手が正中線から軸ブレしていることが全く気にならないどころか、きちっと正中線上で合掌しているように目に映るのです。

以前に、ある先生からも、

阿修羅像は向かって左斜めから拝されることを意図して造られている。
合掌手の位置だけでなく、顔貌や脇面などの出来映えをみても、そのように感じられる。

という話を耳にしたこともありました。

興福寺・阿修羅像.興福寺・阿修羅像~向かって左斜めからの写真
阿修羅像の左右斜め位置から見た写真



【CTスキャン調査で、「制作当初は、真正面位置で合掌」の可能性大と判明】


「阿修羅像は、本当は合掌していなかったのか?」

「阿修羅像は、斜めから拝すのを計算し、意図的に軸をずらすなどして造られたのか?」

どっちが真実なんだろうか?
そんな疑問が提起されていた処に、新たに科学的な調査事実が判明したというのが、冒頭でご紹介した新聞報道記事なのです。

「阿修羅像は、制作当初、中心軸の真正面で合掌していた可能性が強い。」

という、調査結果が判明したというものです。

新聞記事を、そのままご紹介します。

「CT撮影は、2009年の「国宝 阿修羅展」に合わせて九州国立博物館で行われた。
その後、今津節生・奈良大教授(保存科学)らが解析を続けた。
その結果、正面側の両腕のわきの下に木屎漆(木粉と漆のペースト)が詰められ、それが両ひじを外側へ開き気味に押し上げていたことが判明した。

研究チームによれば、木屎漆を除去し、修理前の姿に戻せば、左の手のひらが現状より約2センチ内側、仏像の中心軸(正中線)上に乗り、胸のほぼ正面に来ることが分かった。
右腕の角度も狭まり、合掌以外のポーズは取りにくい状態とされる。
像内の芯木を原寸大で復元した実験でも同じ結果が得られた。
CTスキャンのデジタルデータで構造を細部まで立体的に把握・再現でき、制作当初の姿に迫ることができたという。

金子啓明・東京国立博物館名誉館員(日本彫刻史)は
『胎内構造の復元実験からも両腕のひじが張っていなかったことを確かめ、阿修羅像が現状よりもっと自然に合掌していた可能性が高まった。
仏像に手を加えない先端科学による重要な発見だ』
と話す。」


新聞記事に掲載されていたCTスキャン画像、修理前想定の画像をご覧ください。

阿修羅像のCTスキャン画像写真
阿修羅像のCTスキャン画像

CT画像によると、明治の美術院の修理で、両腕わきに木屎漆が埋め込まれて、両肘が外側に広げられたことが判るということです。

明治修理前の阿修羅像の合掌手の位置の推定修正図
明治修理前の阿修羅像の合掌手の位置の推定修正図

明治修理時に埋め込まれた木屎漆を取り除くと、脇がグッと締まるとともに、約2㎝左手のひらが正中線側に動くこととなり、真正面で合掌していたとみられるようになるとのことです。

以上のとおり、CT撮影調査結果、心木の原寸大復元などの研究結果によると、(明治の)修理前の姿は、

・左の手のひらが仏像の中心軸(正中線)上に乗り、胸のほぼ正面に来る。

・阿修羅像は、当初は、現状より自然に真正面で合掌していた可能性が強い。

というものです。

阿修羅像の内部構造推定図~山崎隆之著「一度は拝したい奈良の仏像」掲載図
阿修羅像の内部構造推定図
山崎隆之著「一度は拝したい奈良の仏像」(2009年学習研究社刊)掲載図


明治35~8年の美術院の修理で、阿修羅像がどのように改変修復されたのかは、これまで、よく判っていませんでした。
美術院の仏像修理記録は、そのほとんどが、具体的修理内容の記録、修理図解、修理前後写真が残されているのですが、明治のごく初期の修理だけは詳しい記述がされていないのです。

残されている修理資料の、興福寺「乾漆八部衆立像 八躯」の処には、
「彩色ノ剥落ヲ防止シ、破損ノ部分ハ堅牢ニ修理ヲ加ヘ、適当ノ古色ヲ附スベシ。
破損シタル半身ノ像ハ箱ヲ造リ、之レニ保存スベシ。
右ニ対スル修繕費金参百六拾八円八拾参銭也。」
という記述と、緊那羅像の内部構造図が残されているだけとなっているのです。
(「日本美術院彫刻等修理記録Ⅲ」奈良国立文化財研究所1977年刊による)

今回の研究調査で、当時の修理改変の状況が明らかにされ、

「阿修羅の合掌手についての、永年の疑問」

が、解決されたということになりそうです。



【2月開催のシンポジウムで、研究成果発表されるも、参加できず残念!】


実は、この研究成果については、2月25日に東京で開催された、
公開シンポジウム「阿修羅像を未来へ―文化財保護のこれからを考える―」(興福寺、朝日新聞社主催)
において、詳しく発表されました。

「阿修羅像 CTスキャン調査の全容」(奈良大学教授・今津節生、九州国立博物館・展示課長・楠井隆志)
というものです。

私は、この講演会を是非とも聞いてみたかったのですが、残念ながら、参加申し込みの抽選に外れてしまい、行くことが叶いませんでした。
詳しい解説等がどのようなものだったのか興味津々なのですが、いずれ、どこかに研究結果が掲載されるのを待つしかないという処です。
今のところ、私には、新聞記事の情報以上のものがありませんので、これ以上突っ込んだ話をご紹介することが出来ません。

当初から合掌手であったということについては、こんなあたりも、知りたくなるところです。

阿修羅像は、明治の修理以前にも、近世まで何度も修理が行われているのですが、今回のCTスキャン調査で、当初の実像がどのあたりまで解明されたのだろうか?

明治修理前の写真を見ると、たしかに現状より脇が締り、肘が下がっているのですが、その時でも、左の手先、手のひらは外側に開いているようで、合掌していたにしては不自然に見えます。
これは、明治以前に、第一手の角度が、制作当初よりも外開きになってしまっていたたからなのでしょうか?

また、気のせいでしょうか、左の手のひらは正中線より、わずかに(向かって右に)ズレているような気がしないでもありません。

明治27年工藤精華撮影・阿修羅像
明治修理前写真(工藤精華撮影)

大変、興味深い処です。
皆さんは、この阿修羅像の合掌手の問題、どのように感じられ、考えられておられるでしょうか?


今回の研究発表、新聞報道で、

「阿修羅像は、合掌していたのか?」

という問題に、正中線上で合掌していたと、はっきりとした結論が出た、ということなのでしょうか?


それとも、まだまだ、

「阿修羅像は、合掌せずに、持物を持っていたに違いない?」

「阿修羅像の合掌手は、『仰角』(拝する角度)の関係で意図的にズレている?」

という疑問が、解消されたわけではないのでしょうか?



新刊旧刊案内~「国華余芳」多色石版図集(明治15年刊)について 【2017.3.3】


【手に入れた、珍しい明治初期の図集「国華余芳」】



「国華余芳」(こっかよほう)多色石版図集を、手に入れました。

「『国華余芳?』 そんなもの聞いたことは無い!」
「多色石版図集? ますますよく判らない!」

このように思われた方が、沢山いらっしゃるのではないでしょうか?

「国華余芳」多色刷石版図集3冊
「国華余芳」多色刷石版図集3冊

確かに「国華余芳」という図集は、ほとんどといって良いぐらいに、世に知られていないのではないかと思います。
この「国華余芳」は、明治15年(1882)、印刷局の手によって、当時の印刷技術の粋を集めて造られた、カラー刷り石版図集です。

「正倉院御物」「伊勢内外神宝部」「古書之部」の三部構成になっています。



【精巧、美麗な宝物図版に、眼を奪われる「国華余芳」】


まずは、「国華余芳」の写真をご覧ください。

「正倉院御物」の冊です。
長い紙を折りたたんでいる折帖仕立てになっており、25図が収められています。
正倉院に秘された鏡や絵箱の宝物が描かれており、三部のなかで、最も美しい図集です。

「国華余芳・正倉院御物」

「国華余芳・正倉院御物」収録図版1

「国華余芳・正倉院御物」収録図版2

「国華余芳・正倉院御物」収録図版3

「国華余芳・正倉院御物」収録図版4

「国華余芳・正倉院御物」収録図版5

「国華余芳・正倉院御物」収録図版6
「国華余芳・正倉院御物」~多色石版図版


「伊勢内外神宝部」の冊です。
伊勢神宮の社殿や剣などの神宝、19図が収められています。

「国華余芳・伊勢内外神宝部」

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版1

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版2

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版3

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版3
「国華余芳・伊勢内外神宝部」~多色石版図版


「古書之部」の冊です。
宸翰、高僧などの古筆が、24図収められています。

「国華余芳・古書之部」

「国華余芳・古書之部」収録図版

「国華余芳・古書之部」収録図版2
「国華余芳・古書之部」収録図版


如何でしょうか?
写真ではありますが、国華余芳の原色図譜の精緻な美しさがお判りいただけたのではないかと思います。



【10年前に開催された展覧会、「国華余芳の誕生展」】


今から10年前、平成19年(2007)に、「国華余芳の誕生~明治における古美術調査の旅」という展覧会が開催されました。

国華余芳の誕生展チラシ

国立印刷局が運営する「お札と切手の博物館」で開催された展覧会です。

この展覧会に、「国華余芳」の原本や、国華余芳の誕生に至る関係作品等が展示されたのでした。
私は、明治初期に制作された、この「国華余芳」という出版物に、以前から関心がありましたので、早速、出かけてみました。

お目当ての「国華余芳」の原色石版図の現物は、期待以上の驚くべき美しさで、見惚れてしまいました。

「こんなに精緻で美麗な多色刷り印刷物が、明治の初年にできていたのか!」

と、感嘆の声をあげてしまいました。
とりわけ正倉院宝物の螺鈿鏡や飾箱の図版の、色鮮やかで細密な美麗さには、眼を奪われてしまいます。

「国華余芳の誕生展」国華余芳図版の展示風景
「国華余芳の誕生展」~国華余芳図版の展示風景

「国華余芳」図版の石版原版
「国華余芳の誕生展」~図版の石版原版

展覧会のパンフレットには、

「本展でとりあげた『国華余芳』は、写真帖・多色石版図集ともに、美術的にも歴史的にも非常に価値のあるものですが、残念ながら、一般にはほとんど知られていません。」

と書かれています。
きっと少部数だけ印刷されたに違いなく、なかなか目にすることはない貴重な図集ということです。



【なんとNET「日本の古本屋」に、「国華余芳」が出ているのを発見!】


それから10年が経ちました。

数か月前、ネットの「日本の古本屋」を、なんとなく検索していると、なんと「国華余芳~多色石版図集」が売りに出ているではありませんか!
それも、「正倉院御物之部」「伊勢内外神宝部」「古書之部」が3冊セットで出ていたのです。

「あの『国華余芳の誕生展』に展示されていた、『国華余芳』を手元に置くことが出来るのか!」

そう思うと、心高鳴るというのか、ワクワクしてきました。
ちょっと高かったのですが、思わず「購入する」をクリックしてしまいました。

数日後、我が家に「国華余芳」が届きました。
早速、ページをめくると、次々と色鮮やかな正倉院宝物の細密図が、眼前に現われます。
展覧会でガラス越しに観たのとはまた違って、現物を手に取って眼近に観るというのは、格別のものがあります。
こういうのを、「眼福」というのでしょう。


ちょいと嬉しくなり、仏像の話ではないのですが、この観仏日々帖で、ご紹介させていただきたくなったのでした。



【古美術調査の旅と、「国華余芳」が誕生するまで】


ここで、「国華余芳」というのはどのようなものなのか、「国華余芳」が制作されるに至るいきさつについて、簡単にふれてみたいと思います。

「国華余芳」は、ご紹介した多色石版図集3冊に加えて、写真帖5冊とで構成される出版物です。

明治12年(1879)、政府の印刷局は、大々的な古美術調査旅行を実施します。
一行12名、約5か月間をかけて各地を巡るという古美術調査でした。
この古美術調査旅行の成果物として、当時の技術の粋を集めて、調査宝物の石版図集と、寺社などの古建築や景観の写真帖を制作したのです。

それが「国華余芳」なのです。

この印刷局による古美術調査旅行は、明治維新以来の政府の大々的古美術調査としては、第2回目となるものでした。



【近代最初の政府、古美術調査は「壬申検査」(明治5年)】


最初の古美術調査は、よく知られていると思いますが、明治5年(1872)に実施された「壬申検査」と呼ばれるものです。

政府は、古美術品の散逸、破壊を憂慮し、明治4年「古器旧物保存方」を布告して、府県に管内社寺等の文化財の目録を提出させました。
それを元に、明治5年に、現物確認の宝物調査を行つたのが「壬申検査」です。
壬申検査は、政府による最初の文化財調査となるもので、調査は文部省の町田久成、蜷川式胤によって行われました。

町田久成.蜷川式胤
町田久成(左)、蜷川式胤(右)

我が国近代における文化財保護の嚆矢となるものと云われています。

この時の調査記録としては、同行の写真師・横山松三郎が撮影したステレオ写真と、「壬申検査宝物図集81冊」(重要文化財)が制作され、現存しています。

「壬申検査宝物図集」

「壬申検査宝物図集」収録図

「壬申検査宝物図集」収録拓本
「壬申検査宝物図集」収録図と拓本

この「壬申検査宝物図集」は、拓本と手描きの詳細複写によってなるもので、印刷物ではありませんでした。



【印刷局長・得能良介が企画した、明治12年の古美術調査】


「壬申検査」の7年後、今度は、政府の印刷局において、大々的な古美術調査旅行が実施されることになったのでした。

印刷局というのは、当時、主にお札と切手の印刷を行っていた処です。

明治草創期の印刷局では、当初外国に委託していた紙幣の国産化に向けて、お雇い外国人を招聘し、様々な新技術を学んで偽造防止、品質向上に努めていました。
有名な版画家、画家のキヨッソーネも、印刷局に招聘されたお雇い外国人でした。

当時の印刷局長であった得能良介は、キヨッソーネから、
「西欧諸国で日本美術を愛好する風潮が高まり、日本の古美術品が安価に外国へ販売され、大量に流失している」
という現状を聞かされたといいます。

キヨッソーネ.得能良介
キヨッソーネ(左)、得能良介(右)

そこで、印刷局長、得能良介は、各地の古美術調査旅行を行うことを企画発案します。

得能良介は、

・日本の貴重な古社寺等の宝物、文化財を調査し、これを記録して後世に残すこと

・調査を通して、図柄の題材を求め、紙幣のデザインに反映させるなど、印刷局の技術向上を図ること

を、企図したのでした。
印刷局では、お札や切手の図案や模様などの意匠を創案する必要があり、また偽造、模造を許すことがない最高レベルの印刷技術を保持する必要があったのです。

得能良介は、この古美術調査旅行の記録日記「巡回日記」を著しています。

得能良介記「巡回日記」.得能良介記「巡回日記」の復刊出版本(1996年刊私家出版)
得能良介記「巡回日記」(左)と、199年に私家本で解説等を附して出版された復刊本(左)

得能は、その中で、キヨッソーネをこの旅行に同行した理由を語って、このように記しています。

「山川ヲ跋渉シ、我ガ国ノ神社、仏閣、官民秘蔵ノ古器、古画ヲ見、人情、風俗如何ヲ審ラカニセバ、他日、筆ヲ執ルニ當ツテ、必ズ大イニ覚悟スル所ノモノアラン」

即ち、

ものを描くためにはその対象が造られた背景や風俗を理解することが必要であり、ただ姿形をなぞるのでは、本当にそのものを描いたことにならない。
そのため今回の旅で、古器古画を見、各地の風俗・人情を知って業務の参考としてもらうためにキヨッソーネを同行させたのだ。

と語っているのです。

得能良介(左)キヨッソーネ(右)
得能良介(左)キヨッソーネ(右)

「壬申検査」は、文化財保護、保存を主目的とした古美術調査でしたが、
印刷局の「古美術調査旅行」は、日本のデザイン、印刷レベルの向上、練磨の目的を併せ持つ古美術調査と云えるものであったといえるのでしょう。



【総勢12名、142日間で各地を巡った、古美術調査旅行】


印刷局の古美術調査旅行は、どのようなものであったのでしょうか?

明治12年(1879)年5月1日に旅立った古美術調査旅行は、なんと142日間の長きにわたり各地を巡ります。

印刷局・古美術調査の旅~巡回ルート
印刷局・古美術調査の旅~巡回ルート

伊勢神宮や東大寺・正倉院、日光東照宮を訪ねるなど、ご覧のとおりのルートを巡り、この年の9月19日に東京へ帰着したのでした。
調査旅行のメンバーは、局長の得能良介、お雇い外国人キヨッソーネをはじめ、写真技師、古器物鑑定担当など、総勢12名でした。

記録によると、調査した器物総数は、2426点、撮影した写真は510枚、模写図は200枚に及びました。

古美術調査の旅~日程参加者等の概要
古美術調査の旅~日程参加者等の概要



【古美術調査の成果を、印刷物に実現した「国華余芳」】


142日間にわたる古美術調査旅行から帰京したのち、印刷局調査団が旅で鑑賞した古器物、景勝を多色石版図集や写真帖として発行したのが、『国華余芳』です。

「国華余芳」多色石版図集
「国華余芳」多色石版図集

『国華余芳』の題字は、「受け継がれるべき国のすぐれた宝」という意味に取ることができます。

局長・得能良介は、国華余芳の巻頭言において、

「国華余芳ト題シ 之ヲ工場製品ノ儀範トナシ 以テ世ニ廣メ 愛国ノ志操ヲ培養スルノ具ト為ント欲ス」

と綴っています。

「国華余芳」の得能良介執筆巻頭言「国華余芳」の得能良介執筆巻頭言
「国華余芳」の得能良介執筆・巻頭言、(右)文末引用部分

『巡回日記』においても、この『国華余芳』を、工場の模範とするほか、世間に日本の風景や芸術を広く伝えようとする製作趣旨を語っています。
まさに我が国の「国華余芳」を、印刷局の技術で世に示し伝えんとする、得能良介の思い入れ、気概が伺えるようです。



【写真帖と多色石版図集を制作刊行】


そして、当時の我が国の最高峰のレベルの技術を以て、「国華余芳・写真帖、石版図集」の制作にあたったのでした。

「国華余芳・写真帖」は、古美術調査旅行で撮影した文化財や景勝の写真を選りすぐって発行したものです。

「国華余芳・写真帖」

「国華余芳・写真帖」収録写真1

「国華余芳・写真帖」収録写真2

「国華余芳・写真帖」収録写真3
「国華余芳・写真帖」収録写真

撮影した写真技術師は、三枝守富です。
写真帖は5分冊で、一冊につき概ね25枚、主に神社や仏閣などの建造物や、山川などの景勝を被写体とした写真が納められています。
この写真帖は、明治13年(1880)に完成しました。


「国華余芳・多色石版図集」は、精密な原色版図集です。

カラー写真が存在しなかった当時、多色石版印刷は写実的で細密な原色再現の、最高レベルの印刷技術でした。
「正倉院御物之部」「伊勢内外神宝部」「古書之部」に分かれ、それぞれ25枚、19枚、24枚の図を収めた、折本式の冊子となっています。
国華余芳に収められた石版画は、明治期を代表する石版技師・石井重賢(鼎湖)の指揮のもとに制作されたものです。
宝物の再現にあたっては、工芸官の本多忠保、斎藤知三による入念な現物調査、考証を経て、極めて写実的にすぐれたものになっています。

国華余芳「正倉院蔵・平螺鈿背円鏡」の精巧美麗な図版
国華余芳「正倉院蔵・平螺鈿背円鏡」の精巧美麗な図版

正倉院蔵「平螺鈿背円鏡」
正倉院蔵「平螺鈿背円鏡」のカラー写真

多色石版図集は、明治14年から15年にかけて発行されました。


印刷局において、画期的な古美術調査の旅を実現し、「国華余芳」の制作させた、得能良介は、職務中に倒れ、58歳でその生涯を閉じました。
国華余芳が完成した翌年の、明治16年(1883)12月のことでした。

得能良介
得能良介



【明治に入ってから、新たに伝わった石版印刷技術】


ところで多色石版印刷というのは、どのような印刷技術を云うのでしょうか?

当時の、図案画像など印刷技法としては、

凸版としての木版印刷
凹版としての銅版印刷
平板としての石版印刷

とが存在しました。

木版印刷は、江戸時代の浮世絵に代表される、我が国伝統の印刷技術です。
明治時代に入ってからも、美術書の原色版印刷に用いられ、例えば「国華」や「真美大観」のカラー図版は多色刷り木版印刷が使われています。

「国華」創刊号
「国華」収録の多色木版刷り図版
「国華」創刊号と収録の多色木版刷り図版


「真美大観」「真美大観」収録の多色木版刷り図版
「真美大観」と収録の多色木版刷り図版


銅版印刷は、エッチングと云われる技術で、江戸後期、司馬江漢以来の伝統でによるものです。
緻密な描線が描けることから、紙幣の印刷はこの技法を使って行われています

明治期の印刷局製造紙幣
明治期の印刷局製造紙幣
明治期の印刷局製造紙幣


そして、石版印刷は、リトグラフと呼ばれるもので、1798年ドイツのセネフェルダーによって発明されました。
印刷原版に石版を用い,脂肪と水が反発し合うことを利用して、平面の上に油性インクで文字、画像を描くだけで印刷を可能とする技術です。
日本には、明治初年にその石版技術が導入されました。

石版と印刷のありさま
石版と紙に印刷している様子

明治期のカラー刷りの多色石版印刷は、三原色を組み合わせて色を表現するのではなくて、熟練した職人が勘を頼りに色分けを行い、その色の数だけ石版面を用意しなければなりませんでした。
印刷する際には、十数個ある版を順番に刷っていくのですが、頼りは石と紙に付けられた見当(目印)のみで、ズレが内容に刷り重ねるのは、大変な手間と技術を要する作業であったといいます。



【最高峰の多色石版印刷技術で制作された「国華余芳」~印刷局の偽造防止研究の一環~】


「国華余芳・多色石版図集」も、当時の最高峰の多色石版印刷技術を以て作成されたのでした。

印刷局で、多色石版の制作にあたったのは、石井鼎湖でした。
石井鼎湖が印刷局石版科長の任にあった間に、当時の民間では出来得可くもない精巧な複製的多色石版の出版物が、いくつか制作されました。
「国華余芳」はその代表作品ですが、その他には、明治10年(1877)制作の「玉堂富貴」、明治16年制作の「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」「なみまの錦」「卓上静物」などの作品が残されています。

「玉堂富貴」(明治10年)
「玉堂富貴」(明治10年)

「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」(明治16年)
「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」(明治16年)

「なみまの錦」(明治16年)
「なみまの錦」(明治16年)

「卓上静物」(明治16年)
「卓上静物」(明治16年)


これほどの高度な印刷技術を以て「国華余芳」などを制作したのは、紙幣や切手の偽造防止、模造防止対策の一環としての印刷技術研究の為でもあったそうです。
一方、防贋技術開発という側面があったために、一人一業で、その技術を秘守して決して漏らさないということとなり、印刷局の優れた多色石版の技術は、後の世に広く伝えられなかった、ということなのだそうです。

「なるほど!」
と、技術が秘された訳は理解できるのですが、大変残念なことです。

こうした石版印刷の技術は、大変手間がかかるために、その後、写真製版技術の発達、印刷技術の発達によって、写真や図版そのものを機械的に忠実かつ大量に再現できるようになっていくと、一部の美術作品を除いて、用いられなくなってしまいました。

そして「国華余芳」という美麗石版印刷の極致のような存在も、忘れられていったのでしょう。



【民間でもつくられた、美しい石版印刷図譜「観古図説」】


最後に、ついでの話です。

明治初期、ご紹介したように印刷局では、多色石版印刷のカラー図集が制作されていましたが、民間でも石版印刷による美しい図譜が制作されていました。
その代表的なものとして、蜷川式胤によって刊行された「観古図説・陶器之部」があげられるのではないかと思います。
「観古図説・陶器之部」は、蜷川式胤が収集した陶磁器などを、石版印刷図譜として刊行したものです。

「観古図説」
「観古図説」

美しい手彩色石版印刷の「観古図説」の図譜写真をご覧ください。

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)
「観古図説」収録図譜(昭和48年歴史図書社復刻図版)

写真は、昭和48年に歴史図書社から、原本そのままに精密復刻された復刻版によるものですが、陶磁器の微妙な質感が再現され、品格ある美麗な彩色が見事な図譜であることが実感されると思います。


この図譜は、多色印刷ではなく、モノクロームの石版印刷の上から手彩色により色付けを施したものです。
第1冊が明治9年(1876)に刊行され、明治13年(1880)まで、全7冊が刊行されました。
亀井至一の描いた挿図をふんだんに用い、民間で石版印刷を進めた玄々堂の刊行となっています。
「国華余芳」が作成される数年前の出版です。
「国華余芳」の多色石版印刷の最高峰レベルの図版と較べると、「観古図説」の図版はやはり見劣りしてしまうのですが、上品な石版手彩色の美しさには、惹きこまれるものがあります。

「観古図説」を刊行した蜷川式胤は、先にふれたように、近代初の古美術文化財調査と云われる「壬申検査」に町田久成とともに赴いた人物で、「壬申検査宝物図集」の制作にもかかわっています。

蜷川式胤
蜷川式胤

文化官僚でありましたが、明治初期の好古家、古美術研究家としても知られ、エドワード・S・モース(大森貝塚の発見者)の陶磁器蒐集の師であったことは有名な話です。

この「観古図説・陶器之部」の図譜も入手して手元に置きたいところなのですが、余りにも稀少かつ高価で、全く手が出るものではありません。
私は、何とか、昭和48年(1973)に歴史図書社により、蜷川家伝存本から精巧複製された復刻版を手に入れました。
復刻版と云えども、明治の刊行当時を十二分にしのばせる美麗な図譜で、時々、書架から取り出して目を愉しませています。

観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)

観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)
観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)



今回は、仏像関係の話ではなくて、申し訳ありませんでしたが、
明治初期の美麗な多色石版図集「国華余芳」を手に入れることが出来、嬉しくて、このご紹介記事を綴らせていただきました。


この話で、明治初期の古美術調査と図譜の世界に、ちょっとご関心を待たれることになれば、嬉しき限りです。