観仏日々帖

新刊案内~「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方」 貴田正子著  【2016.10.29】


まさか、まさか! 

こんな本が出版されるとは、思いもしていませんでした。


新薬師寺・香薬師像は、白鳳時代の名品として人々の心を魅了してきました。

新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
新薬師寺・香薬師像~飛鳥園・小川晴暘撮影写真

昭和18年に盗難に遭い、今も、行方知れずとなっています。
まさに、「伝説の白鳳美仏」と云える仏像なのです。

香薬師像の右手先部分は、当時、盗難を免れたものの、その後行方不明となっていました。
その右手先が、70年余を経て行方が判明し、新薬師寺に返還奉納されたというのです。

今般、出版された「香薬師像の右手」という本は、香薬師像の盗難事件の発生から、その後の顛末、今般の右手先の所在の発見までを克明にたどったノンフィクション・ドキュメントなのです。


「香薬師像の右手~~失われたみほとけの行方」  貴田正子著
2016年10月 講談社刊 【243P】 1600円


新刊・香薬師像の右手



【「香薬師像の右手発見」の新聞記事に、ビックリ!】


10月12日、読売新聞の朝刊に、こんなビックリの記事が掲載されました。

「盗難の重文仏像の右手か   新薬師寺に返還  専門家、本物と判断」

という大きな見出しです。

香薬師像右手発見を報ずる新聞記事
香薬師像右手発見を報ずる読売新聞2016.10.12朝刊

新聞記事本文の一部を、ご紹介しましょう。

「奈良市の新薬師寺から1943年に盗まれて行方不明になっている白鳳時代(7世紀半ば~8世紀初め)の仏像の傑作、重要文化財・銅造薬師如来立像(通称・香薬師(こうやくし)像)の右手部分が盗難を免れていたことが分かった。

発見された香薬師像の右手
発見された香薬師像の右手

行方を調査したノンフィクション作家の貴田正子さん(47)が、それに当たるとする右手を確認し、昨年10月に同寺で返還の法要が行われた。
文化庁は科学調査を実施し、本体が未発見のため断定はできないものの、『白鳳時代のものとみて矛盾はない』としている。

新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
香薬師像は高さ約75センチの金銅製。奈良・法隆寺の観音菩薩立像(通称・夢違観音)や東京・深大寺の釈迦如来倚像と並び、白鳳仏の代表とされる。
明治時代に2度盗難に遭って寺に戻ったが、43年に三たび盗難に遭い、行方不明となった。
右手部分は、最初に盗まれてから寺に戻る間に切断され、発見後に本体とつなぐ補修が行われた。
このため、43年の盗難で本体とともに盗まれたと考えられていた。

貴田さんが調べたところ、43年の盗難時に右手は本体と別に保管されていて盗まれず、一時は警察署が保管していたのを、写真家の小川晴暘が目撃し、随筆に書き残していたことが判明。
その後経緯は不明ながら作家の佐々木茂索(1894~1966)が所持し、後に遺族が神奈川県鎌倉市内の寺に寄贈したという。

12日刊行の貴田さんの著書「香薬師像の右手」(講談社)に書かれている。
・・・・・・・・・・(以下略)」


「そうか、あの香薬師の右手先が見つかって、新薬師寺に戻されたのだ!」

と、ビックリしました。

新聞の見出しが「香薬師像」ではなくて、「盗難の重文仏像」と書かれているのを見て、

「『白鳳の名品・香薬師』といわれても、今や、ピンと来る人があまりいないのか、古い話になってしまったのだ。」

と、妙なところで感心した次第です。

記事には、「香薬師像の右手」という新刊本が出る、と書かれているではないですか。
即座に、書店に駆けつけて購入しました。



【神奈川文化研HPでも採り上げたことのある、香薬師像盗難物語】


実は、私も、新薬師寺・香薬師像の盗難のいきさつなどについて、神奈川仏教文化研究所HPの「奈良の仏像盗難ものがたり~新薬師寺・香薬師如来像の盗難」という連載で、採り上げたことがあるのです。

・失われた香薬師像を偲んで(埃まみれの書棚から・第182回)
・香薬師像盗難事件を振り返る(埃まみれの書棚から・第183回)
・その後の香薬師像あれこれ(埃まみれの書棚から・第184回)

この連載では、
香薬師像が3度の盗難に遭ったことと、盗難事件のいきさつ、
かつての盗難事件の際切断された右手先が盗難の免れたこと、
その後、3体の模造が、盗難前に型抜きされた石膏型から複製制作されたこと
などの話について、綴っています。

ご覧いただけると、盗難事件とその後の顛末の概略が、お判りになると思います。

そんなわけで、私にとっては、「香薬師像盗難事件」について書かれた本となると、興味津々、何をおいても必読という処です。



【香薬師盗難から右手発見までの、真迫のドキュメント新刊本】
~著者20年にわたる執念の追跡の軌跡~

本を手にして、一気呵成に読破しました。
私も、香薬師盗難事件について、結構調べてみたつもりなのですが、全く及びもつかない深く詳しいレベルで、徹底調査、徹底取材された、凄い内容です。
「よくぞ、此処まで調べ上げられたものだ!」
敬服としか、言いようがありません。
ただただ驚嘆、讃嘆の一語に尽きます。
この本を読んで、これまでモヤッと疑問に思っていたことのほとんどが、霧が晴れるようにスッキリわかりました。

著者の貴田正子氏は、ノンフィクションライター。
1993年に、産経新聞社に入社。
新人の地方支局時代に香薬師如来像の石膏複製の取材をしたのをきっかけに、香薬師像の独自取材をはじめ、20年以上にわたり香薬師像の行方を追う取材活動を続けてきたそうです。

そして、取材の果てに、昨年の夏、ついに香薬師の右手を発見。
その執念の取材過程をまとめて上梓したのが、本書「香薬師像の右手」という訳です。

AMAZONには、このように本書の内容紹介がされています。

「奈良・新薬師寺の香薬師立像は、旧国宝に指定され、白鳳の最高傑作と言われていた美仏。
あまりの美しさから『金無垢でできている』という噂がたち、明治時代に2度盗まれたが、手足を切られ、純金製でないことが分かると2度とも道端に捨てられているのが発見され、寺に戻った。

そして昭和18年、3回目の盗難に遭う。
『国宝香薬師盗難事件』は、戦時中の新聞にも報じられ、仏像ファンたちに大きな衝撃を与えた。
2度盗まれて戻ってきた像だったが、今回ばかりは発見されず、未だ行方が分からない。

この行方不明の香薬師を見つけ出そうと、元産経新聞の記者である著者が取材を開始。
新薬師寺住職の全面的な協力を得た調査では、まるでミステリー小説を地で行くような展開に。
その結果、衝撃の新事実が発覚。ついに、『本物の右手』の存在をつかむ……。

美術史的にも非常に意義のある大発見までの経緯をまとめた、衝撃のノンフィクション」

まさにこの内容紹介通りの中身の本で、盗難事件にいきさつや、右手先の追跡発見について、息もつかせずテンポよく読ませます。
流石に、新聞記者出身のノンフィクションライター、惹き込むように読ませる文章で、ミステリー、ドキュメンタリーの世界に浸る気分です。
また、取材したことをライターとして書かれたものではなく、筆者、貴田氏が自らのライフワークとして、執念を以て調査追跡した物語であるだけに、その迫力に胸撃たれるものを感じます。



【香薬師盗難とそれにまつわる話が、見事に網羅された、愛好者必読の書】


本書の目次は、ご覧のとおりです。

香薬師像の右手~目次


この一冊を読めば、香薬師像の盗難事件と、それにまつわるあらゆる話を詳細に知ることが出来ます。
物語の詳しい内容は、是非本書をお読みになってみていただきたいのです。

その中で、私が、とりわけ興味深かった話、新たに知った話のポイントだけを、ここで、ご紹介しておきたいと思います。

香薬師像盗難事件の顛末などについて、ある程度ご存じであることを前提にして、本書を読んで、私が新たに知った話、疑問が晴れた話だけを採り上げてみたいと思いますので、少々マニアックで隘路に入った話になりますが、ご容赦ください。



【発見された右手は、明治33年、1回目の盗難時に切断されたものだった】


第2章の「香薬師盗難事件」についてです。

香薬師像は、明治33年(1900)、明治44年(1911)、昭和18年(1943)の3回、盗難に遭いました。
本書では、この3回の盗難についての顛末が、大変詳しく語られています。
当時の、香薬師の写真、新聞記事、当局に提出された盗難・発見届などが詳細に紹介されており、誠に興味津々です。

3回目の盗難後、現在まで行方不明となっているのですが、その時
「香薬師仏の本体は盗まれたが、右手首と両足は厨子に残されていた。」
と、小川晴暘氏は記しています。
両足は木製の後補ですが、右手先は白鳳当初の本物なのでした。


私がこの盗難事件のいきさつを調べてみたとき、この両足と右手の切断がいつなされたのか、書かれたもので違いがあって、はっきりしませんでした。

もう一つ、不思議に思ったのは、
「どうして右手首と両足は厨子に残されたのだろうか?」
ということでした。
盗賊が香薬師像を乱暴に扱ったので、接合部分が外れてしまったのだろうと思っていました。

本書では、盗難事件の経緯の徹底的な調査によって、この疑問を、見事に解決してくれていました。

右手、両足が切断された時期と状況について、詳しく記されていました。

1回目の明治33年(1900)の盗難時に右手先が、2回目の明治44年(1911)の盗難時に両足先が切断されたというのが、事実だそうです。
2回目の盗難で、右手先が再度切断された後は、右手先と腕は銅板で接合されたということです。

そして、一番ビックリしたのは、昭和17年(1942)に香薬師像の石膏型をとった時、新たに銅で右手、両足、台座を制作し、新造の右手、両足を溶接して香薬師像に接いだのだという、驚きの事実でした。
香薬師像の石膏型をとった話は、この後、ふれさせていただきますが、この話が事実なら、本物の右手は、昭和17年以降、香薬師像とは別に保管されていたのだということになります。

昭和18年に入った盗賊は、新造の右手、両足が接がれた香薬師像を持ち去ったのだということらしいのです。

本書で解明されたこの新事実には、本当にビックリしました。
そして、従来よく判らなかった、ちょっとした疑問がスッキリ解消しました。


3枚の古い写真をご覧ください。

・明治33年の一度目盗難の前にとられたもの(明治21年・1888~小川一眞撮影)
・その後、明治44年の二度目の盗難前にとられたもの(明治41年・1908刊「日本精華第1輯」所載、工藤精華撮影)
・昭和18年の三度目の盗難前にとられたもの(小川晴暘撮影)

この写真をご覧になると、撮影された時期によって、右手の様子、接合の状況が違うのが、お判りいただけるかと思います。


一回目の盗難前の香薬師像写真~明治21年・小川一眞撮影.明治21年小川一眞撮影写真の右手
1回目の盗難(明治33年)前の香薬師像写真~明治21年・小川一眞撮影
右手に切断痕は見られないが、もともと右手首あたりに傷みはあった様子



明治~大正期の香薬師像写真~工藤精華撮影.工藤精華撮影写真の右手
2回目の盗難(明治44年)前の香薬師写像真~明治41年刊「日本精華第1輯」所載・工藤精華撮影
切断された右手が腕に接合されている痕が判る



昭和~3回目盗難前の香薬師像写真~小川晴暘撮影.小川晴暘撮影写真の右手
3回目の盗難(昭和18年)前の香薬師写像真~小川晴暘撮影写真
再度切断された右手と腕が、銅板で接合されているのが判る



この3枚目の小川晴暘撮影の写真は、石膏型がとられる昭和17年(1942)以前に撮影されたものということになります。

その後に、新造の右手、両足先に取り替えられ、右手はお厨子の中かそのほかの処に別に保管されていたということであったのでしょう。

第2回目盗難後発見時の右手が折れた香薬師写真~明治44年撮影
第2回目盗難後、発見時に撮影された右手が折れた香薬師写真~明治44年撮影
昨年、新薬師寺に保管されていたのが発見された(「香薬師像の右手」所載写真より転載)





【香薬師像の模造・石膏型は、2種類、型抜きされていた~盗難1年前、昭和17年に~】


第4章の「香薬師の複製制作」についてです。

香薬師像は、3体の鋳造模造が残されているのが知られています。
本物と見紛うほどの、素晴らしい出来の鋳造模造です。

香薬師像が3回目の盗難に遭う1年前、昭和17年(1942)に、本物の香薬師から石膏型が型取りされました。
この石膏型から、香取秀真氏により鋳造されたものです。
それぞれ新薬師寺、奈良国立博物館、鎌倉・東慶寺に所蔵されています。

新薬師寺では、境内の香薬師堂に秘仏として祀られています。
東慶寺では、年に一回、期間を限って宝物館に展示されます。
奈良博所蔵像は、2015年開催の「白鳳展」に展示されました。

東慶寺蔵~香薬師像・鋳造模造奈良国立博物館蔵~香薬師像・鋳造模造
香薬師像鋳造模造~(左)東慶寺所蔵像、(右)奈良国立博物館所蔵像

3体の香薬師の模造の存在については、仏像愛好者には、それなりに知られている話だと思います。

佐々木茂索
佐々木茂索氏
この香薬師の模造は、盗難行方不明となった7年後、昭和25年(1950)に、文藝春秋社の社長、佐々木茂索氏が費用全額を負担し、模造鋳造したものです。
佐々木氏が、亡き妻の供養にと、香薬師の模造鋳造を引き受けたのだそうです。
1体は新薬師寺に寄贈され、1体は佐々木茂索氏の所蔵となりました。
本書では、新薬師寺所蔵以外の2体が、現在、奈良博と東慶寺の所蔵となっている経緯についても詳しく語られていました。

それよりも、新たに知ってビックリしたのは、石膏型をとったのは一人ではなく、昭和17年、2人の手によって型取りされていたということが、書かれていたことです。

石膏型をとったのは、竹林薫風氏と水島弘一氏です。
先にご紹介した3体の鋳造模造は、水島弘一氏の手で取られた石膏型によるものだそうです。
竹林薫風氏の石膏型による鋳造模造も存在するそうで、筆者の貴田氏は、竹林型、斎藤明氏鋳造の香薬師模造を、平成25年(2013)に入手されたということです。

筆者貴田氏が入手した香薬師像・鋳造模造~竹林型からの人間国宝・斎藤明氏鋳造
筆者貴田氏が入手した香薬師像・鋳造模造~竹林型からの人間国宝・斎藤明氏鋳造
「香薬師像の右手」所載写真より転載


また、鋳造ではなく、石膏像の模造もあるようです。
全く知らなかった、新事実でした。

実は、この石膏型を誰がとったのかという話について、作家の島村利正氏(1912~81)が、自著で、小川晴暘氏がこのように語っていたと記しています。
島村氏は、小川晴暘氏が経営した飛鳥園で働いていたことがある人です。

「香薬師は、わたし(小川晴暘のこと)が箔抜きしてありますから、複製で原型を偲ぶことが出来るかもしれません。・・・・・・」
(「宝冠」・単行本「霧の中の声」所収、1982.3新潮社刊)

貴田氏は、本書で、
「飛鳥園にも、小川晴暘所蔵の香薬師石膏像があった。
水島型から抜いたものかもしれない。」
と述べられていますが、そのことをさすのかもしれません。

私は、てっきり小川晴暘の語った箔抜きというのが、3体の模造鋳造の元型だったのだと思い込んでいたのですが、そうではなかったようです。



【香薬師・右手は東慶寺にあった~新薬師寺から佐々木氏の手に、遺族が東慶寺に奉納】


第6章の「香薬師像の右手」についてです。

いよいよ、香薬師像の右手発見の物語です。
結論からお話しすると、「香薬師像の右手」は、鎌倉の東慶寺に所蔵されていたのでした。

貴田氏が、右手を発見するまでの顛末を簡単にまとめると、次のとおりです。

「香薬師像の右手」は、新薬師寺でも、盗難後、右手が残されていたことを知る人もいないほどに、忘れ去られていました。

近年、新薬師寺の現住職、中田定観氏が、東京芸大名誉教授の水野敬三郎氏から、
「昔、香薬師の右手を見たことがある」
という話を耳にします。

貴田氏は、この話を受けて水野氏を訪問、
「昭和37年頃、水野氏は、久野健氏と共に、佐々木茂索氏宅で香薬師の右手を実見し、写真も撮影した。」
という事実を知ります。
早速、佐々木家を訪ねますが、香薬師に右手は、佐々木家には残されていませんでした。

貴田氏は、この情報をベースに右手の行方を追跡、ついに、現在、東慶寺に所蔵されていることを突き止めたのです。
佐々木茂索氏が所蔵していた香薬師像の模造が、佐々木氏没後、平成4年(1992)に東慶寺に寄贈されていることから、佐々木氏旧蔵の「香薬師の右手」もまた、東慶寺に奉納されているのではないかと推測したのでした。

貴田氏と新薬師寺が、東慶寺に丁重にお尋ねした処、果たして、「香薬師の右手」は、東慶寺で預かられていました。
香薬師模造の東慶寺への寄贈の8年後、平成12年に佐々木家から奉納されていたのでした。
香薬師右手が納められた箱蓋には、、
「新薬師寺香薬師御手也 故有テ昭和廿五年首夏此箱ヲ造リ奉安ス」
と箱書きがされていました。

香薬師像の切断された右手に間違いないとみられるものでした。


桐箱に納められ、東慶寺に保管されていた、香薬師像右手

佐々木氏による由緒書が記された箱の蓋
桐箱に納められ、東慶寺に保管されていた、香薬師像右手~箱の蓋に佐々木氏による由緒書が記される
「香薬師像の右手」所載写真より転載



「香薬師像の右手」は、その後のやり取りを経て、東慶寺、佐々木家から新薬師寺に戻されることの快諾がえられ、65年ぶりに、元の新薬師寺に帰還することになったのでした。

昨年(2015)10月、新薬師寺に於いて、香薬師像の右手の返還を報告する法要が厳粛に執り行われたということです。

誠に数奇な運命の物語といってよいものでしょう。

「香薬師の右手」は、どうして佐々木茂索氏のもとに所蔵されていたのでしょうか?
きっと香薬師像の模造鋳造が行われ、新薬師寺にその1体が寄贈された時に、新薬師寺から謝意の意味もあって佐々木氏に贈られたのではないでしょうか?

東慶寺のHPに、香薬師如来像・模造についての解説ページがありますが、そこには模造制作のいきさつが、このように記されています

「(香薬師像が盗難行方不明となり・・・・)
時の住持の悲嘆を見かねて、東大寺の上司海雲師が文芸春秋・社長佐佐木茂索氏に話し、
氏もこれに同情し、幸いに寺にこの立像の石膏模型のあるのを利用し、昭和25年に3体の模造を鋳造、
一体を新薬師寺に寄贈し一体を国立博物館に、もう一体を佐佐木家に所蔵したが、
佐佐木茂索27回忌に東慶寺に寄贈された。」

この時の模造鋳造費用は、全額佐々木氏が負担していますので、新薬師寺からお礼の意味も込めて、香薬師の右手が佐々木氏に贈られたとしても、不思議なことは無いように思えます。

この解説は、久野健氏によって書かれたものです。
水野敬三郎氏と共に、佐々木氏宅で「香薬師像の右手」を見たという、久野氏です。


余談ですが、「香薬師像の右手」が、佐々木茂索氏のもとにあることは、仏教美術関係者の間では、「知る人ぞ知る」といった話なのではなかったかと思われます。

実は、この神奈川仏教文化研究所HPの、「盗難文化財の歴史」のページに、新薬師寺・香薬師像盗難の話が短く載せられています。

そこには、
「右手首は、新薬師寺から譲られた某氏が所蔵している。」
と記されています。

この文章を書いたのは、HPの前管理人(故人)です。
久野健氏とも親交のあった人でしたので、香薬師の右手を佐々木茂索氏が所蔵しているのを、久野氏から聞いて知っていたのではないでしょうか?


ちょっと、長々と、マニアックな細かいことを書き連ねてしまいました。
私の大変興味深い分野の話でしたので、話がついつい、隘路に入ってしまいました。

こんな細かい話はさて於いて、本書

「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方」貴田正子著

は、誠に興味深い本です。
是非、ご一読をお薦めします。

香薬師像を巡る数奇な物語に、みるみる惹きこまれてしまうのは、間違いありません。
若き日の出来事から「香薬師像の虜」になった貴田氏の、香薬師像への思慕と、右手の行方追跡への深き思いが伝わってくるノンフィクションです。


いつの日にか、香薬師像そのものが発見される日が来ることを、願うばかりです。


古仏探訪~「上京区西陣・雨宝院の千手観音像」京のかくれ仏探訪⑨  【2016.10.15】


6月からご紹介してきた「京のかくれ仏探訪」ですが、そろそろネタも尽きてしまいました。

今回ご紹介するのは、「かくれ仏」などと呼べるものではなくて、それなりに知られた仏像ですので、今更、ご紹介するほどでもないのですが、
「京都市中の、私のお気に入り平安古仏を、ちょこっとご紹介」
ということで、お付き合いいただければと思います。



上京区にある、雨宝院の千手観音像です。

拝された方も、多くいらっしゃるのではないかと思います。

雨宝院・千手観音像

雨宝院・千手観音像
雨宝院・千手観音像


この千手観音像、私の結構なお気に入りで、京都へ出かけて時間の余裕があると、ついつい拝しに寄ってしまいます。
かれこれ、もう10回近く、この千手観音を拝しに、雨宝院を訪れたのではないでしょうか?



【京都・西陣の町のど真ん中、ひっそりたたずむ雨宝院】


雨宝院は、「上京区智恵光院通上立売上ル聖天町」という長々しい町名の処にあります。
「西陣」のど真ん中といった方が、判りやすいのではないかと思います。

西陣織の帯の老舗で知られる「渡文(わたぶん)」の店を活用した、西陣織紹介の「織成館(おりなすかん)」は、雨宝院のごく近くです。
余談ですが、この「織成館」は、西陣織の世界を体感できる、一押し、お薦めの織屋建築ミュージアムです。

西陣「織成館」

西陣「織成館」
西陣「織成館」

雨宝院は、ちょっとわかりにくい路地を入った処にひっそりと在る、小さなお寺です。
表門に「西陣聖天、大聖歓喜天」と書かれた、真っ赤な提灯がかかっているのが目印です。

雨宝院・表門
雨宝院・表門

この雨宝院は、地元では
「西陣の聖天さん、花の寺」
として知られ、親しまれています。
桜の季節には、京の隠れた桜の名所として、賑わうそうです。

本尊・歓喜天が祀られる雨宝院・本堂
本尊・歓喜天が祀られる雨宝院・本堂

満開の雨宝院境内の桜
満開の雨宝院境内の桜

御本尊は歓喜天で、ご紹介の千手観音像の方は、一般には、あまり知られていないと思います。千手観音像は、境内の観音堂に祀られています。

雨宝院・観音堂
雨宝院・観音堂

像高211.5㎝という堂々たる一木彫像で、平安時代の制作、重要文化財に指定されています。
頭体の根幹部をー木から彫出し、背中と腰から裾にかけて二か所から内割りを行い、背板があてられています。
漆箔像ですが、薄く木屎漆のモデリング(乾漆)がされている可能性があるようです。

雨宝院の歴史や、千手観音像の概要などについては、本HPの
「貞観の息吹4~雨宝院・千手観音像」
に高見徹氏が紹介、解説されています。
ここでは、これ以上ふれないでおきますので、是非、そちらをご覧いただきたいと思います。



【昭和初期「京都市中から、忽然として発見された霊像」】


この千手観音像を、最初に拝したのは、14~5年前のことであったと思います。
薄暗いお堂になかで、この像を拝したとき、西陣の町中の小さなお寺に、こんな量感豊かな堂々たる観音像が遺されていたのだと、ビックリしました。

雨宝院・千手観音像
雨宝院・千手観音像
ただ、この観音像の、伝来などについては、全く不明なのだそうです。

「昭和10年代に、京都の市中から、忽然として発見された霊像である。」

日本古寺美術全集(第25巻)には、このように紹介されています。

実際には、

「昨年(昭和17年・1942)来行われていた、京都府の寺宝調査に際し、赤松俊秀氏が境内の観音堂から稀に看る優秀な千手観音を発見せられ、学会の斉しく注視するところとなった。」
(「別尊京都仏像図説」美術史学会著、1943年一條書房刊)

ということで、世に知られるようになったのでした。

この雨宝院の千手観音像は、長らく厳重な秘仏として祀られていたのでした。

昭和17年(1942)の調査で発見されるまでは、全くその存在を知られていなかった仏像であったのでした。
発見後も、引き続き、一般の拝観は、難しかったようです。
ご住職に伺ったお話では、先代のご住職は、厳格な方で、この千手観音像を厳重な秘仏として、大切に守られて来たそうです。
先代に時代には、拝観は全く叶わなかったということでした。
現在のご住職になられてからは、事前に連絡をしてもらえれば、拝観してもらえるようにされているとのことでした。

このように長く秘されてきた観音像で、現在でも大切に祀られていますので、これまで一度も博物館等に出展されたことがありません。
それゆえに、これだけの優作が、意外に知られてこなかったのだと思います。



【第一印象では、さほどに強く惹き付けられなかった千手観音像】


14~5年前、この雨宝院の千手観音像を、はじめて拝したときの第一印象は、
「なかなか立派な平安古仏、造形表現が興味深い。」
といった、割合に淡々としたものであったように思います。

立派な仏像だなと思いましたが、強く惹きつけられる魅力は、さほどは感じなかったというのが、正直な処でした。

雨宝院・千手観音像
雨宝院・千手観音像~上半身

体躯のボリューム感は十二分で平安前期風なのですが、ややずんぐりというか鈍重な感じがします。
ボリュームはあるのですが、強い迫力で訴えかけてくるというのではなくて、肥満という方に近いようにも思えました。
一方で、お顔の表現が「温和、穏やか」で、平安も中頃のような雰囲気です。
面貌と体躯がミスマッチという違和感の印象があったのも事実でした。

先ほどご紹介した、高見徹氏の文章でも、
「本像に見られる、正面観、特に面相の柔らかさと 重厚な側面観の違和感は、あるいは後世の彫り直しによるものかもしれないが、工房組織の発達と無関係ではないと思われる。」
と、ミスマッチ感が指摘されています。



【拝するたびに惚れ込んで、大のお気に入りとなった千手観音像】


雨宝院・千手観音像とのはじめての出会いの印象は、このようなものであったのですが、一方で、なかなか興味深い平安古仏として、心に残る仏像でありました。
そして、京都を訪れ時間の余裕があると、ついつい気になって、雨宝院に足を向けるようになりました。

何度か拝しているうちに、この千手観音像が、だんだん好きになってきました。
訪れるたびに、観れば観るほどに、心惹かれる魅力を感じるようになってきました。
この独特の存在感は、ただものではありません。
拝すれば、拝するほどに、惚れ込んでしまうようになりました。

雨宝院・千手観音像
雨宝院・千手観音像

ちょっと一般受けしない仏像なのかなと思うのですが、堂々たる優作といって間違いない像だと思います。
今では、すっかり、私のお気に入りの仏像になってしまったという訳です。



【三つの時代の造形の特徴が、混在同居する優作仏像】


この観音像、じっくり拝していると、いろいろな時代の要素が、混在同居していることに気が付きます。
造形表現の特徴を、一言にまとめると、こんなところでしょうか?

・奈良時代の乾漆像にみられる、まろやかな造形表現
・平安前期風の、極端ともいえるボリューム感ある肥満した肉体表現
・平安中期頃から見られる、穏やか、温和な表情の面貌表現

これら、三つの時代の特徴が、何故か同居しているように思えるのです。

全体の表現は、乾漆像を思わせます。
とりわけ腰から下の衣文の表現は奈良時代の乾漆像そのものといった感じで、東大寺三月堂・不空羂索観音像や、聖林寺・十一面観音像のそれにつながるものです。

雨宝院・千手観音像脚部の奈良風の衣文
雨宝院・千手観音像脚部の奈良風の衣文

聖林寺・十一面観音像の脚部の衣文.聖林寺・十一面観音像の脚部の衣文
(左)東大寺三月堂・不空羂索観音像・(右)聖林寺・十一面観音像の脚部の衣文

奈良風の継承仏像かなと思うと、そうでもなくて、平安前期像特有の、肥満とも云えるような豊かなボリューム表現に驚かせられます。
何もかもが、太っといのです。

太くてボリューム感ゆたかな腕の雨宝院・千手観音像
太くてボリューム感ゆたかな腕の雨宝院・千手観音像

腕っぷしの太さも相当なものですが、側面から見た腰回りの分厚さは、並大抵のものではありません。
ここまでの度過ぎたような腰の太さの像は、平安前期像でもそう見たことはありません。
なかなか魅力的な腰回りです。

ところが、お顔に目を向けると、奈良時代風でもなく、平安前期の森厳さや妖艶さも感じません。

「温和、柔和、穏やか」

こんなキーワードが似つかわしいお顔をしています。

雨宝院・千手観音像顔部~平安中期の温和さを示す平安中期を思わせる温和さを示す顔貌の雨宝院・千手観音像
平安中期を思わせる温和さを示す顔貌の雨宝院・千手観音像

このお顔は、どう見ても、平安の中期頃を思わせる表情です。
早くて9世紀の終わり、一般には10世紀に入ってからの顔貌表現だと思いうのです。

はじめて拝した第一印象のミスマッチな違和感は、こんなところからくるものだと思います。



【興味深い専門家の解説~奈良様伝統を、和様の展開に繋げる注目の仏像】


専門家の解説も、こうした点に注目したものになっています。

「雨宝院千手観音像に就いて」という論文を執筆している大宮康男氏は、このように述べています。

「その様式上の位置づけとしては、まず豊満な肉身表現は、基本的には平安前期、9世紀前半の乾漆系の系譜を受け継ぎながら、下半身の裳の衣文に、8世紀の奈良代の乾漆像にみられる丸い波形の柔らかい衣文表現の造形感覚を取り入れることによって、仁和寺阿弥陀三尊像や棲霞寺阿弥陀三尊像でなし得なかった、重厚でありながら、なおかつ華麗な様式の創出を可能にしたといえよう。」

仁和寺・阿弥陀如来像棲霞寺・阿弥陀如来像
(左)仁和寺・阿弥陀如来像~(右)棲霞寺・阿弥陀如来像

そして、雨宝院像のような、10世紀以降の奈良彫刻への復古、影響を物語る造像例として、六波羅蜜寺・十一面観音像、禅定寺・十一面観音像をあげたうえで、

六波羅蜜寺・十一面観音像.禅定寺・十一面観音像
(左)六波羅蜜寺・十一面観音像~(右)禅定寺・十一面観音像

雨宝院像の彫刻史上の意義と制作年代について、

「10世紀末以降の和様彫刻の成立にとって、8世紀の乾漆系の奈良彫刻は種々の点で、大きな意味をになっていたことがわかる。
その意味で、雨宝院千手観音像は9世紀末から10世紀初頭にあって、奈良彫刻の特色を10世紀以降の日本彫刻史の本筋に取り入れ、和様彫刻の流れを形成するきっかけを提供した作品という意義を認めることが出来ると思う。」
(「雨宝院千手観音立像に就いて」美學 40-2、1989.9)

と記しています。


伊東史郎氏も、同様の観点から、このように述べています。

「こうしたまるみのある量感と襞の表現は、8世紀後半の乾漆像、たとえば聖林寺十一面観音像、京都観音寺十一面観音像などの表現につながるものがあるようである。

聖林寺・十一面観音像.観音寺・十一面観音像
(左)聖林寺・十一面観音像~(右)観音寺・十一面観音像

京都の造仏では、雨宝院像のほか、9世紀前半の広隆寺阿弥陀像や宇治田原禅定寺十一面観音像にも同様の特色が指摘できよう。

広隆寺・阿弥陀如来像
広隆寺・阿弥陀如来像

平安前期から後期に至る彫刻史の流れの中に、神護寺薬師像や元興寺薬師像によって代表される・・・・・・一木彫成像の一群と共に、これら8世紀乾漆像の特色を濃厚に残す彫刻の流れが並行していたことは注目に値する。
この流れが、11世紀以降にはじまる和様の成立にどのような役割を果たしたかという問題については、今後の課題であろう。
制作年代は、彫りの浅い相好の造作や温和な表情から推して、10世紀前半とみるのが妥当ではあるまいか。」
(日本古寺美術全集・第25巻、1981年講談社刊~解説)

何れも、奈良様の流れの伝統を受け継ぐ、10世紀初頭ぐらいの仏像とみられているようです。
また、京都における、いわゆる平安中期といわれる仏像の様式展開を考える上では、大変重要な位置づけにある作例といえるようです。

10世紀、京都の地で、古い伝統的奈良風を継承しつつ、いろいろな時代要素を取り入れた優作が造られたのでした。
これだけの雨宝院像ですから、当代一流の仏師の手になるのは間違いないことでしょう。
その当代一流仏師が、三つの時代の要素を取り込み同居させ、見事な仏像を造りあげたということに、まことに興味深いものを感じてしまいます。

来歴が不明なのですが、もともと、どのような寺院に、祀られたのでしょうか?
いずれにせよ、10世紀前半の仏像としては、相当の傑作、優作であることは、間違いありません。



【最近、よく知られるようになってきた、雨宝院と千手観音像】


14~5年前に、初めて雨宝院へお伺いしたころは、拝観に訪れる人もめったにないという感じでした。
ご住職は、結構お若い方で、気さくで優しく丁寧に、拝観のご案内を頂戴しました。

観音堂に招じていただきましたが、板壁には隙間が開いていて、雨風が吹き込むような有様でした。

重要文化財の観音様が、大丈夫かと心配になりましたが、
「お堂を修理するのも費用のかかりも大きくて、なかなか叶わないのですよ。」
とおっしゃっていたのを、よく覚えています。

お話を伺うと、ご住職は横浜市の弘明寺の近辺のご出身だそうで、僧職の修行を終えて後に雨宝院に入られ、その後先代の後を受け継いで、ご住職をつとめられているそうです。

ご住職のご尽力で、境内の整備も随分進み、大変きれいになりました。
観音堂の傷みも、きれいに修理されています。

ご住職の寺観整備へのご努力、観音像拝観へのお考えと丁寧なご対応もあって、最近は、雨宝院のことがよく知られるようになり、拝観に訪れる人も随分多くなったようです。
昔は、お寺の案内パンフさえありませんでした。
今ではパンフレットだけではなく、観音像の写真が欲しいという拝観者の要望に応えて、観音様の写真絵葉書も作られたとのお話でした。
掲載させていただいた千手観音像の写真は、絵葉書を転載させていただいたものです。

現在の雨宝院案内パンフレット
現在の雨宝院案内パンフレット
現在の雨宝院案内パンフレット


最近は、京都巡りや仏像愛好のブログなどにも、折々、雨宝院拝観記が掲載されるようになってきました。
嬉しいことなのですが、お気に入りの観音様ですので、あまり有名になって欲しくはないというのが、私の本音でもあります。


今回は、私のお気に入りの、雨宝院・千手面観音像をご紹介しました。


もしも、まだ拝されていない方は、是非一度、この立派な千手観音像を拝しに、雨宝院を訪ねて見られることをお薦めします。