観仏日々帖

あれこれ~新連載 「近代『仏像発見物語』をたどって」 が、スタートします  【2019.9.30】


明治以降に新発見された、主な国宝重文級の仏像の、発見当時のいきさつなどをたどる物語を「近代『仏像発見物語』をたどって」と題して、スタートさせていただくことにしました。



神奈川仏教文化研究所HP「古仏愛好」ページの連載読み物として、掲載いたします。

仏像発見物語表紙

「近代『仏像発見物語』をたどって」    【目次】    【はじめに】



以前、HPに、近代の「仏像盗難物語」を連載させていただいたことがありました。

【埃まみれの書棚から~第29話「奈良の仏像盗難ものがたり」


盗難物語でも、発見物語でも、そうなのですが、当時のいきさつをたどった話は、仏像愛好者にとっては、結構、知的興味をくすぐるものです。
ただの蘊蓄話と云ってしまえば、それまでなのですが、ノンフィクション・ドキュメントを読んでいるようで、理屈抜きに面白いものです。

そんな面白さもあって、これまで「観仏日々帖」に、私の関心のある「仏像発見物語」を、ご紹介してきました。

最初に掲載したのは、
「興福寺仏頭展によせて・・・「仏頭発見記」をたどる」(2013.11)
という、興福寺・仏頭の発見物語でしたが、
書き連ねていると、随分な数になるもので、数えてみると10篇余にもなりました。

そこで、【神奈川仏教文化研究所HP】に掲載する、連載記事ネタも無いので、「観仏日々帖」に掲載した発見物語をまとめて、
「近代『仏像発見物語』をたどって」
と題して、HPの連載ネタに転用してやろうと思いつきました。

再掲にはなるのですが、一括してまとめると、ご覧いただいている皆さんにも、仏像発見物語を一覧でみることが出来て、お役にも立つのではないかとも考えたのです。


再掲にあたって、これまで採り上げた「仏像発見物語」を振り返ってみると、最も重要な発見物語が二つ漏れていることに気が付きました。

一つは、法隆寺夢殿の救世観音像の発見物語です。

もう一つは、運慶作品の発見物語です。

この二つの発見物語が入っていないと、「近代『仏像発見物語』をたどって」という題名の連載は、看板倒れでお恥ずかしいということになってしまいます。


そこで、連載開始のスタートテーマは、新稿の「運慶仏発見物語」とすることに決めました。

書き始めてはみたものの、明治以降の「運慶仏発見物語」をたどるというのは、正直な処、思いのほかに骨の折れる道程でした。
私は、もともと鎌倉彫刻は、興味関心度が低いというか、苦手分野でしたので、運慶作品の発見史という世界も、詳しいことは何も知りませんでした。
一から運慶の本を読んでみたりして、エッチラオッチラおぼつかない勉強をしながら、発見物語を調べてみたという処です。
いろいろな資料を漁って、初めて知った話をやっとのことでつなぎ合わせて、近代運慶仏発見物語の体裁を整えたというのが実情です。
結構長い連載物になってしまいましたが、中身は消化不良ということでお赦し下さい。


近代運慶仏発見物語をたどっていくと、
「それぞれの運慶仏の発見が、それまでの運慶の作風の考え方や展開論に、新たな問題を提起したり、定説を覆したりすることの連続」
で、大変興味深く、深く考えさせられるものがありました。

ご存じのことも多いかと思いますが、お愉しみいただければ有難き限りです。


もう一つの、法隆寺夢殿・救世観音像の発見物語は、超有名な話で、諸書に丁寧に紹介されているので、今更ご紹介しても目新しくも何でもないのですが、外すわけにはいかないので、これから書き足してみようかなと思っています。


新稿の「運慶仏発見物語」から、旧稿再掲の10余編の「仏像発見物語」を全部併せれば、明治から現代までの主要な仏像発見物語を、ほぼ一通りご紹介できるのではないかと思います。
(快慶仏発見物語が抜けているのですが、これは私には歯が立ちそうにありませんので、ご容赦ください)


仏像発見物語というのは、単なる蘊蓄話とは違って、新たな発見が、従来の仏教美術史の考え方や様式展開論の定説を覆したり、新たな問題提起となることも多々あり、大変興味深いものがあります。

お愉しみいただき、お役に立てば何よりです。



古仏探訪~「山科区御陵平林町・安祥寺の十一面観音像」京のかくれ仏探訪⑧   【2016.09.23】


今回は、山科にある安祥寺の本尊、十一面観音立像をご紹介したいと思います。

安祥寺・十一面観音像(大遣唐使展図録掲載)

安祥寺・十一面観音像(大遣唐使展図録掲載)
安祥寺・十一面観音像



【知られざる奈良時代に遡る一木彫像~安祥寺・十一面観音像】


この十一面観音像は、近年、その存在が注目された仏像です。
ご覧のとおり、堂々たる、大変出来の良い一木彫像です。
そして、なんと奈良時代の制作に遡る古像ではないかとみられているのです。

この安祥寺・十一面観音像、2010年春に、奈良国立博物館で開催された「大遣唐使展」に出展されました。

大遣唐使展ポスター

この時が、本像が、一般の人の目に触れた初めての機会であったと思います。

「知られざる、奈良時代の一木彫像の出展」

ということで、愛好者の間では大きな話題となりました。
ご覧の写真は、大遣唐使展の図録に掲載された写真です。

実は、私はこの「大遣唐使展」に出かけることが出来ず、注目の奈良時代の一木彫像を見逃してしまったのでした。
それ以来、何とか一度は拝したいものと、念願していました。

安祥寺は非公開寺院で、お寺の境内にも立ち入ることが出来ません。
そんなことで、十一面観音像の拝観も無理なのであろうと思っていたのですが、今春に拝観することが叶いました。
そこで、この「京のかくれ仏探訪」で、ご紹介させていただきたいと思います。



【安祥寺と云えば、重文・五智如来像~9世紀、入唐僧・恵雲の開山】


ところで、ここで採り上げる「安祥寺」というのは、「平安前期の五智如来像で知られる、あの安祥寺」のことです。
ご紹介の本尊の十一面観音立像については、近年まで、知られていなかったというか、注目されることは無かったのでした。


十一面観音像の話に入る前に、安祥寺とゆかりの仏像について、ちょっと振り返ってみたいと思います。

ご存じのとおり、安祥寺は、嘉祥元(848)年、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子(809-871)の発願により、入唐僧・恵運(798-869)が開山した真言系の密教寺院です。
山科の地に建立され、山上伽藍=上寺と山下伽藍=下寺があり、大伽藍の定額寺として、大いに繁栄しました。

都名所図会の安祥寺伽藍
都名所図会(江戸後期)の安祥寺伽藍図

著名な五智如来像は、開山・恵運による造像で、いわゆる承和様式に連なる850年代の制作とされています。
中尊・大日像が像高161㎝という大きな像で、重要文化財に指定されています。
五智如来像は、京都国立博物館に寄託されており、平常陳列に5躯揃って長らく展示されていましたので、皆さん、何度もご覧になっていることと思います。
(現在、平成知新館の平常陳列には、展示されていません。)

安祥寺・五智如来像

安祥寺・五智如来像中尊~大日如来像
安祥寺・五智如来像~(下)中尊・大日如来像

もう一つ、安祥寺ゆかりの仏像といえば、現在、東寺・観智院に祀られる五大虚空蔵菩薩像(重文)です。
この五大虚空蔵像は、入唐していた恵運が、承和14年(847)に帰朝した際に、唐より将来し安祥寺に安置されていました。
後に東寺の観智院に移されたものです。

東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像~金剛虚空蔵菩薩像
東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像~(右)金剛虚空蔵菩薩像


平安時代前期には大いに繁栄した安祥寺も、平安末期以降衰退し、上寺は中世には廃絶したようです。
下寺の方は、応仁の乱で焼失したと伝えられ、現在では、江戸時代に復興した堂舎が残されています。



【山科、琵琶湖疎水べりに、ひっそりたたずむ安祥寺】


安祥寺をお訪ねしたのは、今年(2016年)の4月でした。

安祥寺は、山科区御陵平林町、JR山科駅から北へ1キロほどのところにあります。
駅から北に10分ほど歩くと、閑静な住宅の傍を琵琶湖疎水が流れています。

山科付近の琵琶湖疎水
山科付近の琵琶湖疎水風景

明治年間に、琵琶湖から京都市内まで人工的に水をひくという一大プロジェクトによって建設された、あの琵琶湖疎水です。
疎水は、この山科から、皆さんご存知の蹴上インクライン、南禅寺水路橋・水路閣へと続いていくのです。

山科疎水は、遊歩道が整備され、緑あふれ心安らぐ散歩道になっています。
桜は散ってしまいましたが、新緑の木々と疎水の流れを眺めていると、本当に和やかな気持ちになります。

めざす安祥寺は、この山科疎水べりに、ひっそりと在りました。

琵琶湖疎水べりにある安祥寺
山科・琵琶湖疎水べりにある安祥寺

疎水に面したところにある表門は、しっかりと閉じられています。
インターフォンを押すと、ご住職がお見えになり、本堂にご案内いただきました。

安祥寺表門
安祥寺・表門

実は、安祥寺の十一面観音像を是非とも拝させていただきたい旨のお願いの書状を差し上げ、ご連絡した処、非公開にされているそうですが、特別に拝観のご了解を頂戴したのでした。

ご住職に、ご挨拶方々、本日の拝観の御礼を申し上げると、ご住職自身も80歳過ぎのご高齢の故、一般の訪問への対応は大変なので、原則非公開にして拝観も謝絶されているというお話でした。

表門をくぐって参道を北に上がると、森に囲まれた丘陵の裾に、江戸時代に再興されたという本堂、本堂手前東方に地蔵堂、大師堂が並んでいました。
念願の十一面観音像は、本堂に祀られています。

安祥寺・本堂

安祥寺・地蔵堂
安祥寺・本堂(上)、地蔵堂(下)


【伸びやかで均整のとれた腰高プロポーションに、目を奪われる】


本堂内には、須弥壇上に大きく広いお厨子があり、その中に十一面観音像が安置されていました。

本堂須弥壇上の厨子に祀られる十一面観音像
本堂須弥壇上の厨子に祀られる十一面観音像

見上げるほどに長身で、すくっと立つ凛とした姿に、目を奪われます。
像高252㎝、半丈六立像の一木彫です。

安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

「天平彫刻を観ているようだ」

一見して、そのように感じました。
それも、キリリと締りがあるプロポーションです。
堂々たる巨像なのですが、腰高で均整がとれたシルエットで、いわゆる八頭身なのが印象的です。

安祥寺・十一面観音像.安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

平安初期像のような肥満したとか、デフォルメしたようなところは、全くみられません。
身体のバランスが見事にとれた造形表現です。
「しなやか、伸びやか、おおらか」
この十一面観音像には、こんなキーワードが、似つかわしいように感じます。

安祥寺・十一面観音像

安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

胸の張り、ウエストのくびれ、腰回りのふくらみなどは、天平彫刻の造形感覚を思わせるものを強く感じます。
「奈良時代の制作に遡る一木彫像」
とみられるというのは、全くその通りだなと思いました。
それも、中央作の像といってよいのでしょう。



【黒光りする観音像~当初は、乾漆併用の像だった】


厨子内のライトをつけていただいたせいもあるのでしょうか。
黒く漆で地固めされた像の表面が、照り返すように光って、金銅仏のような硬質感を感じます。
現在は、漆で黒光りしているのですが、もともとはそうではなかったようです。

十一面観音像の足先残欠(乾漆が盛られている)
十一面観音像の足先残欠(乾漆が盛られている)
調査によると、面部や上半身には後世の黒漆塗りの下に、布貼り、木屎漆の層があり、いわゆる乾漆併用像であったということです。
お寺には、観音像の当初の足先部分(現在の両足先は後補)の残欠が残されており、そこには乾漆が全体的に薄く盛上げられていることからも、乾漆併用像であったことがわかるのです。

そうすると制作当時は、今のような硬質な感じではなくて、東寺講堂諸像や、観心寺如意輪観音像、神護寺五大虚空蔵像のような、木屎漆のモデリングによるソフトでふくらみがあるような印象を感じる像であったのでしょう。



【奈良時代に遡る、数少ない一木彫像の例との解説】


この十一面観音像は、一木彫像には珍しい奈良時代の制作に遡るとみられていますが、ちょっと専門家の見方、解説をみてみたいと思います。

安祥寺彫刻調査により、本像に注目、再評価した根立研介氏は、このように述べています。

「改めてこの像を見ると、伸びやかな身體を持ち、肉身の抑揚も自然で、先にも触れたようにその造形には奈良時代の古佛に通じる古様さが認められる。

面貌に関しても、子細に見れば眼嵩縁を半円形に明瞭に表す点は、奈良時代頃の佛像にしばしば認められるもので、さらにV字形の下瞼を持ち目尻が上るところなどは、奈良時代後半期に制作された京都・高山寺伝来(東京藝術大學所蔵)の木心乾漆造月光菩薩像の顔立ちに近いところがある。
また、肩を張り、胴部を絞った腰高の造形は、奈良時代後期の奈良金剛山寺十一面観音立像や法隆寺観音菩薩立像の造形などにも相通じるところがある。

カヤ材を用いた乾漆併用の一木造りという造像技法も併せ考慮すれば、この安祥寺の十一面観音像の制作年代は奈良時代後期に遡る可能性が十分考えられよう。」
(「安祥寺十一面観音立像」根立研介・国華1355号2008.09)

東京芸大蔵・月光菩薩像(高山寺伝来)安祥寺・十一面観音像顔部
(左)東京芸大蔵・月光菩薩像(高山寺伝来)、(右)安祥寺・十一面観音像

大遣唐使展図録の解説は、次のとおりです。

「頭部を小さく、腰の位置を高くとった姿は均整がとれ、的確な肉取りによって、のびやかで、かつ、しなやかな姿態表現があらわされている。
このような品格高い彫刻表現を生み出す背景には、遣唐使らがもたらした盛唐前期(8世紀前半)の彫刻様式の影響が考えられる。

つまり本像には、奈良彫刻の正統派の造形感覚が感じられるのである。」
(「大遣唐使展図録」鈴木喜博氏解説2010.4)

金剛山寺・十一面観音像.法隆寺・観音菩薩立像
(左)金剛山寺・十一面観音像、(右)法隆寺・観音菩薩立像

薬師寺・十一面観音像.圓満寺(和歌山)・十一面観音像
(左)薬師寺・十一面観音像、(右)圓満寺(和歌山)・十一面観音像

ついでにもう一つ、本像が2011年に重要文化財に指定された時の解説には、このように記されています。

「その腰高の像容は、奈良・薬師寺十一面観音像(重要文化財)、和歌山・圓満寺十一面観音像(重要文化財)、奈良・金剛山寺十一面観音像(重要文化財)等に通じ、裾背面の左右に縦に並べ刻まれた茶杓形衣文は圓満寺像、金剛山寺像や唐招提寺木彫群のうち、伝衆宝王菩薩像(重要文化財)、奈良・大安寺伝楊柳観音像(重要文化財)等と同様である。
また、胸飾の列弁を二段に重ねる意匠は唐招提寺伝獅子吼菩薩像(重要文化財)の天冠台にみられるものである。
金剛山寺像とは両脚の間の衣文および衣縁の形も類似している。

このように本像の作風には奈良時代風が濃厚に認められ、いわゆる翻波式衣文を表さないことからしても、その末期までには造られていたと思われる。」
(月刊文化財573号「新指定重要文化財の解説」2011.6)

金剛山寺・十一面観音像~背面安祥寺。十一面観音像~背面
(左)金剛山寺・十一面観音像~背面、(右)安祥寺・十一面観音像~背面

唐招提寺・伝獅子吼菩薩像~列弁天冠台安祥寺・十一面観音像~列弁胸飾
(左)唐招提寺・伝獅子吼菩薩像~列弁天冠台、(右)安祥寺・十一面観音像~列弁胸飾

金剛山寺・十一面観音像~脚部衣文安祥寺・十一面観音像~脚部衣文
(左)金剛山寺・十一面観音像~脚部衣文、(右)安祥寺・十一面観音像~脚部衣文

いずれの解説も、奈良時代にまで遡る像とされています。



【注目される、古典的な奈良風造形感覚一木彫像の世界】


一昔前には、奈良時代は乾漆と塑像の時代で、平安初期に至って一木彫の時代になると、一般に考えられていました。
奈良時代に遡る一木彫像は、唐招提寺の木彫群、大安寺の木彫群、薬師寺十一面観音像ぐらいとされていたのかと思います。
近年は、新薬師寺・薬師如来像をはじめとして、奈良時代に遡るものも、それなりにあるのではないかと云われるようになりました。

また、此処に名前が挙げられている、金剛山寺・十一面観音立像、法隆寺・観音菩薩立像、圓満寺・十一面観音立像なども、昔は、平安時代の制作とみられていたのではないかと思います。
ところが、近年では、これらの像も、奈良時代の制作とみられるようになってきたようです。

いわゆる、平安初期の典型と云われる肥満、デフォルメ、森厳といった造形とは別の系統の、古典的な奈良風の造形感覚を継承した一木彫像のタイプという、新たな視点で考えられるようになってきたようです。

「奈良時代に遡る、奈良風一木彫像の世界」

とでも呼んでみるのでしょうか?
ご紹介した安祥寺の十一面観音像も、金剛山寺像、法隆寺像、圓満像などと同様に、奈良風の造形感覚を継承した一木彫像といってよいのでしょう。
安祥寺像は、それらの中でも、傑出した優作の巨像として、大いに注目される像だと思います。



【大きく湾曲したカヤ材から彫り出された観音像~霊木像か?】


ところで、この十一面観音像の材質や構造はどうでしょうか?

カヤ材の一木彫像で、背面から内刳りがされています。
注目されるのは、円弧状にかなり湾曲した材を使い、材内部にはウロ状の空洞が広がっているとみられることです。

根立研介氏は、このことについて、

頭部がかなり前傾している安祥寺・十一面観音像
頭部がかなり前傾している
安祥寺・十一面観音像
「木心は、地髪部頂き付近と裙裾付近ではほぼ中央に位置しているものの、上背部辺でいったん像から外れ、腰下付近で再び像内に入り込むように後方に大きく弧を描いていることが判明した。
頭部の前傾の角度がかなり大きくなつたのも、こうした木心の性質に影響されたところもあろう。

それにしても、これだけの巨像の用材に、これほど湾曲した木心を持つものが使用されていたことには驚かされる。
・・・・・・・・
この像は木心が大きく湾曲し、さらに一部ウロ状の空洞が広がっているカヤの木を敢えて用材としたと思われ、霊木などといつた特殊な要因に基づいて用材の選択が行われた可能性がある。」
(「安祥寺十一面観音立像」国華1355号2008.09)

と、カヤ材の霊木を以て造像した可能性に言及しています。

この観音像を拝していると、頭部を不自然なほどに大きく前に傾けているようにみえます。
頚から上は付け替えられたのではないだろうか思うほどの傾きで、一見違和感があったのですが、湾曲した霊木を使用した故の前傾と云われると、なるほどと納得しました。



【十一面観音像の当初安置寺院は?~近接の山階寺か】


さて、十一面観音像が奈良時代の制作ということになると、平安時代創建の安祥寺に於いて造像されたということは、あり得ないこととなってしまいます。
冒頭にふれたように、安祥寺は、平安時代、嘉祥元年(848)の発願で、恵運が開山した真言密教寺院なのです。
貞観9年(867)勘録の「安祥寺資財帳」にも、本像に該当する記載はありません。
また、十一面観音像の当初安置寺院について示唆する記録や伝承も、全く残されていないようです。

何処の寺から、安祥寺に移されたのでしょうか?
山階寺址推定地・石碑
山階寺址推定地・石碑

これだけの正統派の優作巨像ですから、それなりの大寺院に祀られていたに違いありません。
根立研介氏は、同じ山科の地にあった「山階寺」に安置されていた可能性に言及しています。

山階寺(やましなでら)というのは、奈良・興福寺の起源とみなされている寺で、現在の安祥寺の寺域を西端に含む安祥寺下寺の近接地にありました。
山階寺の伽藍配置や規模も、明らかにはなっていませんが、

「山階寺は、この像の当初の安置寺院の候補地として、なかなか魅力的に思えてくる。」

と、根立氏は述べています。



【近年の安祥寺総合調査で、発見・再評価された十一面観音像~奈良時代の制作と判明】


話が後先になってしまいましたが、この安祥寺の十一面観音像が、奈良時代に遡る一木彫像として注目されることになったいきさつについて、ふれておきたいと思います。

安祥寺・十一面観音像の調査が行われることになったのは、京都大学の「王権とモニュメント」と題する研究会で、安祥寺の調査研究がテーマとなったことによるものでした。
この研究会では、2002年から数年間にわたり多方面の分野からの総合研究が行われ、その成果として、
「安祥寺の研究Ⅰ・Ⅱ」(2004・2006)
「皇太后の山寺 ~山科安祥寺の創建と古代山林寺院」(上原真人編・柳原出版2007.3刊)
が、出版されました。

仏像については、2005~7年度に、根立研介氏等によって調査が実施されました。
この時調査された仏像は、本堂安置の十一面観音像、四天王像、地蔵堂の地蔵菩薩像などでした。
目視調査に加えて、X線撮影調査、樹種同定調査などが実施された結果、十一面観音像は奈良時代に遡る一木彫像であること、四天王像は平安前期の制作とみられることが明らかになったのでした。

安祥寺にこれらの諸像が存在することについては、以前から知られていたようです。
明治期には臨時宝物取調局が、第二次世界大戦中には京都府社寺課が調査を行うなど、一部の文化財関係者は、その存在を把握していたとのことです。
ただ、保存状態の問題もあってか、その後詳細な調査が実施されることは無く、その価値が見過ごされてきたということでした。

修復修理される前の安祥寺・十一面観音像

修復修理される前の安祥寺・十一面観音像~顔部
保存修理される前の安祥寺・十一面観音像

そういう意味では、根立氏の調査により、「奈良時代一木彫像の優作の新発見」がなされたといっても良いのかもしれません。
2005年11月には、「安祥寺の十一面観音像が奈良時代の制作と判明」との新聞報道がなされたりしました。
2007年に美術院国宝修理所に於いて、十一面観音像の保存修理が行われた後、2010年には、奈良博での「大遣唐使展」に出展され、世の注目を浴びました。

そして、2011年に、国の重要文化財に新指定となったのでした。



【本堂内に祀られる四天王像も、平安前期の制作】


ついでに、平安前期と云われる四天王像についても、ちょっとだけご紹介しておきたいと思います。
四天王像は、十一面観音像が祀られる厨子の外側に安置されています。

安祥寺本堂内厨子の両脇に安置される四天王像
安祥寺本堂内厨子の両脇に安置される四天王像

これらの像は、2000~3年になされた修理で、全面古色仕上げと、眼、口、髪などに彩色仕上げがされています。
ちょっと厚塗りの仕上げ、彩色なので、鑑賞しにくいのですが、平安前期に遡る像であるとのことです。
像高150~60センチ程度の四天王像で、なかなかユニークな姿態をしています。

安祥寺・四天王像~東2像
安祥寺・四天王像~東2像

安祥寺・四天王像~東1像安祥寺・四天王像~西1像
安祥寺・四天王像~(左)東1像、(右)西1像

1躯(西2像)は、江戸時代に補われた像なのですが、残りの3躯は、平安期の古像で、トチノキとみられる一木彫です。

根立氏は、2躯(西1・東2像)は、怪異な容貌を示しており、
「10世紀第一四半期頃の作とみられる醍醐寺霊宝館五大明王像(中院伝来)の作風にきわめて近く、製作の時期もほぼこの頃かと思われる。」
(「安祥寺所在の彫刻」根立研介・安祥寺の研究Ⅱ所収2006)
と述べています。

醍醐寺中院伝来・不動明王像醍醐寺中院伝来・軍荼利明王像
(左)醍醐寺中院伝来・不動明王像、(右)軍荼利明王像

本堂で拝していると、十一面観音像の堂々たる姿に目を奪われてしまい、ちょっと厚塗りの四天王像の方になかなか目がいかず、あまり印象に残っていないというのが私の率直な感想です。


十一面観音像の見事さに見惚れて、なかなか立ち去り難かったのですが、あまりの長時間はご住職にもご迷惑かと、後ろ髪をひかれつつ、本堂を辞しました。



【多宝塔は明治年間に焼失~京博寄託で難を逃れた五智如来像】


その後、本堂の北東の方に上ったところにある多宝塔の址をご案内いただきました。
今は、基壇、礎石が残されているだけです。

安祥寺・多宝塔址~基壇

安祥寺・多宝塔址~礎石
安祥寺・多宝塔址~(上)基壇、(右)礎石

この多宝塔に、あの五智如来像が祀られていたのです。
ご住職のお話によると、多宝塔は明治39年(1906)に火災にあい焼失してしまったのだそうです。
幸いというのか、五智如来像は火災以前に、当寺の京都帝室博物館に寄託されており、難を逃れたのだということでした。
あの京博の平常展でおなじみだった安祥寺・五智如来像は、明治年間から博物館に預けられていたのでした。



拝観をお許しいただいた上に、ご高齢にもかかわらず丁寧にご案内いただいたご住職に、心より感謝しつつ、山科・安祥寺を後にしました。

まっすぐ駅に向かうのが、何やら名残惜しく、新緑にかこまれた山科疎水べりをブラリとしながら

「天平彫刻のような、一木彫の優作巨像」

を拝した余韻にしばらく浸った、安祥寺・十一面観音像の観仏となりました。


古仏探訪~「南区久世殿城町・福田寺の地蔵菩薩像、釈迦如来像」京のかくれ仏探訪⑦ 【2016.9.2]】


京都の南西の端、南区久世殿城町にある福田寺の地蔵菩薩像、釈迦如来像を、ご紹介したいと思います。
無指定の仏像です。

福田寺・地蔵菩薩立像
福田寺・地蔵菩薩立像

福田寺・釈迦如来立像
福田寺・釈迦如来立像

間違いなく平安古仏だと思うのですが、なんとも不思議な仏像です。
どのような言葉で表現したらよいのでしょうか?
像容のイメージをうまく言い表すことが出来ないのですが、「不思議な存在感」を感じてしまう仏像なのです。



【耳にした話を頼りに、福田寺を訪問~平安前期・一木彫像が祀られるという】


「京都の南、向日町のあたりに、平安前期の一木彫像があるそうだ。」

こんな話を耳にしました。
随分前に聞いたこの話、誰から聞いたのか、もう忘れてしまいました。

この情報?を頼りに、南区久世殿城町にある福田寺を訪ねたのは、もう8年前、2008年の12月のことでした。
福田寺は、JR京都駅から大阪方面へ三つ目の向日町駅から、歩いて10分ほどのところにあります。

住宅と小さな工場が混在したような町のなかに、閑静な佇まいの福田寺の門がありました。

福田寺山門

山門から続く細い路地
福田寺山門と本堂へ続く細い路地

門をくぐると細い路地のようなところを進むのですが、奥に行くと広くて、大きなお寺でした。
拝観のお願いのご連絡を事前に入れておいたのですが、一人での拝観というのに、大変快くご了解をいただきました。

お訪ねすると、ご住職がお迎えいただきました。
ご拝観の前に、応接間に案内いただき、いろいろとお話を伺いました。

福田寺は、養老年間に行基菩薩が建立したと伝えられているそうです。
「福田寺縁起書」によると、養老2年(718)、行基菩薩が夢のお告げにより此の地で「釈迦如来、地蔵菩薩」の二尊を刻み,精舎を建立し「迎錫山福田寺」を号したといいます。
創建当時は、八町四方に七堂伽藍を有していたと伝えられているとのことでした。


そんなお話をお聞きしながら、お部屋を見回すと、巨大なスピーカーがドーン2本並んでいるのが眼に入りました。
ターンテーブルのあるレコードプレーヤー、管球式のプリメインアンプも置かれています。
私はこの方面のことはよく判りませんが、これは相当のプロっぽいマニアでないと使わないオーディオ機器で、並み大抵のものでないのは違いありません。
お聞きすると、ジャズがご趣味で、この機器でレコードをかけ、ジャズ音楽の世界に浸っておられるそうです。
なかなかモダンなご住職に、ちょっとびっくりです。



【並んで厨子内に祀られる、等身近い一木彫像~地蔵、釈迦像】


御本尊は、本堂に安置されています。

福田寺・本堂
福田寺・本堂

堂内の立派なお厨子に、釈迦、地蔵二体並んで祀られていました。

本堂厨子内に祀られる、地蔵・釈迦像
本堂厨子内に祀られる、地蔵・釈迦像

早速、ご拝観です。

まさに、初対面です。
この福田寺の2躯の仏像、平安前期像という話は聞いていましたが、仏像の写真がどこにも見当たらず、どのような姿の仏像なのか、全く分からなかったのです。
2躯共に、立像の一木彫像で、人の身の丈よりも少し低いかなという像高です。
(地蔵菩薩像:133.2㎝、釈迦如来像:132.5㎝)

並んで安置される福田寺・地蔵菩薩像(左)、釈迦如来像(右)
並んで安置される福田寺・地蔵菩薩像(左)、釈迦如来像(右)

一見した処、衣文の形式などは古様で、平安古仏であることは、間違いなさそうです。



【「不思議な存在感」としか、うまく形容できない、平安古仏】


しかしながら、率直に云うと「ウーン」と唸ってしまいました。

出来の良いとか、造形的に優れているとは、ちょっと云いにくい仏像です。
地蔵像の方はそうでもありませんが、釈迦像の方は、表現が粗略というのか、硬いというのか、そのような感じがするのです。
後世の彫り直しの手もだいぶ入っているようで、釈迦像の方が手の入り方が顕著なようです。
このように話してしまうと、この仏像へのご関心がなくなってしまうかもしれませんが、決してあっさり一瞥で通り過ぎてしまうような仏像ではありません。

「不思議な存在感」とでもいうのでしょうか?

いわゆる一流の仏像と較べると、彫技は劣るのですが、お厨子にドーンと直立しているだけで、存在感を感じるのです。
どのような存在感なのか表現しろといわれると、うまく説明できないのですが、とにかく「不思議な存在感」なのです。
ダイナミックとか堂々たる迫力というのとは、ちょっと違います。
霊威感といったようなオーラともまた違います。

粗略で、ちょっと不器用だけれども、そこに立っているだけで存在感を感じるとしか、言いようがありません。



【平安前中期の造形をしのばせる、古様な地蔵菩薩像】


地蔵菩薩像を拝しました。

福田寺・地蔵菩薩立像
福田寺・地蔵菩薩立像

一見すると、こちらの方が、釈迦像よりも古様に見えます。
世に云う、腰からのY字状衣文で、両股を隆起させたスタイルです。
しっかりとした肉付で、ボリューム感も充分です。

Y字状の衣文の福田寺・地蔵菩薩像の脚部
Y字状の衣文の福田寺・地蔵菩薩像の脚部

一方で、肉身表現の躍動感が乏しく、衣文の表現が少し形式化した感じもします。
お顔は、相当に後世の手が入っているようで、当初の造形がよく判らないのが惜しまれます。
足下をみると、蓮肉まで一木から彫り出されているようです。

蓮肉まで一木で彫り出された福田寺・地蔵菩薩像
蓮肉まで一木で彫り出された福田寺・地蔵菩薩像

足先の彫りも粗略なのですが、構造面では大変に古様なスタイルで造られているのは、間違いありません。
後世の手が残念なのですが、間違いなく、平安中期までの造形感覚を持った、古様な地蔵菩薩像であると感じました。

福田寺・地蔵菩薩立像.福田寺・地蔵菩薩立像

福田寺・地蔵菩薩立像
福田寺・地蔵菩薩立像~調査時の写真
モノクロ写真は、このほかも福田寺さんで拝見した調査時の写真です




【これこそ「不思議な存在感」?~「ウーン」と唸ってしまう釈迦如来像】


その次に、釈迦如来像の方を拝しました。

福田寺・釈迦如来立像

福田寺・釈迦如来立像~顔部
福田寺・釈迦如来立像

不可思議さでいうと、この釈迦如来像の方が、特段に「ウーン」と唸ってしまう不可思議さを備えた仏像です。
写真をご覧になっても、みなさん
「なんという造形なのだろうか!」
と、ため息をつかれたかもしれません。

「古いのか、新しいのか?」
「当初の造形が残されているのか、全部彫り直しなのか?」
「手を抜いたのか、意図的にこのように表現したのか?」

私も、ちょっと訳が分からなくなってしまいそうでした。

アクの強いお顔です。
頭部を前に突き出しているのが、アンバランスな違和感を醸し出しています。

アクの強い顔、切りつけたような衣文線の福田寺・釈迦如来像
アクの強い顔、切りつけたような衣文線の福田寺・釈迦如来像

衣文の襞は、衣文を彫り出すというのではなくて、ぶつけるように切り付けたような線が刻まれています。
全体の造形をみると、ちょっと窮屈で硬直して、抑揚感がみられません。
直方体の用材のかたちが、そのまま残されているようにみえます。
仏像の姿を用材から彫り出したというよりは、四角い用材を仏像の形に整えたという感じさえするのです。

福田寺・釈迦如来立像.福田寺・釈迦如来立像
福田寺・釈迦如来立像

「アクが強くて、ちょっとぎこちない。」

ちょっと仏様には失礼なのですが、どうしてもこんな印象に写ってしまいます。



【注目は、袖に刻まれた渦文~平安前期、霊威仏像の系譜か?】


足下をみると、この像も、蓮肉まで一木で彫り出されているようです。
古様を伝えています。

蓮肉まで一木で彫り出された福田寺・釈迦如来像
蓮肉まで一木で彫り出された福田寺・釈迦如来像

もう一つ、眼を惹くのは、右の袖の処に刻まれた、二つの渦紋です。
よく見ると、左の肩口に2個、左足下に1個の渦文が刻まれています。

福田寺・釈迦如来像の脚部の衣文~左袖に二つの渦文

福田寺・釈迦如来像~右袖に2つの渦文.福田寺・釈迦如来像~左肩に渦文
福田寺・釈迦如来像に刻まれた渦文
右袖と左肩、左足下に渦文が見える


この渦文、どこかでよく似たものをみた記憶があります。
京都、北区西賀茂神光院町にある神光院の薬師如来立像と、北区大森東町にある安楽寺の如来立像です。

北区神光院・薬師如来立像.北区安楽寺・如来立像
神光院・薬師如来立像(左)、安楽寺・如来立像(右)
沢山の渦文が衣に刻まれている


ともに、この観仏日々帖でご紹介したことがありますので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。
福田寺の釈迦像の渦文は、この二つの像ほどに、はっきりはしていませんし、数も少ないのですが、同じ系譜に在ることを想像させます。
衣の着け方のスタイルもまた、二つの像によく似たものがあります。
蓮肉まで一木で彫り出しているところも同じです。

この三つの如来像、系譜が同じとか、いずれかの像を手本に造ったということがあるのでしょうか?

福田寺の釈迦像は、神光院像、安楽寺像に較べて、はるかに彫技が劣って粗略な造形です。
また、これらの像の発する霊威感、オーラというものは、あまり感じさせません。

時代が、それなりに下ってから、このタイプの像の姿を真似て、造られたものということなのでしょうか?
ただ、神光院像、安楽寺像も、美しく出来の良い仏像を造ろうという意図ではなくて、何やら、強い宗教的な精神性を背景に造られたのだろうと思われます。
福田寺の釈迦像にも、そうした宗教的背景があるのかもしれません。

この釈迦像、本当に平安時代の仏像なのかという疑問もわかないわけではありません。

ただ、時代がいつ頃なのかはさておいて、
「アクの強さ、ぎこちなさ、硬直した姿が、不思議な感覚を醸し出す。」
私の眼には、そのような印象が焼き付けられました。
表現不能な存在感のある仏像なのです。

思わぬ、平安古仏に出会うことが出来ました。
とりわけ、釈迦如来像は、記憶の中にしっかりと刻み付けられる仏像に遭遇したというのが実感です。



【昨年、やっと見つけた、地蔵、釈迦像の解説文】


この地蔵、釈迦像について、解説した資料は無いのかなと当たってみましたが、残念ながら、見つけることが出来ませんでした。
無指定の像ですから、仕方ないことなのかもしれません。

そうしていたら、昨年の「近畿文化」に解説が掲載されました。
近畿文化会で「洛西の仏像」という臨地講座が開催され、探訪寺院の一つに福田寺が採り上げられていたのです。
機関誌「近畿文化」784号(2015.3)に、探訪仏像の解説という形で採り上げられたのです。

奈良大学教授の関根俊一氏の解説です。
ご紹介したいと思います。

地蔵菩薩像については、

「大きめの頭部、大きく刻まれた目鼻立ち、量感に富んだ体躯には深く衣文線が刻まれるが、特に腰からY字状に下がり、大腿部で衣文を彫出せずに肉身を強調するところは古様であり、造像は10世紀に遡るであろう。
檜の一木造で、体部のみ背面から内刳を施し、背板を嵌める。」

釈迦像については、

「地蔵菩薩と異なり複雑な衣文線を刻み、要所に渦巻き文を表現するなど個性的な作例である。
やはり-ー木造で、材の制約のためか両手が体躯に接近し、やや窮屈な印象を受ける。
両手先等別材を矧いだ箇所は後補が多いが、平安時代半ば頃の作風が看取される。」

このように解説されていました。
なるほどと、納得の解説です。

しかし、先程来ご紹介してきましたように、この解説文を読むだけでは、この仏像の不思議な存在感の印象を感じ取ることは、如何せん、難しいだろうな思います。

是非、一度、直に拝していただき、どのような印象を感じられるか、訪ねていただきたいと思います。



【迫力ある造形の、平安前中期の龍神像を拝観】


もう一つ、福田寺に祀られる龍神像をご紹介しておきたいと思います。

実は、福田寺さんでは、この「龍神像」の方が、圧倒的に有名なのです。
境内の龍神堂に祀られている、像高60㎝の跪座像です。

福田寺・龍神像(夜叉形跪坐像)
福田寺・龍神像(夜叉形跪坐像)

古くから雨乞を祈る龍神像として尊崇をあつめており、、境内の「坂井の井戸」より水を汲み、像にかけながら雨乞の祈祷が修せされてきたと伝えられます。

平安前期まで遡る可能性があるといわれる一木彫像で、京都市指定文化財に指定されています。
京都市指定文化財のHPには、このように解説されています。

「臂釧や褌以外は何も身につけない像高60cm程度の裸形像で、口を閉じ、腕を胸前で屈臂し、二本の足指や獣耳をもつことから、本像は本来は兜跋毘沙門天像の左右に配される毘藍婆あるいは尼藍婆像であった可能性が高い。
平安時代前期にまで遡り得る夜叉形の古例として貴重な作例といえる。」

元々は、龍神像ではなくて、鬼神、夜叉像であったようです。
指定文化財名称も「木造夜叉形跪坐像」となっています。

龍神像は、堂内の龍神堂に祀られています。

福田寺・龍神堂
福田寺・龍神像(夜叉形跪坐像)

お厨子を御開扉いただき、拝させていただきました。

福田寺・龍神像が祀られる厨子
福田寺・龍神像が祀られる厨子

なかなかの迫力ある造形に圧倒されました。
かなり朽ちて摩耗はしていますが、筋骨隆々としてボリューム感のある肉付けは、見事なものです。
とりわけ、太ももの張りのある造形は、ダイナミックで見惚れるものがありました。
これは、平安前中期の作としても、相当ハイレベルの像であったに違いありません。

これだけの造形の鬼神像の主尊であった兜跋毘沙門天像は、どのような像であっただろうか?
想像すると、それは見事なものであったのでしょう。
さぞや、雄渾でダイナミックで圧倒的な迫力の傑作であったのだろうと、思いを巡らせました。

この福田寺・龍神像については、神奈川仏教文化研究所HP「貞観の息吹」のコーナーでも、かつて紹介されています。


大変ご丁寧に案内いただいたご住職への、感謝の思いをいだきつつ、「不思議な存在感」の仏像との出会いに心動かされながら、福田寺を後にしました。