観仏日々帖

古仏探訪~「右京区嵯峨樒原高見町・般若寺の十一面観音像」 京のかくれ仏探訪② 【2016.6.18】


「京のかくれ仏探訪」第2回のご紹介は、右京区嵯峨樒原高見町にある般若寺の十一面観音立像です。

般若寺・十一面観音像
般若寺・十一面観音像


【図録・「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」掲載の仏像を、いくつかご紹介】


図録・「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」
前回、「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」と題する図録冊子をご紹介しました。

そこには、きっちりした寺院に祀られる仏像ではなく、無住のお堂などで地元の人々に、守られ受け継がれてきたてきた古像が採り上げられています。
ラインアップされている仏像をみますと、知られざる、興味深く魅力ある仏像がいくつも掲載されています。

そこで、これから数回は、「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」掲載の仏像から、
「この仏像は、なかなか興味深い、心惹かれる。」
と、私が感じた仏像達の探訪記をご紹介したいと思います。


今回ご紹介する、般若寺の十一面観音立像も、この「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」に採り上げられている仏像です。
ただ私が、この般若寺を訪ねたのは、この図録冊子を手に入れる前のことでした。

この仏像の存在を知ったのは、
井上正著「古佛~彫像のイコノロジー」1986年・法蔵館刊
に採り上げられていたからです。
井上正著「古佛~彫像のイコノロジー」

ご存じのとおり、この本には、井上正氏が、独自の考え方によって、

「奈良時代以前の制作にさかのぼる可能性がある、古密教彫像」

とみる木彫像が、ラインアップされています。
そこに掲載されている仏像達は、井上氏の言葉を借りると、

「烈しい霊威表現、尋常ならざる精神性を発する表現」

の、歪んだ造形、異常な量感の強調とか化現表現などがされている仏像です。

私は、これらの木彫像が、「井上氏の云う、奈良時代以前の制作の古密教像」とは思わないのですが、気迫勝負とでも言ってよいような迫力、強烈なインパクトを感じさせる仏像に、心惹かれるものがあり、出来得れば、全部見てやろうと廻っています。

そんなわけで、般若寺・十一面観音像も、是非拝してみたい仏像の一つなのでした。
1985年に、京都市指定文化財に指定されています。



【ここも京都市? 愛宕山の奥、辺鄙な村落にひっそり在る般若寺】


般若寺を同好の方と訪ねたのは、9年程前、2007年のことでした。

般若寺・十一面観音も、地域の方々に守られてきた仏像です。
京都市の教育員会のご担当に連絡をお願いし、管理をされている方に拝観のご了解をいただき、訪ねました。

めざす般若寺は、「右京区・嵯峨樒原高見町」という処にあります。
地図で見ると、京都の西北のすごい山の中です。

嵐山・嵯峨野の西北に、愛宕参りで有名な愛宕神社のある愛宕山がありますが、この愛宕山の山向こうです。

嵐山・渡月橋から望む愛宕山
嵐山・渡月橋から望む愛宕山

かつては、亀岡方面からの愛宕詣への道としてにぎわいがあったということです。

嵐山方面から車で出かけたのですが、なかなかの山道で、ビックリでした。
両側を鬱蒼とした木々に囲まれた、細い曲がりくねった九十九折りの道を7~8キロ走りました。

鬱蒼とした木々に囲まれた、般若寺への山道
鬱蒼とした木々に囲まれた、般若寺への山道

ちょっと怖くなるほどの山道をやっと抜けると、眺望が開け小さな村落が目に入ってきます。
そこが、嵯峨樒原高見町です。

般若寺のある嵯峨樒原高見町の村落
般若寺のある嵯峨樒原高見町の村落

こんなところも京都市に入るのかと思う、辺鄙な山の中の村落です。


般若寺は、民家かと見紛うような、小さなお堂でした。

般若寺のお堂
般若寺のお堂

お堂への上り口には、愛宕山と記された、立派な石標があります。

般若寺への上り口の道

愛宕山と刻された石標
般若寺への上り口の道と、愛宕山と刻された石標

かつて、愛宕詣でへの亀岡方面からの参道として賑わったことを物語っているようです。



【野趣ある素朴さに惹かれる、古様な観音様~痩身、腰高でしなやかな歪み】


お待ちいただいていた地元の方にご案内いただき、早速、十一面観音像を拝しました。

般若寺・十一面観音像
般若寺・十一面観音像

一見しただけで、平安中期以前の、かなりの古仏であることが判ります。
すらりと痩身です。
ウエストの位置が異常に高いというか、腰から下が大変長いスリムな仏像というのが、第一印象です。
ちょっといびつなまでのバランス、と云ってもよいのかもしれません。
身体の軸も、上半身が右に歪んでいます。
腰から下の衣文は、弧を描く衣文線の密度が濃いというのか、幾重にも刻まれています。

般若寺・十一面観音像~上半身が歪んでいる般若寺・十一面観音像~幾重にも刻まれた衣文
般若寺・十一面観音像~歪んでいる上半身と、幾重にも刻まれた衣文

このように、
「異常な身体バランス、上半身の歪み、密集したような衣文」
などと、文字で表現すると、
すごい迫力のある造形、気とかオーラを発散するような、アクの強い仏像を想像してしまいそうです。
ところが、実際にはそんな感じはしません。

むしろ、全体としては、
「落ち着いたというか、穏やか」
と云った方があたっているような印象を受けます。
身体の軸の歪みも、「歪んでいる」というよりは、「しなやか」という表現の方が似つかわしそうです。
お顔は目鼻口に後の手が入っているようで、眼線の彫り起こしなどがあるようなのですが、
当初、もっと厳しく激しい表情をしていたようには感じられません。

彫り口は素朴で、割合と細部にこだわらずに造形されています。
入念に造られているのではなくて、結構、粗略というか、簡略に表現されています。

般若寺・十一面観音像~粗く素朴な彫り口
般若寺十一面観音像・側頭部~粗く素朴な彫り口

衣文の彫も随分浅く、ちょっと手を抜いたのかなと思うほどに、表面的な感じがします。
野趣のある、いわゆる地方作的な造形と云えそうです。
とはいっても、かなりの古像であることは、間違いありません。



【般若寺・観音像の故郷は、なんと奈良の地だった】


この地に遺る平安古仏というと、愛宕信仰にかかわる山岳信仰などにまつわって造立された仏像が、今日まで伝えられたとのかと、当然に想像してしまいます。
ところが、この観音像、当地で造られたものではなかったのです。

太平洋戦争末期に行われた、京都重宝調査の台帳に、
「桃山時代に、某皇女が本像を奈良より搬び、般若寺付近にあった興禅寺に安置して本尊とし、のち当寺に移されたとする旨の寺伝」
が記されており、奈良の地より当地に移された像であることは、間違いないようなのです。

この仏像の故郷は、なんと奈良の地だったのです。

その話を知って、この観音像をもう一度見直してみると、なるほどと、すごく納得がいくように思えます。

「落ち着いた、穏やか、しなやか」

というキーワードが、似つかわしいような印象と記しましたが、それは、この像が奈良の地の伝統の延長線上にあるからなのかもしれません。

「奈良のちょっとはずれの、在地の地方作的古像」

このように考えてみると、この観音像の造形の雰囲気が、すんなり理解できるような気がするのです。


奈良の地方作的な古像で、たいへん痩身な観音像というと、桜井市・慶田寺の十一面観音像(市指定文化財)が思い出されます。
10世紀頃の制作と云われてきましたが、近年は、9世紀前半からそれ以前との見方もある奈良の地方作的一木彫像です。

奈良桜井市~慶田寺・十一面観音像奈良桜井市~慶田寺・十一面観音像
奈良桜井市~慶田寺・十一面観音像

造形感覚は、般若寺像とは随分違うものです。
慶田寺像の方がかなり古様のように思います。
ただ、この両像のような、スリムで長身といったタイプの素朴な表現の一木彫像が、奈良の在地の木彫像にあったのかなという気もします。

いずれにせよ、記憶の中にしっかりと残る、独特の魅力を感じる観音像です。



【いつ頃の制作? 見方が別れる、奈良の地方作的一木彫像】


さて、この般若寺観音像、いつ頃の制作と思われるでしょうか?
10世紀頃の制作なのでしょうか?
9世紀ごろまでさかのぼる平安前期像なのでしょうか?
正直なところ、私もウーンと唸って、迷ってしまいます。
桜井・慶田寺観音像の制作年代の見方が別れると同様に、いろいろな見方、考え方が出来る、ちょっと難しい彫像と云えそうです。


この般若寺・十一面観音像、博物館で観たことがある方も、いらっしゃるかもしれません。

私の記憶では、2005年10~11月に京都国立博物館で開催された、「最澄と天台の国宝展」に出展されました。
翌年、東京国立博物館でも巡回展があったのですが、残念ながら般若寺像は京博のみへの出展で、私は観ることが出来ませんでした。
ごく最近では、京都国立博物館の平常展示で、昨年、2015年6~9月に展示されました。
この時、ご覧になった方は、どのように感じられたでしょうか?


本像を採り上げた文章、解説などをみてみると、制作年代の見方には、9世紀初、もしくはそれ以前から、10世紀末頃まで、随分と幅があるようです。
ご紹介してみたいと思います。

品質構造等は、以下の通りです。

像高167.5㎝、カヤかとみられる針葉樹の一木彫像、さほど深くない背刳りに背板、頭上面など後補、面部に補修痕あり。


般若寺・十一面観音像..般若寺・十一面観音像

般若寺・十一面観音像..般若寺・十一面観音像
各角度から見た般若寺・十一面観音像~「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」所載


井上正氏は、著作「古佛~彫像のイコノロジー」で、はっきりした制作年代の見解は示していませんが、次のように、奈良時代に遡る可能性を示唆するかのようなコメントを記しています。

「長痩感に加うるに、このような浅彫りの衣文表現を以てする例は、すでに徳島・井戸寺十一面観音立像と京都・光明寺千手観音立像とに見られた。
このうち、井戸寺像と本像とは、同じく赤色の檀色像であり、光明寺像は、黄色の檀色像であった。
ビャクダンの心をそなえた着彩代用檀像の表現として、直接の結び付きを指摘することは難しいにしても、一つの括りのなかにこの三者は入ってくるものといえよう。
バラバラに印象される古密教系尊像の場合も、ようやくある種のつながりが生まれてきたようである。」
(「古佛~彫像のイコノロジー」法蔵館・1986年刊)


一方、井上氏のコメントと、ほぼ同時期に刊行された「京都の美術工芸」という調査記録書では、10世紀末頃の制作とみて、このように解説されています。

「こうした古式の一木彫成像としては、体躯の量感をかなり減じ、躰の厚みも少ないが、上半身の肉どりにはなお抑揚があり、腰高にまとった裳には、翻波を混えてにぎやかに衣文をあしらうが、その彫りは浅く、鈍い。
・・・・・・・・
概して、地方的な趣の濃い像といわざるをえないが、制作の時期は10世紀末頃まで遡ると考えられ、・・・・・・」
(「京都の美術工芸~京都市内編・上」京都府文化財保護基金・1985年刊)


9世紀の制作とみる、このような解説もあります。

「天衣や条帛をうねるような衣文線で構成し、一見して唐招提寺や大安寺の木彫群を連想させる。
とはいえ上記諸像が、衣文を深く刻むのにくらべると本像の衣文は浅く彫りあらわされている点で違いがある。
また、本像のやや前傾した姿勢は天平彫刻というよりは、9世紀の製作とみなされる観音像などによくみられるものである。
・・・・・・・・・・
本像が、上記のような特徴を持つのも、天平時代の名残を色濃く残す奈良において9世紀になってから製作されたもの、と考えれば納得がいくのではないだろうか。」
(「最澄と天台の国宝展」図録~解説・浅湫毅、2006年刊)


どちらの解説の見方が的確なのでしょうか、よく判りません。

解説を読んでいると、この像の類例や、同じ系譜の像を挙げるのなかなか難しいのかなという気がしました。
これらの解説には、

「長痩感に加うるに、このような浅彫りの衣文表現を以てする例は、すでに徳島・井戸寺十一面観音立像と京都・光明寺千手観音立像とに見られた。」

「天衣や条帛をうねるような衣文線で構成し、一見して唐招提寺や大安寺の木彫群を連想させる。」

と述べられていました。

「そんなふうに連想したり、そんな系譜の仏像だと感じるかなあ?」

私の感性では、「そのとおりだな」と思えないところのあります。

制作年代については、古様だけれども、地方作的で彫りも浅く粗略な表現であることを、どのようにみるかということなのでしょう。

「9世紀まで遡るというのはちょっと難しいかな?10世紀の半ばごろぐらいか?」

というのが、私の個人的な印象です。



【心に残った般若寺・観音像との出会い~愛宕山奥・鄙の地に在るのが、相応しい】


ひっそりとした里山に祀られる「京のかくれ仏」との、心に残る出会いでした。

いかにも在地的で野趣のある、般若寺・観音像の姿を拝していると、元在ったという奈良の地ではなく、この愛宕山の奥の、鄙そのもの地に祀られているのが、一番相応しいのだろうという思いとなりました。

この般若寺の十一面観音像、地元の管理の方のご都合がつけば、拝観はお願いできるようです。

お世話になった方に、
「拝観に訪ねてこられる方は、折々いらっしゃるでしょうか?」
とお尋ねすると、
「この山中の村落まで、わざわざ訪ねてくる人は、本当にめったにいませんよ。」
というお話でした。

またここまで訪ねて来るのは、いつのことになるだろうか、という思いを抱きながら、山間いの般若寺を後にしました。


古仏探訪~「左京区大原上野町・浄楽堂の十一面観音像」京のかくれ仏探訪① 【2016.6.4】



【ご紹介してみたい~私のとっておきの「京のかくれ仏」】


「京のかくれ仏探訪」と題して、あまり知られていない京都の古仏を、いくつかご紹介していきたいと思います。

「この観仏日々帖、これまで、どんな京都の仏像をご紹介してきただろうか?」

ちょっと振り返ってみました。
京都府全域に広げてみると、南山城の仏像とか亀岡市の仏像とか、いろいろご紹介しているのですが、
京都市内に限ってみると、意外に少なくて、ちょっとびっくりです。

北区上賀茂神光院町の神光院・薬師来立像(2012.5.22)

下京区中堂西寺町の勝光寺・聖観音立像(2012.6.22)

神光院・薬師如来立像.勝光寺・聖観音立像
神光院・薬師如来立像(左)  勝光寺・聖観音立像(右)

こ の二つだけでした。

この観仏日々帖では、一般のガイドブック、仏像本にはふれられていないような仏像を採り上げるように心がけています。
京都市内には、沢山の仏像が残されているのですが、私の好きな平安前期・中期の仏像となると、著名な寺院に在るものが多く、あまり知られていない仏像が、少ないからなのかもしれません。

ただ、たった二つだけ採り上げた、京の平安古仏、
ご紹介したときには共に「無指定」だったのですが、その後、平安前期制作の仏像として「京都市指定文化財」に新たに指定されました。
「ご紹介してみた甲斐があった!」
と、心密かに思っている次第です。


そこで、もう少し京都市内の知られざる仏像を、これまでの観仏探訪の中から、ご紹介してみようかと思いました。
「京のかくれ仏」などと、大それた題をつけるほどでもないのですが、

「あまり訪ねる人はいないけれども、心惹かれる仏像、魅力あふれる仏像」

そんな、心に残る仏像をご紹介できればと思います。

京都市内には、大好きな平安前期・中期の仏像がそれほど多くなく、一生懸命、くまなく訪ね歩いたわけではありませんので、私の個人的な思い出の仏像ということで、ご容赦ください。



【その存在を全く知らなかった美仏~浄楽堂・十一面観音像】


第一回目のご紹介は、左京区大原上野町にある、浄楽堂の十一面観音立像です。

私は、この仏像について、長らく、その存在を知りませんでした。
7~8年近く前でしょうか、古本屋でこんな京都の仏像の本を、たまたま見つけました。

「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」 京都市文化財ブックス第3集

という、図録風の冊子本です。

「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」

1988年に、京都市文化観光局文化財保護課の編集発行になっていました。

「まえがき」によると
「ここで取り上げた仏像は、そのほとんどが古くから地域の人々によって守り継がれきたもの、あるいは無住になった寺院に伝わるものであり、地元の人々の生活と密着した身近な文化財と云えるものです。」
ということです。

「地域の人々とともに在る、『京のかくれ仏』選集」といった感じです。

この冊子の、冒頭のカラー写真頁に、ご覧のような写真が掲載されていました。

浄楽堂・十一面観音立像(「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」掲載写真)
「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」に掲載されている浄楽堂・十一面観音像の写真

如何でしょうか?

「オッ!これは凄そう!なかなかの迫力、魅力十分。」

そう感じました。
どう見ても、平安中期ごろまでの仏像に違いないようにみえます。
こんな写真を見せられては、平安古仏好きとしては、見逃すわけにはいきません。

「大原三千院の近くに、こんな古仏がのこされていたのか。」
「いつか、チャンスを見つけて、是非とも拝したいものだ。」

と思っていたのでした。

「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」という冊子は、「あとがき」によると、昭和58~61年度(1983~86)に、京都市が京都彫刻調査研究会(代表・井上正氏)に委託した調査成果を取りまとめたものだそうです。
浄楽堂・十一面観音像も、この時に調査されたものらしく、昭和59年(1984)に、京都市指定文化財に新たに指定されています。



【京都・大原の静かな山里に、ひっそりと在る浄楽堂】


浄楽堂の十一面観音立像を、実際に拝することが出来たのは、ちょうど6年前、2010年の冬のことでした。

京都市の教育委員会・文化財担当の方にお願いをして、地元の管理者の方にご連絡を取っていただき、特別に拝観のご了解をいただきました。
浄楽堂の十一面観音像は、地区の人々の管理で守られており、通常は、公開されていません。
年に2回、オコナイがある成人の日と地蔵盆(8/24)に近い日曜日にのみ、御開帳されているとのことでした。

期待に胸膨らませて、浄楽堂へと向かいました。
浄楽堂は、左京区大原上野町という処にあります。
市内から大原を目指すと、もうあと5~600ⅿで三千院というあたりを、東に少し入った処です。
国道から2~300m入っただけなのですが、そこは観光客とは全く無縁の静かな山村の世界です

大原の山里風景
洛北大原の山里風景

「洛北大原の、四季の自然に囲まれた山里」

というのは、このようなところのことを云うのでしょうか。

NHKのテレビ番組「ベニシアさんの大原の暮らし~猫のしっぽカエルの手」に登場していた風景が、思い起こされます。

浄楽堂あたりの田園風景
浄楽堂あたりの田園風景

一本杉の巨木が目印で、ひっそりと小さな無住のお堂があります。
そこが、浄楽堂です。

浄楽堂傍の一本杉の巨木
浄楽堂傍の一本杉の巨木

浄楽堂
浄楽堂

地区の管理をされている何人かの方が、わざわざお待ちいただいていました。
十一面観音像は、堂内の白木の厨子の中に祀られています。
開扉いただくと、真ん中にめざす十一面観音像、両脇に地蔵菩薩像、阿弥陀如来像が安置されていました。

浄楽堂内厨子に祀られる観音像
浄楽堂内厨子に祀られる観音像



【ほのかな翳りをさした、クールビューティ~想定以上の美仏・十一面観音像】


眼前に拝した十一面観音像、一見しただけで、期待に違わぬ平安古仏です。

浄楽堂・十一面観音像

浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像

すらりと痩身、ハイウエスト、八頭身で、穏やかながらもキリリと締まった美しさです。
とりわけ、お顔の表情に惹かれてしまいます。

浄楽堂・十一面観音像浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像

美しいお顔ですが、ちょっと翳りをさしたような表情が印象的です。
目鼻口の線の彫りがくっきりして、理知的でキリリと締まった面立ちです。

「ほのかな翳りを漂わす、クールビューティ」

こんな表現が似つかわしそうです。

浄楽堂・十一面観音像浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像~顔部

平安前期特有の、分厚いボリューム感や、デフォルメ表現、抉ったような鋭い彫り口はみられません。
むしろ、「すらりとスリムなプロポーションで美しい。」と云った方が当たっている感じです。
そういうと、穏やかな和様の藤原仏のような表現になってしまいますが、決してそうではなくて、
「締りのある緊張感!」「凛とした気品!」
が、強く漂っています。

資料の解説によると、平安中期頃の作とみられているようです。
たしかに、平安前期の厳しい迫力と、優美でおだやかな美しさを、併せ持つ仏像のように思えます。

私は、この「翳りさすキリリとした美しさ」の十一面観音像に、惹き付けられる魅力を感じ、大好きになりました。



【ほとんど見当たらなかった本像の解説~ご紹介】


この浄楽堂の十一面観音像、本・資料などでは、どのように解説されているのでしょうか。
この観音像、これほどの美しい古像なのに、採り上げている本が、ほとんど見当たりませんでした。

私が見つけたのは、先にご紹介した、「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」の他では、
同じ京都市文化観光局発刊の「京都市の文化財~京都市指定・登録文化財集(美術工芸品)」(1992刊)、と
「京都の美術工芸~京都市内編・上」(1985年・京都府文化財保護基金刊)
だけでした。

像高168.7㎝、彩色、ヒノキ一木彫、内刳り無し、頭上面など後補

ということです。

ちょっとピックアップして、解説をご紹介します。

「丸顔で、肩幅広く、肘をゆるやかに体から離して、すらりとした体躯で立ち、小ぶりな眼、低い鼻、平明な肉どりをもつ面相には日本的な優しさがうかがえる。
また、肉身の穏やかな膨らみと、それをあらわに示す条帛の流れ、数少ない裳の衣文の巧みな設定など、美しい間合いが図られている。
奈良時代以来の古密教彫刻に新しい和風の情感を盛り込んだ美作であり、9世紀後半から10世紀前半にかけての制作と推定される。
また、当初の板光背を遺している点も貴重である。」
(「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」解説)

浄楽堂・十一面観音像~全身

浄楽堂・十一面観音像~側面...浄楽堂・十一面観音像~側面
浄楽堂・十一面観音像~正面・側面写真

「頭部を品よく小ぶりにまとめ体躯は長身でしかも腰高に造っており全体のプロポーションは誠に整っている。
彫技は巧みで、前面の天冠台下地髪には細かく毛筋を刻み、面相部の彫りは鎬立たせ端正な表情に作っている。
もとは天衣遊離部もすべて共木から彫り出していたと考えられる。
天衣や裳には先端或いは縁に波形の襞を混えながら翻派風の衣文を刻むが総体には彫は浅く細身になっており制作は10世紀も末頃と考えられる。
胸から腹にかかる条帛部は肉身のくびれにそって彫り込みを作るのは不思議である。
頭上面が替わっているが平安中期の等身大の美しい十一面観音として注目される。」
(「京都の美術工芸~京都市内編・上」解説)


解説を読むと、それぞれに、

「古密教彫刻に新しい和風の情感を盛り込んだ美作」
「平安中期の等身大の美しい十一面観音として注目」

と述べられ、
この浄楽堂像が、注目すべき「美しい作品」であることを特記しています。
私も、全くの同感です。



【制作時期はいつ頃?~9~10世紀前半なのか、10世紀末頃なのか】


ただ、制作時期については、
前者(京の古仏)では、「9世紀後半から10世紀前半にかけての制作」
と推定されているのに対して、
後者(京都の美術工芸)では、「制作は10世紀も末頃と考えられる」
としています。

皆さんは、どのように感じられるでしょうか?

この時代の、制作年の判る仏像を、ちょっと見較べてみたいと思います。
9世紀後半から10世紀末頃までで、制作年代が推定できる代表選手と云えば、このような仏像が挙げられるでしょうか?

9世紀末から10世紀前半の制作年代が明らかな代表的仏像

10世紀半ばから末頃の制作年代が明らかな代表的仏像

日本彫刻史の教科書のような感じになってしまいました。
今更、こんなリストアップをするのも、ちょっと子供じみた感じがしないでもないのですが、これらの仏像の造形と比較してみて、どのように感じられるでしょうか?
一番の見どころのお顔のアップ写真を並べてみました。

慈尊院・弥勒仏像(寛平4年・892)清凉寺・釈迦如来像(寛平8年・896)
慈尊院・弥勒仏像(寛平4年・892)   清凉寺・釈迦如来像(寛平8年・896)

醍醐寺・薬師如来像(延喜7~13年・907~913)法性寺・千手観音像(承平4年・934)
醍醐寺・薬師如来像(延喜7~13年・907~913)   法性寺・千手観音像(承平4年・934))

六波羅蜜寺・十一面観音像(天暦5年・951)遍照寺・十一面観音像(永祚元年・989)
六波羅蜜寺・十一面観音像(天暦5年・951)    遍照寺・十一面観音像(永祚元年・989)

善水寺・薬師如来像(正暦4年・993)禅定寺・十一面観音像(長徳元年・995)
善水寺・薬師如来像(正暦4年・993)    禅定寺・十一面観音像(長徳元年・995)

たしかに、「京都の美術工芸」解説文の
「翻派風の衣文を刻むが、総体には彫は浅く細身になっており」
という通りなのですが、

穏やかなお顔の表情の遍照寺像や禅定寺像などと、同じ頃に下がるというのは、この浄楽堂像の顔貌の、
「翳りを帯びて、キリリと締りのある造形」
の顔貌をみると、ちょっと可哀想なのではないかなと思ったりします。

浄楽堂・十一面観音像浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像~顔部

むしろ、法性寺像や清凉寺像にみられるような、締まったキリリとした顔の表情の面影を留めているように感じます。

たしかに、都・京都の地の仏像といっても、大原の鄙の地の、一流ではないというか、在地性が強い作の仏像であろうことを考えると、古様な表現が、時が下っても残されているという見方もできるのかもしれません。
ただ、10世紀末の代表的観音像の造形と較べると、浄楽堂像は、どうしても10世紀中頃以前に遡る像なのではないかと、私には思えてきます。

いずれにせよ、心に残る平安古仏の美仏で、

「ここまで拝しに来て、本当に良かった。」

という気持ちで一杯になりました。

「知られざる、京のかくれ仏」といって、過言ではありません。



【よく判らない観音像の由来~惟喬親王ゆかりの美仏か?】


この古仏の由来は、明らかなのでしょうか?
これだけの観音像ですが、どうして当地に遺され、守られてきたのかについては、よく判りません。

今は、無住のお堂を、地区の皆さんで管理して守っておられるようです。
今のお堂は、、昭和11年(1936)に、大原に別荘を持っていた大阪の谷川という方が、地元と協力して再建したものだそうです。
また、浄楽堂という名前は、惟喬親王が住職をしていた寺の名を継いだといわれています。

たしかに、浄楽堂から2~300mのすぐ近い処に、「惟喬親王の墓所」が残されています。

惟喬親王の墓所

惟喬親王の墓所
惟喬親王の墓所

ご存じのとおり、惟喬親王(844~897年)は、悲運の皇子として知られています。
惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子でありながら、生母が紀氏であることや、藤原氏の娘である皇后・明子に惟仁親王(清和天皇)が生まれたことから、出家を余儀なくされ、小野郷の地に隠棲したと伝えられます。
その小野郷の地が当地であるとされ(北区・北山小野郷ともされる)、墓所も残されているのです。

「惟喬親王の墓所」については、「ブログ~ノンさんのテラピスト」に「悲運の皇子・惟喬親王の墓 2013.8.28」という探訪記事・写真が掲載されているので、参考にご覧ください。


「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」の解説では、
「本像と惟喬親王との関係は定かではないが、時期的に一致することから、関係遺仏とする考え方もある。」
と記されています。

惟喬親王在世時の像となると9世紀後半の仏像ということになり、そこまで製作時期を遡らせるのは、ちょっと難しいのではという風に感じます。
惟喬親王を偲ぶなど、何らかのゆかりの仏さまなのかどうかは、全く判りませんが、ロマンチックにそう考えたくなるような、ちょっと影のある表情の美仏であることは、間違いありません。



想定以上の美しく魅力ある平安古仏を拝することが出来ました。

「翳り漂う、キリリと美しいお顔」を拝していると、なかなか立ち去り難いものがあります。
後ろ髪をひかれつつ、開扉のご面倒をおかけした地区の方々に心よりの御礼を申し上げて、浄楽堂を後にしました。

もう一度、訪れたいものです。

今度は、オコナイの日か、地蔵盆の日に訪ね、地域の人々の信仰とともに在る観音様のお姿を、是非とも拝したいものです。