観仏日々帖

古仏探訪~山梨・福光園寺の吉祥天坐像と、満願寺の十一面観音像  【2016.5.22】


1.福光園寺の吉祥天・二天像

もう2か月も前、3月(2016/3)のことになりますが、山梨県笛吹市にある、福光園寺を訪れました。


【鄙にはまれな、堂々たる見事な吉祥天坐像】


福光園寺といっても、ご存じの方はそう多くないかもしれませんが、ここには鎌倉時代前期の素晴らしい吉祥天の坐像が遺されているのです。
寛喜3年(1231)、仏師蓮慶によって制作されたことが、像内墨書銘によって知られています。

福光園寺・吉祥天坐像

福光園寺・吉祥天坐像
福光園寺・吉祥天坐像


初めて訪れたのは、もう30年以上前のことになるでしょうか?
ほとんど予備知識なく訪れたのですが、想定外の見事な造形の仏像に出会い、本当にびっくりしました。

「こんな鄙の地に、どうしてこんなに見事な出来の像が遺されているのだろうか?」

吉祥天坐像を、初めて拝したときの、驚きの記憶が、今も鮮明に残っています。

その後も、山梨県立博物館で2006年に開催された「祈りのかたち~甲斐の信仰~展」や、2013年に同じく開催された「山梨の名宝展」にも出展されましたので、その折にご覧になった方もいらっしゃるのではないかと思います。

この吉祥天坐像、何度拝しても、その堂々たる造形に心惹かれるものを感じる仏像です。
私は、何といっても平安古仏好きなので、鎌倉時代の地方に残された仏像彫刻に、心惹かれることは、あまり無いのですが、何故か鮮明に心に刻みつけられている仏像です。

この福光園寺で、3月19日に「歴史シンポジウム・ 吉祥天信仰 ~祈りとかたち~」が開催されるという情報を知りました。
シンポジウムの内容は、次のようなものになっていました。

「歴史シンポジウム・ 吉祥天信仰 ~祈りとかたち~」概要

大変失礼ながら、こんな鄙の地のお寺で、専門家による歴史シンポジウムが開催されるということに、意外感を感じたのですが、

「あの、心に残る吉祥天坐像に、またお会いできるのか!」

そんな思いもあり、思い切って、同好の方と、山梨県笛吹市にある福光園寺まで出かけてみることにしたのでした。



【堂々たる威厳さえ感じる吉祥天像~類例のない坐像の吉祥天像】


福光園寺は、笛吹市御坂町大野寺という処にあります。
甲府駅の南東、石和温泉駅から南に5キロぐらいの処で、小高い山の中腹にあります。
車で急な坂を上っていくと、福光園寺の山門が見えてきました。

福光園寺・山門
福光園寺・山門

福光園寺・本堂
福光園寺・本堂

めざす吉祥天像は、収蔵庫の中に安置されているのですが、この日はシンポジウム開催日ということで、収蔵庫の扉が開かれ、自由に拝観させていただくことが出来ました。

福光園寺・吉祥天二天像が祀られる収蔵庫
福光園寺・吉祥天二天像が祀られる収蔵庫

久しぶりの、再会です。
朝から土砂降りだったのですが、到着した午後にはすっかり晴れ、陽光が収蔵庫の中まで降り注いで、吉祥天像のお姿が、ひときわ映えて輝くようです。

福光園寺~主尊・吉祥天坐像と脇侍・持国多門天像
福光園寺~主尊・吉祥天坐像と脇侍・持国多門天像

何といっても印象的なのは、その堂々たる姿です。
「どっしりと・・・、堂々として・・・、雄々しく力強い・・・」
こんな言葉が似つかわしい吉祥天像です。

福光園寺・吉祥天坐像

福光園寺・吉祥天坐像
福光園寺・吉祥天坐像

吉祥天は、本来女神ですから、女性らしい美神のように造られるのが当たり前で、鎌倉時代の吉祥天と云えば、誰もが浄瑠璃寺の吉祥天像のような、まさに美女像を想像してしまいます。

浄瑠璃寺・吉祥天立像(鎌倉時代)
浄瑠璃寺・吉祥天立像(鎌倉時代)

こんなに堂々たる、力強い男性的な(鎌倉の)吉祥天像は、他に観た記憶がありません。

そして、これまたビックリなのは、立像ではなく「坐像」として造られていることです。
坐像の吉祥天像は、図像の中ではそれなりにみられるそうなのですが、彫像で坐像で造られた吉祥天像の作例遺像は、この福光園寺像だけなのだそうです。

福光園寺の吉祥天像は、脇侍に二天像を伴う中尊・主尊として造立されたという、珍しい作例だそうです。

「圧力感がある!」とでも表現するのでしょうか?
吉祥天坐像を眼前に拝すると、女神である吉祥天像なのに、威厳や威力といったような発散パワーを、感じてしまいます。
それが、この吉祥天像の、惹きつける魅力になっているのではないでしょうか。

福光園寺・吉祥天坐像~側面

福光園寺・吉祥天像福光園寺・吉祥天坐像~顔部
福光園寺・吉祥天像~側面部と顔部

モデリングや一つひとつの造形表現をしっかり見ていくと、リアルでダイナミックな表現、絶妙の肉身の抑揚表現といった慶派彫刻の超一流レベルの造形に較べると、もう一歩という印象は拭えません。

私には、この「絶妙の出来ではない」ところが、この吉祥天像に、飾らぬ堂々たる威力を感じさせるのだと思えてくるのです。
そこが、惹きつける魅力と云えるのでしょう。

脇侍の二天像も、なかなかバランスよく整った造形ですが、出来のレベルも、迫力も、中尊・吉祥天坐像には、かなり追いついていないなという印象でした。

福光園寺・持国天像...福光園寺・多門天像

福光園寺・持国天像福光園寺・多門天像
福光園寺・持国天像(左)、多聞天像(右)



【寛喜3年(1231)、仏師・蓮慶作の吉祥天・二天像~概要・解説のご紹介】


ここで、この吉祥天坐像・脇侍二天像の概要を、少しご紹介しておきます。

昭和58年(1983)に、重要文化財に指定されています。
2006年秋に山梨県立博物館で開催された「祈りのかたち~甲斐の信仰~展」解説が、大変コンパクトにまとまっていますので、この解説をご紹介します。

「吉祥天坐像:像高108.8㎝、脇侍・持国天像:像高116.8㎝、多聞天像:像高118.7㎝

福光園寺は、古くは駒岳山大野寺と号し、一時衰退したものの、保元年中(1156~8)領主大野対馬守重包によって再興されたという。

吉祥天を中尊とし、持国天、多聞天を脇侍とした三尊像を構成する。
いずれも檜材の寄木造で玉眼を嵌入する。
制作当初の彩色や載金文様が細部に残る。
吉祥天の像内に残された銘文から、本像は寛喜3年(1231)仏師蓮慶によって制作されたことが知られる。
蓮慶は大善寺十二神将像を手かけた仏師であり、本像はそれに3年ほど遅れた制作となる。

檀越として名を記す三枝氏や橘氏は、当地を基盤とした在庁宮人で、特に三枝氏は大善寺を氏寺とした、古くから勢力を持つ豪族であり、両寺の像を同じ仏師が手かけたことも領ける。
制作年代、作者が明らかな、鎌倉前期の基準作として貴重である。

吉祥天は福徳を司る女神として信仰を集め、奈良時代には鎮護国家、五穀豊穣を祈念する『吉祥悔過会』の本尊として重要な位置にあった。
奈良東大寺法華堂の塑造吉祥天像を最古の遺例として、京都浄瑠璃寺の吉祥天女像などが知られるが、いずれも立像で独尊像である。
本像のように、坐像にして脇侍を伴う形式は他に類が無く、その依拠する所も不明である。
しかし墨書に「二天」と記されることや、それぞれの作風からみても、同時一具の作と考えてよいであろう。」(解説執筆:近藤暁子氏)


吉祥天像の像内に残された墨書銘は、ご覧のとおりです。

福光園寺吉祥天坐像・像内墨書銘
福光園寺吉祥天坐像・像内墨書銘

吉祥天坐像像内膝部に遺る墨書銘~左下に大仏師蓮慶の文字が見える
吉祥天坐像像内膝部に遺る墨書銘~左下に大仏師蓮慶の文字が見える



【大仏師・蓮慶とは?・・・・・奈良にもある蓮慶作像】


さて、像内墨書に記される、制作者、大仏師蓮慶というのは、どういう仏師だったのでしょう。

おそらく慶派の仏師に間違いはなく、この吉祥天像の出来栄えを見ても、相当の技量の仏師であったのでしょうが、その系譜は明らかになっていません。

ご紹介した、図録解説にも記されているように、山梨県甲州市勝沼町にある大善寺の十二神将像の制作者であることが判っています。
近年、十二神将像の解体修理によって、丑神、巳神、酉神、亥神各像の像内に造像銘記として「仏師蓮慶、嘉禄3年(1227)、安貞2年(1228)」などの文言が確認されました。

大善寺・十二神将像~丑神像・蓮慶作大善寺・十二神将像~未神像・蓮慶作
大善寺・十二神将像・蓮慶作~(左)丑神像、(右)未神像

「蓮慶」という名前は、後の時代、「運慶」と取り違えられるというか、間違えられることになったようで、福光園寺、大善寺に関する後世の記録には、どちらの仏像も、作者が「運慶」であると記されてしまっていたのですが、像内墨書の発見などによって、「蓮慶作」であることが明らかになったものです。

この蓮慶作の仏像、偶々、山梨の二つの寺に残されているので、蓮慶は関東在地で活躍した仏師なのかなと思ってしまいそうですが、実は、都、中央の仏師であったようです。

蓮慶の銘のある像は、もう1件、奈良県、吉野水分神社に残されているのです。
絶対に開扉されない御神体、国宝・玉依姫像で知られる、吉野水分神社です。
ここの木造神像4躯に、「嘉禄元年(1225)」の墨書があり、そのうち1躯に「仏師蓮慶」の墨書が膝裏に残されていることから、これらの4躯の神像は、蓮慶作とみられているようです。

吉野水分神社・木像神像~蓮慶作
吉野水分神社・木像神像~蓮慶作

これ以上には、仏師蓮慶の名を伝える史料は残されていないようです。

この福光園寺の堂々たる見事な吉祥天坐像に、仏師・蓮慶の並々ならぬ技量を偲ぶことが出来るのは、嬉しいことです。
この吉祥天・二天像が、山梨の鄙の地ではなく、同じ東国でも鎌倉あたりに遺されていたならば、きっと鎌倉を代表する見事な美仏として、誰でも知っている有名な仏像になったのだろうと思いますし、「仏師・蓮慶」の名も、もっと広く知られることになっていたのではないでしょうか。



【福光園寺に残る、吉祥天かも知れない古像~謎の仏像?】


さて、福光園寺には、重文の吉祥天・二天像の他に、

「吉祥天像かも知れない? かなりの古像かもしれない?」

とも考えられる二つの仏像が遺されています。

私は、今回、再訪するまで、その二つの像の存在を全く知りませんでした。
今回の、「歴史シンポジウム・ 吉祥天信仰 ~祈りとかたち~」の中で、これらの像についてのご説明、言及があり、「そんな像があったのだ」と知りました。

この日は、各堂が開扉され、これらの像を眼近に拝することが出来ました。

その1躯は、石造の吉祥天女像と呼ばれている像です。

福光園寺・石造吉祥天女像福光園寺・石造吉祥天女像
福光園寺・石造吉祥天女像

50~60センチぐらいの、丸彫りの石像です。
残念なことに、かなり損耗して像容がはっきりしません。
本堂の一角に祀られていました。

もう1躯は、香王観音像と呼ばれている木彫像です。

福光園寺・香王観音像~吉祥天像か?

福光園寺・香王観音像~吉祥天像か?福光園寺・香王観音像~吉祥天像か?
福光園寺・香王観音像~吉祥天像か?

境内の、観音堂に祀られています。
像高は139.4センチ、内刳りのない一木彫のようです。県指定文化財に指定されています。
この像も相当朽損していますが、平安期の像であることに間違いありません。
平安中期以前に遡る可能性がある古像ではないでしょうか?
お寺では、香王観音像と呼ばれていますが、像容は天部形をしており、もともとは観音像ではなかったようです。



【3躯の古像は、奈良時代以来の吉祥悔過に因む吉祥天像なのか?】


シンポジウムでの講演では、

福光園寺は「吉祥天の寺」とも称してもよい寺院で、石造・吉祥天像、一木彫・香王観音像、吉祥天・二天像は、福光園寺の創立以来の歴史のそれぞれの時代々々に、吉祥天像として造立され祀られてきたものではないだろうか?

というお話がありました。

福光園寺の歴史を振り返ってみると、このように云われています。

寺伝では、聖徳太子創立、行基行脚滞在、弘法大師空海滞在などの由緒が云われているようですが、創建時については全く不明のようです。
「甲斐国志」によれば、古くは駒岳山大野寺と号したが、その後一時廃絶し、保元年中(1156~8)に賢安上人を中興開山として、領主大野対馬守重包により再興されたと伝えられています。

シンポジウム基調講演「吉祥天の寺・福光園寺の歴史」を行った、室伏徹氏(甲州市教育委員会)からは、福光園寺の歴史と三つの吉祥天像?について、このような見方のご説明がありました。

8世紀半ばに創建された甲斐国分寺が、平安時代に衰微していく過程で、福光園寺は大善寺(甲州市勝沼)に相対する寺院として国衛近傍に開創された。

甲斐国分寺址史跡
福光園寺の近郊にある甲斐国分寺址史跡

本来、国司、国分寺が担っていた、吉祥悔過・薬師悔過を、この両寺に分担させたものと考えられる。
当初から「吉祥天の寺」として出発した福光園寺は、その後、在庁官人三枝氏の庇護を受け、伊豆山神社の開創者、竹居賢安とも深く関わりながら独自の発展を遂げていく。

現在、福光園寺に残されている三つの吉祥天像は、こうした歴史の中で、時々の吉祥悔過に由来する古像の可能性がある。

・石造・吉祥天像は、奈良~平安時代の吉祥天像。

・一木彫・香王観音は、この石像に代わって9世紀ごろに制作された吉祥天像。

・蓮慶作吉祥天・二天像は、平安末期再興以降、在庁官人三枝氏の庇護のもとに制作された吉祥天像

このように、考えることが出来るのではないだろうか?

というお話がありました。

もし、遺された三つの吉祥天?像が、本当に「吉祥天の寺の吉祥悔過の本尊」として、奈良時代以来受け継がれてきた像だとすれば、大変な驚きというか、興味深い遺産だと思います。
ただ、そのように見做すというには、ちょっと根拠が弱いかなとも感じました。
でも、大変ロマンあふれる話です。


また、「福光園寺における吉祥天の造像と信仰」という講演を行った、海老沢るりは氏(三井記念美術館・学芸員)の説明では、室伏氏の仮説には、慎重なコメントのようでしたが、

石造・吉祥天像の制作年代は、損耗した現況からは、何とも言えるものではなく、古いとも新しいとも判断できない。

一木彫・香王観音像は、経典、作例等から見てみると、観音像として制作されたものではなく、天部形像として制作されたのであろう。
制作時期は、平安中期頃ではないかとみられ、像容から類推すると、広隆寺・吉祥薬師像、薬薗寺。吉祥薬師像などの天部形像の系譜にある像の可能性も考えられる。

というお話がありました。

広隆寺・勅封吉祥薬師立像(平安前期)薬薗寺・吉祥薬師立像(平安前期)
広隆寺・勅封吉祥薬師立像(左)、薬薗寺・吉祥薬師立像(右)~共に平安前期

現在の、蓮慶作・吉祥天像が、吉祥天の姿のイメージに似合わぬ、堂々と威厳あふれる姿に造られている背景には、福光園寺が「古代からの吉祥悔過を担う寺」としての歴史があり、その主尊として造立された所以なのかもしれないと、勝手にイメージを膨らませてしまいました。



【福光園寺主催の歴史シンポジウム~地方の歴史文化研究への素晴らしい取り組み】


このシンポジウム「吉祥天信仰 ~祈りとかたち~」、お寺の広間を会場に使ったものだったのですが、地元の郷土史愛好家の方々をはじめ、3~40人ほどでしたか、多くの方が参加されていました。

福光園寺・歴史シンポジウム開催風景
福光園寺・歴史シンポジウム開催風景

冒頭にもふれましたが、こんな鄙の地のお寺で、どうしてこんな専門的シンポジウムが開催されるのだろうかと、不思議に思ったのですが、実は、今回が、なんと第3回目ということなのです。

「大野山福光園寺・歴史シンポジウム」と称して開催されており、

第1回:2014年6月「古代甲斐と馬~『甲斐の黒駒』をめぐって~」
第2回:2015年2月「古代甲斐と官道~東海道『甲斐路』をめぐって~」

に続く、第3回ということだそうなのです。

福光園寺の、若い副住職の方が、歴史文化の研究、地域振興などに大変熱心な方で、市の教育員会などと連携して、シンポジウムの連続開催などを推進されているようなのです。

是非、こうした地域での意欲的な歴史文化研究の取り組みが、長く続き、より盛り上がっていくことになれば、本当に意義深く、嬉しいことだと心より感じました。


シンポジウム終了後、収蔵庫に差し込む夕陽の朱に染まるように、輝くように映えて坐す吉祥天像の姿を拝し、その魅力に再び心撃たれながら、福光園寺を後にしました。




2.満願寺の十一面観音立像~ずっしりとした存在感の平安古像


この日、同じ笛吹市にある、満願寺・十一面観音像を拝しに訪れましたので、ごく簡単にご紹介しておきたいと思います。

満願寺には、平安中期、10世紀頃の制作と云われる十一面観音像が遺されています。
像高169.6㎝、ケヤキ材の一木彫で、県指定文化財に指定されています。

満願寺・十一面観音立像
満願寺・十一面観音立像

山梨県では珍しい、平安中期以前に遡る可能性のある古像です。
かつて、「祈りのかたち~甲斐の信仰~展」(2006年、山梨県立博物館開催)で、観たことがあるのですが、今回は現地まで訪れてみました。

市の教育委員会を通じて、拝観をお願いしました。

満願寺は、笛吹市一宮町竹原田という処にあり、かつて甲斐の国の国衙があった近くに位置しています。

ご覧の通りの、立派な平安古仏です。

満願寺・十一面観音立像

満願寺・十一面観音立像

満願寺・十一面観音立像満願寺・十一面観音立像
満願寺・十一面観音立像

ちょっと土臭い地方作の雰囲気はするのですが、ずっしり骨太でボリューム感充分な造形です。
ケヤキ材の一木彫という感触が、そのまま目に映るという印象で、きっと大変重たいのだろうなという重量感を強く感じます。
頭上の十一面は失われ、お顔には後世の手が入っているようで、眼は玉眼に改変されています。
また、後世の彩色、金泥が塗られているなど、当初の姿を偲ぶには、ちょっと残念なのですが、平安前中期の空気感をしっかり漂わせています。
ボリュームあふれる体躯の割には、渦文を残す衣文の彫りは意外と浅く、身体に張り付いたような衣文線の表現になっています。
若干、時代が下がるのかもしれません。

「ずっしり存在感を感じる観音様」

そんな印象が残っています。

この観音像、お堂の中に祀られているのですが、お寺のお堂という建物ではなくて、簡素な民家という感じの建物です。

満願寺のお堂満願寺のお堂
民家のような満願寺のお堂

満願寺・十一面観音像の安置の様子
満願寺の堂内の十一面観音像安置の様子

ご案内いただいた管理されている方にお伺いすると、この観音像をお守りするために、地域の檀家でお金を出し合って建てたお堂なのだそうです。

「その檀家も、今は3軒しかないのですよ。」

というお話をお聞きしました。

地元で、貴重な文化財を大切に守っていくことの大変さ、厳しさというのを、今更ながらに痛感しました。
三軒の檀家さんだけで、この観音様を守っておられることに、本当に頭が下がりました。



今回は、山梨の地のあまり知られない名像、福光園寺・吉祥天像と歴史シンポジウムのお話と、満願寺・十一面観音像探訪のご紹介をさせていただきました。