観仏日々帖

古仏探訪~埼玉・浄山寺の地蔵菩薩像~重要文化財に新指定  【2016.3.26】


埼玉・浄山寺の地蔵菩薩像が、この3月11日の文化財審議会の答申で、重要文化財に指定されることが決定しました。
(新指定・国宝重要文化財となる仏像については、神奈川仏教文化研究所・特選情報「平成28年新指定・国宝重要文化財答申」で、ご紹介しています)

実は、この重文指定決定直前の2月に、越谷市にある浄山寺・地蔵菩薩像の観仏に訪れたのです。
その観仏探訪記をご紹介したいと思います。

まずは、仏像の写真をご覧ください。

浄山寺・地蔵菩薩立像

浄山寺・地蔵菩薩立像
浄山寺・地蔵菩薩立像

答申では、平安時代の制作で、
「9世紀前半に遡る可能性が考えられる。」
とされています。



【重要文化財に新指定? 突然知ったビックリ情報に、急遽訪ねた秘仏御開帳】


この浄山寺・地蔵菩薩像の存在を知ったのは、去年のことでした。

NETを見ていると、

「木造地蔵菩薩立像が県文化財に・浄山寺、平安初期のもの」(東武よみうりWEB・2016.3.16)

という見出しの新聞記事を見つけたのです。

「平安初期の地蔵菩薩、そんなの埼玉にあるのだろうか?これは必見!!」
と、しっかりマークしたのでした。

秘仏で、毎年2月・8月の24日、年2回の御開帳ということです。

ただ、県指定文化財になったこともあり、
「来年、開基1155年の記念の年なので、来年(2016)2月24日から、1年間公開し、多くの方に見てもらいたい。」
と、ご住職が語っていると記事に書いてありました。

それなら、今年のいずれかの時期に観仏に行けば良いと思っていたのです。
今年のご開帳予定の確認に、浄山寺さんにTELしてみたのが、2月20日頃のことでした。

ところがです。
「今年1年間のご開帳は、取り止めになりました。
2月の24日には、いつも通り開帳いたしますが、その後のことはよく判りません。」
とのお話です。

あれっ!話が違うなと、その訳をお尋ねした処、
「まだ、未定なのですが、文化財指定となるかもしれないので・・・・・・」
ということです。
「文化財指定? 去年、県指定になったばかりじゃないか、その間違い?」
と思って、よくお聞きしてみると、
「国の重要文化財に指定される可能性があって云々・・・・」
ということなのです。
「本当なのだろうか?」
と、一瞬信じ難く、またビックリしてしまいました。

去年、無指定から県指定になったばかりです。
それが重要文化財指定となると、超々スピード出世の仏像で、これを見逃すわけにはいきません。
慌てて、2月24日のご開帳に、急遽駆けつけることにしたのでした。



【越谷市郊外にある古刹、野島地蔵尊・浄山寺~貞観2年(860)創建の伝承】


同好の方、数人に声をかけて、出かけました。

浄山寺は、東武線越谷駅からバスで25分ほど、越谷市野島というところにあります。

地元では、野島地蔵尊「子育て地蔵」として知られているようです。
バス停から田園風景のなかを5分ほど歩くと、山門が見えてきます。
葵の御紋の幕が掛けられています。

葵の御紋の幕が張られた浄山寺・山門
葵の御紋の幕が張られた浄山寺・山門

浄山寺境内と本堂
浄山寺境内と本堂

浄山寺は、江戸時代、徳川家康が鷹狩に来た際、寺領300石の御朱印状を与えようとしたところ、時の住職が過分であると断ったため、鼻紙に3石と記載した朱印状(鼻紙朱印状と云い現存しています)を与えられたと伝えられます。

浄山寺に残されている徳川家康の鼻紙朱印状
浄山寺に残されている徳川家康の鼻紙朱印状

天台宗慈福寺と号していましたが、以来、寺名を浄山寺と改めたということです。
それで葵の御紋の幕が張られているのでしょう。
創建は貞観2年(860)、慈覚大師の開山と伝えられます。

浄山寺の歴史については、越谷市のはなし「越谷市の古刹・野島山浄山寺」というHPをご参照ください。
お寺の縁起から江戸時代の出開帳の有様など、今日に至るまでの歴史が、豊富な資料図版と写真とともに大変詳しく判りやすく記されています。

地蔵菩薩像の重文指定についてもふれられています。



【眼近に、秘仏・地蔵菩薩像をご拝観~まとまりの良い、平安の一木彫像】


早速、本堂に上がってご拝観です。

お参りに来た地元の皆さん方で賑わっていましたが、この平安の地蔵菩薩像を目指して、遠路、観仏にやってきたのは、我々ぐらいのようでした。
地蔵菩薩像は、本堂拝殿の壇上の厨子の中に祀られています。

浄山寺本堂の厨子に祀られる秘仏・地蔵菩薩像
浄山寺本堂の厨子に祀られる秘仏・地蔵菩薩像

壇上まで階段を上がって、厨子の眼近で、じっくり拝することが出来ました。

厨子内の地蔵菩薩像
厨子に祀られる秘仏・地蔵菩薩像

像高は、91.2㎝。カヤ材とみられる針葉樹の一木彫で、内刳りはありません。

なかなか出来の良い仏像です。
この完成度は、平安前期に関東・武蔵の地で造られた仏像とは到底思えません。
きっと畿内で造られ、当地にもたらされた像なのではないでしょうか。
これほどの仏像が、埼玉・越谷の地に遺されているというのは、ビックリというところです。

浄山寺・地蔵菩薩像浄山寺・地蔵菩薩像

浄山寺・地蔵菩薩立像
浄山寺・地蔵菩薩立像

第一印象は、平安前期の一木彫像としては、穏やかで、まとまった造形という感じです。
平安前期の一木彫像というので、もっとパワフルだとか、厳しさ、鋭さを感じさせるのかなと予想したのですが、むしろ「落ち着いた空気感」を強く感じる像です。

全体として、ふっくらした造形で、とりわけ頭部の丸みを帯びた処、お顔の目鼻立ちの穏やかさ(後の手が入っているのかよく判りません)が印象的です。

浄山寺・地蔵菩薩立像~顔部浄山寺・地蔵菩薩立像~顔部
浄山寺・地蔵菩薩立像~顔部

胸から脚部にかけての衣文表現も、厳しいく鋭い鎬を立てるのではなく、少し丸みがあり、これまた穏やかな造形です。
そのあたりにウェイトをおいて観ていると、
「出来は良い像だが、9世紀、平安前期なのだろうか?
もう少し時代が下がって、10~11世紀のような気分もするけれども・・・・・・」
というようにも見受けます。

ところが、両側面の衣文の表現、造形を見ると、そんな気分が、がらりと変わってしまいます。

浄山寺・地蔵菩薩立像~胸から脚部の造形浄山寺・地蔵菩薩立像~衣文の造形
浄山寺・地蔵菩薩立像~体部と衣文の造形

深くダイナミックに彫り込んだ、抑揚充分な表現です。
「この躍動感、ダイナミックさは、平安前期らしい雰囲気といってもよいかも。」
と、唸ってしまいます。
斜めから見た側面の衣文表現が、この像の魅力です。
9世紀に遡る制作と考えられるキーポイントかも知れません。

この両側面の衣文表現、
「やや煩雑でうるさく、わざとらしい感じがしないでもない。」
という感想が、同好の方の声にありましたが、皆さんどのように感じられたでしょうか?

個人的には、
「9世紀前半は、ちょっと厳しくて、10世紀に入って暫らくしてからぐらいの制作ではないだろうか?」
根拠はあまりないのですが、そんな雰囲気を感じました。

いずれにせよ、古代武蔵の地、鄙には稀な、出来の良い平安古仏を拝することが出来ました。



【これまで、全く注目されていなかった、浄山寺・秘仏地蔵菩薩像】


これだけの平安古仏、どうしてこれまで全く注目を浴びなかったのでしょうか??

この地蔵菩薩像、江戸時代には、何度も江戸市中・湯島神社などで出開帳されるなど、昔から世に知られた地蔵尊であったようです。
ただ、古来秘仏として守られていたようで、近年では、2月24日と8月24日に、厨子が開かれ、土地の人々に参拝されていました。
明治以降も、秘仏ということで、文化財調査などが行われることは無かったようなのです。

多分、それほど古い仏像ではないのだろうとみられていたのだと思います。
1977年に発刊された、越谷市仏像調査報告書(越谷市教育委員会刊)の野島浄山寺の項には、このように記されています。

「古くから信仰のあつかった本尊地蔵菩薩は、現在秘仏とされているため、調査の際写真撮影や法量測定を中止し、燈明及び小さな懐中電灯で特に拝見させていただいた。
像は木造で像高1メートル程の一木造とも見えるがっしりとした体躯の像である。
彩色は極めてよく残っているのは秘仏のためであろうか。
時代は室町期を遡るとは考えにくいが、詳細は機会を改めたい。」

写真撮影も許されない秘仏だったようですが、調査した人の眼には「時代は室町期を遡るとは考えにくい」と映ったようなのです。



【無指定から超スピード出世で重文指定へ~埼玉県最古の木彫像発見のいきさつは?】



≪東日本大震災での仏像破損が、新発見のきっかけに≫

その仏像が、平安古仏のようだと注目を浴びたのは、4年前、2012年のことでした。

2011年3月の東日本大震災によって、両足を台座に固定するホゾなどが壊れたのです。
2011年8月の開帳時、厨子を開けると、仏像が前のめりになっていました。
姿勢を戻したのですが。翌年2月の開帳で厨子を開けると、今度は、ほぼ倒れた状態だったそうです。

櫻庭裕介氏
櫻庭裕介氏
そこで「仏像の修理」を実施することとなり、修理には早稲田大学・講師の櫻庭裕介氏が当たることになりました。
ご住職のお話によれば、
「教育委員会に相談したら、ちょうど櫻庭先生が当地で修理をされているので、ご紹介しましょう。」
ということになったそうです。

解体修理に当たった櫻庭氏は、
「本像は、平安前期の制作像に違いない。」
と判断しました。

教育委員会も調査に乗り出し、「埼玉最古の平安古仏発見」と、にわかに注目を浴びることになったのです。
当日、お目にかかったご住職は、
「大震災で、仏像が破損することがなかったら、平安時代の仏像だと発見されることは無かったはずで、何が縁となるのかはわからないものですね。」
とおっしゃっていました。


≪とんとん拍子の超スピード出世で、重要文化財指定へ≫

そして昨年、2015年3月、埼玉県指定文化財に指定されるようになったのです。
埼玉県では、これまで、毛呂山町の桂木寺・如来坐像が、10世紀中後半の制作とされ、県内最古の木彫仏とされていました。

桂木寺・如来坐像桂木寺・如来坐像
桂木寺・如来坐像(平安時代・県指定文化財)

浄山寺・地蔵像の発見によって、本像が埼玉県最古の木彫仏像となったことになります。

目出度く県指定文化財となり、通常ならば、これで一段落という処なのでしょう。
ところが、そうではなかったのです。

ご住職のお話では、
「去年、文化庁の奥さん(奥健夫氏:美術学芸課・主任文化財調査官)と、井上さん(井上大樹氏:美術学芸課文化財調査官)が、この地蔵様の調査に来られて、その後、国の重要文化財指定へという話になっているのですよ。
このご開帳が終わると、3月からしばらく地蔵像を、文化庁にお預けする予定になっているのですよ。」
とのお話でした。

無指定から、県指定後、翌年、即座に国の重文指定というのは、めったにあることではないのかと思いますが、間違いのない話のようです。

果たして、3月12日の新聞で、「浄山寺・地蔵菩薩像、重要文化財指定へ・・・」と報道され、無指定から超スピード出世の仏像となったのでした。



【浄山寺・地蔵菩薩像の制作年代は9世紀? 地蔵菩薩の重要な現存古例?】


さて、この浄山寺の地蔵菩薩像、専門家の眼では、どのような像とみられているのでしょうか?
制作年代、造形についてコメントされている資料を調べて、ピックアップしてみました。

この像の発見者、櫻庭裕介氏は、本像の調査研究結果報告を行い、制作年代等について、以下のようにコメントしています。

「浄山寺像は、貞観2年に円仁が制作したとの伝承がある。
これを踏まえて細部をみれば、平安時代前期に多用された衣文表現、全体に太づくりにして量感を強調していること、さらにカヤの一木造などの点から、伝承に近い9世紀後半の制作として違和感はない。
日本における地蔵菩薩信仰は9世紀から盛んになったとされている。
制作時期が確実な作例としては京都・広隆寺講堂の地蔵菩薩坐像が挙げられ、9世紀中頃の作例とみられている。

広隆寺講堂・地蔵菩薩像
広隆寺講堂・地蔵菩薩像

これを中心として、各地に9世紀制作の作例が存在する。
浄山寺像は関東地方に残る9世紀の地蔵菩薩の作例として、その価値は大きい。
浄山寺像は朝廷から遠く離れた地に伝えられた作例であるが、近畿地方の作例に比肩するほどの水準でもってつくられた。
もちろん作者が畿内か土着の仏師であるかという問題はあるものの、関東における当時の仏像制作事情に一考を迫るきわめて貴重な作例といえよう。」
(早稲田大学奈良美術研究会「国際シンポジウム~文化財の解析と保存への新しいアプローチⅫ」での調査報告 2015年9月)

浄山寺・地蔵菩薩像~側面浄山寺・地蔵菩薩像~側面
浄山寺・地蔵菩薩像~側面


本像を、県指定文化財に指定した、埼玉県文化財保護審議会委員の林宏一氏(元埼玉県立博物館長)のコメントは以下の通りです。

「内刳のない丸彫りによる一木彫成の技法、ズングリとした重厚感ある立体構成、天平彫刻の余風を伝えて調子強く端正に彫り付けられた衣文表現、髪際線の特徴ある波形表現等に平安初期―木彫刻の特色が強く表れており、大らかで健康的な造形は奈良木彫の伝統を覗わせる。
作風の特色から9世紀にさかのぼり、縁起に説く貞観2年(860)は一つの目安となる。
現在のところ武蔵最古の木彫仏といえる。」
(越谷市郷土研究会50周年記念歴史講演会・講演レジュメ「浄山寺のお地蔵さま」2015.10.17)


そして、今回の重要文化財指定の文化財審議会・答申の解説は、次の通りです。

「野島地蔵尊として知られる古刹の秘仏本尊として伝えられた地蔵菩薩像。
肉付豊かな体軀,深く鋭い衣文表現に平安前期の特色をよく見せ,定型化されない彫り口から9世紀前半に遡る可能性が考えられる。
奈良笠区薬師如来像(重要文化財)と作風が類似し,畿内よりもたらされたと推定される。
当代の優品であり,また地蔵菩薩像の屈指の古例としても重要である。」


この3つのコメントに共通するのは、本像の制作が、「9世紀にさかのぼる可能性がある」と、指摘していることです。
造形表現の捉え方などには、それぞれニュアンスの違いがありますが、9世紀の制作ということでは、一致しています。
文化財審議会の答申では、9世紀前半の可能性まで言及しています。
そうなると、慈覚大師円仁が浄山寺(元慈福寺)を開山という伝承、すなわち貞観2年(860)当時の制作が、イメージされてくるのです。

わが国で制作年代が判明している最古の地蔵菩薩像の現存例は、広隆寺講堂の地蔵菩薩で、道昌の願により承和3年(836)から貞観4年(862)に造立されたとされています。

広隆寺講堂・地蔵菩薩像
承和3年(836)から貞観4年(862)に造立された広隆寺講堂・地蔵菩薩像

浄山寺・地蔵像は、我が国の現存地蔵像の最古作例に比肩する、きわめて貴重な地蔵像ということになるのです。
文化財審議会・答申でも
「地蔵菩薩像の屈指の古例としても重要である。」
と、この点が強調されています。

また、9世紀の制作にさかのぼるとみられる事由としては、

・深く鋭い衣文表現に平安前期の特色がみられること
・肉付豊かで、太造り、重厚感ある体躯の造形

があげられています。



【9世紀か、10世紀以降か? 迷ってしまう私の直感的印象】


「うーん、9世紀、それも半ばごろの制作?」

そんな独り言を、ブツブツ呟いてしまいしまいそうな気分になりました。

所詮、素人のフィーリングなのですが、私の感覚的には9世紀半ばというのは、ちょっとしっくりこないのです。
冒頭にも書きましたが、眼近に拝したときの私の直感的印象は、10世紀以降の制作かなというものでした。

奈良時代彫刻の余韻を色濃く残したようにも、平安初期彫刻の鋭角的な厳しさとも、ちょっと違うような感じがしました。
「大人しくまとまっている」とでもいうのでしょうか?
落ち着きと、ふくらみある穏やかさの方が、私の眼には印象的に残ったのですが・・・・・・
皆様方は、写真図版をご覧になって、どのような印象を持たれたでしょうか?

文化財審議会・答申には、
「奈良笠区薬師如来像(重要文化財)と作風が類似し,畿内よりもたらされたと推定される。」
と、述べられていました。

これまた、私の印象とはずいぶん違うのです。
自分の仏像を見る眼に、ちょっと自信がなくなってきました。

奈良笠区・薬師如来像というのは、桜井駅の北東5~6キロの山中に祀られる仏像です。

笠区・薬師如来立像

笠区・薬師如来立像~頭部
笠区・薬師如来立像と頭部

この薬師像を拝したとき、その圧倒的な見事さに、のけぞりそうになりました。
「まさに、平安前期彫刻の優品といって過言ではないだろう。
のびやかで鋭く深い衣文の彫口は、力強く見事というほかなく、全体として完成度の大変高い傑作だ。」
このような、強い印象が残っています。

笠区・薬師如来立像~体部笠区・薬師如来立像~衣文
笠区・薬師如来立像の鋭く力強く伸びやかな衣文表現


浄山寺・地蔵菩薩像~ダイナミックで粘りある衣文浄山寺・地蔵菩薩像~ダイナミックで粘りある衣文
浄山寺・地蔵菩薩像の衣文表現

たしかに、浄山寺・地蔵像の両側面の衣文の、ダイナミックで抑揚ある衣文表現と類似する処はあるとは思うのですが、全体として発散する空気感が、随分と違うように感じます。
笠区・薬師像の方が、はるかに力強く迫力ある造形のように思えてしまうのです。

その笠区像も、造形としては、量感も少し和らぎ、まとまりも良いことから、10世紀に入ってからの制作ではないかとみられているようです。
浄山寺像は、笠区像に較べると、衣文の彫口も、体躯の造形も、穏やかで落ち着きもあり、伸びやかさ、力強さが薄れて小ぢんまりした造形のように感じてしまうのです。
「この笠区像より、浄山寺像の方が、かなり古い制作とみられる。」
といわれると、
「まだまだ、自分の仏像の見る眼が養われていないのかな?」
と、やや情けない気持ちになってしまいました。


そこで、もう一度、深呼吸をしっかりして、心落ち着けて、虚心に浄山寺・地蔵像の写真をじっくりとみてみました。

浄山寺・地蔵菩薩像
浄山寺・地蔵菩薩像

そうすると、実際に、眼近に地蔵像を拝したときの、実感のフィーリングよりも、確かに古様な造形のように見えてきたのです。
「9世紀の古像」という気持ちになって写真を見ると、全体のふくよかなボリューム感、ねっとりと粘りがあり、躍動感ある衣文の表現など、それぞれが古様に見えてくるのです。

写真で見た方が、実見したときよりも、9世紀の造形感を強く感じるように思えます。

「奈良様の伝統を残した9世紀の木彫像」

そう言われると、そんな気分になってきたのも事実です。

第一印象の直感を大切にすべきでしょうか?
拡大写真などをじっくりと眺めた、造形感を大切にすべきでしょうか?

まだまだ修行が足りないなと反省しつつ、是非この地蔵像を、もう一度じっくりとみてみたいものだと思った次第です。


いずれにせよ、「埼玉県最古の平安・木彫像の新発見」となった、浄山寺の地蔵菩薩像です。
地蔵菩薩像の、我が国最古の現存作例に比肩される可能性ある、地蔵菩薩像でもあります。
今回の、新指定重要文化財となる仏像の中でも、最も注目される像ではないかと思います。


本像は、毎年恒例で東京国立博物館で開催される、「新指定国宝・重要文化財展」で、展示される予定です。
開催期間は、2016年年4月19日(金)~5月7日(土)となるようです。


皆さん、是非、お出かけいただいて、眼近にご覧ください。
私も、もう一度、じっくり見てみようと思います。



新刊・旧刊案内~「仏師たちの南都復興」 塩澤寛樹著  【2016.3.12】


久々に、興味津々の本に遭遇しました。
面白いというよりは、知的興奮を刺激される内容で、読み始めると止まらなくなってしまいました。
一気呵成に、読んでしまいました。


「仏師たちの南都復興~鎌倉時代彫刻史を見なおす」塩澤寛樹著
2016年2月 吉川弘文館刊 【304P】 3800円

仏師たちの南都復興


新刊本を、書店で手に取ると、カバーには、このようなキャプションが書かれていました。

「平氏一門によって一夜のうちに灰燼に帰した南都(興福寺・東大寺)は、誰の手によってどのようにして復興されたのか。
朝廷・摂関家・幕府・寺家それぞれの思想や意図を明らかにするとともに、多くの作例から復興造像と仏師たちの関連性を探る。
造像の担い手を運慶ら慶派中心で論じる従来の学説に一石を投じ、新たな鎌倉時代彫刻史の地平を広げる。」


「造像の担い手を、運慶ら慶派中心で論じる従来の学説に一石を投じ・・・・」か?

「これは面白そうだ」

と、値段が少々高めでしたが、早速購入したのでした。



【鎌倉時代造像は、「慶派・新様式の独壇場ではなかった!」という問題提起】


結論から先にご紹介しましょう。

塩澤氏は、本書で次のような新たな問題提起をしているのです。
塩澤寛樹氏
塩澤寛樹氏


・これまでの鎌倉彫刻史の語り方は、一般には、
治承の兵火で焼亡した南都の復興造像に際し、運慶、快慶らの活躍により慶派が、一気に主役の座にのし上がり、その中で鎌倉彫刻の新様式が完成され、それを基盤として慶派が鎌倉時代の造像界に覇を唱えた。
とされている。

しかしながら、実のところは、そういう訳でもなかったというのが実態である。

・鎌倉時代の造像は、慶派の一人勝ちでも、誰もが慶派の新様式の仏像になびいたというわけでもない。
当時の造像は、院派、円派、慶派の正系三派体制の下で行われていた。
南都復興造像においても、都の造像に倣い、きっちりと正系三派体制の原則は守られていて、慶派のみが、圧倒的優位に立ったというようには考えられない。

・現代では、運慶、快慶を代表選手とした鎌倉新様式に、評価のスポットライトがあてられ、
「鎌倉彫刻≒慶派の時代」
であったかのように受け止められがちである。

・しかし、よく検証してみると、鎌倉時代の造像界は、
「伝統様式の延長線の院派、円派」と、「新様式の慶派」の三派が、
諸寺の造像を鼎立してシェアするという、正系三派体制が守られていたというのが、現実の姿であった。


以上のような、考え方、問題提起です。
この見方、考え方、皆さん如何でしょうか?

鎌倉時代彫刻に造詣の深い方々には、この話、それほどの驚きでも、何でもないのかもしれません。
鎌倉彫刻にはなじみが薄く、苦手分野の私には、本当に「ビックリポン」の話でした。

「鎌倉時代の彫刻と云ったら、運慶、快慶でしょ!
南都復興造像以降は、慶派の一人勝ちの時代じゃなかったの?

慶派は、ダイナミックな新様式で新風を吹き込み、鎌倉幕府の後ろ盾もあって、慶派全盛の時代になっていったと、美術史の本に書いてあったと思うのだけれど?」

これが、私の、素直な鎌倉時代彫刻のイメージです。
この塩澤氏の本は、そんな私の既成概念を打ち砕くような、インパクトを感じさせるものだったのです。


それでは、もう少し詳しく、本書における塩澤氏の考え方を、ご紹介していきたいと思います。


≪本書の構成~目次のご紹介≫

主要目次をご覧ください。

仏師たちの南都復興・目次1
仏師たちの南都復興・目次2

ご覧のとおり、南都復興の経過と、それに伴う興福寺、東大寺の仏師選定について詳しくたどり考証し、これを踏まえた「南都復興の造像世界」をどのように評価すべきかといった流れの内容になっています。

この話を順にたどっていくと、大変なことになってしまいますので、詳しくは本書を読んでいただくことにして、私が興味津々だったポイントだけ、ご紹介しておきたいと思います。



【院・円・慶派の正系三派体制で進められた南都復興造像
~慶派主役という定説への疑問?~】

まずは、「南都復興造像を契機に、慶派が主役の座に躍り出た」というのは、本当なのか?
というテーマについてです。


≪南都復興造像担当仏師の一覧と、慶派の独壇場という定説≫

本書に掲載されている、

「東大寺・興福寺主要堂宇における、主な造像の担当仏師一覧」

をご覧ください。

南都復興造像・堂塔別担当仏師一覧

この一覧をざっと眺めてみると、慶派、院派、円派、それぞれの名前が見られますが、康慶、運慶、快慶、定覚といった慶派の仏師の名前が、かなり多いように思えます。

「南都復興造像は、やっぱり、慶派が主流、主役だったということで、間違いないのじゃないの?」

そのように見えてくるのです。

鎌倉彫刻史の権威として著名であった毛利久氏は、

「南都復興で、慶派が主役に躍り出た」

とし、それ以降についても、

慶派の京都京都拠点・七条仏所址
慶派の京都京都拠点・七条仏所址
「建久9年(1198)から翌年にかけて、院尊と明円があいついで死去したころに、運慶一派が南都(奈良)から大挙して京都に出てきた。
京都の造像界でも、古いものから新しいものへの交代が行われたのである。

運慶は、京都の七条に仏所を設けたので七条仏所とも呼ぶようになった。
運慶及びその流派はもちろん、快慶派の仏師も、京都を中心として盛んな制作活動を繰り広げた。
世はまさに慶派全盛の時代となったのである。」
(日本の美術・第11巻「運慶と鎌倉彫刻」1964年平凡社刊)

このように述べています。


塩澤氏は、こうした
「南都復興を契機として、慶派が鎌倉彫刻の主流となっていく」
という従来の論説、すなわち定説を集約すると、
概ね、次のように語られると本書で述べています。

鎌倉時代彫刻の新様式は、運慶・快慶らの慶派によって完成、推進された。
南都復興初期には守旧派の院・円両派も未だ参加しているが、東大寺大仏殿内諸像の頃、ないし院尊・明円の没を境に、以後は運慶ら慶派の独壇場となる。
つまり、南都復興は彼らの飛躍の舞台となり、同時に鎌倉彫刻における新様式を推進させる舞台ともなり、以後の鎌倉時代彫刻では慶派が覇を唱えるに至る。
そして、慶派が培ってきた奈良古典の学習や南都復興における古像復興という性格が、復興造像(ひいては鎌倉時代彫刻)に天平復古という性格をいっそう強く植え付けることとなった。

私も、その通りだと思います。



【本書の問題提起~実は慶派の独壇場ではなかった、南都復興造像】


ところが、塩澤氏は、この定説に大いなる疑問を抱き、新たな問題提起をしているのです。


≪4期に区分して、仏師分担を検証してみると~守られている正系三派体制≫

南都復興造像は、実際には、慶派の独壇場であったのではなくて、4期に分けて検証してみると、どの時期においても、造像分担は

「院派、慶派、円派の正系三派体制分担の原則」

に則っていると論じているのです。


本書でいう「南都復興の4期」というのを、一表にしてみると、以下の通りです。

南都復興造像の4期の区分

塩澤氏の担当仏師の検証、問題提起が判りやすくなるように、先にご紹介した、本書掲載の「主な造像の担当仏師一覧」を、勝手に加工してみて、この4期別に分けて、三派を色分けした一覧表をオリジナルで作ってみました。

南都復興造像・4期区分した堂塔別担当仏師一覧1
南都復興造像・4期区分した堂塔別担当仏師一覧2

この一覧表をご覧いただきながら、本書、塩澤氏の考え方をご紹介したいと思います。


≪興福寺復興造像推進は、正系三派のバランス分担~筆頭、格上は円派≫

まず第1期、
興福寺復興の仏師担当が決められた時期です。
この時は、金堂・明円、講堂・院尊、食堂・成朝、南円堂・康慶、南大門・院実、それぞれこのような担当となりました。
正系3派、院派、円派、慶派にバランスよく担当が割り振られており、中でも最も重要な金堂造像は、明円・円派が担っている、としています。


≪東大寺復興造像は、院派、慶派の拮抗分担~格上は院派か??≫

第2期は、
興福寺では、第1期で計画された復興造営が、本格的に進められました。
東大寺では、鋳造修像された大仏の大仏殿を建立し、大仏光背と堂内諸像6躯、中門二天像、南大門金剛力士像と、巨像10躯が造立された時期です。

東大寺大仏殿・虚空蔵菩薩像(江戸時代制作像).東大寺大仏殿・多門天像(江戸時代制作像)
東大寺大仏殿内の巨像~虚空蔵菩薩像(左)、多門天像(右)~共に江戸時代制作再興像

東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作).東大寺南大門・金剛力士像(吽形像)
東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)


◆慶派独壇場論の拠り所となったのは、大仏光背制作(院派)の過小評価

一般には、この東大寺の大仏殿内諸像等の仏師分担の状況から、南都復興における慶派の独壇場が始まるとされています。
大仏殿、南大門などの巨像10躯すべての造像を慶派が担ったことから、そう考えられているのです。
それに比して、円派は東大寺造像にかかわれず、院派は、わずかに大仏光背の担当にとどまった。
主要巨像の造像は、鎌倉幕府、頼朝の後ろ盾もあって、慶派が独占しており、慶派の一人勝ちになったのは明らかだ。
このようにみられているのです。

例えば、三宅久雄氏は、

「本尊廬舎那仏に始まる東大寺諸像復興の特色は、興福寺と違って源頼朝の強力な支援を受けたこと、京都仏師はわずかに建久5年(1194)に大仏光背を制作した院尊、後には建保6年(1218)東塔4仏のうち2体を制作した院賢、院寛くらいであることである。」
(日本の美術459号「鎌倉時代の彫刻」2004年至文堂刊)

として、奈良仏師・慶派の重用を論じていますし、

古くは、毛利久氏が、
「京都仏師は、付属的な大仏光背の制作に留まる」
(「定朝より運慶へ」美術史31号1958年)
このように述べて、慶派(奈良仏師)の独壇場となっていったとしているのです。


◆実は、大仏光背制作は最上位、最格上の仕事~担当は院派

東大寺大仏殿・大仏光背(江戸時代制作)東大寺大仏殿・大仏光背(江戸時代制作)
大仏光背(江戸時代再興制作)~光背造像は最格上の仕事だったか?

これに対して、本書、塩澤氏は、

・大仏光背の制作というのは、決して付属的な仕事ではなく、大仏殿諸仏造像の中で、最上位の仕事であった。
・光背制作は、如来本体の一部というべき、最重要の仕事とみるべきである。
・院派、院尊は、最も格上の仕事を担ったことを意味しており、東大寺復興造像では、院派、慶派の2派によって、相応に分担されていると考えるべきである。
・大仏光背制作の重みを、軽く評価したことから、慶派の独壇場という見方になってしまっていたのだ。

としているのです。


≪南都復興造像の位置付けが低まった3~4期
~他派の関心低かった慶派・興福寺北円堂造像≫

第3~4期は、
東大寺の東塔、講堂の造営が行われ、興福寺は復興の仕上げとしての北円堂の造営が行われた時期です。

塩澤氏は、
興福寺北円堂
興福寺北円堂

・東大寺復興では、東塔、講堂の造仏担当仏師を見ると、院派・慶派の分担拮抗の状況が続いたとみられる。
・興福寺については、北円堂造像を慶派が担っていることが、慶派独壇場の見方の有力な拠り所にもなっているが、北円堂は興福寺復興の最後に回された公家の関与のない仕事で、位置づけの低いものであった。
・院派、円派からすれば、北円堂の仕事は、さほどの関心事ではなく、むしろ都、京都の仕事が関心事、優先事であったに違いない。

と述べて、この時期も、決して慶派の独壇場となって、院派、円派が駆逐されてしまっていたというわけではないとの見方を示しています。

また、3~4期になると、

・南都復興造像もピークを過ぎてきて、正系3派の軸足が京都の方に移っていく時期になる。
・その頃の京都における主要な造像、法勝寺、蓮華王院などの造像の仏師分担を見ると、院派、円派、慶派の正系3派体制による分担がしっかりと維持されており、東大寺復興造像にかかわらなかった円派も、決して退潮を招いていたわけではない。

総合的にみると、南都復興造像については、正系三派体制の原則が維持されており、都(京都)における造像を含めてみていくと、都、南都の造像は、正系三派体制がしっかりと維持、確立していたとみるのが、妥当と考えられる、と述べています。

上手くまとめられていませんが、このような結論に達しているのです。



【「都の天皇王権造像」と「東国の鎌倉幕府造像」という、鎌倉時代造像の二元性】


塩澤氏は、このような南都復興造像の仏師担当状況、正系三派の分担状況の検討を踏まえて、鎌倉時代彫刻の造像状況の実態について、以下のような新視点の見方を提起しています。

・鎌倉時代の造像を、都を中心とした朝廷、公家などによる「天皇王権の造像」と、「鎌倉幕府の造像」とに分けて考えると、「天皇王権の造像」では、正系三派体制かしっかりと維持、確立されていた。
一方、東国を中心とする「鎌倉幕府造像」に於いては、正系三派体制は成立せず、運慶はじめ慶派一派が主として用いられている。

・圧倒的に多くの仏像が造像されたのは、都(京都)を中心とする「天皇王権の造像」であるが、そこでは、南都復興造像も含め、鎌倉時代を通じて院派、円派、慶派の正系三派体制が維持されていたのが実態で、決して慶派の独壇場となったということは無かった。

・おそらく、鎌倉時代を通じて京都で最も大きな勢力を保ったのは、院派であったとみられ、院派が主導権をとる南北朝時代へとつながっていく。
足利尊氏が京都に進出してから院派を重用したのも、院派が当時の最大勢力であったことが理由でないかと思われる。

・鎌倉時代彫刻の実態を、大括りに俯瞰すると、
正系三派体制による「天皇王権の造像」と、慶派が主役の「鎌倉幕府の造像」という二元性、
新様式、新時代型の慶派と、伝統的表現型の院派、円派という二元性、
といった、多様性の中でみていく必要があろう。


皆さん、このような新視点、問題提起について、どのように感じられたでしょうか?
詳しくは、本書をしっかり読んでいただくしかないのですが、

「なるほど、そうだったのか!」

と、納得された方もおられるでしょう。

「これまで言われている、南都復興を契機に慶派の全盛時代になるという考えの方が、よほど納得的だ。
本書の見方、考え方には、ちょっと無理があるのでは?」

と、思われる方もあるのではないかと思います。



【「鎌倉時代彫刻は慶派の時代」という定説が造られた訳は?】


本書では、もうひとつ、興味深い話が述べられています。

日本美術史、日本彫刻史の中で、

「どうして、鎌倉彫刻史は、運慶・快慶を代表選手とする慶派独壇場の時代と云われるようになったのか?」
「どうして、運慶を中核に慶派が鎌倉彫刻様式を形成したという、運慶・慶派偏重の考え方が定着したのか?」

というテーマについてふれられているのです。


≪明治期以降の鎌倉彫刻の論述~一貫して運慶・快慶一色の見方で定着化≫

明治以降の日本美術史研究に於ける、「鎌倉彫刻」についての論述が、振り返られています。
次のようにまとめられるということです。

・明治中期の、岡倉天心「日本美術史」や、「稿本帝国日本美術略史」の頃から、鎌倉彫刻は、運慶、快慶中心で論述されており、その後も、一貫して運慶の評価は高まっていく。
こうした中で、運慶が鎌倉様式の完成者であり、彼によって完成された鎌倉新様式が時代を席巻し、その成立の際、南都復興が大きく作用したという筋立てが定着していく。
この定説を昭和前期に築いたのは、源豊宗氏、丸尾彰三郎氏の論述に追うところが大きい。

・戦後には、願成就院像、浄楽寺像という運慶作品の大発見があり、運慶様式と鎌倉幕府、関東武士とのかかわり合いの強さが、運慶様式成立に作用したという視点が一層加味されるが、その後の、毛利久氏、久野健氏、西川新次氏等々の主要著作、論述をみても、
「鎌倉時代彫刻の新様式は、運慶・快慶らの慶派によって完成、推進された。
南都復興は彼らの飛躍の舞台となり、同時に鎌倉彫刻における新様式を推進させる舞台ともなり、以後の鎌倉時代彫刻では慶派が覇を唱えるに至る。」
というように集約される見方が、一層定着し強固なものになっていった。

願成就院・阿弥陀如来像浄楽寺・阿弥陀如来像
運慶作品であることが発見された願成就院・阿弥陀如来像(左)、浄楽寺・阿弥陀如来像(右)

・鎌倉彫刻が、「多元的である」と論じた研究者には、古くは、金森遵氏、谷信一氏がいるが、そうした見方は、数少ないマイナーなもので、重視されることは無かった。
近年では、根立研介氏が、貴族を中心とする権門の造仏に京都仏師が重要な位置を占めていたと指摘しているのが特記されるぐらいである。

たしかにその通りで、どんな本を読んでみても、鎌倉彫刻の処は、運慶、快慶一色というか、
「鎌倉彫刻≒慶派、運慶、快慶の時代」
という論調で綴られています。
ほとんどのページ数は、運慶、快慶に割かれています。
院派や円派の仏像についての話などは、何も書いていないか、ほんの少しだけ申し訳のように触れられているという感じです。

特に近年は、光得寺・大日像、眞如苑・大日像、光明院・大威徳像など、運慶作と推定される作品の発見が続き、マスコミでセンセーショナルに採り上げられるなど、まさに「運慶フィーバー」といってもよいような状況です。

光得寺・大日如来像(推定運慶作)眞如苑・大日如来像(推定運慶作)
新発見の運慶作推定作品~光得寺・大日如来像(左)、眞如苑・大日如来像(右)

光明院・大威徳明王像(運慶作)
新発見の運慶作推定作品~称名寺光明院・大威徳明王像

「鎌倉彫刻=運慶、快慶」というイメージは、ますます盛り上がっているといってもよいのでしょう。


≪現存しているのは、何故か慶派の仏像ばかり
~現存像を語ることは、慶派を語ることになってしまう不思議≫

塩澤氏は、
どうしてこうした見方が定着したと考えられるのか?
本来はどのような視点で見るべきなのか?
について、いくつかの見方を提示しています。

云われるまで気づきもしなかったというか、その意外さに驚いたのが、現存作例の話でした。

南都復興の時に造像された仏像の中で、
「現存している仏像は、偶然にも慶派の作例だけなのだ」
という話です。
院派、円派の仏像は、全部焼失してしまって、跡形もなくなってしまっているのです。

南都復興造像の現存像は、

興福寺では南円堂・不空羂索像他諸像(湛慶)、食堂・千手観音像(当初成朝担当・その後慶派により完成)、西金堂・釈迦像(運慶)、北円堂・弥勒像他諸像(運慶)、
東大寺では、南大門・金剛力士像(運慶・快慶他)、八幡宮・僧形八幡神像

などで、見事に慶派の作品だけなのです。

興福寺南円堂・不空羂索観音像(康慶作)興福寺西金堂・釈迦如来仏頭(運慶作)
左・興福寺南円堂・不空羂索観音像(康慶作)、右・興福寺西金堂・釈迦如来仏頭(運慶作)

興福寺食堂・千手観音像(当初成朝担当~後に慶派により制作)
興福寺食堂・千手観音像(当初成朝担当~後に慶派により制作)

興福寺北円堂・弥勒如来像(運慶工房作)
興福寺北円堂・弥勒如来像(運慶工房作)

興福寺北円堂・無着像(運慶工房作)興福寺北円堂・世親像(運慶工房作)
興福寺北円堂・無着世親像(運慶工房作)


東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)
東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)

東大寺鎮守八幡宮・僧形八幡神像(快慶作)
東大寺鎮守八幡宮・僧形八幡神像(快慶作)


塩澤氏は本書で、

「院派や円派の仏師によって作られた作例はことごとくといってよいほどに現存せず、奈良仏師嫡流の成朝作例も確認されていないのは、改めて不思議としかいいようがない。
現存しているのは、康慶、運慶らの慶派作例ばかりという、極端なまでの偏りが見られる。
また別の見方をすると、東大寺大仏殿像、興福寺中金堂・講堂像といった、両寺の最も中心的な、言い換えれば格上の作例は全滅しているということになる。
・・・・・・・
この極端な偏りは、先人たちも気付いていたはずであるが、実際に作例が残っているかいないかは、もたらす効果に大変大きな違いが生まれる。
南都復興の造像史が慶派を中心に論述されてきた理由の一つに、知らず知らずこうした現存状況が影響した可能性があるのではなかろうか。」

このように述べています。

「目からウロコ!」

私にとっては、そんな気持ちになりました。

南都復興造像の現存作例を語ろうとするということは、偶然にも、慶派の造像を語るということになるのです。

この話は、南都復興造像に限らず、院派、円派の現存作例と、慶派の現存作例という世界に広げても、同じことが言えそうです。
慶派の作例は、像内銘記などが残されている事例が多く、数多くの現存作例が世に知られています。
これに対して、はっきり院派、円派の作例とすることが出来る作例は、大変少ないのです。
院派、円派作品には、像内銘記を残すものが少ないことや、都・京都の作例のほとんどが焼失してしまっていることによるものだと思われます。

京都~長講堂・阿弥陀三尊像(推定院尊作)
院派作品:京都~長講堂・阿弥陀三尊像(推定院尊作)

京都~宝積寺・十一面観音像(院範・院雲作)
院派作品:京都~宝積寺・十一面観音像(院範・院雲作)

京都~大覚寺・不動明王像(明円作)京都~大覚寺・降三世明王像(明円作)
円派作品:京都大覚寺・五大明王像(左・不動明王、右・降三世明王像~明円作)

京都~勝持寺・薬師如来像(推定円派作)
円派作品:京都勝持寺・薬師如来像(推定円派作)

鎌倉彫刻史が、慶派の仏像の時代のように語られるのは、意外にもこんなところにあるのかもしれません。



【鎌倉当時の実態に立ち戻る~慶派新様、院・円派伝統様の仏像が同居していた、多様な時代】


こんな話も踏まえて、塩澤氏は、本書で、

「現代の価値観や視点から評価するのではなく、復興の実像と当時の社会における等身大の評価を探る。
・・・・・・
近代的価値基準から離れる必要もある。」

と述べています。

塩澤氏の視点に則ると、南都復興造像に於いても、都(京都)での諸々の造像に於いても、慶派新様の仏像と、院派、円派伝統様の仏像が、あちこちに同居していたということになります。
もっと言うと、伝統様式、宋朝様式、運慶様式、快慶様式などが、各所に同居していたということなのだろうと思います。
発願者、施主も、そんな状況にこだわらなかったというか、当たり前に受け入れていたということになります。

鎌倉時代、当時の、各派、各様式の仏像の造像実態をそのまま受け止めて、鎌倉時代彫刻史を論じるならば、
慶派、運慶、快慶の新様式が席巻した時代であったかのように語るのではなく、それも含めて、

「多様な仏像が、多元的な状況の中で制作されていた時代」

と語らねばならないと云ってもよいのでしょう。



【運慶・慶派新様式が、圧倒的評価を受けたわけは?】


本書では、運慶、慶派の新様式表現が、明治期以降、大きく評価された事由として、二つの視点が指摘されています。


≪リアリズム重視の西洋美術概念にマッチした、慶派の造形概念≫

ひとつは、西洋美術概念による「リアリズム重視」の視点です。

塩澤氏は、運慶作品の高い完成度や魅力については、全く同感としながらも、このように述べています。

「確かに運慶は、近現代社会に評価されやすい要素を多く持っている。
運慶の創始独創ではなかったが、長い間続いた定朝様から転換した新様式を完成させたとして、変化と創造性を重んじる近現代の価値観によく適うし、その表現はおそらく定朝が造った京都・平等院阿弥陀如来坐像よりわかりやすく、西洋美術の古典的価値観に通じるところがある。」

運慶をはじめとする慶派の作品は、「写実的でダイナミックで惹きつける魅力がある」けれども、院派、円派の仏像といわれると、「伝統墨守の定型的、類型的造形で、何処が良いの?」という感じで好きになれない、というのが現代感覚だという話です。


≪「守旧的貴族階級を武士階級が打倒」という図式を積極評価する潮流に、ぴったりフィットする慶派の新様式≫

もう一つは、
「平安後期までの守旧的貴族階級は、新興民衆的な武士階級に打倒された。」
という政治史の見方を受けた視点です。

この見方に立てば、文化的な面でも、貴族階級が支持してきた守旧的なものは、新たなる精神の文化に乗り越えられるべきであるという思想的潮流で、評価されていくものだという話です。
つまり、仏像彫刻の世界でも、「守旧的、貴族的な院派・円派」が、「革新的新様式の慶派」に駆逐されていくという図式によって、慶派中心的史観を形成していったのではないかというのです。

塩澤氏はこのように述べています。

「新様式を打ち立てた慶派は、平安後期の長きにわたって墨守されてきた定朝様の停滞を打ち破るという大転換を成し遂げ、新鮮で創造性あふれる仏所とされ、その表現は写実主義に富むとして高く評価された。
運慶を代表作家とする慶派は、新しい時代精神の産物とされ、ここに慶派中心史観の大きな成立契機がある。

その半面で、院派や円派については古代貴族階級と結びついた仏所で、鎌倉時代においても定朝様の域を出ない無気力な仏所であるとされ、鎌倉時代の活動は決して大きな評価をされることはなかったし、しばしば用いられる彼らの「根強い」活動、「守旧的」な作風といった言葉には、かなり否定的ニュアンスが感じられる。」

こうやって、ズバズバと切り込まれると、
「そういわれれば、その通りかもしれない?」
「自分も、このような所謂既成概念の中で、モノを見ていたのかな?」
という気がしてきます。

私も、院派や円派の仏像というのは、藤原様式のマンネリのようで、面白みや新味がないという感じで、興味関心もほとんどありませんでした。
不謹慎かもしれませんが、ちょっと小馬鹿にした感じで見ていたような気がします。


そして、この話は、前話「明治時代の美術史書にみる「仏像の評価」を振り返る」で、テーマとした見方と、二重写しになってくるようです。
前話では、
「美の評価の物差し」「仏像を見る眼の物差し」も、時代時代の美の価値観、思想的潮流に大きく影響を受けて揺れていくものだ
ということを、実感したのですが、

「鎌倉彫刻史と運慶、慶派の新様式をどう評価するか」

という話もまた、同じような視点、時代の価値観の潮流の中で論じられているのかなと、今更ながらに感じてしまいました。


塩澤氏は、この視点に追い打ちをかけるように、厳しい問題提起をしています。


≪鎌倉時代を多元化の時代とみる歴史観転換に、対応していない鎌倉彫刻史観?≫

日本中世の見方は1960年代~70年代に、大きな転換期を迎えたのだそうです。
黒田俊雄氏による、権門体制論と顕密体制論の登場が、その転機と云われているそうです。

権門体制論というのは、
中世の国家権力を構成する支配階級は、公家(皇室、摂関家をはじめとする諸貴族)、寺家(南都北嶺をはじめとする寺社)、武家(鎌倉時代では幕府)という複数の権門によって構成され、諸権門は対立矛盾しながらも相互補完関係が認められる。
院、天皇、摂関家らの支配階級は、中世的権門に変貌しており、決して新興武士階級にとってかわられたのではない、
という考え方です。

まさに、鎌倉という時代は、多元的多様性の中で観ていく必要があるということなのだと思います。

塩澤氏は、これを受けて、中世史像、鎌倉時代像が大きく変貌を遂げる中に於いて、美術史界における鎌倉彫刻史像についてみれば、

「鎌倉時代の彫刻は運慶、快慶に代表され、その契機に南都復興を挙げるという、明治以来の伝統的構図がほぼそのまま残されている。
日本彫刻史を構築してきた偉大な人々の論説に僭越の感を免れないが、ここまでの日本彫刻史は、中世史や中世仏教史において行われてきた中世観の大きな転換、それに際しての活発な議論が踏まえられていないのではなかろうか。
顕密体制の象徴である東大寺、興福寺の復興造像がいずれか一派に極端に偏重されたり、一派だけの勝利に終わるはずはない。
この一点を取っても、その感を抱く。」

と述べて、厳しく大胆な問題提起をしているのです。



【造像構造の二元化と、正系三派体制のなかで考えたい、鎌倉彫刻史】


そして、本書を次のような言葉で、締めくくっています。

「京都の朝廷を中心とする一極集中構造の社会であった平安後期とは異なり、鎌倉時代は京都の朝廷と鎌倉の幕府という、日本に東西二つの中心があった二極構造の社会であったことを理解したうえで、政治史、社会史と同様に彫刻史においても二元的な視点で見ることが求められよう。
・・・・・・・・・
(鎌倉幕府の造像については、当初から奈良仏師及び慶派だけが独占的に主要造像に携わったものであり)
(鎌倉幕府造像は、)正系三派体制が鎌倉時代を通じて堅持された都を中心とする天皇王権の造像とはかなり異なることは明らかである。
逆説的に言えば、南都復興造像で正系三派体制が堅持されたこと自体が、鎌倉幕府造像との違いを際立たせている。
・・・・・・・・・
鎌倉時代を代表する国家的造像であったことは間違いない南都復興造像の実態をありのままに理解し、鎌倉幕府造像との相違も踏まえながら、鎌倉時代彫刻史を二元的視点で眺め、その上に立って総合するという観点で考察すること、これこそが明日の研究に新しい成果をもたらすことであろう。」


本書のカバーのキャプションに、

「造像の担い手を運慶ら慶派中心で論じる従来の学説に一石を投じ、新たな鎌倉時代彫刻史の地平を広げる。」

と書かれていました。

このキャプション、なるほど、その云わんとするところが、よく判るように思えました。



繰り返しの多いくどい文章になってしまいましたが、以上が、塩澤寛樹氏の新刊「仏師たちの南都復興」の内容のご紹介でした。

これまでになかった、新視点の問題提起の一書だと思います。

私にとっては、知的興味を大いに刺激するというか、久々に知的興奮を覚えた本でした。
本当に、惹き込まれるように読み耽ってしまいました。
この内容について、コメントしたり云々したりするほどの造詣が、全くない私ですが、これまで思ってみたこともない切り口からの、鋭い問題提起だということを、ビンビン感じたというのが率直な感想です。
まだ、全面賛成、共感という気分までには至っていない、というのも本音の処です。

ただこれからは、「鎌倉彫刻史や、運慶、快慶のことを書いた本の読み方、見方」が、随分変わってくるのは間違いないなという気がしています。

皆さんは、如何でしょうか?
私と同様の感想の方もいらっしゃるでしょうし、全く反対の方もいらっしゃるでしょう。
そんなこともう十分承知、という方もいらっしゃるかもしれません。

いずれにせよ、是非とも一読をお薦めしたい一書です。




【おまけ~関係書のご紹介】


最後に、塩澤寛樹の著作を、もう1冊ご紹介しておきます。


「鎌倉幕府造像論~幕府と仏師」塩澤寛樹著 
2009年吉川弘文館刊 【350P】 30000円

鎌倉幕府造像論

鎌倉時代の造像は、正系三派体制による天皇王権造像と、慶派を主体とした鎌倉幕府造像とに区分して、二元的な視点で考えていく必要があると、塩澤氏は論じています。
その鎌倉幕府造像の方をテーマにした論考が、まとめられた本です。

本書は、慶應義塾大学に提出された博士論文「鎌倉幕府造像の実態とその意義」を単行本化して出版されたものです。
「仏師たちの南都復興」の方が読み物としての論考本なのに対して、「鎌倉幕府造像論」の方は研究論文集というものなので、少々堅苦しくとっつきにくいのですが、鎌倉幕府の造像についての詳しい研究書となっています。