観仏日々帖

新刊・旧刊案内~明治時代の美術史書にみる「仏像の評価」を振り返る~たまたま手に入れた明治の「日本美術史・解説原稿」〈その2〉 【2016.2.27】


【「仏像を見る眼の物差し」は変遷するのか?~明治期と現在では、どう違う】


〈その1〉では、偶々入手した明治時代の「日本美術史・解説原稿」の由来をさぐってみました。

由来をたどっているうちに、この原稿や、明治時代の日本美術史の出版物に、
「どのような仏像が、代表的仏像として採り上げられているのか?」
「現在の、美術史上の代表的な仏像のラインアップと違っているのだろうか?」
ということに、興味がわいてきました。

言ってみれば、現在と明治時代との、「仏像を見る眼の物差しの違い」はあるのだろうかという話です。
「時代の仏像の評価観」といってもよいのかもしれません。


昨今、仏像ブームだといわれています。
「あなたの大好きな仏像は、何ですか?」
と聞くと、どのような仏像があげられるのでしょうか?

興福寺・阿修羅像、法隆寺・百済観音像、中宮寺・弥勒菩薩像、広隆寺・宝冠弥勒菩薩像、聖林寺・十一面観音像、
あたりが、やはり一番の人気の仏像なのでしょうか?
神護寺・薬師如来像、宝菩提院・菩薩半跏像、観心寺・如意輪観音像
あたりも、結構上位に入ってくるのかもしれません。

例えば、今挙げた人気の仏像、明治時代にはどのようにみられていたのでしょうか?

必ずしも、時代を代表する仏像とはみられていなかったのではないかと思います。
人気NO1の興福寺の阿修羅像については、明治の美術史出版物には、一言も出てきません。
ついでに云えば、藤原彫刻の代表選手、平等院・阿弥陀如来像も、明治の中頃にはほとんど評価されていなかったようです。

明治から今日まで、「仏像を見る眼の物差し」は、きっと変化してきているに違いありません。

「近代における仏像の評価の履歴をたどる」

私にとっては大変興味深いテーマなのですが、これを調べていくというのはなかなか大変、難物で、並みの手間ではできそうにありません。



【明治時代の主要美術史書にラインアップされている仏像を、比較してみると・・・】

今回は、そのさわり、入り口ということで、明治時代の主要な日本美術史の著作には、どのような仏像がラインアップされていたのかを、見ていきたいと思います。


≪明治の4冊の主要美術史書≫

〈その1〉では、明治時代を代表する3冊の日本美術史の著作物を紹介しましたが、ここからは、もう1冊加えて、4冊の美術書と今回入手原稿を、明治の主要美術史出版物と考え、見ていくこととします。

明治の主要な日本美術史の出版物リスト

新たに追加した「特別保護建造物及国宝帖」(以降、国宝帖と記します)という出版物は、明治末年に編纂された、官製日本美術史の大著です。
明治43年(1910)にロンドンで開催された「日英博覧会」に出品するために、内務省が編纂したものです。
当時、国の文化財指定は、「建築物は特別保護建造物、美術工芸品は国宝」と呼称されていましたので、このような書名が付けられたわけです。
文化財指定の調査等を担っていた古社寺保存会の成果をベースにしたもので、岡倉天心、中川忠順、平子鐸嶺による執筆といわれます。

特別保護建造物及国宝帖
特別保護建造物及国宝帖

「真美大観」を出版した、審美書院から出版されましたが、流石官製の大著だけに、大判の写真、多色刷り木版の図版が529葉もあり、解説本とで構成されています。

特別保護建造物及国宝帖収録の美麗な多色木版図版

特別保護建造物及国宝帖収録の美麗な多色木版図版
国宝帖収録の美麗な多色木版図版

矢代幸雄氏は、この国宝帖について、次のように述べています。

「日本美術史が近代の学問のような形でできた最初は、おそらく当時の帝室博物館、現在の東京国立博物館が明治32年に『稿本日本帝国美術略史』を編纂したころに始まると思われる。
・・・・・・
その編集方針も選択もあまりにも古い。
日本美術史がほんとうに確立したのはその後10年、すなわち1910年の日英博覧会のために当時内務省が『国宝帖』という3帙の大出版物を出版したときであった。」

(「日本美術の再検討」1988年新潮社刊所収)

国宝帖は、まさに、明治期の我が国美術史研究の集大成ともいえる出版物であったのです。


≪4冊の美術史書・ラインアップ仏像の、全比較リストを作ってみると…≫

そこで、先の3冊と入手原稿に、この「特別保護建造物及国宝帖」を加えて、これらにどのような仏像が採り上げられているのかをリストアップしてみました。

結構手間のかかる作業でしたが、頑張って、一覧表を作って比較できるようにしてみました。
相当数多い件数を羅列したデータになって、見づらいのですが、ちょっと我慢してご覧いただければと思います。

明治美術書掲載仏像比較リスト①飛鳥白鳳時代
明治美術書掲載仏像比較リスト②奈良時代

明治美術書掲載仏像比較リスト③平安前中期
明治美術書掲載仏像比較リスト④平安後期
明治美術書掲載仏像比較リスト⑤鎌倉時代
明治美術書掲載仏像比較リスト・インデックス

マス目に色付けしてあるところの当該仏像が、その著作に採り上げられているということです。
マス目の中の時代名は、当該著作では、どの時代の制作としているかを示しています。


≪それぞれの美術史書の、時代区分呼称の違い≫

時代区分の呼称がそれぞれ異なっていますが、5つの著作は、次のような時代区分呼称を使っています。
これもまた、当時の時代区分の考え方が伺い知れ、面白いものです。

明治の代表的な日本美術史出版物の時代区分呼称・一覧

この比較一覧表、5つの日本美術史著作に、ラインアップされている仏像全部を一覧にしたリストです。
150件以上の仏像の羅列となってしまいました。
「こんなもの見せられたって、わけ判らない! 見る気も起らない!」
というのが、正直なご感想でしょう。

作業リストの参考資料だと思って、我慢していただきますよう。



【ラインアップ仏像一覧比較リストから、見て取れるもの】

さて、この一覧比較リストから、どのようなことが見て取れるでしょうか?


≪明治時代、衆目一致の代表的仏像は?・・・飛鳥~奈良時代の仏像が圧倒多数≫

【第1】に、5つのすべての美術書に採り上げられている仏像はどのようなものでしょうか?
ご覧ください。

5つの全資料で採り上げられた仏像・リスト

これらの仏像が、
「明治時代に、誰もが認める衆目一致の、代表的仏像」
ということになるのだと思います。

法隆寺釈迦三尊像(国宝帖収録)稿本帝国日本美術史収録~法隆寺夢殿・救世観音像
.    国宝帖収録~法隆寺釈迦三尊像    稿本帝国日本美術史収録~法隆寺夢殿・救世観音像

稿本帝国日本美術史収録~薬師寺東院堂・聖観音像稿本帝国日本美術史収録~薬師寺金堂・薬師三尊像
稿本帝国日本美術史収録~薬師寺東院堂・聖観音像  並びに薬師寺金堂・薬師三尊像

真美大観収録~東大寺法華堂・執金剛神像稿本帝国日本美術史収録~東大寺法華堂・月光菩薩像
真美大観収録~法華堂・執金剛神像    稿本帝国日本美術史収録~法華堂・月光菩薩像

稿本帝国日本美術史収録~東大寺戒壇堂・四天王多門天像
稿本帝国日本美術史収録~東大寺戒壇堂・四天王多門天像

如何でしょうか?
どれをとっても、現在でも、我が国の代表的仏像ばかりです。
唯一、法金剛院・十一面観音像が、この中に入っているのだけは、意外感がありました。

一方で、現代の感覚では、飛鳥~奈良時代でみても、
広隆寺・宝冠弥勒像、法隆寺・百済観音像、法隆寺五重塔・塔本塑像、
興福寺・八部衆十大弟子像、法華堂・不空羂索菩薩像、聖林寺・十一面観音像
あたりが入っていないのが、意外だなと思われるかもしれません。

真美大観収録~法隆寺・百済観音像.国宝帖収録~聖林寺・十一面観音像
真美大観収録~法隆寺・百済観音像     国宝帖収録~聖林寺・十一面観音像

これらの像は、3大美術史書で見ると、「稿本日本帝国美術略史」だけが、採り上げていません。
「真美大観」「国宝帖」には掲載されています。
「稿本日本帝国美術略史」は、他の2冊に比べ採り上げ仏像件数が少なく、絞り込まれています。
絞り込むとなると、これらの仏像が外れてしまうというのは、当時の評価の物差しと、現代の美の感覚を想像すると、それなりに納得できるような気がします。


もう一つ、特記されることは、飛鳥・白鳳・奈良時代の仏像が圧倒的に多いということです。
法華寺・十一面観音像は、今日、平安時代の制作とされていますが、明治時代は(国宝帖を除いて)、奈良時代の像と考えられていました。
そうすると、「平安時代の仏像は、一件も無い」ということになるのです。

明治時代は、西欧、ギリシャ・ローマの古典美術を至上、至高とする美術史観だったと思います。
「ギリシャ・ローマ美術の世界が、我が国にもある。」
ということは、極めて重要なことでした。
近代国家の形成期、欧化西欧崇拝の意識が支配する中で、ギリシャ・ローマの古典的写実表現を理想美とする考えが基調となったのは、当然のことだったのでしょう。


岡倉天心は、

「彼の希臘(ギリシャ)の彫刻は、西洋人の誇称する所なれども、之れに対するに我が奈良朝美術を以てせば、一歩も彼に譲ることのなきを信ず。
・・・・・・・
我邦彫刻上の発達は、奈良朝に至ってその極に達せり」
(天心「日本美術史」)

このように語り、天平彫刻が一歩もギリシャに譲ることがないと力説しています。

そうした「美の物差し」の下では、写実的な鎌倉彫刻は入っても、平安彫刻がスッポリと抜け落ちてしまうというのは、十分に理解できることのように思えます。


≪現代の代表的仏像で、明治にはラインアップされなかった仏像は?~やはり平安前期彫刻≫

【第2】に、明治の主要な美術書には採り上げられなかったけれども、現代では、代表的仏像となっている仏像には、どのようなものが有るでしょうか?

5つの全資料に掲載されていない代表的仏像・リスト

岡倉美術史or入手原稿には記載があるが三大美術書では採り上げていないもの・リスト

ご覧のような仏像が、明治の3大美術史書(稿本帝国日本美術史・真美大観・国宝帖)のいずれにも採り上げられていない仏像です。

上段は、5つの著作物すべてに採り上げられていないのですが、現代では代表的仏像としてラインアップされるであろうと、私が考える仏像の一覧です。
下段は、天心・日本美術史もしくは入手原稿には記載はあるが、3大美術史書には採り上げられていない仏像です。

これらの仏像は、明治時代には、代表的仏像としての評価を得ることが出来なかったということです。

飛鳥白鳳期では、当麻寺の弥勒・四天王像が外れているのが、なぜか不思議に思えます。

そして、当然と云えば当然ですが、現代の眼でピックアップしたリストには、平安時代の仏像、就中、「初期一木彫」と呼ばれる名作が、数多く名前を連ねています。
新薬師寺・薬師如来像、元興寺・薬師如来像、道明寺・十一面観音像、宝菩提院・菩薩半跏像、東寺講堂諸像、室生寺の諸像
などは、いずれの3大美術史書にも採り上げられていないのです。

元興寺・薬師如来像宝菩提院・菩薩半跏像
元興寺・薬師如来像          宝菩提院・菩薩半跏像

新薬師寺・薬師像や東寺講堂諸像が外されているのは、現代感覚では、全く納得できない感じです。

新薬師寺・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像

東寺講堂・不動明王像東寺講堂・梵天像
東寺講堂・不動明王像          東寺講堂・梵天像

また、神護寺・薬師如来像は、「稿本帝国日本美術略史」からは外されていますし、観心寺・如意輪観音像は、「国宝帖」が採り上げているだけなのです。

神護寺・薬師如来像観心寺・如意輪観音像
神護寺・薬師如来像           観心寺・如意輪観音像

「仏像の美の物差し、評価基準が、随分と変わったのだな!」

と、少々驚きを感ぜざるを得ません。

天平彫刻に代表される「古典的写実表現を理想美」とする考え方から、平安前期彫刻の「反古典バロック的表現、造形の森厳性、精神性、官能性」に強い魅力を認め、高く評価されるようになるのは、いつ頃からのことなのでしょうか?
神護寺・薬師如来像が注目を浴び、世の評価が高まるのは、戦後、土門拳が、あの土門流写真で世に問うてから、という話もあるようです


≪和辻哲郎「古寺巡礼」に見る、初期一木彫像の評価~出来の悪い仏像≫

明治の話ではありませんが、誰もが知っているあの名著、和辻哲郎「古寺巡礼」では、大安寺、唐招提寺の一木彫像について、このように語られています。

唐招提寺・伝薬師如来像
唐招提寺・伝薬師如来像
「大安寺の諸作は、右の諸作(興福寺八部衆・十大弟子像)ほど特異な才能を印象しはしない。
もっとふっくりした所もあり、また正面から大問題にぶつかっていく大きい態度も認められる。
しかし写実がやや表面に流れているという非難は避けることができない。
・・・・・
唐招提寺の破損した木彫は、・・・・・・・不幸にして新来の彫刻家は、気宇の大なるわりに技巧が拙かった。
大自在といい釈迦(伝薬師如来像のこと)といい、豊かではあっても力が足りない。
ことに釈迦は、大体が著しく太く衣が肌に密着している新しい様式のものであるが、どうも弛緩した感じを伴っているように思われる。」

大安寺、唐招提寺の初期一木彫像は、和辻の美的感性には全く合致しない、出来の悪い仏像に映ったようです。
唐招提寺・伝薬師如来像などは、クソミソという感じです。

古寺巡礼が発刊されたのは、大正8年(1919)のことです。
まだ当時は、ギリシャ・ローマの古典的写実美を投影する天平彫刻を、最も優れた美術作品とする「美の物差し」であったことを、伺い知ることが出来ます。


≪明治末年になると、ラインアップに登場する仏像は?~平安彫刻の評価の高まり≫

【第3】に、明治末年編纂の「国宝帖」にだけ採り上げられている仏像を、ご覧いただきたいと思います。
明治も末年に至って、ようやく高く評価されるようになった仏像と云えるでしょう。

「国宝帖」は、明治43年の編纂の官製日本美術史書というべきものですが、その内容については、このように評価されています。

「これまで見てきた言説に比べると、この国宝帖は採り上げる作例の質が安定し、それに基づいて、内容が格段に整備されたものになっている。
言い換えると、ここに、この後に続く仏像の語りの大きな枠組みが出来上がったのを見ることが出来る。」

(「『仏像の語り方の境界』~弘仁・貞観彫刻の語りが示すもの」長岡龍作:「語る現在。語られる過去~日本美術史学の百年」1999年平凡社刊所収)

明治の日本美術史調査研究成果の集大成、と云って良い出版物なのだと思います。

この国宝帖に初登場する仏像は、美術史研究が進められた結果、明治時代末年に於いて、代表的仏像としての、新たな評価を得た仏像と云えるのだと思います。

「国宝帖に初登場」する仏像の中で、現代においても時代の代表的仏像とみられていると思えるものをリストアップしてみました。

国宝帖のみに採り上げ仏像のうち現代の代表的仏像と思われる仏像・リスト

ここでも、初期一木彫、平安前期の仏像が、圧倒的に登場します。
奈良時代では、大安寺の木彫、唐招提寺講堂木彫群が登場しますし、平安時代では、ご覧の通り、平安前期を代表するような傑作が、続々ラインアップされています。

国宝帖収録~大安寺・不空羂索観音像国宝帖収録~唐招提寺・伝獅子吼菩薩像、伝薬師如来像
国宝帖収録~大安寺・不空羂索観音像   並びに唐招提寺・伝獅子吼菩薩像、伝薬師如来像

初めの、「採り上げ仏像比較一覧表」に戻って、「国宝帖の平安時代のラインアップ」をご覧ください。
現代感覚でも、十分納得できるラインアップだと思います。
「貞観時代」という時代呼称が初めて用いられたのも、この国宝帖からです。
平安後期、所謂藤原彫刻の抑え処も、きっちりとラインアップされています。

平安彫刻は、明治中期ごろは、古典的写実至上主義のなかで、評価が過少というか、不安定であったようです。
ようやく明治末年になると、現代感覚に近い平安彫刻の代表作がラインアップされるようになってきたのかなというように思われます。

ただ、和辻哲郎「古寺巡礼」のコメント(大正8年)に見られるように、まだまだ天平彫刻を至上とする評価の物差しは健在で、現在ほどには、平安前期彫像の人気、評価が高まっているということでは、決してなかったように思えますが・・・・



【明治期・美術史書へのラインアップ件数から「仏像を見る眼の物差し」を考える】

ここまで、個別の仏像の顔ぶれをみて、その採り上げ方を比較考量することで、明治期の「仏像を見る眼の物差し」を考えてきました。

採り上げ件数から見ると、どうでしょうか?

それぞれの美術書の、時代別の採り上げ件数や割合を一覧リストにしてみると、ご覧のようになりました。

明治美術書掲載仏像・時代別掲載件数シェア

どの時代の制作に区分するかは、各書がそれぞれに見做している制作年代に属することとしてカウントしてあります。


≪明治中期は、天平彫刻がダントツのシェア~ギリシャ・ローマ古典美至上の美意識を投影≫

ご覧いただくと、
「やっぱりね、なるほど!」
と感じられたことと思います。

明治中期までの著作、すなわち真美大観までが、飛鳥白鳳奈良時代重視で、天平彫刻の古典的写実美・至上主義的な採り上げとなっていることが見て取れます。

飛鳥白鳳奈良時代の採り上げ件数の割合を見ると、天心・日本美術史、稿本帝国日本美術略史、真美大観が50%を超えています。
これに対して、国宝帖は、ぐっと割合が下がって30%となっています。

奈良時代と平安時代の対比でみても、
天心・日本美術史、真美大観では、奈良時代が各37%、平安時代が25%、18%となっており、圧倒的に奈良時代優位の採り上げです。
稿本帝国日本美術略史の平安後期の採り上げが10件・26%と、かなり多めに感じられるかもしれませんが、写真図版付きの個別解説があるのは2件だけで、残りの8件は仏像名が羅列されているだけですので、実質的なウエイトは低いと考えられます。


≪明治末年の「国宝帖」に至り、平安彫刻が天平彫刻をシェア逆転≫

一方、国宝帖では、奈良時代が16%、平安時代が47%となっており、奈良対平安のウエイト比率が大きく逆転しています。

これを見ても、国宝帖が編纂された明治末年に至って、これまで過少に評価されていた平安時代彫刻が、しっかりと美術史的地位、評価を確立し始めたということが理解できるのです。

明治維新後の近代化の中、西欧崇拝的にギリシャ・ローマの古典彫刻、写実美を至上とする「仏像を見る物差し」であったのが、近代化が進むにつれ国粋的意識が芽生え始め、国風文化を良しとする物差しも重視されるように展開していったといわれます。
また、反古典バロックと云える、初期一木彫、平安前期彫刻の造形美、精神性を認める美意識も生じてきたのでしょうか。

国宝帖の採り上げ仏像のラインアップを見ると、まさに、こうした時代の意識の流れを、よく顕しているといえるのかもしれません。



【調べてみて興味深かった、いくつかの話】

最後に、この作業を進めている中で、気が付いたり、興味深かったことを、アットランダムにご紹介します。


≪超人気仏像、興福寺阿修羅像は、明治期は全くカヤの外≫

第1は、興福寺・阿修羅像について、どの著作も全く言及していないことです。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像

現代における、阿修羅像の超人気は、いつごろから始まったのでしょうか?

明治期に工藤精華が撮影した、腕の折れた阿修羅像修理前の写真がよく知られてはいますが、明治時代には、特段の注目像ではなかったことは、間違いないようです。
興福寺・八部衆、十大弟子を採り上げているのは、真美大観と国宝帖だけです。
真美大観は、「乾闥婆王及五部淨乾漆像、須菩提乾漆像」を掲載しています。
国宝帖は「天龍八部衆並十大弟子像」というインデックスで、八部衆は、緊那羅・乾闥婆・五部浄の三像の写真が掲載されています。

国宝帖収録~興福寺・八部衆(乾闥婆王及五部淨乾漆像)
国宝帖収録~興福寺・八部衆(乾闥婆王及五部淨乾漆像

解説文の中にも、阿修羅像への言及は一言もありません。
阿修羅像の人気が出て、評価が高まっていく履歴と経緯を、一度、調べてみるのも大変面白いかもしれません。


≪法華寺・十一面観音像は、奈良時代の傑作とされていた≫

第2に、法華寺・十一面観音像は、奈良時代の制作とされていたことです。

平安期の彫刻とされたのは、国宝帖が初めてで、それまでは、どの著作でも全て奈良時代としています。
この像が、光明皇后の現身像であるという伝説が影響していたのでしょうか。

稿本帝国日本美術略史は、このように述べています。

「此の像は、皇后の御影を写し奉りしものなりという。
・・・・・・・
彫刻に於いては故(ことさ)らに細巧を用いず、然かも刀鋭く面滑かにして、非常なる熟練を表せる者なり。
実に聖武天皇時代遺物中最優等の像と称すべきものなり。」

稿本帝国日本美術史収録~法華寺・十一面観音像国宝帖収録~法華寺・十一面観音像
法華寺・十一面観音像~(左)稿本帝国日本美術史収録   (右)国宝帖収録写真

明治末年の、国宝帖に至って、漸く平安時代とされるのですが、今度は、貞観時代を通り越して、藤原前期の制作としています。
現在では、9世紀バリバリの傑作とみられる法華寺・十一面観音像ですが、明治期には結構制作年代評価が揺れていたようです。


≪評価が随分低かった、平等院・阿弥陀如来像≫

第3に、興味深かったのは、平等院鳳凰堂の定朝作・阿弥陀如来像の見方、評価です。

今では、「藤原彫刻と云えば平等院・阿弥陀如来像」と、オウム返しに答えが返ってくることと思います。
藤原彫刻に限らず、日本を代表する仏像で、この像を知らない人はまずいないだろうという、著名傑作仏像です。

ところが、明治時代には、平等院・阿弥陀如来像の扱いは、それほどでもなかったようなのです。
むしろ、ほとんど評価されていなかったといっても、過言ではないかもしれません。

稿本帝国日本美術史収録~法界寺・阿弥陀如来像
稿本帝国日本美術史収録
法界寺・阿弥陀如来像
天心「日本美術史」では、仏師定朝にふれたところで、
「その制作中最も著名なるは平等院鳳凰堂の本尊なり。」
この一言だけで終わりです。

稿本帝国日本美術略史でも、本像を個別に採り上げた解説も写真もなく、
「鳳凰堂の本尊も後世修復の点多けれども、同堂と共に建立せられしものなるべし。」
と、あまりにそっけないものになっています。

法界寺・阿弥陀如来像の方は、写真が掲載され、
「定朝晩年の作と認むべきものなり。
相貌円満にして頗る品あり。・・・・」
云々との個別解説が設けられて、扱いの差は歴然たるものです。

真美大観では、採り上げすらさせていません。
平等院鳳凰堂は、建築物として称賛されているのですが、阿弥陀如来像は、そっけなくその付けたりのような扱いとなっているのです。

国宝帖に至って、ようやく平等院・阿弥陀如来像が、定朝作としてしっかり高い評価を得るようです。

「・・・定朝の我邦彫刻の祖師と仰がるる故無きにあらず。
其作鳳凰堂の本尊阿弥陀如来は唯一の遺宝なり。
・・・・・・・
其日本化されていく形跡を知るとともに、此の像の純化したる所以また自ら明らかならむ。」

と説かれ、個別解説にも多くの量を割いています。
ただ、鳳凰堂全体の浄土教荘厳の見事さ、美麗さを説くのが重点で、そのセット物としての阿弥陀如来像という風で、彫刻としての評価には言及されていないような感じです。

国宝帖収録~平等院・阿弥陀如来像
国宝帖収録~平等院・阿弥陀如来像

平等院・阿弥陀如来像の評価の低さは、明治期の平安彫刻の過小評価、不安定評価ということを反映しているようですし、また、当時、顔面部分に大きな修復があるとみられていて、作品としての評価が十分なされなかったことに依るのかもしれません。


この平等院・阿弥陀如来像の評価の揺れ、変遷に着目して、近代明治以降の評価の変遷について検証した論考を見つけました。

武笠朗氏「平等院鳳凰堂阿弥陀如来像の近代」(講座日本美術史6・2005年東京大学出版会刊所収)

という論考です。

平等院・阿弥陀如来像
平等院・阿弥陀如来像
ここで、内容をゆっくりご紹介する余裕はないのですが、まことに興味深く、面白い論考です。
武笠氏は、論考の冒頭で、このような問題意識を語っています。

「素朴な感想として、この像はいささか誉められすぎではないかと思われることである。
とりわけあのいわゆる写実的でない穏やかなのどかな、いや正直に言えば眠そうなちょっと間の抜けた顔である。
これが無気力だなどと否定的に語られることが過去にはなかったのだろうか。
時代好尚の反映と素直に肯定する、その物分かりの良さが気になってしまうのである。
そうした否定的な議論がなかったのかどうかも検証してみたい。」

そして、明治初年から説き起こし、現代にいたるまでの平等院・阿弥陀如来像の評価のブレルというか、大きく揺れ動く経緯が語られています。
明治期には重要視されていなかった平等院・阿弥陀如来像が、昭和に入って、大仏師定朝作の傑作として、我が国を代表する仏像との評価を得ていく流れが、興味津々に述べられています。

ご関心ある方には、是非一読をお勧めします。


≪今では、あまり知られていない仏像も、結構ラインアップされていた≫

第4に、現在では、あまり知られていない仏像が、時代に代表的仏像としてラインアップされていることです。
「そんな仏像、あったっけ?
どんな姿の仏像だったのか、覚えがないなあ!」
そう思ってしまう仏像が、いくつもラインアップされていました。

こんな仏像です。
川原寺・持国天像、泉穴師神社(泉北郡)・男女神像群、河合寺(河内長野市)・毘沙門天像、聖護院・不動明王像、親王院・不動明王像、泉福寺(滋賀甲賀郡)・地蔵菩薩像、智恩寺(宮津市)・文殊菩薩及優闐王善財童子像
以上は、国宝帖のラインアップです。

国宝帖収録~弘福寺(川原寺)・持国天像国宝帖収録~河合寺(河内長野市)・毘沙門天像
国宝帖収録~弘福寺(川原寺)・持国天像   並びに河合寺(河内長野市)・毘沙門天像

国宝帖収録~泉穴師神社(泉北郡)・男女神像
国宝帖収録~泉穴師神社(泉北郡)・男女神像

国宝帖収録~親王院・不動明王像国宝帖収録~泉福寺(滋賀甲賀郡)・地蔵菩薩像
国宝帖収録~親王院・不動明王像   並びに泉福寺(滋賀甲賀郡)・地蔵菩薩像

稿本帝国日本美術略史、真美大観にも、こんな仏像が採り上げられていました。
山城一様庵・薬師如来像、長命寺・千手観音像、法然院・阿弥陀如来像

稿本帝国日本美術史収録~長命寺・千手観音像法然院・阿弥陀如来像
稿本帝国日本美術史収録~長命寺・千手観音像      法然院・阿弥陀如来像      .

これらの仏像が、当時、何故代表的仏像として高い評価がされていたのか、よくわかりません。
どこかの段階で、だんだん語られなくなってしまったのでしょう。
これらの仏像、私も、その一つ一つが、即座に頭に浮かんできませんので、どうして評価されていたのか、また評価されなくなったのか、想像もつきません。


以上が、私が、これらの著作の仏像のラインアップ、評価解説について、気になったこと、興味深く感じたことです。



【時代とともに移ろう仏像の評価~明治の物差し、現在の物差し】

こうして、明治期の美術史書に採り上げられた仏像を比較して、どのような仏像が採り上げられ、また取り上げられなかったのかということをたどってみると、

「仏像を見る眼の物差し」「美の評価の物差し」

というものは、時代と共に揺れ動き、変遷しているものだなあということを、今更ながらに強く感じてしまいます。

明治期の美の物差しを、一言で表現するならば、
「ギリシャ・ローマ古典美術に倣う、古典的写実理想美」
を、至高、至上とした時代と云えるのでしょう。

現代の美の物差しは、皆さんどのように感じられているでしょうか?

もちろん、興福寺・阿修羅像を筆頭に、天平彫刻の人気は衰えていませんが、神護寺・薬師如来をはじめとした平安初期一木彫像のオーラや迫力に、心惹かれる人が大変多くなっているのではないでしょうか?
「大胆な造形、強い精神性、バロック的表現の美」
が、高く評価され、惹きつけられる時代とでもいうのでしょうか。

岩佐又兵衛、曽我蕭白、伊藤若冲など、「奇想」といわれるような大胆、斬新な絵画が大人気で、数多くのファンの心を惹き付ける時代となってきているのも、また納得できるような気がします。



【「法隆寺への精神史」~時代の価値観と文化史研究の関わりを説いた興味深い一書】

法隆寺への精神史
以前、こんな本を読んで、大変印象深かった記憶があります。

「法隆寺への精神史」井上正一著 1994年 弘文堂刊  2500円

という本です。

この本は、日本の古代文化の象徴的存在ともいえる法隆寺について、明治初年以来、どのように語られて来たのかという変遷をたどり、時代の価値観と文化史研究との関わりを説いた本です。

「法隆寺のエンタシスの円柱」と、「法隆寺式伽藍配置」という二点を、その典型ととらえて論じているのです。


≪法隆寺の円柱・エンタシスは、ギリシャ伝来?≫

「法隆寺の円柱のエンタシスは、ギリシャ古典建築に由来し、ヘレニズムの東漸によって、我が国にももたらされたのだ。」

という話があります。

法隆寺の円柱・エンタシスギリシャ・パルテノン神殿
法隆寺の円柱・エンタシス         ギリシャ・パルテノン神殿

今では、この説を支持する人は、誰もいないそうですが、明治・大正期には、「エンタシス=ギリシャ伝来説」が、学者の中で本気に論じられていました。
この論が最初にとなえられたのは、明治26年(1893)のことで、伊東忠太が「法隆寺建築論」で述べたそうです。

井上氏は、

・こうしたギリシャ伝来論が展開され、もてはやされたのは、明治の近代化の中で、脱亜入欧といわれる欧化主義が背景にあったのであろう。

・日本はファーイーストで西欧文化果つる地であったのではなく、ギリシャ文化が東漸しており、日本を代表する法隆寺建築には、至高とされるギリシャ文化が息づいているのだ。

・エンタシスが、その確証とでもいえるものだとされ、盛んに論じられた。

と考え、当時の欧化願望が、思想的底流にあったのではないかとみています。


≪法隆寺式伽藍配置は、日本オリジナル?≫

次に、「法隆寺式伽藍配置」の話です。

法隆寺式伽藍配置は、日本独自のユニークなものであると論じられたことがあるそうです。
シンメトリーではなく破調を好むという、日本人オリジナルの造形感覚が生み出した伽藍配置なのだという議論です。

法隆寺伽藍
法隆寺伽藍

この「法隆寺式伽藍配置=日本固有文化説」が普及し始めたのは、大正から昭和にかけての、1920年代の後半ごろからでした。

井上氏は、

・この時期は、日本の近代化も随分と進み、明治の脱亜入欧の欧化主義から、わが国独自、固有の価値を尊重しようとする、ナショナリズム意識が盛んになってきた時代であった。

・わが国最古の建築物、法隆寺は、日本独特の文化が反映された意匠なのであるという、国粋的文化論を生む土壌にあった。

・こうしたなか、法隆寺式伽藍配置は、日本人の好みを反映した日本固有文化である議論が展開された。

としています。


法隆寺は、同じ一つの寺なのですが、
明治期には
「法隆寺にはギリシャ文化が息づいている、それがエンタシス」
と論ぜられ、
大正に入ってからは、
「法隆寺は日本独自の文化により生み出された、それが法隆寺式伽藍配置」
といわれるようになったのです。

井上氏は、建築史とか文化史という学問の世界も、時代時代の思想的潮流に支配されているというか、大きく影響を受けて揺れていくものだということを、法隆寺を舞台に論じたのでした。


ちょっと、「法隆寺への精神史」の本が長くなりましたが、この話の云わんとするところを振り返ると、明治~大正期の仏像の見方、評価が変遷していく潮流そのものを見ているように思えてきました。

明治中期ごろには、ギリシャ・ローマの古典彫刻を投影したような天平彫刻が大きく評価され、古典的写実美・至上主義的な「美の物差し」であったのが、国風文化が見直されるようになり、平安彫刻のステータスが少しずつ高まっていくという流れです。



【終わりに~手間はかかったが、興味深かった「明治の仏像評価」の振り返り】

そろそろ、明治時代の美術史書にみる「仏像の評価」を振り返ってみる話も、終わりにしたいと思います。
このような、結果となることは、想像はついたのですが、こうして一つ一つリストアップして比較分析してみると、「なるほど、やっぱり」と、しっかり納得することが出来ました。

今回は、明治時代の美術史書採り上げ仏像を土俵に上げて見てみましたが、それ以降、今日現在に至るまで、大正、昭和、戦前、戦後と、「仏像を見る眼の物差し」「美の評価の物差し」がどのように変遷していくのか、揺れ動いていくのかは、大変興味深いテーマだと思っています。

ただ、このテーマにチャレンジするのは、チェックしてみる美術史書や資料の量があまりにも膨大で、とてつもない作業になりそうです。
興味はあれども、とてもチャレンジする気にはなれないというのが本音の処です。


偶々入手した、明治の美術史原稿の検証から始まった話でしたが、面白みのない、淡々とした資料の羅列の話にお付き合いいただき有難うございました。
とはいっても、この話をまとめるのには、随分と手間がかかり、面倒なものでした。

私としては、秘かに、結構労作で興味深い話となったのではないかと、それなりに自己満足しています。


このテーマの話に、少しでも、ご関心を持たれることになりましたら、嬉しき限りです。


新刊・旧刊案内~たまたま手に入れた明治時代の「日本美術史・解説原稿」    〈その1〉どういう原稿なのでしょうか?   【2016.2.13】


こんなものを手に入れました。

手に入れた明治の美術史・解説原稿

手に入れた明治の美術史・解説原稿

明治時代の手書きの美術史の原稿です。


「推古、天智、天平、三時代ニ於ケル繪画彫刻之現存品ニ對スル觧説」


という標題が書かれています。



【YAHOOオークションで手に入れた、明治の珍しい美術史原稿】

実は、この原稿、YAHOOオークションに出品されているのを見つけたのです。
NET上に原稿の写真が数枚掲載されていました。

「これは、どんなものなのだろうか?
何かの本の原稿なのだろうか?」

とおもいましたが、明治時代に書かれた美術史の解説であることに違いありません。

「よく判らないけれど、珍しいものに違いない。
何とか、手に入れてやろう!」

と、オークション入札にトライしてみました。

他の入札者もあって競ったのですが、意外に安い値段で落札することが出来ました。

送られてきた現物を開いてみました。
虫食いだらけの古びた原稿用紙に、筆で書かれています。
本文は16頁ありました。
本文の画像を、枚数がありますが、何ページか掲載させていただきますので、ご覧ください。

美術史・解説原稿~推古時代1
美術史・解説原稿~推古時代2
解説原稿~推古時代の部彫刻分2頁


美術史・解説原稿~天智時代1
美術史・解説原稿~天智時代2美術史・解説原稿~天智時代3
解説原稿~天智時代の彫刻部分3頁


美術史・解説原稿~天平時代(法華堂・執金剛神像、戒壇院・四天王像、法華寺・十一面観音像の解説ページ)
解説原稿~天平時代の彫刻
(法華堂・執金剛神像、戒壇院・四天王像、法華寺・十一面観音像の解説ページ)


流石、明治時代、活字かと見紛うような美しい字で書かれています。
間違いなく筆書きで、きっちりと清書されたものです
そこに書き入れが、結構あります。
この原稿を手元にしていた方が、詳しい注釈を入れるように、書き入れたもののようです。



【いつ頃、何のために書かれた原稿なのだろう?】

この原稿、いつ頃、どのような目的で書かれたのでしょうか?
誰が、書いたものなのでしょうか?
何かの出版物の元原稿なのでしょうか?

興味津々になってきました。
この原稿の正体を明らかにできないだろうかと、チャレンジしたくなってきました。


ページを開くと、

「推古時代に於ける現存物  彫刻」

という項立てから始まります。

法隆寺金堂・薬師三尊像、釈迦三尊像の解説部分
法隆寺金堂・薬師三尊像、
釈迦三尊像の解説部分
冒頭は、法隆寺金堂の薬師三尊像、釈迦三尊像の解説です。

「推古時代の遺物にして最も正確なるものは法隆寺金堂の薬師三尊、釈迦三尊なりとす
薬師三尊(脇士日光月光)の作者は光背に銘あれども其作者の氏名を録せざるを以て詳知する能わずといえども其作風に依て考うれば鳥佛師の作にて脇士も又同作なるべしと思わる
釈迦(脇士文殊普賢)の光背に銘あり鞍首止利をして作らしむといえり
薬師と年代を隔つること十六年其作風酷似したれば同作なりと断じて不可なかるべし」

このような感じです。
当時のことなら当然ですが、薬師像も釈迦三尊もともに銘文通りの推古期の制作と断じています。



原稿の、インデックスをご紹介すると、このようになっています。

・推古時代に於ける現存物~絵画・彫刻(彫刻の採り上げ件数:7件)

・天智時代に於ける現存品~絵画・彫刻(彫刻の採り上げ件数:7件)

・天平時代に於ける遺存品~絵画・彫刻(彫刻の採り上げ件数:19件)



【原稿用紙は、「臨時全国宝物取調局」のもの】

何時頃?書かれた原稿なのでしょうか?

書かれた時期は、明治20年代~30年代前半ごろで、間違い無いのではないかと思います。

というのも、使われている原稿用紙が、「臨時全国宝物取調局」の名前が刷り込まれたものなのです。

原稿用紙に刷り込まれた「臨時全国宝物取調局」の名前.原稿用紙に刷り込まれた「臨時全国宝物取調局」の名前
原稿用紙に刷り込まれた「臨時全国宝物取調局」の名前

臨時全国宝物取調局が設置されていたのは、明治21年(1988)から30年(1997)の10年間ですから、この間に、取調局に参画していた人物によって書かれたのかもしれません。

臨時全国宝物取調局は、明治政府初めての組織的文化財調査を大々的に進めるべく、設置されたものです。
10年間で、全国約21万余点の宝物調査を行い、美術品の価値としての等級付けを実施しました。
その総決算として、古社寺保存法が明治30年(1967)に制定され、「特別保護建造物、国宝」が、国によって指定されることになります。
この臨時全国宝物取調局の設置に深くかかわっていたのが、岡倉天心で、九鬼隆一を首班として岡倉がリーダーシップを取り、フェノロサ等と共に調査を推進したのでした。

明治20年代~30年代と云えば、まだまだ「日本美術史」の黎明期です。
やっと「日本美術史」というものが、語られ始めたころと云えるでしょう。

その頃、
こんな内容の日本美術史の解説文を書くことのできたのは、
また、「臨時全国宝物取調局」の原稿用紙を使って書くことのできたのは、
きわめて限られた人物であったに違いありません。



【当時の日本美術史の出版物の「元原稿」の可能性は?】

ひょっとしたら、当時書かれた、日本美術史の出版物の元原稿なのかもしれません。
そう思って、明治中期の著名な美術史の著作物の解説と、付け合わせてみることにしました。
この時期に刊行された、日本美術史の解説書・出版物と云えば、次の3冊ぐらいしかないのではないでしょうか。

「日本美術史」(岡倉天心)

岡倉天心が明治24~25年、東京美術学校において学生に日本美術史の講義をした、講義録を聴講筆記したものが出版させたものです。
近代日本における、初めての日本美術史の解説本と云って良いものだと思います。

「日本美術史」(岡倉天心)


「稿本日本帝国美術略史」

明治33年(1900)、パリ万国博覧会参加を機会に、我が国美術を西欧に知らしめるため、フランス語版の 「Histoire de l'art du Japon」が編纂・出版されました。
その日本語訳原稿本が、「稿本日本帝国美術略史」なのです。
この本は、近代日本初の「官製日本美術史本」というべきものです。
東京美術学校の岡倉天心が編集主任になりスタートし、明治31年(1898)、天心が美術学校を非職となった後は、福地復一がこれを引き継ぎ完成させています。


「稿本日本帝国美術略史」「稿本日本帝国美術略史」


「真美大観」

明治32年(1899)から41年にかけて出版された、日本ではじめての美術全集です。
全20冊の大部の超豪華本で、図版は多色刷り木版とコロタイプ写真、1冊15円50銭という重価でした。
京都の「日本仏教真美協会」から刊行されましたが、その後、経緯を経て「審美書院」からの刊行に移っていきました。


真美大観~表紙

真美大観~第1冊内表紙.真美大観所収の美麗な多色刷り木版図版
真美大観~表紙と、所収の美麗な多色刷り木版図版

結論から云うと、原稿は、この3冊のどの文章とも、一致どころか、類似したところもありませんでした。
これらの本の関連原稿ではなかったようです。



【法隆寺・夢殿救世観音の記述を、3冊の出版物と較べてみると・・・・】

「解説文の違い」を、ちょっとご紹介します。
法隆寺夢殿・救世観音像の解説文を、比較してみたいと思います。

【本原稿の解説文】

法隆寺中夢殿のニ臂如意輪観音は古来秘仏にして六百年許も開かざりしが先年之を開扉したるに其像は六尺に満たざる乾漆立像にして彩色いまだ全く剥落せず蓋し乾漆中最古のものなるべし
年代作者は詳ならざれども当代のものたるは疑うべからず


【岡倉天心「日本美術史」解説文】

立像にては法隆寺の夢殿観音あり。
有名なる仏像なり。

~この後、フェノロサ他とともに本像を初めて開扉したときの有様が、ドラマチックに語られています。
その後に、この文章が続きます。~

顔容は、上頬高く下頬落つ。
これは推古時代仏像通有の様式にて、頭部・四肢大に、鼻辺の溝の筋深し。
法隆寺の諸像皆然り。
而して大体は木造なれども、手の如き或る部分は乾漆を用いたり。


【「稿本日本帝国美術略史」の解説文】

木彫にして丈六尺五寸あり。
此の像は聖徳太子の作にて等身の像と称し、古来秘密佛として特に尊重せられしものなり。
その様式は前の金銅観音(辛亥銘観音像)の像に類し、全体平扁にて左右に鰭状の装飾あり。
宝冠は金銅透彫にして蔓草の模様頗る精巧なり。


【「真美大観」の解説文】

・・・・・茲に出せる木像は従来斯堂の秘佛本尊として安置せられたるものなり、
其体形平扁にして、天衣の端左右に開き、宛然鮨状を成せるが如きは、夫の第六冊に掲載せる帝室御物槻世音金銅像(辛亥銘観音像)と相似たり、
唯々其異る所は両手に持する如意賓珠を蓮台の上に安んすると然らざるとに在るのみ、
又身長の比較的に高くして整直なるは、同寺金堂の観世音(第六冊掲載)(百済観音)に類し、其面相の端厳崇高なるは、同堂なる止利佛師作の繹迦三尊(第一冊掲載)及び山口大口等作の四天王(第四冊掲載)等の像に似たり、
・・・・・・・・・・・
以上の特徴によりて其推古時代(西暦第七世紀)の遺物たること、推知するに難からざるなり、
由来秘佛と稱せらるヽもの、大抵粗造悪作殆んど見るに足るもの少し、
獨り此像の如きは天下希有の霊像として尊重す可きものと云う可し

真美大観掲載~法隆寺夢殿・救世観音像写真.真美大観掲載~法隆寺夢殿・救世観音像写真
真美大観掲載の法隆寺夢殿・救世観音像写真

このように、どの出版物の文章とも、類似していません。
この原稿だけが、救世観音像を乾漆像で、「乾漆像中最古」としています。
他の本は、皆、木彫像と解説していますので、そこのところも異なっています。



【結局、何もわからなかった原稿の由来】

この原稿、如何なるものなのか明らかにしたいと、意気込んだのですが、残念ながら、この誰が書いたのやら、何のために書かれたのやら、皆目判らずじまいということになってしまいました。
明治20年から30年頃に書かれたのではないだろうかと、推定できただけです。

「近代日本美術史の黎明期」と云って良い明治の中頃に書かれた、上代日本美術史の一つの解説文です。
当時、上代の美術史について、これだけの解説を書けた人物は、そう多くなかったのでないかとも思います。

ただの、取るに足りない、虫食いの古びた原稿ですが、私は、
「明治中期、このような美術史解説も書かれていたのだ。」
ということを、知ることが出来る貴重な資料だと、心密かに思っています。

いずれの時にか、この原稿の由来を知りたいものです。

この原稿、どのようなものなのかについての情報をご存じの方がいらっしゃいましたら、是非ともご教示いただけますようお願いいたします。



ついで、というわけではないのですが、もう一つ興味がわいてきたのは、この原稿や、ご紹介した出版物に採り上げられている仏像のラインアップです。

これらの出版物に、

「どのような仏像が各時代の代表的仏像として採り上げられているのか?」
「現在の、美術史上の代表的な仏像のラインアップと違っているのだろうか?」
「違っているとしたら、どの時代、どの仏像なのだろうか?」

ということを、チェックしてみることにしました。

現代人の眼から見ると、

「あれ、あの仏像がラインアップされていないじゃないか?」

と、ちょっと驚いてしまうものもあるのです。
現在と明治時代との、「仏像を見る眼の物差し」の違いというのでしょうか?


この続きは、この原稿も含めて、明治期の著名な「日本美術史解説書」に、どんな仏像が採り上げられているのかについて、見てみたいと思います。