観仏日々帖

新刊旧刊案内~「仏像の樹種から考える 古代一木彫像の謎」 東京美術刊 【2016.1.22】


「まさか、出版されるとは!」
ちょっと、意外でした。

昨年5月に、成城大学で開催された創立100周年記念シンポジウム「仏像と木の交流~古代一木彫像の樹種をめぐって」の講演発表の記録が、単行本になったのです。


「仏像の樹種から考える 古代一木彫像の謎」
成城学園創立100周年記念シンポジウム報告書
金子啓明・岩佐光晴・藤井智之・能代修一・阿部久著  2015年12月 東京美術刊 2000円 【159P】

「仏像の樹種から考える 古代一木彫の謎」


このシンポジウム、古代一木彫の用材樹種についての最新の研究成果が発表されたもので、このテーマに関心のある方には、興味深いシンポジウムではなかったかと思います。
ただ、結構マイナーというか、マニアックなフィールドですので、まさか単行本にまとめられて出版されるなどとは、考えもしてませんでした。
シンポジウム「仏像と木の交流~古代一木彫像の樹種をめぐって」ポスター
シンポジウム「仏像と木の交流」ポスター

「木彫像の用材・樹種」というテーマは、私の最も関心のある世界です。
このシンポジウムにも、当然出かけたのですが、その内容が一冊の本になったのは大感激です。
即座に購入しました。

ご存じのとおり、近年の研究により、奈良後期~平安前期・純粋一木彫の用材樹種は、ほとんどが「カヤ」材であることを明らかになりました。
それまでは、これらの一木彫の多くは「ヒノキ」とされていましたので、驚きの新事実でした。
その後も、本テーマの研究が継続して進められており、「カヤ」材が用いられた事由など、用材観の宗教的意味、意義などに、ホットな議論が展開されているのです。



【木彫像の樹種と用材観」の最新研究成果が判りやすく満載された、本書】

本書は、シンポジウム発表者の講演記録をまとめたものですが、古代一木彫像の樹種、用材観をめぐる最新の研究成果、問題点などを、わかりやすく知ることが出来る内容になっています。

目次をご覧ください。

「仏像の樹種から考える 古代一木彫の謎」目次


ご覧のような、内容になっています。
目次を、順を追ってみてみましょう。

「日本彫刻史研究における木彫像の樹種同定の意義~一木彫像成立の問題を中心に」(岩佐光晴氏)は、

木彫像の樹種の研究史と議論の経緯、一木彫像の成立要因とカヤ材が用いられた事由など、「木彫像の樹種と用材観」についての、最新研究成果が大変わかりやすくしっかりとまとめられています。
2006年に東京国立博物館で開催された、通称・一木彫展、「特別展・仏像~一木にこめられた祈り」の展覧会図録にも、この共同研究の成果が詳しく掲載されています。

図録所載の二つの冒頭論文、
「木の文化と一木彫」(金子啓明氏)、「初期一木彫の世界」(岩佐光晴氏)
を、本書と併せて読んでみられれば、「古代木彫像の樹種と用材観」についての、研究成果や最新の考え方が、一層よく判ると思います。

一木彫展、「特別展・仏像~一木にこめられた祈り」図録
一木彫展、「特別展・仏像~一木にこめられた祈り」図録

「仏像用材の材質と樹種」「木材の構造による樹種の識別」では、

木材の樹種判別の科学的調査の方法や、一木彫像を中心とした仏像の樹種の科学的判定の結果などがまとめられています。


「木彫像の用材樹種を非破壊で調べる」では、

木彫像の樹種を非破壊、非接触で科学的に判断する方法への、新たなるチャレンジの状況について報告されています。
現在の樹種判定は、仏像内部の剥離片などを採取して分析する方法で行われています。
文化財から剥離片を採取するには多くの制約があり、非破壊で判定できる科学的手法の実現が待たれる処です。


以上が、本書の概要のご紹介です。

木彫像の樹種や、「カヤなのかヒノキなのか?」「どんな理由で樹種が選択されたのか?」といった話にご関心のある方には、必読必携の本ではないでしょうか。
お薦めの一冊です。


さて、ここで、我が国の木彫像の樹種の変遷や、なぜそのような樹種が選択されたのかという「用材観」について、どのように考えられているのかについて、簡単に見てみたいと思います。



【クスノキ⇒カヤ⇒ヒノキと変遷する、古代木彫像の樹種】

我が国の古代木彫像の樹種は、どのように変遷しているのでしょうか?
皆さんご存知のことと思いますが、ちょっと復習してみたいと思います。

日本の木彫仏の用材に使われている樹種は、何故か不思議なことに、飛鳥時代から藤原時代にかけてクスノキからカヤへ、そしてヒノキへと変遷していきます。

当然、例外もありますが、同時代には、圧倒的に同じ樹種の用材が使われているのです。

・飛鳥・白鳳は「クスノキの時代」、
・奈良後期・平安前期は「カヤの時代」
・平安中期以降は「ヒノキの時代」

と呼んで差支えないという実像です。

木彫仏の用材樹種の変遷を、自己流ですが、判りやすく一表にしてみました。
次のような感じになります。

木彫仏の用材樹種の変遷


≪かつては、カヤの像もヒノキ材と考えられていた≫

実は、木彫仏の樹種は、戦後、近年まで「クスノキの時代」から、一気に「ヒノキの時代」に展開するとされていました。
木材工学の専門家の小原二郎氏が、仏像用材樹種研究を行い、
「奈良後期から始まる一木彫の樹種のほとんどが、ヒノキである」
という研究成果を発表されたことによるものです。

すなわち、飛鳥白鳳時代の木彫像にはクスノキが用いられていたが、奈良時代に塑像、乾漆像が主流になると、その心木に主としてヒノキが用いられるようになった。
そして、奈良末平安初期に入ると、そのヒノキ材で一木彫像が造られるようになった。
このように、考えられていたのでした。


≪センセーショナルな新研究~初期一木彫は、全部カヤ材と判明≫

ところが、近年、センセーショナルな事実が判明したのです。
15年ぐらい前のことです。

奈良後期~平安前期の純粋一木彫像の用材は、ヒノキではなくて、そのほとんどがカヤ材を用いていることが明らかになったのです。

本書の著者に名前を連ねられている、金子啓明・岩佐光晴・藤井智之・能代修一氏の研究グループが、共同研究により、一木彫像の微細な剥離片の科学的分析調査をおこなったことにより判明したのです。
我が国における、一木彫像の始まりともいわれている、奈良時代後期の唐招提寺の伝衆宝王・獅子吼菩薩、伝薬師如来などの諸像、大安寺の木彫諸像をはじめ、平安初期一木彫の代表作、神護寺薬師如来像、元興寺薬師如来像も、全てカヤ材で造られていたことが明らかになったのです。

唐招提寺・伝獅子吼菩薩像(カヤ材).神護寺薬師如来像(カヤ材)
唐招提寺・伝獅子吼菩薩像(左)  神護寺薬師如来像(右)~共にカヤ材

従来の常識を完全に覆す、新事実でした。

ご紹介の本書には、その木彫像の樹種調査研究の成果を判りやすくまとめた図表が、掲載されています。
ご覧ください。

一木造の仏像の樹種

一木造乾漆併用像・木心乾漆像の樹種

仏像の制作技法と用材
「仏像の樹種から考える 古代一木彫の謎」 に掲載の用材樹種図表

この共同研究によって、古代の木彫像の用材樹種が、このように変遷していくということが明らかになったのです。



【用材樹種は、どうして変遷したのだろうか?~用材観変遷の訳は】

そして、
「どうして、ヒノキではなくて、カヤなんだ?」
という疑問が浮かんでくるのです。

というのも、我が国では、ヒノキは大量に群生している樹木ですが、カヤは群生せず数も少ない樹木なのです。
意識的に、数の少ないカヤを選択しているとしか考えられないのです。

「木彫像の用材が、時代ごとに変遷していく事由、その背景はどのようなものだろうか?」

これが、重要な研究テーマになったのでした。

この問題について、金子啓明氏や岩佐光晴氏は、次のように考えました。
その考え方は、本書の論考や一木彫展図録の論考に、詳しく述べられています。
エッセンスを大胆に端折って、ご紹介してみましょう。


≪クスノキは魂ふりの力をもつ、霊的樹木≫
クスノキの神木(静岡県伊東葛見神社)
クスノキの神木(静岡県伊東葛見神社)

まず、飛鳥白鳳時代にクスノキが用いられた理由については、次の通りです。

・クスノキは、古代日本では魂ふりの力をもつとされ、神木、霊木とみなされていた。

・クスノキを仏像の材とする考えは、中国からもたらされたのかもしれないが、異国の神である仏像を我が国で造るには、それに相応しい霊的な樹木が求められた。

・日本のカミの信仰と融合するという、宗教的、精神的な意味づけからも、魂ふりの力をもつクスノキが選ばれた。


法隆寺・救世観音像(クスノキ材).中宮寺・弥勒菩薩像(クスノキ材)
法隆寺・救世観音像(左)  中宮寺・弥勒菩薩像(右)~共にクスノキ材


≪経典に説く白檀代用材「栢木」に、カヤが選ばれた~鑑真の選択?≫

カヤの巨木(茨城県久慈郡法龍寺)
カヤの巨木
(茨城県久慈郡法龍寺)
次に、奈良時代末から平安前期の一木彫像の用材にカヤ材が用いられた理由については、次のように考えられています。

・我が国における一木彫像の成立の要因は、鑑真の来朝が重要な契機となったと考えられ、唐招提寺の伝獅子吼・衆宝王菩薩像などが、我が国一木彫像の最初期の作例とみられる。

・また、こうした純粋一木彫像は、木肌を生かした素木像である、檀像彫刻の渡来の影響によるものと考えられる。

・檀像制作についてふれた経典「十一面神呪心経義疏」(天平15年書写)には、仏像用材には「白檀を用いよ。白檀のない国では栢木を用いよ」と説かれている。

・わが国で、この「栢木」にあたる材について、「カヤ」が充てられたとみられる。

・鑑真及びその工人が、「栢木」材として日本の「カヤ」を選択し、このことが我が国の一木彫用材として「カヤ材」が採用されていく思想的背景となったのであろう。

・ヒノキではなくカヤが選択されたのは、中国における鑑真の活動地域であった揚子江以南の地域にはカヤが多く分布しており、カヤをビャクダンの代用材とする考え方があったのではないかと思われる。

法隆寺・九面観音像(ビャクダン)....東京国立博物館・十一面観音像(ビャクダン)
法隆寺・九面観音像(左)  東京国立博物館・十一面観音像(右)
「十一面神呪心経義疏」に則った、ビャクダン材の十一面観音檀像



≪大量造仏の要請に、供給可能な用材~ヒノキ≫

平安後期に、カヤ材からヒノキ材に転換していく事由については、このように述べられています。

・康尚から定朝のあたりで大きくヒノキに転換していくのではないかと思われる。

・この時代は、大量の仏像が造られた時代で、相当量の用材確保が必要となる。

・カヤは群生しないが、ヒノキは大量に存在し、奈良時代から建築用材確保のために杣山が設けられていた。

・一定の質の材を、かなりの量を確保しなくてはならないことから、カヤからヒノキへの転換があったのではないかと思われる。


平等院・阿弥陀如来像(ヒノキ材・寄木造).ヒノキの森
平等院・阿弥陀如来像(ヒノキ材・寄木造)と、ヒノキの大樹の森林

省略しすぎかもしれませんが、おおよそは、このように考えられているのだと思います。


「クスノキ→カヤ→ヒノキと変遷していった事由、背景は、そういうことだったのか。」
「なるほど、すっきりよく判った!」

そんな相槌を打ちたくなるほど、納得してしまう考え方です。



【用材樹種の変遷を考える、三つの視点
~「中国渡来、伝来」「木の信仰、霊性」「用材の特性、適材」】

わたしも、この考え方を初めて知った時には、なるほどと、すごく納得しました。
ただ、最近は、もう少し別の考え方もできるのではないか?
別の観点から考えてみる必要があるのではないか?
と思うようになりました。

ここまでご紹介した、木彫仏の樹種選択の考え方は、

中国から如何に伝わってきたか、経典にどのように説かれているかといった
「中国渡来、伝来の視点」

日本独自の霊木信仰、日本のカミとの融合といった
「信仰、霊性の視点」

を中心に、展開されているように思います。
言い換えれば、「樹種に対する宗教的視点からの用材観」に注目して論じられているように思うのです。



【「用材の特性、適材の視点」から、木彫仏の樹種変遷を考えてみる】

私には、もう一つ、大事な視点があるように思います。
それは、
木彫仏を彫るのに、当時の技術で最も彫りやすく、求められる表現に最も適した樹種が選択されたのでは?
という考え方です。

「用材の特性、適材の視点」

と云って良いのかと思います。


≪時々に、最適最良用材を選択したという考え方≫

この視点に立てば、飛鳥白鳳時代にはクスノキが、奈良後期~平安前期にはカヤが、平安後期にはヒノキが選ばれたのは、それぞれの時代、当時の工具で木彫仏を制作する際の、最適最良の用材であったからだ、と考えられないでしょうか?

大胆に言えば、「中国渡来とか宗教的な理由」を考えずに、それぞれの用材の持つ材質特性や技術的な面だけに着目して考えても、木彫仏の樹種変遷は十分説明がつくのではないのだろうかとも思えてくるのです。

実際に仏像制作にあたるのは仏工ですから、そんな視点に立って、樹種選択の事由を考えていくことも、大変重要なことではないかと思うのです。


古代から、樹種の特性によって何に使うかという用途が定まっていたようです。
日本書紀には
「ヒノキは宮殿に、スギとクスノキは舟に、マキは棺に使え」
と、それぞれの用途を教えています。
例えば、ヒノキは、割裂性が良く縦に強い繊維質の用材なので、建築構造材の最適材とされていました。

現代でも、料理屋のカウンターにはヒノキ材、碁盤にはカヤ材、櫛にはツゲ材、貴重品の箱にはキリ材が使われますが、これも、それぞれに求められる最適材をを使うと、そうなるのだと思います。

仏像の主用材として使われたクスノキ、カヤ、ヒノキの特性や違いは、どのようなものなのでしょうか?
要素別に一覧にすると、次のようなものになろうかと思います。

木彫仏の用材の樹種特性


ついでに、この三つの用材樹種の木肌や木目の画像、それぞれの材を用いた仏像写真を作ってみました。
材の特性や違いを、イメージしていただければと思います。

三つの樹種の木肌・木目と当該材を用いた仏像
三つの樹種の木肌・木目と当該材を用いた仏像

こうした樹種別の特性を踏まえて、「用材の特性、適材の視点」という観点だけで、木彫仏の用材樹種が選ばれた事由を考えてみることも、可能なように思えるのです。

「その時代時代で、一番彫りやすく、適した用材で木彫仏を彫る。」

すごく現実的で、ロマンがないような話ですが、そのように考えることもできるのではないでしょうか。

敢えてこの視点のみに立って考えてみると、こんな説明も可能なのでしょう。


≪彫りやすく、欠けにくいクスノキ材≫

飛鳥白鳳時代に、クスノキが用いられたのは次のような説明もできます。

・クスノキは、割裂性が悪く、即ち欠けにくく、材質は適度に軟質であったので、当時の工具(ノミ)の切れ味でも彫りやすい。
当時、最も彫刻材として優れていたので、木彫仏の用材に選ばれた。

・一方、ヒノキは、当時の技術では、縦の木目に沿って割り放ちやすく、建築材に最適であったが、彫刻材とするには、切れ味良いノミが必要であった。

・また、木目に沿って欠け易いため、彫刻材としては良材とは云えず、用いられることはなかった。


実は、飛鳥白鳳時代の仏像台座とか玉虫厨子などにはヒノキが使われていますが、その蓮弁だけにはクスノキが使われています。

玉虫厨子の台座部分の反花蓮弁~台座部分はヒノキ材・蓮弁部分はクスノキ材
玉虫厨子の台座部分の反花蓮弁~台座部分はヒノキ材・蓮弁部分はクスノキ材

その訳について、岩佐光晴氏は、
「蓮弁という神聖な部分と構造部分とは、意識的に用材を変えていたのではないか。」
と、宗教的な意図があったと述べられています。

この点について、適材思考で考えると、
「蓮弁などカーブした曲面部分の彫刻は、当時、ヒノキ材では彫りにくく、またヒノキは蓮弁の先端などが木目に沿って欠け易いので、彫るのに適し欠けにくいクスノキ材を用いた。」
このように考えた方が、私には、自然のように思えてきます。

ヒノキは、構造材として使われてきましたので、奈良時代の塑像、乾漆像の心木としても、用いられたのではないでしょうか。
心木ですので、鋭さに欠けるノミで加工しても、微細な彫刻表現は必要なく、木目に沿って欠けることへの心配もなかったのでしょう。


≪素木・純粋一木彫には、木肌が緻密で粘り気あるカヤ材が一番≫

奈良後期~平安前期の一木彫に、カヤ材が選ばれた事由は、このようにも説明できそうです。

・この時代の、純粋一木彫像、すなわち素木系檀像様一木彫像を彫刻するのに、我が国にある用材の中では、カヤ材が最適最良材であった。

・カヤ材は、緻密で粘り気があり、強い存在感、ボリューム感の表現が出来る樹種で、生地のきめの細かさ、シャープな彫刻表現を求める素木系一木彫にフィットする。

・鋭い衣文、厳しい彫り口、細やかな彫刻、重厚感の有る質感を求めると、仏工は、必然、ヒノキではなく「カヤ材」を選択したと思われる。

神護寺薬師如来像の衣文の彫口~鋭く鎬立つ(カヤ材).元興寺薬師如来像~彫り口が鋭い(カヤ材)
神護寺薬師如来像の衣文の彫口(左)   元興寺薬師如来像(右)
カヤ材で、鋭く鎬だった彫り口となっている


・クスノキなどの広葉樹は、彫刻に適するが、緻密さにかけキメ、木肌が粗いという点が、素木像には弱点となる。

・ヒノキは、粘りや質量感に弱点があり、微細な彫刻部分が木目に沿って欠け易いので、木肌の美しい材ではあるが、素木系の主材とは成り得なかったのではないか。


岩佐光晴氏は、
「現代の中国では『栢』はヒノキ科の樹木を示しています。
これが唐の時代も同様であったとすると、鑑真が日本で木彫像を制作させた場合に、なぜヒノキではなくカヤを採用したかが問題と云えます。」
と述べられています。
この考え方によると、我が国で素木系・檀像様一木彫像を彫る用材としては、カヤでもヒノキでも、どちらも相応しい適材であったが、あえてカヤ材が選択されたというふうに思えます。

私は、当時の純粋一木彫の求める造形表現を行うには、カヤ材、ヒノキ材どちらでもOKであったのではなくて、その用材特性から、当然に、素木彫刻に適したカヤ材が用いられたとのではと思えるのです。

美術院国宝修理所の仏師・辻本干也氏が、
「ヒノキの場合は、・・・漆をかけたり、金箔を押さないことには、どうしてもボリュームが強く出ないんです。
・・・・・・
カヤの方が、目もつんでますし、ボリュームも出ますね。
ヒノキはきれいですけれども、なにかフワッと浮くような感じがしますね。」
(「南都の匠 仏像再見」1979年徳間書店刊)
と語っているのは、きわめて興味深く重要なコメントだと思えるのです。

この時期の乾漆併用木彫、即ち、木肌を素地であらわさず、乾漆でコーティングしたような仏像の用材には、ヒノキが使われているのが多いようです。
これは、カヤ材の粘りのある緻密な木地を必要としなかったからではないでしょうか?


≪平安後期の寄木造には、割裂性の良いヒノキが最適≫

最後に平安中後期に入ると、ヒノキ材が用いられる説明です。

・平安後期に近づくと、カヤもしくは広葉樹が主流であった木彫は、ヒノキ材に大転換する。

法界寺・阿弥陀如来像(ヒノキ材・寄木造)
法界寺・阿弥陀如来像(ヒノキ材・寄木造)
・それは、寄木造の技法が確立され、この技法が木彫技法を席捲していくことに大きく関連していて、寄木造像には、ヒノキ材が最適であった。

・寄木造は、複数材から同一寸法の製材の必要性を迫られることも多く、楔を入れて割放す当時の製材法では、割裂性の良さは必須の条件であった。

・優れた建材から発し、彫刻材へ転身したヒノキは、まさにその要求に叶った材であった。

・また、ヒノキ材は縦目が強く、鋭利なノミでないと彫ることが出来ないが、この時代にはヒノキ材に自由自在に彫刻できるほどに鋭いノミが使われるようになっていたのであろう。

・寄木造像は、漆箔、彩色像とされ、表面がコーティングされる。
木肌をあらわすことがないので、素木像にふさわしいカヤ材ではなく、ヒノキ材が適材となった。


ちょっと長くなってしまいましたが、古代の木彫像の用材選択事由の説明を、「用材の特性、適材の視点」のみで説明してみました。



【用材樹種の選択事由の決め手は、なかなか難しそう】

古代木彫像の用材選択の事由は、ある視点のみから決めつけられるような単純なものでは、決してなかったのだと思います。
現実には、先にご紹介した、
「中国渡来、伝来の視点」「信仰、霊性の視点」の要素と、「用材の特性、適材の視点」が、
いろいろと複雑に絡み合って、樹種選択が行われたのではないでしょうか?

近年、奈良後期~平安前期・純粋一木彫の用材が、カヤ材であることが明らかになってからは、樹種選定については「中国渡来、伝来の視点」「信仰、霊性の視点」が、大きくクローズアップされるようになり、また支持を得ている状況なのではないかと思います。

ただ、私は、「用材の特性、適材の視点」のウエイトが、実は結構大きかったのではないのだろうかという気がしているのです。
もっとシンプルにというか、現場的に、折々の彫刻に求められる最適最良の用材は何であったのか、という観点からも考えていくということも大切なのかなと感じています。


皆さんは、この樹種選択の問題、どのようにお考えになるでしょうか?


「用材の特性、適材の視点」を中心に、この問題を論じた本を、一冊ご紹介しておきます。

「木彫仏の実像と変遷」 本間紀夫著 2013年雄山閣刊 【464P】 18000円

「木彫仏の実像と変遷」

この本の内容と、樹種選択を巡る問題については、以前観仏日々帖に、
新刊・旧刊案内~木彫仏の実像と変遷」 本間紀夫著 【その1】  【その2】
でご紹介しましたのでご覧いただければと思います。

また、埃まみれの書棚から「仏像の素材と技法~木で造られた仏像編~」でも、樹種選択について採り上げています。


「仏像の樹種から考える 古代一木彫の謎」という本の新刊案内だった筈なのですが、話が随分、長くくどくなってしまいました。

木彫仏の樹種選択の問題については、私の最も興味関心のあるテーマで、樹種選択の事由について日頃からいろいろ考えたりしているものですから、ついつい話が広がって脱線してしまいました。
御赦しください。


近年の新たな共同研究で、樹種が確定した木彫仏の数は、まだまだ多いといえません。
剥離片を得る必要から、そう簡単にはいかないようです。
これから先、もっと数多く、広範囲の木彫仏の樹種が、明らかになっていくのだろうと思います。

この用材観の議論は、今後の調査研究の進展とともに、どのように展開していくでしょうか?

これから、ますます愉しみです。


新刊・旧刊案内~「奈良まち・奇豪列伝」安達正興著 【2016.1.16】


明治大正の激動期の奈良まちにすんだ、奇人・変人だが偉大なる人物、4人について採り上げ、振り返った本です。

まさに、近代奈良の、「知られざる奇豪」と呼べる人たちの話です。

奇豪4人の一人に、
「奈良の古美術写真、仏像写真の草分けと云える工藤利三郎(精華)」
が選ばれています。
工藤利三郎について、採り上げた数少ない本ですので、是非、ご紹介しておきたいと思います。


「奈良まち 奇豪列伝」 安達正興著
2015年7月 奈良新聞社刊 【335P】 1500円

奈良まち奇豪列伝


この本は、都心の大型支店の「地方出版社の本コーナー」にさりげなく並んでいました。
手に取ってみると、ご覧の、明治大正期、奈良に生きた4人の奇豪について書かれた本でした。

奈良まち奇豪列伝で採り上げられた人物


馬上チョン髷の漢方名医「石崎勝蔵」
飲んだくれの古美術写真師「工藤利三郎」
大正ロマン古都の草飛行「左門米造」
最後のバテレン「ヴィリヨン神父」

4人のうち、私がその名を知っていたのは、工藤利三郎だけでした。
奈良好きの皆さん、ご存じの人物は、いたでしょうか?
近代奈良の文化にかかわった知られざる奇人、変人の話というのですから、それだけでも大変面白そうで、興味をそそります。
かけて加えて、私の大変関心の深い工藤利三郎について書かれているのです。

「これは面白そうだ!」と、無条件で購入しました。

工藤利三郎の他の3人についても話も、まさに「こんな奇豪が奈良にいたのか」と、全く知らなかった人々の誠に興味深い話で、本当に面白く、あっという間に読んでしまいました。

近代奈良の文化にかかわった人々にご関心ある方には、お薦め本です。


ここでは、工藤利三郎(精華)について、書かれた話についてだけを紹介させていただきます。



【奈良の仏像写真の草分け、工藤利三郎(精華)】

ところで、奈良の仏像写真の草分け、先駆者たる「工藤利三郎(精華)」という人物、皆さん、ご存じのことと思います.
その業績を、一言でまとめると次のようになるでしょうか。

工藤利三郎は、奈良の地で、はじめて古美術写真、仏像写真を撮影し販売した人物です。
阿波徳島の人ですが、明治26年奈良に移り住み、 猿沢池東畔に写真館を開きました。

猿沢池東畔に残る工藤精華の旧居(昭和30年ごろの写真)
猿沢池東畔に残る工藤精華の旧居(昭和30年ごろの写真)

精華と号しましたが、その名が今日まで知られているのは、超豪華古美術写真集「日本精華・全11輯」を出版したことによるものです。
明治41年(1908)から大正15年(1926)まで、18年間にわたり個人出版により刊行されました。

日本精華
超豪華古美術写真集「日本精華」
明治41年の出版時の売価が、一冊20円という高額であった


日本精華に掲載されている東大寺三月堂日光菩薩像
日本精華に掲載されている東大寺三月堂日光菩薩像
手先が後世の曲がったものとなっている


そこに掲載された仏像写真等は、明治年間の仏像写真、古美術写真を知る記録としての、文化的意義が大変大きなものです。
また、合掌手を欠損した興福寺の阿修羅像の写真など、近代文化財修理が進められる以前の写真、行方不明の文化財写真も残されており、学術的にも価値の高いものです。

日本精華掲載の興福寺・阿修羅像.日本精華掲載の東大寺戒壇堂・持国天像
日本精華掲載の興福寺・阿修羅像~東大寺戒壇堂・持国天像
いずれも明治期の修理前の写真


工藤精華は、昭和4年(1929)81歳で没し、その後は「忘れられた人、知られざる人」になってしまいますが、工藤撮影の1000枚余の写真ガラス原版と紙焼き数万枚が、奇跡的に残されていました。
この写真資料は、昭和42年(1967)、奈良市教育委員会に寄贈され、現在は、入江泰吉記念奈良市写真美術館に所蔵されています。

奈良市写真美術館
入江泰吉記念奈良市写真美術館

そして、写真ガラス原版は、平成20年(2008)、なんと国の重要文化財に指定されたのです。



【まさに奇豪の、奇人変人ぶり】

しかし、工藤利三郎が、奈良の奇豪に名を連ねる所以は、古美術写真家として業績もさることながら、その奇人、変人ぶりにあったのではないかと思います。

本書「奈良まち・奇豪列伝」では、その奇人ぶりについて、このように評されています。

「彼が住んだ奈良の人々に馴染まず、近所付き合いもない偏屈なアル中オヤジ。
・・・・・・
仏像写真の先駆者・工藤利三郎は世渡りべたで飲んだくれのオヤジと知って以来、長い間、この自ら呑澤と号する明治人に、筆者は大変惹かれていた。
さらに呑ん兵衛オヤジは妻帯せず、評判の美しい養女“コトノ”と生涯暮らしている。」

安藤更生氏(美術史学者)は、工藤利三郎の逝去に際し「工藤利三郎の訃」という文章を稿していますが、
その中で、その人となりについて、

「生来甚だ酒を好み、酔えば眼中怖るるものなく、今日古美術研究にたずさわる者にして、翁の奇矯なる一喝を被らざるはなきほどである。
あまりの狷介不羈の為、偏狭なる土地の人に容れられず、晩年はその功業の割には寂しかった。」
(安藤更生著「南都逍遥」1970年中央公論美術出版刊)

と、振り返っています。

工藤利三郎(精華)という人物が、古美術写真の草分け、先駆者としての多大な功績を遺した人物であったとともに、如何に奇人、変人の類であったのかということも、ご想像がつくことと思います。

工藤利三郎の業績、人物伝、工藤について書かれた本については、かつて、
「埃まみれの書棚から~奈良の仏像写真家たちと、その先駆者 〈その3〉  〈その4〉
で、紹介していますので、そちらをご覧いただければと思います。



【奇豪・工藤利三郎について、しっかり書き込まれた「奈良まち・奇豪列伝」】

今回ご紹介の「奈良まち・奇豪列伝」では、工藤利三郎の奇人、変人ぶりというか、奇豪といわれる話が、たっぷり盛り込まれ、語られています。
工藤利三郎の章の項立て、目次は、次のようになっています。

奈良まち奇豪列伝「工藤利三郎」掲載ページ奈良まち奇豪列伝「工藤利三郎」目次
奈良まち奇豪列伝「工藤利三郎」掲載ページと目次

74ページにわたって、しっかり書き込まれています。

また、工藤利三郎の人物発掘に努めた、中田善明氏の著作、

「工藤利三郎評伝」
「酔夢現影~工藤利三郎写真集」 写真が語る近代奈良の歴史研究会編 (H4) 奈良市教育委員会刊所収

「国宝を撮した男 明治の写真師 工藤利三郎」中田善明著 (H18) 向陽書房刊

で、記された内容を踏まえて、

「酔夢現影~工藤利三郎写真集」.「国宝を撮した男 明治の写真師 工藤利三郎」

そこにあまりふれられていない、
「養女・コトノさんについての話」
「工藤没後、のこされた写真原版が、公的保存されるまでの話」
が、詳しく記されています。

とりわけ、工藤の残したガラス写真原版が、奈良市写真美術館に保存されるようになるまでの、いきさつの話は、大変貴重で興味深い話です。
その内容のエッセンスを、少しご紹介しておきたいと思います。



【工藤利三郎撮影写真原版が、奈良市写真美術館に所蔵されるまでのいきさつ】

昭和4年(1929)に、工藤が没して後、養女のコトノさんは、残された写真原版を守ってきたのですが、戦後になってからは、生活のこともあったのでしょうか、その買い手を探していたようです。

奈良で写真館を営んでいた、北村信昭氏は、このような思い出話を語っています。

昭和30年代の半ばごろ、コトノさんから一括して然るべき評価の額で売却したいので書いての世話をしてほしいと頼まれ、京都の便利堂にあたってみたが不調に終わってしまった。
その後、もう一度、営業写真館を対象に、買い取る業者の紹介を頼まれたが、問題にならないような最低額の話しかなく、時期を待つように説得して帰ってもらった。
(北村信昭著「奈良いまは昔」1983年奈良新聞社刊所載文の要約)

そのコトノさんも、昭和39年(1964)に80歳で没します。

没後、すんでのところで屑屋に売られようとしていたコロタイプ写真、写真原版を、長く保存することを主張し、奈良市への寄贈による保存を実現させたのは、鹿鳴荘・永野太造氏の尽力によるものでした。

永野太造氏とは、奈良博物館前で古美仏像写真販売の「鹿鳴荘」を営んでいた、写真家です。
永野氏は、コトノさんの生前、何くれと相談相手になり、助けていたそうで、コトノさんの葬儀、遺品の整理なども、永野氏が町内の人と協力して進めました。

工藤利三郎愛用の写真機
工藤利三郎遺品・愛用の写真機
遺された写真原版やその他の工藤利三郎ゆかりの遺品は、親族の方に相続されましたが、1025枚のガラス写真原版などは、永野太造氏の尽力などにより、昭和42年(1967)に、奈良市教育委員会に寄贈されることになったのです。

寄贈させた写真原版は、10年以上かけて整理、フィルム化などの保存作業が進められました。
その後、ご親族の方から、利三郎の使った蛇腹カメラなど、利三郎の全遺品が奈良市に寄贈され、奈良の仏像写真の草分けを偲ぶことが出来るようになりました。
現在は、カラス写真原版とともに、奈良市写真美術館に所蔵されています。

もし、写真原版が、コトノさんの生前に売却散逸してしまっていたら、また没後、永野太造氏の尽力がなく屑屋に処分されていたら、その後、重要文化財に指定されるなどということはありえなかったでしょうし、忘れられた工藤利三郎の名が、ここまで蘇ることもなかったでしょう。

余談ですが、その永野太造氏も、平成2年(1990)、60歳で没し、その後古美術写真店は廃業、残された写真資料の保存が気がかりでしたが、昨年(2015年)、帝塚山大学で写真原版が保管されることになったのは、嬉しいことです。

奈良国立博物館前の永野鹿鳴荘~2006年撮影
奈良国立博物館前の永野鹿鳴荘~2006年撮影

「奈良まち・奇豪列伝」という本は、まさに奇豪たる工藤利三郎の人となりなどについて、掘り起こした著作です。
工藤精華について、関心を持たれている方には、必読の書ではないでしょうか。

著者の安達正興氏は、「安達正興のハードコラム」というHPを、掲載されているようです。
掲載されているお話のテーマは、幅広く多岐にわたっていますが、近代奈良をテーマに深く掘り下げた話も、数多く掲載されています。
「奈良零れ百話」「拙著の新刊案内『奈良まち奇豪列伝』1~4」
「奈良のコボレ話1~5」
などは、大変興味深く読ませていただいています。
併せて、ご紹介させていただきました。



【あと2冊で、全11輯を手元にできる「日本精華」】

最後に、ちょっと工藤精華に関する本について、ちょっとだけふれておきたいと思います。

工藤精華に関する本については、
埃まみれの書棚から「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者〈その4〉
で詳しく掲載させていただきましたが、その後、こんな出版物が刊行されました。

登録有形文化財 工藤利三郎撮影写真ガラス原版目録
2008年 文化庁文化財部美術学芸課刊 【313P】 非売品

登録有形文化財 工藤利三郎撮影写真ガラス原版目録

登録有形文化財 工藤利三郎撮影写真ガラス原版目録

この目録は、工藤利三郎撮影写真ガラス原版1025点を、登録有形文化財に登録するにあたっての目録として作成されたものです。
小さな写真ですが、1025点すべての図版が掲載されており、工藤利三郎撮影写真の全貌を観ることが出来るものです。


もう一つ、工藤精華、畢生の古美術写真集「日本精華」のことです。

私事ですが、この「日本精華・全11輯」を、何とか全部入手して手元に置きたいと、コツコツ集めています。

「日本精華」第一輯
「日本精華」第一輯

本当に、めったに見かけない本なのですが、極稀に、古書展などにバラ売りで出ることがあるのです。
最初の1冊を手に入れてから、もう30年ぐらい経ってしまいました。
何年おきかに1冊、1冊と手に入れて、現在、やっとのことで9冊を手に入れました。

私の手元にある日本精華全11輯中の9冊

私の手元にある日本精華全11輯中の9冊
私の手元にある日本精華全11輯中の9冊

あと、第5輯、第6輯の2冊を手に入れれば、全11輯完成になるのですが、この2冊を手に入れるのに、あとまだ何年かかることやら・・・・・・

もう無理かな、半分あきらめ気分という処です。


トピックス~額安寺虚空蔵菩薩像、文化庁が購入・近年の文化庁購入仏像をみる 【2016.1.8】


今年のお正月は、元日に赤坂・山王日枝神社に初詣に行きましたが、他はどこにも出かけなかったので、家でゴロゴロというところでした。


【ネットサーフィンで、ビックリの情報に遭遇】

時間つぶしに、ネットサーフィンで遊んでいましたら、こんなTwitterに遭遇しました。

「文化庁が、奈良・額安寺所蔵の重要文化財「乾漆 虚空蔵菩薩半跏像」一軀をお買い上げ。
価格は約5億4千万円なり。奈良国立博物館寄託?
額安寺を代表する美しい仏さまだったけど、お寺の維持にお金がかかるのかなあ。」
(2015.12.11)

額安寺・虚空蔵菩薩像(木心乾漆・奈良時代・重文)
額安寺・虚空蔵菩薩像(木心乾漆・奈良時代・重文)

「えーっ! 本当?」

驚きました。

Twitterにリンクが貼ってあった「官報」とみると、間違いありません。

額安寺虚空蔵像、文化庁購入が掲載された官報
〈平成27年12月11日 官報 号外政府調達第232号〉の額安寺虚空蔵像購入が記載された箇所

ご覧のとおりです。
まさに「ビックリポン」です。



【虚空蔵菩薩像のほか、額安寺所蔵文化財を次々文化庁が購入】

額安寺の虚空蔵菩薩半跏像(像高51.5㎝)は、奈良時代後期の木心乾漆像で、重要文化財に指定されています。
台座裏に、
「奈良時代、道慈律師が入唐求法の際に将来した像が損傷したので、鎌倉時代、西大寺叡尊が修理させた。」
旨の修理銘があることが知られている像です。

昔は、奈良国立博物館に常設展示されていたように思うのですが、近年は、大和郡山市にある額安寺に戻り、虚空蔵堂(収蔵庫)に安置されていました。
額安寺を訪れて、虚空蔵像を拝された皆さんも、多くいらっしゃるのではないかと思います。

額安寺.額安寺・虚空蔵堂
額安寺(右は虚空蔵菩薩像が安置されていた虚空蔵堂)

私も、たしか3度ほど、額安寺を訪ねて、若いご住職のご案内で虚空蔵菩薩像を拝したことがあります。

額安寺・虚空蔵菩薩像
虚空蔵堂内に祀られる虚空蔵菩薩像

額安寺は、富本憲吉の生家のある安堵村の隣の額田部寺町という、のどかな田園風景の中にあります。
これからは、あの額安寺を訪れて、虚空蔵菩薩像を拝することが、もう出来ないのかと思うと、大変、残念な気がします。

ただ、文化庁の買い上げですから、いずれの時期にか、奈良博に展示されることになるのかな、とは思いますが・・・・


そういえば、額安寺伝来の国宝・額田寺伽藍並条里図も、かつて国の買い上げになっていたなということを思い出しました。
そこで、Wikipediaで額安寺旧蔵文化財を検索してみると、

2009年に、木造文殊菩薩騎獅像(平安・重文)が、
2013年に、五輪塔納置品(鎌倉・重文)が、

文化庁の買い上げになっていました。

額安寺・文殊菩薩像(重文・平安時代).額安寺・五輪塔納置品 (重文・鎌倉時代)
(左)額安寺・文殊菩薩像(重文・平安)~(右)五輪塔納置品 (重文・鎌倉)

どのような経緯、事情で、額安寺の文化財が続々と文化庁の購入になっているのかは、全く判りませんが、国の所蔵となり、博物館等に展示されることになるのでしょうから、それはそれで良いのかも知れません。



【5億円を超す巨額、虚空蔵像の購入金額にビックリ】

もう一つ「ビックリポン」だったのは、虚空蔵菩薩像の購入額が5億4千万円弱だということです。
「こんなに、すごい高額なんだ!」
と、ビックリしてしまいました。
TVのなんでも鑑定団でも、こんな高額は見たこともありません。
重要文化財に指定されるような仏像が、いくらぐらいの評価額、取引相場になるのかなど、私には想像もつきませんが、なんとなく高くても1億円ぐらいなのかなという気がしていましたので、驚きの高額でした。

そういえば、2008年、現在、眞如苑蔵の運慶作の可能性のある大日如来像が、ニューヨーク、クリスティーズのオークションで落札された金額が14億円でした。
当時、あまりの高値に新聞テレビを大いに賑わせたことは、皆さんよく覚えておられることでしょう。

眞如苑蔵・大日如来像
眞如苑蔵・大日如来像

そのことを考えれば、奈良時代の数少ない木心乾漆像の遺品ですから、5億円ぐらいというのは、不思議でも何でもないのかもしれません。
日頃は、仏像愛好で、この仏像は出来が良いとか悪いとか、勝手なことを言っているのですが、お金の話になると、雲の上の話を聞いているようで、全く現実感がありません。

誰もが知っている、超有名な国宝仏像に値段を付けるなどということは、不可能なことなのでしょうが、もし値段をつけるとすると、どれほどの巨額になるのでしょうか?
想像もつきません。



【近年、文化庁の購入となった仏像は?】

額安寺の話のついでに、文化庁はどんな文化財(仏像)を購入しているのかと、気になってきました。
判るのだろうかと、文化庁のHPを検索してみると、なんと、「文化庁購入文化財」というページがありました。

そこには、平成20年度から26年度に文化庁が購入した文化財のリストが開示されています。
購入金額も記載されており、購入文化財の概要という写真入解説文まで付されているのです。
ちょっとびっくりしましたが、近年の情報開示の精神からすれば、こういう情報も開示していくということなのでしょう。

購入された仏像のリスト、購入額などを大変興味深く見ることが出来ました。
そこで、掲載されたリストを加工して、近年の文化庁の仏像購入リストを一覧にしてみました。

平成20年度以降の文化庁購入仏像のリスト

ご覧のとおりです。

平成20年度以降、16件の彫刻(仏像)が、購入されています。
過去の所蔵者、伝来などは、私が調べて確認したものもありますので、不確かかもしれませんのでご容赦ください。



【文化庁購入仏像の中から、いくつか目についた仏像をご紹介】

リストの中の仏像のなかから、ちょっと目についたものについて、ふれてみたいと思います。


〈不退寺・聖観音像と、一対の三尊脇侍だった聖観音像〉

平成20年度購入の木造聖観音立像は、以前、奈良博の常設展に展示されていたことがあり、大変印象に残っていた仏像です。
10世紀ごろの制作かと思われますが、なかなか惹きつける魅力を感じました。
奈良博の展示解説には、奈良市・瑞景寺旧蔵で、長野・セゾン現代美術館蔵と書かれていたように思います。

文化庁・平成21年度購入・木造聖観音立像.不退寺・聖観音像
(左)平成21年度購入・木造聖観音立像~(右)不退寺・聖観音像

文化庁の解説によると、納入品から不退寺伝来の仏像であることが分かるそうです。
佐保路・不退寺本堂に祀られる聖観音像と対をなす仏像で、元来は三尊像の両脇侍をなしていたものとみられています。

2体の仏像を写真で並べてみると、一見、同じ手の仏像には思えぬ気がしてしまいます。
彩色されているのと、木地になっているのとでは、随分見た目の印象が違って見えるものです。
よーく見てみると、なるほど同作だなというのが判るようです。

購入額は、2億3100万円です。


〈事件で話題になった、京都・常楽院旧蔵の清凉寺式釈迦像〉

平成22年度購入の木造釈迦如来立像は、鎌倉時代の清凉寺式釈迦像です。
文化庁平成22年度購入・常楽院旧蔵・釈迦如来立像
平成22年度購入
常楽院旧蔵・釈迦如来立像
文化庁解説によると、京都仏師・院賢の手になる可能性が高いそうです。

この像については、かつてこんな事件があったようです。

2010年11月10日付の毎日新聞記事によると、

この釈迦像は、京都市北区・常楽院の所蔵でしたが、文化財保護法で義務付けられている届け出のないまま、住職の債権者側に借金の担保として預けられていることが判明しました。
本像は1997年に京都国立博物館へ寄託されましたが、2004年に寺から「本堂に祀りたい」と申し出があり、寄託を一時解除しました。
ところが、文化庁と京都府教委がその後、寺へ確認したところ、本堂に像はなく、他へ預けたとの説明で、借金の担保として預けられていることが判った。

というものです。

その後、どのような経緯をたどったのかわかりませんが、国(文化庁)が購入することとなったということのようです。

購入額は、3億1500万円です。


〈迫力満点、亀岡市・大宮神社伝来の天王像〉

同じく、平成22年度購入の木造天王立像は、京都府亀岡市の大宮神社に伝来した10躯の平安古仏のうちの一体で、10世紀の制作です。

文化庁平成22年度購入・大宮神社伝来・天王像
平成22年度購入・大宮神社伝来・天王像

亀岡市・大宮神社
亀岡市・大宮神社

30年以上前に、9躯が民間に売却されたということです。
ダイナミックで迫力十分の平安古像で、東博に展示されているのを観て、魅力的な像だと気になっていました。
文化庁が購入した2年後の2012年に、重要文化財に指定されました。

文化庁平成22年度購入・大宮神社伝来・天王像
亀岡大宮神社伝来・天王像

観仏日々帖をご覧いただいている方から、旧所蔵者などについて、
「今回重要文化財指定になった天部形像は、1971年の「平安時代の彫刻」展に個人蔵として出陳されています。
元の所蔵者は薮本古美術です。
長らく同店の東京店に展示されていて、時々見に行くのが楽しみだった思い出があります。」
との、コメントを以前にいただいたことがあります。

購入金額は、未指定像だったのに、なんと4億6200万円です。

亀岡大宮神社伝来の平安古像については、以前に、観仏日々帖「亀岡市・大宮神社伝来の諸仏像」で紹介させていただきました。

大宮神社伝来像は、これまで3躯が国の購入となっているようで、天王像のほかには、
吉祥天像が東京国立博物館、観音菩薩像が奈良国立博物館の所蔵となっています。

亀岡大宮神社伝来・吉祥天像.亀岡大宮神社伝来・観音菩薩像
(左)亀岡大宮神社伝来・吉祥天像~(右)観音菩薩像


〈新薬師寺旧蔵の千手観音(准胝観音)像〉

平成23年度購入の木造千手観音立像は、奈良・新薬師寺に伝わった仏像です。

この像は、指定名称は千手観音像となっていますが、本来の尊名は准胝観音とみられています。
台座蓮弁に天禄元年(970)の墨書があり、製作年代はその頃ではないかとみられています。

文化庁平成23年度購入・新薬師寺伝来・千手観音(准胝観音)像.文化庁平成23年度購入・新薬師寺伝来・千手観音(准胝観音)像
平成23年度購入・新薬師寺伝来・千手観音(准胝観音)像

この千手観音(准胝観音)は、昔は、奈良博に寄託展示されていたようなのですが、戦後、常盤山文庫の菅原通済氏が新薬師寺から買い取ったようです。
その購入契約を巡って、奈良博から菅原氏に本像を引き渡すのか云々について、いろいろ物議をかもしたようです。
菅原氏は、「通済美術ばなし」(1961年・淡交社刊)という著作の中で、経緯や自身の言い分を語っています。
また、1959年6月の芸術新潮に、「新薬師寺の国宝を預る(菅原通済)」という執筆文が掲載されているようですが、私は、これは未見です。

いずれにせよ、何かといきさつのあった、新薬師寺伝来千手観音(准胝観音)像ですが、文化庁の購入ということになったということです。

購入金額は、3億円です。


〈お気に入りで何度か訪ねた、生駒市圓證寺の普賢・文殊菩薩二像〉

平成26年度には、生駒市圓證寺の普賢菩薩騎象像、文殊菩薩騎獅像の2像が、文化庁の購入となっていました。

文化庁平成26年度購入・圓證寺旧蔵・普賢菩薩騎象像.文化庁平成26年度購入・圓證寺旧蔵・文殊菩薩騎獅像
平成26年度購入・圓證寺旧蔵普賢菩薩騎獅像・文殊菩薩騎象像

私には、これもまた「ビックリポン」の話でした。

普賢菩薩像は平安前期、9世紀の制作、文殊菩薩像は、平安後期の制作とみられています。
普賢菩薩像は、平安前期のボリューム感、迫力十分の魅力あふれる像で、白毫寺の伝文殊菩薩坐像(平安前期)と似た空気感を持つ優作です。

圓證寺旧蔵・普賢菩薩像
圓證寺旧蔵・普賢菩薩像

白毫寺・文殊菩薩像.圓證寺旧蔵・文殊菩薩像
(左)白毫寺・文殊菩薩像~(右)圓證寺旧蔵・文殊菩薩像

私のお気に入りの仏像で、生駒市の圓證寺には、これまで3度ほど伺って、拝させていただいた思い出があるのです。
直近は、2013年3月に訪れました。

圓證寺は、近鉄奈良駅南方林小路の繁華街にあったのですが、繁華街の騒音等のため文化財の護持や宗教活動に支障があるということで、1984年から1985年にかけて生駒市に移転しました。
室町時代建立の本堂と、筒井順昭の供養塔である石造五輪塔(共に重要文化財)も、移建されたのです。

圓證寺

圓證寺本堂(重文・室町時代)
圓證寺~(下)文殊・普賢菩薩像が安置されていた本堂(重文・室町時代)"

この重文の本堂に、本尊の釈迦如来坐像(鎌倉時代)の両脇侍として、普賢・文殊菩薩像が安置されていたのです。
あの、静かで落ち着いた本堂の中で、両像を拝することがもうできないのかと思うと、本当に残念に思ってしまいます。

購入金額は、4億4928万円です。



「額安寺の虚空蔵菩薩像を文化庁が購入」というNET情報を知ったことをきっかけに、近年の、文化庁購入仏像のことをちょっと調べてみましたので、ご紹介させていただきました。

お寺所蔵や民間所蔵の文化財(仏像)を国が購入する経緯というのは、いろいろな事情があって、そうなっていったものなのでしょう。
国の購入予算に限りがある中で、いずれの文化財を購入するのかというのも、なかなか難しいことなのだと思います。
ただ、国が買い上げるということは、そのほかの処に売却、転売されるより、文化財の保存という意味では、最も間違いない処ということに違いありません。
いずれ、博物館等で展示され鑑賞が可能になるというのも、また有難いことです。

一方、お寺を訪ねて、お堂や収蔵庫に祀られている仏像を拝し、鑑賞するというのは、味わいも深く、感動もひとしおです。
博物館で鑑賞するのとは違う良さがあります。
そんな意味では、これまでお寺で拝していた仏像が、国の購入になるというのは、ちょっと残念な気持ちになってしまいます。


正月早々、仏像の購入金額などといった、お金にからむ生臭い話になってしまい、申し訳ありませんでした。

私にとっては、なんとも「ビックリポン」の話でした。


あれこれ~「観仏日々帖」おかげさまで100回を超えました  【2016.1.5】


新年、あけまして、おめでとうございます。

「観仏日々帖」ご覧いただき、ありがとうございます。
今年も、何卒よろしくお願いいたします。


取り立てて、お知らせするほどの話でも何でもないのですが、「観仏日々帖」に記事掲載が、100回の大台を超えました。
昨年末の掲載記事「2015年・今年の観仏を振り返って〈その4〉」で、101回目となりました。

過去、101回の掲載記事は、「観仏日々帖・総目次」をご覧いただければと思います。

総目次をご覧いただければお判りのように、2012年4月に第1回をスタートしました。
3年9ヶ月間で、100回の記事を掲載させていただいたことになります。
原則2週間に一度の記事掲載を心掛けているのですが、ほぼそのペースを守ってこられたようです。

この観仏日々帖、いわゆる仏像案内、仏像随筆に飽き足らなくなった仏像愛好の方々に、

「こんな見どころのある、知られざる仏像もあったのか!」
「仏像にまつわる、こんな話、エピソードもあったのか!」
「こんな興味深い、仏像についての本が出ていたのか!」

そんな風に、感じていただける話を、気ままに、思いつくままに綴っていければと思って、
「古仏探訪」「トピックス」「新刊旧刊案内」という標題で、掲載させていただいています。

どれほどに、皆さんにご満足いただけているのか、はなはだ疑問というところなのかもしれませんが、筆者本人は、仏像好きにはそれなりに興味深く、面白い話を掲載できているのではないかと、自己満足的に納得しています。


100回の話を振り返ってみて、「思い出深い記事、BEST3!」を、勝手に選んでみました。

一つ目は、第24・25回
鑑真和上坐像の御身代わり模像の制作を巡る話 【その1】   【その2】
です。

鑑真和上坐像の模造像
鑑真和上坐像の模造像
唐招提寺・鑑真和上像の模造制作が、美術院で行われた際に判明した新事実などを、ご紹介した話です。

像の制作技法などが、我が国の脱活乾漆像制作技法上類例がないものであることが、明らかになったのです。
これにより、鑑真像は、唐渡来の弟子たちによって制作された可能性が考えられ、「唐大和上東征伝」に伝える、生前に弟子たちが懸命に克明に師・和上の姿を写しとったという話も、一面、真実なのかも知れないというものです。
艱難辛苦の上に日本に渡来し、その生涯を終えた鑑真和上を慕う、唐渡来の弟子たちが、中国の高僧を祀る真身像や加漆肉身像の思想を背景に、異常なまでの写実に徹し、生くるが如き鑑真像を造立したのかもしれないという、浪漫に満ちた空想をかきたてるものになりました。


二つ目は、第36・38回
秋田県大仙市 小沼神社・観音菩薩像 【その1】   【その2】
です。

七夕の7月7日、秋田・大仙市にある小沼神社を訪れ、2躯の観音菩薩像を拝したときの話です。

鬱蒼とした杉林のなか、突然眼の前に開けた空間が出現し、そこには緑色の小沼が水をたたえています。
沼の向こう側には、小さな社殿がひとつ、ポツリと静かに佇んでいます。
この社殿に祀られる平安古仏を、女性の宮司さんによるご開帳の儀のなかで、拝することが出来ました。

小沼のほとりに佇む小沼神社.小沼神社社殿でのご開帳の儀
小沼のほとりに佇む小沼神社と社殿でのご開帳の儀

小沼のほとりに佇む小さな社殿に祀られた、2体の観音像を拝したとき、
「心洗われる」   「心揺さぶられる」
という言葉が、本当にそのままあてはまるような思いに浸ることができました。
感性や感受性が鈍くなってきている昨今、久々の感動でした。


三つ目は、第78・79回
立山神像の数奇な物語を振り返る・重文指定名称変更によせて 【その1】   【その2】
です。

立山博物館の帝釈天像(旧呼称:立山神像)
立山博物館の帝釈天像
(旧呼称:立山神像)
去年(2015年)、立山博物館の銅像・立山神像の文化財指定名称が、帝釈天像に変更されました。
像刻銘の科学的調査、研究などの結果、帝釈天像であることが明らかになったことによるものです。
この立山神像が、立山の地を離れてから、里帰りを果たすまでの、数奇な物語を振り返ってみた話です。

立山山頂に祀られていたといわれる立山神像は、明治の廃仏毀釈以来、立山の地を離れ、流転の道をたどり、昭和42年、海外に流出する運命であった直前、富山県に買い戻されるというドラマチックな里帰り物語となったのです。
この像が、里帰りできたのは、重要美術品指定の時(1940年)、「立山神像」と名付けられたことにより、富山県のシンボル的な像との思い入れがあったからです。

「帝釈天像ではなく『立山神像』という名称がつけられたことに、むしろ感謝しなければいけないのかもしれない?」

そんな感慨に浸る、物語でした。


以上の3つの話が、私の思い出深いベスト3です。
皆様のご感想は、如何でしょうか?


2週間ごとに、ちょっとまとまった話を掲載するのを継続するというのも、やってみると、関係資料の確認やらなにやら結構大変で、手間のかかることでした。
よく続いているなと、思ったりもします。
「そんなこと云って、ぼやくのなら、やらなければよい。」
といわれてしまいそうですが、
やはり好きな世界、しんどさより、たのしさのほうが勝っているようです。

ついでにいえば、記事にして掲載するというのは、自分自身にとって大変勉強になり、レベルアップになるもので、自己研鑽効果抜群という副次的効果を生んでおり、有難いことです。

今年は、「古仏探訪」の話を、もう少し増やしていくつもりです。
これからも、皆さんのご関心のありそうな、面白そうな、仏像についての話を掲載していくことが出来ればと思っておりますので、よろしくお願いします。


「これからも、この『観仏日々帖』、見てやってもいいな!」

と思われる方は、

景気づけに、元気よく、この下の「拍手ボタン」をクリックいただけるでしょうか。

その気になって、励みになりますので・・・・・