観仏日々帖

トピックス~深大寺・釈迦如来倚像の発見物語…白鳳展に寄せて 【2015.7.25】


【流石! 名品揃いの白鳳展】

いよいよ7月18日から、奈良国立博物館で、開館120年記念特別展「白鳳~花開く仏教美術」が開催されました。

奈良博・白鳳展ポスター

奈良博・白鳳展ポスター

白鳳美術の粋ともいえる、見事な仏像が勢揃いです。
超有名どころを並べてみてみただけでも、ご覧のような仏像が出展されます。

興福寺(旧山田寺)・仏頭、薬師寺金堂・月光菩薩立像、薬師寺東院堂・聖観音立像、
法隆寺・夢違観音立像、六観音立像、法隆寺・阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)、
法輪寺・虚空蔵菩薩立像、当麻寺・持国天立像、新薬師寺・香薬師像模造(奈良博蔵)、

流石、奈良博開催の白鳳展だけのことだけはあると、唸ってしまいます。
(これらの仏像を、すべて「白鳳」という区分で整理しても良いのかという議論はあるかとは思いますが・・・・・)

奈良以外の地に在る白鳳仏像も勢揃いで、

東博・法隆寺献納宝物から、丙寅銘菩薩半跏像・辛亥銘観音菩薩立像、
野中寺・弥勒菩薩半跏像、深大寺・釈迦如来倚像、龍角寺・薬師如来坐像、一乗寺・観音菩薩立像、
鶴林寺・観音菩薩立像、鰐淵寺・壬辰銘観音菩薩立像、長谷寺(大分)・壬寅銘観音菩薩立像、

等々といった、各地の著名仏像が出揃います。

これだけの白鳳仏がを、一堂に会して観ることが出来る機会は、これからしばらくの年数ないだろうと思います。
皆さんも、この展覧会だけは逃すまいと、出かける予定を立てていらっしゃることでしょう。

「白鳳」というフレーズは、心に美しく響くような抒情的語感を感じさせます。
白鳳は白雉(650年〜654年)の年号の美称ということですが、この時代の仏像を表現する呼称としては、本当に相応しい呼称があてられていると、今更ながらに思ってしまいます。

奈良博の白鳳展HPには、

「白鳳美術の魅力は金銅仏に代表される白鳳仏にあると言って良いでしょう。
白鳳仏は若々しい感覚にあふれ、中には童子のような可憐な仏像も見ることができます。」

と記されていますが、

皆さんも、白鳳仏には、
「若々しい、みずみずしい、清々しい、清明、可憐」
こんな修飾語で表現される美しさを感じられるのではないかと思います。

それが、白鳳仏のたまらない魅力になっているのでしょう。


【意外と多い、新発見の白鳳仏たち】

こんな白鳳仏の魅力は、展覧会でじっくりと実感いただくことにして、展示仏像の名前を眺めていると、ふとこんなことに気になりました。

私の知るかぎりなのですが、新たに発見され、その存在が知られるようになった仏像が7躯もあるのです。

深大寺・釈迦如来倚像、野中寺・弥勒菩薩半跏像、龍角寺・薬師如来坐像、悟真寺・誕生仏像、興福寺(旧山田寺)・仏頭、般若寺・阿弥陀如来立像、見徳寺・薬師如来坐像、

の7躯です。

深大寺・釈迦如来倚像..野中寺・弥勒菩薩半跏像
深大寺・釈迦如来倚像            野中寺・弥勒菩薩半跏像

龍角寺・薬師如来坐像...悟真寺・誕生仏像
龍角寺・薬師如来坐像(千葉)            悟真寺・誕生仏像(奈良)

興福寺(旧山田寺)・仏頭...般若寺・阿弥陀如来立像
興福寺(旧山田寺)・仏頭            般若寺・阿弥陀如来立像

見徳寺・薬師如来坐像
見徳寺・薬師如来坐像


・深大寺・釈迦如来倚像は、明治42年(1909年)に、
・野中寺・弥勒菩薩半跏像は、大正7年(1918年)に、
・龍角寺・薬師如来坐像は、昭和7年(1932年)に、
・悟真寺・誕生仏像は、昭和12年(1937年)に、
・興福寺(旧山田寺)・仏頭は、昭和12年(1937年)に、
・般若寺・阿弥陀如来立像は、昭和39年(1964年)に、
・見徳寺・薬師如来坐像は、平成10年(1998年)に、

それぞれ、発見されているのです。

このほかにも、調べてみると、もっと新発見の仏像があるのだろうと思いますが、そのあたりは良く判りませんが、ご存じの方はご教示いただければと存じます。

これら新発見仏像には、白鳳時代の仏像彫刻史の中で、大変重要な仏像になっているものがあります。

・興福寺(旧山田寺)・仏頭は、皆さんご存じのとおり、白鳳彫刻を代表する美麗な仏像です。
天武14年(685)完成の基準作例として広く認知されています。

・野中寺・弥勒菩薩半跏像は、台座銘文からら天智五年(666)に造立されたことが知られる基準作例で、飛鳥彫刻から白鳳彫刻へ転換してゆく作例として知られています。

・深大寺・釈迦如来倚像は、盗難に遭い今は亡き新薬師寺・香薬師像の兄弟のような姿で、これまた白鳳様式の典型といわれる清明さをそなえた仏像です。

新発見の仏像のもたらしたインパクトは、なかなかのものだったと云えるでしょう。

現在、白鳳彫刻を語るうえでは、
「この新発見の仏像を置いて、論ぜられることはないのだろう。」
と思います。
ちょっと大げさに言えば、
「これらの仏像の発見が無ければ、白鳳彫刻についての論ぜられ方は、また違っていたのかもしれない?」
といっても良いかもしれません。


そこで、これらの新発見の仏像の「仏像発見物語」をご紹介してみたいと思います。

興福寺(旧山田寺)・仏頭の発見物語は、以前に観仏日々帖の、
「トピックス~興福寺仏頭展によせて・・・「仏頭発見記」をたどる」
で、詳しくご紹介させていただきました。

今回は、これら新発見の仏像から、
深大寺・釈迦如来倚像、野中寺・弥勒菩薩半跏像、龍角寺・薬師如来坐像
の発見物語などを中心に振り返ってみたいと思います。

発見についてふれられた限られた資料からのご紹介ですので、ちょっと物足りないものになろうかと思いますが、ご容赦ください。


【深大寺・釈迦如来倚像の発見物語】

まず最初は、深大寺・釈迦如来倚像の発見の話から始めたいと思います。


深大寺は、東京都調布市に在る古刹です。

深大寺・山門
深大寺・山門

白鳳仏よりも「深大寺そば」の方でよく知られているのかも知れません。
門前は、深大寺そばのお店が軒を連ねていて、いつもお客さんで賑わっています。

門前に並ぶ深大寺そばの店
門前に並ぶ深大寺そばの店


〈白鳳仏の白眉、深大寺・釈迦如来倚像〉

この深大寺に、白鳳仏の白眉ともいえる金銅仏・倚像が祀られています。
半眼の細長い目、くっきりした眉と鼻筋、柔らかな唇は、清々しい少年の顔立ちです。
若々しい体つきをして、薄く身体を覆う着衣表現も端麗で、衣文は流れるような美しさです。
まさに「これぞ白鳳仏の典型」といえる美麗な姿です。

深大寺・釈迦如来倚像

深大寺・釈迦如来倚像
深大寺・釈迦如来倚像

この深大寺・釈迦如来倚像を、こよなく愛する方も多くおられるのではないでしょうか。

そしてこの深大寺像は、これまた白鳳という時代を代表する金銅仏、「新薬師寺・香薬師像」にそっくりの像として知られています。

新薬師寺・香薬師像..新薬師寺・香薬師像
新薬師寺・香薬師像

亀井勝一郎氏は「大和古寺風物誌」のなかで、この二つの仏像について、このように語っています。

「現存する香薬師如来の古樸で麗しいみ姿には、拝する人いづれも非常な親しみを感じるに相違ない。
・・・・・・・・・・・
ゆったりと弧をひいた眉、細長く水平に切れた半眼の眼差、微笑していないが微笑しているようにみえる豊頬、その優しい典雅な尊貌は無比である。
・・・・・・・・・・・
もし類似を求めるならば、関東随一の白鳳仏といはるる深大寺の釈迦如来坐像(ママ)に近いであろう。
深大寺は私の家からさほど遠くないので、時折拝観することがあるが、ちょうど兄妹仏のような感じを受ける。
香薬師が兄仏で、釈迦如来像が妹仏である。
立像と坐像の差はあるが、面影が実によく似ているのには驚く。」

ご存じのとおり、新薬師寺の香薬師像は、昭和18年(1943)に三度目の盗難に遭い、それ以来杳として行方知らずになってしまっており、今は、その姿を拝することは叶いません。
(香薬師像の盗難の詳しい話は、埃まみれの書棚から「奈良の仏像盗難ものがたり456回」をご覧ください。)

香薬師像亡き現在では、深大寺・釈迦如来倚像が、この清々しい少年を思わせるタイプの白鳳の典型仏として、大変貴重、重要な作品となっているといえるのでしょう。


〈柴田常恵氏による白鳳金銅仏の発見〉

さて、そろそろ発見物語を振り返ってみたいと思います。

深大寺・釈迦如来倚像が発見されたのは、もう100年以上前の明治42年(1909年)のことでした。
柴田常恵
柴田常恵氏

当時東京大学の助手であった柴田常恵氏が、元三大師堂の須弥壇の奥に横たえられていた仏像を発見したのです。
発見の4年後には、国宝(旧国宝・現重要文化財)に指定され、関東を代表する美麗な白鳳仏の出現として世に広く知られるようになりました。
柴田常恵氏は、当時32歳の若さでした。
考古学、古代文化研究者で、その後は慶応大学講師、文化財専門審議会委員などを務めた人物です。

柴田氏にとっても、この白鳳の金銅仏の大発見は、思い出深く、心に残る出来事であったようで、仏像発見を回顧する文章を2度にわたって綴っています。

「釈迦像発見当時の回顧」宝雲第2冊(1932年)所収

「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」 深大寺釈迦如来倚像(堀口蘇山編)・芸苑巡礼社1939年刊所収

この二つの文章は、それぞれ深大寺境内で行われた柴田氏の講演の速記録で、釈迦如来倚像発見当時の有様や、思い出話が、活き活きとした口調で語られています。
この講演録に導かれながら、仏像発見の話を振り返ってみたいと思います。


柴田氏が深大寺を訪れたのは、明治42年(1909)10月31日のことでした。

柴田氏の友人が京大図書館に転任するというので、その送別会を兼ねて深大寺にピクニックに3人で出かけたのだそうです。
深大寺では、老僧は病臥されていたので、寺男や小僧さんに手伝ってもらい、梵鐘の拓本をとったり、什物帳を拝見するなどしました。
そろそろ夕刻ということで、四谷での送別宴会に向かうため、帰り支度をし始めるころになり、帰りがけに元三大師堂に寄りました。

この元三大師堂で、白鳳金銅仏の世紀の発見となったのでした。
柴田氏は、元三大師堂の本尊が祀られる壇の下、地袋のようなところに、仏像が横たえられ押し込まれているのを発見します。
取り出してみると、「これはビックリ、古代の金銅仏に違いない!!」ということになったのです。

深大寺・元三大師堂
白鳳金銅仏が発見された深大寺・元三大師堂

深大寺・元三大師堂内陣
元三大師堂内陣~檀下に金銅仏が押し込まれていた

その時の有様について、柴田氏はこのように語っています。

「釈迦像発見当時の回顧」では、

「元三大師の御堂の方へ廻り、狐格子から覗いて見ると、経櫃が見える。
この寺は古いから写経の大般若か五山本でもありはしないかと、老寺男に出して
貰ったが、たいしたものではない、もぅ何もないかと訊きますと、この縁の下に金佛様があるといふ。

壇の下を覗いて見ると、一体の金佛があるが俯向きになっていて、衣紋やお顔が見えない。
寺男が壇の下へ這入ったが重くて出せない。
私も中へ這ひ込んで二人で漸く引出すやうにして出した。
どうやらいいようだから、縁の東側のところまで出して見た。

一行は帰り支度をしていたが皆集って来た。
これは大変なものだというわけで大いに亢奮し、そこでまた撮影をしようというので、写真機を片付けていたのを出して経箱を背景にして撮った。

翌日現像して見て―― こんな結構な御像であらうとは思はないし、寺の什物帳にも載ってゐないのだから、こんな立派な佛像が全然忘れられてしまつていたことに、再び驚きを發したわけである。」


「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」では、

柴田常恵と香取秀真
柴田常恵氏と香取秀真氏(鋳金家)
『今は之れまでと、いよいよ帰ろうと致しましたが、本尊の両脇は壇が出来て居まして、現在は堂内も立派に整理されて居ますと、其当時は左程でなく基壇の下の地袋と申しますか或は鼠込みと申しますか、兎に角壇から申せば床下に、仏様が位牌や花筒など様なものと一緒に横にして置かれてあるのに気付きました。

始めはお尻の方が見えて居たので仏像とは拝しましても全く予期せぬことゝて、左程に結構な御像とも思はず、寺男に聞くと、『サァ何ですかネー』と云つて居りますから、取出して見ようと思いますと挨だらけで却々重い、寺男に手伝って貰って、漸く東側の演椽に出したのであります。
此時に寺男は気付いたのですが、深大寺が法相宗であった時の本尊だと云うことですと云いました。

同行の両君は帰る用意を致して居られたが、珍らしい仏像の出現に、吉浦君は釣鐘の写真を撮る為め持参された写真機を既に仕舞って居られたが、幸に乾板がまだあったので再び取出して写真を撮って帰った追々と夕刻に迫った時で、之れが私としては此像を拝する最初でありました。」

乱雑に押し込まれた壇の下から、突然、金銅の古仏が見つかってしまい、想定外の驚きと亢奮であったようです。
白鳳仏の大発見の瞬間が、活き活き手に取るように語られています。


柴田氏は、この仏像の写真を、中川忠順氏に見せました。
中川忠順氏というのは、当時、文化財の国宝指定などを行う「古社寺保存会」の中心的役割を果たした、著名な美術史学者です。
余談ですが、中川忠順氏は、美術史において「飛鳥・白鳳・奈良・貞観」の時代区分を提起した人物で、「白鳳美術」という呼称の命名者としても知られています。

中川氏はこの写真を見て、
「深大寺は関東の蟹満寺ともいうべきで、是非一度拝見したい」
という話で、写真と地図を渡したそうです。

深大寺・釈迦如来倚像..深大寺・釈迦如来倚像
深大寺・釈迦如来倚像


〈売られてしまいそうになった、新発見金銅仏像〉

この後、とんとん拍子で、白鳳仏の国宝指定へと一気に進んだと云いたい処ですが、なかなかそうはいかなかったようです。

この話を知った数寄者などが、仏像欲しさに、買取の交渉を寺に持ちかけるという動きがあったのです。
深大寺の方も、当時は寺の修繕金にも困るような状況で、危うく売られてしまいかねないような局面もあったようです。
そんな経緯を経て、発見から4年を経たのち、ようやく国宝の指定を受けるに至りました。

柴田氏は、その経緯について、このように語っています。

「写真がどんな所へ廻ったものか、二三の数寄者の眼に触れたと見えまして、私共とは関係なく佛像慾しさにお寺へ交渉に来る者がありました。
・・・・・・・・・・・・
其人(注記:売却を持ちかけた人)の話に依ると、仏像は台帳に載って居ないのであるから、譲って貰うとすれば住職と総代の諒解さへ得れば出来ぬことはない。
本堂は荒果て、雨漏がする程なるが、修繕に困って居るから、寧ろ此佛像を譲って其費用に充てたらと云うことで、総代と交渉して居るとのことであった。

私は意外に驚きましたが、住職の老僧は其後久しからずして亡くなって居り、成るべく早く国賓にせねばならぬものと思ひましたが、中川さんにお尋ねすると台帳にないから其手績き済まねば出来ぬから、東京府の方へ話してあるとのことです。
何んでも其の時には二千円とか三千円とか云ふ様のことであります。

然るに地元の方でも住職が変わったり、何やかの事情があった為めでありましょう。
東京府の社寺関係の方でも棄てゝ置いた訳ではありますまいが、すぐにも国賓の指定を受けて宜しい仏像なるに関らず、未決の儘に敷年を過ごすに至ったは、右様の事情が多分にあった故と思われます。
斯くて大正2年4月に及び始めて国賓の指定を見るに至った次第であります。

仏像としては国宝の指定を見るまでの数年間は、誠に危険な時期でありましたが、幸に当事者の宜しき判然に依って之れを免るゝを得、今日では立派にお寺に安置されて居るといふ事は誠に結構なことだと思ひます。」
(「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」)


もしこの時に、国宝指定を受けずに、個人に売却されてしまっていたら、今はどうなっていたでしょうか。
個人蔵として、めったに観ることが出来ない仏像になってしまっていたかもしれません。
場合によっては、海外に流出してしまうようなことになっていたかもしれません。

幸いにして今も、この白鳳の名品、釈迦如来倚像を、深大寺で拝することが出来ることは、大変うれしいことです。


〈謎に包まれた深大寺・釈迦像の来歴〉

さて、この釈迦如来倚像の来歴は、どのようなものなのでしょうか?

これだけの名品仏像ですから、古記録や言い伝えが沢山あってもよさそうなのですが、何時、どのような経緯で深大寺に祀られるようになったのか、良く判らないのです。
この仏像の伝来や、造像背景は、謎に包まれているのです。

この像の深大寺との関係を示す最も古い記録が見られるのは、江戸末期、天保12年(1842)のことです。

同年の深大寺「分限帳」に、
「本堂ニ有之、同銅仏 丈二尺余 壱体」
との記載があり、これが本像にあたると思われます。
それまでの古記録などには、見当たらないのです。

その後、明治に入り明治28年(1895)の、「深大寺創立以来現存取調書」に、
「釈迦銅 壱躯 丈二尺余 坐像ニ有ラズ 右ハ法相宗タリシ時ノ本尊ナリ申伝ナリ」
とあり、
明治31年(1898)の「深大寺明細帳」にも同趣旨の記載があります。

これが本像にあたるのは明らかで、明治時代には、釈迦如来倚像の存在自体は、寺としては認識はしていたが、重要な仏像とは考えられずに、壇下地袋に放置されていたということなのでしょう。

深大寺の創建は、天平5年(733)と伝えられており、草創が古代に遡る古刹であることは間違いありません。
また当地は狛江郡の一部で、高句麗系渡来人影響を受けた地域であると考えられて言います。
その古刹につたわる、二尺余(83.9cm)もある古代金銅仏に関する記録が、江戸時代末年の天保年間まで全く存在しないというのも不思議なことです。


白鳳時代の作品であることに間違いない釈迦如来倚像ですが、造像当時から関東の地に在り祀られていたものでしょうか?
それとも、後代になってから、何らかの事情により、当地にもたらされたものなのでしょうか?


〈中央作か、関東作か、 誰が何処で造った白鳳仏?〉

発見物語とは関係ないのですが、この釈迦如来倚像が、関東の地で製作されたものなのか、関西地方・中央で製作されたものなのかの問題についても、意見が分かれています。

中央作とする根拠としては、
その作り方が、関西・中央の白鳳仏と類似していることが挙げられています。
とりわけ新薬師寺香薬師像と非常に近い表現であることが有力な根拠となっています。
頭部の螺髪を表現しないで鏨の痕を残す点や、面相の表現方法が似通っていること、またサイズもほぼ同サイズであることなどの類似点が指摘されています。

また、松山鉄夫氏は鋳造技術面からの研究により、本像の洗練された高度な技術が当地渡来人の仕事でできるものではなく、蓄積された技術のなせる業で、中央地域で造られたものであるに違いないと推察しています。


一方、関東地方で造られたとする考えもあります。
当時の関東地方には、朝鮮半島からの渡来人が多く住んでおり、その中には当然工人もいたはずで、本像のような金銅仏が制作されたとしても不思議はないとの見方です。
久野健氏は、コバルト60での透視撮影を実施した結果、深大寺像が同時期の関西中央作の金銅仏像に比べて「鬆(ス)」が多くみられることから、中央作でなく当地方で制作されたものとの見方をしています。

深大寺・釈迦如来倚像~透過写真
深大寺・釈迦像のコバルト60での透過写真(スが多くみられる)

全体的には、中央作とみる考え方のほうが有力のようですが、この時期高句麗と百済が新羅に滅ぼされ、7世紀中葉から我が国にやってきた渡来人が、武蔵野国にも移り来て、この美麗な白鳳仏を鋳造したというストーリーも、大変ロマンチックで惹き付けられてしまうものがあります。


いずれにせよ、深大寺の釈迦如来倚像、神秘のベール、謎に包まれた仏像のように思えてきました。

・白鳳時代を代表するとも言ってよい名作の金銅仏が、どうして関東の深大寺に在るのでしょうか?

・仏像の伝来や造像背景について、何の記録も、言い伝えも残されていたいのは、どうしてなのでしょうか?

・中央で鋳造されて関東の地にもたらされたのでしょうか、関東に移り住んだ渡来工人の手によってつくられたものなのでしょうか?

この仏像が、みずみずしく清々しく、白鳳仏の典型といえる美麗な仏像であるだけに、ますます興味が尽きないものがあります。


明治末年に、偶然に発見された仏像は、その後、白鳳仏の代表作品として、彫刻史で語られるようになりました。
よくぞ、売り渡されたり、海外流出せずにとどめ置かれ、また盗難にも遭うことなく、護られてきたものです。


お蔭で、私たちは、深大寺を訪れれば、いつでもこの美麗な白鳳仏を拝することが出来るのです。
現在、釈迦如来倚像は、昭和51年(1976)に新築された釈迦堂に安置され、ガラス越しではありますが、いつでも誰でも拝観が出来ます。

深大寺・釈迦堂
深大寺・釈迦堂

釈迦像は、昭和7年(1932)に吉田包春によって制作された、立派な春日厨子(市指定文化財)に静かに坐されています。
(現在は、春日厨子が除かれて、釈迦如来倚像が台座上に祀られているようです。)

深大寺・釈迦堂に安置されている釈迦如来倚像
釈迦堂に安置されている釈迦如来倚像
 
私は、この釈迦堂の前に立って、その美しいお姿を拝する時、ついつい明治42年の発見物語のことが頭をよぎってきます。


皆さん、「白鳳展」でも、この釈迦如来倚像をじっくり鑑賞されることと思いますが、武蔵野の深大寺まで出かけられて、柴田常恵氏による発見物語を偲びつつ、この謎に包まれた白鳳仏を、拝してみるのも良いのではないでしょうか。



【付記】

最後に、深大寺・釈迦如来倚像の発見物語の話などが、コンパクトにまとめられた冊子図録を、ご参考までに、ご紹介しておきます。

「深大寺展・図録」 調布市郷土博物館編集発行 2007年刊 【44P】

深大寺展図録

調布市郷土博物館開館35周年特別企画として開催された「深大寺展」の図録です。
「釈迦如来倚像の発見と柴田常恵」という表題の解説が掲載されています。
釈迦如来倚像の発見の経緯とその後の顛末などが、柴田常恵氏の講演記録を引用しながら、判りやすくまとめられています。
柴田常恵氏の年譜も付いています。


新刊旧刊案内~「日本仏像史講義」山本勉著・・日本彫刻史の旧刊を振返る【2015.7.11】


今回もまた、仏像関係書のご紹介です。

山本勉氏著の「日本仏像史講義」が、新書版になって5月に出版されました。


「日本仏像史講義」 山本勉著
2015年5月 平凡社新書 【215P】 860円


山本勉著「日本仏像史講義」


皆さんご存じと思いますが、この「日本仏像史講義」は、「別冊太陽」というムック本シリーズの一冊として、2年前の2013年3月に刊行されています。
今般の、新書版「日本仏像史講義」は、この別冊太陽版に加筆修正を加えて、ハンディーな廉価版として出版されたものです。

別冊太陽版は、美麗なカラー写真満載で愉しめるのですが、3800円と高価なのと、大判で持ち歩くのには難儀という処がありました。
今回の新書版は、860円と廉価で、ポケットに入るハンディーなものになりました。

別冊太陽版「日本仏像史講義」

別冊太陽版「日本仏像史講義」の掲載写真
別冊太陽版「日本仏像史講義」の掲載写真
美麗なカラー写真満載の別冊太陽版「日本仏像史講義」


【読み応えのある仏像彫刻通史】

「日本仏像史講義」という題名のとおり、所謂仏像ガイド、仏像手引きという案内書とは一味違う、仏像愛好者にとって、読みごたえが十分ある内容になっています。

仏像が好きになるスタートの頃には、〈古寺古仏巡礼〉とか〈仏像の美しさを訪ねて〉とかいう書名の本を読んで、仏像に親しみ始めた方が多いのではないかと思います。
私自身も、仏像を観はじめたとき、最初に手にしたのは和辻哲郎著「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物誌」などでした。

もう一段、仏像好きになってくると、仏像の歴史や造形などについて、もっと深く知りたいという興味関心が湧き上がってくるのではないかと思います。
そうすると、旅行記的な本、随想的な本では、物足りなくなってきて、仏像についての知的興味を充たしてくれる本が、読みたくなってくるのではないかなと思います。

私も、仏像の歴史といったものをしっかり知りたいと思うようになり、〈日本仏教美術史云々〉といった標題の本を、読んでみるようになりました。
ただ、この手の本は、学校の教科書そのものという感じで、単調というか平板というか、読んでいると「眠り誘う薬」で、すぐに飽きてしまった記憶があります。

本書「日本仏像史講義」は、仏像彫刻通史なのですが、結構面白く愉しく読めるのです。
新書版なのですが、各時代の仏像彫刻の特性とポイント、研究上の課題、論点などが、コンパクトに凝縮して盛り込まれています。

随想本や一般的概説書では物足りなくなった仏像愛好者の、知的興味をくすぐり充たしてくれる、格好の仏像史概説書だと思います。


【本書の内容~サワリのご紹介】

目次をご覧ください。

「日本仏像史講義」目次1

「日本仏像史講義」目次2


目次だけでは、中身が想像つかないのかと思いますので、少しだけ、本文のさわりをご紹介しましょう。

法隆寺再建と金堂釈迦三尊の項の、本文のさわりです。

飛鳥寺に次いで古い本格的伽藍であったと考えられるが、『日本書紀』によれば、この斑鳩寺の伽藍は天智9年(670)に一宇残さず焼失した。

これが昭和14年(1939) に発掘された、いわゆる若草伽藍跡にあたる。
若草伽藍は現在の金堂・五重塔・中門・回廊からなる西院伽藍の東南に接し、両者はわずかに敷地が重なっている可能性も指摘されている。

若草伽藍の発掘後、現西院伽藍は天智九年の火災後の造営と考える、いわゆる法隆寺再建論が一般的となったが、近年の年輪年代測定によれば、金堂に使用されている材木は火災前に伐採されたものであることがわかり、以前から一都にあった、火災前に新伽藍の造営が開始されていたとする新再建論の蓋然性が浮上した。

新伽藍造営の契機としては、皇極2年(643)の蘇我入鹿による斑鳩宮焼き討ちとのかかわりも想定されている。
しかし、敷地の重なる二つの伽藍の併存した可能性はやはり認められないとする意見も再提唱され、さらに議論は続いている。

いずれにせよ、法隆寺にはそれらの火災をさかのぼる7世紀半ば以前の仏像が伝えられ、これらの像の旧所在の問題など、仏像そのものの検証も、その議論にはふくまれるべきであろう。



(注記:金堂釈迦三尊の制作年代を光背銘文通りと考えることについて)

文献史学の立場からは、聖徳太子の実在をめぐる議論ともからめて、この銘記の内容の信憑性ひいては像の製作年代について疑義を呈する向きも一部にあるようだが、銘記が造像時に刻まれたことについては詳細な調査報告があり、美術史の立場からは、この像が銘記の示す推古31年(623) に製作されたことは、ほぼゆるぎなく認められている。

釈迦像について「尺寸王身」つまり聖徳太子と等身に造ると記しているのは、聖徳太子の神聖化の、そして太子と仏像史のかかわりの原点としても注目されるところであるが、亡者と等身の仏像を造るという行為は、おそらく中国の慣習から学んだもので、仏像に亡者の姿を重ねて思慕しようという意図にもとづいている。
この観念は以後の日本仏像史にもしばしばあらわれる。

なお、ここに名が明記されながらも作者止利仏師の実像が判然としないのは、飛鳥寺本尊についてのべたのと同様である。



薬師寺金堂三尊像の制作年代論の、本文のさわりです。

薬師寺金堂の本尊である薬師三尊像が日本の、ひいては東アジアの古代彫刻の最高峰に位置する作品であることは異論のないところであるが、藤原京薬師寺(本薬師寺)創建時の本尊が移坐されたとする説(移坐説)と、平城京移転後の薬師寺であらたに製作されたとする説(新鋳説)との論争があり、いまも解決していない。

前者であればその製作時代は飛鳥時代となり、後者であれば奈良時代ということになる。

藤原京における創建時本尊の完成を史料のどの時点にもとめるかについても諸説があるが、これを薬師寺で無遮大会の開かれた持続2年(688)以前とした場合、中尊薬師如来橡と、同じ丈六像である天武14年(685)開眼の山田寺像すなわち興福寺仏頭との作風の差はあまりに大きすぎることから、現薬師寺金堂本尊を創建時本尊とみることは困難であるとする説には説得力がある。
鋳造技法の調査でも薬師如来像に格段に発展した技法がみられることが指摘されている。

ただし、創建時本尊の完成は近年の研究における史料解釈によって、皇后時代の持統天皇の病のために天武天皇が発願した仏像が公卿百寮によって完成したという持続十一年であるとする説が再浮上しており(望月望「藤原京薬師寺本尊の造立年」〔東北大学大学院文学研究科美術史学講座『美術史学』31・32〕2011年)、それが現本尊の製作年代論争に影響をおよぼす可能性がある。

ともあれ現段階では、依然有力な新鋳説をとり、薬師寺移転が史料にみえる養老2年(718)頃の製作とするのか穏当であろう。


引用が、かなり長くなってしまいましたが、この本の内容をイメージいただけるのではないかと思います。

如何でしょうか?

仏像愛好者の知的興味をくすぐる、かなり読み応えのあるものだと思います。
新書版の概説とはいうものの、これまでの論点、最新の学説のエッセンスも凝縮して取り込んだものになっています。
ただ、こうした論点が存在することを初めて知る人にとっては、説明がコンパクトに凝縮され過ぎていて、ちょっと判りにくいかもしれません。
論点の大筋を御存じの方は、うんうんと頷きながら、新たな知見に興味を抱きながら、面白く読めるのではないでしょうか。


【新書版では大幅加筆~新研究成果も盛り込み】

ついでの話ですが、新書版では、「別冊太陽版から大幅に加筆された」と書かれていました。どんな処かなと照らし合わせてみましたら、結構加筆変更されていて、そのとおりでした。

新書版では、近年の諸説の出典論文が数多く明記されるようになっています。
また、別冊太陽版ではふれられなかった新たな研究成果が、しっかりと取り込んで説明されています。

新たな研究成果説明が、追加された処を、一つ二つご紹介しましょう。

飛鳥大仏の項では、

最近の科学的調査を踏まえ、現状の木や石による後補部分、塑土による後補部分以外の銅造部分に当初の造形をみるべきであるとする見解があるが(櫻庭裕介「飛鳥寺本尊丈六釈迦如来像について」〔早稲田大学文学研究科奈良美術研究所『奈良美術研究』14〕2013年)疑問である。

奈良時代の塑像・乾漆像の項では、

平安後期に「橘夫人」の病気平癒の由緒が語られた法隆寺西円堂の丈六薬師如来坐像は、「橘夫人」を橘美千代にあて興福寺西金堂諸像の周辺の作とみる説もあったが、最近は「橘夫人」を聖武天皇夫人の橘古那可智(~759)とみて天平勝宝7年(755)の聖武天皇不予に際して彼女が発願し、翌年の聖武崩御に完成して彼女の病気平癒の願意が加わったものかとする説がある。(中野聰「法隆寺上代彫像機能論」〔『機能論―つくる・つかう・つたえる』〈『仏教美術論集』5〉所収〕2014年竹林舎)

このような新たな研究成果のコメントが、加筆されています。

別冊太陽版をお持ちの方も、新書版を新たに買ってみる値打ちは、あるかもしれません。


【本書の執筆主旨など・・・・】

著者、山本勉氏は、本書を執筆することになった経緯や、趣旨について、「あとがき」で、このように語っています。

山本勉氏
山本勉氏
「多くの研究者の研究成果によって明らかにされてきた基本的な事実や、現在の研究状況の解説に終始している内容からすれば、『日本仏像史講義』というタイトルはややおこがましいものであったかもしれないが、なるべく平易な論述を心かけ、仏像史の流れはつかみやすくしたつもりだ。
大学の専門課程の講義というより、教養課程の講義、あるいは一般市民向けのカルチャーセンターの講義とでも思っていただければさいわいである。」


(注記:一般読者に好評をもってむかえられたことに関して)
「学生時代以来の恩師水野敬三郎から『読みやすい』とのコメントをえて(私信。もちろんこの評には『内容は薄いが』とのふくみがあると思うが)・・・・・・・・かすかに安堵した。
『日本仏像史講義』に著者がこめた、一人の専門家による一定の視座をもった通史に、なるべくあたらしい情報を盛りこんで、初学者や一般読者に提供したいという意図はそれなりに評価されたようだ。」


この山本氏のあとがきコメントは、本書の特長を、見事に言い表わしていると思います。
ちょっと読み応えのある仏像史概説書にご関心のある仏像愛好者にとっては、必読必携の一書ではないでしょうか。
是非、一読をお薦めします。


【仏像彫刻通史の旧刊本あれこれ・ご紹介】

ここで、ついでにという訳でもないのですが、これまでに発刊された、日本仏像史とか仏教彫刻史について解説された「通史的概説書」のなかで、それなりの「読み応え」がある本を、ご紹介してみたいと思います。

私が、これまでに読んだ「仏教彫刻史概説書」のなかから、この本は一度読んでみると面白い、興味深い、と感じたものです。

・いわゆる仏像案内とか仏像の歴史入門というものではなく、仏教彫刻史についてしっかり論じられているもの。
・単調淡々とした記述で、読み疲れてしまうものではなく、仏像愛好者の知的興味をくすぐる、読んで面白い本。

をピックアップしてみました。


まずは、ちょっと古いところで、戦前に書かれた本です。(出版は戦後すぐ)


「日本彫刻史要」 金森遵著  1948年 高桐書院刊  【221P】 170円

金森遵著「日本彫刻史要」


この本は、若くして戦死した美術史研究者、金森遵氏が、戦前の雑誌「国宝」に「日本彫刻史考」と題して連載した旧稿を単行本化した本です。
彫刻史の概説書というのはちょっと当たらないのかもしれませんが、なかなか興味深い本なのでご紹介しました。

目次は、ご覧のとおりです。

「日本彫刻史要」目次

目次の文言からも、ご想像がつくと思いますが、彫刻史の概説というのはあたらず、日本彫刻史における各時代の問題点、課題などを論じた論考、自説の開陳という内容になっています。
基本的な仏像彫刻知識を前提として、所論が論じられていますので、ちょっとなじみにくいかもしれません。
しかしながら、金森氏独自の「日本彫刻史の視点、考え方」が大胆に、思い切って論じられていて、ご関心のある方には、大変興味深く読めると思います。

例えば、「白鳳様式の可能性」の章では、「白鳳時代」について、このように論ぜられています。

此の如く見れば、白鳳時代を我国美術史~少なくとも彫刻史~の上で独立させるということは、様式的には全然根拠ないことが知られるのである。
そしてその前半は飛鳥時代の延長であるし、後半は奈良様式の萌芽期にあたるのであって、それ自体には一連の過渡としての意味すらも見出されないようである。
従って「白鳳」という美称に執着して、白鳳時代を残置せしめることは、「白鳳彫刻」の実に即せぬ空論としてしか考えられない。

大胆な議論が、舌鋒鋭く論ぜられていると、感じられることと思います。

金森氏、37~8歳ごろの執筆です。

金森氏は、東大大学院卒業後、東京・奈良の帝室博物館で彫刻史の研究に務めましたが、
「日本彫刻史を専攻する少壮学者として将来を嘱目され、その鋭い論文は識者の注目するところであつた」
研究者だそうです。

40歳で、フィリピン戦線にて戦死しますが、存命ならば、金森氏の鋭く大胆な彫刻史論が展開されたに違いなく、残念なことです。



「飛鳥・白鳳・天平の美術」 野間清六著 1966年 至文堂刊 800円

野間清六著「飛鳥・白鳳・天平の美術」

これもちょっと古い本ですが、皆さんおなじみの「日本歴史新書」の一冊として刊行されました。
仏像彫刻史の通史ではなく「飛鳥・白鳳・天平」という時代に限られて論ぜられていますが、読み応えある面白い本だと思いましたので、ご紹介しました。
私は、学生時代に、大変惹き付けられ、一気呵成に読み終えた思い出があります。

著者、野間清六氏は、本書の「まえがき」で、このように語っています。

「年輪を重ねれば、人それぞれの人生観が出来るように、私なりの上代美術観が何とか固まりかけたので、一応ここにまとめてみることにした。

本書のなかで、私が企図した点を挙げると、まず、
第一は、白鳳という時代を高くみて、大きく扱ったことである。
これは今まで飛鳥時代のものと思われていたものが、殆ど白鳳時代のものと考えられ、白鳳時代には大きく扱われるに値する、芸術的な高さが十分あると思ったからである。
第二は、作品に宿る造形感覚を追求して、その展開のあとを考えてみたことである。
これは美術の研究において一番大切なことだが、案外従来の美術書が軽視していたからであった。
・・・・・後略・・・・・・」

金森氏の「日本彫刻史要」とは正反対に、白鳳時代を一つの重要な時代様式として大きく評価し、「自由美、軽快美、リリカルな情趣性」を、白鳳の特色としました。

「飛鳥・白鳳・天平の美術」目次の一部
「飛鳥・白鳳・天平の美術」目次の一部

飛鳥白鳳時代の処の目次をご覧いただければ、ご想像がつくと思いますが、
野間氏は、百済観音、夢殿・救世観音、中宮寺・弥勒菩薩を、白鳳時代の制作と論じています。
当時は、中々大胆な発想だったのだと思いますが、その論点、視点には惹かれるものを感じてしまいました。

金森氏の「日本彫刻史要」と併せて読まれれば、興味深いことと思います。



「日本古代彫刻史概説」 町田甲一著 1974年 中央公論美術出版刊 【149P】 1700円

「日本古代彫刻史概説」 町田甲一著

町田甲一氏の名前は、仏教美術史に関心のある方で知らない人はいないのではないかと思います。
1993年、76才で亡くなりましたが、それまで日本彫刻史研究の第一人者として、また奈良六大寺大観の刊行を実現した編集委員代表として、多大な業績を残した著名な研究者です。

本書、「日本古代彫刻史概説」は、飛鳥時代から平安前期に至るまでの仏像彫刻の歴史を、「美術様式の展開」という視点から、町田氏の所論を論じた本です。
「概説」と題するには、少々専門的内容のような感じですが、判りやすく平明に記されています。

東京文化財研究所WEBサイトの物故者紹介によると、
町田甲一氏の業績などについて、このように記されています。

「町田は、生涯一貫して、芸術としての仏像の追究に情熱を注ぎ続けた。
その方法論は、リーグル、ヴォリンガー、あるいはヴェルフリンの理論に基づく自律的様式史観を前提としており、それを日本古代彫刻の様式区分論として展開させた一連の論考をあらわした。(「上代彫刻史上における様式時期区分の問題」〈『仏教芸術』38〉他)

町田氏は、飛鳥から平安初期にかけての仏像彫刻史を、
静視的・二次元的視覚活動から、触知的・三次元的視覚活動による写実、古典的理想美への展開、そして反古典バロック的表現へ
という、美術様式展開の中でとらえました。

本書は、ここでいう「町田氏の日本古代彫刻の様式発展論、区分論」を、まとめて概説した本といえるものでしょう。

町田氏は、本書「あとがき」で、このように述べています。

われわれの眼前に遺存する個々の作品を、まず芸術的に理解し、その様式の由来するところ、影響するところを明らかならしめるのが「美術史」という学問であるならば、個々の具体的作品の精緻なる研究を基礎としなければならないこと、いうまでもないことながら、その様式の歴史的展開、歴史的変容を追求して、その史的因果の関係を明らかならしめることを忘れてはならない筈である。

しかるに近時発表される美術史学上の多くの研究は、個々の作品についての研究が精緻になればなるほど、個々の作品の相互の間の問題や、その作品とその時代の美術全体との連関などについて、或いは一時代を限ってその時代の様式の変容などについて、論ずるところが、ひところに比べて、ますます少なくなってきているように思われる。

町田氏は、このような考えのもとに、「一時期の彫刻様式の展開について、私見をまとめようと」本書を執筆したとしています。

私は、町田氏の書かれた本を読んで、大変に惹かれるものを感じ、その著作を読みまくったことがありました。
一時期、「町田かぶれ」とでもいって良いようなものだったのかもしれません。
町田氏の著作のおかげで、仏像彫刻への興味関心が、大きく深まったような気がします。


「日本彫刻史論~様式の史的展開~」 中野忠明著 1978年 木耳社刊 【285P】 1600円

「日本彫刻史論~様式の史的展開~」 中野忠明著

本書は、中野忠明氏が、古美術研究誌「史迹と美術」に掲載した、日本彫刻史の各時代について論じた論文を再編集したものです。

中野氏は、あとがきで、このように記しています。

「著者が意図したのは、様式史としての彫刻史の追及であり、文化史的関連よりも、芸術作品の造型そのものの性質から、歴史を理解しようとした。
木耳社の企画も、このような在来の彫刻史の本とは毛色の違う、型破りの書物を世に紹介しようというお考えであろう。」

中野氏は、飛鳥から鎌倉に至る彫刻史の考え方のエッセンスを、このように述べています。

「日本仏像形成の歴史は、われわれの民族の美的本質がいかなるものであるかを顕示するものである。
仏像は古代において聖的崇高の美にかがやき、世界に対する知的観念を顕示したが、藤原仏は装飾的耽美の世界へ人々を迎摂している。
そして鎌倉以後は、世俗的芸術との抱合によって、仏像は高度な精神性を失った。」

このフレーズを読んで、共感されるか、そうではないのかは、それぞれかと思います。

ここに、本書の目次の詳細をご覧にいれておきます。

「日本彫刻史論~様式の史的展開~」目次

小さな字で読みづらいでしょうが、本書の論ずるところをイメージいただくことはできるのかと思います。



「仏像の歴史~飛鳥時代から江戸時代まで~」 久野健著 1987年 山川出版社刊 【220P】 1500円

「飛鳥白鳳天平仏」 久野健著 1984年 法蔵館刊 1600円

「仏像の歴史~飛鳥時代から江戸時代まで~」 久野健著.「飛鳥白鳳天平仏」 久野健著 

久野健氏の名前については、町田甲一氏と並んで、日本彫刻史研究の一時代を築いた著名な研究者として、皆さん、ご存じのとおりだと思います。

東京文化財研究所WEBサイトの物故者紹介は、久野氏の業績をこのように紹介しています。

久野の研究が戦後日本の仏教彫刻史を牽引したことは衆目の認めるところである。
ことに長く在籍した美術研究所から東京国立文化財研究所時代の研究では、仏像のX線透過撮影を推し進めるとともに、その成果を踏まえながら卓抜した彫刻史のビジョンを示した。

すなわち、『日本霊異記』の記述と照らし合わせて平安初期の木彫像の発生およびその支持推進が民間の私度僧による造像にあったことを提唱し、この学説は多少の修正は加えられながらも今日でも支持されている。

また、都鄙を問わず現地での調査研究を行ったことも研究の特色であり、・・・・・・・『平安初期彫刻史の研究』(吉川弘文館、1974年)といった大著として結実している。


「仏像の歴史~飛鳥時代から江戸時代まで~」 の方は、仏教の伝来から円空・木喰仏までをまとめた仏像彫刻の通史を、大変わかりやすく、平易に解説した本です。。
仏像の源流や系譜,作者,制作法,特徴や見方,各時代の比較,造像の儀式や手順などについて、エピソードを豊富におりまぜながら語られています。

本書のまえがきによれば、
「私(久野健)が各地で行った講演や講義のテープをもとにして、それに手を加え、仏像の通史をまとめてみたいと考え、出来たのが本書である。
そのため、出来るだけ講義のさいの話の流れを生かすように口語体にした。」
と述べられています。

仏像彫刻の歴史や論点が、やさしい語り口で記されており、読みやすさでは一番かもしれません。


「飛鳥白鳳天平仏」の方は、飛鳥~天平彫刻史についての概説と久野氏の所論をまとめたものです。

本書は、1980年から一年間、東京大学文学部で「日本古代彫刻史の諸問題」というテーマで講義した内容を一書にしたものだそうです。
この講義が、久野氏にとって東大での最後の講義になることから、記念のためにとられた録音テープをもとにして、加筆されました。

読みやすい文章ですが、それぞれの仏像、時代様式などについての久野氏の所論が、しっかりと述べられています。



「日本彫刻史概説・飛鳥~鎌倉時代」 水野敬三郎著 1996年 私家版 【50P】

「日本彫刻史概説・飛鳥~鎌倉時代」 水野敬三郎著

この本は、私家版で市販されていないのですが、ご紹介しておきます。
水野敬三郎氏が、講談社刊「日本美術全集」(全24巻)の、各時代の仏像彫刻の巻に概説を執筆したものを抜き刷り再録し、一書にまとめたものです。

日本美術全集の、第2巻、第4巻、第6巻、第10巻に
「飛鳥時代の彫刻」「奈良時代の彫刻」「平安前期の彫刻」「平安後期の彫刻」「鎌倉時代の彫刻」
という表題で、掲載されました。

この概説は、筆者の自説、所論に偏ることなく、各時代の主要仏像、仏像彫刻史の流れ、論点などについて、目配せが行き届いて解説されています。
長文ではありませんが、よく凝縮された密度の濃い彫刻史概説だと思います。
今回、冒頭でご紹介した、山本勉氏著の「日本仏像史講義」と、同じタイプの概説書といって良いのではないでしょうか。

写真でご紹介したのは、私家版なので、入手しにくいかもしれませんが、図書館などで、講談社版「日本美術全集」の当該巻の、水野氏執筆概説の処をピックアップしていただければ、通史としてお読みいただけると思います。



「日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社刊 【220P】 2500円

「日本仏像史」 水野敬三郎監修

本書は、美術出版社から、「カラー版 ○○史」という題名を冠して、15冊以上出版されている、美術工芸関係の歴史概説シリーズの一冊として刊行された本です。
「日本仏像史」のほかに「日本美術史」「東洋美術史」「日本建築様式史」等々といった本を書店でご覧になったことがあるのではないかと思います。

この「日本仏像史」は、日本仏像彫刻通史の解説本の「定本」といっても良い本なのではないかと思います。
仏像彫刻史のあらゆる分野に、目配せが行き届いていて、それぞれについてきちっと濃淡、過不足なく、学術レベルで解説されています。

監修者の水野敬三郎氏は、本書の「はじめに」で、このように記しています。

「日本の仏像の歴史は、これまでも美術史の概説や美術全集の中で項目として述べられてきたが、通史として一冊にまとめられた本は意外に少ない、というよりほとんどなかったといった方がよいかもしれない。
この本では、古代から近代にいたる各時代の仏像の歴史を、専門の研究家が分担して執筆した。
・・・・・・・・
今回は、その時代の彫刻史研究に道を切り開き、新たな展望を与えつつある方々に執筆をお願いした。
近代にいたるまでの、充実した仏像通史になったと思う。」

浅井和春、松田誠一郎、副島弘道、武笠朗、奥健夫、山本勉、藤岡穣、根立研介、鈴木喜博の各氏をはじめ、17名の研究者による共同執筆となっています。


本書の特長について、NET〈Amazon〉の商品説明では、

仏教伝来から現代まで、1500年余にわたる日本人の仏像受容と造像の全歴史過程を、240点余の図版・専門研究者の解説と充実した巻末資料により明らかにする。
仏像への正しい理解・鑑賞のための必須知識修得に、学生・愛好者必携の仏像学習書。

このように書かれていました。

この商品説明は確かにあたっているな、と思いました。

本書は、まさに「定本の通史」といって良いぐらい、きっちりと凝縮した文章で構成されているのですが、まさに「学術レベルの概説」という感じで、淡々とした文章で綴られています。
大学の仏像史講義の教科書にするには最適といっても良いのでしょう。
ただ、読み物として読んでいくには、ちょっとしんどくて、飽きが来てしまうかもしれません。
これだけのクォリティが高い本のことを、そのように言うと罰が当たるかもしれませんが、私には、読んで楽しいというより、座右に置いておくべき必携書という本となっています。



新刊の山本勉氏著「日本仏像史講義」の新刊案内から始まって、仏像彫刻史の通史単行本の旧刊案内になってしまいました。

ご紹介した旧刊各書を振り返ると、仏像彫刻史というものの捉え方に、様々な視点、考え方、論点が存在することを知ることが出来、大変興味深いものがあります。

私には、それぞれの仏像彫刻史本に接したことが、仏像愛好趣味を深めてゆくうえで、大変勉強になりました。


ご関心がある本がありましたら、ご一読いただければと思います。