観仏日々帖

古仏探訪~豊後高田市・内野区の焼損痛々しい聖観音立像 【2015.5.29】


今回も国東の知られざる古仏のご紹介です。

「ウーン!わざわざ足を運んで観に行くほどだろうか?」

この仏像の写真を最初にパッと見たとき、ちょっと唸ってしまいました。

内野区観音堂・聖観音立像

内野区観音堂・聖観音立像
内野区観音堂・聖観音立像

【焼け焦げ痕、痛々しい観音像】

大きなあばたのような焼け焦げの痕が、あちこちに残っているのが、まず目に入ってきます。
お顔の部分の眼、鼻、口にかけての焦げ跡は、大きく尊容を損ねてしまっており、痛々しいばかりです。
焼け焦げ跡の方に気をとられてしまい、仏像そのものの姿が、眼に入らなかったといっても良いのかもしれません。

一瞬、間をおいて、もう一度この観音像の写真を見直してみました。
よく見ると、なかなか魅力的な像であることに気がついてきました。

「この仏像は、結構古いぞ!」
「元は、すごく出来の良い仏像だったのじゃないだろうか?」
「力感充分で締りがあり、体躯のシルエットのバランス感が抜群だね!」

そんな感じがするのです。

「これは、一度自分の眼でみて、どのような仏像か確かめてみたい。」

と、思ったのでした。


地区管理の仏像ということで、豊後高田市の教育委員会に拝観についてお伺いしました。
ご担当の方に、大変親切にして頂き、管理の方にご確認いただくなど、お世話になりました。

地図などをお送りいただいたメールに、
「『国東のヴィーナス』とも称されているように、スラリとした美しい体躯は健在です。    是非、心ゆくまで堪能ください。」
との言葉が添えてありました。

「国東のヴィーナス、と呼ばれているのか!」

ますます、これは一度拝さねばと、期待感が高まってきたのでした。


内野観音堂への案内標識
内野区の観音堂は、豊後高田市の中心地、市役所などがある処から南東へ5~6キロほど、車で15分ぐらいのところにあります。

JR宇佐駅からは、東に10キロほどという処でしょうか。
観音堂の近辺まで往くと、「聖観音立像(内野焼仏)」と書かれた、案内標識を見つけました。

そこから細道を入っていくと、収蔵庫兼用のような小さな観音堂がありました。

聖観音像が祀られる内野区・観音堂
聖観音像が祀られる内野区・観音堂

観音堂下には、案内看板があります。

観音堂下に設置されている聖観音像の解説看板
観音堂下の案内看板


【元・西叡山高山寺の本尊であった聖観音像】

案内看板にはこのように書かれていました。

内野聖観音立像(県指定有形文化財)

六郷山寺院の本山本寺格、西叡山高山寺に安置されていたと伝えられる本像は、9世紀に製作されたものと考えられ、六郷山寺院の平安仏の中では最も古い仏像に入ります。
腰が横にはり下半身にボリュームがあるといった特徴を持ち、その流麗な姿から『国東のヴィーナス』とも称される秀作です。

西叡山高山寺はかつて六郷山寺院の僧が出家する灌頂所が置かれており、六郷山寺院の中心的な寺院の一つでしたが、江戸時代の初め頃(元和年間)に焼失したといわれています。
この火災の際に辛うじて難を逃れた本像は、地元で厚く信仰され現在に伝えられています。
(豊後高田市)」

西叡山高山寺という廃寺の名は、初めて知りました。

その昔には、京都の比叡山・延暦寺、 東の東叡山・寛永寺、西の西叡山・高山寺と並び称され、三大叡山と言われていた大寺であったそうです。
西叡山は、この内野区観音堂の真南2~3キロの処に見える、海抜570mの小高い山です。

西叡山
西叡山

現在、高山寺というお寺が西叡山の中腹にあるそうですが、そのお寺は昭和59年に建てられた新寺だそうです。

新高山寺・山門
新高山寺・山門

この観音像、西叡山高山寺の本尊であったと伝えられているそうです。
安貞2年(1228)の「六郷山諸謹行并諸堂役祭等目録」という文書に、高山寺の本尊として記されている
「本尊薬師如来並びに聖観音菩薩」
の聖観音に該当するものと考えられています。
写真で見た焼け焦げの後が大きく残っているのは、西叡山高山寺が江戸初期に焼失した時に、この仏像が火中した跡なのでしょう。


【内野観音堂の古仏を眼近に拝して】

早速、観音堂に上がって、仏像の拝観です。
お堂の扉を開けると、真正面に6体の古仏が祀られています。

観音堂内に安置されている聖観音像と破損仏

焼損の跡が痛々しい聖観音立像
観音堂内に安置されている聖観音像と破損仏

地元の方が、毎日お世話されているのでしょう。
可憐なひな菊の花が、観音様の前に供えられており、ホッと心が和みます。

目指す聖観音立像は、真ん中のひときわ背の高い像です。
観音像の両脇には、破損が甚だしい菩薩像、天部像が祀られていました。
観音像以外の破損仏も、かつては高山寺に祀られていたものだということです。

共に祀られている天部像..共に祀られている破損仏
共に祀られている破損仏

聖観音像は、県指定文化財(昭和44年・1965指定)で、像高193cm、カヤ材の一木彫で、内刳りは全く施されていません。
焼損が激しくはっきりしませんが、素地仕上げであったかとみられるそうです。

聖観音像の焼損は、やはりかなり激しいものでした。
真正面から火炎を受けたのでしょうか?
腰から下の前面は、ほとんどが焼け焦げています。

前面が火中焼損している聖観音立像

焼け焦げ痕が痛々しい聖観音像上半身
前面が火中焼損し、焼焦げ痕が痛々しい聖観音立像

胸から上は、顔面に至るまで、大きな痣があるかのような焼け焦げ痕が、何か所も残っています。
とりわけ右眼のあたりと鼻から口にかけての焦げ痕が、尊容を著しく損ねてしまっていて痛々しいばかりです。
そのことがこの古仏の鑑賞を大きく妨げているといえるでしょう。


【なるほど、「国東のヴィーナス」と称されるだけの優作】

近づいてじっくり拝すると、大変出来の良い平安古仏です。
焼損痕に惑わされないようにして鑑賞すると、力感みなぎるバランスの良い像であることに気がつきます。
その堂々たる姿は、流石に西叡山高山寺の本尊として祀られていた仏像だけのことはあると、納得させられるものがあります。

内野区聖観音像・上半身...内野区聖観音像・脚部衣文の様子
堂々たるプロポーションの聖観音立像(上半身と下半身)

腰高なプロポーション、豊かな腰の張り、締まりある肉付けの上半身の造形は、大変魅力的で、グッと惹き付けられてしまいます。
「国東のヴィーナス」
と称されるだけのことはある、魅惑的な仏像だと感じました。
朽損、摩耗していますが、腰の衣文の彫り口も結構鋭く、ダイナミックなものがあります。
平安前期仏の魅力をしっかり備えた、優れた一木彫であったに違いないと思いました。

「焼損せずに、朽損せずに、遺されていたとしたら、どんなに素晴らしい魅惑の仏像であったことだろうか!」

今のお姿を前に、そんな溜息が出てきました。
残念なことです。

なんといっても、豊かでパンチのある腰の張りが魅力的です。
この腰の張りの造形は、あの有名な唐招提寺のトルソーの一木彫を思い出してしまいます。
唐招提寺像よりはボリューム感が控えめで、大人しい感じですが、似たものがあると感じました。

内野区聖観音像・正面全身...唐招提寺如来形像・トルソー正面全身
内野区聖観音立像と唐招提寺如来形像・トルソー(正面全身)

内野区聖観音像・張のある腰部側面...唐招提寺如来形像・腰部側面
内野区聖観音立像と唐招提寺如来形像・トルソー(腰部側面)

また、腰高でウエストから胸あたりを絞ったプロポーションは、天平仏のシルエットを連想させなくもありません。
同じ大分県・宇佐の天福寺奥院の菩薩形塑像のシルエットを連想させるような気がするのですが如何でしょうか?
天福寺奥院の菩薩形塑像は、天平後期、8世紀後半の制作とされています。

内野区聖観音像・全身像
内野区聖観音像・全身像

天福寺奥院・塑像菩薩形立像...天福寺奥院・塑像菩薩形立像
天福寺奥院・塑像菩薩形立像

この聖観音像、平安に入ってしばらくたってからの制作だと思うのですが、その造形のフィーリングをみていると、天平の名残をそこはかとなく留めている古像のような気がします。


【聖観音像の制作年代は?】

制作年代は、どのように考えられているのでしょうか?
結構古いのでしょうか?

「大分の古代美術」(大分放送・1983年刊)には、鷲塚泰光氏がこのように解説がされています。

「顔は肉付きの良い瓜実型で、面奥も深く上瞼のふっくらとした穏やかな眼が浅く刻まれている。
・・・・・・・・・
胸部にくくりの線を刻み、腹部はやや前方に突き出す形にしぼり、これに豊かな腰が続き、下半身は膝に部分で一旦細め、天衣でたくられた裳裾が左右と後方に拡がる安定した形で、正側面共に動きがあって、像はみごとな均衡を保っている。

髻や耳輪の丸みの強い彫り口や、裳に断面が半円状の襞を繁く刻む手法は、福岡浮嶽神社に伝わる如来坐像、同立像、地蔵菩薩立像(いずれも重要文化財)の作風に近い特色のある表現である。

10世紀に遡るまとまりの良い本格的な一木造の作例として注目されるが、面相部や躰部前面に焼損が大きくひろがっているのがいかにも惜しまれる。」

内野区聖観音像・頭部側面..内野区聖観音像・脚部衣文
内野区聖観音像・頭部側面と脚部衣文

浮嶽神社如来坐像・頭部側面
浮嶽神社如来坐像・頭部側面

浮嶽神社・如来形立像...浮嶽神社・地蔵菩薩立像
浮嶽神社・如来形立像(左)と地蔵菩薩立像(右)

2006年に大分県立博物館で開催された「み仏の美とかたち展」図録では、渡辺文雄氏のこのような解説が載せられていました。

「丸く大ぶりの髻や厚く張りのある腹部から腰にかけての肉付け、裳裾両面のしのぎ立った衣文などに、平安前期一木彫成像の名残をとどめ、10世紀も前半頃の製作と考えられます。
数多い国東半島の平安仏では、最古の木彫仏です。」

観音堂前の説明看板には、
「9世紀に製作されたものと考えられ」
と書かれていましたが、
「大分の古代美術」「「み仏の美とかたち展図録」共に、10世紀の制作と考えられているようです。

たしかに、9世紀の制作とするには、造形に少し硬直化が見られ、平安前期のダイナミックな迫力が後退しているように感じます。
浮嶽神社の諸像と較べてみると、納得がいくところです。

この聖観音像、当地の製作ということで少し年代が下がるのかもしれませんが、その中でも大変古様を留めた、魅力ある秀作といって良いのではないでしょうか。



私は、この「国東のヴィーナス」を、大変気に入ってしまいました。

国東半島の鄙の地に在り、地元でひっそりと管理されている、知られざる古仏といって良いでしょう。
それに、焼け焦げ痕で、著しく尊容を損ね、なかなか愛好者の関心を惹くこともないかもしれません。
わざわざ、訪れる人もそうはいないのではないかと思います。

「素晴らしい仏像なのに、見た目で損をして可哀想だなあ!」

眼前に拝してみて、そんな気持ちが込み上げてきました。

国東方面へ出かけられた時には、一度は必見の、魅力ある像だと思います。
是非訪ねてみていただければと思います。


最後に、やってはならない禁じ手なのですが、写真に修整を加えて、焼け焦げ痕を隠してみました。

内野区聖観音像の焼焦げ痕を隠した修正写真

内野区聖観音像の焼焦げ痕を隠した修正写真
内野区聖観音像の焼焦げ痕を隠した修正写真

如何でしょうか?

目障りな焼け焦げ痕を隠してみると、この観音像の魅力あるプロポーションのシルエット、古様で締りある造形表現のイメージを、感じていただけるのではないかと思います。

大きな焼け焦げ痕で、余りに尊容を損ね、痛ましく可哀想なので、本来の造形をイメージしていただきたく、敢えてやってはいけない写真修正を試みてみました。

お赦しいただき、「国東のヴィーナス」本来の姿をイメージしていただければ幸いです。

古仏探訪~国東市国見町の古仏たち(平等寺、万福寺、千燈寺の如来像)  【2015.5.16】


前回に引き続き、宇佐、国東方面の古仏をご紹介してみたいと思います。

今回は、国東半島の知られざる古仏のご紹介です。

国東の仏像と云えば、まず思い浮かぶのは、真木大堂の阿弥陀如来、大威徳明王などの諸仏、富貴寺の阿弥陀如来像、長安寺の太郎天像あたりでしょう。
あとは、熊野磨崖仏の巨大石仏といったところでしょうか?

今回の国東探訪では、こうした有名諸寺も訪ねたのですが、国東半島を代表する諸仏像は、ガイドブックや解説書に良く紹介されていますので、「観仏日々帖」では、有名仏像はスキップして、国東半島の東北端にある国見町の古仏を採り上げてみたいと思います。

ご紹介するのは、国東市国見町にある、平等寺講中の釈迦如来像・二天像(平安時代)、万福寺の薬師如来像(平安時代) 、千燈寺の如来形像(鎌倉時代)です。
共に、県指定文化財に指定されています。

国東半島と国見町
国東半島と国見町エリアのイメージ

国見町というのは、国東半島の東北のはずれにあたるところで、国東観光に出かけられる人もなかなかそこまで足を伸ばす方は少ないかもしれません。
私も、国見町のこれらの古仏については、全く知りませんでした。
国東で、一見に値する平安古仏はないかと、「大分の古代美術」という本を調べていたら、平等寺講中と万福寺の古仏の写真が目にとまりました。
折角、国東半島まで出かけるのだから、思い切って訪ねてみようかと、足を伸ばしたのでした。


【平等寺講中の釈迦如来像を訪ねて】

まずは、平等寺をめざします。

平等寺(講中)は、国東市国見町野田という場所にあります。
国東半島のメイン、富貴寺からは、車で30分ほど北東へ走ったあたりです。
観光ルートからは完全に外れていて、随分鄙の地まで来た感じで、のどかな山村が続きます。

「平等寺講中」という名称でご想像がつくように、今は無住で、地区の講中の方々によって管理されています。
国東市の教育委員会のご担当の方にご連絡して、拝観お願いの労をとっていただきました。
教育委員会の方に頂いた地図をたよりに、県道からほど近いところの「平等寺入口」と書かれた標識を見つけました。
そこから橋を渡って曲がりくねった細道をしばらく登って行って、やっと小さなお堂に辿りつきます。
収蔵庫を兼ねた簡素なお堂で、一見、集会所のような建物です。
入り口には、「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」というちょっと古ぼけた木札が懸けられていました。

平等事講中のお堂..「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」の札
平等事講中の簡素なお堂と、「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」の木札

お堂のなかには、講中の女性が二人、我々をお待ちいただいておりました。
わざわざ、お堂を開いてご準備いただいたことにお礼を申し上げ。早速ご拝観です。

堂内に安置されている平等寺諸仏
堂内に安置されている平等寺諸仏

仏像は、お堂の正面奥に、並んで祀られています。
まずは、釈迦如来坐像のご拝観です。
像高82.5cm、カヤ材の一木彫で、内刳りは施されていません。

平等寺・シャカ如来坐像
平等寺・釈迦如来坐像

如何にも平安の地方作の如来坐像といった雰囲気です。
地方作ではありますが、一見してなかなか優れた出来の仏像であることが判ります。
平安前期のダイナミックさやボリューム感は薄れてしまっていますが、いわゆる定朝様の藤原仏のような様子はまだ感じられません。
丁度その中間のような感じです。

平等寺・釈迦如来坐像

平等寺・釈迦如来坐像..平等寺・釈迦如来坐像
平等寺・釈迦如来坐像

お顔の造形をみても、藤原の円満相ではなく、けっこう鼻筋がしっかり通ってキリリとした表情です。
野趣を感じさせる風貌でもあります。

平等寺・釈迦如来坐像~顔部..平等寺・釈迦如来坐像~顔部
平等寺・釈迦如来坐像~顔部

造形を見ると、上体は割合薄めに造られていて、厚みやボリューム感は感じられませんし、衣文の彫りもさほど凌ぎは立てず丸みを帯びたものになっています。
しかし、定朝様の仏像にみられるような、ととのえられた浅い衣文線の処理というのではありません。
シンプルな衣文の処理ですが、それなりのダイナミックさが表現されているように思われます。

平等寺・釈迦如来坐像~衣文
シンプルだがダイナミックさを感じさせる衣文の彫り口

全体の造形や衣文の表現から受ける印象は、「モッチリした」とか「ムッチリした」という言葉が似合うような、粘りのある造形表現、彫口のように感じられました。
ボリュームある造形ではないのに、「軽量感」は感じません。
むしろ、力感があるというか、「質量感」を感じさせます。
この像が、カヤ材の一木彫で、内刳りも施さないという造形であるから、そう感じさせるのでしょうか?


この釈迦如来坐像を拝していると、「平安彫刻の地方伝播」という彫刻史の教科書のひとつの典型を見ているような気になってきます。

中央の彫刻をたどると、平安中期になると、平安前期彫刻の塊量感、森厳性、鋭い彫口がだんだん失われ、落ち着いたバランス感重視の穏やかさを強調する表現になっていきます。
そして平安後期には、定朝様といわれるような整った均整な優美さや軽量感を感じさせる表現へと展開していきます。

平等寺の仏像をみると、それらの要素が折衷され混ざり合っているようです。
上体や造形バランスは平安中後期のボリュームを抑えた穏やかな表現となっているのですが、
顔貌のキリリとした表現、モッチリムッチリした質感ある彫り口に、平安前期の余風を残しています。
膝前も、そこそこのボリューム感です。
それに、地方特有の、野趣、田舎臭さがミックスされています。
古様がミックスされた、出来の良い地方仏の典型といって良いように思いました。

脇侍の二天像も、なかなかの出来で、本尊と一具とみられているということです。

平等寺・二天像
平等寺・二天像


〈平等寺・釈迦如来像の制作年代は〉

これらの仏像の制作年代は、どのように考えられているのでしょうか?

実は、脇侍の文殊菩薩像の像底に、後補の近世の追銘ではありますが「康平7年」(1064年)の墨書が見つかっています。
この墨書を全面的に信用することはできないのですが、何らかの拠り所があって記されたのかと思われています。
釈迦如来像の造形の印象も、その頃の制作と考えると、ぴったりという感じもします。

この像を採り上げた本を見ると、このように解説されています。

「面長の相好で、丸昧の強い両肩、厚い膝、中尊の左肩から垂れる納衣の端の折り返しなどに古様がみられ、郷山には一木造りで地方色の濃い仏像が多く伝わるが、その中の典型的な佳作ということができよう。」

(「大分の古代美術」岩男順氏執筆、大分放送1983刊)

「高めの肉髻、厚い膝、中尊の左脇の衲衣の折り返しなどに古様が見られ、後世の追銘であるが、文殊像像底の康平7年(1064)の墨書銘を首肯させるものがある。
一木造の地方色の濃い国東平安仏の中にあって、最も古様かつ典型的な作例といえよう。」

(「大分県の文化財」大分県教育委員会1991刊)

いずれにせよ、11世紀初頭ごろ当地で製作された出来の良い像で、真木大堂や富貴寺の仏像に先立つ、国東半島最古級の木彫像ということになろうかと思います。


〈盗難に遭い、行方知れずの両脇侍像〉


両脇侍が失われた平等寺釈迦三尊像
両脇侍が失われた平等寺釈迦三尊像

ところで、仏像が祀られている写真をご覧になってお気付きかもしれませんが、釈迦如来像の両脇侍、普賢菩薩、文殊菩薩像の姿が見えません。
仏さまを乗せていた、獅子と象の像が置かれているだけです。

平等寺釈迦三尊像~盗難前の姿
平等寺釈迦三尊像~盗難前の姿

実は、この両脇侍は、平成6年(1994)に盗難に遭い、未だに行方知れずになっているのです。
誠に、残念なことです。
今は、防犯のため、仏様の前面に鉄格子の扉が取り付けられています。
拝観に際して、扉の鍵を外して、開けていただきました。

やはり、無住のお寺は、このように盗難の危険にいつもさらされているということなのでしょう。
博物館などに寄託すれば、盗難リスクは回避されるわけですが、地域の住民の方々にとってみれば、この地に在ってこその村人を守る仏様であるわけで、信仰と文化財のハザマの問題は、なかなか難しいのだと思います。


〈平等寺、近年の歴史を振り返る〉

この平等寺の仏様も、近年の歴史をたどると、このようないきさつがありました。

平等寺は、江戸中期に衰微一度無住となり、その後一時期、寺運を持ち直したものの、明治 大正へと近代化の激浪の中で再び無住、廃屋の様相を呈してしまいました。
仏像を安置するのも厳しいというような状況に至り、昭和45年(1970)に、釈迦三尊像、二天像は京都国立博物館に委託保管されることになりました。
地方作の平安古仏で、釈迦、普賢、文殊の三尊がそろった仏像は珍しく、京博展示室に展示されていたということです。

博物館に大切に保管されておれば、管理という意味ではこの上ないのですが、当地国見町野田の人々にとってみれば、先祖代々苦楽を共にしてきた村の仏さまを、遠く持ち去られていることは淋しいかざりです。
また、土地の人々を守っていただける仏様でもあります。
そこで昭和47年(1972)、地元の人々は力を合わせて浄財を募り、また県や町の援助も得て収蔵庫の釈迦堂を新築し、これらの仏像の里帰りを実現したのでした。
釈迦堂を守る村の講中が中心となって、仏様をお祀りし、管理をしていくようになりました。

昭和54~55年(1979~80)には、顕彰会の援助によって、大修理もされたようです。
この大修理の時に、文珠菩薩像像底に康平7年(1064)の墨書銘があるのが発見されたのです。

ところが、仏様の里帰りを実現したことがアダとなってしまったような、盗難事件が起こってしまいました。
平成6年(1994)、普賢、文殊菩薩の両脇侍像が、盗み取られてしまうという災難に遭ってしまったのでした。
盗難後の二菩薩像の行方は杳として知れず、残念ながら行方不明のままだということだそうです。

ご拝観の段取りをいただいた女性方にお話をお聞きすると、昔は、諸行事も行われ、釈迦堂へお参りする人も頻繁であったが、土地在住の人々が減るようになり、高齢の方が多くなるにしたがって、このお堂を訪れる人も無くなりがちだそうです。
長い坂を登って、ポツンとたてられたこのお堂まで歩いてお参りするのは、高齢の方には結構きつくて、訪れる人も本当に少ないということの様でした。
この日は、我々が来るというので、わざわざ講中の女性方がお堂まで赴いて、鍵を開けてお待ちいただいたということでした。

こうした無住のお堂の文化財を、過疎化、高齢化が進む地で、村人の手で守っていくということが、そう簡単なことではなく、本当に難しい時代になったのだなと、実感した次第です。



【万福寺・薬師如来像を訪ねて】

次に、国見町櫛海にある万福寺・薬師如来坐像をご紹介します。

万福寺は、平等寺から車で15分ぐらいのところにあります。
もうあと2キロほど行けば、国東半島の東北の先端の海岸という場所です。
平等寺は、民家から離れた高台山中にポツリとありましたが、万福寺さんの方は村落の民家に軒を並べてありました。
国東特有の、石造の仁王像が立つ山門をくぐると、簡素な本堂があります。
村落の人々と共に在る鄙びたお寺という感じです。

万福寺山門の石造仁王像

万福寺・本堂
万福寺山門の石造仁王像と本堂

ご本尊の薬師如来像は、普段は年2回のご開帳の時だけしか拝観が叶わないようですが、国東市の教育委員会のご担当から拝観のお願い連絡をしていましたので、ご住職がご拝観の段取りをしてお待ちいただいていました。

早速、薬師如来像のご拝観です。
本堂中央の立派な厨子内の少し高いところに、お祀りされています。

本堂に祀られた万福寺・薬師如来像

万福寺・薬師如来像...万福寺・薬師如来像
本堂に祀られた万福寺・薬師如来像

像高71cm、カヤ材の一木彫で、内刳りはされていません。

この薬師像については、解説書には、このように記されています。

「大粒の螺髪に肉厚のモデリングなど古様であるが、丸顔の面相は穏やかな童顔に表わされ、腹前から両膝に至る翻波風の衣文も形式化が著しい。
平安前期木彫の伝統を受け継ぎながらも、和様化と形式化が進んだ12世紀前半の造立であろう。」

(「大分県の文化財」大分県教育委員会1991刊)

万福寺・薬師如来像
万福寺・薬師如来像

「衣文の彫りには簡略化が見られる。
衣のひだは溝状に刻み込むが、ひだとひだの間には小さく降起を見せる。
これはいわゆる貞観彫刻にみられる翻波の彫法を踏襲しているものである。
特に膝のひだを平行楕円曲線に表わしているのが目につく。

これは奈良元興寺や、京都神龍寺薬師如来保など9世紀仏像の大腿部のひだの表現に見られるものと同様なものであるがそれを、著しく形式化したものである。
8世紀末唐招提寺旧講堂如来立像に始まり、9世紀に盛んに行なわれた様式が地方に伝わりその終末を示す資料としても興味深いものがある。
しかしながら左肩を覆う衣の端の折り返しの軽妙な彫法などには、地方仏師の創意工夫の跡が見られる。
彩色はわずかに白下地を残す他は、ほとんど剥落している。
・・・・・・・・・・・・・・
総体的に形式化が明らかであるが、
いかにも地方作らしい素朴さの中に、どっしりと落着きを示す特色ある作である。制作年代は平安末期と推測される。」

(「大分の古代美術」岩男順氏執筆、大分放送1983刊)

眼近にじっくりと拝させていただきました。
たしかに、造形や表現は、解説にあるとおりの平安古仏だなと感じました。

平等寺の釈迦像が、平安前期の余風を残しながら、その造形が地方化、形式化していった、11世紀初頭の地方の一木彫像の典型的な像だとすれば、
この万福寺像・薬師像はその地方化と形式化が、更にもう一歩進んで、温和さ、穏やかさがも増してきた11世紀末~12世紀の国東地方の地方作古像ということになるのでしょう。

地方作の匂いがくっきりと漂い、「国東半島の地に在る古仏」という表現がピッタリくる仏様だなと思いました。

この仏様は、海底から出現したという「海上渡来の伝承」があるそうで、古来、近郷の人々の厚い信仰を受けてきたとのことです。
彩色像であったのでしょうが、いまは素木像のようで、手先も亡くなっています。
お顔も、穏やかな童顔のような優しさをたたえています。
そうした飾らぬ素朴さが、この古仏の魅力といえるのでしょう。
素晴らしく出来がよい像というのではないのですが、「飾らぬ素朴さ」に何とも言えない親近感を覚えてしまいました。

美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像

美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像...美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像
万福寺で拝見した、美しく撮影された薬師如来像の写真

いつもはインパクトのある仏像に惹かれてしまうのですが、万福寺・薬師如来像を拝して、何やら、国東・国見町の山村風景の雰囲気のような、のどかで優しい気持ちになりました。



【千燈寺・如来坐像を訪ねて】

国見町の古仏ご紹介の最後は、千燈寺・如来坐像です。

千燈寺には、鎌倉初期の県指定文化財の如来坐像が祀られているということでしたが、スケジュールの都合もあり、鎌倉期の像でもありということで、パスをするつもりでした。

県道31号山香国見線を走って、平等寺へ向かって車を走らせていたところ、県道沿いの左手に千燈寺が見えてきました。
天台宗六郷満山・千燈寺と刻された大きな石碑が見えます。
少し時間もあるので、ダメもとでご拝観をお願いしてみようと、山門をくぐりました。

千燈寺・山門

千燈寺・本堂
千燈寺・山門と本堂

本堂には誰もいらっしゃらないようで、あきらめかけていた処、地元のウォーキング・ハイキングかと思われる10~20人の団体さんがやってきました。
これはラッキーと後ろについて、お堂に上がりました。

団体のリーダの方のお話では、
「御住職は行事があって留守にされており誰もいないのだが、我々が来るということで、仏像をはじめ寺宝をお堂に並べておいていただいているんですよ。」
ということだそうです。

堂内に取り揃えられた千燈寺の宝物
本堂内に並べられた千燈寺の寺宝

お目当ての如来坐像も、本堂内に台が置かれて、祀られていました。

我々は、拝観が叶いラッキーだったのですが、開け放たれたお堂にこんなに無造作に置かれていて、防犯上大丈夫なのでしょうか?
のどかな山村ならでは、ということなのかもしれませんが、本当に心配になってしまいます。


それはさておき、仏像のご拝観です。
像高51.5cm、ヒノキの寄木造の漆箔像で、鎌倉初期の制作とされています。
左右2材を頭体の正中線で矧ぎ、頭部を割り首にしているということです。

千燈寺・如来坐像

千燈寺・如来坐像
千燈寺・如来坐像

小ぶりで、可愛らしいという雰囲気の仏像です。
定朝風の典型のようなお姿をしていますが、よく見ると、体躯、肉取り、衣文の処理に鎌倉の空気感をはっきり感じさせます。
両手先が欠失しており、当初の尊像名が良く判らず、「如来坐像」という指定名称になっています。
「キリリとした少年の、清新な空気感を感じさせる」
とでもいうのでしょうか?
小品ながら可愛くすっきりした古仏という印象でした。

千燈寺・如来坐像...千燈寺・如来坐像
千燈寺・如来坐像

千燈寺は、かつては六郷満山の大寺で、16の末寺を有し六郷満山の中核を成す寺院として栄え、「西の高野山」とも称されました。
天正年間に大友宗麟による焼き討ちに遭って大規模な伽藍は焼失し、文禄年間に再建されたものの往時の繁栄を取り戻すことはなかったということです。
現在の千燈寺は、旧千燈寺の坊が昭和初期に山麓に移転したもので、旧千燈寺址は六郷満山ふれあい森林公園として整備されているということです。
現在は、国東六郷満山霊場第二十三番札所になっています。

この仏像は、元々千燈寺の末寺の法教寺(下払坊)の本尊であったのですが、後に旧千燈寺本堂に安置され、さらに本堂の破損がひどくなったため、現在の千燈寺に移されたということのようです。


今回は、国東市の東北端、国見町の古仏を三躯ご紹介しました。

皆、如来坐像のご紹介でしたが、こうして順にみていくと、平安中後期から鎌倉へと変化していく、国東の地方仏の有様の典型を見ているように感じました。

地方特有の野趣や土臭さの匂いをしっかりと刻みこんで、のどかな親近感を発散させているようです。


国東・国見町の古仏を訪ねて、何やらホッとしたような、ほのぼのしたような、そんな優しい気分になることが出来ました。



【追加の写真掲載】

コメントにてご確認のありました、平等寺釈迦如来坐像の趺坐の様子を別の角度から撮った写真です。
ご参考までにご覧ください。

平等寺釈迦如来坐像の趺坐の様子

古仏探訪~大分県宇佐市・龍岩寺奥院の三尊仏像 【2015.5.2】


昨年(2014年)11月、大分県宇佐・国東方面の観仏探訪に出かけました。
福岡市博物館で開催された「九州仏~1300年の祈りとかたち展」に、同好の方々と出かけたのですが、それにあわせて大分県まで足を伸ばしたのです。

探訪した古寺、仏像はご覧のとおりです。

大分県観仏探訪先のリスト

2日間で拝して回りましたが、その前に福岡市博物館、九州歴史資料館の仏像特別展などを観た後だけに、
「もう目一杯!」「腹一杯の満腹状態!」
という感じになってしまいました。

これらの古仏のうちから、いくつか印象に残った仏像をご紹介してみたいと思います。


まず最初は、宇佐市院内町の龍岩寺の三尊仏です。
平安後期の制作で、重要文化財に指定されています。


【異次元の幽玄空間、岩窟礼堂に祀られる三尊仏】

一度、この三尊仏を拝すると、きっと誰もが忘れることが出来ないことでしょう。

しっかりと記憶に刻まれる仏像です。
山腹の岩窟の礼堂奥に、すっくりと佇む三体の巨像を目の当たりにすると、心撃たれずにはいられません。

龍岩寺・三尊仏像
龍岩寺奥院礼堂・三尊仏像

急峻な岩壁に貼り付いたような龍岩寺・礼堂
岩壁に貼り付いたような龍岩寺・礼堂

45年前、学生時代に、この龍岩寺を訪ねたことがあります。
急峻な岩壁に貼り付いたような礼堂に、堂々たる三尊仏が祀られるというたたずまいは、鮮烈に目に焼き付きました。
その時の有様は、今でも映像を見るように蘇ってくるような気がします。

昭和47年(1972)当時撮影の龍岩寺三尊像
昭和47年(1972)当時撮影の龍岩寺阿弥陀如来像..昭和47年(1972)当時撮影の龍岩寺不動明王像
昭和47年(1972)に訪れた時撮影した、龍岩寺三尊仏像写真

思い出の龍岩寺に、再訪を果たすことが出来ました。


龍岩寺は、大分県宇佐市院内町大門という処に在ります。
宇佐八幡のある宇佐市街から東南に15キロぐらいのところの、山間の山村といったところです。
「龍岩寺参道」の標識がある石段を往くと、すぐに右手に住居兼用のような本堂があり、ここで拝観のお願いをします。

龍岩寺参道・入口..龍岩寺参道・入口
龍岩寺参道・入口

ここから、三尊仏がある奥院までは、細い急な山道を15分ほど登って行かなければなりません。
御住職なのでしょうか、管理されている方なのでしょうか、有難いことに、奥の院までご一緒にのぼってきていただきました。
巨岩がくりぬかれたトンネルを抜けると、奥院の礼堂が目に入ってきます。

奥院礼堂への山道.奥院礼堂への山道
奥院礼堂への険しい山道・トンネル

思わず息を呑むような景色です。
転げ落ちそうな急峻な岩壁の巌窟に、礼堂の建物が貼り付いたように建てられているのです。

急峻な岩壁に建てられた龍岩寺・奥院礼堂

龍岩寺奥院・礼堂
急峻な岩壁に建てられた龍岩寺・奥院礼堂

鳥取三仏寺の投入堂のことが、すぐに思い浮かびます。

鳥取・三仏寺投入堂
鳥取三仏寺・国宝投入堂

この建築様式、三仏寺投入堂と同じで「懸造り」というのだそうです。
鎌倉時代の建築で、重要文化財に指定されています。

山腹の岩窟は緑の木々に囲まれ、礼堂に佇むと静寂そのものです。
わずかにそよぐ風が、心地よく通り抜けていきます。
礼堂の奥には、格子戸越しに、3メートルほどもある巨大な木彫の三尊の坐像がどっしりと坐っているのが見えます。

礼堂内陣の格子戸越しに拝する三尊仏
礼堂内陣の格子戸越しに拝する三尊仏

中央に阿弥陀如来、向かって右に薬師如来、左に不動明王の三尊です。
礼堂の屋根と巌窟の間から程よい光が差し込んで、三尊仏が岩窟から浮かび上がって映えるようです。

龍岩寺奥院・三尊仏
龍岩寺奥院・三尊仏

幽玄というのでしょうか
神秘的というのでしょうか。
なにやら、異次元の空間、世界に浸ったような気持ちとなります。

45年前に訪れたときと、何も変わっていません。
この空間に身を置くと
「やっぱり、また来てよかった」
という実感が込み上げてきます。


さて、仏像のご拝観です。
普段は、外陣から格子戸越しにしか拝することが出来ないようですが、今日はわざわざ内陣のカギを開けて招じ入れていただき、目の前で巨大な三尊を拝することが出来ました。

これだけの巨像、本来なら離れた場所から拝するものなのでしょうが、そばに近づき仰ぎ見るように拝すると、本当に圧倒されてしまいます。


【石仏を思わせる木彫仏の三尊仏】

「石仏をみているようだ」

このように感じられることと思います。

龍岩寺奥院・三尊仏

龍岩寺奥院・不動明王像
石仏を思わせるような龍岩寺・三尊仏

螺髪や細かな衣文の線などを大胆に省略して、大まかにざんぐりと彫りあげられています。
目鼻口などお顔の作りも、思い切ってシンプルに表現されています。
とても木彫の彫像とは思えない仕上げ方です。
木塊を、石の塊のように造形したようです。

このざんぐりとした石仏風の表現が、背面の巌窟のゴツゴツした岩場と、見事に調和しているように感じます。
この巌窟を開いた人は、この山腹の急峻な岩場の巌窟に、出来得ることなら巨大な石仏を祀りたかったのではないでしょうか?
臼杵の古園石仏は、岩壁から彫り出した大きな大日如来の石仏などが礼堂で覆われ祀られています。

臼杵の古園石仏・礼堂

臼杵・古園石仏
礼堂に覆われた臼杵・古園石仏

そのようにつくりたかったのが、急峻な山腹では到底かなわず、石仏風の木彫像を祀ることにしたのかも知れません。

この三尊仏像は、共に素木作りで、クスノキの巨材を用いて造られています。
仏像に用いたクスノキは、山下に在る祇園社境内の神木を伐って刻んだという伝えがあります。
神仏習合の霊木信仰によるものかと思われます。

用材がクスノキで彫られていることが、この木彫像に「石仏の風合い」を感じさせるのに大きく作用しているように思えます。
クスノキは広葉樹の散孔材ですが、肌目、質感が粗く、硬質感を感じさせるところがあり、風化していっても、木目がささくれたりするようなことがありません。
今では年を経て、体躯に細かなヒビ割れがたくさん入っていますが、石仏的な硬質感は、しっかり保たれています。

ひび割れがが生じているクスノキ材の木地
ひび割れが入っているが石仏の風合いを感じさせるクスノキ材の木地

もしヒノキのような針葉樹材で彫られていたら、縦の木目に沿って割れやささくれが激しく生じて、とても石仏のような風合い、雰囲気は出なかったと思われます。

九州ではクスノキ材が使われることが多いのですが、石仏的風合いを出す効果も考えて、クスノキ材が用いられたのかもしれません。


【修験から生まれた?急峻岩壁の奥院礼堂】

どうして、このような三尊仏像がこのような急峻な岩窟に造られたのでしょうか?

龍岩寺の歴史については、良く判りません。
寺に残された龍岩寺縁起によると、

「天平18年(746)に行基菩薩が開き、鎮守牛頭(ごず)宮から木を切り出して一刀三礼のもとに三尊を刻んだ」

という内容が記されていますが、到底信用できるものではありません。
やはり、天台修験の信仰に絡んで、造像されたものと考えられているようです。

鷲塚泰光氏は、

「阿弥陀、薬師、不動を三尊とする組み合わせは、他に例がほとんどなく、当地方の天台修験と民間信仰の複雑な結びつきによる造像と考えられる。
・・・・・・・・
難解な教義はともかくとして、人びとの安寧を願う気持ちのあらわれと考えるべきであろう。」

(「大分の古代美術」1983年大分放送刊所収)

と述べています。

平坦に礼堂にたどり着けるようにされた通路
今では平坦に礼堂に
たどり着けるようにされた通路
修験がらみとすれば、奥院礼堂にたどり着くのも、昔は、結構険しかったのかもしれません。
今では、岩のトンネルを抜け比較的平坦な細道を往くと、そのまま礼堂にたどり着きます。
昔は、そうでもなかったようです。

建築史学者の福山敏男氏は、このように拝したと記しています。

「岩の洞門を抜け、左手に少し回ってのぼると、間もなく東南向きの岩窟のがけ下に達する。
舞台造の建物の正面が仰がれ、その脚下に沿って右に、鉄の鎖につかまって岩面を上ると北側から堂前面の広縁に入るようになっている。
さらに正面の扉を開いてうす暗い礼堂の内部に入ると、思いもかけない光景に驚かせれる。」

(「古寺の旅・西日本編」1973年東京美術刊所収)

この文章は、1953年に書かれたものです。
当時は、建物の脚下から鉄の鎖につかまって登っていかねばならなかったようです。

礼堂にのぼるクスノキ材の「きざはし」
急峻な崖を礼堂にのぼる「きざはし」

三仏寺投入堂に登る険しさには比べものにならないでしょうが、修験の奥院に参る険しさがあったのでしょう。
今でも脚下には、梯子のようなクスノキ材の「きざはし」(市指定有形文化財)が遺されています。
三尊仏を刻んだ残りの丸太を削って造られたものと伝えられている、原始的作法の階段だそうです。
昔は、参詣道として利用されていたのでしょう。


【三尊仏を彫ったのは石仏仏師?】

三尊仏の造形を見てみましょう。

龍岩寺奥院・薬師如来像
龍岩寺奥院・薬師如来像

龍岩寺奥院・阿弥陀如来像
龍岩寺奥院・阿弥陀如来像

龍岩寺奥院・不動明王像
龍岩寺奥院・不動明王像

造形表現は、面貌も体躯も、誰が見ても藤原仏のおだやかな表現です。
12世紀の制作とみられています。

しかし、都の定朝風の仏像のような、優美さとか繊細さというものは感じさせません。
「単純化の美、省略の美、抽象化の美」とでもいうのでしょうか?
温和なのだけれども、素朴な粗野さ、堂々たる雄大さを強く感じます。
なかでも、不動明王の顔貌の造形は、何とも言えない魅力があり、心惹かれるものがあります。
修験の岩窟に祀られるのに相応しい造形です。


三躯共にクスノキの一木彫で、後頭部と背面から内刳りを行って蓋板を当て、両肩からは別材、膝前は横一材と構造になっているそうです。
「頭部の耳の後ろで前後に矧いでいる」(国宝重要文化財「仏教美術」奈良国立博物館編1976年小学館刊)と書かれているものもあります。
どちらが正しいのかは良く判りません。

ただ、正面から見たときの堂々たる雄大さに比べて、横から見たときの体奥の薄さには、ちょっとびっくりしてしまいます。
不釣り合いというほどに薄っぺらいのです。
藤原仏だからというよりも、石仏の浮彫的な表現の延長というか、背後の岩壁を意識した正面性をとりわけ強調した造形表現になっているように思います。

体奥が薄っぺらい如来坐像..頭部が大きく造られた不動明王像
体奥が薄っぺらい如来坐像と、頭部が大きく造られた不動明王像

また、どの像も、頭部、顔部が不釣り合いなほどに大きく造られています。
狭い巌窟礼堂で、見あげるように拝むことが想定されているからでしょうか。

巌窟の狭い礼堂で、間近に、真正面から巨像を仰ぎ見て拝するという視覚的効果が、最大限計算されているようです。
薄っぺらい体奥、頭部の不釣り合いな大きさも、そう考えれば、納得できます。

こんな石仏のような木彫仏は、ほかの地方では見かけることがありません。
やはり龍岩寺・三尊仏の石仏的な彫刻表現、岩壁浮彫的な正面観照表現は、臼杵石仏に代表される当地の石仏造像と深い関係があるのでしょうか?
石仏を彫った工人と龍岩寺仏を彫った仏師は同じ工人なのでしょうか?

専門家は、こうした点について、どのように考えているのでしょうか。

鷲塚泰光氏は、
「像は木彫でありながら、その質感と立体としての微妙な凹凸起伏を否定した彫り口で、あたかも磨崖仏のように、概形のみを明確に刻む手法を示している。
この手法は、木彫としては小作り仕上げに至る以前で像を完成したように思え、作者を当地方の石造仏師に擬することもできよう。」

(「大分の古代美術」1983年大分放送刊所収)
このように、述べています。

軟質凝灰岩に丸彫風に彫られた臼杵石仏

木仏師の制作を思われる彫口の臼杵石仏
軟質凝灰岩に丸彫風に彫られ、木仏師の制作を思わせる臼杵石仏

臼杵石仏などの制作者については、これらの石仏が、
・きわめて丸彫り的に彫られていること、
・その様式が同時代の木彫仏に近いこと、
・当地の軟質凝灰岩の石質がやわらかで木彫で使うノミでも制作可能であること
などから、木仏師の手による制作ではないかといわれています。

こうした木仏師系の石仏製作者が、龍岩寺三尊仏もまた製作したと考えれば、大変納得のいく話です。

久野健氏は、一歩進めて、このようにも考えられています。

「大分県の石仏の制作はかなり長期間にわたっている。
はじめは木仏師のような仏師の手になった石仏も、次第に石彫の専門の仏師も出現したろうし、また磨崖石仏に適する様式も生まれていったことは、その遺品を通観すると明瞭に知ることが出来る。

次第に丸彫り的石仏から、浮彫的な磨崖仏へとかわり、衣文なども省略的な大まかな表現が行われるようになっていった。
この龍岩寺の薬師如来、阿弥陀如来、不動明王像などは、今度は逆に磨崖石仏を多数制作しているうちに生まれた石仏的表現が、木彫に影響し、生まれたものではないかと私は考えている。
三像共通の大まかな彫法や、面相の特異な表現などは、まさに石彫的である。」

(「仏像の旅」久野健著 1975年芸艸堂刊)


【三尊仏は、明かり射すように祀られていたのか?】

礼堂の格子戸の向こうに坐した三尊仏を拝した時、

「礼堂の屋根と巌窟の間から程よい光が差し込んで、三尊仏が岩窟から浮かび上がって映える」

私は、このような感じがして、異次元の幽玄世界に身を置くような感動を覚えました。
冒頭に、記したとおりです。

地方仏行脚で知られる丸山尚一氏も、同じ思いをいだかれたようで、意図的にこの光射す光景がつくられたと考え、こう語っています。

屋根と岩壁の間から光が射し込む礼堂
屋根と岩壁の間から光が射し込む礼堂
「背面の岩窟と、礼堂の片流れの屋根との間がかなりあいているので、仏像達の頭上から柔らかな陽光があたって、いい効果を創り出している。
仏像の作者は、十分にこの光の効果を意識していたように思える。」

「阿弥陀像の伏し目がちな眼が最も特徴的なのだが、下から見たときに、上からの光の陰影で目をはっきり浮き出させるために、単純な彫りで処理している。
これが、上からの光線に、実によく生きている。
こんな表現方法からも、野外で石仏を彫る工人と同じ作者を想像していいのかもしれない。」

(「生きている仏像たち」丸山尚一著 1970年読売新聞社刊)


ところが、昭和初年には、そのような光景ではなかったようなのです。
お堂のなかは、真っ暗であったというのです。

龍岩寺は、昭和2年(1927)に田中一松氏によって調査され、その仏像の価値が認められたのだそうです。
その時発表された、「大分県龍岩寺仏像」(中央美術151号・1928.6)と題する文章に、当時の状態が記されています。

ご紹介すると、このように語られています。
真っ暗な礼堂で明りに照らされた龍岩寺阿弥陀如来像(中央美術151号掲載)
真っ暗な礼堂で明りに照らされた
龍岩寺阿弥陀如来像(中央美術151号掲載)


「燭をともして禮拝した後、内陣に入ったが、薄暗くて殆ど何も見えない。
用意した懐中電燈でてらしてみると驚くべし、一丈ばかりの三尊佛が目の前に迫っているではないか。

『蝋燭を』という日名子氏の声に応じて、村の人々は各々蝋燭の裸か火を手にして佛像の左右を照らして呉れた。
岩壁を背にして、おぼろおぼろに浮き出す三尊の山の如き姿を目の前にして、私はしばし声もなく立ち尽くした。」

暗くて、蝋燭、懐中電灯を灯し、やっとのことでその姿を見ることが出来たというのです。
堂内は、現在とは全く様子が違っていたのでした。

昭和2年(1927)当時の奥院礼堂(中央美術151号掲載)
昭和2年(1927)当時の奥院礼堂(中央美術151号掲載)

後に礼堂が改修され、今のような光景になったようです。

この幽玄異次元世界の三尊像、造立された当時は、真っ暗な中で燈明の明かりにほの暗く照らし出されて、拝されたのでしょうか?
それとも、
屋根の上から程よい柔らかな光が射し込んで、上からの光に映える姿を拝したのでしょうか?

ちょっと、興味深い処です。


岩窟に坐す巨像の三尊仏に見惚れている間に、ずいぶん時間がたってしまいました。
急坂を上ってくるときにびっしょりかいた汗も、森のなかを通り抜ける涼しげなそよ風に、すっかり引いてしまいました。

「やはり、もう一度来てよかった!」

そんな気持ちに満たされながら、奥院礼堂を後に急坂を下りました。


【お気に入りの可愛らしい十二神将像】

最後に、ふもとの本堂に祀られている、かわいい十二神将像を拝させていただきました。
龍岩寺参道口にある本堂
龍岩寺参道口にある本堂

大変お気に入りの十二神将なのです。
十二神将は、本堂内の奥の祭壇に、他の色々な仏像と一緒に、ごちゃごちゃとぞんざいともいえそうな感じで祀られていました。
30~40㎝の小像です。
この十二神将、本当に無邪気ないたずらっ子が、ちょっと悪さをしているようにも見える姿です。

龍岩寺本堂に祀られる十二神将像

龍岩寺本堂に祀られる十二神将像
龍岩寺本堂に祀られる、可愛らしい十二神将像

なんとも可愛らしいのです。
わが家に連れて帰ってしまいたくなりそうです。
実は、この十二神将に再会できるのも、楽しみにしていました。

鎌倉時代の制作といわれ、県指定文化財となっています。

龍岩寺本堂に祀られる十二神将像
龍岩寺・十二神将像(鎌倉時代・県指定文化財)

この十二神将、かつては、奥院の薬師如来坐像の前に祀られていたと、久野健氏が回想文で語っています。
そんなことをしたら、すぐに盗難に遭ってしまいそうで、危なくて仕方ないところでしょうが、一昔前は、随分のどかであったようです。



念願であった「龍岩寺、再訪」を果たすことが出来ました。
45年前に味わった感動を、色褪せることなく、また同じように味わうことが出来ました。

「また来てみたいけれど、もうなかなかここまで来ることはないのかな?」

そんな気持ちになりながら、ちょっと名残惜しく、龍岩寺を後にしました。