観仏日々帖

トピックス~立山神像の数奇な物語を振り返る・重文指定名称変更によせて(その2)【2015.4.25】


〈その1〉は、立山神像・帝釈天像の流転と里帰りの物語でしたが、
〈その2〉では、本像の重要文化財指定名称が、「銅造男神立像」から「銅造帝釈天立像」に名称変更された話についてふれてみたいと思います。


【「男神立像」から「帝釈天立像」への指定名称の変更】

今年(2015)、3月、富山県文化振興課(立山博物館)は、「立山神像の名称変更のプレス発表」を行いました。
ご覧のようなニュースリリースです。

富山県文化振興課(立山博物館)の、「立山神像の名称変更」のニュースリリース

文化財指定名称の変更というのは、そう多くあることではないのだと思います。
指定名称が正式に変更されるということは、本像が帝釈天像であるというのが有力な説というのではなく、研究成果によって実証されたということなのだと思います。

ニュースリリースには、このように記されています。

「このたびの名称変更においては当館学芸員の地道な調査研究が認められ、文化庁文化審議会の答申にいたったものであります。」

この調査研究の成果については、(その1)の冒頭でご紹介した、
2014年10月、立山博物館開催の「立山と帝釈天」展図録に、詳しく掲載されています。
この図録は、所謂展覧会図録という内容ではなく、立山神像と立山帝釈天信仰についての研究論集ともいえる、密度、濃度の大変濃いものとなっています。
図録の目次をご覧いただければ、その充実度が想像いただけると思います。

「立山と帝釈天」展図録の目次

「立山と帝釈天」展図録の目次~掲載論考


なかでも、

「国指定重要文化財『銅造男神立像』の銘文を読む」
「『立山神像』をとらえなおすために~国指定重要文化財『銅造男神立像』への視点」

という2編の論考は、立山神像が帝釈天像であったことを、きっちりと実証するものです。


【「立山神像」とされた重美指定の名称とその後】

それでは、この銅像、これまで、どうして立山のご神体、「立山神像」であるとして、「銅造男神立像」という指定になっていたのでしょうか?

この像が立山のご神体の神像であると、公に認知されたのは、昭和15年(1940)、「重要美術品」に指定された時のことでした。
この像には、奉納された時の状況を示す銘文が残されています。

立山神像・帝釈天像の刻銘

立山神像・帝釈天像の刻銘

立山神像・帝釈天像の刻銘


像本体の前面と方形の框三面に鏨で銘文が刻まれています。
ただ、像の表面が相当荒れてしまっていることから、肉眼で判読するのが難しい個所も多くあります。

重要美術品指定の調査の際、胸部に刻まれている銘文が「立山神体」と判読されたのです。
この時の調査には、香取秀真氏、田沢金吾氏等があたったようです。
後でふれますが、今回の科学的調査によって「立山禅頂」と記されていることが明らかになった銘文です。

立山神像・帝釈天像の胸部の刻銘
立山神像・帝釈天像の刻銘
中央上部の刻銘が「立山神体」と判読された


重要美術品目録には、

「銅造立山神像 1躯
像正面に、立山神体 如法経六部寛喜二年三月十一日、台座に越中新川郡田寺奉納ノ刻銘アリ」
(立山神体の体の字は、で囲まれており、判読が難しかったものと思われます)

と記載されています。

この指定により、本像は、立山神像であると認められることになりました。

それまでは、帝釈天像だと思われていたらしく、昭和12年(1937)、本像が名古屋新聞社主催の「仏教博」に展示されたときには、「帝釈天像」という名称で展示されていましたが、この重要美術品指定で、「立山のご神体である立山神像」という位置づけがなされたといって良いのかもしれません。

そして、本像の富山県への里帰り後、昭和43年(1968)に重要文化財に指定された時も、この考え方が継承されました。
重要文化財指定時の、説明はこのように記されています。

「銅造男神立像 1躯
像正面に立山神体、寛喜二年三月十一日の刻銘がある」
とし、
・両眦(まなじり)をつり上げた面貌を見れば、神体像として造られたものであると考えられる、
・立山の神体として越中新川郡の一寺において鋳造されたものであることが判る

と、説明されています。

こうして、立山神像として制作されたことが確定的にみられるようになり、かつて立山山頂にご神体として祀られていた神像として、広く知られるようになったわけです。


立山神像だとされた決定的事由は、胸の銘文が「立山神体」と判読されたからでした。

重要文化財指定当時においても、刻銘を「立山禅頂」と判読する解し方、神像ではなく帝釈天像ではないかと考える見方もあったようです。

買戻しにあたった吉田実氏も、芸術新潮寄稿の「海外流出を免れた立山神像」(1967.11)に、立山神像の実物に対面した時の様子を、
「古香ゆたかな書体で彫った『寛喜2年』とか『立山禅頂』というような文字が明確によみとれる記文もある。」
と、記しています。

その後も、帝釈天と見るべき、あるいは「立山権現」と判読し神像と見るべき、という考え方などが出されたこともありました。

何故、判読が極めて困難なほどの状況であった銘文が「立山神体」と解読されたのかは良く判らないのですが、重文指定の際も重美指定時代の判読が継承され、そのように刻されたものだと長らくされていたのです。
最近、平成18年に発刊された「日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記編4」(中央公論美術出版刊)でも、刻銘は「立山神体」と記されている、とされています。


【科学的調査で刻銘は「立山禅頂」と判明、「帝釈天像」だったことが明らかに】

ところが、この刻銘が「立山神体」ではなく「立山禅頂」であることが明らかになったのです。
平成24年12月、立山博物館の依頼により、元興寺文化財研究所によるマイクロスコープ調査が行われました。

元興寺文化財研究所によるマイクロスコープ調査の様子
元興寺文化財研究所によるマイクロスコープ調査の様子

その結果、判読が難しかった文字の9割が確定され、銘文は「立山禅頂・・・・」と刻されていたことが明確となったのです。

立山神像・帝釈天像の判読銘文
立山神像・帝釈天像の判読銘文

「立山禅頂」と刻された銘文
「立山禅頂」と刻された銘文

即ち
「寛喜2年3月11日に、御経聖人頼禅が立山禅頂(修行)において、本像を山中に奉納した」
ということが記録されていたのでした。
「禅頂」とは、霊山の頂上のことを云い、「立山禅頂」とは、「立山の頂上に鎮まります」、あるいは「立山霊山の頂上への登拝行」と解することが出来るそうです。


このことが明らかになり、長らく「立山神像」であったとされた本像が、神像であるという解釈は、白紙に戻されたというか、「帝釈天像」であった可能性が強まったわけです。

「立山と帝釈天」展図録に収録された諸論文、就中、杉崎貴英氏の「『立山神像』をとらえなおすために」の論考によれば、本像は「帝釈天像」として造像されたと考えて間違いないということです。

その事由や考え方については、図録の諸論考をじっくり読んでいただければと思いますが、「帝釈天像」と考えられるポイントは、次のようなことではないかと思われます。

立山神像・帝釈天像..立山神像・帝釈天像
立山神像・帝釈天像..立山神像・帝釈天像
「帝釈天像」であったことが明らかになった像容

・像容についてみると、後頭部に光背をとりつけるための柄が突き出ており、これは一般的に神像ではなく、仏像の天部像と考えられ、また帝釈天像の諸作例を見ると、本像は、鎌倉時代の「瞋目で筆と紙(巻子)をとる帝釈天像」であったとみられる。

・立山信仰は、近世以降は阿弥陀信仰の影響が非常に強くなったが、それ以前は、古代から「帝釈天信仰」があったとみられ、中世には帝釈天が立山にいるという信仰が重要な要素を有していたと思われる。
立山が、仏教世界の中心にそびえる、帝釈天のいます須弥山に重ね合わされ、信仰されていた。

・立山は、神の山というより仏の山としての信仰が色濃く、また立山における本地垂迹説のなかに、帝釈天は組み込まれてはいない。
こうした状況からも、本像を立山の神の像とする理解と名付けは、否定的にならざるをえない。

・明治以降の諸記録からも推察されるが、重要美術品に認定され「立山神像」という新たな名付けがなされるまで、本像は一貫して帝釈天と呼ばれていたと考えてよいであろう。。

調査研究のポイントのまとめは、以上のようになろうかと思いますが、先ほどご紹介した、富山県のニュースリリースでは、このように説明されています。

「かつて本像の正面に刻まれた文字を「立山神躰」と判読したことにより神像とみなされ『銅造男神立像』の名称で指定されました。
しかし近年の科学的調査により「立山禅頂」と判読されることが明らかとなりました。

表情は厳しく、宝冠をかぶり、左手には巻子、右手には筆をもっていたと考えられ、ほとけの帝釈天の像にふさわしい姿をしています。
立山における帝釈天信仰については『法華験記』のなかの話からうかがい知ることができ、本像は古代の帝釈天の理解に基づく像と考えられます。

こうした理由から、本像の名称が『銅造帝釈天立像』と変更されます。」


こうしてみると、この銅像は、昭和の重要美術品指定の時に「立山神体」と銘文判読され、立山のご神体であったとされるまでは、中世以来ずっと、立山信仰における帝釈天として、信仰されていたことが明らかになったのです。


【「立山神像」とされてきた、副次的意義を振り返る】

ただ、感慨深いのは、この銅像が「立山神像」という呼称で、立山信仰を象徴する神体像として世に知られなかったならば、当時の富山県知事が自ら買い戻しに動き、注目を浴びるということも無かったのかも知れないということです。
「鎌倉時代の天部形銅像」として、海外に売られていってしまった可能性は大きかったように思えます。

杉崎貴英氏は、論考の結びに、昭和の「立山神像」という新たな名付けが、買い戻しのきっかけとなり、里帰り後に「富山県のシンボル」として果たした役割もまた大きいものがあるとして、このように述べられています。

「もし戦前の重美認定の際、『立山神像』という新たな名付けがなされることなく、『帝釈天像』とでも記載されていたら、はたして本像は、ゆかりの地に帰還する端緒を得られたであろうか。

吉田氏の回顧によれば、昭和32年ごろ長嶋氏から聞いていた本像のことが『脳裏に焼き付いていた』のだという。
吉田氏が『富山県のシンボル』とみなし、入手と普及に心を砕いた経過には、県域を見守る立山連峰を人格化したような名称の魅力も作用していたに違いない。」


明治時代、立山の地を離れ、長きにわたる流転を経て、ようやく立山に里帰りした「立山神像・帝釈天像」の数奇な物語を振り返ってみました。
よくぞ富山・立山に戻ることが出来たものと、その物語に感慨深いものを覚えてしまいます。

今般の新研究で「帝釈天像」であることが明らかになりました。

一方、里帰りまでのいきさつをたどると、
「昭和15年(1940)の重要美術品指定の時、『立山神像』という名称がつけられたことに、むしろ感謝しなければいけないのかもしれない?」
ちょっと、そんな妙な気持ちになってきました。


 富山県・立山博物館では、4月4日から5月17日まで、「立山の至宝展」が開催され、この「銅像帝釈天立像」も展示されるということです。

「立山の至宝展」ポスター
「立山の至宝展」ポスター

トピックス~立山神像の数奇な物語を振り返る・重文指定名称変更によせて(その1)【2015.4.20】


【指定名称が「男神立像」から「帝釈天像」に変更された立山神像】


「神様 実は 仏様でした 立山博物館の像、名称変更」

こんな見出しの新聞記事がネット上に掲載されたのが目にとまりました。
今月の初め、2015.4.3付の中日新聞の記事です。

「立山博物館の像」とは、現在、富山県の立山博物館に所蔵されている「立山神像」のことです。
立山のご神体として祀られていた、といわれた像です。
鎌倉時代の銅造鋳造像で、像高54.4cm、重要文化財に指定されています。

記事の本文を、そのままご紹介します。

「立山町の県立山博物館が所蔵する国指定重要文化財『銅像男神立像』が、『銅像帝釈天立像』に名称変更する。
立山神像・帝釈天像
帝釈天像に名称変更された立山神像

神像とみられていたが、最近の研究で仏像の帝釈天と判明したため。
帝釈天の銅像としてはかなり古く、同博物館は『鎌倉時代の立山信仰を知る貴重な手掛かりになる』としている。

博物館によると、これまで像の胸部に刻まれた字を『立山神躰(しんたい)』と読んでいたが、博物館の調査で『立山禅頂(ぜんちょう)』と判読でき、神像ではないことが判明した。
表情が厳しく、宝冠をかぶる姿が各地の帝釈天像に似ているため、帝釈天像と結論付けた。
博物館が、2年前の企画展で研究成果を発表したところ、文化庁から名称変更の提案があったという。

像は、鎌倉時代の1230(寛喜2)年に立山山麓で作られた高さ54.4cmの銅像。
愛知県の個人が所蔵していたものを、富山県が1967(昭和42)年に買い戻した。
博物館によると、平安時代後記の書物『本朝法華験記』に帝釈天が立山にいることが記されており、立山では古代から『帝釈天信仰』があったとみられている。
その後、時期は不明だが、えんま王が死者の罪を裁く『十王信仰』に代わったとされる。」

以上の通りです。
「あの立山神像の指定名称が、ついに変更されるのか!」
このように、思いました。

この像は、長らく立山の山頂に「御神体」として祀られてきた、「神像」であるとされてきました。
立山信仰の象徴とされてきた像なのです。

立山神像・帝釈天像
立山神像・帝釈天像
立山神像・帝釈天像

私も、かつて立山博物館を訪れたとき、
「これが、立山信仰の象徴、立山神像なのか」
と、ガラス越しに、小さな銅像をしげしげと眺めた記憶があります。

一昨年(2013)秋、富山県・立山博物館で「立山と帝釈天」という特別展が開催されました。
この企画展で、「立山神像」は、実は「帝釈天像」であるという研究成果が発表されたのです。

展覧会図録を取り寄せてみた処、科学的調査や多面的考証の結果、帝釈天像であったと考えるべきという調査結果、論考が掲載されていました。
それを読んでみると、これは、神像ではなくて帝釈天像に間違いないように思いました。
それから1年余ですが、なんと早々にこうした研究成果が反映されて、文化財指定の名称変更が行われるというのです。

文化庁・文化審議会の答申で、名称変更が行われるというわけですから、「有力な説」というレベルではなく、「帝釈天像であることが、研究成果によって実証された。」といって良いものだと思います。


【数奇な運命を辿った立山神像】

ところで、この立山神像・帝釈天像は、新聞記事にもあるように、昭和42年(1967)に、富山県が買い戻したという像です。
明治の廃仏毀釈以来、立山の地を離れてしまっており、海外に流出する運命であった直前、富山県に買い戻されました。
約100年を経て、数奇な運命をたどって、里帰りを果たすことが出来たのです。

ホットな話題で、立山神像・帝釈天像が注目されているタイミングですので、所謂「立山神像」が、その地を離れてから、里帰りを果たすまでの、数奇な物語を振り返ってみたいと思います。
また、「帝釈天像」に名称変更されることに至った調査研究の成果についても、ご紹介してみたいと思います。


これからご紹介する話は、ほとんどが立山博物館で開催の「立山と帝釈天」展図録の論考、調査結果に、大変詳しく掲載されているものです。
それらのエッセンスを、適宜ピックアップしてご紹介するだけというものです。
ご関心のおありの方は、是非、展覧会図録をご覧いただきたいと思います。

「立山と帝釈天」展図録
「立山と帝釈天展」図録


【廃仏毀釈から始まった立山神像の流転の物語】

まずは、立山神像の数奇な流転の物語を辿ってみたいとおもいます。

この像は、今は帝釈天像に名称変更されたのですが、近年までは「立山神像」として語られていますので、ここでも「立山神像」という呼称を使わせていただきます。

立山神像は、明治初年までは、立山信仰を象徴するご神体とされていました。
立山連峰は、3000m級の山々が連なる、信仰の霊峰です。

立山連峰

立山連峰(雄山と別山)
立山連峰~雄山と別山"

その立山三山の一つ「雄山」山頂にある雄山神社・峰本社に、立山神像が祀られていたといいます。
峰本社は、今も雄山山頂にあり、写真で見るだけでも恐ろしげな岩頭に建てられています。

雄山山頂・峰本社
雄山山頂~峰本社

雄山・峰本社
雄山神社・峰本社

資料を見ると、雄山神社・峰本社に祀られていたと書かれているものが多いのですが、そうではなくて、立山、別山の祠に祀られていたとの見解も有力なようです。
別山というのも、立山三山の一つです。

別山の祠
別山山頂の祠

像の表面を見ると相当荒れています。
いずれの祠に祀られていたにせよ、長らく3000メートルの山頂社殿に祀られたため、地獄谷から噴出する硫黄ガスのために、硫化して錆びているのだそうです。

明治維新となり、明治元年(慶応4年・1868)神仏分離令が発布され、その後廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。
そうしたなか、当時、立山神像は仏像だと考えられたのでしょう、山頂社殿から下されてしまいます。

その後、どうしたわけか明治の半ばごろ、立山神像は、売り払われてしまい、立山の地を離れてしまうことになります。
売られたいきさつについて、このような話が残されているようです。

「(立山神像は)山麓の岩峅寺(イワクラジ)の某社家に他の神像と共に納めてあった。
それを同家の次男の古物商なにがしが富山市内の店舗にならべた。
そのうち、神像は僧侶風の人物に買われて持ち去られたという。」
(吉田実「海外流出を免れた立山神像」芸術新潮215号1967.11)

「明治27年に、芦峅寺(アシクラジ)開山堂本堂増築の費用捻出に苦面していた時、偶々、愛知県春日井郡の加藤師が立山登山に来られ、真長坊佐伯薫氏を仲介して、内々を以て売り渡されたのである。」
(佐伯幸長「立山信仰の源流と変遷」1973)

何が本当なのかはっきりしないようですが、立山神像は、明治の中頃に売り払われ、その後の行方については、よくわからないという状況になってしまったのでした。


時は過ぎ、昭和17年(1942)頃のこととなります。

立山神像~胸部に刻まれている銘文が「立山神体」と判読された
立山神像
胸部に刻まれている銘文が
「立山神体」と判読された
富山県文化財専門委員を長く務めた長嶋勝正氏は、国指定の重要美術品目録に
「銅造、立山神像一躯」
とあるのを見出しました。
「立山神像」というキーワードが、強い関心を惹き起こしたのだと思います。

本像が、重要美術品に指定されたきっかけは、昭和12年(1937)、本像が名古屋新聞社主催の「仏教博」に展示され、像に「立山神躰」「寛喜2年(1230)」の刻銘があると判読されたことによるものでした。
なんと行方不明になった立山神像は、この昭和15年(1940)に、「重要美術品」に指定された像らしいのです。

所蔵者は、愛知県の浄土真宗・松林寺の住職、加藤一氏となっていました。

長嶋氏は、この像がもともと立山に在ったものかを確かめるべく、愛知県春日井郡の加藤氏を訪ねます。
加藤氏の話によると、
「祖父が富山の駅前の古道具屋から買ったものだと伝え聞いている」
とのことでした。
この話で、明治年間に売られて立山を離れた、立山神像そのものに間違いないと判明したのでした。
この立山神像発見の話は、長嶋勝正氏著「越中の彫刻」(1975年巧玄社刊)などで、語られています。

長嶋氏がこの訪問記を地方紙に掲載したことなどから、県内でも立山神像の行方が判明したと、反響を呼びます。
昭和20年代には、地元立山町の神社総代等が、たびたび名古屋に出かけて所蔵者と折衝し、300万円で本像の譲渡をお願いしたということですが、叶わなかったということのようです。


【海外流出寸前で富山県に買い戻された立山神像】

立山神像は発見されましたが、愛知県で個人所蔵となったまま、また月日は20余年が経過します。

昭和42年(1967)7月のことでした。
当時富山県知事であった吉田実氏の処に、知り合いの古美術商から一本の電話がありました。

「むかし立山の社寺から流出したと覚しい旧重要美術品の銅像が、外国人に売られようとしている。」

という話でした。

吉田知事は、古美術に造詣が深かったことから、このような連絡があったのでした。

吉田知事は、即座に自身自らこの対応に動き、立山神像の海外流出を食い止め、富山県にこの神像を買い戻すことに成功します。
立山神像は、立山山頂から下されてから100年、立山の地を離れ行方不明になってから70~80年を経て、ようやく、富山・立山の地に戻ることになったのです。


吉田実氏は、芸術新潮誌上に、
「海外流出を免れた立山神像」(芸術新潮215号1967.11)
という寄稿文を掲載し、その時のドラマチックな有様を、活き活きと語っています。

「海外流出を免れた立山神像」(芸術新潮215号1967.11)
芸術新潮215号に掲載された「海外流出を免れた立山神像」

この時の劇的な買い戻しの物語を、少しばかりご紹介したいと思います。
寄稿文は、このような書き出しで始まります。

「今夏(1967年)、7月10日のことである。
高岡市と東京とで古美術商を営む南健吉氏から、私に次のような電話があった。
東京の『ギャラリー・谷庄』で聞いたが、むかし立山の社寺から流出したと覚しい旧重美の立山の帝釈天というものが、名古屋の美術商の手で、まさに外人の手に渡ろうとしている。
実物は『ギャラリー・谷庄』に預けられてあるが、その期限は今月15日までです、という。

私があわてて聞き返してみると、鎌倉初期の年紀名があること、鋳銅の立像であることなどから、それは私が年来何とか探し出して富山へ取り戻したいと念願していたものらしいことが判った。
私は、たちまち緊張した。」

立山神像は、旧蔵の加藤氏から、同県在住の日本画家のもとに移っており、その画家が没したのち再び流転の運命をたどり始め、海外との商談がまとまりかけているということらしかったのでした。

吉田実氏(当時富山県知事)
吉田実氏(当時富山県知事)
即刻、吉田知事は、東京・赤坂の『ギャラリー・谷庄』を訪れ、立山神像と対面します。

「私は、一瞬名状しがたい感動に捉えられた。
それは、かつて写真で見、また話に聞いていた私のイメージの神像よりは、はるかに優れたものであった。
・・・・・・・・・・
私は即座に、万難を排してもこれは富山へ取り戻すべきものだと判断した。」

そして、富山県で購入し、県で保管するべきことを決し、海外流出をすんでの処で食い止めたのでした。
7月23日、立山山麓の関係者達が多数で迎えるなか、吉田知事は買い戻した立山神像を携えて、富山駅に降り立ったということです。
買い戻した値段は、500万円だったということです。

寄稿文は、このように語られ締めくくられています。

「私が喜びを禁じ得ないのは、県民の多くが、この立山の神体が郷土に帰ったことを、予想以上に喜んでくれていることである。」

この、海外流出食い止めには、美術評論家の白崎秀雄氏のアシストがあったようです。
白崎秀雄氏は、北大路魯山人研究や、益田鈍翁、原三渓など近代数寄者の評伝で著名な人物です。
白崎氏は、文芸春秋に掲載した「古美術流出して国亡ぶ」(1971年1月号)と題する小文で、その時の思い出をこのように語っています。

白崎秀雄氏
白崎秀雄氏
「名古屋の懇意な古美術商が、
『実は客からこういうものの処分を頼まれたが、日本人では指値の500万円で買い手がなく、アメリカ人が買いたいというので売ろうかと思っている』
という。
・・・・・・・・・・・
(白崎氏は、像容・銘文から、それが立山神像であると気がつき)
わたしは、当然それが富山県へ戻されるべきものと考えて、名古屋の美術商にしばらく保留を頼み、北陸出身の在京の古美術商の下に実物を預けてもらった。
そのうえで富山県へ伝手を求めた処、たまたま当時の知事の吉田実氏が直ちに上京されて実物を見るや、これこそ自分らが多年行方を探していた富山の宝であるといわれ、その場で買い取りを約されたのであった。」

文化財への造詣の深い評論家・白崎氏の眼にとまり、氏が海外流出防止に尽力するという幸運もあって、立山神像は郷里の富山へ戻ることが出来たのでした。

立山神像の富山への無事帰還のニュースは、当時のマスコミ各紙にも採り上げられ、大きな注目を浴びました。
そして、翌年(1968年)、立山神像は国の重要文化財に指定されることになりました。
重要文化財の指定名称は「銅造男神立像 1躯」というものでした。


以来、立山神像は、中世の立山信仰を物語る貴重な遺品として、鎌倉前期鋳銅像の古例の一つとして、世に広く知られるようになりました。
金銅仏や神仏習合、修験といったテーマの本には、立山信仰を象徴する銅造神像として、採り上げられるようになり、こうした関連の展覧会にも、折々出展されるようになりました。

平成3年(1991)11月に、富山県立山博物館が開館すると、立山神像は同館の所蔵となり、常設展示等で展示され、広く一般の観覧に供されるようになり、現在に至っています。


数奇な立山神像流転物語を、ご紹介してみました。

〈その2〉では、立山神像の重文指定名称が、「帝釈天像」に変更された訳などについて、見てみたいと思います。

新刊旧刊案内~40年余を経て再刊された「願成就院」の解説書 (久野健著旧版と水野敬三郎・山本勉著新版)  【2015.4.11】


かつて、「願成就院」と題された本が、中央公論美術出版から美術文化シリーズの一冊として発刊されていたのを覚えておられるでしょうか?

「願成就院」久野健著 (1972) 中央公論美術出版刊 【36P】 250円

久野健著・旧版「願成就院」
久野健著・旧版「願成就院」

今から43年前、昭和47年(1972)に、発刊されています。
著者は久野健氏です。

A5版、36ページという小冊子ですが、大変内容が充実しており、所謂「ガイドブック的啓蒙書」とは、はっきり一線を画し、研究成果のエッセンスを凝縮した、中身の濃い内容になっている本です。


〈充実の小冊子だった「美術文化シリーズ」(中公美術出版刊)〉

この美術文化シリーズ、昭和40年代を中心に、50冊以上刊行されたのではないかと思います。
当時、
「学問的に裏打ちされた社寺・遺跡などの平明な案内書」
というのが、このシリーズの特色とされていました。

このシリーズ本には、その昔、大変お世話になりました。
当時、多くは1冊200円でしたから、学生にも十分買える値段。
古寺探訪に出かけるときには、この薄い一冊をポケットにねじ込んでいけば、目指す古寺の歴史、仏像などについて、しっかりした学問レベルでのエッセンスがコンパクトに解説されているのです。
ガイドブック的な本とは全く違う、学問的雰囲気が漂う、小冊子であったのです。

代表的な古社寺の執筆者をあげると、ご覧のとおりで、それぞれの古寺、仏像についての、当時の第一線の研究者の名前が登場します。

「薬師寺」(町田甲一)、「法華寺」(町田甲一)、「唐招提寺」(安藤更生)、
「神護寺」(久野健)、「六波羅蜜寺」(毛利久)、「法界寺」(中野玄三)、
「日向薬師」(渋江二郎)、「勝常寺」(佐藤昭夫)「醍醐寺」(清水善三)、

といったようなところです。

美術文化シリーズ(中央公論美術出版刊).美術文化シリーズ(中央公論美術出版刊)
美術文化シリーズ(中央公論美術出版刊)

そして、「願成就院」は、久野健氏の執筆となっているのです。
ご存じのとおり、久野健氏は、願成就院の阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王三尊像が、文治2年(1186)の運慶の真作に間違いないことを、世に明らかにした研究者です。

この小冊子も、願成就院の諸仏像が運慶の制作であることを発見した経緯や、その学問的意義が凝縮して綴られています。
この本を手にしたとき、ちょっと興奮気味に、何度も繰り返して読んだ記憶がよみがえってきます。
私には、大変思い出深い、冊子本なのです。


〈嬉しい新版「願成就院」(水野・山本著)の再刊〉

それから40年余を経て、同じ出版社・中央公論美術出版社から、同じ版型A5版で、昔の体裁と同様の新版が、発刊されたのです。
平成26年(2014)8月の発刊です。
新版の執筆は、水野敬三郎、山本勉の両氏で、これまた当代運慶研究の第一線の専門家の執筆となっています。

この本が発刊されていたことは、この4月になるまで、私は、全く知りませんでした。
ネットで、〈山本勉氏のツィッター〉をみていたら、この本が刊行されたということが書かれていたのです。

早速、中央公論美術出版社にTELして、問い合わせてみましたら、
「この『願成就院』の本は、当社(中央公論美術出版)が美術文化シリーズに倣って制作したのですが、出版は願成就院さんご自身になっているのですよ。
したがって、書店での販売はされていませんし、当社にも在庫は置いていないのです。」
というご説明でした。
どおりで、出版されていたのに気がつかなかった訳です。

すぐに、伊豆の国市の願成就院さんにTELしてみました。
御住職がTELに出ていただき、このようなお話をされました。

「これまでは、久野先生のご本が出されていたのですけれども、先年(2013年)、国宝に指定されたものですから、国宝指定を機に、新しいものを出そうということにして、水野、山本両先生にご執筆を願って、新版を出したのですよ。
ただし、今回は、願成就院の刊行ということで、お寺にみえられた方に解説書として販売させていただいているのです。」

伊豆の国市・願成就院
伊豆の国市・願成就院

そういえば、昔、願成就院を訪ねると、拝観受付に久野氏執筆の「願成就院」が置かれていたように思います。
2013年の国宝指定を機に、最新研究成果を盛り込んだ、新版に一新されたということのようです。

願成就院さんに、郵送購入のご無理をお願いして、やっと手に入れたのが、この新版の「願成就院」です。

「願成就院」水野敬三郎・山本勉著 (2014) 願成就院刊
(中央公論美術出版制作) 【31P】 1000円

水野敬三郎・山本勉著新版「願成就院」
水野敬三郎・山本勉著新版「願成就院」

お寺の発刊で、このような学問レベルの高い解説冊子が出されるのは、めずらしいことかと思います。
普通は、お寺の縁起とか、御利益を中心としたガイドブック的なものが一般的です。
願成就院さんの御見識に、敬意を表したいと思います。


さて、この二つの解説書の内容を、見比べてみましょう。
体裁、目次の構成は、ほとんど同じなのですが、書かれている中身の内容は、大幅に変わっています。

久野健著旧版・目次
久野健著旧版・目次

水野敬三郎、山本勉著新版・目次
水野敬三郎、山本勉著新版・目次

一言でいえば、
久野健著旧版は、
「浄楽寺像、願成就院像が運慶の制作であることを発見した経緯と、東国の運慶作品の造形特色、その事由」
が、最重点に執筆されています。

水野・山本新版では、
「願成就院諸像の造形上の特色、興福寺西金堂仏頭が運慶作と判明したことを踏まえての、運慶作品としての彫刻史上の意義」
といった面を重点に執筆されています。

それぞれも本の、エッセンスや興味を惹く点などについて、もう少しご紹介してみたいと思います。


〈願成就院諸像が、運慶作品と判明した経緯〉

まずは、久野健著旧版についてです。
繰り返しになりますが、久野健氏は、浄楽寺諸像と願成就院諸像が運慶作であることを明らかにした研究者です。

願成就院・阿弥陀如来坐像
願成就院・阿弥陀如来坐像

願成就院諸像は、それまで、運慶作の銘札が伝わるものの、その像は失われてしまったとされていました。
現在の阿弥陀如来像などは「都らしからぬ、男性的で荒々しくダイナミックな表現」で、到底運慶の作品とは考えられないという事由によるものです。

それが、昭和34年(1959)の浄楽寺諸像の調査による運慶作銘札・銘記の発見、昭和40年(1965)の願成就院の矜羯羅・制タ迦像のX線透過撮影による同型銘札納入の判明により、浄楽寺諸像、願成就院諸像がともに運慶の作品に間違いないということが明らかになったのです。

久野健著旧版には、そのあたりの発見経緯のエッセンスが、しっかり綴られているのです。

本書の内容と、運慶作の発見経緯については、以前に、
「埃まみれの書棚から~古寺、古佛の本~〈各地の地方佛ガイドあれこれ〉」
において、紹介したことがあります。
その文章を、もう一度転載させていただきたいと思います。

次のとおりです。

 「願成就院」久野健著(S47)中央公論美術出版社刊・美術文化シリーズ 【36P】

 願成就院諸像、浄楽寺諸像が、運慶の作であることを発見実証した、久野健の著作。

美術文化シリーズの一冊で、ガイド的小冊子だ が、運慶作実証のいきさつなどが語られ、濃密な内容。
 「願成就院の創建と歴史、願成就院の諸像に対する従来の学説~願成就院の諸像 と浄楽寺諸像など~、願成就院諸像の日本彫刻史上における意義・・・・・・・」
といった項立てで、案内書の域を越えている。

願成就院諸像が、運慶作であることが実証されたいきさつには、次のようなドラマチックな物語がある。

願成就院 には、古来2枚の塔婆銘札が残されている。
銘札には、文治2年(1186)に「檀越平朝臣(北条)時政」発願の仏像を「巧師勾当運慶」作り始めたという墨書が残されている。

願成就院に遺された銘札(毘沙門天・不動明王像内に納入されていたと伝えられる)...銘札に記された「巧師勾当運慶」の墨書
願成就院に遺された銘札
(毘沙門天・不動明王像内に納入されていたと伝えられ、「巧師勾当運慶」の墨書がある)


この2枚の銘札は、不動明王像、毘沙門天像の胎内から出たもので、これまでは、銘札は真正で本物だが、当初像はその後失われてしまったと考えられていた。
即ち、現在の仏像は、阿弥陀如来像も含め「鎌倉期の作だが、運慶の作品ではない」とされてきたのだ。
運慶作ではないとされた理由は、運慶作の円城寺大日如来像や興福寺北円堂弥勒像などの作風に比べると、男性的で「都らしからぬ様子」を感じさせるからであった。

願成就院・阿弥陀如来坐像(ボリューム感や衣文の造形に荒々しさが伺える)
男性的で「都らしからぬ様子」を感じさせる願成就院・阿弥陀如来坐像

奈良円成寺・大日如来坐像.奈良興福寺北円堂・弥勒如来坐像
奈良の運慶作品~(左)円成寺・大日如来坐像、(右)興福寺北円堂・弥勒如来坐像


昭和34年4月、久野健は、三浦半島にある芦名・浄楽寺の諸像を調査する。
調査中に、毘沙門天像の頭部が首から抜け、胎内に月輪形銘札が納入されているのを発見した。
その銘札には、なんと、文治5年(1189)に、「平(和田)義盛」を願主に「大仏師興福寺内相応院勾当運慶」が造った、と記されていた。

浄楽寺・毘沙門天立像..浄楽寺・毘沙門天像体内に納入されていた銘札
浄楽寺・毘沙門天像と体内に納入されていた銘札

そうは云っても、これだけで、この毘沙門天像が、銘札どおりの運慶作の像だという確証にはならない。
しかしながら、この墨書は明らかに鎌倉時代の墨跡で、しかも阿弥陀如来像の胎内背面に一面に記されている梵字と、同筆である事が確認された。


浄楽寺・阿弥陀如来坐像.浄楽寺・阿弥陀如来坐像の体内背面に墨書された梵字
浄楽寺・阿弥陀如来坐像と体内背面に墨書された梵字


もともと、この阿弥陀如来の胎内にも、後筆が明らかな「文治5年勾当運慶作」の銘札が収められている事が、知られていたが、胎内墨書と毘沙門銘札が同筆という事などから、阿弥陀如来像も毘沙門天も、間違いなく「運慶作」とみられることとなった。
不動明王像は、そのとき首が抜けなかったが、X線撮影で、月輪形銘札が納められている事がわかり、その後の修理の際、毘沙門天像と同文の銘札が取り出され確認された。


浄楽寺・阿弥陀如来坐像
浄楽寺・阿弥陀如来坐像

浄楽寺・毘沙門天立像....浄楽寺・
浄楽寺・(左)毘沙門天立像、(右)不動明王立像


この調査により、浄楽寺阿弥陀如来像、毘沙門天像、不動明王像が運慶作に間違いないと確認されたわけであるが、実は、願成就院の諸像、即ち阿弥陀如来像、毘沙門天像、不動三尊像が、その顔立ち、モデリング、衣文の様式などが、浄楽寺諸像のそれと、酷似しているのであった。


願成就院・阿弥陀如来坐像
願成就院・阿弥陀如来坐像

願成就院・毘沙門天立像.願成就院・不動三尊像
願成就院・(左)毘沙門天立像、(右)不動明三尊像


そうなってくると、願成就院諸像も運慶作の可能性は極めて高いということになってくる。
その後の、願成就院像の調査で、不動三尊像をX線調査した処、古来伝わる不動明王像の銘札・釘跡と、X線調査による胎内の釘跡とが一致する事や、衿羯羅・制タ迦二童子の胎内にも、塔婆形銘札がそれぞれ納入されている事が確認されるなどのことが明らかになり、今では、願成就院諸像は運慶の代表作のひとつとして、認識されるに至ったのである。

願成就院・制タ迦童子X線写真(長い板状銘札が納入されているのがわかる).願成就院・衿羯羅童子胸部のX線写真(五輪形の銘札が見える)
(左)願成就院・制タ迦童子X線写真(長い板状銘札が納入されているのがわかる)
(右)願成就院・衿羯羅童子胸部のX線写真(五輪形の銘札が見える)


以上が、かって〈各地の地方佛ガイドあれこれ〉に掲載させていただいたものです。

願成就院諸像が、文治2年(1186)、運慶作であることが明らかにされた物語が、お判りいただけたことと思います。

久野健著旧版(1972刊)では、以上のような発見経緯を記した後に、
「以後書かれた、運慶関係の論文もまた多いが、願成就院の諸尊像を文治2年運慶の制作であることを否定した文章は少ないようである。」
と結んでいます。

未だ、運慶作であることが最終確定していない段階での著作であることが判ります。


その後、昭和52年(1977)に、不動明王像・二童子像の解体修理が行われ、X線撮影の影像のとおりの銘札が、二童子の胎内から取り出されました。
銘札には、想定通り既存銘札と同筆の「運慶作」の銘記があり、願成就院諸像が運慶作であることが、確定したのでした。

制タ迦童子解体修理時の銘札納入状況.衿羯羅・制タ迦二童子から取り出された銘札裏面(運慶の墨書がある)
制タ迦童子解体修理時の銘札納入状況と取り出された銘札裏面(運慶の墨書がある)


〈近年の運慶作品新発見と水野・山本著新版の内容〉

それから40年余、今般、水野・山本著新版が発刊されましたが、近年、思いのほか、いくつかの運慶作品の判明、発見がありました。

・光得寺・大日如来坐像(作風、X線による納入品形態から運慶作と推定)
・真如苑・大日如来坐像(作風、X線による納入品形態から運慶作と推定)
・興福寺・西金堂本尊釈迦如来像頭部(史料発見により文治2年・1186運慶作が判明)
・称名寺光明院・大威徳明王坐像(納入文書発見により健保4年・1216運慶作が判明)

以上のとおりです。

光得寺・大日如来坐像.真如苑蔵・大日如来坐像
(左)光得寺・大日如来坐像、(右)真如苑蔵・大日如来坐像

興福寺西金堂・本尊釈迦如来像頭部.称名寺光明院・大威徳明王坐像
(左)興福寺西金堂・本尊釈迦如来像頭部、(右)称名寺光明院・大威徳明王坐像

今度の新版では、阿弥陀如来坐像の印相の系譜、諸像の像容、品質構造についての解説とともに、五輪塔形銘札の記述についての見方、新発見諸像の存在も踏まえての願成就院諸像の造形の特色、彫刻史上の位置づけ、意義などについて記されています。
共著ですが、運慶作品に関係する処は、水野敬三郎氏が執筆されています。


その中で、「ちょっと興味深いな」と感じたところを、つまみ食い的に、いくつかご紹介したいと思います。

①阿弥陀如来坐像の顔面は、損傷しており、目から鼻にかけて近世の補修がなされていること、X線撮影の結果、元々は「玉眼」であったと判明したというという解説がされています。

願成就院・阿弥陀如来坐像頭部X線写真(補修の跡がみられる).願成就院・阿弥陀如来像顔部(近世の補修による顔貌)
願成就院・阿弥陀如来坐像頭部X線写真(補修の跡がみられる)と、
近世の補修による鎌倉彫刻らしからぬ勢いのない顔貌


阿弥陀像の顔貌、表情は、江戸時代の補修により、どう見ても鎌倉彫刻らしからぬ勢いのない顔貌になってしまっており、この像の印象を大きく損ねています。
全く運慶らしくないのです。

また、この阿弥陀如来像は、運慶が制作した「如来形像」のなかで、唯一の「玉眼像」であったことになります。
運慶は天部像、童子像では、玉眼を、見事に巧みに用いていますが、如来形像では、願成就院像を除いては、すべて彫眼で表現しています。

もし当初の顔貌が残されていたら、どのような造形であったのしょうか?
「運慶の玉眼如来像」は、どのような表情をしていたのだろうでしょうか?
運慶が、その後、如来像に玉眼を用いていないのは、今一歩似つかわしくない感じだったからなのでしょうか?

誠に興味津々なのですが、残念というしかありません。


「巧師勾当運慶」と墨書された願成就院の銘札
「巧師勾当運慶」
と墨書された銘札
②納入銘札の造像記について、「巧師勾当運慶」と記されている点について、このような考え方が示されています。
水野氏は、このように述べられています。

「仏師の名前が記されるかどうかは、施主と仏師との社会的地位関係によって決まったようである。
すなわち、これらの銘記は通常施主の側で記すものであるが、仏師が施主と同等の地位にあると認められた場合に、その名が記されたらしい。

この像では、地方豪族北条時政と同等の地位にあるから名を記されたのであり、そのように考えると、他に例がない『巧師』という呼称は運慶の自称ではなく、施主の側から敬意を以て『仏師』ではなく『巧師』と記したと解すべきであろう。」

大変興味深く感じた次第です。


③運慶の東国下向、非下向の問題、「都らしからぬ荒々しい造形表現」の事由という、最も論議がある問題については、このような考え方が記されています。

「運慶が願成就院造仏に際して、東国に下向したのか、それとも奈良での造仏であったのかは、従来から議論がある。
この造仏の前年11月に北条時政は上洛、翌文治2年4月13日に鎌倉に帰着した。
願成就院・阿弥陀如来坐像(荒々しいダイナミックな造形の膝部の衣文)
願成就院・阿弥陀如来坐像
(荒々しいダイナミックな造形の膝部の衣文)
願成就院の造仏始めは5月3日。
この時間的経過から、運慶の伊豆での造仏始めと東国下向へ導いた説は魅力がある。
しかし、願成就院像を東国で造立したかどうかについての決め手はまだない。

いずれにせよ、当時の東国武士たちの戦いぶりは西国の人たちにとって驚異的であったことは、たとえば『平家物語』のなかで、富士川の戦いを前に斉藤別当実盛が平維盛に語った言葉によく示されている。
・・・・・・・・・・
東国武者は『親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗越え乗越え戦う候』。
そんな東国武士のイメージが、願成就院像の荒々しいともいえるほどのたくましさにつながったのではなかろうか。」


〈運慶、東国下向、非下向問題の最近の諸説〉

願成就院像、浄楽寺像を、運慶は東国に下向して現地で製作したのか、奈良の地において東国からの注文に応じて制作したのかは、従来ずっと議論が続いている問題です。

大胆に端折って要約すると、

「北条時政のリクエストなら、東国まで赴いたと考えるのが妥当であるし、あの荒々しい都らしからぬ表現は、運慶自ら東国へ赴かないと、到底難しいであろう。」

という、下向説の考え方と、

「当時の南都興福寺の造仏状況を見ると、康慶の懐刀の運慶が、到底奈良を離れられるとは思われない。
南都にあっても、東国武士の趣向にあった、荒々しい表現での制作は可能だろう。」

という、非下向説の考え方だと思います。

古くは、ご紹介した久野健氏は「非下向説」でしたが、鎌倉彫刻史研究で著名な毛利久氏は「下向説」でした。
近年でも、諸説あるようです。

たとえば、
山本勉氏は、
「文治2年以後、しばらく運慶の中央での活動が知られず、逆にその時期の東国関係の活躍がたどれることからすれば、運慶はこの頃ずっと東国にいて、弟子とともに頼朝政権の造仏需要に応えていた可能性を考えてもよいかもしれません。」
(「運慶に出会う」2008小学館刊)

瀬谷貴之氏は、
「(真如苑・大日如来像の来歴推定を踏まえ)建久4年(1193)頃、関東に運慶が拠点を持っていた可能性を高めることになった。」
(「別冊太陽・運慶」2010平凡社刊)

浅湫毅氏は、
「願成就院像と浄楽寺像の制作場所の違いは、両像に納入された銘札の運慶の肩書から裏付けられるのではないだろうか。
すなわち前者には『巧師勾当』とのみあり、後者には『興福寺内相応院勾当』とある。
前者は、ホームである興福寺内で造像したものだから寺名を記さず、後者はアウェーである関東の地で造像したので、あえて興福寺の名を記したのではないか。」
(「別冊太陽・運慶」2010平凡社刊)


「巧師勾当」と記された願成就院銘札....「興福寺内相応院勾当」と記された浄楽寺銘札
(左)「巧師勾当」と記された願成就院銘札、(右)「興福寺内相応院勾当」と記された浄楽寺銘札

根立研介氏は、
「 (運慶が、文治2年正月に興福寺西金堂・釈迦像造仏に携わっていたことが判明したことから)運慶が、直前の時期に興福寺再興造仏に参加していることが明らかになり、(願成就院、浄楽寺の造像銘記の運慶肩書に注目して)また興福寺の寺職を名乗っていることを考えると、当時の運慶の造像の場の中心は、やはり興福寺であったことが当然想定される。
そうすると、東国二武将の造仏も、じつは興福寺ないしその近辺の畿内の慶派工房であった可能性は十分考えられる。」
(「運慶」2009年ミネルヴァ書房刊)

このようは、諸説まちまちといった感じです。
運慶は、これらの都らしからぬ諸像を、東国で作ったのでしょうか?奈良の地で作ったのでしょうか?
興味津々、ミステリーのように興味深いところです。


ちょっと話が長くなりましたが、
「願成就院」と題する、中身の濃い、充実した2冊の解説・小冊子のご紹介をさせていただきました。

「久野健著・旧版」、「水野敬三郎・山本勉著新版」共に、是非手元に置いておきたい本です。
コンパクトな冊子ですが、この2冊を通して読めば、浄楽寺、願成就院諸像が運慶作品であることの発見の話から、近年の運慶作品判明、発見を踏まえでの、願成就院諸像の造形の特色、彫刻史上の位置づけなどを、判りやすく凝縮して知ることが出来ます。

是非、2冊セットを携えて、願成就院を訪ねて見られてはいかがでしょうか。

余計な話ですが、久野健著・旧版は、ネットのアマゾンの中古本で、なんと48円からという超安値で販売されていました。

古仏探訪~伊豆下田市・法雲寺の秘仏・如意輪観音坐像 拝観記 【2015.4.1】


想定外の興味深い仏像に遭遇しました。

伊豆下田市にある法雲寺の秘仏・如意輪観音坐像です。
60年に一度のご開帳という情報をキャッチし、同好の方々と観仏探訪に出かけたのです。


〈古様で興味深い、秘仏・如意輪観音坐像〉

「ウーン!」と唸ってしまいそうな、興味深い仏像です。
まずは、写真をご覧ください。

法雲寺・秘仏如意輪観音坐像
法雲寺・秘仏如意輪観音坐像

像高77㎝の一木彫で、「無指定」の仏像です。

・平安の前中期まで遡る像なのか? 平安後期~鎌倉まで下がるのか?

・素木の霊木仏なのか? 彩色されていた仏像なのか?

・意図的なデフォルメ、歪みの造形表現なのか? 造形バランスが崩れた、ちょっと出来の良くない地方作なのか?

「どっちなんだろう?」
そんな思いが、頭のなかをぐるぐるとめぐり、錯綜してしまいます。
悩んでしまう、そんな興味深い仏像です。


この仏像のことは、私は全く知りませんでした。

たまたま、60年に一度のご開帳があるという情報を知り、ネットで調べてみると、上原仏教美術館の学芸員、田島整氏のツイッターに、
「3/21、3/22に、60年一度の開帳。
10世紀に遡る古像で、木造の如意輪観音像としては東日本最古級の貴重な仏像。」
と書かれていて、ご覧いただいた仏像写真が掲載されていました。

「一度、拝してみる値打ちがありそうだ。」

そんな気になり、同好の方を誘い、思い切って、伊豆下田まで出かけたのでした。


〈村人総出の行事の秘仏ご開帳法要〉

法雲寺は、伊豆急下田駅から北に向かって車を走らせて20分ぐらい、下田市須原の北の沢の集落近くにありました。
山あいの鄙びた山村の小さな集落です。
小高いところに在る法雲寺は、本堂が村の集会所を兼ねているような建物になっています。

法雲寺・本堂
法雲寺・本堂

到着すると、丁度、ご開帳の法要が執り行われている処で、僧侶の読経の声が聞こえてきました。
お堂を覗くと、多くの村人が、お坊さんを囲んで、一緒にお経を唱えています。
秘仏の如意輪観音坐像は、本堂のど真ん中に運び出され、安置されているのが見えます。
普段は、隣の観音堂に在る厨子のなかに秘されているそうです。

秘仏御開帳法要が執り行われている本堂
秘仏御開帳法要が執り行われている本堂内

御法要が終わるのを待つ間、お堂の外で、村の方々がご用意いただいた、ふるまいのお汁粉、モツ煮汁を薦められました。
美味しくいただき、おかわりまでしてしまいました。

村の方々からふるまわれる汁粉やモツ煮汁
村の方々からふるまわれる汁粉やモツ煮汁

まさに、和気藹々とした、「村人総出の賑やかな記念行事」といった風情のご開帳です。

ただ、ほとんど知られていないといって良い仏像のご開帳なので、近所の人以外で、わざわざこのご開帳を目指して出かけてきた愛好者は、我々を含めて10人ほどだけだったようです。


〈上原仏教美術館・田島整氏の現地解説講座〉

御法要が終わると、上原仏教美術館の学芸員、田島整氏の現地講座がありました。
秘仏・如意輪観音を目の前にして、30分間ほど、本像についての解説をいただきました。

秘仏如意輪観音の前で現地講演する田島整氏
秘仏如意輪観音の前で現地講演する田島整氏

実はこの仏像、2012年に上原仏教美術館で開催された「伊豆の観音像展」に出展されており、田島氏は、その時に本像を調査されているようです。

法雲寺・如意輪観音坐像(伊豆の観音像展図録掲載写真)

法雲寺・如意輪観音坐像(伊豆の観音像展図録掲載写真)...法雲寺・如意輪観音坐像(伊豆の観音像展図録掲載写真)
法雲寺・如意輪観音坐像(伊豆の観音像展図録掲載写真)

その時の知見なども踏まえての、大変丁寧でわかりやすい説明で、皆、聴き入っていました。

田島氏の解説を、ご紹介したいと思います。
そのエッセンスは、次のようなものです。
自己流解釈なので、違っているかもしれませんが、ご容赦ください。

・本像は、両脚、腕などは別材矧ぎであるが、頭体部は一木で内刳りも施さないという、古風な造像法をとっている。
材は、針葉樹材で、カヤであろうと思われる。

・左足の同心円状の衣の襞、襞の先端が三角形に尖って鎬立つ表現も、古様な特徴点である。

・如意輪観音像は時代が下ると、首を傾ける像が多いが、本像は首を真っ直ぐに伸ばしており、これもまた古様である。

目鼻や眉、頭髪、髭が墨描きされている法雲寺・如意輪観音像
目鼻や眉、頭髪、髭が墨描きされている
法雲寺・如意輪観音像
・本像は、調査した処、彩色の痕跡がなく、白木の素木像であったと思われ、唇に朱を、目鼻や眉、頭髪だけ墨描きして仕上げている。
現在の彩色の痕は、150年ぐらい前の修理時に塗られた色。
墨描きは江戸時代に修理された際に描き直されたもので、尊容を損ねてしまっているものの、口髭の加筆以外の部分は、当初からこのような墨書き仕上げであったものと思われる。

・素地のままで、目鼻や頭髪のみ墨描きする仏像には、檀像風像、鉈彫り像があり、鉈彫り像を造る背景には、霊木信仰があると考えられる。
本像も霊木信仰を背景に造像された可能性がある。

・本像の制作年代は、これまで古様な作風を留める、平安後期、12世紀頃の制作とみられていた。

・しかしながら、以上の点を総合すると、制作年代は10世紀に遡る可能性があると考えられる。

・これほど古い時代の如意輪観音像の造像例は、静岡県内では知られておらず、東日本でも最古級とみられる。

以上のとおりです。

要約すると、
素木、カヤ材と思われる一木彫の如意輪観音像で、内刳りのない造像法、古様な衣文表現・彫りの鋭さや、首を真っ直ぐに伸ばす姿勢などを総合すると、10世紀に遡る可能性ある平安古仏と考えられる
というご説明でした。

田島整氏の本像の解説については、伊豆新聞に連載された、
伊豆の仏像を巡る(54)
「下田市北の沢・法雲寺 如意輪観音坐像」(上原仏教美術館主任学芸員・田島整)
が、ネット上に掲載されていますので、ご覧いただければと思います。


〈悩んでしまう制作年代の印象~平安前中期?・後期末期?〉

さて、田島氏の解説の後、如意輪観音像にじっくりと近寄って、眼近に拝することが出来ました。

後世の加筆に惑わされているのかもしれませんが、顔部の様子や、胸から上の造形を見ていると、少し時代が下がるのかなと感じてしまいます。
また、全体の造形バランスも、結構崩れたアンバランス感があります。
地方の在地の仏師によって彫られた、ちょっと出来がよくない像なのかなというのも実感です。

ちょっとアンバランスな造形の上半身..地方作風の雰囲気の顔部
ちょっとアンバランスな造形感、地方作風の雰囲気がある如意輪観音像

平安前期彫刻特有の、パワーや迫力を感じるというのではありません。
古様ですが、もう少し、落ち着いた、穏やか感があるようです。

「平安後期、末期の、在地作の地方仏ということでもいいのかな??」

こんな気持ちになってきます。

ところが、腰から下の下半身に目を移すと、そんな感じは一変してしまいます。
オゥ!と声をあげてしまいそうになります。
惹きつけるものがあります。

鋭い彫り口で、張りボリューム感ある脚部
鋭い彫り口で、張りボリューム感ある脚部

両脚のボリューム感はたっぷりで、張りもしっかりあります。
腰から両脚にかけての造形を見ると、木の塊からグリグリと彫出したような、塊量感があるのです。
衣文の彫り口も、鋭く抉ったシャープなもので、平安前期の厳しさを感じさせるものがあります。

そう思って、上半身の条帛あたりの衣文の彫り口を見ると、それほど深く彫り込まない浅めの衣文ですが、しっかり鎬を立て、硬質感あるシャープな表現になっています。

硬質感あるシャープな表現の条帛衣文
硬質感あるシャープな表現の条帛衣文

「これは、古様でパワフル、惹きつけるものがある造形だ。
10世紀の制作ということで、OKじゃないんだろうか?」

こんなふうな、魅力を感じてしまいました。


同好の方々と、感想を交わし合うと、

「結構、古様だよね。」
「そうはいっても、この造形は、時代が下るのじゃないだろうか?」
「いやいや、脚部、膝の衣文の鋭い彫口は、どう見ても10世紀のものじゃないの?」
「背中の肉付けが、なかなかの魅力的で、古様なのでは」
「左脚部を矧ぎ付けてあるヤトイホゾが、表面部にあるけれども、素木像なら表面にこんなホゾをつけることはないのでは? きっと、彩色仕上げだったのに違いない。」

様々な意見が飛び交います。


この如意輪観音像、注目する視点や、観る位置、角度で、随分違って見えるようです。

ある角度から見ると、大変古様で、意図的なデフォルメ、力感ある造形で、鋭い彫口の仏像に見えるのです。
10世紀に遡る、迫力ある平安古仏そのもので、惹き付けられてしまいます。
そのように見える角度から撮った、魅力ある写真をピックアップしてみました。

古様、迫力ある造形が強調される写真(法雲寺・如意輪観音像).古様、迫力ある造形が強調される写真(法雲寺・如意輪観音像)

古様で迫力ある造形が強調された写真(法雲寺・如意輪観音像)
古様で迫力ある造形の印象が強調された角度からの撮影写真
10世紀に遡る古像の印象を受ける


如何でしょうか?

また、ある角度から見ると、一見古様だけれども、形式化が進んだ力感の少ない造形で、造形バランスも崩れがちな、ちょっと出来の良くない仏像に見えます。
そのような眼で見ると、地方の在地作の平安後期、末期の制作のように見えてきます。

10世紀の平安古仏?    平安後期の古様風地方仏?
皆さんは、どちらの方のイメージを、強く感じられたでしょうか?

私の印象は、難しすぎてよく判らず、悩んでしまうけれども、
「心情的には、10世紀に遡る平安古仏であってほしい」
というのが、率直な気持ちです。


〈時代が下がっても古様を留める「地方作の一典型」という考え方〉

ただ一方で、
「平安後期の地方作には、このような古様を残す作品が、一つの典型としてあるのではないか。」
そうした見方も、
地方作といわれる仏像をみるときの、重要な視点だと思います。

本像についての、過去の解説をみると、

「平安時代後期には、このような古様で簡素な造法・作風を示す仏像が見られるが、本像もその系列に属する一作である。」
(「伊豆地方仏像調査報告書1・伊豆の仏像 南部編」1992年上原仏教美術館刊・山根明氏解説)

と記されており、そうした見方が示されています。

「このような視点、見方が大切」、ということで思い出すのは、同じ関東、埼玉県入間郡越生町の如意輪観音堂の如意輪観音像です。

この像は、一見したところ大変古様で、平安前中期の造形感あふれた像だと、誰もが思ってしまう平安古仏です。

如意輪観音堂・如意輪観音像..如意輪観音堂・如意輪観音像

如意輪観音堂・如意輪観音像
如意輪観音堂・如意輪観音像

巾広い面相や太造りの体躯、下唇を突き出すような鎬立った口唇、小鼻の張った太い鼻梁などは、迫力があり、平安時代前期風の古様を示しています。
衣文線も、シンプルですがシャープな線で鎬立ったものがあります。
カヤ材の一木彫で、前後に割り矧ぎ内刳りがされていますが、彩色しない素木像で、眉や眼、髪や口髭を墨書し、唇に朱を差しています。

この像の特徴を連ねていると、下田法雲寺の如意輪観音像の特徴をほとんどそのまま重ねて綴っているような気になってきます。
写真をご覧になっても、造形、像容に共通点が見られるように感じられることと思います。

ところが、この如意輪観音堂・如意輪観音像には、像内墨書銘が残されており、応保2年(1162年)に制作されたことが明らかになっています。
もう間もなく鎌倉時代という平安末期の制作ということになります。

都・中央では、鎌倉時代の萌芽が、はっきり見られる像がつくられていた時代、都から遠く離れた関東の在地では、このような平安前中期を思わせる古様な仏像が造られていたということです。


〈平安前中期仏像が遺される伊豆南部地方〉

こんな造像例をみると、気持ちが平安後期末期に傾いて来るのですが、この伊豆地方南部というのは、平安前中期とみられる仏像が、しっかりと遺されている地でもあるのです。

河津町・南禅寺に遺された古仏群は、その代表選手として知られています。
南禅寺の薬師如来坐像や天部像は、9~10世紀の制作といわれ、魅力あふれる平安古仏です。

河津町南禅寺・薬師如来坐像
河津町南禅寺・薬師如来坐像

河津町南禅寺・天部像
河津町南禅寺・天部像

また、京都国立博物館に展示されている、西住寺の宝誌和尚立像は、南禅寺のすぐ傍の庭冷山に安置されていた仏像で、江戸時代、貞享4年(1687)に西住寺に移したと、西住寺縁起に記されている仏像です。
この像は、11世紀の制作といわれますが、霊威を顕わす優れた彫像です。

西住寺・宝誌和尚像(京博展示)..西住寺・宝誌和尚像(京博展示)
西住寺・宝誌和尚像(京博展示)

当地には、平安前期から優れた仏教文化がしっかりと伝わっていたことは明らかです。
そんな土地柄からすれば、南禅寺からさほど遠くない処にある法雲寺・如意輪観音像が、10世紀に制作されていても、おかしくもなんともないというとこかと思います。


繰り返しになってしまいますが、10世紀の平安古仏なのか、平安後期・末期の古様を留める像なのか、結局の処、難しく悩んでしまうのです。

いずれにせよ、この古像が、無指定というのは、「どうしてなのかな?」と思います。
せめて、市か県の文化財指定がされていてしかるべき像ではないでしょうか。


〈思いのほかの大満足となった観仏探訪〉

法雲寺・如意輪観音像の制作年代をめぐる話が長くなってしまいました。

秘仏ご開帳拝観記に戻りたいと思います。

じっくりと、如意輪観音像を眼近に拝し、観仏を堪能しました。
最後に、普段観音像が秘されているという、 観音堂へ寄ってみました。

法雲寺・観音堂
法雲寺・観音堂

観音堂の中央には、秘仏が祀られている厨子が据えられています。
この厨子は、幕末の下田で活動した絵師、仏師であった、松本雲松の制作によるものだそうです。

秘仏如意輪観音像が祀られる厨子(松本雲松作)
秘仏如意輪観音像が祀られる厨子(松本雲松作)

如意輪観音像の顔部の墨描きの加筆、描き直しは、この松本雲松の手による可能性が高いとの、田島氏のお話でした。

堂内には、馬を描いた絵馬がたくさん奉納されています。
この如意輪観音像、近世には、馬頭観音像とされて信仰されており、それ故に馬に因むような捧げ物がおさめられていたということです。

観音堂に奉納された馬の絵馬の数々
観音堂に奉納された馬の絵馬の数々


あまり期待もせず、60年に一度の秘仏開帳ということで、他に所用もなかったので出かけてみた、法雲寺・如意輪観音坐像でした。

ところが、思いのほかの興味深い平安古仏に出会うことが出来ました。
思い切って、訪ねてみてよかったという満足感一杯の観仏探訪となりました。

「10世紀の平安古仏であってほしいな」

という、個人的な願望を心に抱きながら、村人で賑わう法雲寺を後にしました。