観仏日々帖

古仏探訪~秋田・小沼神社「廃仏毀釈を乗り越えた観音像たち」  【2015.1.24】


東京国立博物館で「みちのくの仏像展」が開催されています。

東北の仏像を代表する、平安古仏の三大薬師一木彫像が勢揃いして、一堂に観ることが出来るという、またとない機会です。

みちのくの仏像展ポスター


早速、出かけてきました。

会場には、東北三大薬師といわれる、福島会津・勝常寺、岩手・黒石寺、宮城・双林寺の薬師三尊像が、三方に展示され、眼近に観ることが出来ました。
その堂々たる姿は、まさに圧巻で、みなぎる迫力に圧倒されてしまいます。
ライティングも巧みで、現地のお寺で拝するのとは、また違った、新たな魅力を発見できたような気がしました。

「みちのくの仏像展」会場に展示された勝常寺・薬師三尊像
「みちのくの仏像展」会場に展示された勝常寺・薬師三尊像

そのほかも、魅力あふれる仏像ばかりでしたが、私がこの展覧会で、再会できることを愉しみにしてきたのは、秋田・小沼神社の聖観音立像です。

小沼神社・聖観音立像
小沼神社・聖観音立像

2013年7月、七夕の日、秋田県大仙市豊岡に在る小沼神社を訪れて、聖観音、十一面観音の2躯の観音立像を拝してから、丁度1年半になります。

この観音像、東博では、勝常寺・薬師三尊の真正面に、成島毘沙門堂・吉祥天立像と並んで展示されていました。
平安時代の前期から中期の制作といわれています。

スラリとした立ち姿で痩身の観音像は、立ち並ぶ仏像達のなかでも、何やら霊的なオーラを感じさせます。
聖観音立像の前に立ち、その姿を拝していると、鬱蒼とした杉林の中の小沼神社を訪れた時の感動が、ふつふつと心の中に蘇ってきました。

小沼神社は、「おぬま」ではなく「こぬま」と読みます。

その名のとおりの、小さな沼のほとりに佇む社殿に祀られた、2体の観音像を拝したとき、

「心洗われる」

という言葉が、本当にそのままあてはまるような思いに浸されたのでした。

小沼神社の社殿に祀られる聖観音像・十一面観音像
小沼神社の社殿に祀られる聖観音像・十一面観音像


鬱蒼とした杉林のなか、突然眼の前に開けた空間が出現し、そこには緑色の小沼が水をたたえています。
そして、沼の向こう側には、小さな社殿がひとつ、ポツリと静かに佇んでいます。

小沼神社の佇む小沼の景観

小沼神社社殿
小沼のほとりにたたずむ小沼神社の景観

まさに、「霊境」の趣で、神が降臨する聖地の佇まいです。
その景観は、「神仙境、幽玄境」という言葉が、そのまま当てはまりそうな霊境空間だなという気がしました。

観音像は、そんな霊境に佇む小沼神社の社殿に祀られていました。
沢山の蝋燭が像前に灯されるなか、女性の宮司さんの祝詞が挙げられるという、厳粛で霊的な雰囲気の中、拝させていただいた二体の観音像は、本当に心惹き付けられるものがありました。

女性の宮司さんによって執り行われる御開帳儀式
女性の宮司さんによって執り行われる御開帳儀式

私にとっては、本当に久方ぶりの「心洗われる」時間でありました。

この情景は、今でも心になかに鮮明に刻み付けられており、忘れることのできない感動です。

小沼神社を訪れ観音像を拝した時の有様、感動、2躯の観音像の事などについては、
この観仏日々帖
古仏探訪~秋田県大仙市 小沼神社・観音菩薩像【その1】【その2】
に、以前、詳しく記させていただきましたので、そちらをご覧ください。

小沼神社を訪れてから、小沼神社の歴史と観音像について興味関心が深まってきました。

「もっと、小沼神社のことについて知りたい。」

と、資料をあたっていたら、

「中仙町史・文化編」  中仙町史編纂委員会編   1989.3.20刊

に、近代小沼神社の歴史が詳しく語られているのを見つけました。

そこには、二体の観音像が、廃仏毀釈の嵐のなか、村人たちの力によって守られ、これを乗り越えてきた歴史が記されていたのです。

この機会に、ご紹介しておきたいと思います。


小沼神社の古い歴史は良く判りません。

養老2年(718)建社という言い伝えがあるようですが、それはさておいて、江戸時代後期には、今の小沼神社と同じような景観のなかにお堂が建てられていたようです。

江戸時代後期の旅行家、菅江真澄が遺した旅行記「菅江真澄遊覧記」のなかの、「月の出羽路」に、文政11年(1828)頃の小沼観音の俯瞰図が描かれています。

菅江真澄筆「月の出羽路」に描かれた小沼観音の風景
菅江真澄筆「月の出羽路」に描かれた小沼観音の俯瞰図

この俯瞰図をみると、今の小沼神社の景観にそっくりです。
その頃には、「霊境空間」「神仙境」に佇む観音様として、村人たちに大切に守られ、祀られていたことは間違いないでしょう。


明治元年(1968)、維新政府は神仏分離令(正式には神仏判然令)を発布します。

この東北の地、秋田においても、神仏分離は強硬に進められました。
秋田藩でも明治2年に、神仏仕分け係が任命され、神仏混淆調査が始まります。

小沼神社は、神仏分離以前は小沼観音堂と呼ばれ、院内観音・蓮池観音とともに「仙北北浦の三観音」の一つでした。
小沼神社は、観音堂と呼ばれた(元々神仏習合の)お寺だったのです。

村人にとってみれば、神仏分離といわれたところで、平安時代から伝わる聖観音・十一面観音への厚い信仰から離れるということなど、到底出来るものではありませんでした。

小沼神社・聖観音像..小沼神社・十一面観音像
小沼神社・聖観音像と十一面観音像

村人たちは、外向きは政府や藩の仰せに従いながらも、信仰の対象としては観音を守ることで衆議一決しました。
そして、その方法は、当時の新しい制度の中で神官となった、水原東に一任することになりました。
水原は、住民がこぞって神道の葬祭に変ることを条件として、観音像を神社のご神体とすることにしました。

二体の観音を厨子に入れて戸をしめ、その前にすだれを下げ、鏡を置いて御神体にみせかけ、自ら棟札をつくって中心にすえ、それには、
「郷社小沼山大神 神位」
と書き、山の神に見立てました。

申請書にも、
「奉鎮、大山祗之大神・伊邪那伎大神・伊邪那美大神・久々理日大神」
明治二年七月、仙北郡小沼村鎮守神主・水原東・秋田県神祗方・神社方
として提出し、一回で合格しています。

ここで、小沼観音は、小沼神社と衣替えしたのです。

ところが、その後、秋田藩士神仏仕分け係が巡回してくるという情報を得て、あわてて厨子から大きな仏像を藁菰に包んで背負い出し、笹原の中に数日かくし、一時、白岩村の雲巌寺に宿を借りたとも語り伝えられています。
この時以来、村人の葬祭はすべての家が神道に変わりました。

このようにして、小沼神社の2体の観音像は、村人たちによって守り抜かれたということです。

古代、みちのく辺北の地では、佛教という「宗教」が、この地に伝播していったというよりも、それ以前のこの地に根ざした「固有の信仰」と結びついて、
「カミとホトケが一体化した像」
を造らせ、これをシンボルとして拝するようになった。

田中恵氏は、このように語っています。

小沼観音への村人の信仰は、江戸から明治に至るころにおいても、このようなカミとホトケが一体化した「固有の信仰」として、しっかりと土地に根付き、脈々と続いていたように思えます。


その後、明治45年には、行政の神社合併政策にあい、八日市の諏訪神社と合併し、神社名も「豊岳神社」と改称したそうですが、現在では「小沼神社」と称されています。


このようにして、神仏分離、廃仏毀釈の嵐をかろうじて乗り越えた、聖観音像、十一面観音像でしたが、長い星霜のなかで、随分と傷んでしまっていました。
仏像の下部(脚部)の腐食が進み、朽ちかけていたようです。
昭和27年(1952)、秋田県指定文化財に指定されましたが、立像でありながら自ら立つことができないほど、下部が腐朽していて、みるからに痛々しい姿となっていました。

そこで、昭和33年(1958)、仏像が自力で立つことが出来るように修理することになりました。
修理は、文部省美術工芸課の国宝修理技官の計画策定により、竹内不忘の手によって96日を要して実施されました。

小沼神社・十一面観音像を修理する竹内不忘
小沼神社・十一面観音像を修理する竹内不忘

竹内不忘は、日展審査員でもあり乃木将軍の銅像で有名であった彫刻家です。
これが、秋田県内での仏像修理の第一号でもあったそうです。

その後、昭和50年ごろから仏像に虫穴があき、そこから木の粉が落ちてくるようになり、昭和54年11月から2ヶ年計画で、財団法人美術院国宝修理所において、殺虫と虫穴補修したほか、聖観音の白毫には水晶が入れられました。

この2度の修理によって、2体の観音像は、平安時代の面影をとりもどし、現在の姿となったのでした。


「みちのくの仏像展」に出かけ、小沼神社・聖観音像に再会することが出来、小沼神社を訪れた時の感動を、少しばかり蘇らせることが出来ました。

小沼神社・聖観音立像
小沼神社・聖観音立像

そして、2体の観音像が、明治維新以来、地元の村人たちによって、廃仏毀釈の嵐を乗り越え、守り抜かれてきた歴史を振り返ってみました。

聖観音、十一面観音が、「土地と人々を守るカミとして、ホトケとして」、村人たちが必死の思いと信仰に支えられて、守り抜かれてきた話を知ると、益々「心洗われ、心揺さぶられる」ように思えます。


・鬱蒼とした杉林の山中に突然現れる空間
・鏡面のような水をたたえた、緑深く染められた小沼
・小沼の奥に、ポツリと佇む神社の社殿

小沼神社と2体の観音像は、江戸時代から、いやもっと以前から、このような景観の中に佇み、村人に祀られてきました。

これからも、こんな神仙のような霊境空間の中で、末永く祀られ、しっかりと守られていってほしいと、念ずるばかりです。

小沼神社と小沼の景観
小沼神社と小沼の景観


あれこれ~HP「古仏愛好」ページの新設と、新連載「献納宝物と四八体仏」スタート


神奈川仏教文化研究所HPをご覧いただき、有難うございます。

新しき年の初めに、新しき二つの事をスタートさせました。

一つ目は、
HPトップページのテーマ区分に、「古仏愛好」というテーマを新たに設けました。

「古仏愛好」タイトル

これまで、「仏像探訪旅行記・仏像紹介記事・仏像関係読み物」などなどは、全部「古仏礼賛」というテーマの区分に、まとめて掲載していました。

掲載記事も相当量になってきましたので、これからは「古仏礼賛」「古仏愛好」の二つのテーマに分けて掲載させていただくこととしました。

「古仏礼賛」には、古仏探訪旅行記、地方仏などの古仏紹介記事を掲載いたします。

■新設の「古仏愛好」には、仏像愛好の連載読み物・随想や論考を掲載していくこととしました。

連載「埃まみれの書棚から」は「古仏礼賛」から、「若き日の情熱」は「アラカルト」から、それぞれ「古仏愛好」に引っ越ししました。


余談になりますが、「若き日の情熱」と題して掲載している文章は、前管理人や現管理人の私などが、学生時代に作った、「仏像」と題する冊子を掲載したものです。

若き日の情熱・「仏像」冊子
学生時代に同好の皆で作った冊子「仏像」

今から45年も前に、同好会の学生達で造ったもので、前管理人がノスタルジーもあって掲載したものです。

思い出しますと、当時、学部の勉強はそっちのけで、全国各地の地方仏めぐりに出かけたりして、仏教美術の世界にのめり込んでいました。
そして、ついつい調子に乗って、皆で作った自主研究??冊子が、この「仏像」です。

読み返してみても、未熟で青臭く、今では陳腐な内容ではありますが、当時の我々にとっては、古寺古仏探訪に情熱を注いだ学生時代の存在証明のような気持ちで、冊子を作ったような気がします。

あまりに古臭く、時代遅れの文章なので、この際、HPから削除しようかと思ったのですが、遠い日の懐かしい思い出の、「若き日の情熱」をしのんで、引き続き掲載させていただきました。



二つ目は、
新連載、「法隆寺献納宝物と『四十八体仏』について」~~【第1回】の掲載スタートです。

四十八体仏タイトル


執筆は、沼田保男氏です.

これまでに

「中国山西省 雲岡石窟・古寺・古仏 感動の旅(2010)」
「黄河上流域 遥かなる石窟の旅(2011)」

と題する中国石窟旅行記を、掲載いただいています。

新設「古仏愛好」のスタートを飾る読み物として、掲載させていただきました。

この読み物は、法隆寺献納宝物と「四十八体仏」について書かれた、愉しく読める論考です。

ご存じのとおり、法隆寺献納宝物は、明治11年(1878)、法隆寺が皇室に数多くの所蔵宝物を献納したもので、現在、東京国立博物館法隆寺宝物館に展示されています。
四十八体仏は、その根幹をなす古代小金銅仏群で、飛鳥白鳳仏教美術史上誠に貴重な文化財です。

この連載では、明治初年に法隆寺から皇室への宝物献納に至る、興味深い経緯を解き明かされるとともに、四十八体仏の造形上の特質と制作年代についての考察が、語られています。
筆者・沼田氏は、これまでに中国石窟探訪記事を掲載いただいているように、中国の古代仏像についての造詣が深い方です。
こうした識見を踏まえて、四十八体仏を造形タイプごとに分類し、中国、朝鮮仏との関連について言及されています。

「四十八体仏」献納の経緯、造形の特質、太子信仰との関連など、「四十八体仏」について、様々な多面的視点からトータルにまとめられた、大変興味深い読み物です。

これを読めば「法隆寺献納宝物と四十八体仏、まるわかり」といってよいかもしれません。

7回連載で掲載させていただきます、是非お愉しみください。

古仏探訪~神奈川県大磯町・六所神社の御神像に初詣  【2015.1.3】


あけましておめでとうございます。

今年も、「観仏日々帖」に、古仏探訪記事などなどを気ままに綴らせていただきたいと思います。
よろしくお願いします。

新年、元旦に赤坂山王神社に初詣にお参りした他は、とくに何事もなく過ごしておりました。

余りダラダラしているのも如何かと思ったり、
11月末以来、観仏に出かけていないので、若干の禁断症状気味だったりしましたので、
大磯・六所神社の男女御神像の特別公開に出かけてみました。


年始のご挨拶代わりに、ご紹介してみたいと思います。

大磯・六所神社の男女御神像の特別公開については、神奈川仏教文化研究所HP~秘仏御開帳~にて、ご紹介した処です。
年に1日、1月3日限りの「特別公開」ということです。

六所神社・御神像特別公開チラシ
六所神社・御神像特別公開チラシ

六所神社の男女神像は、長らく秘かに祀られてきた神像で、近年その存在が明らかになった像です。
平安後期11~12世紀の制作とみられており、2009年に神奈川県指定文化財の指定を受けました。

2006年に神奈川県立博物館で開催された「神々と出会う~神奈川の神道美術展」に、新発見の平安神像として初めて出展され、注目された像です。
私も、この展覧会で、六所神社・男女神像を見ている筈なのですが、あまりはっきりした記憶に残っていませんでした。

もう一度、しっかり拝してみようと、車で出かけました。

六所神社は、神奈川県中郡大磯町国府本郷という処に在ります。
出かけた時間は、ちょうど箱根駅伝の復路、選手たちが大磯あたりを通過する時間帯でしたので、渋滞があるのかなと思ったのですが、何の影響もなく、スムーズに到着しました。

案内看板に添って進むと、住宅街の中に、神社が見えてきました。

六所神社
六所神社

六所神社は、平安後期に相模国府がこの地におかれると、相模国内有力5社の分霊を合祀し、相模国総社六所神社となったという由緒ある神社ということです。
結構大規模な立派な神社なのかと想像していたのですが、割合こぢんまりと落ち着いた感じでのたたずまいでした。

本殿に掲げられた、巨大な注連縄が目を惹きます。
地元の方々が多いようですが、初詣の参詣の人々で賑わっていました。

六所神社・本殿
初詣の人々で賑わう六所神社・本殿


さて、お目当ての、男女神像です。

本殿へ上る階段下の脇に、小さな宝物殿があり、そこに男女神像が祀られていました。
「御神像・特別公開」の看板は立てられているのですが、参詣の人々は、あまり気に留める様子もなく通り過ぎていきます。
御神像・特別公開目当ての人も、あまり見かけないようで、気がついた初詣に来た人が、ちょっと覗いて帰るという状況でした。

六所神社・神像特別公開宝物殿
御神像が特別公開されている宝物殿

1月3日、「一日限りの特別公開」ということなので、もうちょっと注目されているのかなと思ったのですが、何やら、残念な気持ちです。

「じっくり、ご拝観!」

と、意気込んで近づいたのですが、ガラスケースの反射で、正面からはクリアーに観ることが出来ません。
扉の前から身を乗り出し、サイドの方から無理に覗きこむと、ガラス反射せずに観ることが出来ましたが、かなり窮屈なご拝観といったところとなりました。

神像が安置されたガラスケース~反射して見づらい
ガラスケースに安置されている御神像~反射してなかなか見づらい

なかなか古様な感じです。
男神像の方は四天王像のような天部の神将形、女神像のほうは、吉祥天のような女性天部形をしています。
両像共に、70㎝前後の像高です。

「神奈川の神道美術展」解説によると、
一木彫、彩色像で、背面から大きく内刳りがなされており、作風から見ると、11世紀終わりから12世紀前半にかけての制作と考えられる。
とのことです。

神社では、男神像を「素戔男尊」(スサノオノミコト)、女神像をその妃の「櫛稲田姫命」(クシナダヒメ)に宛てています。

六所神社・男神像~神奈川の神道美術展図録掲載写真
六所神社・男神像~神奈川の神道美術展図録掲載写真

六所神社・女神像~神奈川の神道美術展図録掲載写真
六所神社・女神像~神奈川の神道美術展図録掲載写真

六所神社・男神像~神奈川の神道美術展図録掲載写真..六所神社・女神像~神奈川の神道美術展図録掲載写真
六所神社・男女神像~神奈川の神道美術展図録掲載写真

六所神社・男神像背面~神奈川の神道美術展図録掲載写真...六所神社・女神像背面~神奈川の神道美術展図録掲載写真
六所神社・男女神像背面内刳りの様子~神奈川の神道美術展図録掲載写真

男神像は、すらりとしたシルエットで、青年のような印象を受けます。

六所神社男神像~特別公開現地写真
男神像・顔部~特別公開現地写真
天部形の神将像ですが、四天王のような忿怒の表情ではなく、「憂愁に満ちた」青年というか、「眉根を寄せて苦悩煩悶する」といっても良いような表情をしています。

「悩める神」の表現とでも、たとえられるのでしょうか?
少しぎこちないような立ち姿をしています。

この神像の作者は、この造形で、どのような「神」を表現したかったのでしょうか?

落ち着いて、整った表現ですが、何やら得も言われぬ惹きつける魅力を感じさせるように思いました。
私の好きな「迫力やパワー、鋭さ」は無いのですが、「静かな深みを持つ魅力」を備えているようです。
この男神像、結構、好きになってしまいました。

六所神社男神像~特別公開現地写真..六所神社男神像~特別公開現地写真
六所神社男神像~特別公開現地写真

よく見ると、ベルトのバックルのような「帯喰い」の獣の顔まで、憂いや苦悩に満ちたような特異な表情をしています。
是もまた、この神像制作にあたって、意図的にそのように表現されたのでしょうか?

薄井和男氏は、「神奈川の神道美術展」図録解説で、このように述べています。

「一見、宝塔をかかげて立つ毘沙門天像が想起されるが、いっぽう、その面貌は若い美青年相にして、眉をひそめ、やや上唇をとがらせ、怒りとも苦悩ともつかない不思議な表情をたたえている。
通常の天部神将像とは明らかに違う。
神像に特有の異相表現が加わったと解釈されよう。

それはまた腹前の特別大きな獅噛に、一種、怨念相のような威風表現にも指摘がされよう。

一方、こうした異相表現とは別に、体部の肉取りや身のこなし、甲冑や裳の着衣表現は的確にして洗練され、造形に欠点が認められない。
全体を通し人を強く引きつける魅力をそなえた、注目すべき神像といえよう。」
(「神々と出会う~神奈川の神道美術展」図録・2006.2神奈川県立歴史博物館刊)

この男神像を「不思議な表情の異相」とみられています。


女神像の方はどうでしょうか?

女神像は、顔部が少し摩耗していることもあって、その表情がはっきりと伺えません。
よーく観ると、男神像と同じように「憂鬱そうに苦悩する」表情をしているように感じられます。
全体の造形も、なかなかバランスよくしっかり出来ているようです。

六所神社男女神像~特別公開現地写真

六所神社・女神像~特別公開現地写真..六所神社・女神像~特別公開現地写真
六所神社女神像~特別公開現地写真

男女神の形制は随分と違いますが、同じ手の対をなす神像として造られたような感じがしました。

薄井和男氏も、女神像について、このように述べています。

「面相は眼を伏せ、上唇をやや尖らせ、瞑想あるいは苦悩ともとれる不思議な表現をしめし、男神像と同じ異相表現が指摘される。
・・・・・・・・・
男神像と異なった点も所々みられるが、表情の雰囲気や彫刻としての巧妙な造形など、作風に共通点が認められ、ほぼ同時期の制作と考えてよいと思われる。」
(「神々と出会う~神奈川の神道美術展」図録・2006.2神奈川県立歴史博物館刊)

対をなす神像として造られたかどうかは微妙?
という見方のようですが、同時期の制作と考えられているようです。

六所神社の男女神像、ガラスケースの陽の反射で、大変見にくかったのが残念至極ではありましたが、なかなか見所のある神像に出会うことが出来ました。
落ち着いた、静かで深みある造形表現が魅力です。

「憂愁に満ち、苦悩煩悶する神像」

こんな、神像表現の領域があるのかどうか、勉強不足で良く判りませんが、そんな不思議な世界の神像に出会った気分になりました。



ところで、近年、神奈川県では、古神像の新発見が相次いでいます。

「神像」というのは、参拝する人がその姿を拝するという性格のものではなく、ご神体として秘められて祀られることが通例です。

当然ながら、なかなか公開されることはありません。


今回ご紹介した、六所神社の男女神像も、新たに発見されたものです。

ネットの検索情報などによれば、1991年の本殿建替えの時に、本殿の裏手から発見されたそうです。
15年前、2000年ごろに神奈川県立歴史博物館が、「神奈川の神道美術展」の開催に備えて、県内の神社の調査にまわったときに、平安時代の古神像であることが判明しました。

そして、「神奈川の神道美術展」に出展され、初めて公開されたのです。

当時(2006年)は、神奈川県では、箱根神社の万巻上人坐像(平安前期・9C)に次いで、第二に古い神像彫刻の発見とされ、大いに注目を浴びました。

箱根神社・万巻上人坐像
箱根神社・万巻上人坐像

その後、2009年に、県指定文化財に指定されました。
「神奈川の神道美術展」で公開されて以来は、2010年に文化財指定を機に大磯町郷土資料館で特別公開されただけで、非公開となっていました。
そして2年前からは、毎年1月3日に限り、六所神社宝物館で特別公開されることになったということです。


ところが、2006年、箱根神社に、六所神社神像より古い平安時代の神像が存在することが明らかになりました。
そのうち2躯の神像は、平安時代の制作とみられるものでした。

箱根神社・新発見男神像(重文)..箱根神社・新発見女神像(重文)
箱根神社・新発見男神像(平安時代・重文)

これらの神像は、歴代の宮司以外は見ることができず、長らく神殿の奥に秘されていました。
2006年に、宮司の英断により、調査に付されることになりました。

宮司の浜田進氏の談によりますと、

「今年の春に神奈川県立歴史博物館で『かながわの神道美術』展を開催されたから、公開する気になったんです。
最初は非常に疑問を持っていたのですが、展覧会では神奈川県の神社がそろって出品し、正しい評価を与えられた。
これで問題なしと思った。」

ということで、公開に至ったとのことです。

このあたりの話は、
有隣469号WEB版「座談会~箱根神社とその遺宝−秘蔵されていた平安時代の神像を初公開−」(2006.12)
に詳しく語られています。

この平安時代の制作とみられる2躯の男女神像(像高60㎝前後・一木造り)は、2012年、国の重要文化財に指定されました。


そのほかにも、注目すべき古神像の発見がありました。

神奈川県中郡大磯町高麗に在る、高来神社の神像群です。
六所神社から東に4~5キロの処に在り、高麗神社とも呼ばれているそうです。

高来神社社殿
高来神社社殿

この高来神社の社殿(旧高麗寺本堂)の東隣に立つ御輿堂から、十余体にのぼる神像群が見つかったのは、2000年の事でした。
大磯町が実施していた古建築悉皆調査の折、偶然、この堂内奥に多数の木像があることが確認されたのがきっかけでした。

果たして、この神像群は、鎌倉時代の制作であること考えられ、調査を進めるうち、一部の像から弘安5年(1282)の年紀銘まで見出されました。
類い稀なる鎌倉期の神像群の出現といえる発見でした。

像高1メートル内外の寄木造の像ですが、なかなかの気迫に満ちた像で、圧巻といえる魅力ある神像群です。
「神奈川の神道美術展」に出展されましたが、結構、見とれてしまいました。

高来神社・男神立像

高来神社・男神立像..高来神社・女神立像
高来神社・男女神立像(鎌倉時代)

この神像群発見の経緯は、
有隣415号WEB版「新発見の大磯町高来神社の木造神像群(薄井和夫)」2002.6
に、詳しく記されています。

この神像群、大磯町の指定文化財に指定されていますが、「大磯町郷土資料館」に保管され、修復が必要なことなどから、残念ながら公開されていません。


六所神社・古神像のご紹介と共に、近年、神奈川県で発見された古神像についても、併せて採り上げさせていただきました。

ベールに閉ざされていた神像の世界も、近年、少しずつその姿を顕わしつつあるようです。

皆さんご存じのとおり、近年公開された広島・御調(ミツキ)八幡宮の神像三躯(2003年・重要文化財指定)は、驚きの古神像の発見でした。
平安初期の制作で、大変な迫力溢れる古像です。
なかでも古様な女神像は、俗体(女)神像としては、我が国最古の制作の可能性もあると云われています。

御調八幡宮・女神像
御調八幡宮・女神像(平安前期9C・重文)

まだまだこれから新たな古神像の発見があるのかもしれません。

どんな古神像が姿を顕わすのか、本当に愉しみです。


そろそろ、お屠蘇気分も抜けてきた頃かと思います。
本年も、よろしくお願いいたします。