観仏日々帖

古仏探訪~大阪四条畷市・正傳寺の薬師如来立像 【2014.11.14】


土の匂いを感じさせるといってよいのかもしれません。

野趣にあふれた、力強い平安仏に出会いました。

正傳寺・薬師如来立像

正傳寺・薬師如来立像
正傳寺・薬師如来立像

四条畷市上田原に在る、正傳寺の薬師如来立像です。
像高:181.1㎝、クスノキの一木彫。
2年前、平成24年に四条畷市の市指定文化財に指定されている仏像です。

皆さん、ご覧になった印象は、如何でしょうか?
グッと惹き付けられるものを感じられた方もおられるでしょう。
ちょっとアクが強そうで、好みじゃないなと感じられた方もいらっしゃるのではないかと思います。


先日(2014年10月)、同好の方々と、一日、大阪の平安仏を巡りました。
拝したのは、このような寺々の仏像です。

・海岸寺(堺市中区)「菩薩立像・十一面観音立像」 (無指定・平安後期)
・長円寺(羽曳野市古市)「十一面観音立像」 (重文・平安前期)
・神宮寺感応院(八尾市恩智中町)「十一面観音立像」 (重文・平安後期)
・獅子窟寺(交野市私市)「薬師如来坐像」 (国宝・平安前期)
・正傳寺(四條畷市上田原)「薬師如来立像」 (市指定・平安中期)


海岸寺・菩薩立像
海岸寺・菩薩立像

長円寺・十一面観音立像..神宮寺感応院・十一面観音立像
長円寺・十一面観音立像      神宮寺感応院・十一面観音立像 

獅子窟寺・薬師如来坐像
獅子窟寺・薬師如来坐像

国宝・獅子窟寺「薬師如来坐像」を除けば、なじみの薄い仏像ばかりかと思います。
私も獅子窟寺を除いては、皆、初めて訪ねるお寺様でした。
同好の方々との仏像談義にも花が咲き、愉しい観仏探訪の一日となりました。


この日、拝した仏像のなかで、思いのほかに強い印象に残り、興味深かった仏像が、ご紹介する、正傳寺・薬師如来立像です。
想定外のインパクトでした。
まさか、これほどに存在感を感じさせる仏像だとは、予想もしていなかったのです。

正傳寺・薬師如来立像を拝しに行ってみようかと思ったのは、この像が、堺市市立博物館で開催された「大阪の仏像展」図録に掲載されていたからです。
平成3年(1991)に開催された展覧会で、私も図録を持っているだけなのですが、そこにカラー写真が載っていたのです。
当時は無指定で、10世紀後半頃の平安仏として採り上げられていました。

正傳寺・薬師如来立像~大阪の仏像展図録掲載写真
正傳寺・薬師如来立像~大阪の仏像展図録掲載写真

写真で見ると、ちょっとバランスを失した感じで、実際に拝するとガッカリしてしまうのではないかと思ったのですが、

「10世紀の平安仏」と聞けば、
「これは、拝さねばならない!!」
と、探訪先に組み入れることとしたのです。


正傳寺は、四条畷市上田原という処に在ります。

JR片町線・四条畷駅から東へ、近鉄・生駒駅から北へ、それぞれ4~5キロの処になります。
場所のイメージが浮かんでこないかもしれませんが、交野市私市の獅子窟寺の真南3キロぐらいにあたります。

山門前には「融通念仏宗 仏法山 正傳寺」と刻まれた立派な石碑が建てられています。
可愛らしい小坊主さんの石造りの郵便ポストが、微笑ましく迎えてくれました。

正傳寺・山門
正傳寺・山門

ご住職にご案内いただき、目指す薬師如来様にご拝観です。
正傳寺のご本尊は阿弥陀如来様で、薬師如来像は本堂に棟続きの薬師堂に祀られています。

正傳寺・本堂と薬師堂(右側)
正傳寺・本堂~右側が薬師如来が祀られる薬師堂"

薬師如来像が祀られる仏壇は、壁面、天井が金色に荘厳され、照らされたライトのなかでまばゆく輝いています。
薬師像は、2メートル近い大型像です。
金色の荘厳に映えるかの如くに、堂々たる姿でお立ちになっておられました。

金色の壁面と照明で荘厳された正傳寺・薬師如来像
金色の壁面と照明で荘厳された正傳寺・薬師如来像

この荘厳、近年薬師堂の改修にあたって、ご住職が、薬師如来像のお姿が一層映えるようにと、随分苦心、工夫されたものだそうです。

ご住職には、大変気さくに接していただき、薬師如来像の来歴やお姿について、懇切、丁寧なご説明、お話をいただきました。

ご案内・ご説明いただいた正傳寺ご住職
ご案内・ご説明いただいた正傳寺ご住職

さて、眼近に、じっくりとご拝観です。

たしかに、奈良の大寺の第一級の美麗な仏像から見ると、第二級、三級といわざるを得ない仏像であるのは事実です。
正傳寺を訪れる前に拝してきた、獅子窟寺の国宝・薬師如来坐像の見事さと比べると、その出来栄えは、残念ながら見劣りしてしまいます。
言葉は悪いですが、ちょっと「田舎風の雰囲気がある仏像」という感じです。

正傳寺・薬師如来立像

正傳寺・薬師如来立像
正傳寺・薬師如来立像

ところが、この薬師如来像、得も言われぬ迫力があるのです。
「野太く、ズシンと迫ってくる。」
ものがあるのです。
正傳寺・薬師如来立像~顔部
正傳寺・薬師如来立像~顔部

ドーンと腹に応えます。
ボディーブローを叩き込まれたような、衝撃とでもいうのでしょうか?
そんなインパクトを感じさせる仏像です。

惹き付けられる魅力を感じました。
この魅力、どのような言葉で表現すればよいのでしょう?

「土の匂いがするパワー」
「土俗的な妖しさを感じさせる顔貌」
「野趣あふれる力感」

こんなワーディングが、心に浮かんできました。
正傳寺・薬師如来立像~体部
正傳寺・薬師如来立像~体部
うまく表現できていないのですが、そんな言葉が似つかわしい仏像だと思いました。

薬師如来像の造形・表現をみると、平安前期の仏像の空気感を十分に漂わせています。

ただし、いわゆる森厳とかシャープとかというのではありません。
造形はどちらかというと大雑把なところがありますし、頭が体躯に比べて大きいなど、造形バランスにもあまりこだわっていないようです。
在地の仏師の手によるからなのでしょうか?
この像が、カヤやヒノキ材ではなく、クスノキ材で造られていることも、在地で造られた像であるからかもしれません。

なんといって印象的なのは、お顔の造形でしょう。
大きすぎるほどのお顔です。

「目尻が吊り上って見開いた眼、太い鼻梁線の大きな鼻、分厚く突き出した唇」

が特徴的です。

顔・頭は、卵型で、ネット帽やスキー帽をかぶったような螺髪も目を惹きます。

正傳寺・薬師如来立像~顔部

正傳寺・薬師如来立像~顔部
正傳寺・薬師如来立像

ちょっと、不気味さを感じるといってもよいお顔です。
その不気味さを発散せているエネルギーに、強く惹き付けられてしまいます。

私も、ご一緒の同好の方も、

「惹き付ける存在感のある、興味深い平安古仏ですね。」
「もっともっと知られても良い、迫力ある仏像ですね。」

こんな言葉を交わしたのでした。


この薬師如来像、来歴や制作年代、造形については、どのようにみられているのでしょうか?

ご住職の説明によると、この薬師像は、客仏だそうです。

「この薬師像は、近くにあった森福寺というお寺に祀られていた仏像であったのですが、森福寺は明治初年に廃寺となり、村人によって、廃寺のお堂で守られてきたそうです。
そのお堂も、腐朽してしまい、昭和の年代になって正傳寺に移されて祀られることになったのです。」

というお話でした。

その森福寺も、「四条畷市史」によると、

「戦国期まで遡る寺院であることを証し得ても現在は廃寺となって、縁起を語る資料も存しない。」

ということで、この平安古仏の当初の来歴をたどることはできません。
この野趣あふれる独特の薬師像、いづれの寺で、どのような由緒で造られたのでしょうか?


制作年代と造形についてはどうでしょうか?

この薬師如来像、以前は、「鎌倉時代の制作」とみられていたようです。

昭和59年(1984)刊、「四条畷市史」によれば、

「仏像に詳しい人の鑑定によれば、胸のふくらみ、全体的な立体感、衣文の滑らかさから見て、鎌倉初期のものと説明される。」(山口博氏執筆)

と、されています。

正傳寺・薬師如来立像
正傳寺・薬師如来立像
この仏像が、平安前期の造形感を持つ像だとみられるようになったのは、いつ頃のことかわかりませんが、
平成3年(1991) 「大阪の仏像展」に出展された時には、10世紀後半の平安仏と解説されています。

「やや窮屈な姿勢であるが、これは一木よりすべて木取りしたためである。

目尻をつり上げ、唇を突き出した表情は厳しく、胸部・腹部の肉身のボリュームのあるさま、大振りの衣文をあしらったところは平安時代前期的であるが、衣文の彫りは浅く、ネツトを被ったような頭部は10世紀〜11世紀前半の作品によく見られるところなどから、
本像の製作は10世紀後半頃と推定される。」(吉原忠雄氏解説)


平成24年(2012)、四条畷市の文化財指定に際しての指定事由には、このように説明されています。
(ご住職から、指定事由書の写しを頂戴しました。)

「僧祇支の右肩部に納衣を掛ける着衣法は、7世紀後半の奈良県法輪寺薬師如来坐像から見られ、9世紀に遺例がやや多く、10世紀にはあまり見られない。
本像は古い着衣法の例である。

短い団子鼻に、日じりを吊り上げて唇を突き出した表情は厳しく、胸部・腹部の肉身の量感や大振りの衣文は平安前期的であるが、衣文の彫が浅く、また側面観がやや浅く、平安時代10世紀に入るかもしれない。」


年を経るごとに、「鎌倉初期」から「10世紀後半」、そして「10世紀に入るかもしれない」と、だんだん制作年代が古くみられるようになっているようです。
この薬師如来像の持つ、平安前期に雰囲気を漂わせた古様さが、ますます注目され、認められるようになってきたということなのでしょうか?


私は、この薬師如来像の顔貌、造形表現を見ていて、
「石山寺と湖南の仏像展」で見た、3躯の仏像のことが思い浮かびました。
平成20年(2008)、大津市歴史博物館で開催されて仏像展です。

須賀神社(滋賀県大津市) 薬師如来坐像 (平安時代・10C前半)県指定文化財
若王寺(滋賀県大津市)  如来立像 (平安時代・10C)重要文化財
長光寺(京都府城陽市)  阿弥陀如来立像 (平安時代・10C)市指定文化財

須賀神社(滋賀県大津市)・薬師如来坐像
須賀神社(滋賀県大津市)・薬師如来坐像

若王寺(滋賀県大津市)・如来立像...長光寺(京都府城陽市)・阿弥陀如来立像
.   若王寺(滋賀県大津市)・如来立像     長光寺(京都府城陽市)・阿弥陀如来立像

いずれの仏像も、ネット帽・スキー帽をかぶったような螺髪で、卵型の顔・頭です。
それよりも、
「吊り上った目尻、太くずんぐりした鼻梁、分厚く突き出した唇」
で、ちょっと
「不気味で妖しい表情」
をしている処が、同じような雰囲気を醸し出しています。

特に、若王寺・如来立像は、正傳寺・薬師立像に像全体の造形感覚に通じるようなものを感じます。

ただ、須賀神社像、若王寺像の方が、鋭く初発的で、強い力感がみなぎっているのに対して、正傳寺像の方は、これらの造形に倣いながらも、型崩れやゆるみ、鈍さが出てきているような気がします。

ご住職が、

「この薬師様は、一木造ですごく重たいのかと思ったら、意外と軽いのですよ!
無理すれば、一人でも持ち上がるほどなんですよ。
背中の方から、相当しっかりと内刳りがされているようですから。
後ろの方から見ると、内刳りの様子がわかりますよ。」

とおっしゃいました。

後ろへ回らせていただくと、相当に深くしっかり内刳りされており、体部の肉厚が結構薄いことが伺えます。

また、側面から拝すると、躰奥が結構薄くボリューム不足で、肉付けも少々平板なことにも気がつきます。

正傳寺・薬師像の背面内刳りの状況....正傳寺・薬師像の側面観
正傳寺・薬師像の背面内刳りの状況と側面観

こうした内刳りの状況や側面観を考えると、須賀神社像、若王寺像のような造形タイプの系譜を継承して、少し年代が経ってから、これらに倣った造形感覚で、在地の仏師によって野趣あふれて造られたのではないだろうかと、勝手な想像を思いめぐらせてしまいました。

とはいっても、この仏像をつくった仏師は、平安前期の力強さ、インパクト、霊的精神性などを、しっかり受け継いで表現し得ているからこそ、強く惹きつけるものを感じさせるのだと思います。

「10世紀後半ぐらいの制作」という堺市博物館の解説は、

「なるほどそんな感じかな、同感!」

と感じた次第です。


もう一つ、この像よーく見ると、「朱衣金体」に仕上げられていることがわかります。
当初から朱衣金体であったのか、後世にそのように変えられたのかは、良く判りません。

「朱衣金体」と云えば、延暦寺・根本中堂本尊薬師如来を倣った、「天台薬師」のスタイルです。
「スキー帽形の螺髪」、「股間のY字状衣文」などが、特徴といわれます。

10世紀に下っての根本中堂像の模像例として、伊東史朗氏は、

立像では、滋賀・充満寺の薬師如来立像、京都・正法寺の伝阿弥陀如来立像、京都・長源寺の薬師如来立像、先の滋賀・若王寺の如来立像、

坐像では、京都・六波羅蜜寺の薬師如来坐像、京都・円隆寺の薬師如来坐像、

などを挙げられています。(10世紀の彫刻・日本の美術479号至文堂刊)

滋賀・充満寺~薬師如来立像...京都・正法寺~伝阿弥陀如来立像
滋賀・充満寺~薬師如来立像    京都・正法寺~伝阿弥陀如来立像

京都・長源寺~薬師如来立像...滋賀・若王寺~如来立像
京都・長源寺~薬師如来立像     滋賀・若王寺~如来立像

京都・六波羅蜜寺~薬師如来坐像..京都・円隆寺~薬師如来坐像
京都・六波羅蜜寺~薬師如来坐像       京都・円隆寺~薬師如来坐像

正傳寺・薬師如来像を拝すると、これらの天台薬師の系譜に在る仏像の造形感覚の系譜の中に在るようにも思えます。
そもそもは、天台系の薬師像として造られたのでしょうか?

この仏像のあった森福寺は、「真言宗寺院」であったと伝えられているそうですので、良く判らなくなってしまいなすが・・・・・・


一方、元々は薬師像ではなく、「弥勒仏」であったのではないかという考えもあるようです。

この像は、通常の如来像とは手の位置が逆で、「右手を下げて左手を上げている」のです。
吉原忠雄氏は、この点に注目して、弥勒如来像であった可能性に言及しています。

「(奈良時代の作とされている)『笠置の弥勒像』の写しが奈良県大野寺にあり、右手を垂下して左手を屈する形はもちろん、ネットを被ったような頭に共通性がある。

また滋賀県若王寺の如来立像(重要文化財)は、正傳寺像と同じ形式であるが、寺伝では弥勒像とされているので、正傳寺像も弥勒像である可能性が高いと思われる。

もし、弥勒像であるならば、正傳寺像は平安時代における『笠置の弥勒像』の大型の木彫仏として大変珍しい例となるであろう。」
(大阪の仏像展図録解説・堺市市立博物館1991刊)

奈良・室生大野寺~線刻弥勒石仏像
奈良・室生大野寺~線刻弥勒石仏像

薬師像だったのでしょうか、弥勒像であったのでしょうか?
興味深いところです。


正傳寺・薬師如来像について、長々と、とりとめもなく綴ってしまいました。


土の匂いのする、野趣にあふれた力強い平安古仏に、想定外に出会うことが出来ました。

その存在感やインパクトに惹かれて、色々と資料にあたったり、思いを巡らせていると、なかなか興味深い仏像であることがわかってきました。

2年前に、やっと市指定文化財に指定されたばかりの、ちょっと鄙びた仏像ですが、注目すべき平安古仏だと思います。


ご案内いただいた、正傳寺のご住職様には、大変にお世話になり、懇切なるご説明と共に、じっくりと時間をかけて拝させていただきました。
心より感謝しつつ、再訪を期して、夕暮れの正傳寺を後にしました。

京都・奈良からは、ちょっと不便な場所にありますが、是非一度、正傳寺を訪ねて、薬師如来像を拝されることをお薦めします。


トピックス~「奈良・日吉館をめぐる文化人」というシンポジウムが開催されました 【2014.11.2】


「奈良・日吉館をめぐる文化人~会津八一を中心に」

と題するシンポジウムが、早稲田大学で開催されました。

ビックリしました。

こんなシンポジウムが開かれるなどとは、思いもよらなかったのです。
20年近く前に廃業した「奈良の宿・日吉館」をめぐる話などというのは、あまりにもマイナーなテーマです。

知り合いの方に、

「こんなシンポジウムが開かれるみたいだよ。
貴方は、きっと興味があるんじゃないの?」

と、開催パンフレットをいただいたのです。

「奈良・日吉館をめぐる文化人」シンポジウム・チラシ
「奈良・日吉館をめぐる文化人」シンポジウム・チラシ


「これは、万難を排してでも、出かけねばなるまい!!」

と、10月25日(土)、満を持して出かけたのでありました。

というのも、
つい最近まで、神奈川仏教文化研究所HPの「埃まみれの書棚から」というコーナーに、
「奈良の宿あれこれ」
と題する連載を掲載して、その中で「奈良の宿・日吉館」について綿々と書き綴ったばかりです。

日吉館は、奈良にかかわる学者たちを中心に、文人、芸術家、またこうした世界を志す学徒達の溜り場、一種の文化的サロンとして、知られた奈良の宿です。

大正以来約70年間の長きにわたって続いた「日吉館」ですが、平成7年(1995)完全廃業します。
その後、建物の老朽化に耐えられなくなり、平成21年(2009)には、日吉館の建物も取り壊されました。

日吉館
昭和55年(1980)頃の奈良の宿・日吉館

日吉館の歴史、名物オバサン・田村きよのさんの事や、日吉館をめぐる文化人にまつわる話について、あれこれ調べてみて、

「自分も、ちょっとばかり日吉館通になったのではないか。」

という自己満足的気分になっていた矢先に、このシンポジウムの開催だったのです。

日吉館のオバサン・田村きよのさん
日吉館の屋台骨を支え続けた名物オバサン・田村きよのさん


このシンポジウムは、「早稲田大学文化芸術週間・2014年度シンポジウム」として開催されました。

小野記念講堂前のシンポジウム看板
小野記念講堂前のシンポジウム看板
チラシには、このようなシンポジウム開催概要が記されています。

日吉館は、大正初めに奈良で創業した旅館で、奈良を愛する文学者、画家、彫刻家や歴史、建築史、美術史の研究者らの定宿でした。

多くの文化人にゆかりのある日吉館は、「奈良の芸術院」とも称されました。

本シンポジウムでは、奈良と日吉館をめぐる大正・昭和初期の文化人の足跡について、日吉館をめぐる文化人―會津八一を中心に―」と題し、講演・研究報告をいただきます。


プログラムは、ご覧のとおりです。

シンポジウム・プログラム


どんな話が聞けるんだろうかと、興味津々で、会場の小野記念講堂に出かけました。

「奈良・日吉館をめぐる文化人」シンポジウム


こんなマイナーなテーマだし、宣伝もしていないので、大した人数は集まらないのだろうと思って行ったら、ざっと100名以上もの人が来場され、盛況ぶりに驚きました。

司会の方が、
「日吉館に泊まったことがある方は、手を挙げていただけませんか?」
と尋ねた処、
なんと、ほとんどの人の手が上がりました。

皆さん、「奈良の宿・日吉館」に泊まり、奈良美術を愛する人となったり、研究の途に進まれたのでしょう。
そして、私も含めて今や、皆中高年という方々なのだと思います。

そんな会場でしたので、
「シンポジウム」というよりも、

「日吉館での日々やオバサンのことを思い出し、若かりし頃を懐かしむ」

そんなノスタルジックなムードで、プログラムが進行していったような感じでした。


ところで、このシンポジウム、どうして開催されることになったのでしょうか?

川尻秋生・早稲田大学会津八一記念館副館長の、開催挨拶の話を聞いて、その訳が判りました。

早稲田大学会津八一記念館には、これまで、会津八一揮毫の日吉館の二つの看板(扁額と吊るす立て看板)などが、預けられて居ましたが、先年、故田村きよのさんのご子息から、正式に寄贈となったのに加えて、
今般、日吉館に遺された大量の「宿帳」と、会津八一揮毫の「我思古人」の横額が、ご子息の夫人から、寄贈されたのだそうです。

日吉館屋根に掲げられていた会津八一揮毫・扁額.日吉館軒に吊るされていた会津八一揮毫縦看板(拓本)
会津八一揮毫・日吉館の扁額横看板と縦看板(拓本)


日吉館の縦横看板が掲げられていた日吉館(昭和52年・1977)
会津八一揮毫・縦横看板が掲げられていた日吉館(昭和52年・1977)
屋根上に横看板が掲げられ、軒下に縦看板が吊るされている




「日吉館の宿帳」というのは、日吉館の名物とも云ってよいもので、大正6年(1917年)以来の宿泊人名簿が平成7年(1995)まで、大量40冊もが、遺されているものです。

日吉館の宿帳
日吉館に残されている宿帳(宿泊人名簿)

ここに現れる名前の数々は、いちいち説明する必要はないほどの、綺羅星の如くの著名な学者、文人、芸術家などなどのオンパレードです。
日吉館が、多くの文化人ゆかりの「奈良の芸術院」とも称されたことが偲ばれる、誠に貴重な史料ということが出来る、宿帳なのです。

早稲田大学会津八一記念館が、これらの寄贈を受けたことを機に、このシンポジウムが開催されることになったのでした。


また現在、早稲田大学会津八一記念館の常設展示室のコーナーで、
「奈良・日吉館と会津八一」
という特集展示も行われています。
(開催期間:10月13日~11月8日)

記念館には、「日吉館の宿帳」のほか、会津八一揮毫の「日吉館」の扁額、「観仏三昧」「「我思古人」の横額などが展示されています。

早稲田大学会津八一記念博物館
早稲田大学会津八一記念博物館

会津八一揮毫の「観仏三昧」の横額
会津八一揮毫「観仏三昧」の横額

会津八一揮毫の「我思う古人」の横額
会津八一揮毫「我思古人」の横額



さて、シンポジウムの講演内容などを、ちょっとご紹介したいと思います。

「日吉館のエピソード」といった類ものばかりですので、話の中身、前後関係がわかりにくいかもしれません。
HP連載「奈良の宿あれこれ」の日吉館についての項(その1~その6)を、ご参照いただければと思います。


大橋一章氏の「會津八一と日吉館」と題する、基調講演がありました。
大橋一章氏
大橋一章氏

講演の内容は

・会津八一が奈良美術に傾倒するようになる経緯と、日吉館との関わり合い
・日吉館と早稲田大学に関わるいくつかのエピソードや、日吉館をひいきにした学者たちの話
・大橋氏自身の日吉館の思い出

といったものです。

「奈良の芸術院・日吉館」の昔をしのんで、懐かしく回顧するというといったお話でした。

大橋氏が、初めて日吉館に泊まったのは、大学2年になった時、昭和38年(1963)の事であったそうです。
その時の宿代は「700円」
やはり、名物のすき焼きを腹一杯愉しんだそうです。
私が初めて泊まったのは、昭和45~6年(1970~71)の頃で、宿代は「1200円」でした。

会津八一と日吉館がらみの話では、

・初めて日吉館に泊まるようになったいきさつ

・日吉館の看板を揮毫した時の話

・日吉館定宿の二大巨頭、会津八一と足立康は仲が悪くて、オバサンが大変苦労した話

などなどのエピソードが紹介されました。

日吉館前に立つ会津八一...日吉館前の会津八一と田村きよのさん
日吉館前に立つ会津八一(左)と八一と田村きよのさん(右)

足立康
建築史・美術史学者~足立康

このあたりの話は、

単行本「奈良の宿・日吉館」太田博太郎編 S55講談社刊

に詳しく語られているとおりのものです。
HP連載「奈良の宿あれこれ」<その2><その4>でも、紹介させていただきました。

単行本「奈良の宿・日吉館」
単行本「奈良の宿・日吉館」


今回の大橋氏の講演で、私が初めて新たに知った話は、こんな話です。

日吉館の名物看板のうち、吊るしの「ひよし館」と書かれた縦看板の方は、何度も盗難にあったそうです。
幸いにも、その都度、無事帰ってきたのだそうです。

その縦看板と、横看板が、早稲田大学に寄託され、寄贈されるようになったいきさつの話です。

平成9年(1997)に、早稲田大学から、日吉館のオバサン・田村きよのさんに、感謝状を贈ることになったのです。
どうしてこの時に贈ることになったのかの説明はありましたが、ちょっと忘れてしまいました。
奥島孝康氏
奥島孝康氏

当時の早稲田大学総長・奥島孝康氏が、感謝状の授与に、大橋一章氏を同行して、奈良の日吉館を訪れました。
この時、横看板の扁額は屋根から下されて、部屋に据えられていたそうですが、大橋氏は奥島総長に、

「早稲田に博物館が出来たら、是非ともこの看板を貸して欲しい。」

とオバサンに頼んでもらえるように、言ったそうです。

部屋に据えられた横看板の扁額の前で、総長が、そのようにお願いしたところ、
オバサンは、快く

「この看板は、永久にお貸しする。」

と応えてくれたそうです。

部屋に下された名物看板の横に座る田村きよのさん
部屋に下された名物看板の横に座る田村きよのさん

オバサンは、その翌年、平成10年(1998)、88歳で亡くなります。
同じ年、平成10年に会津八一記念博物館が、開館することになりました。

そして、会津八一揮毫の二つの日吉館の看板は、会津八一記念博物館に保管されることになったのだ、ということでした。


もう一つ、会津八一が日吉館に遺した、掛け軸の話です。

「いかるがの さとのをとめは よもすがら きぬはたおれり あきちかみかも」

という、鹿鳴集に載せられた会津八一の歌は、みなさんよくご存じのことと思います。

日吉館には、会津八一の書によるこの歌の軸物があり、八一の書のなかでも、大変良く書けた出来の良いものであったそうです。
薬師寺・高田好胤師
薬師寺・高田好胤師

この軸物、薬師寺の高田好胤師が大変気に入り、何度も何度も、譲ってほしいと、日吉館のオバサンを訪ねてきたそうです。

オバサンも、ホトホト根負けして、最後には、
「そこまで言われるのなら、差し上げましょう。」
といって、高田師を一瞬喜ばせたのです。

が、間髪入れず、
「その代わりに、お宅様の聖観音様を持ってきて欲しい。」
と、切り返したのだそうです。

以来、高田師も、この話はしなくなったとのことでした。

こんなエピソードのある軸物も、今般、会津八一記念博物館に寄贈されたそうです。

他にも、面白い話がいくつかありましたが、大橋氏の講演からの紹介話は、これくらいにしておきます。


會津八一記念博物館助手・金志虎氏の興味深い研究報告がありました。
「日吉館の宿泊人名簿(宿帳)について」
と題する報告です。

金氏は、今般寄贈された「日吉館の宿泊人名簿」、40冊と、欠落部分のコピー1冊に書かれている人たちについて、現在検証分析中だそうです。

宿帳は、大正6年(1917年)から平成7年(1995)までの80年間近くに及びます。
日吉館が、下宿兼旅館業を始めたのは大正3~4年頃のことですから、旅館業間もないころからの宿帳が遺されていることになります。
欠落箇所もいくつかあるようで、最長10年以上の間の欠落もあるとのことです。

日吉館の宿帳・会津八一の署名がある(上段)
日吉館の宿帳
上段・大正11年11月、下段・昭和18年7月
上段には会津八一の記名が見える


この宿帳には、仏教美術史、建築史、古代史などの世界の、綺羅星の如くの著名な学者たち、誰もが名を知る文人、芸術家、評論家などなどが、オンパレードで登場します。

金氏からは、どんな名前が登場するのかという紹介説明が、宿帳画像を交えてありました。
登場する学者、著名人については、
HP連載「奈良の宿あれこれ」<その4>をご参照ください。

面白かった話は、こんな発見でした。

大正6年(1917年)、第1冊宿帳の冒頭には、「滋賀県高島郡士族・井上傳介」の名が記され、次頁には立命館・野球部のメンバーの名前が連なっています。
ただ、同じ年に、福井利吉郎、中川忠順、上野直昭、藤懸静也といった名前が見られますので、奈良博前の立地の宿ということで、自然と研究者・文化関係者の最寄りの宿になっていたのでしょう。

日吉館に、欧米の外国人が初めて泊まったのは、大正13年(1924)の事でした。
欧米人3人の名前が、宿帳にカタカナ、アルファベットで登場します。

興味深かったのは、宿帳への登場件数ベスト3の名前です。
著名学者のベスト3ということですが、

会津八一:18回

足立 康:18回

金森 遵:17回

となっているそうです。

日吉館定宿、贔屓の二大巨頭、会津八一と足立康の名前が挙げられるのは、当然の事という処でしょうが、意外であったのが、「金森遵」の名前が挙がったことです。

金森遵という、美術史学者の名前はご存じでしょうか?

「日本彫刻史要」(昭和23年・高桐書院刊)、「日本彫刻史の研究」(昭和24年・川原書店刊)
という著作で知られる、日本彫刻史の研究者です。
なかなか切れ味良く、思い切った論陣の論考で、惹き付けられるものがあり、熱心に読んだ記憶があります。

東京帝大美術史学科を卒業し、昭和8年に東京帝室博物館に籍を置いたのですが、昭和19年に39歳で召集され、翌20年、フィリピンにて40歳で戦死します。

金森が日吉館に泊まったのは、学生時代、博物館勤務の十数年間(うち2年間は奈良博勤務で奈良に居住)ですので、その間に二大巨頭に迫る17回、日吉館に泊まったということになります。
東京から奈良まで出かけるということが、たいそう大事であった昭和初期に、大変な頻度であったと思います。

金森自身が、大の日吉館ファン、日吉館贔屓であったのでしょうか?
当時、奈良を訪ねた頻度が断トツで、宿は日吉館ということだったのでしょうか?
「金森遵と日吉館」にまつわるエピソードが、あまり伝えられていないようで、良くは判りませんが、この宿泊回数の多さは、金森遵の
「奈良仏像研究への熱き情熱」
の証左であるように感じました。


研究報告の後は、パネルディスカッション、会場参加者との質疑応答と続きました。

会場の参加者からも、日吉館の思い出話を交えた発言もいくつかあり、大変なごやかな、質疑となりました。

あの日吉館贔屓の二大巨頭の一人、「足立康」のご兄弟のお孫さんにあたる方からの、思い出を交えたご発言もありました。

また、「根本さん」という方のご発言もありました。
根本さんは、若き頃、日吉館の一員のように手伝いをされていた、日吉館党の方であったとのことです。

金氏の、日吉館の宿帳についての研究報告の中で、

「宿帳を見ると、終戦の日(8/15)前後の日吉館は、宿泊人は誰もなく、終戦の日当日に一人の泊り客がいただけであった。」

という説明があったのに対し、

根本氏から、

日吉館に下宿していた鷹司平通氏
日吉館に下宿していた鷹司平通氏
「終戦前後の日吉館は、宿屋というより、下宿という感じで滞在している人が、いたのが実情であったと思う。
例えば、鷹司 平通(タカツカサ トシミチ)氏(五摂家の一つだった鷹司家の当主)は、当時、日吉館に下宿しており、日吉館で終戦の日を迎えたのは知られている話。

また、日吉館の歴史のなかでは、宿帳には記されていないが、折々日吉館を訪れて、文化サロン的交友を深めていた人々も数多くいたのが実情。

宿帳に登場する人物だけで、日吉館をめぐる人々を語るだけではなく、多面的な眼でみていく必要もあるのでしょう。」

こんなご発言もありました。

「さすがに、日吉館党といわれる人は、奥が深い!」

と、感心した次第です。

同時に、「根本さん」という名前を聞いて、

「この方は、単行本『奈良の宿・日吉館』に登場する、根本信義さんという人に違いない!!」

と確信しました。

同じ日吉館党の、針生千絵さんと結婚したという、根本信義さんだと思います。
この話は、日吉館にまつわるエピソードのなかでは、大変有名な話です。
「奈良の宿・日吉館」には、「日吉館に結ぶ愛」という章立てで、二人のことが語られています。

「奈良の宿・日吉館」に綴られている「日吉館に結ぶ愛」の章
「奈良の宿・日吉館」に綴られている「日吉館に結ぶ愛」の章
青山茂執筆「日吉館の星霜~田村きよの半世紀」の一節に綴られている


針生千絵さんは、著名な評論家・針生一郎氏の息女です。
針生一郎氏は、「奈良の宿・日吉館」に寄せた「父娘二代の縁」と題する寄稿で、この話にふれています。

針生一郎氏
針生一郎氏
針生氏は、このように語っています。

「(昭和55年~1980)三月末、その娘がやはり日吉館の常連の根本信義と結婚した。

この結婚の事実上の推進力は、自分の目の黒いうちに二人を一緒にしてやりたい、というおばさんの熱意だが、日吉館大先輩の宮川寅雄さんご夫妻に媒酌をお願いし、新郎新婦を含め常連・友人らが日吉館に泊まり込み、氷室神社で挙式の上、おばさんら手製の料理を興福寺の広間に運んで、披露宴が行われた。

裏方に徹してついに式にも出なかったおばさんは、あとで疲労のため寝込んだらしい。

わたしは娘をとおしてできた日吉館との太いきずなを、いま感慨深くうけとめている。」

この話の主人公、根本信義さんも、このシンポジウムにいらっしゃっていたのでした。

こんな、和気あいあいとして、良き思い出の「奈良の宿・日吉館」を振り返り、懐かしむという会場の雰囲気に包まれて、シンポジウムは、終幕を迎えました。


最後に、会場にいらっしゃった田村きよのさんのご子息の夫人が、司会の方から指名を受け、一言、ご挨拶がありました。
今般、「日吉館の宿帳、会津八一の横額など」を、寄贈された方です。

「会場参加の方々も含め、皆さんの日吉館に対する愛情には、本当に気持ちが込められていて、有難く思います。
皆さんの心の中に、日吉館という宿のことが、少しでも残り続けていることを感じ、懐かしく嬉しく思います。」

このように、感慨を込めて話されていました。

ジーンと心に訴える話でした。

参加の皆さんは、一人ひとりの

「自分にとっての日吉館のそれぞれの思い出」

に浸りながら、会場を後にされたことと思います。

看板の下ろされた日の日吉館(昭和57年・1982年12月31日)
屋根上の名物看板の下ろされた日の日吉館(昭和57年・1982年12月31日)
オバサン・田村きよのさんは72歳の時、廃業を決意し、看板を下ろしました
日吉館党の人々が、ボランティア支援で営業を再開、平成7年(1995)完全廃業しました