観仏日々帖

古仏探訪~大阪高槻市・廣智寺の多臂観音菩薩立像  【2014.5.23】


廣智寺の観音菩薩像。

この仏像は、是非、皆さんにご紹介しておきたい、興味深い仏像です。
あまり知られていませんが、魅力あふれる仏像です。
大変出来の良い、見事な仏像だと思います。

廣智寺・多臂観音菩薩立像

廣智寺・多臂観音菩薩立像
廣智寺・多臂観音菩薩立像

実は、廣智寺の観音立像のことは、8年前までは、その存在を全く知りませんでした。

8年前、平成18年(2006年)に、同好の方数名で「摂津の古仏探訪」に出かけました。
いくつもの摂津の古仏を拝しましたが、その折、目当てのお寺のご都合がつかず、空いてしまった時間の埋め草に訪ねることになったのが、広智寺なのでした。
大阪府の指定文化財に指定(平成5年・1993指定)されている古仏があるというので、訪ねてみたのです。
まったくノーマークの仏像でした。

廣智寺の本堂に祀られたこの仏像を眼前に拝した時、思わず「オゥー!」という声を上げてしまいました。

その見事さに、本当に驚いたのです。

「これはすごい。これだけの古像が、どうして知られていないのだろうか?」

と、びっくりするとともに、見惚れてしまいました。

廣智寺・多臂観音菩薩立像
廣智寺・多臂観音菩薩立像~正面

皆さん、写真をご覧になった、印象はいかがでしょうか?

「大変出来の良い、一流の腕の手による仏像だ。」
「ボリューム感充分、相当古い時期に造られた一木彫に違いない。」

きっと、こんな印象を感じられたのではないでしょうか。


像高は、ほぼ等身の164.5cm。
カヤ材の一木彫で、内刳りはありません。

全体の姿は、ボリューム感豊かで、堂々たるものです。

どっしりとした重量感と、きりっとした締まりある緊張感を併せ持っているようです。
真横からは拝せませんが、かなりの奥行きがあるように思われ、相当の肥満体といっても良い、太造りです。
とりわけ、肩から胸にかけては、肩太りで豊満でむっちりした肉付きですが、肥満の緩みとか弛みといったものがなく、締りと緊張感ある造形に仕上がっています。

廣智寺・多臂観音菩薩立像~上半身
肩太りでむっちり締りある造形の廣智寺・観音菩薩像

一番の魅力は、お顔の造形でしょう。

ちょっと下膨れで、引き締まった口唇、真ん中に寄せたキリリとした目鼻立ちは、クォリティー高く見事なものです。
惹きつけるものがあります。

廣智寺・多臂観音菩薩立像~顔部
廣智寺・観音菩薩立像~顔部

面貌や上半身の体躯の造形をみると、唐招提寺講堂の伝衆宝王菩薩像や伝獅子吼菩薩像の造形や雰囲気を思い起こします。
大陸風のエキゾチックな雰囲気を醸し出しているところが、そのように感じさせるのでしょう。

唐招提寺講堂・伝衆宝王菩薩像...唐招提寺講堂・伝獅子吼菩薩像
唐招提寺講堂・伝衆宝王菩薩像         伝獅子吼菩薩像

唐招提寺講堂・伝衆宝王菩薩像~顔部
唐招提寺講堂・伝衆宝王菩薩像~顔部


宝菩提院の菩薩踏下像(国宝)や、道明寺の十一面観音立像(国宝)を思い起こされた方も、結構いらっしゃるのではないかと思います。

宝菩提院・菩薩踏下像
宝菩提院・菩薩踏下像

道明寺・十一面観音立像
道明寺・十一面観音立像

宝菩提院像、道明寺像は、

・唐渡来かと思わせるエキゾチックな風貌、
・しつこいほどの粘りのある衣文表現、
・彫技の冴えを競い誇るかのような鋭い彫口

が印象的です。

何やらヌメッとしたというか、ねっとりした粘着質の感覚表現は、唐代彫刻特有のもののように思えます。

廣智寺像をみると、頭上の髻の結い方は、宝菩提院像にそっくりですし、幅の広い天冠台は道明寺像に類似しています。
また、瞳に石か練物を嵌入していたと思われますが、この点も両像と同じです。

それよりも何よりも、宝菩提院像、道明寺像の持つ、中国風というか唐風の匂いがぷんぷんとする、独特の雰囲気、空気感を、廣智寺像にも色濃く感じられることと思います。
異国風の表現というのでしょう。

廣智寺観音像の衣文表現や彫技の冴えの程は、像の表面が相当傷んですり減っているため、良く判りませんが、宝菩提院像や道明寺像を思わせるようなものであったのかもしれません。

廣智寺・多臂観音菩薩立像~脚部
相当傷んですり減っている廣智寺・観音像~脚部衣文

唐招提寺の伝衆宝王菩薩像・伝獅子吼菩薩像は、奈良時代後期の制作です。
宝菩提院像、道明寺像は、9世紀半ば頃の作ともいわれますが、近年、長岡京時代(延暦3~13年・784~794)か、それに近い平安初期の制作という見方もされています。

これをそのまま引き直せば、廣智寺観音像も、奈良時代末期から平安時代初期(8末~9世紀)の制作と考えられるということになります。

皆さん、どのように感じられるでしょうか?

いずれにせよ、廣智寺多臂観音菩薩立像は、相当の修理の手は入っていますが、大変レベルの高い造形の仏像であることには間違いなく、当代一流の仏工の手によるものであろうと思われます。
その、異国風のエキゾチックな造形表現は、この像が渡来系か、唐渡来の彫刻技術を受け継いだ仏工の手による像であることを物語っているのでしょう。



廣智寺は、大阪と京都のちょうど中間点あたり、高槻市天神町に在ります。
古代の摂津の国の地です。
JR高槻駅から真北へ500メートルほど、歩いて6~7分の市街地の真ん中にあります。

階段を上っていくと山門があり、その姿を見ると禅宗の寺院であることが、すぐにわかります。
曇華山広智寺といい、黄檗宗の寺院です。

廣智寺・山門..廣智寺・本堂
廣智寺・山門               廣智寺・本堂

廣智寺・観音菩薩立像が安置される厨子
廣智寺・観音菩薩立像が安置される厨子

観音像は、本堂の大きな厨子の中に祀られています。

観音様のご拝観については、事前に連絡を入れてお願いすると、ご都合がつく限り気軽にご了解いただけるようです。
私は、平成18年と今年(平成26年)の二度、お伺いしましたが、いずれの時も快く拝観のご了解をいただきました。
堂内は、少々暗いですが、観音像の祀られている厨子の中は適度の照明がされており、眼近にじっくりと拝することができます。

この像が、かつてあまり知られていなかったのは、像の痛みが相当に激しくその尊容を著しく損じていたことにあるようです。
廣智寺さんで拝見した修理前の写真を見ると、多臂の腕は皆亡くなってしまっており、肉身部には後補の金泥が塗られていたとのことです。

余りに痛みが激しいため、平成3~5年(1991~1993)に、美術院国宝修理所で解体修理が行われました。
修理前は、六臂の十一面観音に改変されていましたが、解体修理の結果、八臂の観音菩薩立像であることが判明しました。
修復にあたっては、八臂に戻され腕・手先が新たに造られるとともに、足先も後補されました。
一面八臂の「不空羂索観音」を意識して、修復されたとのことです。

修理前の廣智寺・多臂観音菩薩立像......修理後の廣智寺・多臂観音菩薩立像
廣智寺・観音像~修理前の写真           修理後の写真

観音像は、この修理修復で、すっかり像容を一新し、その堂々たる見事な造形がよみがえることになりました。
そして、奈良末平安初期の制作、唐風の優れた彫技を思わせる仏像であることが注目されるようになったのではないかと思います。

平成5年(1993)当時の、美術院での修理結果を伝えるとともに、奈良時代にさかのぼりうる古像であることを報じる新聞記事を、ご紹介します。

廣智寺・観音菩薩立像について報道した新聞記事

見出しには、

「広智寺・十一面観音。実は不空羂索観音だった!」
「解体修理で判明、重文級・・・奈良時代にさかのぼる!」

と書かれています。

井上正氏の、次のようなコメントが載せられています。

「衣の衣文などから、奈良時代にさかのぼるのではないか。
近くにある霊松寺は、奈良時代に活躍した僧、行基開創の伝承を持っており、行基に関わる像とも考えられる。」

井上氏は、行基に関わる像とのコメントですが、どうなのでしょうか?
これは、ちょっと無理筋のような気がします・・・・・・

ただ、修理結果の知見によると、相当の古像であることは間違いないような感じです。

この像の、来歴は辿れるのでしょうか?
元々不空羂索観音なのか?
という問題についても、気になります。

この点について、浅見隆介氏は、このように述べられています。
本像が、平成13年(2001)、「天神様の美術展」(大阪市立美術館)に出展された時の、図録の解説です。
天神様の美術展図録掲載の廣智寺・観音菩薩像写真
天神様の美術展図録掲載の
廣智寺・観音菩薩像写真

「大阪府高槻市の廣智寺は、上宮天満宮に隣接し、その本尊である本像は江戸時代・慶安年間(1648~52)に、おそらく菅原道真没後750年を期して十一面観音菩薩像に造り変えられ、天神の本地仏として信仰された。
近年の修理を経て、現在、不空羂索観音像としてまつられるが、額に第三眼がないこと、鹿皮をまとわないことから、その確証はない。

髻の形は宝菩提院の菩薩踏下像、醍醐寺の聖観音菩薩立像に、天冠台の形は道明寺十一面観音立像などに通じる。
一木造りで内刳りを施さず、瞳に黒い石などを嵌めていたらしい。

制作は、奈良時代末から平安時代初頭とみられ、地理的に長岡京と近いことが興味を引く。」

もともと不空羂索観音であったかどうかは、さて置くとして、廣智寺観音像は、井上氏の云う行基関連というよりは、天満宮に関わるとみたほうが、納得的に思えます。

廣智寺は江戸時代の開創ですので、観音像は隣接の上宮天満宮から移されたことは間違いないようです。

上宮天満宮
上宮天満宮

しかし、天満宮は、903年に没した菅原道真を祀る神社です。
観音像は、それよりもはるかに古い年代の制作と考えられますので、つじつまが合いません。

ただ、上宮天満宮は、菅原道真を祀るとともに、その始祖である野見宿禰をともに祀っています。
また、近接して、菅原氏・土師氏の始祖・野見宿禰を祀った野身神社があります。

野身神社
野身神社

この野身神社は、野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘(宿禰塚古墳)の上に位置しています。

当地は土師氏に関わる地であり、この観音像は、土師氏由来の仏像として、古来、当地に伝わってきた古像ではないかという見方もあるようです。

そのように見てみると、当地に奈良末・平安初期にさかのぼり得る古像が残されていることも、土師氏ゆかりの像と考えれば、納得できるように思えてきます。


ご存じのことかと思いますが、土師氏は野見宿禰を祖先とする有力豪族です。

土師氏は、桓武天皇にカバネを与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれていきます。
「野見宿禰⇒土師氏⇒菅原氏」は、一本の系譜でつながっており、天神信仰は土師氏につながっていくのです。
因みに、土師氏の氏寺は、国宝・十一面観音像を祀る道明寺で、道明寺天満宮が隣接しています。

ここまで、平安初期以前にさかのぼる可能性のある、廣智寺観音像が、この摂津・高槻の地に遺されている訳について、想像を逞しくしてきました。



ここで、廣智寺観音像の異国風、唐風といった「エキゾチックな造形表現」について、もう少し深めて考えてみたいと思います。

二つの視点から、見てみたいと思います。

一つは、瞳に石や練物などの異物を嵌入するという、特異な造形表現についてです。

もう一つは、桓武天皇・土師氏・紀氏の血脈トライアングルと長岡京遷都に関わる仏像という観点です。


先ず、瞳に異物を嵌め込んだ木彫像についてです。

廣智寺観音像のほかには、どのような例があるのでしょうか?
主なものを、ピックアップしてリストにしてみました。

奈良時代の塑像や乾漆像には、黒い石やガラス玉を瞳に使った例が多くあるのは、ご存じのとおりですが、奈良~平安期の木彫像で、瞳を嵌め込んだ例はそう多くはなく、主には次のようなものが見られます。

瞳に異物を陥入した平安仏リスト

ご覧いただくと、一目瞭然ですが、どの仏像も中国(唐)からの渡来像か、中国風(唐風)の匂いがプンプンとするエキゾチックな仏像ばかりです。

法隆寺・九面観音立像...法隆寺・九面観音立像
法隆寺・九面観音立像

唐招提寺講堂・大自在菩薩立像...唐招提寺講堂・大自在菩薩立像
唐招提寺講堂・大自在菩薩立像

東寺・兜跋毘沙門天立像...東寺・兜跋毘沙門天立像
東寺・兜跋毘沙門天立像

東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像.東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像
東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像

法華寺・十一面観音立像..法華寺・十一面観音立像
法華寺・十一面観音立像

宝菩提院・菩薩踏下像
宝菩提院・菩薩踏下像

道明寺・十一面観音立像
道明寺・十一面観音立像

廣智寺・観音菩薩立像
廣智寺・観音菩薩立像

中山寺・十一面観音立像..中山寺・十一面観音立像
中山寺・十一面観音立像

清凉寺・釈迦如来立像..清凉寺・釈迦如来立像
清凉寺・釈迦如来立像

元興寺薬師像、新薬師寺薬師像、神護寺薬師像をはじめとした、いわゆる奈良末平安前期の有名どころの一木彫像の表現、空気感と一線を画する処があると思います。

木彫像の瞳に何かを嵌入するという技法は、中国渡来(系)の像特有にみられるもののようです。
宝菩提院像や法華寺像などは、唐からの渡来像ではないかとの考え方もあるようです。
いずれにせよこれらの像は、わが国で製作された像だとしても、唐代木彫の技術を持った渡来系工人の技術をそのまま受け継いだ仏工の手による像なのは間違いないでしょう。

廣智寺観音像も、失われてしまってはいますが、瞳が嵌入されていました。
この点だけを見ても、広智寺の観音像が唐渡来風一木彫の範疇に属する仏像であることが、明らかなのだと思います。

廣智寺・観音菩薩立像

廣智寺・観音菩薩立像
廣智寺・観音菩薩立像

もう一つ、廣智寺観音像の制作背景について、桓武天皇、長岡京、土師氏といったキーワードから、想像を逞しくしてみたいと思います。

先ほど、廣智寺観音像は、高槻の地に縁ある豪族、土師氏ゆかりの古像として、上宮八幡宮の本地仏という形で伝わってきた可能性があることについてふれました。

また一方、浅見龍介氏は、
「制作は、奈良時代末から平安時代初頭とみられ、地理的に長岡京と近いことが興味を引く。」
と述べられています。

「土師氏」とか「長岡京」というキーワードからは、道明寺・十一面観音像、宝菩提院・菩薩踏下像のことが、すぐに思い浮かんできます。
いずれの像も、廣智寺観音像と同系統の造形表現、雰囲気を持つ仏像です。


道明寺は、菅原道真の祖先である土師氏によって創建された寺院です。

古くは土師寺と呼ばれていました。
道明寺天満宮が隣接するのも、廣智寺のケースを連想させます。
そして十一面観音像は、道真の自刻像と伝えられています。
制作年代は、9世紀半ばごろではといわれてきましたが、唐風そのものの像で、平安初期にさかのぼるという見方もされるようになっています。

道明寺・十一面立像
道明寺・十一面立像

宝菩提院は、長岡京内の北端に在った願徳寺の後身寺院といわれています。

願徳寺は、7世紀創建の秦氏の関係寺院でした。
宝菩提院は、鎌倉時代(13世紀)にこの土地に、願徳寺の後身寺院として再興されたお寺なのです。
現在は、大原野の地に移転されています。
宝菩提院・菩薩踏下像は、元々この長岡京内に在った願徳寺の安置仏で、桓武天皇による長岡京遷都の延暦3年(784)からの10年間に制作されたものではないかという考えが、有力になってきています。
南都・平城京の地を去って、長岡京に都を移し、新たなる時代の風を吹き込む新様式で造られた仏像ということになるのでしょうか。
それ故に、南都の旧来の仏工ではなく、唐渡来の中国工人かその系譜の仏工によって、唐風色濃いエキゾチックな仏像が造られたのかもしれません。

宝菩提院・菩薩踏下像
宝菩提院・菩薩踏下像


そしてまた、長岡京に都を移した桓武天皇の母方の祖母は土師氏の出身、父方の祖母は紀氏の出身なのです。
系図を見ると、ご覧のとおりです。

紀氏・土師氏・桓武天皇系図

父方の祖母、紀氏のゆかりの寺である、奈良・璉城寺にも唐風の色濃い観音菩薩立像が残されています。

こうしてみてみると、桓武天皇、土師氏、紀氏という血脈のトライアングルと、新京・長岡京に関わるとみられる仏像に、中国風・唐風のエキゾチックな造形表現の仏像が残されているような気がします。

これらに関係しそうな仏像をまとめると、次のようなものです。

桓武天皇長岡京遷都と土師氏、紀氏に関わると思われる仏像

いずれの仏像も、唐風のエキゾチックなにおいプンプンの木彫像です。

璉城寺・観音菩薩立像...秋篠寺・十一面観音立像
璉城寺・観音菩薩立像           秋篠寺・十一面観音立像

技法的な面もありますが、何やらねっとりとした粘着的な感覚表現は、唐代彫刻特有の空気感を感じさせるものばかりです。

秋篠寺・十一面観音像は、そこまでのエキゾチックさは感じさせませんが、彫技の冴えをこれでもかと誇るかの、煩雑なまでのうねりと粘りのある衣文表現は、唐風そのものといえるでしょう。

桓武天皇の、長岡京遷都・平安京遷都の一つの動機は、朝廷の保護の下、力を持ちすぎた奈良仏教の影響を排除することにあったといわれています。

そのことが、桓武天皇周辺に関わりそうな仏像に、いわゆる奈良風の系譜にある仏像があまり見られず、唐風のエキゾチックな表現の仏像が目立つということと、関係しているということになるのでしょうか?

「桓武天皇と周辺氏族、長岡京遷都」という括りと、
「唐風渡来新様の色濃い仏像群」には、
結構深いかかわりがあるような気がしてきました。

都合の良さそうな話ばかりをピックアップして、ストーリーを繋げていったような感じもなきにしもあらずですが、ちょっと大胆に想像を逞しくしてみました。

このように考えると、廣智寺観音像の仏教彫刻史的上の意味や位置づけは、ずいぶん重みを増してくるように思えます。
まことに興味深い、唐風一木彫像だと云えるのでしょう。

廣智寺・観音菩薩立像
廣智寺・観音菩薩立像

廣智寺を訪ね、思いもかけず見事な観音菩薩像を拝することができました。
そのことをきっかけに、長岡京時代・平安初期の「唐風色濃いエキゾチックな表現の仏像」について、あれこれ考えてみることができました。

皆さん、拝されると、きっと

「なかなかの一流の一木彫像」「興味深い仏像」

だと、感じられることと思います。

是非、一度、廣智寺を訪ねて見られることを、お勧めします。


新刊・旧刊案内~「奈良帝室博物館を見る人へ」小島貞一著 【その2】


さてここからは、もう一度、「奈良帝室博物館を見る人へ」の本に戻って、当時の展示の有様を振り返ってみたいと思います。

各室の展示作品の内容、区分は、次のようなものでした。

大正14年(1924)の奈良帝室博物館・各室の展示品目

大正14年(1924)の奈良帝室博物館・各室の配置図
大正14年(1924)の奈良帝室博物館・各室の展示品目と各室配置図

この建物は、以前の旧館、今の「なら仏像館」の建物です。

現在は、このスペースの全てを使って仏像だけが展示され「なら仏像館」となっています。
大正14年当時は、このスペースの中で、彫刻(仏像)には、第1室から第3室までしか割かれていません。

絵画、工芸、文書などの展示もあるので、当然仕方ないところでしょうが、この狭い3つの部屋に、先に挙げたリストの仏像が、全部並べられていたのですから、本当に狭苦しい展示であったことは、容易に想像がつきます。

国宝級の名作仏像が、林立して、ごった返していたという感じではなかったかと思います。

各室別の展示仏像の配置略図を見てみると、ご覧のとおりです。

第1室の展示仏像配置略図~大正14年(1924)
第1室の展示仏像配置略図~大正14年

第1室には、飛鳥~天平時代の名品仏像が、狭い部屋にひしめきあって大量に展示されています。
百済観音、法輪寺・虚空蔵菩薩、大安寺・不空羂索、興福寺・阿修羅・迦楼羅が、小さな一つの島に寄せ合わさって展示されています。
興福寺の八部衆・十大弟子像も、両側の壁に並べられ林立状態のようです。
大変な混み合いぶりです。


第2室の展示仏像配置略図~大正14年(1924)


第3室の展示仏像配置略図~大正14年(1924)
第2室・第3室の展示仏像配置略図~大正14年

秋篠寺の伎芸天・帝釈天などが、第3室の鎌倉時代作品の展示室に展示されているのは、興味深い処です。
ご存じのとおり、これらの像は、頭部は奈良時代の脱活乾漆像、体部は鎌倉時代の後補の木彫が組み合わされた像です。
現在では、天平の美作として親しまれている仏像ですが、当時は鎌倉時代作品に分類されていたようです。
ひょっとしたら、第1室のあまりの混み合い状況で、やむを得ず鎌倉時代の第3室に展示されたのかもしれませんが・・・・・

これらの仏像が「奈良帝室博物館に展示されていた当時の仏像写真」が手元にありましたので、ご紹介しておきます。
明治43・44年(1910・11)に奈良帝室博物館にて印刷発行され、販売されていた写真です。
50~60葉ほどあり、かつて古書店で入手したものですが、3葉ほどご覧ください。
定価は、「1葉・金五銭」となっていました。

明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺・阿修羅像)..明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺・阿修羅像)
明治43年(1910)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺・阿修羅像)"


明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(唐招提寺・獅子吼菩薩像)...明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(唐招提寺・獅子吼菩薩像)
明治43年(1910)奈良帝室博物館出陳仏像写真(唐招提寺・獅子吼菩薩像)"


明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺北円堂・世親像)...明治44年(1911)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺北円堂・世親像)
明治43年(1910)奈良帝室博物館出陳仏像写真(興福寺北円堂・世親像)"


当時の「各室での仏像展示風景の写真」も残されていますので、ご紹介します。
岩田茂樹氏「奈良国立博物館の仏像展示」(なら仏像館・名品図録・所載解説)に掲載されていた風景写真です。

奈良帝室博物館~第1室から第2室を望んだ写真

奈良帝室博物館~第1室から第2室を望んだ写真・展示仏像名
奈良帝室博物館~第1室から第2室を望んだ写真と、展示仏像名"



奈良帝室博物館~第3室仏像展示風景写真
奈良帝室博物館~第3室仏像展示風景写真・展示仏像名
奈良帝室博物館~第3室仏像展示風景写真と、展示仏像名"


この、ごった返した仏像の展示の有様について、和辻哲郎は「古寺巡礼」のなかで、このような厳しいコメントを、語っています。

「それにつけても博物館の陳列の方法は、何とか改善して欲しい。
経費などの都合もあることで、当事者ばかりの罪でもあるまいが、今のままでは看者に与える印象などはほとんど顧慮せられていない。
・・・・・・・・
せめて一つ一つの仏像が、お互いに邪魔をし合わないで独立した印象を我々に与えるように、もう少し陳列の順序と方法を考えれば、短時間に見ていこうとする者にも、もう少しまとまった、強い印象を与え得るかと思う。
・・・・・・・・・
あの入口の陳列壇などには、そのために特に一室を設けてもいいような傑作が、いくつも雑然と並べられている。
そのためにどれほど見物が損をしているか解らない。
当事者に解りいい言葉でいうと、
『こういうことは、日本の恥である。
こういうことがあるから、西洋人が日本人を尊敬しないのである。』
国宝という言葉を、もっと生かして貰いたい。」

和辻の批評、コメントは、「そのとおり」と思いますが、
傑作仏像のほとんどが、博物館を離れて所蔵寺院に戻ってしまった現在の状況を思うと、

「混み合ってっても良かったから、これだけの仏像を一堂に会して、それぞれを見比べ、比較してみるチャンスが欲しかった。」

という気持ちにも、本音のところでなってしまいます。


当時の奈良帝室博物館は、これだけの傑作仏像を、十把一絡げに呑み込むが如くに、所蔵寺院から集めることができたのでしょうか?

奈良に博物館が開館したのは、明治28年(1893)4月のことでした。
はじめは、「帝国奈良博物館」と称されましたが、5年後の明治33年(1898)には「奈良帝室博物館」と名が改められています。

博物館では、展示する文化財を主として奈良の社寺から集めたのですが、
開館当時の展示品は、御物11点、宸翰22点、歴史関係品38点、美術品91点、美術工芸品91点などであったと記録に残されています。

「奈良帝室博物館彫刻一覧」(第10版大正13年刊・明治43年初版)
「奈良帝室博物館彫刻一覧」
(第10版大正13年刊・明治43年初版)
奈良博開館後、15年を経た明治43年(1910)に初版が出された
「奈良帝室博物館彫刻一覧」
という冊子によりますと、そこには221件・296件の彫刻作品が収録されており、そのうち仏像は126件・188点となっています。

出展されていたのは、さきに見ていただいたように、傑作名品ぞろいですから、博物館展示可能な大きさの名品仏像は、根こそぎ奈良帝室博物館に集められたといっても過言ではありません。
出展品があまりに多すぎて、陳列棚に一体だけではなく、二重三重に並べたため、肩ごしに仏像を見るという有様であったと、伝えられています。

当時、博物館では、所蔵社寺に出展要請をして集めたものだと思いますが、要請のあった社寺側も、廃仏毀釈の傷跡がいまだ生々しかった時期でもあり、喜んで出展に応じたということだそうです。

そうはいっても、各社寺は、大切な宝物・仏像の出展要請に、皆押しなべて、進んで応じたのでしょうか?

実は、これだけのものを集め得た訳には、当時の政府の博物館運営に関する行政方法、「官から民への命令」といった仕組みに理由があるようです。

出展の仕方には3通りがありました。
「寄託」「出品」「出陳」
の3通りです。
「奈良帝室博物館彫刻一覧」の凡例を見ると、それぞれの意味は、このように記載されています。

寄託とあるは、社寺より寄託するものを云い、
出品とあるは、官庁又は一般人民より出品するものを云い、
出陳とあるは、内務大臣の命令によりて、社寺より出陳するものを云う。」

なんと、「出陳」というのは、

「政府の命令で、強制的に出陳させる。」

というもので、ある意味強引な方法で、名品・傑作を博物館に展示させたのでした。

先に【その1】でご覧いただいた、単行本「奈良帝室博物館を見る人へ」の展示仏像リストの右側に、「出陳」「寄託」の区分の*マークをつけておきましたが、「出陳」の方に*マークがついている仏像は、「政府命令による強制出品」ということになります。
リスト全部で89件のうち、50件が「出陳」で、なんと5割を超えています。

また、中身を見てみると、傑作中の傑作は、みな命令による「出陳」になっています。
法隆寺・百済観音像、興福寺・十大弟子八部衆像、元興寺・薬師如来像、興福寺・無着世親像、金剛力士像、秋篠寺・伎芸天像
などは、みな「出陳」になっています。

さすがに、当時の「官命の強さ」というのがしのばれます。

各社寺とも、めぼしいものは皆博物館に出品ということで、その運搬だけで2年数か月を要したといいます。

この大がかりな古美術品の運搬をみて、時の奈良県知事・古沢滋が、
「こんなに大量に運び出してもらっては困る」
と、宮内省に抗議したという有名な話が、伝えられているほどです。

命令出陳させた社寺の国宝級宝物には、年間1点につき最高60円からグレードをつけて出展料が払われたそうです。
信貴山縁起絵巻や百済観音は、最高の60円組であったとのことです。


「仏像彫刻の精華」を集めた博物館も、昭和に入ってからは、陳列の「顔」であった仏像が所蔵寺院に還る動きが始まります。

明治以来の、文化財を博物館に移して安全に保管しつつ展覧に供するという方法から、国が国庫補助により各社寺の収蔵庫建設を援助し、現地で管理する宝庫へと、方針転換の流れにあったことによるものです。
また、昭和に入ると、大和の社寺は「観光ブーム」「社寺ブーム」という言葉が生まれるほどになり、社寺の宝物館建設の勢いが加速していきました。

聖林寺・十一面観音が大正末年頃、寺に還ったことは、先に記しましたが、昭和16年(1941)には、法隆寺大宝蔵殿が完成し、百済観音はじめ法隆寺の宝物が還っていきました。
その後も、昭和34年(1959)には、興福寺国宝館が開館、大安寺(1963)、薬師寺(1966)、唐招提寺(1970)、橘寺(1997)、にも収蔵庫ができるなどして、傑作仏像達は、どんどん博物館を去っていきました。

最近では、平成23年(2011)に、東大寺ミュージアムが開館、誕生釈迦像、試みの大仏、西大門勅額などが、博物館から東大寺に戻されました。


大正末年の「奈良帝室博物館を見る人へ」に掲載されている仏像達のなかで、現在も奈良博「なら仏像館」に展示されている仏像は、どれくらいあるのでしょうか。

「奈良帝室博物館を見る人へ」の展示仏像リストには、現在も残されている仏像を色分けしておきました。
リストに挙げた仏像は、全部で89件・137躯でしたが、今も奈良博に留まり展示されているのは、23件・26躯で、2割前後に過ぎません。

今の「なら仏像館」には、昔のような超傑作の仏像ばかりが展示されているわけではありません。
しかしその分、かくれた仏像や、ちょっとなじみの薄い社寺の名像など、キラリと光る見どころのある仏像の数々が、折々出陳されるようになり、興味深い展示がされるようになりました。
別の面で、仏像愛好者には「必見の、なら仏像館」になっているのではないでしょうか。


今回は、奈良の博物館に、「奈良の仏像の精華、精髄」が集められていた明治~大正当時の頃を、振り返ってみました。

ここに綴った、奈良の博物館の展示仏像の変遷についての話は、
岩田茂樹氏が
「奈良国立博物館の仏像展示」
という小論にまとめられたものがあります。

奈良博で出している「なら仏像館・名品図録」の冒頭に掲載されています。

「なら仏像館・名品図録」岩田茂樹氏「奈良国立博物館の仏像展示」所載

こちらからもずいぶん引用させていただきましたが、大変わかりやすく書かれており、参考になります。
ご関心のある方には、是非ご一読をお薦めします。